はてなキーワード: イコールとは
抹茶ロール買ったけど、苦さにびっくりした。美味かった。
身内が、はっきり「きらい」だと言わんものの、間接的に言葉にするのきついんよな。
アニメのキャラ見て、「△△(キャラの名前)ないわー」「△△ちょっと無理」「△△キモくてやだ」って言った次の日、「●●(私の名前)はこのアニメだと△△に似てるね~」って言った。びっくりした。顔見たけど気まずさとか罪悪感とかなさそう。
実の父親とか、祖父母とか、憎いらしい。苦手で、しんどいらしい。考えると体調崩すレベル。
そんで以下、私に言った言葉。
「お父さんにそっくり」「そういうとこおじいちゃんといっしょ」「●●はおばあちゃんと仲良いもんね」
ワッハッハ。
ちなみに私もおばあちゃんと言い合ってボロクソに言われたことがあるし、成人してからそれで泣き喚いたことがある。「キチガイだ!」「あれはキチガイだ!」「どっかおかしいんじゃないのか!」わはは。でもそこは比べようがないし、比べる気もない。
ただ、身内がそのひとたちをきらいだ、ってことは知っているのよ。知っているし、本人から直接聞いたことだし、だから私が知っていることは本人知っているのよ。
そんで「おんなじ」で「似てる」ように見えてる。
私のことをきらいなのはまだいいとして、しょうがないからね。きらいじゃないよって顔でグサグサ刺してくるのはしんどいのよな。自覚がないのか。せめて自覚して、認めてくれ。
「まあまあ仲良し」と「だいきらい」のジェットコースターにわざわざ乗っちゃってるのは私なんだけどな。わはは。
ジェンダーアイデンティティ(性同一性)と別にジェンダーエクスプレッション(性別表現)という概念があるくらいなんだから、「自分を男/女と感じる事」と「男/女らしさを好む事」はまた別の話なんだろう。セクシュアルオリエンテーション(性的指向)という概念もある。
「僕は男だからスカートを穿きたくない」は、「僕はスカートを穿きたくないから男だ」ではないし、仮にスカートが男らしいとされる社会だったら穿きたくないと思わないだろう(あるいは「僕は男だけどスカートを穿きたくない」と思うかもしれない)。
ジェンダーが存在しない社会においてジェンダーアイデンティティが存在するかは知らないが、ジェンダーが存在しない社会なんて非現実的な思考実験でしかありえないんじゃないか。
「ジェンダーが固定的に存在しない社会」はイコール「ジェンダーが流動的にも存在しない社会」ではない。
ジェンダーが存在しない社会というのは、「男が口紅を差してスカートを穿いてもいい社会」ではなく「男が女と同じくらい口紅を差してスカートを穿く社会」だし、「高収入の女が低収入でナヨナヨした相手と結婚してもいい社会」ではなく「高収入の女が高収入の男と同じくらい低収入でナヨナヨした相手と結婚する社会」だし、「男が男を好きになってもいい社会」ではなく「男が女と同じくらい男を好きになりトイレも更衣室も男女で分かれてない社会」だ。
イスラエルは、日々、国の存亡が危機に晒されている超リアリズムの国なので、Not ask what your country can do for you, but ask what you can do for your country が常に迫られているのだろう。女性徴兵制があるとは言っても、リタイアするために子供を産むことを選ぶ女性は多いし、戦死率では圧倒的な性差がある。女性は常に「おまえは一人前の顔をしているけど、男並みの貢献を公共のためにしているのか?」と問われている状況だ。で、相変わらずそう言う場合女性は、「産む性」としての特権性に逃げ込むしかない。イスラエルだからこそ、よりその傾向が強いと言えるだろう。つまり女の社会性はイコール、子宮、と言うことだ。
「薬草=神への供物」説には、いろいろ疑問点があるが、最大の疑問は「薬草のどのような要素が神への供物として(神に)認識されるのか? 供物として捧げられた薬草はどうなるか?」が一番大きいかな。
たとえば、ホイミ等を「MPというある種の生命エネルギーを捧げることでHPエネルギーを神から授かる呪文」だと考えるとすると、薬草はMPに相当する生命エネルギーをもったものということになるし、使用後はそのエネルギーを喪失すると考えるのが妥当だろう。だが、薬草はいったん刈り取られて商品として販売されている。絵などを見ても、おおむね単なる葉っぱ扱いであって、普通に考えればただの死骸だ。生命エネルギーを捧げる行為は、収穫した時点で終わってしまっているのではないだろうか?
次に、神道における榊のような、いわば神職の手を経て加工されることである種の「依り代」としての役割をもたされた聖なる存在である、という観点から考えてみよう。なるほどそれなら植物自体は単に象徴としての供物であって、神は「捧げる」という行為の完遂をもって願いをかなえているのだと考えることはできる。榊を捧げて心が安らかになるのと同様に、薬草を捧げてHPを回復するということだ。だが、そうなると「薬草」を生成するのは神職がもっともふさわしいということにならないだろうか。なぜ薬草は「道具屋」で売られているのか。神殿や教会は、初級の神官に薬草生成の労働をさせて道具屋に卸しているのか? 復活の呪文を唱えたりといった商行為を普通に行っているのに、どうして薬草だけは道具屋におろすのか? 直売すればいいのではないか?…等々を考えるとやはりおかしい。薬草の生成に神殿が関与している可能性は低そうに思われる。
何より、異世界語との翻訳の問題もあるかもしれないが、上記の2点に相当するようなものを我々は普通「薬」とは呼ばない。「薬」と称されるものは、何らかの方法で体内に取り込むことによって、その成分から何かしらの身体的作用を得るようなもののことを言う。それならば、「薬草」を「使用」するとは、端的に言えば(まさに空腹をも5%回復する不思議のダンジョン的に考えれば)それを「食う」行為なわけであり、その場合、「何かを食う」ことが「何かを神に捧げる」こととイコールであるという宗教観・世界観が設定的に必要になると思われるが、そういう設定が「薬草」以外にも表れているような作品を私は寡聞にして知らない。また、元増田が完全に見落としているのが、これも多くの作品に登場する「ポーション」の存在である。一般に薬草のやや上の効力をもつように設定されているポーションであるが、明らかに人間の手が介在するこのアイテムを、また「神への捧げもの」と考えるのにはかなり無理がある。
だとすれば、「薬草」の体力回復作用は、単純にそれを摂取することで生じる薬効成分の作用だと考えるのがもっとも妥当であり、ポーションはその成分を何らかの方法で抽出したものと考えるのがもっとも妥当であろう。もちろん、そこに魔法的な意味合いの薬効が存在すること自体は不思議でないとしても、神を介在させることには特に妥当性がないと考えられる。中毒したり副作用が生じたりしないのも、まあ、突き詰めれば魔法だからだよ。な。
今さら言うことでもないけど、いわゆるボカロ曲は他人がそれを歌ったり替え歌を作ったりすることが許されるような文化がある。
紅白で歌われた「命に嫌われている。」なんかもまふまふさんの歌ってみたが大人気だし、にじさんじの笹木咲が替え歌を歌ったのも有名だと思う。
みんな割と好き放題に作るからどういう替え歌ならいいかなんて基準はないけど、果たしてそれはどこまで許されるべきなのだろうか、ということをこの動画を見つけて考えてしまった。
【替え歌】作者に嫌われている。
タイトルから分かるように「命に嫌われている。」の替え歌で、歌詞としては「ぼくたちは勉強ができない」っていうジャンプでやってた漫画でうp主の推しキャラの扱いが酷かったということを訴えてる。
作者への誹謗中傷というよりは推しキャラの境遇への怒りや悲しみを吐き出してる内容なので、法的にどうこうという感じではないと思うけど、とはいえ攻撃性は結構高い。
替え歌はボカロ文化を豊かにしているものの一つだと思っているので基本的に制限してはいけないと思うけど、他人の曲を使ってこんな動画を作ることは制限しなくていいのかなと考えた。
ぼく勉は単行本全巻持ってるくらいには好き。アンケートも結構入れてた。
命に嫌われている。はまふまふさんから入ったにわかだけど原曲のほうも繰り返し何度も何度も再生したくらいには大好き。
なのでどっちのファンの気持ちも分かるんじゃないかと思ってる。
愛がない二次創作は駄目という格言がある。ではこの動画はどうだろうか。
こう書くとどっちのファンにも叩かれそうだけど、ぼく勉にも命に嫌われている。にもそれなりに思い入れがある身としては、どちらに対しても少なからぬ愛の込められた動画だと感じた。遊び半分で愉快犯的に作ったものではないと思った。
ぼく勉についてだけど、歌詞とか投コメにあるブログのコメントとかを見た感じ、きっとうp主は筒井先生がYouTubeでいつかうるかちゃんのその後のことを描いてくれるんじゃないかって期待してたんだと思う。
だけど半年前からぼく勉のことを描かなくなったからもうダメなんだと気づいて、それでやり場の無い思いを大好きな曲に預けて発表したかったんだと私は感じた。
愛憎半ばっていうのかな。フルで作ってるのにそれでも全然足りそうにないくらいの怨念に満ちた動画だけど、この動画で歌われている恨みはそのまま愛とイコールなんだと思う。
そういう愛憎籠もった歌詞なんだけど、原曲の文字数に合わせてたり歌詞を変えずに使ってるところも結構あったりして、聞いていて意外と違和感は少ない。
MVの再現具合もなかなかしっかりしてて、スクロールの速度もだいたい合わせてるし、文字がランダムで切り替わりながら歌詞が出てくるのとか、他の替え歌動画見てもあんまりやってないことやってる。
動画は作ったことないから詳しくないけど、そこ再現してるのあんまり見ないからきっと再現するの結構大変なんだと思う。それでも手間を惜しまずなるべく原曲に寄せたかったんだろうなと思うと、そこには少なからず愛があるんだろうと私は思う。
こういう動画を作るのはマナーとしてはいただけないことだと思うけど、自分の大好きな作品に対する思いを昇華するために、大好きな曲をどうしても使いたかったんだと思うと理解できる部分は正直少なくない。愛も恨みも大きいから、同じくらいの気持ちで好きな曲でないと釣り合わないのは正直分かる。
個人的には動画が法的に問題あるという感じはしないし、しっかりとした愛があって作られたものだと思う。うp主の怒りも恨みも決して理不尽なものではなく、そう感じて当然のことだと思う。
だけどそれでもこういった攻撃的な替え歌は許されるべきじゃないと私は思う。
もちろん表現の自由とか大切なんだろうけど、そういう法律や規約以前のマナーの問題として、コミュニティの発展のために攻撃的な歌詞は受け入れないとかそのくらいの基準はあってもいいんじゃないかと思う。
自分の曲を面白く替え歌してくれるのが嫌な人はそんなにいないだろうけど、自分の曲を攻撃的な替え歌に使われるのはほとんどの人が嫌なはず。実際単なるファンでしかない私でもこの歌を聞いてうp主に同情するのと同時に悲しい気持ちになった。
それに攻撃的な替え歌を許容するようになってしまうと、そんなふうに使われるのが嫌だと思う人が動画をアップするのをためらうようになってしまうかもしれない。そうするとボカロ文化の衰退にもつながってしまう。
例えば「たべるんごのうた」ブームのときに煽り要素のあったウィーアー!の替え歌をうp主が自主的に削除したことも、ブームが持続した原因の一つと言われてる。
個人の表現の自由も大事だとは思うけど、コミュニティが持続していくためには一定の制限が必要なんじゃないかと思う。他人の曲を使うのであれば、せめて攻撃的な歌詞にはしないという基準があってもいいんじゃないだろうか。
だからもしこの増田をうp主が見ることがあったら、どうか動画を削除して欲しい。
あなたの怒りも恨みも同じ作品と音楽のファンである私には届いた。どうかそれで十分だと思ってもらえないだろうか。
うp主はきっと何か目的があって動画をアップしたわけじゃないと思う。ただただやりきれない気持ちを発散したかっただけなんだと思う。
だからどこかの誰かにではなく、少なくとも私には届いた。それで満足して終わらせてくれないだろうか。
この増田はあなたに届けばいいなと思って書いた面もあります。広まるかも届くかもわからないけど、もしそうして貰えるなら同じ作品と曲のファンとしてこれ以上嬉しいことはないです。
腰パワーがなかなか完全復活しない完全版がディレクターズカットなんだけど、
一昨年に腰パワーゼロになった時と
今腰パワーゼロになった時の自然治癒力の差の違いなのかしら?って思うけど、
前回のパターンならもうすでに直ってもおかしくない状況下におけるこのまだ腰パワーに違和感のある中、
まあ元通りには歩けるようになって結構長い時間毎日のウォーキングの日課の課題の報告をしていいころで、
あの頃に戻れたぐらいの少し遅いペースだけど、
まあ快調に歩けるようになったのよ。
仰向けになって寝ていると少し腰が浮くじゃない、
そうして寝返りを打つと激痛が走るのは相変わらずで、
たしかに
多少はその激痛は直っているのか
だんだんと小さくなっていってる感じはするのよね。
腰パワーの完全復活までには及ばないのよね。
なかなか完全治癒までの道のりは
食は万里の長城を越えるわけない今注文した餃子はどこ?って言ってる場合じゃないのよ。
言い得て妙な感じもするけど、
腰には違和感があって
腰が重い感じがするわ。
明日また腰パワー王のところに
十字キーの上を押したままでいけるように安直な真っ直ぐな道のりで王様の元へいけそうなものの、
いやあれやっぱりバスで腰パワー王のところに通っているとなると
時間が読めなかったので、
やっぱり車で行くに限るわ。
楽チンだしね。
よくよく思ったんだけど、
あれって猫背のアーチ型は腰に直撃の負担を与えないアーチで重さが分散されている発見をしたの。
腰を90度に直角の角度にすると、
腰に直撃する重みの痛みの感じるみがするのよね。
腰に優しい背骨がアーチになっていて、
そこで重さが拡散されていて
大谷翔平選手がこないだ満塁アーチをお見舞いしたのとはまた違う負担だと思うのよね。
あれはあれでスゴかったけど、
直角に曲げずに
よく分からないけど全集中!猫の呼吸!って言いたいだけだから特に深い意味はないので、
ここはサラッと笹舟にでも乗せて川に流してよ!って思うわ。
日頃さ
から揚げ店舗が全店舗何かしらの金賞を受賞しているかのように、
あれはあれでもしかして、
洋服の青山閉店セールって閉店セールって含めるところが正式な店名だったりして!って
そういうカラクリだったのね!
あれはきっとモンドセレクションとか
モンドセレクションって言うと
でもアーって言うのが木の実って意味で、
なかなかそっかアーモンドなのねって木の実なのよ。
木の実ナナさんがあんたもナナって言うんだ!って言いたいぐらいな冒頭のシーンを彷彿させると思わない?
だから、
イコール何かしらのから揚げ協会か何かの参加賞なのかも知れないわ。
金賞ってそしたらどの店舗でも謳えるでしょ?
なかなか考えたわね!
あのからあげクンは
あれはあれで金賞を受賞していないのよ。
それがエビデンスよ。
海老天丼の美味さのエビデンスを求めたら皆海老天丼のプロはどう答えるのかしら?
そう思ったら天丼屋さんは何も金賞とか受賞していないわよね。
世の中何かを謳ったもの勝ちなのかも知れないわね。
世の中の真理に気付いてしまって気付かないふりをしているわ。
うふふ。
美味しいコーヒーにはやっぱり美味しい牛乳を入れなくちゃって思うわ!
今日実感したのよ。
格別だわ。
つぎ再現出来ないのが残念なところでもあるけどね。
そうそう!
人気なのかしら?
並んだらすぐ売り切れているみたいね。
今度見かけたらちょっと多めに買っておこうっかしら。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
謎ってワケでもないけど。
そんで、
インクの残量がまだたくさんあるのに途中で力尽きてかすれて書けなくなっちゃうのに当たったときはハズレだ!って思うけど、
なんか今使ってるのが
途中かすれだしてきたので、
もうインクなくなったの?ってくるくる回して軸を開いて叩いて見てみたら別に文明開化の音はしなかったけどまだたっぷりインクが残っていたわ。
なんかあと
角度とかによっても
一応くるくる回してみて叩いて見てみて別に文明開化の音はしなかったけど、
しばらくくるぐる試し書きをしていたら調子良くなるときもあるけど、
それでも
ダメなときはダメで途中力尽きちゃうボールポイントペンってあるわよね。
100円台で買えるコスパのよい書きやすいボールポイントペンが今たくさん出回ってるので、
次あれにしようかな?ってとか迷うけど結局はいつもの!ってバーテンさんに頼む勢いで
モスコミュールを発注するかのようにボールポイントペンを私たちはてんこ盛りな雰囲気で買っているのよ。
だから
100円だし、
まーいっかー!ってなるじゃない。
諦めが肝心の早さが大事とはよく言うけどね。
いちいち100円のボールポイントペンに目鯨を立てている場合じゃない目鰯よね。
でもよ!でも!
100円だからって
ペン立てに刺さっている私のボールポイントペンを勝手に持っていくのはなんだか嫌だなーって思うのよ。
試しに
地元の信用金庫のボールポイントペンをたくさんペン立てに刺していても
誰もそれ1本も持って行かないのは
猫が寝ている人間をどうやったら起こしたら一発で起きるか?って学習して、
なんだか起こし方を試行錯誤するまでもなく、
みんな信用金庫のボールポイントペンを持って行けばいいのに!って
本当に焼べないけど。
いいボールポイントペンと信用金庫のボールポイントペンはみんな区別付けてるんだわ。
いいメーカーのバージョンの信用金庫のボールポイントペンを作ったらまた話は別よね。
そもそもとして、
あの書きにくいというか、
インクの書き心地にムラのある信用金庫のボールポイントペンも、
普通に信用金庫の名前が入っていてもいいボールポイントペンだからって
本当に本気でみんな使ってくれるから
逆に本当に宣伝になると思うのよ。
変な安かろう安かろうなボールポイントペンに名前印刷したところで、
もうみんな書きやすいいいボールポイントペンのこと知ってるから
見透かされてるんだから!
いいボールポイントペンのそう言う名入れボールポイントペンにした方がいいと思うんだけどなぁ。
その方が効果絶大じゃない?
みんなちゃんと持って使ってくれるなら。
ちゃんとまともに書けるボールポイントペンなら暖炉に焼べなくてもいいでしょ?
そう思いながらずっと
紙にぐるぐるマルを書いていたら
インクの出が良くなったみたいよ。
あのさ
あの細かい先の復活の仕方って何かいい文房具マニアオススメの復活テクニックってのないのかしらね?
もう私ですら伊東家の食卓ってなによ?って
ライフハックイコール伊東家の食卓って代名詞になってない?って思うし
まだまだ知名度的には弱いのかも。
そう!だから
言い書きやすいボールポイントペンの名入れボールポイントペンに伊東家の食卓って刻印して
みんな使うようにしたら、
うふふ。
温かいホッとタマゴサンドなので優しい味がして美味しいのよね。
ホッツなホッツサンドも美味しいわ。
タマゴも最高よ!
昔から考えてありそうなモノだけど今までなかったのが逆に不思議ね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
去年まで彼女いない歴イコール年齢の非モテ男性だったけど、年末に初めての彼女が出来た。
最初の数週間は上手くいってた。
けれど彼女のセックスの誘いを断ったら後日急に素っ気なくなった。
で、素っ気ないまま別れを切り出された。理由はセックスが断られたのがショックだったからとのこと。
正直「え、そんな理由で?」とは思ったものの、素っ気ない彼女を元に戻す方法は分からなかったし、このまま素っ気ない状態が続くのであればもう終わった方がいいかなと思って別れた。
別れたのは2月の話なんだけど、ふとその話を同僚にしてみた。
俺としては「しょうもない理由でフラれた面白小話」だったのでウケるかと思ってたんだけど、実際にはかなり責められた。
「女から誘うのは勇気いるのにお前は人でなしか」とか「セックスしないんだったら最初から付き合うな」とか。
こっちとしては想定外の反応なのでびっくりしたというか結構ショックだった。
その時は言われるがままで何も言い返せなかったけど、これって本当に俺が悪いのか?
例えば俺と彼女の性別が逆だった場合でも俺は責められてたのか?
色々と納得がいかない。
※園子音氏に関する一部表現を修正。週刊誌報道を認めての謝罪ではないと判断したため。こちらで係争中と見られる件の善悪についての判断をするのは不適切と判断し、一部の記述を修正・削除した。(5/8)
nori__3:
ツイフェミとかはフェミニズムとは区別すべきだと思うのだが、全うなフェミニストの方々はどう思ってんですかね…?フェミニズムを貶めてるとは思ってないのだろうか
「全うなフェミニスト」が別にいると思ってたけど、ツイフェミ以外にもダメなフェミニストが多い事がわかってきたので、まとめて扱ってるよ。完全にイコールではないようだけど、思っていた以上には地続き。
例えば、件のフェミ議連は所謂ツイフェミでは無いはずだけど、あの有様でしょ。
kaerufrog0033:
フェミニストの話してるんだから、表自戦士に話逸らすなよ?フェミニストの悪い癖だぞ。
aquatofana:
園子温が不起訴になったらフェミニズムもブチ切れると思うが、っていうか既にブチ切れてるが司法で裁かれると判断してるだけだな。/結局この増田は自分に都合よく愚かな脳内フェミという創作を信じちゃってるのよな
え?
流石に嘘はまずいと思うよー。
あと、脳内フェミって書いてるけど、実はさりげなく実在の事例ベースで内容が構築されている箇所が多いので、自分のバイアスが出てこないように、客観的に読むと良いと思う!ちょっと長めの日本語の文章だけど、読み慣れてなくて辛いのならがんばってね!
slowlypanda:
無罪とまではいかないだろが熱量の違いは明白なんだよな。なんであんなに問題視するのか。 追記 ハフポストはなぜ取り上げないの?
凄いよね。ほんと。
コンプライアンス的にセーフな部分に限っても、「この監督の男尊女卑的なカルチャーに怒らないで、たわわに怒るの???」って思うもんな。
たわわへの怒りが異常過ぎるんだよ。そして、それが正常なレベルの怒りなのかどうか、フェミニストは自分で判断できないんだよ。判断する物差しがないから。
toro-chan:
「まともにこれを読まない人間がきっと多数」ほんとそれ。自分を被害者だと思い込み、関係ない「たわわ」だけ非難する。どう考えても望まない妊娠を増やし、不幸を産むホストの方が圧倒的に害悪なのにそちらは無視
でしょ。
園子温の話に矮小化すれば、まともに読まなくていいし、自分に向き合わなくていい、と考えるの、本当に典型的なフェミニスト仕草なんだよね。だから、本稿ではその説明に手間をかけたの。で、書いた通りになったんだよね。本論で書いた通りにダメな人たちなんだね、フェミニストって。
murlock :
本文読んで園の部分だけ反発あるだろうな―と思ったら上位米見事にその一点突破で草
草。
というか、
uesim:
増田は箇条書きになってるフェミニスト・フェミニズムの特徴とかの部分の「フェミニスト」を「俺」に変えてもう一回読み直したら自分自身を見つめ直す良い機会になりそう
で、お前は見つめ直すんだよな?フェミニストは相手に要求して自分は対応しない、というクソムーブが目立つので、是非アップデートして頂きたい。
があるんだよ。
人にジェンダー規範の押し付けよくないと言っている人間が、ど真ん中ストレートの押し付けやってるのを見た時の情けない気持ちといったらない。
あれ、自分はなんで今まで丁寧にジェンダー扱ってきたんだろう、って心底情けない気分になったよ。フェミニスト名乗る奴らがこんなに堕落していたなんて、ってな。お前も堕落してるのかい?
tekmak:
お前もまず自分のことを振り返れよ。
フェミニズムは他の界隈と比べてもちょっと自省のしなさがハイアベレージなんだよ。
https://anond.hatelabo.jp/20220507222410
そもそも自分でツイフェミ、と言うのは自分でネトウヨ、と言うようなもの。この辺りに自分はリアリティを感じない。
あと、自分のエントリでは、フェミニストは自分のジェンダー観に鈍感だ、と主張している。
この「ツイフェミ」の視点で文章書くには、自分のジェンダー観を客観視する必要があるけど、大半のフェミニストにはそれは無理ではないかな。
thongirl:
id:entry:4719207127563580834 で藁人形扱いされて失笑された悔しさから自力で出来の悪い藁人形を作り、できが悪いなりに楽しく遊べてプライドも回復したようなのでそれで攻撃性を少しでも落ち着かせてほしい
藁人形作って相手叩いてるのはお前。相手の攻撃性を揶揄しているのに、自分の攻撃性に無自覚、というところが既に救いようが無い。
今話題になっている例のアパレルブランドの火種とたわわに対して、Twitterの鍵垢でずっと色々考えていたことのアウトプットとぼやきです。人間なので矛盾してたり、破綻してるところもあるかもしれない。あくまでも自分の意見をまとめてアウトプットする形になるので、こういうこと考えとる人も居るんだろうな、くらいの気持ちで見ていただけたら幸いです。
まず、たわわの作品そのものに対しての意見は黒澤さんに概ね同意です。自分自身も時と場合、相手でそうすることがあるように、胸を自分の魅力として着飾ること、振る舞うことは"個人の自由"でもあるし、そういう女性の自己表現のかたちがあっても良いと思います。
なぜ彼女の発言があそこまで燃えたのかは、"心の中で性的だと思われることも嫌だ"という層が一定数存在することにあると思っています。
増田は、公序良俗に反さない限り、谷間が見えたり、ボディラインのはっきりした服を着ることは個人の自由ですが、「エロく見られたくて着るわけではない(服が好きできているなどの理由な)のだからエロく思うな」と他人の内心まで制限するのは非常に傲慢な行為だと思っています。同時に、心の中でエロく思うことは自由でも、他者が着ている人の意図を想像して「媚びている」「OKサイン」などとジャッジを下すことも傲慢だと思います。
現状フェミニストが「ハトクロを着る女性は男性にエロく見られたい女性だ!」と行なっている主張は、後者の傲慢さも含んでいると感じるので、(彼女たちが本当に原義的にフェミニストなのかは置いておいて)ハトクロに対しての過度な叩きは女性の身である増田からしてもかなり傲慢に映ります。
エロい服を着るのに必要なのは、エロく思われない社会ではなく、そう思っても表に出したり、相手をそういった視点からジャッジしないという社会だと思うのです。(これはエロい服に限らず、ゴスロリやパンク、どんな服装において言えると思います。)
黒澤さんは、ハトクロ着用の写真は性的な目的の写真ではないので、そう言った言葉を投げかけることは制限していますが、心の中でどう思うかまでは制限していないことが、"心の中で思われることも嫌だ"という層からしたら裏切りに感じられたのかもしれない、それが火種になったのだと考えています。
■内心と言動の話
ではなぜ心の中で思うことまで制限したい人が出てくるのか、と考えると性犯罪の認識が内心にまで及んでいて、男性の性欲に対して潔癖なのだと思います。
自分も勿論男性からのそういった行動や言葉で傷ついたり、嫌な思いをしたことはありますし、被害者としてそういったトラウマや負の感情を抱える気持ちも理解できるし、そこには同情しますが、男性の性欲が"原罪"だとは思っていません。
自分はいわゆる腐女子であり、バイセクシャルで、男性同士の恋愛に対する幻想や女性に性的な気持ちや欲求を抱いたりします。というかどういった人であれ、そのような欲求は誰しもが当たり前に持ち得るものだと考えています。
問題は、その欲求を相手に言葉や行動としてぶつけたり、相手の意図を自分の欲求をものさしに解釈してジャッジしたり、そういった行動に起こすことです。悪いのは相手の服装や仕草でも、欲求そのものでもないと考えています。
そこに対する考え方が、黒澤さんと今回ハトクロを誹謗中傷している方で違うのだな、と思いました。
ですが、国際女性機関(でしたっけ)の「あの作品は女性に対する、異性を性的魅力で応援するというシンボルの押し付けである」という意見にも同意できません。
増田はたわわが好きです。(増田が絵を描くので)絵としてのクオリティも尊敬していますし、胸の大きな女性は現実でも創作でも好きなので、毎週更新を楽しみにしています。何度も言う通り現実でたわわのような女性の自己表現があってもいいし、ああいう男女の関係性があっていいとも思っています。
黒澤さんの「自分の魅力で異性を応援したって良いのではないか?」という作品の中で起きている関係性や、女性の自己表現の自由に対する意見にも同意します。
ですが、たわわの登場人物ではなく、作者様や(自分も含め)それを楽しむ人たちによる、性癖やフェチに基づいたコンテンツの作成意図とその性的な消費が存在するのも事実だとも思っています。
たわわはあくまでも作品で、たわわに向ける印象や作品に対する言葉が女性を性的にジャッジしたり、それを基準として女性像を縛りつける社会を作る!とは思っていませんし、当たり前ですが、現実と創作は違います。もちろんそれを理解している方が大半だとは思いますし、たわわと性犯罪はイコールにはなりません。
ですが、新聞という老若男女、そう言った切り離し方ができない人まで目にする可能性がある場に、元々性的な目線を向けられたり、少なからずそういった欲求から作られている作品を載せる、というのはなかなかリスクのある行為だと思いました。
私たちは1人の人間で、そういったことを期待されるコンテンツではないことも事実です。
(ただ、女性の"シンボル"としてたわわと対局の女性が描かれるのも、またアイちゃんのような女性の自己表現を否定になり得るので本当にメディアと表現と現実の切り離しはセンシティブで難しい問題だと考えています。)
これに関しては自分が女性向けジャンルにおいて、創作物が原作やそれに関わるものに与える影響にとても敏感で、"検索避け"というのにとても気を遣っていたという増田自身のちょっと偏った考えもあるかも知れません。
創作物と現実はイコールにはなりませんが、お互いがお互いに与える影響もゼロではないと思っています。ので、増田というただの人間にはそれが良いとも、悪いとも言い切れません。
■最後になんか色々
性別や年齢、どんなことに関わらず自分以外の人間に対して、相手の立場や考えを噛み砕くことはできても、完全に理解してその立場になることは無理だと考えています。
私はあくまでも私の立場でしかものを語れないし、自身も性被害にあったことがあるので、作品と性被害の切り離しが完全に行えているかというとかなり怪しいことも自覚しています。
また、そういう人間が第三者として完全に冷静に話すことは難しい、とも思っています。
被害者や弱者が何かに対して発言する時、行き過ぎればその立場を振りかざした暴力にもなり得るので。
なるべくそういう個人的な感情は省いて考えているつもりではありますが、正直完璧に第三者視点で公正にものを考えることはかなり不可能に近いです。正直自分にできている自信はありません。
なんか話があっちこっちに行った気がするのですが、初めにお話しした通り、こういう気持ちを抱いている人もいるんだな、くらいの気持ちで捉えて頂ければ幸いです。
フェミニズムを巡る疑念、糾弾、齟齬の根幹は、結局はそれが「女権のみ拡張主義」であるのが普遍的な人権思想に根差しているのかによる。「○○のみ拡張主義」はナチズムが「アーリア人の権利のみ拡張主義」であったように最悪の結果をもたらすし、それによって公共が左右されることはファシズム以外の何物でもない。
この種のフェミナチたちは、誰かが対抗理屈(と言うか対抗屁理屈)を発明するとそれに群がって考えもせずに多用し始めるが、これが問題であるのは、「○○のみ拡張主義」で公共を左右しようとする試み自体がナチズム/ファシズムとして糾弾されるべきだからであって、常に公共への働きかけは普遍的な人権思想に基づく公共の福祉の調整でなければならないからである。
つまり普遍的な人権思想に根差して、公共の福祉の調整と言う観点に基づかない権利主張はすべてファシズムなのであって、他者に対する人権弾圧である。
これが「女権のみ拡張主義」「ならば男性は男性で自分たちで男権を主張してください」の人たちが言葉の正確な意味合いにおいて社会害悪であり、積極的に排除されなければならない根本的な理由だ。また、これが世界の主流派フェミニズムが急いで、ユニヴァーサリズムに方向転換しようとしている理由でもある。
ナチズム下においては、人権の定義が大きく制約されることになった。通常の殺人の範囲に含めないことでユダヤ人の大量虐殺は可能になったのである。
従って、アフターナチスの世界で求められるべき「人間」とは定義が恣意的な意図によって左右されない絶対性によって規定されるべきであろう。死刑廃止運動とはまさしくこの観点から為されている。死刑囚の人権擁護のためではなく、「人間」の不可侵性を守ろうとする思想である。死刑廃止運動においては、このことを理解しているリベラルが中絶の問題になれば、まったく態度を翻すのは理解しがたいことである。
人間の定義には政権やイデオロギーの恣意性に基づく冗長性があってはならないのであって、アプリオリに絶対的なものでなければならい。
現在は、胎児は「全身が母体から出てからが人であってそれ以前は物」と言う考えが主流であるが、これは恣意性そのものの定義である。例えば頭部のみが出ている段階で、赤ん坊をナイフで刺せば器物損壊罪で、1秒後に全身が出たところで刺せば殺人罪と言うのは科学的な説明がつかない。物体それ自体は同じだからである。栄養従属体であるかどうか、つまりは臍の緒でつながっているかどうかであれば、帝王切開をするかしないかでも他者による恣意性が入り込むことになる。
1秒前までは物、1秒後は人間、と言う科学的なアプリオリに基づかない恣意性から脱却するためには、結局のところ受精卵に人間性を求めるか、少なくとも胎盤への着床後にそれを求めるしかないのであって、理屈の方は中絶禁止派の方が科学的には通っている。
「女の体は女の物」
「私の体の決定権は私にある」
と言う人たちは、徴兵制によって徴兵されて死を強制されて来た男性兵士たちのことを考慮してみた方がいいと思う。彼らもまた、同じことを言いたかっただろう。現在、徴兵制があるかどうかは問題ではない。それがあり得る政策として現在も許容されているということが問題なのである。そしてこれは、同時に、「女性のみが男性のリソースに負担をかける形で体育成績で優遇されている」「女性のみが需給法則・雇用の自由に逆らって男性の機会リソースに負担をかける形で男女雇用機会均等法がある」「女性のみが男性の権利を侵害する形で女性専用列車がある」「女性のみが男性の税金雇用機会に負担をかける形で女性センターがある」等など数え上げればきりがないが、最終的には男性の身体性を毀損する形で、公共の福祉の観点から調整が図られているのだ。その結果が著しい性差が偏った寿命格差、幸福度の差、自殺率の差であっても、許認されているのである。
つまり、利害が対立する局面において、他方の損失が生存に負荷をかけるような重篤性がある場合は、「女性がこの社会により適合性を持たないのは男性のせいでは無いが」、公共の福祉の観点から調整が正当化されるのである。
それが市民社会なのであって、中絶問題はつまりは女性が、他者の利益のために公共の福祉を成立させる自己犠牲を受け入れられるかどうかが問われているのである。
女性の身体の自由性、女性の心身の健康もかなり人権的には重篤なレベルの権利ではあるが、それが胎児の生存権に優先され得るかどうかが問題になっているのだ。
「胎児だから人間ではないので胎児の人権それ自体が存在しない」
という主張は、既に見たようにアプリオリなものでも無ければ科学的根拠に基づくものでもない。恣意性に基づいていると言うこと自体、批判されるべきであるが、恣意性に基づいているのであれば別の恣意性によって動かし得るものなのである。そしてこれを免れ得ないので、中絶賛成派は、アプリオリな定義と科学に基づく議論には決して深入りをせずにただ相手をキチガイ呼ばわりしてそれでおしまいにするのだ。
女性の身体の不都合と胎児の生存権、どちらを優先するかは人権思想に基づくのであれば、後者とせざるを得ないのである。なぜならば私たちは二度とユダヤ人を人間の定義から外した恣意性に戻ってはならないからである。
フェミニズム主流派が言うように、フェミニズムがヒューマニズムの一形態であるのであれば、ここが女性が人権思想を本当に尊重し得るのか、市民社会のプレイヤーとして相応しいのかどうかが問われる試金石になるだろう。他者の生存権を尊重できないようであれば、フェミニズムはイコールの関係においてナチズムに他ならないのである。
生活安全保障って言葉選び、この戦争で「安全保障」ってワードへの関心の高まりを受けてのことだろ。
でもさ、普通に考えて、国民が安全保障に興味あるっていうなら、ふつうの安全保障のことをすればいいわけ。
これは実は「軍事外交にかかる安全保障のことはしません」という意味のメッセージのなんだよね。
このメッセージは、実際、立民支持者たちに正しく届いていると思うよ。学生運動ジジババたちは、この期に及んでもまだ軍事はしたくないもんな。喜んで支持したはずだ。
外交安全保障しませんとか、政治家としてはアウトもいいとこだけど。
加えて言えば、このスローガンは、ワンチャン馬鹿な大衆が、外交の安全保障と間違えて興味持ってくれることも狙ってるのよ。
っていうか、国民イコール馬鹿な大衆と思ってないと出てこないよね。興味あるワードと関係ない内容を結びつけて支持を得ようとか。
まあこんな奴らに政治を任せたらいけないよ。
また今回もそのことが明らかになっている。