持ってる人間と持ってない人間の関わりあいを狙って描いていそうなところに注目したい。
人間だれしも自分が特権を持っていることには無自覚で、社会を生きる上で、持ってない側からそれを直接的に指摘されることはないから、
自分が自分の環境や立ち位置を理解できる程度の観察力や内省力がないと、「ああ自分は(相対的に)恵まれている」という考えには至らないし、そこに至るまでにある程度年を重ねるものだと思う。
高校生のみつみちゃんは「まだ」自分がちゃんと愛されて育ったことと、志摩くんが愛されずに育ったこと「まで」は気付いていない。
作品内で扱われている「人間関係のポジショニングとゾーニング」についても、自覚的な側と、無自覚的な側、愛されている側と、愛されてもいない側、かなり繊細な部分まで、スキップとローファーはキャラクターの演出をしている。
氏家くんの脆さと強さ、八坂さんの愛着への強かさと諦め、志摩くんの自己のなさ、みつみちゃんの自信ぶり。
作中では、稠密な人物の内面描写やキャラクターを掘り下げる描写こそないけれど、彼らの言動を恐ろしくリアリスティックに感じるのは、人間が相互に作用することで起きる「トラブル」を上手に躱していることにあるかと思う。
“グループで過ごす時間と不協和音スレスレのスクールライフ・コメディ”を謳っているだけあって、やっぱり、かなりとげとげしい描写もある作品なのに、大部分が牧歌的な空気を持っているのは作者の技量だと思う。
スキップとローファーが学園青春群像劇としての価値をもっているのは、それぞれの人物の属性振りやキャラクター性に無理がないからだと感じる。
田舎と都会、陰キャと陽キャ、一軍と日陰者、現実では水と油のように混ざらない関係だと決めつけているのは「ああ、自分自身じゃないか」といえるくらい、みつみちゃんは水と油をなじませる乳化剤としての機能をもっているし、こうあってもいいなと感じるまっすぐさは物語の中だけでなくてもいいじゃないかと思える。
そのみつみちゃんに、わざとらしくなく「あなたはでも、愛された経験をもっていますね」っていえる八坂さん、今後、彼女が物語を大きく動かす役割をもつ可能性は高いか。
このストーリーは愛されて育ったみつみちゃんと、愛されずに人の顔色をうかがって生きてきた志摩くんをどう解決するかになっていくかというとこに落ち着くのか、正しさに生きるみつみちゃんを掘り下げるのか気になる。
恋愛漫画というフォーマットだと、主人公+未来のパートナーのために舞台装置や出来事が用意されていて、寄り道は誌面のためのフック、引きでの巧さとしてみてしまうけれど、
ここまで群像劇の色味が強いと、寄り道の寄せ集めこそが本題という印象になってきて、今後のストーリーがどうなっていくのか楽しみ。
本当はもっと掘り下げたり、メタな視点からの感想を書きたい気もするけれど、ちょっと一気読みをするとキャラクターの名前を憶えられないので、あの子があの子に対していった「少しのホントウ」をたくさんあつめたような作品でそういうがっつりした考察はしたくないな。
需要があるから、「らしく振舞う」とか、自我が強いから周りに合わせないとか、社会に対して協調性がありすぎることも、協調性がなさすぎることも、結構うんざりすることだと感じるけれど。
「自分には価値や自己肯定感がないから……自分を肯定してくれる、承認してくれるあの子が好きなんだ」という解決にも、素直に納得できず「結局最低限、自己愛や社会的な地盤という下地が必要だよね」という皮肉を放つ八坂さんに共感してしまう。
スキップとローファーではそもそも都内の進学校に通える学力があって、経済的な問題に直面している子が出てきていないことも、この愛着(attachment)への問題を抱える青年という描写の分は物足りなく感じる面があるなと感じてしまう。
志摩くんがそういう意味で、単に幼稚・稚拙、初々しいという印象になってしまうのも、自分の中では頷ける。でも、やさぐれた感じとか、荒んだ感じを出したいキャラクターとしては彼は恵まれすぎている。
スキップとローファーに感じる物足りなさは結局、それなりの予後や可能性をもっているんだから。そんなに悩んでも君たちが最底辺の世界とは無縁だよね。という強がりの業か。
アフタヌーン掲載漫画は結構心理の描写にも力をいれているように感じて、かなり好きなんだけれど。美大生とか高校生とかだと結局、上澄みの世界側だよね……って言いたくなってしまうらしい。