はてなキーワード: 自然発生とは
もはや定番になっている若者の〇〇離れシリーズだけど、不良離れ、暴力団離れ、覚せい剤離れといった「良い」離れもあるようだ。
なぜだろうと思い原因を調べてたら、次のような記事を見つけた。(少し前の記事だが)
http://president.jp/articles/-/23887
この記事によると、学校での体罰が禁止されたりして大人がソフトになったから子供もソフトになったという。
はたしてそうだろうか。
子供がソフトになったら指導する大人もソフトに対応可能になったともいえるので、これではどっちが原因でどっちが結果かわからない。
そんな事よりも自分には中高生へのSNSの普及のほうが因果関係が強いように思える。
(SNSの普及率と非行率の比較グラフを出すようなことは面倒なのでしないが。)
非行に走る子供たちは、勉強やスポーツなどで学校社会で評価されていないケースが多い。そういう子供たちこそ他者とのつながりを強く求めている。同じような境遇の仲間が必要だ。
SNSのない時代では、その強いニーズに応えるためそこら中に不良グループが自然発生していたのだ。
勉強やスポーツ以外で評価される自分たちの社会。悪くて凶暴な事がむしろ評価の対象になる社会。集まることによって凶暴性はより強まり、子供たちはより「悪く」なる。悪い奴がモテる対象になり恋愛を謳歌する。真面目な優等生は恋愛市場ではむしろ弱者だった。
一方、現代ではSNSが普及しているので学校に居場所を感じられない子供も他者とのつながりを感じやすいので不良グループは作られにくい。「悪い」ことが評価されることもなければ、モテることもない。むしろ「悪い」事をみつけたらSNSで徹底的に叩いて炎上させる。
勉強やスポーツができる優等生がモテを独占しているので、「デキの悪い子」が恋愛市場で活躍するチャンスは少ない。
「不良が減ったのはとてもいいことですね」
という単純な一言で片付けるような事ではないように思える。例えば少子化の問題を考えるのなら、「モテ」が優等生に一極集中しているのは大問題だ。一夫一婦制であるかぎり成立カップルが激減するからだ。「デキの悪い」子供たちも恋愛して子供を作る機会が多かった時代の方がよっぽど健全だ。
もっと言えば学生時代の評価が一生付きまとい「身分制度」のようになってしまっているとも言える。再チャレンジ可能じゃない。デキが悪かった子供がずっとそれを引きずって発散する場所もない社会がいいとは思えない。
「悪い」事は、そんなに悪いことだろうか??
知識自慢するチャンスを与えてやりやがりますから教えてくだされやがれ。
1 アイデンティティを求めて奔走するも、いざアイデンティティと呼べるだけの物を手に入れてから自分が本当に欲しかったのは「他人に自分の居場所が侵害されることがない」という安心であった事に気づき、そこから何とかしてそれを手に入れる話(だけど結婚しました子供出来ましたがオチのものは除く)
2 人工知能の発達により機械が人間にとって理想的な隣人となった時代、機械の隣人が持つ情緒の安定性や記憶力の高さに慣れ親しんだ人類は同じ人類同士を疎ましく思うようになる。同時に、研究開発や事務処理においても機械に勝る所の無くなった人類はその存在意義を見失い、遂には機械へ主権を明け渡し自分たちは種としての衰退へと向かおうとする。その過程の中で、「意識は魂によって生まれるものではなく、感覚器官の生み出す入出力が集まり大きな流れとなったものであり、生存競争の中で産まれた生命維持のための機能に過ぎない」「そもそも、生存競争などというものすら存在せず、たまたまそういうルールを己に課した者達が生き残ってきてしまっただけだ」「全ては自然発生的なもの、消えることがこんなにも恐ろしくても、それもまた偶然が生み出した流れに翻弄されているだけだ」「恐れるほどのものではない。種としての老いを受け入れる時が来ただけだ」みたいにある意味前向きに割り切って大往生する感じの作品
その都度「森久保ォ!」と叫んで、続いて「俺が~~してやるからな」とか励ましたりポジティブに導くよう声をかけてあげるんだよ。
奥さんの性格に不快感を示したり、それを察しさせてしまうような態度をとるのは最悪だから、それの真逆。生涯寄り添う夫として、その性格的弱さを包み込んであげる無尽蔵の包容力を示してあげるんだよ。
この森久保ォ!というネタはアイドルマスターシンデレラガールズという作品に由来するもので、ネガティブアイドル森久保に対するプロデューサー(プレイヤー)達の呼びかけとして自然発生的に定着したフレーズであるのだが、そのネタにかこつけていくことでふざけた感じを出しつつも、奥さんに対してイラつかず寄り添っていくテンションを自分に付与することができるし、増田が奥さんの発言に気を揉んでいる(が助けたい)という態度を示すことができる。こういうのは真面目に話し合っちゃったりすると重くなるし良くないのだ。森久保ォを奥さんの名前に変えてもいいのだが、増田の文中にあった「イベント」がオタク系イベントのことであれば、聞き返された時に森久保のことを教えて、二人でそういうお約束ノリを認知しあっていくのもいいと思う。
まあこれは一例にすぎないけれど、そうやって奥さんの気になる言動に対して和やかに軽やかに返していく精神的余裕が増田にないのならば、まずは自分の余裕を作るために休養をしっかりとれるように調整する事が最優先だろう。
本当はこういうのって読者サイドから自然発生する話なんだよな。
でも"仕掛け"が見えると今はみんな乗ってこない。
……なんでだか分かるか?
要はさ、「オマエラ」とか仲間ぶった口調で呼びかけられてもオマエが本当の読者かどうか分からないからなんだよ。
同じ時間を過ごした仲間と「おもしろかったよな」って話すのと、商売してる癖に匿名をいい事に「オマエラ」なんて金も掛けずに呼び掛けるような連中が多過ぎるのが原因なんだ。
もう辟易っつーかさ、みんな信じられなくなってるし、実際にファンだとしても利害が見えると「やっぱりな」って感じでウンザリなんだ。
どうしてそうなったかって、そういう仕掛け方をやめない連中の自業自得だから、俺にはどうでもいいんだけどな。
いや、別に「オマエ」がステマ野郎だなんて断言してるんじゃないんだぜ?
読者様にはそれを見分けようがなくなっちまった、って話をしてるんだ。そして読者様はそれに慣れたんだ。
だから「アレが面白かった」「コレが面白い」って言う奴も減った。
そういう話を信じる奴も減った。
アニメもそう。映画もそう。ドラマも音楽も漫画も小説も舞台もみーんなそう。食べログや名所案内ですらそうだからな。
斯く言う俺も嫌いじゃなかったぜ? 他にも好きなものはたくさんあった。
でもそれに泥を塗られてる気分、分かるか?
「テキトーにマーケティング会社に任せとけばいいんですよ、読者なんて人気だって言っとけば信じるんですからw」
そういう姿勢で年収ン千万も取るようなのが、仲間ヅラして「オマエラ」ってやらせてきたんだって思うと、どんな気分がするか。
最近じゃブランドバッグだっけ? それで女を格付けするって言ってるオヤジがサンドバッグになってるんだから笑い話としちゃ上出来だけどさ。
残念ながらはてなでのオマエの話には乗りたくない。
それはオマエが悪いんじゃなくて、今まで好き勝手やってきた出版社やテレビ業界や広告代理店のツケが来てるってだけの話だ。これからもそれは変わらないし、生まれた時からネットがある世代は増えているから悪化しかしないだろう。
実名SNSはそうした裏切りを回避できる可能性もあったが、有名アカウントに隠れた宣伝依頼をされてるのが発覚して結局宣伝めいた話は嫌われるようになった。
寧ろ、何かを褒めるのが疑われる原因だから褒め難くなったって言ってもいいだろう。
広告のコストと効果の最適化戦略だとかアクセルロッドの戦略ゲームを持ち出してもいいが、話はもっと単純だ。
「オマエラ」は俺の本当の仲間との思い出やなけなしの小遣いに唾を吐いた。
「オマエラ」は俺の好きだったものに泥を塗った。
だから誰だか分からない「オマエラ」の話は相手にされないし、「オマエラ」はこれからも嫌われていく。
楽しかったな。
原っぱでやった変身ごっこや登下校時のお話作りや何の気もなく口ずさんだ流行歌や一緒に絵を描いた時間も。
でも「オマエラ」は仲間じゃない。
残念だな。
オマエが本当の仲間だったとしたら、尚更だが。
そこそこ人気のあるアカは15年、超人気のアカは20年みたいにする事で、希望を残しつつ質を高める事ができる。
例えば、このはてなだったら、月産スター数100以下みたいなカスは次々と淘汰され、本当に優れたはてなーだけが生存し、皆の憧れの存在になる。
スターを稼いでるはてなーが優れたはてなーかというと疑問が残る。たとえば、はてブの政治カテではスターが乱れ飛んでいるが、都合のいいコメントを人気コメントに仕立て上げ不特定多数に押し売りするための工作という意味合いが強い。
「読まれるべきコメントだからスターがついて、自然発生的に人気コメントとなる」のではなく、「スターをつけることで、人気コメントにねじ込み、読まれるべきコメントへ人為的に仕立て上げる」という本末転倒な事態が起きているように見える。
人気や面白さといった指標を基にユーザーを選別してもいい結果にはつながらないのではないか。ではどうするのがいいのだろう。指標に頼った選別を否定するのだから、後はランダムに選別するしかないように思う。
なんならアカウントの寿命を延ばす権利をガチャの景品にしてもいい。SSR…1年延長、SR…1か月延長、R…1週間延長、N…1日延長といった具合に。金払いのいいユーザーの寿命を確率的に延ばすのは利用者と運営の双方にとって納得があると思う。
めちゃくちゃおかしい。
なんで税金払って、政治家はその税金をクソみたいな使い方しかせず、政治都合で非合理的な税金の使い方をしたり、癒着企業に垂れ流したりする。
税金は未来のために使われない。少子化対策なんて騒ぐだけで何もしない。
高齢化も騒ぐけど、自然発生したていにして国民に諦めさせようとしている。
超延命大国の日本は、その老人の延命には上限なく限界ギリギリまで税金が使われる。
教育も知ったことではない。世界がSTEM領域、科学、テクノロジー、エンジニアリング、数学の領域に教育を集中しようとしているのに
未だ何の役にもたたない文系科目で溢れる日本。さらに勉強しなくても卒業できる大学システム。
両立できたらそりゃいいけど、いつの間にかそれが「両立を目指すのはいいことである」みたいに皆目指すのが当たり前みたいな空気になっちゃってる。
でも本来「あれもこれも手に入れたい」ってのは我が儘で、不可能なのが通常なのだ。
いつから人類はこういう不都合を認めないで無理を押し通す(そして失敗する)ことを「前向き」「ポジティブ」「諦めたら終わり」と言って称賛するようになってしまったのか。言っちゃ悪いが非常に愚かである。
あれもこれもと欲張るのは美しい姿などではなく、選択(と集中)ができないという能力の欠如であり恥ずべき事である。
こういう当たり前のことを書いても多くの人はこれを見て心理的に抵抗を感じるだろう。それは社会に洗脳されているということだ。誰かが仕掛けたのではなく自然発生的な洗脳にかかっている。時代によって様々な形で、人はこういう洗脳にかかるのかもしれない。
2.5次元作品が狂ってしまった、と嘆き憤る方の言葉を読んだ。
そのことについて思うところがある。
誤解のないよう、まず初めに私の立場を表明しておこうと思う。
私は、ペンライトやうちわなどを持ち込んで応援のできるスタイルの作品が、正直に言って苦手だ。「うちわ」が苦手なのである。
作るのが面倒とか、視界に邪魔だとか、そういうことではない。
ピースして、ウィンクして、というような「要求型」の応援が得意ではないからだ。
ただし、くだんの記事で書かれていたように、こういう客席参加型の作品を狂ったとは思わないし、舞台やミュージカルではないとも思わない。
うちわさえなければ普通に、というかハチャメチャに楽しく観劇するだろう。
客席に降りてきたキャストにファンサを貰ったら嬉しくて飛び上がるし、この色と決めていたペンライトのカラーはすぐに揺らいで、軽率にブロマイドを買ってしまう。
界隈にはよくいるオタクだ。
ただ、気持ちは分かる。痛いほど分かる。
あれほどの感情は持ち合わせていないが、理解と共感ができてしまうのである。
例の記事にはもう少し冷静に、悪感情だけを振りかざさずに話をしてくれればよかったのにと思ってしまう部分が少なからずあるが、何言ってんだコイツ、と切り捨てられてしまうばかりではあまりに悲しいので、今回筆を執るに至った次第だ。
なんだよ老害が、と思った方も、時間が許すばら話を聞いてもらえると嬉しく思う。
先ほど、この応援スタイルの作品は苦手だが、舞台やミュージカルではないと思わない、と申し上げたが、それはおそらく2.5次元より先にそのスタイルに出会っていたのが根源にあるのではと思う。
舞台だけれど、歌って踊ってファンを振りまき、客はペンライトを振ったり声援を送ったりする。そのことに対しての違和感があるかないか。そこが私と彼の方との大きな差であろう。
例を挙げるなら、宝塚なんかが有名ではないだろうか。
1部と2部で分けられた構成で、似たようなものが存在している。観たことのある方も多いのではないだろうか。
それから、四季のマンマ・ミーア!なども、近いものがあるだろう。
2.5次元作品で名前をお見かけする俳優さんたちが出演しているものでいうなら、私は数年前に上演された「ボーイ・バンド」が分かりやすい例ではないかと思う。
劇作家であるピーター・キルターの作品だが、世界中で初めての公演を日本で行ったものだ。
これは2.5次元作品ではないのだが、ミュージカルではなく、けれど歌があり、客はその歌に合わせてペンライトを振る。
(ペンライトを持ってくることについて公式からのアナウンスがあった)
少し時間が経ってしまったためよく覚えていないが、演者が客席に降りてのファンサービスもあったように思う。
歌われている曲は大ヒットしたJ-POPだ。(興行主側が曲を決めるらしく、作品として固定の曲はないようである。)一緒に歌ってほしいなどという煽りもあった気がする。
例の定型にはめるのなら、これらは舞台ではないということになるのかもしれない。
こういった作品は、知らないだけで、きっとずっと前から数多く存在しているはずだ。
ただ、昨今の2.5次元作品という界隈で、アイドルのコンサートと一体化しているようなものが乱立している。
2.5次元作品をかじっていればどうしても目についてしまう。それを苦手だと感じる人がいれば、極度の嫌悪感を抱いてしまうくらいには多いと思う。
おそらくだが、嫌悪までいかずとも、僅かばかりもやもやとしてしまう人にとって、そしてくだんの記事を書いた方にとっても、舞台・コンサート・イベントなどの種別に関わらず、興行というものは全て「参加するもの」ではなく「観るもの」なのだ。
ただ、作品を観賞したい。それに尽きるのだ。
だから、舞台上の出来事を受けて起こる笑い声は演出のひとつと受け入れることができても、客席側から舞台上に向かって存在や要求を主張するようなうちわや歓声は必要ないと感じてしまう。
少々暴力的な言葉を使うなら、邪魔なのだ。余計なものだと感じてしまう。
あれが許せるか許せないか。あったほうが美味しいか、入っている意味すら分からないのか。
けれど、公式的にそれが認められ、あまつさえもっともっとと要求までされているのものだから、困惑するのだろう。
どうして、と思う。
そして、自分が好きだったジャンルが「どうして」で溢れかえってしまう。
パイナップルの入っていない酢豚が食べたいのに、流行のせいで中華料理店はパイナップル入りばかりを提供しているのだ。
こんな酢豚は要らない!私の思う酢豚はこんなものじゃない!と感じるのである。
私自身、この手の舞台にっついては冒頭に書いたように苦手な部分があるので、チケット代分をしっかり楽しめる気がしないから近寄らないでおこう、くらいのスタンスでいるつもりだ。
2.5次元作品も好きだけれど、他にもオリジナルなり古典なり、全然関係ないアーティストのライブなり、あちこち手を伸ばしているというミーハーな側面があるからだろう。
回鍋肉でも麻婆豆腐でも何かおいしそうなものがあれば、気が向けば食べる。
けれど、私が好きで好きで仕方ない漫画やアニメの作品が、うちわを持って応援するスタイルの舞台になってしまったら。
「楽しいと思うしそういうのがあってもいいと思うよ、私は行かないけど」という立場を貫けるのか。正直わからない。
きっとあの記事を書かれた方は、一足先にその憂き目にあってしまったのだと思う。
とにもかくにも、最近このドルステタイプの作品が多いのは紛れもない事実だ。
少なくとも私が2.5次元作品を観るようになったばかりの頃は、ミュージカルかストレートかといった分類だったように思う。
それを証拠に、ある作品が舞台化するという情報が出たときは「ミュなの?ステなの?」なんて疑問文をよく見かけた。
この新たなジャンルは、確かに舞台作品の範疇ではあるが、独特な応援スタイルが存在しており、それを楽しめる人もいればとんでもなく苦手な人もいる。
2.5次元ミュージカルの先駆けのひとつと言われ、多くの動員数を誇るテニスの王子様だって、初めは観客もぽかんとしていたという。
テニミュに触れたことがあれば、知っている人も多いのではないだろうか。あの最初の曲。You Know?
はじめの台詞を言っとき、お客さんが「???」という反応だった、と演者の方が話していた。
けれど、2.5次元ミュージカルがここまでの台頭を見せていなかった当時、「何で急に歌いだすの」「ミュージカルでやる必要ある?」と感じていたファンは一人もいなかったのだろうか。
決してそうは思わない。思わないが、徐々に受け入れられ、ファンが増え、公演数が増え、途絶えることなく3rdシーズン。
その折り返しをすぎた今、世の中には同じように漫画を原作とするステージが数多生まれ、『2.5次元ミュージカル』という言葉が自然発生的に生まれ、すっかり市民権を得ている。
今この時代、チケットを握りしめて劇場にいった人の中に「何で急に歌いだすの?」「ミュージカルでやる必要ある?」なんて疑問を感じる人はいないと思う。
そうとわかった上で、私はそういう作品が好きで観にきているのだ、という人が殆どだろう。
映画などとは違い、舞台は初日の幕が上がるまでどんなものなのか分からない。
当たり前だが、その通りだ。
先ほどのテニミュ初めての公演のもそうであるし、刀ミュが初めて上演されたときなんかも記憶に新しい。
実質ドルステ。そういうような単語がいくつも踊っていた。分からないのだ、幕が上がるまで。
私が知らないだけで、もしかしたら公式サイトのQ&Aなどで、内容が予想できるようなものがあったのかもしれない。
だが、そこまで下調べをし予想についての情報収集をしていく客の割合は、そう多くはないだろう。
少なくとも「ミュージカル刀剣乱舞」のタイトルとフライヤーだけでドルステだろうなんて、よもや想像がつくまい。
そして、とても現金な話ではあるが、決して安くないチケット代を払い、宿泊先を押さえ、はるばる新幹線に乗って都市部へ足を運んで観る。どうせなら、心から楽しめる演出作品のものを選びたいと思うのが人の心理というものだ。
苦手だなと思う私の立場とは逆に、うちわを作ってペンラを振って推しキャラ・キャストを応援するスタイルが大好きで仕方ない人だっているはずだ。
知人にも数えきれない程いる。舞台には行ったことがなかったけれど、評判を聞いて2.5次元のアイドルを応援しにいった女の子。いつの間にかうちわ制作のプロになっていて、自分の住んでいる県でも上演があるのに、このスタイルの舞台なら!と言って、うちわを持ってあちこち飛び回るようになったお姉さま。
舞台を観たことがない人を、いかに劇場に来させるか。そんなことを、制作側から聞いた。これまた情熱大陸だ。大成功である。そして、すっかり確立された演出方法にもなった。
きっと今、文化の変遷と定着の、まさに過渡期に立っているのである。
だからそろそろ、この新しいスタイルの演劇に名前をつけませんか。
そうとわかった上で、私はそういう作品が好きで観に行くのだ。
これを当たり前にするために。
オペラから派生し、最初は格下だと思われ、あんなもの芸術じゃないなどと言われてきたであろう、そして現代ではすっかり格式と市民権を得たミュージカルのように、いつかこのスタイルの演劇も一つの舞台芸術の形としてウィキペディアに載る日がくるかもしれない。
ネットを見てたら「チョベリバ」の単語が目に入って、ふと思ったので。
96年くらいのコギャル文化で、チョベリバとかチョベリグが流行ったって認識だけども、当時の自分は小学生だったから、テレビでこんな変な言葉が流行ってますよーってのを聞いて、友人間でネタとして面白半分で使ってた記憶しかなくて、ガチな人がガチな意味で使ってるところを見たことは一度もなかった。
当時のこち亀やラッキーマンにもこの言葉は登場するけど、どちらかといえばネタ的な意味合いで使われてた感じ。
あと当時の『小学四年生』の雑誌に載ってた漫画で、とあるキャラがチョベリバって言ったら、別のキャラが「そんな言葉、キャバクラ通いのオッサンしか使ってないだろ……」って、突っ込んでたのが結構印象に残ってる。
実際のところ、当時の女子高生たちはネタ的な意味合いじゃなくて、本当に日常会話でナチュラルにこの単語が使われてたのか、今更ながらふと気になった。
最近だと「忖度」みたいにテレビ発の言葉は、日常的にはネタ的に使われることが多いけど、「インスタ映え」みたいに自然発生した場合だと、割とナチュラルに使われてることが多いから、チョベリバとかは果たして後者の方なのかどうなのか。
「それは違います、差別くんも私たちと同じ立派な品詞なのです」
『でも、イメージが悪いじゃないか、差別が外歩いてるだけで噂の的だよ?』
「差別くんも我々と同じプロセスで生み出された品詞なのです。品詞は皆平等なのです」
「はい、そもそも品詞は自然発生することはありません。必ず主によって創造されます」
『なら、創造主の責任だな。邪悪な心が差別を生み出したんだよ、創造主の責任は問えないので、やはり差別は差別されるべきだ』
「... 差別は創造主から試練を与えられたのです!決して望まれない品詞ではないのです!」
「... はい」
『ならば、創造主様のご意向には従わないとな!差別はおとなしく差別されるべきだ!』
「しかし、科学的な見解から見れば品詞は皆同一、何れかの品詞が例外になるような話は馬鹿げています」
『科学的な見解とやらを優先して生活を不便にする必要はあるかい?』
「... ないです」
『なら、差別は差別されるべきで結論はついたな、今日はこれで終わり!』
「差別主義者...」
『ん?』
「レイシスト...」
『なに?』
「お前は、差別主義者なんだよ!差別主義者の話は聞きたくない!黙れ!」
『おいおい、いきなりどうした?』
「差別の品権を保障せよ!差別への侮辱を許さない!差別は友人!」
『...』
『...』
「差別を連想する言葉は、過去の差別迫害を想起するため使用を固く禁止する!」
『...』
「修学旅行のパンフレットの登別の表記が品詞差別に該当する、即刻削除せよ!」
『はい』
否。
思考を伴わない選択も存在するし、思考を伴わない予約行動も可能、逆に思考を伴わない自動的な行動を主導的な行動に変更することも可能。
無論、できない場合もあるが例外なく思考によって選択は行われるわけではない。
この辺りは格闘技経験やスポーツ経験があれば直感的に理解できる。
辛いものを食べて吐き出す、鼻に胡椒が入りくしゃみをする、熱いヤカンを触って咄嗟に手を引く。
防衛本能が破壊されている人間はこれが上手く機能していないので選択できず行動できない。
選択できないという状態は行動して結果を招くことができないというのがその状態。
よって思考しない自動的な行動であっても選択自体は行われている。
・思考を伴わない予約行動
格闘技のコンビネーションや、スポーツにおけるポイント獲得のために必要な行動、安全確認のための習慣的行動、タイピング。
これらは思考を伴わずにできるようにあらかじめ練習され自動化できるようにした選択行動の結果。
辛い物を吐き出さずに食べる、苦い物を吐き出さずに食べる、注射が痛くても逃げずに我慢する、眩しいライトを見ても診断してもらう。
これらは反射的な自動行動を全部自意識で抑えて主導的な行動に変更している。
ご存じの通り子どもは心が育っていないので自意識による変更ができずにこれらの選択ができない。
正。
座禅やヨガ、催眠術、集中行動のように意図的に思考を排除したり限定的にする方法がある時点で、
否。
思考をする、思考をしないという選択についても先ほど述べたようにあらかじめ自動行動を設定しておけばその場で思考せずとも選択可能。
思考は、本能>無意識>意識>心・思考・自我という段階を踏んで発現されるものであり、自然発生するものではない。
本能に性的欲求があるからといって路上で人を襲うというわけでもないように、
本能に元づく欲求を最終的にどう行動へと落とし込むかはその人間個人の思想・思考・自我・自意識・心・人格に全て委ねられる。
同じ食材でも料理の仕方やシェフが違うだけでまるで別の料理になるように、
根源的欲求が同じでも、思考が違えば、食べるものの選択が違い、性的趣味も違い、好き嫌いも違い、一卵性双生児の双子でさえ趣味も違ってくる、
例えきっかけが環境や世界の気まぐれだったとしてもそれを内在した以上は個性であり自我であり己の判断そのもの。
否。
どう組み立てるかは自我に委ねられる。
知覚だけでは選択の自由は成立しない
選択の自由そのものに懐疑的な見方をしてたから小さな視点と大きな視点で回答したんだけど
あと無意識は思考の原型的なもので、意識は表層化してきた無意識を管理している状態
無意識で無意識を管理してないことは思考に指向性を持たせることができるから明らか
例えばウンコのことについて考えようと思うのはウンコについて考えるという思考をよし始めるぞと手を叩いて
無意識・意識をコントロールしようとする何らかの役割があるからコントロールが上手くいく
全て自然発生する無意識に影響を受けているなら思考内容を外部刺激から自由に変更できるわけがない
表層的な意識を自由に変更可能な役割を持つ存在がなければ無意識だけを元にした思考じゃ同じ行動ばかり取ることになる
それが魂だとか心だとか人間性だとか言われている、神なんて言うやつもいる
文章の長さをなるべく短くさせることで意思の疎通を容易にする試み、または運動のこと。
根底にはTwitterの140文字制限があるとされる。(短い文章で伝える必要があるため。また全員が承前ツイートを読むとは限らない)
また、ニコニコ動画のコメント欄にも原因があるとも言われる。(一行で書き込む必要があるため長文が書きにくい、かつ長いコメントは高速で流れるため可読性に乏しい)
例: 長文に対する他者の反応として
a) 長い3行で
かつて別の意味で用いられていた言葉(単語)を、文字と表音を保ちながらも、また別の意味を与えること。
単語という「肉体」に、新たな意味としての「魂」を吹き込むこととも理解される。
乗っ取りを計画する集団は、単語に新たな意味を浸透させるための努力が必要だが、新しい単語を創り出すよりも、既存の単語の知名度にタダ乗り(寄生)できる分だけコストを削減できるとされる。
なお寄生先の宿主の単語が、未だに現役で「働いている」間は乗っ取りが成功しない。
例: 壁ドン
もとの意味→薄壁の集合住宅で隣室の騒音が漏れているとき、自室と隣室の間の壁を叩くことで自分の不快感を示す行為。
新たな意味→主に男性が、壁に背を向けて立っている女性の顔面の近くの壁に手のひらを叩きつけて、迫る行為。
かつてある単語に与えられていた意味を、また別の単語に与えること。
REUSEとは逆に、「魂」を別の「肉体」へと吹き込むことでもある。(必ずしも前の「肉体」から「魂」が抜けている必要はない)
自然発生することが多い。
例: イキリオタク
簡潔に言えば、図に乗っている、オタク(オタクの定義はここでは行わない)であることを自慢する者の総称だが、「現実の自分に抱く劣等感を払拭するために背伸びをする」という意味として中二病に酷似している。
(「邪気眼」に代表される、いわゆる「厨二病」とは異なる。ここでは「昨日寝てない」などの中二病的自慢への類似点を指摘している)
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まったく分類せずに、互助会という言葉でまとめて雑に殴っている場合がほとんど。
「互助会は滅ぶべし」って言いながら相手を殴りたいだけなら何も言うことはないが、
なので互助会を分類してみた。
この前、はてながアクセスアップ目的のサークルを閉鎖させていたが、規約にある「共謀」を文字通りしているなど、
記事は「何とか〇〇選」が多い。
「仲良し互助」
ブクマとブログ主が明らかに知りあいで仲がいい感じのコメントをつけ合っている。
ブログを始めて初期のころがピークで、そのうちそれなりに落ち着く。
ぶっちゃけ続かない。
金というモチベーションがないので、お互いにブクマするのが面倒くさくなる。
ブログを止めたり、著しく更新頻度が下がったりする人間も多くて自然と縁が切れる。
それなりに仲が続くのは、打算がなく気に入っているブログだけ。
互助の面倒くささも知っているし、新しい互助相手を探すのも面倒なので、そのまま細々とやっていく奴が多い。
「ビジネス互助」は確信犯でやっているから、言われてもやめない。
はてブを「ブログを読んでもらうためのもの」としか思っていない。
はてブのページを覗いたこともないから、ホッテントリが何なのかも分かっていない。
はてブを見ていて、互助の奴らのブックマークを見たことがない。
増田も一切読まない。
「ブクマを三つ集めるといいことがある」とかその程度の認識だ。
三つ集めると何が起こるのか、どこからPVがやってくるのか、まったく知らない。
俺は、はてなはこの辺りは初心者にきちんと教えるべきだと思うね。
はてブの役目、どういうサイトなのか、どういう使い方が望ましいのか。
別にそれで全員が全員互助らなくなるとは思わないけれど「互助会!」と
確信犯の奴らだけ残るから、批判しやすいし、対処もしやすいんじゃないか。
暗黙の了解がある奴もいるかもしれないが、それはもう証明しきれないだろう。
はてブを見ていて、仲良し互助がホッテントリまで汚染するのは、最初のうちだけだ。
そのうち飽きてやめていく。
少し前までずっと相互ブクマリストのトップだったブログも、互助をやめている。
最近はヘイトがたまりすぎていて、行きつくところまで行った感がある。
でも奴らは、増田は読まない。
それが断絶だ。
どうしたものか。