2018-01-05

anond:20180105201155

ある行為をするかしないかという選択思考によって行われる

否。

 

思考を伴わない選択存在するし、思考を伴わない予約行動も可能、逆に思考を伴わない自動的な行動を主導的な行動に変更することも可能

無論、できない場合もあるが例外なく思考によって選択は行われるわけではない。

この辺りは格闘技経験スポーツ経験があれば直感的に理解できる。

 

思考を伴わない選択

辛いものを食べて吐き出す、鼻に胡椒が入りくしゃみをする、熱いヤカンを触って咄嗟に手を引く。

これらは生来防衛本能がさせる選択的行動。

防衛本能破壊されている人間はこれが上手く機能していないので選択できず行動できない。

選択できないという状態は行動して結果を招くことができないというのがその状態

よって思考しない自動的な行動であっても選択自体は行われている。

 

思考を伴わない予約行動

格闘技コンビネーションや、スポーツにおけるポイント獲得のために必要な行動、安全確認のための習慣的行動、タイピング

これらは思考を伴わずにできるようにあらかじめ練習され自動化できるようにした選択行動の結果。

 

思考を伴わない自動的な行動を主導的な行動に変更

辛い物を吐き出さずに食べる、苦い物を吐き出さずに食べる、注射が痛くても逃げずに我慢する、眩しいライトを見ても診断してもらう。

これらは反射的な自動行動を全部自意識で抑えて主導的な行動に変更している。

ご存じの通り子どもは心が育っていないので自意識による変更ができずにこれらの選択ができない。

 

ある思考をするかしないかという選択もまた、思考によって行われる

正。

座禅ヨガ催眠術、集中行動のように意図的思考排除したり限定的にする方法がある時点で、

思考のもの操作できない、選択できないという認識は誤り。

 

選択をするための思考自然発生しない限り、思考をするという選択をすることができない

否。

思考自然発生するものではない。

思考をする、思考をしないという選択についても先ほど述べたようにあらかじめ自動行動を設定しておけばその場で思考せずとも選択可能

思考は、本能無意識意識>心・思考自我という段階を踏んで発現されるものであり、自然発生するものではない。

本能性的欲求があるからといって路上で人を襲うというわけでもないように、

本能に元づく欲求を最終的にどう行動へと落とし込むかはその人間個人思想思考自我自意識・心・人格に全て委ねられる。

それゆえに成人した人間の行動結果は社会的責任が付きまとう。

同じ食材でも料理の仕方やシェフが違うだけでまるで別の料理になるように、

根源的欲求が同じでも、思考が違えば、食べるもの選択が違い、性的趣味も違い、好き嫌いも違い、一卵性双生児双子でさえ趣味も違ってくる、

例えきっかけが環境世界の気まぐれだったとしてもそれを内在した以上は個性であり自我であり己の判断のもの

 

従って、少なくともなんらかの思考自然発生する必要がある

否。

思考を作るのに必要なのは材料となる意識であり、

どう組み立てるかは自我に委ねられる。

  • 元増田の「ヒュームの哲学」とはあまり関係ない話をしているように見えるけど合ってる?

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