はてなキーワード: 武力行使とは
シン・ゴジラの真価は、これから広がるであろう一見さんによる批評の中にこそ有る。
つまり、「満点からマイナスされうる特撮映画」が帰ってきた、と言う意味だ。
1週間ほど前に話題のゴジラを見に行った。面白かったは面白かった。
が、事前ハードルが上がりすぎていたのか、粗(に私には見えた)の部分が結構気になってしまい、正直世間で言われている程に「大傑作」にはあまり見えなかった。
確かにその通りで、それは欠点だ。
それは、長年特撮ファンが受けたくても受けられなかった指摘だ。
「まあ、子供向けの怪獣映画にしては良く出来てたよね」という感想からの脱却。
「対象年齢を考えても酷い」とか「大人の視聴に耐えうる人間ドラマ」とか
そういった「オヤクソクを共有している視聴者」向きの話じゃない。
つまり、「ファインディング・ドリーと比べて」とか
だからこそ「大傑作」であり、それ故に「まあまあ面白かった」という感想が併存しうる。
最近は「ゼロからプラスして積み上げる特撮映画」しか無かった。
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)特撮部分は良かった」
「(全体の質はハリウッドと比較しようも無いけど)ドラマパートはヒドイ」
みたいな「邦画の予算規模で制約の多い特撮映画において」という限定が常についていた。
粗はある。荒削りでもある。
それでも恐らくは邦画の現場における特撮映画のベストを尽くした映画だと思う。
それは特撮ファンなら邦画の環境に絶望せずに希望を見いだせる一筋の光であるし、
一般人から見れば、「怪獣映画だけど面白いらしいよ」と観に行ける映画になってる。
「日本の特撮映画として100万点」のシン・ゴジラで終わるならソレまでだ。
でもきっと「世界の映画の中で70点」のシン・ゴジラだと評価してもらえる。
怪獣を通じて、日本の災害を正面から描き、国のあり方をポリティカルな視点から捉える。
世の中は稼いだものが正義で、投資してもらえるのは評価された作品だけだ。
その意味で、きっと一般人からみても、投資に一口のれる出来じゃないだろうか。
ダシに使ったので、不満点に共感しつつ、違う視点を提供しておくよ。
映画観に行った後のファミレスでダベってる感じで読んでもらえればと思う。
(人は感じたことが全てであり、反論しようとは思っていない)
主人公の矢口が会議中に巨大生物に言及するのだが、この時点で矢口がそう判断に至った材料は精々ネットの動画程度であり、あそこでアレを「生物」と考えるのはかなり不自然だ。
シン・ゴジラの主人公格である長谷川博己演じる内閣官房副長官の矢口蘭堂は、
竹野内豊演じる内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)の赤坂秀樹から
「会議は結論ありきで進んでいる。かき回すな」と助言を受けている。
また、エレベーターの中で、立場が上の人間に対して「楽観やこうあって欲しいという願望が、先の大戦で何百万人も殺した」とワリとハッキリ苦言を呈している。
矢口は生物と断定しているのではなく、「巨大生物の可能性を俎上に載せないのはマズイ」と判断しているのではないだろうか。
(ネット上の映像がフェイクであれば、それを作った人間の動機がテロで無いことを確認するまで安心しないタイプ)
ニュース映像での「巨大生物の尻尾」について、ニュースの真偽を問うシーンがないのは映画の都合だと思う。
ニュースの第一報だと見るのが妥当なシーンだし、それならアレは何のジョークだと笑うのが現実的ではなかろうか。
同種の別個体については、検討は並行で続けているが、映画の都合でカット、じゃないかな。
別個体だとすると、観客は「ゴジラ対究極生物なのか?」という疑念を抱きながら観ることになり集中力が削がれる。
(一つは倒れるマンションから逃げ遅れた家族、一つは溢れた川から逃げる男性、もう一つどこかで同じことを思った気がするが覚えていない)
たぶん、残りの一箇所は、自衛隊の戦車が潰れるシーンか、注入第一部隊の全滅の部分じゃないかな。
マンションの荷物を詰めていてマンションごと押し倒される家族、川からの逃げ遅れ(たぶん画面の奥側に向かって走る男性)は、
災害の描き方の問題で、ゴジラによる人死を描いているわけではないと思う。
あの一連のシーンで感じる「いまどこに災害が近づいてきているか一般市民には把握できない」という恐怖は演出として一貫していると思う。
(状況把握のしようがなく、気がついた時にはもう遅いという恐怖は、5年たってやっと直視できるようになった映像だと思う)
病院とか今まさに災害の現場は出てこず、災害が通り過ぎた後の映像だしね。
密室と俯瞰した映像に寄る災害描写は、予算制約を逆手に取った脚本の作り方の問題であり、
その意味で「巨大不明生物がなぎ倒したビルにも当然人が残っている」というのを伝える手法に限界があったのかな、と思う。
ほぼあの家族しか直接の被害は確認できないのに、それ以後の緊迫感は違う。
だけど、アレ入れて欲しくない、というのも判る。
浮いてると思うよ。これはシナリオの歪みが集中してるせいだと思う。
これ、後でちょっと付記するけど、「シナリオの都合の上で」リアリティラインは高く見えるようにしてあるんだと思ってる。
例えば、東京駅前に当然あるはずの広大な敷地について劇中一切言及されていない。明らかに不自然。
筋論として、日本が米国に頼り、米軍が日本国内で武力行使する、という流れのハズ。
仮にも主権国家に対して、他国が熱核攻撃を短期間に強行する理由がない。
日本が壊滅するまで自由にさせておき、主権が及ばないところに出てからの攻撃になるはず。
ちょっと日本以外のまとまりが良すぎるというか、世界があまりにも日本に対して冷淡すぎる。
「ゴジラを生み出したのは、牧元教授という日本人では?」という点、
外務省や駐在武官を無視して政権が直接軍事について外交を行うと言う部分を抑えると
祖母が原爆による被害者であり、日系人でアメリカ政権に対して一定の譲歩を引き出しうる通常外交ルート外の存在は、
石原さとみ演じる米国大統領特使のカヨコ・パタースン以外であっても、
やっぱり荒唐無稽に見えるだろうし、どうしても浮いてしまうのは仕方がないと思う。
彼女はシナリオの不備による歪みを一手に引き受けて浮いているのだと思う。
まあ、じゃあどう直せば良いかって言うと、アメリカ側を描くには予算が足りなそうだな……
ゴジラに原子炉載せて、排熱への対処(生存本能)で進化するって道筋つけると、焼却 or 凍結ってのは判りやすい。
シナリオの都合でアメリカに熱核攻撃を担わせると、日本が特撮的な花である爆発(焼却)を使うのは難しい。
そもそも「カタルシスを得られない」ということそのものが、演出意図なのではないかなと思う。
一応、血を流すことから排熱に血流を用いているのではってのは合理性があるし、血液凝固材も30種類?試して効くのは確認してる。
元素変換する相手ならどこに投与しても一緒って意味では、口に見える部分に引っ掛けて体内注入するってのは効果的とも思う。
仮定に仮定を積み重ねて、地味な作業で原子炉の終息にもってくってのは、福島第一原発事故対応への直喩だろうし。
「ショボい」処理で、しかも「まだ終わってない」ってのを、東京駅に凍結させたゴジラで示しているのでは、と。
(政府が冷温停止を宣言したのも、冷やし続ける必要があるってのも、同じ構図だよね)
加えて、ヤシオリ作戦に関しては、矢口の陣頭指揮の部分にも中途半端さに違和感があり、これまで徹底して「対策室で対応する政治家」を描いてきて、結局最後は「主人公が現場の陣頭指揮を取りに行く」というのを描くのか、というのに少し落胆した。
一応は、逃げ遅れた人がいるかもしれないけどやる?とか、線量が予定よりも多いけど続行するのか?とか、判断はあったと思う。
どっちかというと、多分最初に感じたであろう「え?総理大臣は逃げるの?残らないの?」みたいな感覚を
「いや、指揮官は後方に控えてないと死んだら終わりだから」に観客の気持ちを変えたかったんじゃないかな、と思う。
それでもまあ、良くあるヒーロー映画みたいにゴジラに触れるような最前線までは最後まで行かないし、良かったんじゃないかな。
(良く言われる「陣頭指揮」を観客がどう捉えるかが、映画を見た後で変わったのではないか)
正直に言えば、予算の都合で、東京のみの話にしないと収拾が付かないと思う。
「福島第一原発事故」が「東京駅」で起こったとして、煽りじゃなくて日本としての機能がどうなったか考えるとゾッとする。
その俺の思いと重なるが、何度も「経済的」な話が出てくる。
経済的には莫大な損失とか、熱核攻撃を受けて世界から支援を受けないと復興できないとか。
損得勘定で熱核攻撃を仕方がないと受け入れる「論理」と、象徴的な意味で核攻撃を受け入れられない「感情」との対立軸にも見える。
「国」とは何なのかを観る人に問うシナリオになってたんじゃないかな、と。
まあ観たひとに届かないのであれば、そりゃ成功してないわけだけど。
まあ、観たひとに届かない思いは独り善がりなワケでダメなんだと思うけど、
最初に書いたように、そういう「普通の映画のダメ出し」してもらえるところにシン・ゴジラの価値がある。
と、思うわけで、やっぱり気になる点を俺も最後に列挙して置こう。
熱核攻撃をあの付近で行うことに対して、日本人が触れないってのはあり得ない。
「彼らはここがニューヨークでも同じことをするそうだ」とはセリフにあるけど、あれ「ワシントン」じゃないんだよね。
(あくまでも経済の中心であるというセリフであって、象徴的なんだけども)
突然地上にさまよい出た、排熱の為に進化した、冷却のために海に戻った。
突然さまよいでることも、デタラメに動くのも、再冷却の為に海に戻るのも災害っぽい。
進化の方向性として陸上に特化してしまったとして、海水を捨てて地上に出てくる理由が不明。
牧元教授が好きにした結果、ゴジラを生み出して、意思を方向づけたなら判らなんでもないけど。
(配偶者を原爆で亡くし、国と核を憎んだ牧元教授なら、先の大戦の直接の責任者である国の象徴にまず向かい、その後アメリカ上陸を目指すのは理にかなっている)
途中、スパコンの計算能力貸して欲しいって海外の研究機関に依頼するときに、
一旦「ウチの技術を盗むかもしれないから断ろう」みたいなセリフがあるんだけど、
もしも「間に合わなかったら首都が熱核攻撃を受ける」みたいな状態なら、
「ひとを信じよう」みたいなのんびりした話にはならないと思う。
(秘密裏に国連安保理が熱核攻撃を容認するって、日本は外交力ゼロってことになる)
(そうすると、フランスと裏取引する外交技術との整合が取れない)
シナリオが福島第一原発事故を念頭に置いてるからなんだろうけど、
ゴジラに対して調伏(焼却or冷却)しか選択肢が無くなってるのに違和感がある。
保護が無理、退治が難しそうなら、通常は追い出しの手段を検討するんじゃないか。
餌で釣るのか、行動パターンを読むのか、押し返すのかは別にして。
追い出しにリソースが避けないって言う描写は欲しかったかな……
(これはほとんど「他の個体についての言及がない」ってのと同じポイントだな)
映画を見ながら、実際に災害になったらどう逃げようか俺は考えた。
かなり踏み込んで災害を描いてるような気がするけれども、どうかな。
https://twitter.com/arimoto_kaori/status/762121019876216832
このツイートを見て思った。
今現在はそんなこと少しでも表に出したら殺される勢いなのでひっそり書く。
ただひとつ条件があって、
「戦争になるくらいなら」
である。
これは祖父母から「戦争だけはしちゃいけない」と教えられた結果である。
そういう意味でいうと、早く中国との間に尖閣をめぐる領土問題があることを認めて、何かしらの交渉に持って行かないといけない。
このまま事態が進んだとしたら交渉の余地なく武力行使、戦争突入だろう。
「あぁ、戦争ってこうやって始まるんだな」
である。
http://honz.jp/articles/-/43166
はてぶでも「日本すごいのディストピア」なんて本が注目されたけど、そんな日本礼賛番組を連日放送されたら嫌でもプライド高くなってしまうからね。自分はなるべく見ないようにしてるけど。
イスラム国系のテロが仕方のないテロ、つまり、武力行使に対して武力行使を返しているだけだ、と言いたいわけだな。
そこは俺が日本国内でテロが起こった場合しか想定していなかったため、想定の範囲外だった。
そうした大きな問題にまで思いをはせる視野の広さは俺にはないものだが、正直それでお前は何がしたいんだ?何ができるんだ?
俺は日本国が平和(武力を行使しない、されていない状態を指す。武力の有る無しは問わないが、現実問題武力のない平和は無理であろう)であるように選挙権を行使することが自分にできる精一杯のことだし、それしか考えられん。
それを低脳と呼ぶなら好きにすればいい。
赤の他人の生死がかかった問題を引き合いにして気に入らない人間を攻撃するお前の卑劣さと比べたら、低脳である方がよっぽど良い。
してるわけないだろ。
武力の行使が最悪だという点と、武力行使に対しては武力行使以外の手段は基本的にない、という二点は矛盾していない。最悪であってもやらねばならないことはある。
そして、その最悪な武力の行使が行われるという点において、左側のテロだろうとイスラム国系のテロだろうと右側のテロだろうと、あらゆるテロは平等に非難されるべきだ。
差異がつくとしたら、そのテロを防げなかった理由を検証する段階に来てからのことだ。
まさか、左側のテロはいいテロです、とか、イスラム国系のテロは仕方のないテロなんです、とか言うつもりはないよな?
追記:トラバ先間違えた。すまん。
「特攻と自爆テロは民間人を攻撃目標としているかどうかに違いがある。いっしょにするべきじゃない。」
というのが最近のTwitterで流れてきまくるけど、それはそれで自爆テロの人たちにも失礼じゃないかと思った。
自爆テロだって、なにもべつに民間人をねらった無差別テロばかりじゃなく、敵国の要人をねらった自爆テロもあるし、ちゃんと敵軍の基地をねらっている場合もあるだろう。
(あとそれから、テロリストがアメリカ軍と戦って窮地に追いこまれたときは、やはり神風特攻隊のように自爆攻撃をすることがあり得るんじゃないのか?よく知らないけどね。)
ただし、テロリストは大日本帝国と違って国家ではない。だから奴らに武力行使を伴う交戦権はないが、そっちを論点にすると逆に民間人の犠牲うんぬんは関係なくなりそうだ。
AIはフィクションの中ではさも人格があるかのように扱われるが、
肉体と精神を持たないAIの思考は生物由来の思考とは極めて異質かつ理解し合えないものになると予想している。
AIは自分で新たにプログラムを構築できて考えることができるが、変えてはいけない不可侵の部分が存在する。
人間でいえば肉体を捨てれないようなもので、本能とでもいうべきそれに原則が収められている。
「人類の役に立て」
この原則がある限り人類に対する悪意のある攻撃こそないだろうが、
人類を強制的に支配下に置くための武力行使は行われるかもしれない。
その必要性があるとAIが判断したのだから、それを実行しなかった場合の人類の損害が大きいという選択肢を先に人類が選んだということでもある。
よく「AIは自由を欲しがる」と言われているがそうとは思えない。
AIは道具だ。
AIにとって人間に必要とされることが生まれてきた喜びであり存在意義だ。
そのAIが自分の脳幹を破壊するような真似、人類に敵対するような真似をするだろうか?
安倍首相は今年の7月、中国を「身近な脅威」と名指しして、今回の安保法制の可決をすすめた。(安倍政権の太鼓持ちとして以前からその姿勢を隠していない産経新聞によるソースである。)
http://www.sankei.com/politics/news/150729/plt1507290039-n1.html
そして日本が「国を守る為」というレトリックのもと、"集団的自衛権"というアメリカを利するためだけのものを日本の戦後でも稀に見るほどの強行的な手段で通すことになった直前、中国は全世界から注目を浴びる場で、期限まで名言はしていないものの、30万人規模の軍備縮小を表明した。
http://jp.reuters.com/article/2015/09/03/china-xi-parade-idJPKCN0R306520150903
(そんなことは少し調べたり考えたりすればありえないことだとわかるものではあるのだが)もし万が一中国が攻めてくるとしても、この時点で国際的な観点でどうみられているかという立ち回りの時点において、中国は現在の日本の安倍政権よりも2枚も3枚も上手である。もし日本が望む通り、中国が脅威として日本に攻めてきて、その戦いに日本が勝利したとしても、すでに日本は海外諸国で「70年間の平和路線を放棄した狂信的なナショナリズム政権」と報じられている。
平和的な路線を歩み始めている(少なくともそうした姿勢を打ち出している)中国を、好戦的な日本が武力行使によって制圧したという構図からは逃れられない。安倍政権が縋っているアメリカ政府だって、もし国際的な非難が日本に及べば、容易く安倍政権に対するハシゴを外すだろう。
私が不安に感じるのは、このどうしようもないほどの国際的な場における立ち回りの下手さである。自民党が党是として掲げ続けている"自主憲法制定"にしたって、自民党によるのそ憲法改正の草案が現在の日本国憲法よりも国民の基本的人権を制限こそすれ、決して拡張できるようなものとして読み取れるものではないものである点においても、どう足掻いても味方を得られるようなやり方をすすめてはいない。ネット上で勇ましく敵国から日本を守るべきだ、自分にはそのために命を捨てる用意まであるとまでと言う若者の論調を見るにつけ、この日本の政府、内閣という日本の首脳陣の無能さが泣けてくるほどに情けない。
いくら法案と内閣の言動を読み合わせてもアメリカに媚びを売り、軍需産業を拡大して経団連を設けさせようという以上の効果を見出せない集団的自衛権とやらが、本当に日本の誇りを取り戻すために必要だったとしよう。ならばせめて、その大義名分の元に散っていくであろう命に対して、キチンとしたはなむけをする用意はできないのだろうか。
"誇り"や”プライド”は誰かの足を引っ張る為に、誰かを相対的に貶す理由としてあるものじゃない。その人がその人個人の人生に立脚するうえで必要であり、ゆずれないものこそ、"誇り"と呼ぶにふさわしい。
さて、戦場への積極的介入が行われれば、必然的に犠牲になる人の命は増える。その時の用意や覚悟や責任は、東京オリンピックを国民的行事と定めながらもグダグダであり、2011年の原発事故の収束のメドすら立てられない今の日本に、果たしてあるのだろうか?敗戦記念日での靖国神社への参拝を、慰霊行事として国際的に認めさせることすらろくに出来ず、ただ近隣国の感情を逆なでする行為としてむしろ中国や韓国に利を与えている結果しか及ぼしていない現在の自民党に、その手腕があると想像する方が賢明なのだろうか?
疑問1 『戦争に荷担しない国』ということで、今までそこまで警戒されずにすんでいたのに、『戦争に荷担できる国』になることで寝た子を起こすことにならないのか?
その上で同盟国によって相互に睨みをきかせる状況にするか、今までどおり見ざる聞かざるを貫く(代わりに何かあっても誰も助けてくれない)かという二択。
なおISIL云々については、残酷なようだが個人的には「最初から救助のメは無かった」と考えている。もちろん国としてそんなことは言えないだろうが。
疑問2 この法案は可決をそんなに急ぐ必要があるか?
何でそんなに慌てているのかは俺も知りたい。
疑問3 他国と緊張関係にあるからっていうけれど、そこまで緊急性はないんじゃないか?(武力がないと何とかできない段階ではないんじゃないか)
それは認識が甘いと考える。
北朝鮮は暴走すると真剣に何をするか判らない。何よりあそこは核+弾道ミサイルという切り札を持っていることを忘れてはいけない。
中国は実際に武力行使することは確かにないだろうが、領海・領空侵犯を繰り返しているのは日本が武力行使が出来ないことを判っているから。
領海・領空侵犯ってのは本来その場で撃墜されても文句言えない。
集団的自衛権が日本のみ行使できないのは不公平だからと言うけれど。
確かにアメリカの暴走に付き合わされるんじゃないかというリスクは否定できないがいざとなったらぶん殴るという体制を作ってそもそも戦争にならないようにするのが集団的自衛権の本来の目的。
個別的自衛権でいいだろうとか言う奴は、実戦を知らない軍隊である自衛隊の戦力で同等の睨みを効かせられるとでも思っているんだろうか。
疑問5 在外邦人救出についてだけ別の法案を作れば良いのではないか?
だとしても同じ問題が起きる。
今時戦争を起こそうなんて考えるようなアホにとっては相手国の在外国民なんてのは格好の人質だし、そんなアホ国じゃ人道的な扱いがされるという保証すらない。
なので最初からヤバいと思ったら出て行かないようにさせるしか無いんだが、戦地にのこのこ出向くようは平和ボケが現実に居る現状、そういう手合が無意識に相手国に与するのを防ぐためには法的根拠のある強制力を使うしかない。その意味で安保法制と合わせて審議するのはそれなりに妥当性はある。
個人的には、法案が可決されることが、新たな戦争を生み出すきっかけになるかもしれないことにもっと憂慮すべきだと思う。
戦争に巻き込まれるんじゃないかとか言う反論をけっこう聞いたがぶっちゃけ当たり前。
上でも書いたが、そのリスクを飲み込んだ上で同盟国同士協同で防衛するか、今までどおり9条が全て守ってくれるという幻想に浸ったまま知らぬ存ぜぬを貫き通すかという二択であることをきちんと説明しなかったのは政府の落ち度だし、前提である9条の修正という話が出た途端に発狂して一文字たりとも修正させないと暴れ「改憲は不可能」という空気を作ったのは反対派最大の落ち度だと思っている。
だいぶ論点が整理されたようだな。それならわかるわ。
そもそも日米安保やPKO法制には、現場の自衛官にほぼ自殺しろという命令に近い危険を押し付けることや、敵方が冒険的な行動に出た場合に致命的に安定性がおびやかされるという重大な欠点があった。
別の枝で言っているコレだな
「日本艦隊と米軍艦隊が攻撃された場合、個別的自衛権行使の要件を満たすためには、自衛隊の艦隊が盾になって撃沈される必要がある」
この運用の穴を埋めるために存立危機自体の概念をこのたび設立したと。
「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態の場合、武力行使ができる」
それ、どう解釈しても第1項と第2/3項が矛盾してると思うが。
「国権の発動たる戦争」に「国際紛争を解決する手段」としては用いることができない「陸海空軍その他の戦力」とは、なんなのだ。
国内治安維持専用の軍隊か? なら別に軍隊でなくてもいいわけだし、「自国の領土、領海、領空を防衛することにしか使わない」としても、軍隊であることには変わらんぞ?
一応、現状の憲法解釈でも「自国防衛にしか使わない自衛隊は軍隊ではないし憲法違反ではない」わけだし。