はてなキーワード: 森博嗣とは
「ラノベが嫌い!」とか
「ラノベ以下!」とか
ちょっとくくりが大きすぎやしないですかね。
最近の一般書籍で売れてるのは一様にラノベ化してる気がするし、そのくくりじゃなんとも言えない。
まぁ、ただ、無理やり区切った上でなんとなく薄い感想を言うなら、私はラノベが苦手。
何が苦手かっていうと
「会話文が続く」
「おしゃれ感」
あたり。
話は読んだら面白いのかもしれないが、老人にはなかなかつらい。
というわけで
損してる。
まずひとつ言っておきたい。お前らが知らんことだ。知らんかもしれないことだ。
スニーカーのほうは、登場人物やMSのイラスト付きで、そうでないほうにはそれがない。
つまりは、そういうことだ。ラノベだどうだと言っている時点で面倒な奴なのだ。
それでもラノベかそうでないかは、一定数の人間にとっては重要だろう。
だが、考えてもみたまえ。
ジブリ映画を見て、ハヤオ監督だから面白い。そうじゃないから面白くない。
それはあるだろう。
ハヤオでなくても面白ければ、よいだけの話であり、ハヤオが監督しているかどうかは関係ないはずだ。
ただ単に、ハヤオが監督してれば面白い確率が上がるというだけのことではないか?
迷わず読めばいい。
ラノベであれ、なんであれ。
西尾維新であれ、森博嗣であれ、ラノベと言われればそうだし、そうでないといえばそうだ。
所詮、ジャンプっぽい漫画やサンデーっぽい漫画があり、たまにマガジンにサンデーくさい漫画が掲載されているような程度のものだ。
俺ってマガジンしか詠まないから。サンデーとかジャンプとかマジわけわからん。とか言っている奴ってきもくない?
そういうことじゃない?
週刊ジャンプは読まない程度に大人になった人間であれば、ラノベは読まないかもしれない。
でも
ワンピースの続きとかハンターハンターとか楽しみにしてたりしねえか?
ラノベには外れも多いが、当たりは凄いぞ。
漫画読むより有益だ。ブックカバーつけたら通勤電車でも恥じることなく読める。
そういうことだろ?
親は教育熱心なひとで、物心ついたときから近所の公立図書館に連れられて育った。
一方、実質母子家庭のような家庭環境で、そこまで裕福でもなかったうえに、完璧主義者の母親であったので、自分でお小遣いをもらって好きなものを買うという環境でもなかった。
母については、わたしたちのために苦労してきたのだなと申し訳なく思うし他にも色々思うところはあるのだけれども、それは本題ではないのでここには書かない。
とにかく、娯楽のない状況だったので、図書館で本を借りるか、サンテレビの野球中継を見るかくらいしかお金のかからない趣味はなかった。友達に漫画を貸してもらったりもしたけれども。正直、そのことをさして不満にも思わなかった。
(我が家にお小遣い制度というものはなく、欲しいものがあればその都度申告して買ってもらうという方式だった。本だけは何も文句を言われなかった。ありがたいことだと思うけれども、正直この制度は欠点も多いなと思っていて、わたしは今でも本なら自分で選んで買うことができるのに、服を自分で選ぶことができない。いつかお金持ちになったら、ドンキでいいなと思った雑貨を罪悪感を抱くことなく好きなだけ買いたい)
持てる限りの記憶力をハリー・ポッターの登場人物のプロフィールと呪文の暗記に注ぎ込んだ小学時代。はやみねかおるも好きで、小学6年生のとき図書室で『踊る夜光怪人』を見つけて、この世にこんな面白い本があるんだと思った。
中学生のころに森博嗣を好きになり、京極夏彦や西尾維新を夢中になって読んだ。今思えば、お前森博嗣とか大してよくわかりもしないまま読んでただろという感じだし、今でもだいぶわかってないと思うんだけどさ。荻原規子も茅田砂胡も乙一も島田荘司も恩田陸も読んだ。辻村深月が大好きだった。とにかく、中学高校時代と、講談社ノベルスに関わりのありそうな本はたいがい手を出した。近所の公民館でパソコンスペースがあったので、時間があるときにはハリポタやダレン・シャンのイラストや考察サイトをめぐって過ごした。
高校生の頃『活字倶楽部』という雑誌をたまたま見つけ、そこで『銀河英雄伝説』という小説があることを知った。当時は絶版だったので、近所の図書館の地下書庫から出してもらって一気読みした。そのままの勢いで友人に「とにかく、最初の20ページは飛ばしてもいいから読め! 2巻までは読め!」とすすめた。銀英伝が好きすぎて、その夏にすくってきた金魚すくいの金魚たちに提督たちの名前をつけた。
「おかあさん、ヤンが死んでる!」
ちなみに銀英伝ではないが「巽」と名づけた金魚もすぐに死んでしまった。今の実家では、フリッツとオスカーとアーダルベルトだけが生きているんだけれども、どの金魚もそろそろ寿命という感じだ。
進学させてもらって、大学生になってからはもう少し色々読んだ。
際立った傑作というのはない気がするんだけれども、カポーティが一番好きだ(正直『冷血』は好きじゃないしもっと彼らしい作品があるだろうと思う。ちくまから出ている短篇集がいちばん好き)。サリンジャーも好きだし、4月に亡くなってしまったけれどアリステア・マクラウドという作家がもっと知られたら良いのにと思う。
3年ほど前、人生で読める本は限られているなということに気付いて、それからは注意深く本を選ぶことにしている。最近好きなのは皆川博子と津村記久子とコナン・ドイルだけど、だから何だというわけでもない。
そんなわたしも、四捨五入してもう30という年になってしまった。
好みのタイプは?という話題になり「本が好きで穏やかで裏表があんまない誠実なひとがいいな」と答えたら「聖☆おにいさんのブッダでいいんじゃね?」と返され、
「ルーピンは現実にいねーんだよ」と別の友人に説教され、正直今に至るまで毎日小説のことばっかり考えてて自分あたまおかしいんじゃないかなって思う。
これはただの、本を読むくらいしか趣味のなかった女の回想みたいなもので、なんのオチがあるわけでもない。
ただ、わたしは毎日ばかみたいに小説のこと――主に、その登場人物のことばかり考えながら生きている。
腐った妄想をしているわけでもなく、『白鳥異伝』の菅流かっこいいよなあ、とか考えながら生きている。
ハリー・ポッターの本命キャラが殺されたことを未だにねちねち言う。
島田荘司の作風の変化を残念に思い、既刊を全部読むのが勿体無くて法月綸太郎をちびちびと読む。
ちなみに、こんな感じの人間だったので、高校途中まではオタク仲間とつるんでいたんだけれども、一番好きなジャンルが違ったので在学中から疎遠になった。同じように本が好きな友人が1、2人いるので、彼女たちとは今でもよく話す。それは幸福なことだと思う。正直、他にも同じような本の趣味をしている同級生はいたし、当時はよくその話をした。ただ、彼女たちがわたしと同じように、未だに毎日現実かそれより重いレベルで小説の登場人物について考えているとは到底思えないので、積極的に連絡をとろうとは思わないし、話題が切り出せない。自意識過剰なんだろうけど、そんなふうに、未だに地に足を十分つけるわけでもなくふらふらしている自分をときどき怖く思う。
ジャンルを変えればどこにでもごろごろしている話なんだとはわかっている。長い上に固有名詞がだらだら出てきていやみったらしいのはわかっている。
追記:
ブコメありがとうございます。正直コメントがついたとしても「キャラ読みしかしてない腐女子」的なことしか言われないかなと思っていたので、共感してくださる方がいてびっくりしています。本当に、子どもに本ばっかり読ませても、子どもの性格によっちゃ、いつまでもこんな感じで現実に地に足つかない感じになる可能性もあるわけで、何事もほどほどが一番だと思います。黒出目金のジークフリードは早いうちに昇天し、コメットのフリッツは年をとってだいぶ動きが緩慢になってきました。
この世代のオタクの女の子には、アニメではなく講談社ノベルスや電撃、角川某レーベル系の文庫本、その他とにかく面白そうな小説を読んで、感想をお互いに共有しながら育ってきた子がいるのだということを少しでも知っていただけるとうれしいです。ミステリ界隈ではキャラ萌えだろうとよく批判されますが、みんな各々好きな読み方をして、好きな作家の新刊は未だに追いながらも、各々それなりに幅広く読んでいる感じです。今でも。すいませんだらだらと。
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2014/04/23/093914
という文章について。
文章のはじめで「新本格ミステリってなんやねん、というひとを意識してる軽いもの」「ざっくり主観的に書きます」と逃げは打っていますが、単純な事実誤認があるのでコメントします。
この文章では
これらを読むと解るんですが、新本格とは「古典的な本格ミステリのコード(お約束、定番)を意識しながら現代風に書かれたミステリ」を指します。ですから何でもかんでも今のパズラーミステリを「新本格」と呼ぶのは誤用なんですね。
と書いています。
しかし引用している島田の文章は、1995年(ここ重要)に出た『本格ミステリー宣言II』に載っている「新本格の七則」というもの。
また「新本格宣言」と書いているのは、おそらく『本格ミステリー宣言』を指すのだと思いますが、これが出たのは1989年12月。
一方、一般に「新本格」という言葉が使われたのはそれよりも前、1988年に発表された綾辻行人の第2作『水車館の殺人』の帯の言葉
とされます。
とありますが、デビューはそれぞれ、綾辻87年、法月88年、有栖川89年。しかも有栖川有栖は東京創元社からのデビューです(「鮎川哲也と十三の謎」の一冊として)。
また『本格ミステリー宣言』の内容は、新本格の作家からも異議や反発する発言があったように記憶しています。
したがってそもそも島田荘司の言葉を引いて「新本格はこういうもの」と言うのはおかしいわけです。
80年代終わりの状況としては、講談社(おもに講談社ノベルズ)で、綾辻のデビューをきっかけとして本格を書く新人をデビューさせていくという流れがありました(京大勢の場合、書ける人を募ったところ法月と我孫子が手をあげた)。
一方、東京創元社で海外ミステリだけでなく日本人作家も扱うようになり、その手始めに日本探偵小説全集が編まれて(デビュー前の北村薫が実質的な選者、出版は1984年~1996年)、叢書「鮎川哲也と十三の謎」(1988年~1989年)、鮎川哲也賞(1990年~)、『創元推理』(1992年~)という流れがありました。
こうした同時代的な流れに与えられた名称が「新本格ムーブメント」だったので、
『メフィスト』「メフィスト賞」にしても宇山秀雄(宇山日出臣)の立ち上げたもので、少なくとも出発点としては明白に新本格でしょう。京極夏彦、森博嗣、清涼院流水などはデビュー当時はっきりと(良くも悪くも)新本格作家とみなされていましたし。
京極夏彦は、講談社に原稿を送ったのは講談社ノベルズで新本格を読んでいたから、というような発言もしていたはずです。『姑獲鳥の夏』裏表紙の推薦文が綾辻、法月、竹本健治という時点で(※当時(今も?)竹本は新本格に属する作家と見られていた)、自身を新本格作家だと思っていたかどうかはともかく、デビュー初期において新本格の流れにのっていたという認識はあったでしょう。
1サンプルとして。
一応、はじめに俺の読書傾向を書いとく。質問の答だけ知りたいなら読み飛ばして欲しい。
俺はラノベ読み始めた時点でスレイヤーズの本編は完結していたしていたくらいの世代。
はじめは主に富士見ファンタジアで神坂一とか榊一郎とか賀東招二とか鏡貴也とか読んでたけど、
ドラゴンマガジンの判型が変わった頃から電撃に重心が移動した感じ。
この頃から、ラノベ以外の小説もよく読むようになった。並行してメフィスト系とファウスト系も読んでた。
最近の作家はあんまり読んでなくて、アクセル・ワールドあたりがたぶん俺が知ってる一番デビューが最近の作家。
読むけど、基本的にエンタメ小説しか読まない。ジャンル的にはミステリィやSFが多い。
ただ、ラノベ以外と言ってもハヤカワSFや角川文庫、MW文庫の、比較的ラノベに近いところが多い。
野尻抱介や森博嗣や田中芳樹をラノベと主張されると、ほぼラノベしか読んでないかも。
なんというか、「ラノベっぽさ」みたいなあいまいな尺度があって、
「誰がどう見てもラノベ」から「誰がどう見てもラノベじゃない」を両端として、間にグラデーションがある感じ。
そういうのが別にあっても良いと思う。
全部がそういうのになるとジャンルは廃れるんじゃないかなーと余計な心配をしてしまう。
あと、パロディだと気づかずに読んでることもある。読んでおもしろければなんでも良い。
「ミステリィ」「SF」「時代小説」……みたいなジャンルの1つとして「ラノベ」があるわけではないと思う。
ラノベ/ラノベじゃないという分類と、ミステリィ/SF/時代小説/……みたいな分類が別にある。
昔はよく読んでたけど最近はまったく読んでないなあ。
売れ線ラノベは最近よくアニメ化されるから、アニメを見たイメージから、萌え絵+タイトルが無駄に長い、ハーレムものだったり内容が薄いものor適当な設定つけたバトルものばっかりってイメージ(失礼)で食傷気味になっちゃって全然食指が動かないんだ。
ああいう系統でも探せば面白いやつはある&アニメ化されないものの中に面白いものは絶対にあるとは思うんだけど、最近はあまりにも数が多すぎて当たりを探す気も失せる感じ。
秋山瑞人好きなんだけど全然出ないしなー。EGコンバットFinalはよ!
シリーズもので有名どころだとブギーポップから入って、キノの旅、フルメタ、ゼロの使い魔、十二国記、銀英伝、西尾維新はあらかた読んだよ。年がばれそう!
あ、そういえば京極夏彦読んでみようと思って読んでなかった。あれも実質ラノベっぽいらしいから手出してみようかな。
森博嗣も。
ありがと!
勉強会にいきなされ。学生無料でライトなところ。カンファレンスやハッカソンでもよし。
勉強会っていってもガチなところからゆるいものまでいろいろあります。田舎なら少ないかもしれないけど、かえって競争率が低いです。
そして必ず懇親会に出ること。3年だから酒も飲めるだろうし。その場のノリで話を聞いたり質問したりする。人脈も広がるし。
森博嗣先生曰く、「何から手をつけたら良いのかわからない状態とは、なんでも良いから手をつけた方が良い状態のことである」。卒論もまだだろうし、興味重視でいいからいろいろ手を出してみなされ。きっと後悔はしない。うちでヒッキーしてるより全然いいよー。
地域でいうと「よせて」のエリアで育ったが、混ぜてもらう側からは「よせて」よりも「いれて」を使うんじゃないかなと、遠い記憶のこちら側でおもう。
「よせて」は「よしたる/よしたれへん」のように、混ぜてあげる側が言いそう。
欧米では、仲間に入れてほしいとき、ジョインするんです。混ざるんじゃなくて、つながるだけ・・・。このくだりは、あくまでも小説の一部だからフーンとだけ言っておけばいいかもしれないが、多少気にはなる。
*森博嗣/著「すべてがFになる」
学生時代、一緒に切磋琢磨するサークルの友人、先輩後輩はいたが、自分は誰かにとっていなくてはならない存在ではないことに気がついた。
最後の飲み会でも、自分も参加はしていたし、酒を呑み交わして語らいあってもいたが、この場に自分はいなかったとしても同窓や後輩たちは少し心配するだけで、きっと同じように楽しめていたのだろうと、一歩引いて考えてしまった。
逆に自分がいないと盛り上がらないとか、自分がいないことで場が成り立たなくなってしまうほどの存在だったらと考えると、それも迷惑を掛けてしまうので、不要でよかったと思う。
社会人になって、学生時代から付き合っていた彼女と仕事の関係で遠距離になり、段々と付き合う意味が消えていき苦しんでいく彼女を見ているのに耐えられなくなって、仕事を捨てて彼女を取るというドラマのようなかっこいいことも出来ず、別れを切り出した。彼女は彼女を選ばなかったことに対する落胆か、遠距離の孤独に理解を示したことに対する安堵か、どちらが強かったかあるいは等しかったのかは分からないけれど、ごめんなさい、ありがとうと言って別れを受け入れた。
彼女にとってお互いに最も必要な存在にはなれなかったけれど、そうなってくれる別の相手を見つけてくれたら、悔しくはあるが、嬉しくもある。大事な存在には幸せになっていてほしい。自分が幸せにしてあげられなかった代わりに、そう願う。
更に月日は経って、別の相手と付き合うことになり、結婚して子供もできた。この新しい家族のために頑張ろうと思っていたが、ちょっとした不信からお互いを尊重して認め合いながら生活を共にするという環境が保てなくなり、子供の生活を考えて我慢することも考慮したが、笑顔の無い家庭に育つ子供も不幸であろうと思い、離婚に至った。(笑顔を作る仮面夫婦になるという選択肢もあったろうが、僕はそこまで器用でも心が強くもなかった。)
まだ子供も小さいので、もし早いうちに新しい父親が現れて、せめて母子ともに幸せになってくれれば、と思う。これについては、たかだか養育費を払っているだけの分際で父親の役目も果たさず何を偉そうに、と自分でも思っている。ただ、幸せを願っていることだけは言いたかった。
また独り身になり、上記のような経験や責任を抱えながらも、未だに心を許せ合えそうな人と友人になろうとしたり、告白をしてより近い存在になることを試みたりしている。しかしこの歳になると最も心を許せる相手となことは容易いことではなく(既にそのような友人が別にいることが殆ど)、告白も失敗する。そのような失敗の経験、あるいは必要とはされていないと気づく瞬間を経る度に、また必要な存在にはなれなかった、または必要とされる期間が終わった、と周りがすうっと一歩遠くなる感覚に襲われる。
これだけを聞くと必要な存在となるべく十分な努力ができなかった男の言い訳にしか聞こえないかもしれない。ただ、自分が必要ではないことが必ずしも悪いことではなく、例えば自分が離れたサークル・コミュニティで後輩たちがめいめい活躍して盛り上げていたり、自分の部署の部下がすっかり成長して自分が不在でもしっかり仕事を回しているのを見ると、少なくとも自分の働きで組織を壊してはいなかった、迷惑を掛けていなかったと、安心する。
かつて家族を作りかけることができたように、必要とされ合える存在をまたいずれ持つことができたらきっと安心するだろう。
ただ、もしもうそのような機会が得られなかったとしても、今まで接した家族、友人、先輩後輩、同僚や部下、全ての人たちが必要な存在と共にいられて、心の安息を得てくれることを願ってやまない。自分が幸せになれない分、皆が幸せになってくれなければ、自分はただ不幸なだけで救われない。
心の安息は得たいが、他人の幸せを願えなくなるような鈍感にはなりたくない。日々揺れながら生きている。今のところは、とりあえず、いなくてもいい存在である自分自身を、こうして自分なりに受け入れてやりたい。
どうか幸せでいてください。私は幸せではなくとも、あなたは幸せでいてください。
蛇足になることを恐れつつも。
批判や肯定や慰めのコメント、ありがとうございます。どなたかが言われていたように、現実世界で言われたらイラっとする系の吐露だったので増田に書きました。
基本的には前を向いて生きています。必要とされるよう努力をし、いろんな感情だったり困難な仕事だったりと付き合う/乗り越えるために友人/恋人を必要とし、自分なりには助け合って生きています。
友人とバカ話をして笑い合うこともあります。ただたまに、時節と心情の揺れの組み合わせが悪く、かつ自分の(きっと主に自分が傷つかないために)自省する性格も災いしてこの文章のような諦めの気持ちが強くなることがあります。苦しかったので、誰かに何かを言ってもらいたく、書いてしまいました。ですので、これだけコメントがあったことがとても嬉しく、どの種のコメントでも正直に気持ちを伝えてくださっているものはとても心に響きました。ありがとうございます。
もし同じように八方が塞がったような心情の人がいたら、自分にも同じ気持ちはあると、励ましてやりたいと思います。皆さんもぜひそうしてあげてください。
http://yuma-z.com/blog/2013/05/student_books/ という人のエントリを見て、自分も(学生じゃないけど、)読んで楽しかった本をまとめてみたくなった。
この長い本の紹介を読んで、読んでくれる人や、ほかにおもしろい本を紹介してくれる人が続いてくれたら自分はうれしい。まだ微修正中で、加筆・修正するかもです。
これから紹介する本の順序について、あまり意識していないけれど、なんとなく読んでいる人が多そうな順。下に行くにつれて、読んでいる人が少なくなっていくと(書いている自分は)予測してます。
このエントリで紹介するのは以下の本です。つづきは http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で。
宮部みゆきさんの小説。一人の女性が婚約後にいなくなってしまう。主人公はその女性の捜索を頼まれて、懸命に消息を追う。そして、調べていくうちに、現代資本主義社会の底しれぬ闇が見える――。
とても有名な作品で少し前にテレビドラマにもなったようだ。物語の始まりが冬の寒い時期のせいだろうか、自分は冬の時期に読みたくなる。三日間くらいで読了できるとおもしろさが持続すると思う。
読まれる方は、Wikipediaのあらすじにネタバレの要素があるので注意されたい。Amazonの書評にも、ややバレる要素があるかな。この小説についてはあまり詳細について語ると魅力が半減してしまう気がする。読まれる方はできる限り事前の情報収集を避けて読んでください。
1995年にそれまで350年にわたり証明されなかったフェルマー予想が証明された。そのフェルマー予想をテーマにしたノンフィクション。著者はサイモン・シンさん。翻訳は青木薫さん。
著者のサイモン・シンさんはこの後紹介する「ビッグバン宇宙論」においてもそうだが、説明がとても丁寧だ。わからないことを教えてもらおうとして、わかっている人に聞いたときに下手な比喩でたとえられて、全くわからないという経験をした人は自分以外にも大勢いるだろう。サイモン・シンさんの比喩はわからないという気にならない。なぜなのだろうか。
数学をテーマにした本なので、数学が嫌いな人は手に取ることもないかもしれない。しかし、そういう人もぜひ読んでみてほしい。というのも、この本は数学の「問題そのものを解く」ということが主題ではないから。むしろ数学の問題はどのように生まれるのか、それを解こうとして350年にわたり数学者たちがどのような試行錯誤を続けていったのか、そのもがき苦しんだ歴史の本だからだ。
海外の本はしばしば翻訳調とでもいうべきか、文が堅く読みにくい感じがすることもあるけれど、この本はとても翻訳が丁寧で読みやすい。青木薫さんのすばらしい仕事だ。
自分は単行本(ハードカバー)で読んだ。文庫版だと新しい翻訳者のあとがきなどがついているかもしれない。
ジョージ・オーウェルが書いた小説。ユートピア(物質的・精神的に豊かになる、健康で長生きできるといったような人間の社会が幸せで良い方向に向かう社会)小説の反対、ディストピアを描いた小説。
ここまで暗く描かれるとむしろ読む方の気分は明るくなるような、そんな気にすらさせてくれる小説。ただし、それは読後の感想であって、読んでいる最中は暗いままだけれど。
村上春樹さんの1Q84はもしかしたらこの小説に関連があるのかもしれない。今ググったら、どうやらそうらしい。自分は村上さんの方は読んでいないので何も言えません。(すみません)
この小説が書かれた時期も意味があるし、この小説の中で登場するニュースピークという言語体系の設定は、そもそも言葉とは何なのかを考えるきっかけにもなるだろう。
火車と同じくWikipediaはあまり見ないで読み始めた方がよいだろう。
大崎善生さんの小説。純粋な小説というよりも何割かはノンフィクションかな。
自分は将棋のことは駒の動き方くらいしか知らないのだが、羽生善治さんやほかにも何人かくらいは将棋指し(棋士)の名前を知っている。この棋士の方々は、奨励会という将棋のプロを養成する機関の中で勝ち上がってきた人たちだ。勝ち上がってきた人は晴れて棋士になるわけだが、では、「敗れ去った人たち」はどうしているのだろうか。その人たちをテーマに据えた小説だ。
この小説はけっこうずしりとくる。最初に挙げた宮部みゆきさんの「火車」は小説の範疇ということもあるせいか、なんとなく怖さを感じることはあるが、現実的な切実さ、哀しさまでは感じないかもしれない。この「将棋の子」は、何かを一生懸命やってうまくいかなかった人の哀しさがよくわかるし、そういう体験をしてきた人(あるいは今そういう一生懸命何かに取り組んでいる最中の人)にはこたえるものがある。
ファインマンというアメリカの物理学者の自伝的エッセイ集。著者はリチャード P. ファインマンさん。翻訳は大貫昌子さん。この本もすばらしい翻訳だ。
エッセイ集ということもあって、好きなタイトルから読み始めることができる。エッセイ集なんてつまらんだろう、などと思っている人は読んでみてほしい。物理学者とは思えない言動の数々と、物理学者だからこその言動が少々。そして、その間に驚かされるような洞察が垣間見えるのだ。場合によっては論語みたいな読み方もできるかもしれない。
全般に明るく楽しく描かれているけれど、これは意図的なものだろう。第二次世界大戦のロスアラモス時代には、自分の心にとどめるだけの悲しい出来事も数多くあったのではないか、と自分は想像している。
最後の「カーゴ・カルト・サイエンス」の節はできれば最後に読んでほしい。この節だけは特別だ。物理学がわかれば、もっとファインマンさんのことをよく知ることができるのだろう。それができないのは残念だ。
「プー横丁にたった家」は「くまのプーさん」の続編だ。「くまのプーさん」というと、単なるハチミツが大好きな黄色っぽいクマだと自分は思っていた。そうではなかった。
この本は子供向けの童話だと思われるかもしれないが、読んだことのない大人の方も読んでみてほしい。自分も大人になってから読んだ。著者はA.A. Milne。翻訳は(童話のジャンルでは高名な)石井桃子さん。
プーさんはもともと、著者が自分の息子に聞かせるためのお話だったようだ。こんな話を子供時代に聞かせられたらすごいことだ。
ところどころでプーさんが代弁する著者の考え方は、Amazonのレビューにもかかれているけれど中国の思想家のような、どこか超然としたところがある。このクマがほかの動物たち(と一人の子ども)に向かって話しかける姿が良い。それとプーさんと行動をともにするコブタ(ピグレット)が健気だ。自分は大人になってから読んだせいか、出てくる動物たちの役割に目が向いた。すなわち、物語の筋よりもおのおののキャラクターが人間のどういう面を強調したものなのかを考えてしまいがちだった。子供の頃に読んだならば、もっと無邪気な読み方ができただろうと思う。
サイモン・シン氏の2作目の紹介になる。翻訳も前に紹介した「フェルマーの最終定理」と同じ青木薫さん。(本自体は「フェルマーの最終定理」→「暗号解読」→「代替医療のトリック」(共著)→「ビッグバン宇宙論」、で四冊目だ)
大人になるにつれて、子供の頃に「なぜだろう」「どうしてだろう」と単純に不思議に思えたことへの興味がだんだん薄れていくと思う。すくなくとも自分はそうだった。どうして鳥は飛べるのに人間は飛べないのだろう、なんでお風呂に入ると指がフニャフニュになってしまうのだろう、どうしてテレビは音が聞こえたり絵が見えるのだろう、泥だんごはうまく丸くなってかちかちに固くなることもあるけど、そうでないこともあるのはなぜだろう、カブトムシはかっこいいけど、クモはすこし気味が悪いのはなんでだろう…、などなど。
そういう疑問の中で、人間がずっと追いかけて考えてきた疑問の一つが「この人間が生きている空間はどういうものなのか」だろう。その考え方の歴史をまとめたものがこの本だ。この本をひもとくと、この百年の間に予想もし得ないことが次々に見つかったことがわかる。ビッグバンという言葉はほとんどの人が知っていて、宇宙は一つの点から始まったと言うことは知っているだろう。意外に思えるけれど、今から百年もさかのぼれば、ビッグバンという言葉すらなく、そう考えている人も科学の世界において異端扱いされていた。
宇宙論という非常に大きなテーマを扱っているため、「フェルマーの最終定理」よりも分量があって読むのが大変かもしれない。ただ、自分が読んだ単行本(ハードカバー)には各章にまとめがついていて、おおまかな筋はそこを読めば追えるように配慮されていた(これはうれしい配慮だ。)文庫版のタイトルは「宇宙創成」のようだ。
読み終わったら、ぜひ上巻のカバーと下巻のカバーのそれぞれの色に着目してほしい。
今まで見てきた本を読むとわかるかもしれないが、あまり自分は昔の小説を読むことがなかった。一つには風俗や文化が違いすぎて、いまいちぴんとこないからだろうか。そう思って昔の小説を読むことがほとんど無かったけれど、このモンテクリスト伯はおもしろかった。著者は三銃士でおなじみのアレクサンドル・デュマ。翻訳は竹村猛さん。自分は上に挙げた岩波少年文庫版を読んだ。
復讐劇の代表的な作品だそうだ。「それってネタバレでは?」と思う方もいるかもしれない。そうと知っていてもやっぱり楽しい。引き込まれるようなおもしろさがある。
少し前に「レ・ミゼラブル」が映画になって、そちらの原作も良かった。境遇は何となく似ているのだけれど、「レ・ミゼラブル」が愛の物語なのに対して、モンテ・クリスト伯は純粋に復讐劇だ。その痛快さ。モンテ・クリスト伯の超人的な活躍が楽しい。
自分はまだ一回しか読んでいないせいか、下巻の最後の方のあらすじはうろおぼえになってしまった。もう一度読む楽しみが増えた。今度は岩波文庫版で読もうかな。
森博嗣さんの小説。もともと「まどろみ消去」という短篇集の中に「キシマ先生の静かな生活」という短編があって、それを長編ににしたものだ。
(科学系の)研究者の世界とはどういうものなのかを丹念に追った小説であり、若干の事実が含まれているのかな?と思っている。森博嗣さんは某大学の研究者であった(今では退職されたようだ)人で、その知見がなければ書けない小説だろう。
今Amazonのレビューを見たら、「自分には残酷な小説だった」というレビュー内容もあった。自分は、心情、お察しします、という気持ちだ。ただ、主人公は喜嶋先生と出会えたことは僥倖だったに違いない。この小説の中で登場する喜嶋先生の名言は、本家よりもむしろ心に残る。
北村薫さんが選ぶミステリーを中心とした選集。あるテーマを設定して、そのテーマの中で北村さんが編集者と対談形式でさまざまな物語を紹介していく形式だ。テーマは「リドルストーリー」であったり、「中国の故事」であったり、「賭け事」であったりと様々だ。
編集者との対談は実際の編集者ではなくて、北村さんが頭の中で生み出した架空の「編集者」であるけれど、この対談がとても読んでいて楽しい気持ちにさせてくれる。いろいろな本が紹介されて読みたくなる。そういう罪深い(?)本だ。これを元に幾冊か叢書が組まれた。
その叢書の中で、自分が気に入ったのは「私のノアの箱舟」と「なにもない猫」だ。このシリーズはまだ全部読んでない。だから、気に入ったものは変わるかもしれないし、増えていくだろう。
自分は中国の故事や旧仮名遣いの本は読みづらく感じてしまうので、「真田風雲録」は読めないかもしれないなあ。
海外の人を中心にした伝記シリーズ。主に子供を対象としているためだろうか、シリーズ全体として、文は平易で図や写真を多用している。そう書くとありきたりな伝記に思われるかもしれないが、装丁、ページの中の文と写真の配置の良さが際立つ伝記集だと思う。
全体として、割とマイナーな人も取り上げていたりするし、平和に貢献した人たちを取り上げている点も特徴だろう。気になった人がいたら、その人を読んでみてほしい。
星新一は、多くの人がショートショートと呼ばれる一連の作品群で読んだことのある作家だろう。その人の評伝だ。著者は最相葉月さん。
星新一さんはその作品を読むとところどころに冷徹さが垣間見える。その冷徹さがどこから生まれたのかがわかるだろう。もともと幸せな境遇に生まれ育ったが、途中からどうしようもない災厄に見舞われるからだ。それだけが冷徹さの理由ではないだろう、ほかにもこの本を読めば思い当たる点がいくつかある。それらも書くと紹介としてはやや度が過ぎるのでやめておく。
最後の方で著者は有名な芸能人にもインタビューする機会を得て、実際に星新一さんについて尋ねる。そこも印象に残る。その芸能人はちょうど星新一さんの逆の人生をたどるような状況になっている。
自分はこの評伝を読んで、がぜんショートショートに興味を持つようになった。
SF小説はあまり読んだことがないのだけれど、この小説は良かった。著者はケン・グリムウッドさん。翻訳は杉山高之さん。
SFのよくある設定として、「もし過去に帰ることができるとすれば、その人の人生はどう変化するのだろうか」というものがある。その王道設定を利用して、すばらしい小説になっている。
この小説が書かれた時代は1988年なので、やや風俗や文化の描写が21世紀の現代と比べて現実離れしている点があるけれど、それを差し引いてもすばらしい小説だ。
あまりあらすじをかかない方がよいだろう。http://anond.hatelabo.jp/20130530045256 で紹介する「心地よく秘密めいたところ」と全然違う話なのだけれど、自分には似たものを感じる。
この本は近年読んだ中で最も良かった。
自由への長い道は南アフリカ共和国でアパルトヘイト(人種隔離政策)が撤廃されるまで闘った人々のノンフィクションだ。著者はネルソン・マンデラさん。翻訳は東江一紀さん。
アパルトヘイトという言葉とその意味は何となく知っているけれど、それが具体的にどんなものかを説明できる人は日本の中で多くないのではないかと思う。ネルソン・マンデラさんとその仲間たちは、それをなくそうと政治活動を繰り返す。そしてその度に時の政府の激しい妨害に遭い、その結果そういったグループを作ること自体が違法になり、グループの首謀者たちは収監されてしまう。そこからが圧巻だ。
いかにしてそういう逆境の中で自分の政治信条を保ち続けるか。自分たちの仲間を増やして支持を広げていくか。そして時の権力機構に対して、アパルトヘイトの「非道さ」をアピールし、撤廃にこぎつけるか――。
仲間の反乱分子やスパイへの対処、国際社会へのアピールなど、常人には思いもよらない方法でアパルトヘイト撤廃に向け前進してゆく。ところが、前進したと思ったら後退したりすることが何度も繰り返されるのだ。
この本はネルソン・マンデラさんがアパルトヘイト撤廃後の大統領に選出された直後に出版された本なので、結末に近づくにつれてかなり筆が鈍って、慎重な言い回しが増えていく。現在進行形のことを縷々書くと信用問題になるからだろう。それでもこの本は読んでいて楽しい。
この本を読んだ人は「ネルソン・マンデラ 私自身との対話」もぜひ読んでほしい。自分もまだ途中までしか読んでいないが、より素直なネルソン・マンデラさんの言葉と考え方がわかると思う。(「自由への長い道」についての言及もある。)
ほかにも映画「インビクタス」や、「マンデラとデクラーク」など、映像作品もある。後者の「マンデラとデクラーク」は「自由への長い道」と同じテーマだ。ついでに、youtubeにあった国連の広報映像(日本語訳付き)もリンクしておく。
あ、まず前提として、
はたして貴女を幸福にするかどうか、それはまた別問題だけれど。
IT系の超かしこい男なども多く、
したがって、釣り師たる女たちにとっては、
なかなかあなどれない釣り場です。
では、ミステリ大好き男に「どのミステリが好き?」と訊ねられたとき、
あとはホラー、そして(自腹購入するほどではないけれど)SFが大好きな、
貴女は彼の目を見て、微笑みとともに質問など無視して、こう言いましょう、
これこそまさに必殺の答えです。
そこでミステリ大好き男が、えへへ、とやにさがったならば、
貴女は、ひそかに、「謎がゴロゴロのアユカワテツヤ流ミステリィ」あたりを
ひそかに練習しておきましょう。これで成功まちがいなしです。
しかし、ここでは、もう少しハイブロウな(?)いわゆる新本格好きの男の
落とし方をお伝えしましょう。
囁きシリーズも、大好き♪」
もしも貴女がそう答えたならば、
彼の貴女への恋心は、
20%増量になるでしょう。
なぜって、綾辻行人は、
ネタの範囲は狭いながらも、そこがまた
ちょっぴり海外風の気さくなミステリみたいな雰囲気をかもしだしていて。
質高く埋め込んでいて、なおかつ、
法月綸太郎、有栖川有栖、我孫子武丸らを売りこんだ功績もあって。
したがって綾辻行人こそは、
本来なんの接点もないまったく縁もゆかりもない別々の世界に生きている、
岸本セシル似の綺麗系OLと、玉もあれば石も混じっている、そんなミステリ大好き男たちが、
この世界で唯一(いいえ、系列作家法月麟太郎、有栖川有栖、我孫子武丸と並んで唯四)遭遇しうる場所です。
●
では、参考までに、危険な回答を挙げておきましょう。
ミステリ大好き男に「どのミステリが好き?」と訊ねられたとき、
「東野圭吾のミステリが好き♪ 週3回は、新宿駅のカフェで読んでるの。」
しかし、「今回の密室トリックはなんと28種類!」とかなんとか無意味な自慢を吹聴し、
ミステリについての謬見を撒き散らした罪がありますから、ミステリ大好き男にとっては天敵なんです。
また、もしも貴女が「伊坂幸太郎が大好き♪ あたし伊坂幸太郎の本が、部屋に7冊あるよ♪」
と答えたとしても、同様の効果をもたらすでしょう、
なぜって、伊坂幸太郎は、1990年代には日本屈指のミステリ作家だったものの、
しかし2000年代そうそうから、いやはやなんともなミステリ作家に転落し、
いまや、あの内容では、綾辻行人の魅力に遥かに及びません。
注1)尚、僕は東野圭吾作品も伊坂幸太郎作品どちらも嫌いではありません。好きでもないですが。
最高に好きなのは週末♪ ペダントリズムも、物理講義もすっごくおもしろいの。」
と、答えたとしたらどうでしょう?
トリックも最高においしいんですけれど、
しかし、貴女の答えを聞いて、ミステリ大好き男はきっとおもうでしょう、
(なんだよ、お高くとまった女だな、奇書ネタで終わりそう)って。
たとえば、葉桜の季節に君を想うということならば安心でしょう、
なぜならば、葉桜の季節に君を想うということは、ふつうのOLにもマニアにもともに愛されるめずらしい作品で、
貴女がその名前を挙げても必ずしも、あなたがミスおた宣言をしているとは受け取られないでしょう。
しかし、たとえば、日本が誇る超絶薀蓄満載小説、京極夏彦の百鬼夜行シリーズにせよ、
哲学書テイストでありながらすばらしく完成されている笠井潔の矢吹駆シリーズにせよ、
常に読者に挑戦し続ける麻耶雄嵩作品にせよ、
SFとミステリを融合させ続け、高知を愛しつづけて西澤保彦にせよ、
そういうミステリ作家の名前をいきなり挙げるのは、ちょっぴり微妙。
ましてや貴女が、「森博嗣のシリーズが大好き♪ わたし、もうほとんど全種類、読んじゃった♪」
と答えたならば、どうでしょう?
これはかなり博打な答え方で、
なるほど、森博嗣は、理系ミステリというジャンルを生み出した程の超絶名作家ゆえ、
あなたがそう答えた瞬間、ミステリ大好き男がいきなり超笑顔になって、
しかし、逆に、(なんだよ、この女、森おたくかよ)とおもわれて、どん引きされる可能性もまた大です、
なぜって、必ずしもミステリ大好き男がミステリ大好き女を好きになるとは、限らないですから。
男たちは、女を導き高みへ引き上げてあげることが大好きゆえ、
もしも貴女が、「森博嗣の文体が大好き♪」なんて言ってしまうと、
そこにはもはや、男が貴女をミステリ教育する余地がまったく残されていません、
したがって貴女のその答えは、
ミステリ大好き男の貴女への夢を潰してしまうことに他なりません。
ま、ざっとそんな感じです、貴女の目には男たちはバカでスケベで鈍感に見えるでしょうが、
しかし、ああ見せて、男は男で繊細で、傷つきやすく、女に夢を持っています、
貴女の答え方ひとつで、男の貴女への夢は大きくふくらみもすれば、
一瞬で、しぼんでしまいもするでしょう。
●
では、スキットを繰り返しましょう。
囁きシリーズも、大好き♪」
そして、その瞬間、ミステリ大好き男の目がらんらんと輝いたなら、
貴女はこう重ねましょう、
「それからね、いま、わたしが読んでみたい作品は、
あなたのお暇なときがあったら、わたしを外場村へ連れてって♪」
これでもう完璧です。
そうなったらこっちのもの、
デートの日には、アイメイクをばっちり決めて、かわいい下着をつけて、
インド料理大好き男に「どこの店が好き?」と訊ねられたとき、女はどう答えたらいいの?
http://tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13002457/dtlrvwlst/3464106/
演繹的に定義できなければ定義ではない、というのであれば、そもそもそんな定義は必要とされてないと思うぞ、でQED。
ところで http://anond.hatelabo.jp/20130207150827
1冊はアニメタイアップの限定カバーで、いわゆる「萌え絵」が書いてある。
中身は一緒だが、売り方は異なっている。
僕の定義では、前者はラノベ寄りミステリ(ライトミステリ)で、後者はラノベとなる。
べつにそれでいいじゃないか。しょせん「ラノベ」だって「ミステリ」だって「SF」だって人が他の人と話すために便宜的につけたラベルに過ぎない。個人的には、「SFは人間に対する絶望であり、ファンタジーは人間に対する希望である」という定義を採用してるが、この定義が普遍的なものだとは思ってないし、他人に強要する気もないし。
そして、森博嗣は主観的にはラノベ以外の何ものでもない。これは作品だけじゃなく、彼の書く姿勢(「書きたいものじゃなく、売れるはずのものを分析して売れるように書く」)からもそう判断している。
個人的にはこの春・夏は以下のアニメがおもしろかったな。趣味が同じ人、期待できる秋アニメ教えてください。
14話あたりまで何の話だか知らずにスルーしてた。途中から見はじめたが、群像劇の触れ込み通り、いろいろな(まぁ、カリカチュアされているとはいえ)青春の思惑のすれ違いが何とも言えず心地良い。また、絵作りもさすが京アニと唸らせる。しかしまぁ、あれは原作も良かったではないかと、原作にポロロッカして思った。人が死なないミステリ、っていう領域は面白く作るのは難しいと思うのだけど、原作はそのへんも含めて大変自分の趣味に合う。例えば森博嗣なんかも好きなんだけど、簡単に人が死んでる割に、それをあたかも「単なる文章問題」であるかのように扱うミステリの雰囲気には違和感を感じるのだよな。
原作を平行して読みながら、「心あたりのある者は」の絵作りに唸り、最終話が「遠回りする雛」になったときは正直たまらん気分になった。でも、一番好きな作品は「二人の距離の概算」だったりする。
これも青春群像劇モノ。すみません男子校育ちだったので、こういうものに免疫がありません…。特にヒトランダム編は、「プロ声優ってすげぇ」と思わせてくれる構成がたまらんかった。後で、音響監督がチャック亀山と知って二度びっくり。いや絶望先生の隠れた逸品ぶりはチャック亀山先生の声優さばきにあったと思うのですが、うーん、さすがです。また、沢城みゆきの演技が物語を支えてると思う。ただ、全体のストーリーの方は、氷菓の方が好み。
こちらは原作から入りました。これをSFと呼べるかどうかは自分の中で結論が出ていないのですが、独特の雰囲気の原作を上手にまとめている。しかし、話の順序がぐちゃぐちゃなわりに原作通りなので、原作を知らない人は混乱したのではないだろうか。一話に内容を詰め過ぎてたので、もうちょっとスケジュールに余裕を持たせて、二期に分けてやってくれてもよかったのになぁ、というのが正直な感想。でも学校編をやってくれたので満足です。Yの腐った所がたまらん … これも沢城みゆきか。
OPもEDも作風と合ってる上に中毒性があってヤバい。エンディングはCD買った。
原作を雑誌で読んでるので新鮮味はないが、これも楽しみで見てはいる。
アポ役と「せりか」さんがちょっと出てくる回で、沢城みゆきが「アポ」でクレジットされていて激しくずっこけた。ココロコネクトと同時に日曜午前に見ることが多いので、落差が激しい。
初代OP(ユニコーン)のほうが今のOPより好きだったのだけど、わりとさっくり変更されてしまった。
世界観を理解していないのだけど、のっけからの鬱展開に引き込まれた。これ2クール作品なの? 今後も期待。
原作の噂は聞いていたが、R18と聞いて手を出してなかった。PS3に全年齢版で出るなら手を出してみるか。
まあ、これは順当な出来。菌どもが動いてるだけで8割勝利、というある意味ズルい作品 (もちろん他のスタッフ・役者さんも良い仕事してます)。
EDが耳に残る。
久米田先生大好きです。Bパートの私服パートがなんだかほっこりする。あと、地味にオチを掘り下げてるのが良い。
これもEDが耳に残る。ももクロは(モーパイの時の仕事がなんか雑だったので)好きになれなかったが、こういう曲であればマッチしてるね。
花をきれいだと思わない子どもたち
http://anond.hatelabo.jp/20110711193536
を読んで森博嗣のこれをおもいだした。
絵を描くことが好きで、自分一人で絵を描いて、誰にも見せない、ということが子供のときからよくあった。人に見せないのは、その絵が上手に描けたかどうかは、自分で判断ができたからだ。逆に、大人に見せても、ちゃんとした評価をしてくれない、という思いが強かった。小学校の低学年のときには、既にそうだった。たまに、ここが良い、ここが悪いとずばり的を射る指摘をしてくれる大人がいて、「あ、凄いな」とこちらが大人を評価する、という立場なのだ。思い上がった子供である。
しかし、ちゃんと見てくれる大人は、例外なく自分でも絵を描ける人だった。プロの絵描きのような人も多かった。小学校の担任は、国語も算数も教えてくれる先生で、でも絵を見てくれる先生ではない、ということは理解できた。どこにでもあるような、こじんまりまとまった、全然つまらない絵を褒めるのだ。無難な配色で、楽しそうにしている人たちを描いた絵だけが褒められる。明らかに大人が描いてほしい絵であって、子供にしか描けない絵ではない。それは作文でも同じだったし、音楽でも同じだった、と思う。たとえば、小学生がむちゃくちゃなパンクを歌っても、褒めてもらえないのである。
大人は、空が綺麗だ、森林が美しい、花が可愛い、といった既成の平凡な価値観を子供に押しつける。子供たちは、大人に認められたい、親に褒められたい、良い子になりたい、という一心で、持っていた個性と感性を捨てていく。
動物を見たら怖いと感じる。臭いと思う。それが自然である。「ほら、可愛いね」という大人のなにげない一言、その押しつけの繰り返しが、芸術家を少数にしているのではないか。
元増田は無関心の話をしていて、森博嗣は価値観の押し付けの話をしているので、別に意味はないです。思い出しただけ。
ただ、「評価する側」のついて最初にきちんと言及しているところが、この文章のすごいなぁと思うところ。
http://anond.hatelabo.jp/20090503233005
これは二次裏でもimg鯖でまとめられたオススメ本一覧2008年度バージョンだったらしい。
元は「中高生のため」と限定したわけじゃなく単純に他の人に薦めたいというものだとか。
1年毎にまとめられているようで、これの2007年度バージョンを見つけたので貼ってみる。
4 シラノ・ド・ベルジュラック エドモン・ロスタン
9 風が吹くとき レイモンド・ブリッグズ
10 黄金の法 大川隆法
15 パンセ パスカル
20 シブミ トレヴァニアン
22 もの食う人びと 辺見庸
26 愛に時間を ロバート・A・ハインライン
30 マルドゥック・スクランブル 冲方丁
32 薬菜飯店 筒井康隆
34 変身 カフカ
35 チリの地震―クライスト短篇集 ハインリヒ・フォン・クライスト
40 恋のかけひき他11篇 マルキ・ド・サド
44 ロリータ ウラジーミル・ナボコフ
47 最悪 奥田英朗
50 泥流地帯 三浦綾子
57 魂の駆動体 神林長平
60 エルマーとりゅう-Elmer and the Dragon ルース・スタイルス・ガネット
65 一万一千本の鞭 ギヨーム・アポリネール
66 暗闇のスキャナー フィリップ・K・ディック
67 夏草冬涛 井上靖
68 家守奇譚 梨木香歩
72 アリス―Alice in the right hemisphere 中井拓志
74 かめくん 北野勇作
76 てのひらの闇 藤原伊織
77 極大射程 スティーヴン・ハンター
78 初秋 ロバート・B・パーカー
84 インスマス年代記 スティーヴァン・ジョーンズ
85 鬼麿斬人剣 隆慶一郎
90 サムライ・レンズマン 古橋秀之
92 死者の代弁者 オースン・スコット・カード
95 ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち リチャード・アダムズ
98 されど罪人は竜と踊る 浅井ラボ
これから書くことは、あまりにもシンプルで、誰かがもうすでに書いてるんじゃないかと思う。
けど、今朝こんなの(※1)がホッテントリ入りしてるのを見て、なんでこんな誰も使えないようなくだらないテクニックがもてはやされるんだろうと疑問に思ったことだし、一つ書いてみることにした。
これ一つだけだ。
あらゆる文章について、この「繰り返しを避ける」という言説を当てはめて、文章をより良いものにすることが出来る。それは何も難しい事じゃないし、誰でも、今からすぐにできることだと思う。
ひとつの文の中で同じ言葉を何度も使わないことはもちろんだが、もう少しこの法則について吟味してみよう。
まず、へたくそな文章を書く人の大半は、
なのである。よく見かける、「~だ。~だ。」の一本調子では、読んでいる方が疲れる。もちろん、新聞のように厳しく字数制限がある場合は節約の必要もあるだろうが、特に字数を気にしない場合、「~だ。」をアレンジし、「~であった」「~なのだ」などといろいろ使い分けることで、簡単に同じ言葉の反復を抜け出すことができる。もちろん、慣れてきたら、体言止めや時制などにも気を遣ってアレンジしていくと良い(※2)。
次に、へたくそな文章の特徴として、
ということも挙げられよう。
森博嗣大先生なんかこれがひどくて、いま手元にあった「カクレカラクリ」をひもといてみると、
「○○○○」○○は言った。
「○○○○」○○は言った。
「○○」
「○○○○」○○は叫んだ。
とこんな表現がいくらでも出てくる。いくら量産が必要な人気作家でも、これはひどすぎやしないだろうか? 異常ですらあると思う。いくらストーリーが良くてもこれでは興ざめだ。だから、短い文はできるだけ目立たないように、それでいて、自分の主張を特に強めたいときだけに使うとよい。基本的に短い文は強い印象を与え、なおかつ文中でよく目立ち、一方で長い文はその内容の印象を薄める効果があるからだ。それゆえ、長い文を書いた上で、短い文でダメ押しすると強い。Yes, we can.
あとそれから、
のが吉だ。とくに故事成語はヤバイ。こういう言葉は、日本人なら何度も何度も小さい頃から聞かされているから、たとえその文章全体の中で初めて使われたとしても、一気になんか古くさい、繰り返しがまた来たという印象を与えてしまう。これも「繰り返しを避ける」原則の発展としてとらえることができるだろう。
まあ考察は面倒だしそれくらいにしておいて、あとはTips的なものとか、個人的好みの話とか。
ことも大事だよ、ってことを忘れないで欲しい。読点はダテについているものじゃないのだ。本田勝一が「日本語の作文技術」で読点の付け方について、章を一個割いてクドクド説いているのも、当たり前のことだが、理由がなくてやっているわけではない。へたくそな人は、読点をどこに入れるかを全く意識しないから、結果として文章は読みづらく、陳腐に見えてしまう。
ってのもやっぱり大事だ。頭の中で良い。実際に読むスピードで、自分の書いた文章をもう一度読み直すこと。向田邦子は自分の小説だか台本だかを執筆しながら朗読して、それをテープに残していたらしい。そこまでする必要はないと思うけれど、そういう姿勢が大事なのは確かだ。音読してひっかかるような文章を書いているのはよろしくない。
さらに主張しておきたいのは、
ということだ。よく「自分の言葉で書きましょう」なんて事をいけしゃあしゃあと抜かすヤツがいるが、自分の言葉なんて、そんなもの元からありはしない。どんな大作家だって、誰かに影響されて、それが少なからず現れながら文章を書いている。「作文は借文」、この原理原則を忘れずに、出来るだけ素直に、努めてわかりやすく、相手に「自分の心のイメージを、相手のわかる形で伝える」こと。オリジナリティなんて言葉にだまされて変な表現を使ったら一気に興が冷めてしまう。ましてや自分が「これは名文が書けたぜウッシッシ」と考えたりしたことがあるなら、猛省して欲しい。もちろんこれは自戒も込めて。オナニーした後の紙は、ゴミ箱へ捨てるのが常道だ。こびりついた精液を他人様に見せてはいけない。何も、肩を張らなくてもいいのだ。あなたが語った時点で、その言葉は「あなたのもの」なのだから。
最終的に、
ということも忘れないでおくと、相手に自分の心が伝わる、良い文章が書けることだろう。いつでも文章は「書き飛ばせる」ようなものではなくて、努力と苦悩の果てに成り立っている。良い文章が書けなくて苦しんでいるのはあなただけではないし、苦しまなくなったときが、まさに文章を書く人間としての終わりなのだ。どうやったら自分のイメージを、誤解なく、ありのまま伝えることが出来るだろうか? そのひたすらの煩悶が、文章を成長させてくれる。だから、へたくそでも、伝えようという意志を必死で込めることで、相手にその熱意は伝わることだろう(もちろんその熱意を期待してはいけない! 文章を書くことは常に「伝わらない」恐怖との戦いだ)。
(そういえば、読点が多いという指摘があったが、全くその通りだと思う。どうも自分は読点が好きすぎる)
※1:http://www.lifehacker.jp/2009/10/091005writingtips5.html
※2:ただし、よくちまたで言われているように、体言止めはなるべく避けた方がよいのは確かで、その理由は、強く言い切る形になり、語調に与える影響が大きいからだ。従って、原則として使わないという指針は間違ってはいない。間違ってはいないが、体言止めという手法がなぜ存在しているかと言うことも考えると、どうしても必要と信念が訴えるならば使うことになるだろう。もちろんそうやって、みんな失敗するのだ。
その技術はどの程度進みが早いのか?
薬学とか遺伝子には人脈とか経済力とかでチームを作らないと最先端には食い込めない。
今はだれかの庇護の元でしょ?だれかの力を借りてるんでしょ?
博士になって、それ以上になって、自分がチームリーダーになって、あれこれ偉そうに部下の男性に指図できる性格ならいい。
公務員もそういう意味でアドバイスを請われてえらそうにあれこれいってるだけじゃない。
自分であっちからこれを吐き出させ、こっちからアレを吐き出させにかけまわることになるよ。
ジェネラリストじゃなくてスペシャリストなんだっていう言い訳は、
けっこう面の皮をためてから初めて言える。
森博嗣でさえ、あれだけ苦労している。