はてなキーワード: 昭和50年とは
初代ライダーやV3、X、ウルトラマン、セブン、タロウなどは見た記憶があるし、友人との話題にも上がっていた。
この増田自身も雑な先入観が多くて、批判してる「特撮嫌い」と同じことをしてると思う。
庵野だってすべての「和製特撮」を手放しで褒めてるわけじゃないでしょ。むしろ偏ってると思う。
ただ、俺自身もそこまで詳しいわけではないので、あまり増田を批判できないが。
シリーズで言えばウルトラマンは海外での「USA」や「グレート」があったりして、見てはいなくとも話題には上がってブランドを延命していたし、辛うじて「ウルトラマンキッズ」とか「パワード」があって、「ティガ」に繋いでいた。
ソフビを集めてる子とかはそういうのすごい詳しくて、「USAみてー!」とか話してた記憶がある。
玩具とかアニメとか海外展開、あと「ヒーロー戦記」とかのゲームも結構キモだったと思う。
※「パワード」に関しては、庵野と仲いい樋口真嗣(ガメラの特撮)が関わってたんだけど、まあ本人たちがネタにするような出来だったりする。
映画で言えば平成ゴジラなんかはあれでもみんな割と楽しんでてメカキングギドラとかデストロイヤかっこええーってなってたし、忘れてはならない「平成ガメラ」も登場してる。
ただまあ石森系は「真 仮面ライダー」とか「ZO」とかあとなんか「ハカイダー」とか、ビジュアルグロめだったり「大人に向けた内輪向け」感が強い作品だったのが、なんだかなあ感はあった。
でも子供向け漫画雑誌で仮面ライダーのシリーズがあったり、やはり漫画・アニメの役割は大きい。
「ポワトリン」とかもあったな。
そんな中でも一番偉かったのは東映スーパー戦隊とメタルヒーローか。
「女リーダー」「全編ギャグ」といったエポックな「カクレンジャー」や「カーレンジャー」は94年、96年に登場してる。
「特撮」の本道とは少し違うかもしれないが、でもまあ本当に東映はよくやってたよ。
ここからはさらに個人的な偏見だが、昭和50年代かそれ以前の人の方が「本物の特撮」をリアルタイムで体験してる分、その後の特撮(平成ガメラ以外)にケチをつけてる印象がある。
ただこれも仕方ないというか、少年時代に「本物」を見た後には「劣化コピー」が続き、さらには「海外の本物」を同時に見てるんだもんな。
映像的にも「アビス」86年、「ターミネーター2」91年、「ジュラシックパーク」が93年。
「ジュラシックパーク」を見た前後に、じゃあ日本はどうなのかっていえば「REX 恐竜物語」とか「水の旅人 侍KIDS」とか「北京原人 Who are you?」なんだぜ・・・そりゃキツイよ。
で、まあ80~90年代と世の中全体の物差しが「世界基準」になってる中、その世界の映画監督が影響を受けたと公言してて、世界で戦えてたのが「漫画・アニメ」なわけで。
「青少年時代」にそんな体験をすりゃあ「漫画・アニメすごい」ってなるのも当然の成り行きよ。
繰り返すが、「ジュラシックパーク」のあとに「REX 恐竜物語」を見せられる気持ち、想像してみてくれよ・・・
というわけで昭和50年代生まれが自分のiTunes再生数トップ50を書きだしてみたぞ。
・国会議事録( https://kokkai.ndl.go.jp/#/ )から「丁寧に説明」「丁寧な説明」を検索し結果を取得、合算
・発言総数は、5509回
岸田文雄 108
石井啓一 60
西村康稔 55
麻生太郎 52
中谷元 50
菅義偉 49
茂木敏充 42
塩崎恭久 39
岩屋毅 37
吉川貴盛 35
望月義夫 35
野田佳彦 34
林芳正 32
梶山弘志 25
野上浩太郎 25
下村博文 25
■年別推移
令和3年 350
令和2年 391
令和元年 463 (平成31年を含む)
平成30年 621
平成29年 497
平成27年 569
平成26年 446
平成24年 188
平成23年 185
平成22年 93
平成21年 76
平成20年 77
平成19年 64
平成18年 102
平成17年 83
平成16年 53
平成15年 39
平成14年 43
平成13年 26
平成11年 43
平成9年 16
平成7年 9
平成6年 6
平成5年 13
平成4年 8
平成3年 14
平成元年 8
昭和63年 5
昭和62年 5
昭和61年 3
昭和59年 3
昭和58年 2
昭和57年 6
昭和56年 4
昭和55年 7
昭和54年 5
昭和53年 5
昭和52年 3
昭和51年 7
昭和50年 3
昭和49年 2
昭和48年 4
昭和47年 1
昭和46年 2
昭和45年 4
昭和44年 5
昭和43年 7
昭和42年 8
昭和41年 4
昭和40年 4
昭和39年 3
昭和38年 4
昭和37年 5
昭和36年 6
昭和35年 2
昭和34年 5
昭和33年 7
昭和32年 6
昭和31年 4
昭和29年 8
昭和28年 8
昭和27年 5
昭和26年 7
昭和25年 8
昭和24年 4
昭和23年 6
【存続の危機】浅草の商店街は「不法占拠」、台東区が立ち退きを要求https://t.co/V2CN17rect
浅草寺南に連なる32の商店に「公道上に許可なく店を建てて営業している」と立ち退きを要求。店主らは区の許可はあると解釈し、土地代や賃料は支払っていないという。 pic.twitter.com/JuqJ6sYxL3— ライブドアニュース (@livedoornews) June 7, 2021
歴代区長 台東区ホームページ(https://www.city.taito.lg.jp/kusei/shokai/abouttaito/profile/rekidai_kutyo.html)によると、
「およそ40年前。当時の区長」
と言うと
内山 榮一(昭和50年4月27日就任~平成3年4月26日退任)
既に他界されている方なので、直接本人に当時の模様を確認することは出来ないけど、商店街側にも当時を知る方だったりメモなどの資料は残っていない?
しかも、「土地代・賃料なども支払っていない」事を不自然に思わずに営業を続けてきた店舗側もドヤ顔で交渉できるものでは無いのでは??
どこを落し所にして決着するのやら…
冬は余裕で積雪が2m越える所だとだけ。大体幼少時代が平成入ったばっかで、中学の時に引っ越した。ぶっちゃけ今もそうな所は結構あると思う。
山(集落)から下りないとスーパーが無い(車で約15分)。コンビニも無い。個人商店は一件ある。唯一の店でよく駄菓子を買ってもらっていた。電車の駅までは車で30分。なので電車に乗る=遠出!というイメージが今もある。ついでにスーパーよりコメリの方が近い。
小学校は複数の学年が一つの教室で授業を受けていた(近辺4つの集落が学区の小学校だったが、全校人数は普通の学校の1クラス分にも満たない)。そして自分の卒業と共に閉校した。中学校へはあまりに遠くてスクールバス通いだった。
また小学校では裏の畑で野菜を育てていたのだが、うまく育たない時は「野菜名人=家の祖父祖母に聞こう!」と言われた。駐在所の子以外の家は全て田んぼや畑を持っていた。習い事するにも町(中心部)の方へ車で行く必要があるため、親に送迎の余裕のなかった自分は良くも悪くも習い事とは無縁だった。
家は薪ストーブがあり、水は井戸水で、便所はくみ取り式だった。豪雪地特有の点として二階にも出入り口があった(自分が生まれて以降にこの出入り口が使われた記憶はないが)。あとほとんどの家に鍵が無い。
秋の稲刈り後、あちこちで籾殻を燻して肥料を作っている。すごく煙い。
冬の除雪車が走る所以外の小さな道は、集落の人でローテーションを組んでかんじきで踏み固めて作っていた。そうしないとまず家から出られない。親が言うには冬でも車で町へ行けるようになったのは昭和50年代らしい。
近所に同じ名字の人がかなりいるのもあってか、基本的に集落の人の事は屋号で言う。個人的に正直覚えるのがめんどい。しかし野菜のおすそ分けなどのために覚える必要はかなりある。特にタケノコは伸びまくると大変なのもあってかめっちゃおすそ分けされてて、未だにほぼタダで手に入るイメージがある。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 105 | 12764 | 121.6 | 36 |
01 | 132 | 10842 | 82.1 | 45 |
02 | 68 | 5297 | 77.9 | 44.5 |
03 | 18 | 1286 | 71.4 | 46.5 |
04 | 16 | 1234 | 77.1 | 52 |
05 | 1 | 193 | 193.0 | 193 |
06 | 11 | 673 | 61.2 | 30 |
07 | 71 | 5978 | 84.2 | 44 |
08 | 82 | 5024 | 61.3 | 34.5 |
09 | 73 | 8043 | 110.2 | 53 |
10 | 73 | 9208 | 126.1 | 51 |
11 | 114 | 12296 | 107.9 | 43 |
12 | 184 | 13673 | 74.3 | 40 |
13 | 146 | 10566 | 72.4 | 40 |
14 | 157 | 19427 | 123.7 | 49 |
15 | 146 | 10936 | 74.9 | 41 |
16 | 226 | 16528 | 73.1 | 47 |
17 | 211 | 13185 | 62.5 | 40 |
18 | 173 | 12399 | 71.7 | 33 |
19 | 203 | 18211 | 89.7 | 35 |
20 | 157 | 21094 | 134.4 | 36 |
21 | 160 | 15289 | 95.6 | 45.5 |
22 | 210 | 22947 | 109.3 | 43.5 |
23 | 177 | 20322 | 114.8 | 50 |
1日 | 2914 | 267415 | 91.8 | 41 |
吾妻橋(9), 吾妻(15), 百万遍(5), 塩顔(9), 郷土史(3), Karen(3), 6500人(4), 審美(4), 🙈(6), トレンチコート(4), ハコモノ(3), 美術館(18), ハンコ(20), GoTo(26), 田舎者(11), 図書館(23), 美術(11), GOTO(10), 核(10), 展示(9), 味付け(7), 猿(16), 濃い(10), ロックダウン(12), 告白(18), センター(11), かえって(7), 断る(7), 連休(7), 属性(21), 欧米(16), コーヒー(13), 風邪(22), 解消(16), 政策(15), パン(13), ホームレス(12), 地元(18), 施設(14)
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昭和50年ごろにはオート三輪はほぼ見かけなくなってたと思うけど、地域によっては少しは残ってたかもね。(まあ、今でも完全に無くなってしまったわけでもないだろうし)
関係ないけど、90年代にイギリスに留学したら、なんとまだオート三輪が走ってたよ! 時々見かけたので、まだあちこちで使われていたんだと思う。
時間 | 記事数 | 文字数 | 文字数平均 | 文字数中央値 |
---|---|---|---|---|
00 | 116 | 12433 | 107.2 | 34 |
01 | 81 | 6802 | 84.0 | 49 |
02 | 38 | 5637 | 148.3 | 55 |
03 | 33 | 2166 | 65.6 | 35 |
04 | 18 | 1090 | 60.6 | 37 |
05 | 36 | 3610 | 100.3 | 36.5 |
06 | 61 | 3782 | 62.0 | 32 |
07 | 50 | 6531 | 130.6 | 41.5 |
08 | 99 | 11212 | 113.3 | 47 |
09 | 141 | 11023 | 78.2 | 41 |
10 | 123 | 12744 | 103.6 | 51 |
11 | 133 | 8549 | 64.3 | 37 |
12 | 187 | 15377 | 82.2 | 33 |
13 | 92 | 9757 | 106.1 | 34.5 |
14 | 112 | 6894 | 61.6 | 30 |
15 | 132 | 17050 | 129.2 | 41 |
16 | 85 | 7642 | 89.9 | 43 |
17 | 110 | 6969 | 63.4 | 38.5 |
18 | 91 | 8689 | 95.5 | 38 |
19 | 138 | 15990 | 115.9 | 37 |
20 | 170 | 10280 | 60.5 | 33 |
21 | 196 | 18533 | 94.6 | 28 |
22 | 210 | 13966 | 66.5 | 27.5 |
23 | 157 | 16708 | 106.4 | 34 |
1日 | 2609 | 233434 | 89.5 | 35 |
横槍メンゴ(7), おめが(7), 直道(4), アッパラパー(5), 柳美里(4), 石板(4), 6500人(3), 膣内射精障害(4), 昭和50年(6), メモリ管理(4), メンクリ(3), GoTo(20), 姓(13), vtuber(9), 豆(7), 無縁(7), GOTO(7), 本業(6), 総意(5), 劣等感(6), エクセル(5), オマエ(11), バー(9), カラオケ(8), 物件(7), 発達(15), 健常者(8), 油(9), 風邪(25), 困窮(6), 話さ(7), 創作(20), 何故か(11), 予約(11), 出産(17), 冬(11), デブ(12), 同人(12), 殺さ(18)
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俺も地方出身だけど、昭和50年でこれって想像を超えてるわ。俺の感覚だと、これは昭和40年(1965年)頃か、それ以前(昭和30年代)のオリンピック以前くらいのイメージ。
懐かしいな。実家の周りも昭和50年代初めまでは舗装されていなかった。
家は近所でも一番最後まで五右衛門風呂が残っていて、なんと昭和63年まで現役だった。近所の大工さんやってる家から薪を分けてもらって、祖父が薪割りして釜にくべてお風呂を沸かしてくれた。夕方、家の中は燻されたような匂いでいっぱいになった。途中で湯がぬるくなったら大声で呼んで、父か祖父が追い焚きをしてくれた。
当時はまだ男にも家事の割り当てがあった。
祖父は夕方になったら家中のゴミ箱からごみを集めて焼却炉で燃やす(禁止されていなかった)。生ゴミは堆肥用に。回収日に金属ごみを出しに行くのも天ぷら油の処理も祖父の仕事だった。
小さな畑と田んぼしかなかったので農業での現金収入はないが、家族が食べるぶんの野菜を育てるのも祖父の仕事だった。それから農具の手入れも庭仕事も。
祖母の家事分担は私と妹の子守り、自分と祖父のぶんの洗濯と掃除。父と母が勤めに出た後、全員の茶碗洗ってくれるのも祖母だった。午後みんなの洗濯物を取り込んで畳むのも祖母。料理は苦手だったので主に母が作った。祖母はあと内職の仕事をしていた。その間子供は子供同士勝手に遊ぶかひとり遊び。大人に遊び相手をしてもらった記憶はあまりない。宿題も見てもらってなくて、一人で適当にやってた。
母が1番働いていて、朝起きたら田舎の広い家の掃除と食事の支度、夕方は6時ごろに帰ってきて、また食事の支度と洗濯。洗濯物は納屋の一角に干す。
祖父が元気だった頃は父はあまり家事はしていなかったな。子どもたちにとってはただただ口うるさい父であった。
両親は共働きだった。北陸では珍しいことではなくて、祖父母もその昔は共働きだった。祖母は母が嫁いでくるくらいまでは工場で事務員の仕事をしていた。
というか、私は小さい頃、専業主婦なんてサザエさんやドラえもんみたいな架空の話の中でしか見たことがなかった。
近所はみんな三世帯同居で、両親共働き。地区にはアパートなんて洒落たものもなかったし、親と同居せずに夫婦だけで住む場合はもっと町中の便利なところに居を構えたからかなあと思う。
もし万が一専業主婦がいたら、働かない嫁って言われそうだな。いなかったけど。
そういえば家の電話が親子電話?っていうやつで、たまに受話器を耳に当てると、近所のおばちゃんの話し声が聞こえたんだけど、あれなんだったんだろ。
あと昭和の思い出で覚えてること、、駅の近くの踏切は、横に詰所みたいのがあって、国鉄の人が手動で安全確認して遮断機を上げ下げしていた。
蛍がたくさんいた。
明治生まれの曽祖母は洋服じゃなくて着物を着ていた。志村けんがコントで着ていたみたいなやつ。曽祖母は自宅で療養していて自宅の畳の上で亡くなった。曽祖母が亡くなった時、家に大工さんが来て金ぴかの祭壇を作ってくれて、自宅で葬式をした。
平成の初め頃まで土曜日半ドンだった。私は高校卒業まで土曜日も学校行ってたな。休みがなさすぎる。
週休1日だった代わりに両親ともバブル前は定時で仕事を終えて帰ってきてたな。夏場なんて明るいうちに家に着いてた。それだけは羨ましい。
昭和50年というと1975年。東京オリンピックは1964年だから、11年後か。
(ちなみに大阪万博が1970年で、札幌オリンピックが1972年。田中角栄首相の退陣が1974年。バブル期のざっと10年くらい前かな。第一次オイルショックが1973年だから高度経済成長期は既に終わっている。)
オレんちと同じくらい田舎やったんねw
ウチでは、昭和の末期ごろに家を建替えるまでは、掘りごたつが現役だったね。四辺に足を乗せる板があるけど、中央部はそのまま炭火を置く構造だから、ヘタに足を突っ込むとテキメンに火傷するw
かまども(平常時は主にプロパンガスだったが)盆正月などに大量の料理するとか、味噌仕込むのに大豆を煮るとかのときは現役だった。
裏山に炭焼き窯があって、自前で木炭も作ってたし、風呂を沸かすのも薪で火を焚いてた。
農道は、そのころ絶賛建設途上で、クルマで行けない山の上から農作物とか木材とかをふもとに運ぶのは、架線(かせん)と呼ばれるケーブルカー的なものだったが、昭和50年代後半にはほぼ使われなくなったな。
思いついた順。順番に意味は無い。
・田舎の道路は舗装されて無いのがあたりまえだった。ごく一部が舗装されていたが、舗装はコンクリートだった。アスファルト舗装はまだほとんど無かった。
・川にかかる橋はまだ木と土でできていた。わずか数年のうちに、全部コンクリート造りに作り変えられた。その時の橋がまだ現役。
・石炭がまだ日常的に使われていた。学校の隅の方には石炭を積み上げておく小屋があって、冬は当番の子供がその日のストーブで燃やす石炭を小屋から教室に運んでいた。炭の燃えカスの掃除は先生がやってくれていた気がする。石炭ストーブが石油ストーブに置き換わると、石炭小屋は鶏小屋に改装されて、学校でニワトリを飼っていた。
・火鉢や七輪がまだ現役だった。火鉢の中では炭を燃やして暖をとっていた。
・掘りごたつの底は格子状になっていて、その下で炭か何か燃やして暖を取る構造だったが、それは当時すでに廃れていた。電熱線を使った電気ごたつが安くて便利なので、かなりはやくから普及していた気がする。
・家にかまどがあった。物ごころついた時にはもう使われなくなっていてプロパンガスだった。お年寄りの家ではまだ現役でかまどが使われていた。
・洗濯ものは川や湧水のあるところでやっていた。湧水は出口すぐが飲用水の採取場所、数m下ると食器や食べ物を洗う場所、そこからさらに数m下るとそれ以外を洗うもの、と順番が決まっていて、いつもだれか数人の主婦が何か家事をやっていた。水道が普及するといつしか誰も使わなくなり、掃除されなくなり、廃れた。
・秋には落ち葉のたき火で焼き芋を焼いて食べるのが定番のおやつだった。
・農業に使うかごなどが、まだ藁で作られていた。この伝統は数年後にはすっかり無くなってしまった。
・村の加治屋さんがいて、農機具の修理などをやっていた。
・軽トラックが普及しはじめていたが、農道がまだほとんど整備されていなかった。車が通れない歩行者用の山道を、天秤棒をつかって前後に思い荷物をぶらさげて運ぶという仕事がまだあった。
・コンクリートブロックを使って塀を作るのが流行り、みんなで競うように塀を作っていた時期があった。へー。
・車はどの車も数年でサビサビになった。今のような耐久性のある焼付塗装がまだ開発されておらず、車検のたびに車の塗装をやりなおしていた。車検とはある意味、車の塗装をやりなおすイベントだった。
・街へ行くたびに、あちこちでボコボコビルが建ち始めていた時代。1970年より前に建築されたコンクリート作りのビルというのはかなり珍しいが、1970年代にはめちゃめちゃ大量のコンクリート造りのビルが建設されて、日本の街の風景が一変した。
・いまはシャッター街となっている田舎の商店街に、もっとも活気があった時代。
・軍隊帰りの教師が現役でいた。ゼロ戦の特攻隊の訓練生だったとか、広島に原爆が投下された後の遺体を積み上げて燃やす作業をやったという教師がリアルに居た。多くの大人たちが原爆のキノコ雲の目撃者だった。
・家を建てる時、壁は土壁だった。そのへんの土に藁を混ぜて建材として使っていた。土壁の中の芯は細い竹を格子に編んだものだった。
・貯金の金利がめちゃめちゃ高かった。しかし実際には金利以上にインフレになったので、真面目に貯金した人はむしろ損をした。
・缶ジュースは当時から1本100円だった。子供には高級な飲み物だった。
・お豆腐屋さんに毎日お豆腐を買いに行っていた。田舎でも数100mも歩けば、一軒は豆腐を豆から作っている豆腐屋さんがあった。
・主婦が買い物に行くときは、細い竹を編んだような、かわいらしい買い物かごを持って買い物に行っていた。レジ袋などというものはまだ無かった。せいぜい紙袋。
・生ゴミはかまどで燃やして処分していた。灰は肥料として活用された。街のゴミの収集車は、不燃ごみの回収が主だった。
・冠婚葬祭は、5人組といわれる隣近所のグループで協力しあって、自宅で行うのが当たり前だった。
・どこの家にも子供がいた。夜は外出を厳しく制限された。今思えば、どこの家庭も夜になると夫婦でセックスして楽しむのが当たり前だったんだろう。
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・子どもは神社やお寺の境内に集まってよく遊んでいた。缶けりとかが定番だった。
・そんなド田舎にもエロ本はあった。子どもたちが拾い集めたエロ本の隠し場所が神社の床下だった。
・雨の日はよくトランプしていた気がする。
・こたつのテーブルの板をひっくりかえすと麻雀用の緑のフェルトが貼ってあった。
・蛍光灯が爆発的に普及したのがこの頃だった。電球よりずっと明るいので最初はみんな驚いた。
(しかし、統計を見ると子どもが減り始めたのもこの頃。電球の方がエロい気分になりやすかったというメリットはあったのかもしれない)
・バスには運転手のほかに、切符を売ったり、バックする時に誘導したりする車掌がもう1人乗っていた。それがワンマンになったのも昭和50年代
・国鉄で荷物を送るときは、包み方にめんどくさい規定があって、紐で縛ったり指定のタグをつけたりしなくてはならなかった。
・昭和50年代に複数の宅配便会社が競争で一気に普及して、国鉄で荷物を送ることは全くなくなった。
・女子の体操服はブルマだった。バレー部が人気だった。部活やマラソン大会では女子が校外を体操服(下はブルマ)で走っていた。
・ダンボールは既に普及していた。ダンボールが普及する前は農作物は木の箱に入れて出荷していたらしい。使われなくなった木の箱がよく他の事に転用されていた。
・そんなド田舎でも新聞と牛乳は毎朝届いていた。牛乳はビンに入っていた。
・学校の校舎は当然木造。体育館も木造。今思うと、体育館のような大きな建物が木造っていうのは当時としてはなかなか凄い事だったんじゃないかという気がする。
・バイクといえばスーパーカブのことだった。それ以外のバイクは見たことが無いレベルだった。
・車と言えば軽トラだった。それ以外の車も見かけたが、変わり者扱いされるレベルだった。
・仕出し弁当とかは薄い木で作った箱に入っていた。プラスチックや発泡スチロール製のトレ―が普及したのも昭和50年代
・幹線道路なのに1車線のところがあり、ときどき渋滞でにっちもさっちもいかなくなって警察を呼ぶことがあった。
・リヤカーを引いて魚を売りに来るおじさんがいた。スーパーカブに山ほど靴を積み上げて靴を売りにくるおじさんもいた。富山の薬売りもいた。
この記事のブコメで、例によって櫻井よしこやネトウヨはデマ製造機的に避難されているけど、一概にはそう言えない。
昭和51年の防衛白書には入学拒否に関する記述があるんだけど、それをみるとよく分かる。
防衛庁では,職務上の必要から,隊員を国内の大学院等において研修させているが,受験の際その辞退を求められたり,願書が返送されたりするといった事例は,昭和39年から46年までの間に,延べ約50人に及んだ。最近は,表面上少なくなっているが,これはトラブルの予想される大学には出願を避けている等の理由によるものであり,今なお,希望の学校,科目等を自由に選べない実情にある。
また,私費で,夜間に大学等ヘ通学したり,通信教育により勉学に励んでいる隊員は,昭和50年度において約1万2,300人に達する。この場合ですら,例えば某県であった例のように,自衛官であることを理由として高校通信課程の転入学を拒否され,あるいは大学入学後自治会学生等に1年間にわたってその通学を妨害され,現地の地方法務局に人権侵犯問題として申告した事例等がある。
櫻井よしこは「すべての」自衛官が大学や大学院に入学できないことを主張したわけではないのは、文脈から明らか。自衛官というだけで入学拒否の事例が結構あることが問題っていう主張をしている。
昭和50年代だと思っていた。