はてなキーワード: 戒名とは
小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。武田二十四将の一人に数えられる。
信茂の勝頼離反から滅亡
天正9年12月、織田信長・徳川家康は武田領攻めを開始し(甲州征伐。総大将織田信忠、副将滝川一益)、信濃木曽郡の国衆・木曾義昌が離反する。また、これに伴い相模の後北条氏も武田領への侵攻を開始した。義昌の離反を契機に信濃領国は動揺し、翌天正10年(1582年)2月2日に勝頼は信濃諏訪上原(長野県茅野市)に出兵し、『甲乱記』に拠れば信茂もこれに従ったという。2月29日に織田信忠は伊那郡高遠城の仁科盛信(信盛)を攻め、信忠は矢文で盛信に降伏を促し、信茂らが勝頼から離反したと伝えているが、この段階で信茂が勝頼から離反していることは虚報であると指摘されている[15]。
勝頼は天正9年に新府城(山梨県韮崎市)を新たに築城し甲府から本拠を移転しており、『信長公記』によれば同年3月3日に勝頼は新府城を放棄し、小山田氏の郡内へ逃れたという。『甲陽軍鑑』によれば勝頼嫡男の信勝は新府城における籠城を主張したが、これに対して信濃の国衆・真田昌幸が上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)への退避を提案した。しかし勝頼側近の長坂光堅が小山田を頼り郡内の岩殿城(大月市賑岡町)へ逃れることを主張したという。一方、『甲乱記』では信勝や昌幸の提案を記さず、勝頼が信茂に対し郡内への退避を諮問したとしている。
なお、岩殿城は小山田氏の詰城とされているが、小山田氏の本拠である谷村城(都留市谷村城)からは距離があることから、岩殿城を小山田氏の城とするか武田氏の城とするかで議論がある[16]。なお、天正9年3月20日に岩殿城へ武田勝頼が在番衆を派遣している事実も注目されている[17]。
武田勝頼一行が郡内領へ退避するさなか信茂は勝頼から離反。勝頼は田野(甲州市大和町)において織田方の滝川一益の軍勢と戦い、武田宗家は滅亡した(天目山の戦い)。
信茂離反に関して、武田側の史料では、まず『甲陽軍鑑』に拠れば勝頼一行は郡内領への入り口である鶴瀬(甲州市大和町)において7日間逗留し信茂の迎えを待っていたが、3月9日夜に信茂は郡内領への道を封鎖し、勝頼一行に対して木戸から郡内への退避を呼びかけると見せかけ、信茂の従兄弟・小山田八左衛門と勝頼の従兄弟・武田信堯(のぶたか)が信茂の人質を郡内へ退避させ、信茂は勝頼一行に虎口から鉄砲を放ったという。信堯は正室が御宿友綱の妹で、信茂とは相婿の関係にある。なお、『武田三代軍記』『理慶尼記』でも同様の話を記し、『理慶尼記』では信茂の離反を7日の出来事とし、信茂が郡内への入り口を封鎖した地を笹子峠(大月市・甲州市)としている。一方、『甲乱記』では信茂離反の日付を記さず、勝頼は柏尾(甲州市勝沼町)において信茂を待ち、駒飼(甲州市大和町)に移動したところで信茂の離反を知ったとしている。
甲斐善光寺
一方、織田・徳川方の史料として、『信長公記』では勝頼は小山田の館まで辿り着いたが、信茂は勝頼の使者をはねつけたと簡潔に記している。『三河物語』では小山田八左衛門が登場し、勝頼が郡内領へ逃れる途中に小山田八左衛門を信茂のもとに派遣したが帰還せず、信茂離反を知ったという。
織田氏・徳川氏勢により甲斐が平定された後、信茂は嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ処刑された。
『信長公記』では3月7日条に成敗した「小山田出羽守(信茂)」の名を記し、『甲陽軍鑑』では武田信堯や小山田八左衛門らの名も記している。一方、『甲乱記』、『甲斐国志』に拠れば、3月24日、甲斐善光寺で嫡男、老母、妻、女子とともに処刑されたという。享年44。長生寺『月日過去帳』・森嶋本『甲斐国志草稿』に記される伝存しない同寺所蔵の位牌によれば戒名は「青雲院殿武山長文居士」。信茂の命日は『甲乱記』、長生寺『月日過去帳』に「24日」と記され、『甲乱記』では3月11日の勝頼自害から13日後としている。
武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場ら重臣と共に名を列ねている。
武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。
設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉・穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。
鉄道唱歌(作詞:福山寿久)には「川を隔てて聳ゆるは 岩殿山の古城蹟 主君に叛きし奸党の 骨また朽ちて風寒し」と詠われており[20]、小山田信茂は「奸党」とまで蔑まれている。
池江 璃花子 on Twitter: "いつも応援ありがとうございます。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/rikakoikee/status/1390638021943316482
「そうか、君ら平清盛は農民がどんだけ死んでも自分たちの仕事と生活と栄達だけが大事なんだな」ってリプつけにいかないと
「自分は利己的な小人物」との告白だね。出家は叙勲よりも価値があると思うので、シンプルに勿体ないと思う。
軽蔑する。何もできない?源平合戦に徴兵された足軽か何かか?拒否したら奉行衆に殺されるのか?
飲食、演劇その他色んな職業の人だって人生賭けてて、コロナと戦うために色んな犠牲払ってる中で、アスリート無罪は俺は受け入れられない。自分の意思も示さずってのは無責任すぎる。誰だって頑張っている。
飲食、演劇その他色んな職業の人だって人生賭けてて、末法思想と戦うために色んな犠牲払ってる中で、平清盛無罪は俺は受け入れられない。自分の意思も示さずってのは無責任すぎる。誰だって頑張っている。
競技団体が動くべきだとは思うが、選手も誰一人何も言わないのはオカシイと思うよ??スポーツ団体にも税金は使われてるし、ワクチンや医療ボランティアの話に何も思わないと??
帝が動くべきだとは思うが、平清盛も誰一人何も言わないのはオカシイと思うよ??朝廷や公家にも年貢は使われてるし、飢饉や鎮護国家の話に何も思わないと??
矛盾するようだが、例えば池江選手「個人」に「辞退しろ」と迫るのは絶対反対する。ただ、この五輪に全面賛成する選手は、俺は唾棄すべき存在だと思うし、仮にメダルをとっても軽蔑する。
矛盾するようだが、例えば平清盛「個人」に「出家しろ」と迫るのは絶対反対する。ただ、日宋貿易に全面賛成する平氏一門は、俺は唾棄すべき存在だと思うし、仮に宋銭をとっても軽蔑する。
平氏一門の官位上昇を物語として消費された上に源平合戦のマスコットのような存在にさせられてしまったことはとても気の毒なのだが、「平家にあらずんば人にあらず」というのは自分の影響力を過大評価していると思う
アスリートは朝廷でいえば平清盛に過ぎない、辞退したら食っていけない、というブコメには賛同できない。公家が反朝廷活動をしていたら出家すべきだ。しかも日宋貿易は朝儀ですらなく一つのイベントに過ぎない。
平清盛が「平家にあらずんば人にあらず」というのは自分の影響力を過大評価していると思う
出家できるのにしない平氏一門は「反朝廷活動」じゃないの?さっさと切腹してね。
そうだな
・前々から肺を患っていて、別の臓器が悪くなったからそっちの治療をするために入院していたのだけど、呼吸器管理があまりうまくない(と言ったら失礼なんだけど)病院だったらしく、臓器より先に肺の方がやられてしまった。もう良くはならない、悪くなっていくだけというところまで来てしまった。それで、母が自宅に連れ帰ることを決めた。
・病院で人工呼吸器をつけてもらうなどすれば、もう少し長く生きられたのかもしれない。しかしコロナウィルスのことがあるから、この1年もお見舞いとか頻繁にはできなかったし、最期のときに看取ることも叶わなかっただろう。自分の家と家族が好きな父だったから、多分これでよかったんだろうと言い聞かせてる。ただ、コロナウィルスの感染拡大がなければ、もう少しできることがあったのかなあと思うけれど、そういう『たられば』の話を考えても仕方がない。
・10代や20代の頃に、友人が病気になったとか、事件に巻き込まれて亡くなった時などは、悲しみが何もかも埋め尽くして他のことに手が付かず、上を向いていなければ涙があふれるくらいだったけれど、30代ともなるとそんなことはない。仕事は進められるし、ゲームもできる。それくらいの感情の制御ができるくらいには大人になった。
・発売をずっとずっと楽しみにしていたソフトがあった(サガフロンティアリマスター)。
発売直前に危篤の報が入ったので、色んなことが落ち着いてからとプレイしようと思ったけれど、結局始めてしまった。結果的にはこれが良かった。心に隙間が少しでもできると、父のことを考えてしまう。どこかのタイミングでどうにかできたのではないかと考えて、でも結局どうにもできなかった現実を思い出し、思考が堂々巡りになって他に何も考えられなくなる。これがすごく苦しい。真綿で首を絞められるとはこういうことではないだろうか。
だから、大好きなゲームの世界に浸っていると、がんじがらめの思考から解放されて、一時ではあるけれど、楽になれる。
(無心になってキャラの育成してるけど本当に楽しい。とてもとても出来のいいリマスター版になったことが嬉しい。
コラボウィスキーが当選して手元にあったので、リマスター版発売を祝して発売日に封を開けようと楽しみにしていたけれど、こちらはまだ開けられないでいる)
でも、父が亡くなってからの家のことが思っていたより忙しいし、多分自分が自覚している以上に精神的なダメージが大きいようで、気力と体力に少しでも余裕があるときじゃないとプレイできない。まだ半分も進んでいない。連休が明けて、仕事も本格的に再開したので、クリアまでまだ時間がかかりそう。でも、父のことを思い出として割り切れる時が来るよりもずっと早くクリアできるとは思う。
20年以上前から大好きなゲームのリマスター版の発売と、父の逝去がほとんど同時だったことを、私は春が来るたび思い出すことになるんだろう。
・危篤の報を受けて、実家に戻ってきて、それから所用があるときとか、母と交代で仮眠をとるとき以外はずっと父の傍にいて、大体の時間は父の手を握っていた。
握り返す力はほとんどなく、じんわりと湿っていて、だけど温かだった父の手から日に日に体温が失われていった。指先がだんだんと冷たくなって、さすっても元に戻らなくなってくる。自分の両手で挟んでみて、まだ温かいから大丈夫だとごまかした。
・父はほとんど声を出せなくなっていて、意思疎通もままならない状態だったけれど、不思議と笑っているときとか、楽しんでいるときなどは、傍にいる母や私にもそれが分かった。嫁に行かなくてごめんねと冗談っぽく言ったり、額に頬擦りしてみたり、好きな歌を歌ったりすると、父は笑っていた。それは唯一の救いだったように思う。
・最期は家族全員で父を看取ったのだが、生と死の境目はよく分からなかった。どこで線が引かれたのだろうか?
・息を引き取る前の父、もう動かなくなった父、死装束をまとって棺に入れられた父、斎場に着いて焼かれて、骨だけになった父、頭蓋骨を砕かれて(すごく可哀想だった)、骨壺に入れられるところまで全部見ていたのに、未だに父が亡くなったという実感がわかないでいる。入院していた期間が長かったし、私も離れて暮らしていたから、まだどこか遠くの病院に入院していて、戻ってきていないだけじゃないかと思ってる。
・ふとした心の隙間に父のことに思いを巡らせ、はっと、もう父には会えないという現実に思い至ると、思考と事実が一致しないからか、頭がバグりそうになる。
・私は死後の世界は何となく信じているけれど、そこまで信心深い訳ではなく、父は立派な戒名をいただいたが、仏様になるとはとても思えない、骨になった父はもはやただの物体である。現在の科学技術では魂の存在を証明できない。だから、遺影の手前にあるものに意志とかそういうものはないし、よって、父はもうそこにはいないし、どこにもいない。でも、蝋燭に火をつけて線香を灯し、おりんを鳴らしてから手を合わせ、目を閉じて祈っている間は、心の淀みとか思考の澱とかが取り払われて、澄んだ心持になる。父のためと思えばこそ、線香もなるべくつけておこうと思うし、どんな香りがいいか色んなメーカーのものを見て回るようにもなった。そこにはもういないと分かっているけれど、人には縋るものが必要なのだということがよくわかった。
・今わの際の父には冗談めかして言ったが、三十路過ぎて嫁に行っていないことは本当に申し訳なく思ってる。
結婚願望がないわけじゃないし、思うところがあるから、今からでも嫁に行こうと思う(いけるか分からんけど)。
でも、父を生きている間に花嫁の父にしてやれなかったこと、それ以外にも、もう生きている父に親孝行ができないと思うと、すごくしんどい気持ちになる。
・父や母がその親(つまり私から見て祖父母)を見送ったのが50~60代の頃で、私も同じくらいに見送ることになるのだろうか、まだ先のことだと思っていたのだが、30代前半で看取ることになるとは思っていなかった。
・父は7人姉弟の末っ子だった。長子の伯母が存命で、この伯母と父はとても仲が良かった。一番下の弟を先に亡くした伯母のことを考えるとなぜだか申し訳ない気分でいっぱいになる。
・私自身も4人兄妹の末っ子で、それも父が40代の頃に生まれた子で、私が父の半分も生きていないうちに、父が逝ってしまったことが、切なくてたまらない。
・父は庭いじりが好きだったが、最後の数年間は体力が落ちていて、ろくに世話ができていなかった。なので、今の我が家の庭は少し荒れている。
だけど、それでも、父の庭は美しい。ドウダンの細かな若緑の葉と、鈴に似た真白の花が折り重なってまぶしい。何本かを一列に並べて植えているから、光の通り道のように見える。奥に植えた3本の松はいつでも常盤色をしていて渋く、その手前には幹の太く大きな春もみじが1本植わっている。赤紅の細長い葉を幾重にもまとわせていて、炎のようだ。今はツツジが見頃で、赤と白の花が鮮やかに目に飛び込んでくるのが楽しい。
緑が陽に濡れた今年の庭を見ることなく、父は逝ってしまった。そのことがとても悲しい。
この時期じゃなくっても、うちの庭はとても綺麗なのに、お父さんが見ることはもうない。
・大体1ヶ月程度実家に滞在していて、昨日一人暮らしの自室に戻ってきた。
隅に片していた寝具のセットに毛布が挟んであって、クローゼットには厚手の衣類が掛けられたままだった。
仕事→飽きた
セックス→飽きた
酒→やめた、飽きた
人付き合い→本を読み漁って努力した時期もあったけど自分は雑談や人にさほど興味がないと気付く
結婚→(上の過程で自分は明確に他人に興味ないということが分かってしまったので)どうでもいい
出産→退屈凌ぎでやるレベルのことではない(コスパ的にも道徳的にも肉体的にも)
ファッション→中国通販を知ってからユニクロすら高級に思うようになった
メイク/コスメ→ 美人のプチプラ>>(越えられない壁)>>ブスの諭吉と理解してからこだることをやめた
美容全般→50万のエステより5万のプチ整形と理解してから馬鹿らしくなった
趣味だった映画鑑賞→劇場の没入体験は魅力だがサブスク見放題(月額1000円ちょっと)を知ると一回1900円の娯楽は自分には分不相応だと思った。以来足が遠のく
趣味だった観劇→最前列から見切れ同然の席まで同額とかありえんだろと思った時点から純粋に楽しめなくなった(というかコロナ禍で行かなくても平気だったと気付く)
趣味だったひとり旅→観光客向けのぼったくり店があまりに多くて萎えた、飽きた。(国内のどこも然程景色は変わらないと知ってしまったことも理由)
アウトドア・スポーツ→目的が人付き合いではないのでどれも何回か経験したら単純に飽きた
食→健康志向にこだわるのも飽きた。ただ現代人は食い過ぎだという話はごもっともだと思う
SNS→人の食った飯などどうでもいい
YouTube→上に同じ、教養系は見るが同じ内容が多くて飽きつつある
健康管理→できる範囲の努力はするがそれでも人の致死率は100%だと思うと虚無を感じる
こいつ生きててつまらなそうだなと思われそうだけど実際つまらない。ハマると猿のように夢中になってここまで生きてきたのでこれまではある程度楽しかったのだけど、なんかもう全てに飽きてしまった。
人生は暇つぶしというけれど、これから何で暇をつぶせばいいんだろう。
スポーツ(観戦)→人に興味がないのでどうでもいい、他人の祭り
ギャンブル→一通り経験したがなにがおもろいのかわからなかった、時間と金の無駄という思いが強い
宝くじ→上に同じ
習い事→体系的に知識や専門技術を学ぶ場所ではないと理解してやめた。習い事って『教室』という名前を借りた社交場なんだと気付く、それを求める人たちの集まり(なんでそんなに人は人と交流したいんだろう)
家庭菜園→プロの栽培する大葉の方がずっと美味しいと気付き飽きる
自炊→ある程度できるようになり飽きた
創作→上に同じ、やればやるほど才能の限界を知り飽きる、おそらく承認欲求も薄いので他人に評価される喜びもあまり感じない
宗教→説法にはテンプレがあると高級時計を腕にはめた寺の息子に酒の席で聞いてからこんなもんかと思った。親の葬儀を仕切ったことで本格的に冷めた(布施の内訳を知りたい)。自分は戒名も墓石もいらない、できれば海洋散骨がいい。(八百万の神という概念の懐の深さは気に入っている、だから宗教は一応神道と答えるようにしている。新興宗教にハマる理由がわからない)
人の悩みを聞く→具体的な解決策を提示するなり行動し解決に導く人より、相手の気持ちを肯定し寄り添うポーズを取る人に対して人間は感謝すると知ってから馬鹿らしくなった、なにそれ怖いとすら思う
はてな及びSNSの炎上に参加→人に興味がないのでどうでもいい
人に興味がないことが全ての原因なのかもしれない。どうすればいいんだろう
サブスクじゃあかんのか→Netflixも見るが劇場通いが好きだったから少し趣旨がちがう
投資→ 生活防衛資金以外をインデックスに入れてるから基本やることない、投機に興味なし(マネーリテラシーの勉強はした)
子供/ペット→ どちらかと言えば反出生寄りなので命を自身の成長や暇潰しの目的にする感覚はちと理解に苦しむ。とはいえ子供も動物も好きなので寄付はしたい、将来マインドが変われば養子も大いにありだとは思うし、自分が死んでも世話をしてくれる人間がいるならペットもあり
小説→上手くはないが書ける、上と同じ
整形→した、飽きた、やめ時肝心
アナル開発→男だったら確実にやってた、らんまみたいにお湯をかぶったら男になりたい
俺が悦びを教えてやんよ→たのむわ
倒幕に立ち上がれ→すき
亡き前妻は、それで逝ってしまった→かなしいね、月並みだが奥様の分まで生きてくれ
通院/病気→大病経験済、以来肝が座ってしまった、鬱じゃないよ多分
転職→労働者から労働者にシフトするなら海外移住か起業(後者は向いていない気もする)
出家→前述の通り
ストリップ劇場→楽しそう、行きたい
歌舞伎→一幕見は経験済、コロナが落ち着いたら花道横を体験したい(大向を生で聞いた時は感動した)
「試しにやってみたけど何が面白いのかわからなかった」では? →ギャンブルや不倫はこれにあたるね
ただの三日坊主→経験値0と1は全く違う、三日坊主自体は悪いことじゃない、忘れていたような知識や経験が思わぬところで役立つこともある(Tedのマルチ・ポテンシャライトの概念は救われた)ただ今は三日坊主にすらなれないという話
プロと比較するから悪い→とはいえ餅は餅屋という分野はある、経験した上での見極は大事(香り高い大葉を作るプロ農家はすごい、私にはむりだ)
素人がプロに勝る唯一の武器が時間と愛だろが!→そうだよな、お前みたいな人が近くにいてほしい、すき
お遍路→やりたい
エクストリームアイロニング→なにこれおもろすぎる、やりたい
たくさん釣れてよかったね→前半に下ネタと不倫を書いたら皆読んでくれるかなとは思った(事実だし)にしても伸びすぎだよね
友達いなそう→ははは
捨てるならその命くれ→やだ
■※お礼
哲学やれ2→ 反出生主義を抱えながら脱出するにはどうしたらいいか、というスタンスもあると知った。個人的にこれは考える価値のあるテーマだと思った。あと飽きかけていたYouTubeの教養ジャンルに哲学史が増えたよ、ありがとう
海が山に行け→車飛ばして海眺めてきた、癒
映画館通い再開した方がいい→見る予定のなかったエヴァ行ってきた、(にわかの癖に)綾波の村暮らしやゲンドウの独白が今の自分に刺さりまくってボロッボロ泣いた、映画はいいねリリンが生み出した文化の極みだよ
海外行け→とりあえずTOEICの試験申込むときめたコスパ主義の欠点を生かして受験料を取り返すために勉強に励む(そうしないと飽きるので)
あの日はマジで空っぽになって書き殴ったけど、想像以上に多くの視点から意見が聞けた、ネガティブなコメント含め感謝してる
とりあえずまだ学べることもやれることはあんるだと分かった、ありがとう。
飽きることに飽きたました、人間の致死率は100%なので死ぬまで自分の祭りを楽しもうと思います
こんどこそ終わり
はてな匿名ダイアリーというものの存在自体は割と昔から知っていたが、
時たま読むことはあれど書き手としては縁がないものだと思っていた。
ふと急に、今日一日考え事をしていてどうしてもどこかに書いておきたくなった。誰かに話したいのかも知れない。
文章を書くことは苦手で、ここ特有のルール(そんなものがあるのかすら知らないけど)もわからないので、
色々と不備があるかも知れないけれど、おぼろげな記憶をたどりながら思いのままに書いてみようと思う。
30年前、私は子供だった。
近所に1つ下の幼馴染が住んでいて、その家には正月や盆など毎年数回ずつ兵庫から九州へ親戚が里帰りに来ていた。
母親とその子どもたち3人。長男(以下、A太)と妹2人(B子、C美)という構成だ。
A太は私よりいくつか年上で、B子は1つ下、C美はさらに2つ下だったと思う。
歳が近いこともあり、こちらへ帰省してくる度によく一緒に遊んでいて、幼馴染も含めて全員とても仲がよかった。
こちらにいる間、その3人は知り合いが私たちしかいないのもあってとにかく同じ時間をともに過ごした。
鬼ごっこをしたり、缶蹴りやドロケイをしたり、おしゃべりをしたり、
とにかく何をしても楽しくて今思い返してみても幸せな時間だった。
数年間、そうやって過ごしていくうちにB子を好きになっていった。
もしかしたら年に数回しか会えない環境がそうさせたのかも知れない。
愛だ恋だなんてわかる歳ではなかったが、今振り返ればあれが私の初恋だった。
26年前の正月、いつものように帰省してきた3人と遊んでいるうちに、原因は思い出せないがA太と喧嘩になった。
喧嘩と言っても「お前の母ちゃんでべそ」的な稚拙な言い合いだったが、
A太の味方をしはじめたB子とC美にも矛先を向けた。
初めは稚拙な言い合いだった喧嘩が段々とエスカレートし言葉も荒くなっていった。
何を言ったのかほとんど覚えていないが、別れ際に吐き捨てるように
「○ねばいい」「お前ら○んだらみんな地獄行き」と言ったのだけははっきりと覚えている。
1995年1月17日、その日は私の親類の葬儀で前の日から福岡にいた。
こちらだけの風習なのか知らないけれど、私の親を含む大人たちは交替でロウソクの番をしていたり朝食の準備をしていたらしい。
私はぐっすりと眠っていたが、その大人たちの声で目が覚めた。
ぼんやりとしか覚えていないが「揺れた」というワードが聞こえたことは覚えている。そのまままたすぐ眠りに落ちたけれど。
朝になってテレビを見て映し出される光景に愕然とした。B子たちが住む街だった。
あの当時、今となっては考えられないことだけど死亡者の名前の羅列がテレビで流されていた。
それももしかしたら記憶違いかも知れない。(あるいは新聞?誰かによって何らかの方法でもたらされた情報?わからない)
だけどその羅列の中にB子たち3人とその母親の名前を見つけて震えた記憶がある。どうやら祖母の名もあったらしいが私は知らない。
要するに世帯全員だめだったということだ。
当時死というものへの認識は既に持っていたが、その時は混乱していたのかうまく理解ができなかった。
何もわからずただただとんでもないことが起きたことだけは、自分の体が震えたことで理解できた。
痛かっただろうな、怖かっただろうな、苦しかっただろうな。まず浮かんできたのはそういうものだった。
「大切な人をなくした」とか「愛するあの子をうしなった」とかそういう感情ではなかったが、
ただもう会えないことと最後に言ったあの言葉だけが月日を追うごとに重くなっていった。
最後に会ったとき、最後に言った言葉、やり直せない時間に悔いても悔やみきれない。
子供ながらに言ったこととは言え、なんてひどいことを言ったのだろうと。
あんなに仲良く遊んでいたのに、どうしてよりによってあれが最後なのだと怒りすら沸いた。
あの震災で起きた出来事で、トラウマというほどでもないが、人との別れ際がすごく怖くなった。
大切な人ならなおさら、そうでない人相手にも「さよなら」という言葉がどうしても言えない。
どれだけ喧嘩しても必ず別れ際には仲直りをしたい。仲直りができないままには電話も切ることができない。
「さよなら」という言葉の代わりに必ず「またね」というようになった。
私が高校生ぐらいになった頃から毎年1月17日に、よく一緒に遊んだあの公園へに花をそえに行っている。
本当はお墓に行くべきなのだけれど、さすがに兵庫まで行くわけにもいかないのと、行ったところであてもないので場所がわからない。
その場所に老人向けのグループホームが立ってからも、施設の人に事情を説明してお参りを続けていた。
月日流れて数年前の1月、私が生まれる前から散り散りになっていたという私の父のいとこが興信所やら何やらの調査を経て愛知から訪ねてきた。
数十年ぶりの再会とのことだ。長い長い思い出話の後にお墓参りがしたいということで、近くのお寺の納骨堂へ一緒に行くことになった。
納骨堂へ着いて一通りお参りしたあと、何気なしに周りの仏壇に目をやって驚いた。
目の前の仏壇にB子たちの名前と戒名が書かれた札が下がっていたのだ。
(法事が近くなった頃に「もうすぐ法事ですよ」ということでお札を貼られるお寺だった)
その納骨堂へは毎年お盆にしか来ていなかったからそれまでの約20年間気づけなかった。(ご先祖さまごめんなさい)
色んなことが重なり合わさって知ることができた事実だった。
まさか私の先祖と同じフロアに眠っているとは考えつきもしなかった。
こんなに近くにいたとは。毎年目の前を素通りしていたなんて。
それからは毎年1月にその納骨堂へお参りに行っている。(もちろんご先祖さまにも手を合わせている)
今日も花を添えてきた。お参りが済んだ別れ際に言うのはもちろん「またね」
まさかこうやって会うことができるようになるなんて、と今でも不思議に思うし、直接祈りを捧げられることに
誰へかはわからないが、何へかはわからないが、色んなことにとても感謝している。
人との別れ際、トラウマとしてじゃなく、これからもやっぱり大事にしていきたいと思う。
おわり。
今、手元に50万ほどある。
今年90になった祖父から孫への生前贈与分で、祖父からはタメになることに使ってくれ、と言われている。
株とか投資とか、仕事関係で会社から禁止されてるからそれ系のことには使えない。
コロナ無かったら帰省頻度上げたりするのに使うのが一番の孝行だとは思うけど、流石にこのご時世に後期高齢者しかいない実家には帰りたくない
で、考えた結果が以下の三つ
デブが婚活始めたところで…というのもあり、実質ダイエットか、引っ越しかの二択。
引っ越しはしたい気もするけどしなくても良いかなぁという気もする
ダイエットも、した方が良いとは思うけど、動機とか目的とか何もないし無駄金になりそうな気がする
婚活はデブに市場価値はないとTwitterで仲人垢が言ってるの見るし、金をかけて痩せると婚活に使う金がなくなるし、そもそも何がなんでも結婚したいとまで思ってないからモチベーションが湧かない
先日祖母が亡くなった。
祖母は昭和一桁生まれ、地方の本家の長男の嫁で子供が7人ということで、一族のドンと言うかゴットマザーとでも言うような人だった。
本来なら盛大な葬儀になるはずだったのだが、コロナ禍と言うことで親族のみの簡素な葬儀に変更になった。
で、祖母の長男である父の意向で、規模が小さいのがいい機会だからと、嫡孫にあたる俺が冠婚葬祭の勉強を兼ねて取り仕切ってみろと言う事になり、色々と準備する事になったのだが、思う事が多々あったのでここに書き出してみる。
新型コロナの第三波が警戒されている昨今だが、老人連中は明らかにビビらなくなってきている。そもそも、「親族だけの簡素な式」と言う事で、俺は参列者は多くても15名程度、せいぜいが祖母の存命の兄弟と子供、近くに住んでいる孫連中くらいと考えていたのだが、なんやかんやのしがらみで親戚筋を一通り呼ぶ事になり、結局参列者が50人を超えてしまった。不特定多数の不要•不急の集まりを避けると言うコロナ対策の観点で見ると非常にまずい。
まぁなんと言うか、年配層にとってはコロナ対策で密を避けるよりも、「この人は葬儀に呼ばれたのにウチは葬儀に呼ばれなかった」と言う不満の声が出ないことの方が大事な価値観のようなのだ。若輩者の俺がとやかく口を挟めることではなかったのでやむなく従ったのだが、ぶっちゃけこんなに集まらない方が良かったと思っている。
また、「コロナ禍につき、親族以外の参列はご遠慮いただく」と事前に宣言していたにもかかわらず、アポなしで押しかける近隣住民が多数いたのも辛かった。この地方でのコロナ患者数は県全体で見てもそう多くはないといえ、葬儀にノコノコやって来た彼らはノーマスクで故人の話題をダシに談笑しており、日頃会社や自宅でコロナ対策に気を使っている身からするとなかなかにキツいものがあった。
極め付けはコロナ対策が非常に甘い寺院。入り口にアルコールが置いてあるだけで、検温等は一切無し。法要は寺の御堂を締め切って行われた。(11月になり気温が下がっていると言うのもあるだろうが。)お経をあげる4人のお坊さんはノーマスク。コロナで重症化しやすい高齢者も多数いたと言うのにだ。参列者にキャリアがいれば葬式クラスター待った無しである。ちなみに遠方から来ている親戚は、東京、横浜、名古屋、大阪、神戸と大都市在住の者も多かったので、いまだ内心冷や冷やしている。(もっとも、医療関連の仕事についている親戚はさすがに出席を辞退していたのが。)
俺が葬儀を取り仕切ると言う事で、お寺や葬儀屋との交渉にあたったのだが、まあ料金体系の不透明なこと。
まず、お寺は見積もりの明細書や領収書は一切出さない。ざっくりと戒名料が20万で、法要料が1周忌までセットで100万、あとは思し召しでいくらか寺院の修繕費として寄付をいただければと言うことだった。相場が分からないので、父親に祖父の葬儀の記録を見せてもらうと諸々含めて80万弱と言うことだった。父曰く、お前は若年だから住職になめられてふっかけられているのだろうとの事。後ほど父が改めて相談に出向いたところ、トータルで85万と言う事で収まり、祖父の時と近い金額になったのだが金額の根拠が不明で非常にモニョった。
お寺以上に不透明なのが葬儀屋だった。明らかに使いまわしであろう祭壇の設置費用が最低30万とか、花代が一房2万とか、どう考えても原価の何倍もふっかけている。さらに、祖父の葬儀の時にはなかった故人の思い出ムービーが10万かかったり(必須オプションで外せない、最近の流行りらしくみんなやってますよとのこと)、なんというか、1日2日の短期間でプランニングしないといけない弱みにつけ込んで取れるだけむしり取ってやろうという気が満々で非常に腹が立った。
あまりに理不尽なんで葬儀が終わった後に父に愚痴をこぼしたところ、祖母の代は同世代の親類に気を回す必要があるからやむを得ないが、俺が死ぬときにはAmazonお坊さん便で略式の葬儀で良いぞといわれた。準備中はいろいろうるさいと思っていた父も考えていたのだと分かって、父の柔軟さに不意に感動してしまった。
葬儀を取り仕切って一番モニョったのがここかもしれない。六曜を気にして、この日は友引だから避けろとか、縁起か何か知らないが藁を燃やす手筈を整えろとかよくわからない注文が多い。さらに高齢のため、葬儀場に車椅子スペースを設けてバリアフリー対応をしてくれだとか、法要の後の食事は歯が弱くても食べれるものにしろとか要求が多く、ただでさえ忙しい葬儀の仕事を増やしてくれる。そのくせ準備はほぼほぼ手伝ってくれない。お願いだから自力で葬儀会場に来れない老人はコロナ対策に家でじっとしていてくれ。
今回の葬儀を取り仕切るまではなんだかんだで冠婚葬祭は日本の伝統文化だし、非合理的な部分があっても年配の人の考えは尊重しないといけないなと思ってたのだけど、冠婚葬祭文化マジカスじゃね?くらいに180°考えが変わった。
まあ、祖母の兄弟もあと10年もしたら皆鬼籍に入るだろうから、その後に葬儀を取り仕切る機会が有れば、父の勧め通りに迷わずAmazonお坊さん便で、略式の葬儀にするだろうなとは思う。何だかんだ思うことはいろいろあったが、良い社会勉強の機会であった。
将来的には、持ち主が死んだら、墓の横に刺して戒名を表示できるようになるんじゃね?デジタルフォトフレーム的な。防水も付いてるし
イオンの経営する病院で生まれ、⇒イオンモールに総合クリニックを開設~「ドクターランド船橋」
イオンの経営する保育園に預けられ、⇒イオンのゆめみらい保育園
イオンの経営する広告代理店の紹介で、⇒イオンマーケティング(株)
イオンの経営する会社で働き、⇒イオンエンターテイメント(株)
イオンの経営する結婚紹介所で出会い、⇒ツヴァイ (今はイオングループを離脱)
イオンの経営する病院で子供を産み、⇒イオンモールに総合クリニックを開設~「ドクターランド船橋」
イオンの経営する保育園に子を預け、⇒イオンのゆめみらい保育園