はてなキーワード: 地域性とは
バンドリも無理してみたけどよくわかんなかったし、SHOW BY ROCK!!も多角展開ありきで金かかってんなと思ったけどそれだけだと感じた。要するにアイドルものにもリアルアイドルにものめり込めない。キャラや個人に入れ込める人の心理が昔からよくわからないので、多分ずっと無理だ。
関係性や地域性の話は納得していい。特に(アニメではないが)アクタージュなんかは心理劇として非常に高いレベルで構成されていて、シナリオ構成としても教科書レベルではあった。それが最高に面白いと感じるかどうかは別として。
ものによっては日常系も嫌いじゃない。ただ、好きだけど深いとかそういうのはないな。
アニメ自体が凡庸でもファンが、というくだりは上のアイドルの話とも関わってる。そこに何かを感じられないのが薄いというのか、それを感じさせる導入や導引できる要素があるかどうかってのは大きい。例えばレビュスタがととても良い出来だったのでスマホ版やりますって気分にはなれなかった。続きは劇場でって言うのも違う。完結しててまだ続きが見たいと思わせる余力があるかどうかがでかい気がする(レビュスタに関してはきれいに完結してたので蛇足はいいという感じだった)。
そして好きだけど深くはない、とう話に関しては、増田の言う話と結構合致する話だと思う。
思えば昔の5時台のアニメはこんな感じだったような気がする。なんとなく続いてるけど終わると寂しいという。延々と続くシリーズ物を愛する傾向は日本人には特に強いので、深みはなくとも大衆に愛されるなにかは残ってほしいね。クールが制限されてそういう土壌もいなくなってる気がするけど。古くはルパン、少し前なら妖怪ウォッチのような。こっちの方面も金、金でないもんはしょうがない気もする。
でも作品ごとに「ディープ」の形は違う。考察の余地があるような、論理的・技巧的要素だけが深さじゃない。
関係性の微妙な変化のような描写に力を入れることで深さを出している作品もあるし、地域性やパロディを詰め込んで拾っていける人だけが味わい深さに気づける作風のものもある。
最近はクロスメディアで感動の線が絡み合っていく構成のものも多いし(アイドルもの、ゲーム原作ものなど)、そういうものになるとアニメを追っているだけじゃディープな領域をキャッチできない。
アニメーション自体は非常に凡庸な出来でも、ファンが見ると涙をこぼすようなものもあるだろう。アニメ単体主義ならそういうものは論外扱いするのかもしれないが、そういう要素を含む作品は非常に多い。
アマプラで無料の『来る』が話題になってたから見てみたんだけど、後半の霊能力者が各地から集うシーンがすげえ良かった。沖縄から来る旅行者気分のお喋りオバちゃんグループ!関西圏から来るおっさん2人とジジイ2人の寡黙なグループ!JK巫女!警官隊!
チェンソーマンの京都組なんかも良かったし、ガンツの大阪グループも素敵だった。格闘漫画でトーナメントやる前のキャラ紹介も基本的に好きだ。だいたいほとんどのキャラはすぐやられたりして消えるんだけど、その儚さもいいんだよな。誰が残るのかわかんないのもいい。
(地域性じゃなくて専門分野が違うドリームチームみたいなのもいい。オーシャンズ、シンゴジラの巨災対、『いつだってやめられる』の教授チームもそうだ。各人が特殊能力を披露するシーンは燃える。)
そういうの集めたデータベースとかないのかなあ。俺はこれみよがしな方言描写は基本的に嫌いなんだけど、各地から集まってきた実力者が喋ってるってシーンなら全然許せるどころかなんなら好きだ。「なまら暑いべさ」とか言いまくっててほしい。地域ステレオタイプをほんのり練り込んだ、どうせすぐ退場するからってことではっちゃけて好き勝手作ったキャラたちを見たい。
氷系の能力で固めた北海道組!(北海道は寒いんだからむしろ氷系は効果が薄いんじゃないのか?みたいなツッコミどころも愛嬌になる)
地味な四国組!
本を水平にして、本が開く側の角に近い位置を持つ。
手首で強くスピンをかけて、手裏剣のごとく、水平方向に回転させながら投げるのだ。
野球ボールのように手首を縦に振ってスピンをつけるのは、手首の構造上、わりと楽だが、本の場合は横に振ることになるので難しい。
そのためには持ち方が重要で、手を添えるように持つのではなく、指先だけで摘まんで持つのだとよく指導された。
なるべく本の角に近い位置を持てと言われたのも、今考えれば、手首からの距離を稼いでモーメントを大きくするためだったんだろう。
本の角を摘まむなんて行動は日常に無く、そのたびに指が吊りそうになるわけだが、練習すると痛みにも慣れてきた。
やがてスピンは良くかかるようになり、本の飛距離も伸びて嬉しかった。
あと、物体は上側45度方向に投げた場合が一番飛ぶと言われているが、本の場合、それだとバサッと空中で開いて落ちてしまう。
そのため、本を投げる場合は、水切りの石のように、水平に投げる方が良く飛ぶとも言われた。
徒然でなく、目的意識を持って水切りしたのは、後にも先にもあの頃だけだ。
指を吊ってまで本を投げるのに比べたら、それは授業で眠りにつくくらい、無意識に簡単だった。
それゆえ、河幅はそこまで狭くなかったが、石はたびたび対岸まで跳ねてしまう。
対岸に人が居ると練習ができず、シュッシュッと口に出しながら、手首を何回も「素振り」して練習に勤しんだ。
当然、薄くて大判な本ほど、空気抵抗が弱く、回転力が増すため飛びやすい。
すると、遊びの目的はいかに厚手で小さい本を飛ばすかに移ってくる。
小さいのでいかに手早くスピンをかけるかが勝負なのだが、それにもまして、厚手になるその重量に手首が負けてしまう。
スピンでの痛みは捻るような感じなので、捻れが戻るようにそのうち消えてしまうのだが、重量による痛みはグキッと来る致命的な痛みだった。
さすがにまずいと思って重量にこだわるのはすぐ辞めたが、一度だけ、広辞苑を学校の体育館の向こうの壁まで飛ばしたときはとても嬉しかった。
今なら、鳥人間コンテストで対岸まで届いた人を見た気分とでも言うのだろうか。。
まあ、利き手(利き手首?)は1週間くらい使い物にならなくなって、ノートを左手で書いたり散々だったが。
もしくは飛距離を競うこともある。
こちちは手首への負担という点では、それほど問題ないのだが、費用的な問題が壁となる。
長く飛ばしたいとなると、体育館や倉庫でも借りない限り、飛ばす場所は野外になる。
(ちなみに、学校の廊下は長さ的に十分だったが、他の生徒にぶつかる、蛍光灯を割るなどのイベントを経て当然禁止されていた。)
すると、本は飛ばすたびに土や泥で汚れてしまう。
ある程度の汚れだと、本のページとページがくっつくので、逆に飛距離が伸びることもある。
それを「本が締まる」と呼んだりしたわけだが、それでも表紙面に付着する泥が多くなると、真っ直ぐ飛ばなくなる。
それゆえ、本には定期的な買い替え需要が発生する。
いや、野外で飛ばす人でなくても、少しでも飛ばしやすい本を求めて本を買い漁ったりする地域性なのだ。
当然、古本屋もそういう需要を見越していて、価値はわからないが、とにかく薄くて大判な本を多めに扱っていた。
それは、ブックオフで100円なのにいつまでも積まれている価値の薄い本とでも言えばわかってもらえるだろうか。
そういえば、古本屋でいつまで経っても同じ本が積まれているというのも、大学入学で家を出るまで知らない現象だった。
そういうわけで、飛ばして遊ぶだけの内容がわからない本が、家にはいっぱい置いてあった。
だから、子供の頃は、どんな家でも2種類の本棚があると思っていた。
読む用と飛ばす用と。
後者は家の外に置いておくのが普通だったが、大人になってからは、そんな習慣は世の中に無いのだと聞いて、
逆に、汚れた本まで家に持ち込むの?家の中がドロドロになるのに気にしないの?と勘違いに勘違いを重ねたこともあった。
あと、地元以外の家だと、壁に本をぶつけた傷が無いことも新鮮だったな。
あれ、窓を割らないように投げるもんだから、窓と反対側の壁によく付けちゃうんだよ。
花瓶や壁掛けの絵画なんかも、実物は大人になってから初めて見た。本を投げて壊すかもしれないから、実家には無かった。
そして図書館は、飛ばすための「道具」が揃う夢の場所だったが、当然そのような行為は禁止されていた。
「本を飛ばして遊ばないでください」なんて掲示が貼られていたのは、うちの地域ぐらいのものだろう。
図書館においてだけ、本は本来の存在意義を保つことができたのだ。
それでも、貸出を受ければ誰も見ていない。
図書館には必ずと言っていいほど、変なページで曲がり、ホコリや泥の付いた本があった。
図書館の本がこんなにキレイに管理されてる!と知ったのは、やはり実家を出てからのこと。
そういえば、実家近くの狭い公園にも同じ掲示が貼ってあったな。
野球のボールじゃなくて、本で近所の家のガラス割るっていう経験も、子供にはよくある経験だと思っていた。
そうそう、良い子は真似しないでね。
自分が中学生だった頃、恋愛が周囲にバレることは”””死”””だった
片思いすらバレればからかわれるし、校外で会ってるところを見られようものなら当面その話題で持ちきり
堂々とお付き合いをしていたのはごく一部の鬼メンタルのカップル(カースト上位同士)だけだった
それが地域性なのか時代性なのかは分からないけど、そのせいで最近の僕ヤバの展開についていけない
山田はまだ分かるんだ、あいつに周囲の目を気にするようなメンタリティはない
でも市川の方は気にするだろ
仲直りのハグも最寄り駅から手を繋いで歩くのも、嬉しさより「もし知ってる人に見られたら」というヤバさが勝って拒絶するだろ
しろよ
幸せになれよ
日本で『愛の不時着』並みのジレンマを内包した恋愛をとりまくストーリ―テリング
はどうやったら描けるのだろう?
この韓国ー北朝鮮の地域性ー国家として分断されつつも、言語や、大戦前までの
歴史的経緯も含めた文化的価値観を共有した国民間で揺れ動く思い
を再現するのはほぼ難しい。でも確かに引き込まれるものがあるのがくやしい。
隣国として傍観している立場の日本人ですらここまでハマる人たちがいるわけだから
当事者である韓国の人の共感度はより高いんだろうな。逆に貧国的な環境を
如実に(おそらく一方的に)描かれた北朝鮮の人たちにとっては、許せない
描写もあるとは思うけど。
どう日本で活かせるか知りたい。
客室清掃係責任者経験者として反論します。雑な人でも忘れ物をしない人はしないですし、そうでない人でもする人はします。ですから、私は清掃員に対し、如何なる場合でも注意を怠るな、と指導しておりました。先入観がクレームを呼ぶのです。
まず何より思うのは、ギリギリまで身支度をしない。多分ギリギリに大慌てで飛び出してる。
部屋のモノの散乱具合からその慌てっぷりが感じられる。
確かに、このようなお客様は、忘れ物をされる確率は高くなりますが、しかしこうした人は一方であまり忘れ物を気にしないという面がございます。ホテルのフロントの人に聞いたことがありまして、急いでお出かけになられたあるお客様が、清掃に入ってみると、靴下や洗面道具、イヤフォン、何か資料の入った紙袋など、結構多めの忘れ物をされたのです。出ていかれたばっかりでしたので、まだ間に合うと判断しすぐにフロントに連絡しました。すると、フロントの係がそのお客様にお声掛けをしたところ「知ってるよ!捨てていったんだよ!こっちは急いでいるんだ!」と相当の剣幕で叱られたのだそうです。
で、これは結構当たっていて、こうしたお客様の大半の忘れ物は、保管していても連絡してこられることは確率的には低いのです。忘れ物保管作業も代行しておりましたので「ったく、きちっとゴミ箱へ放せよな」といつもぶちぶち言いながら忘れ物記録保管作業をしておりました。
2つめ、ゴミをゴミ箱に捨てない。飲みかけのペットボトルや紙コップがいくつもデスクの上やキャビネットの上に並んでたり
これも1と同様ですね。ただ、これはある程度は仰るとおりで、清掃員にとっては厄介な話でもあります。ゴミなのか忘れ物なのか分類が難しいことが多々あり、ゴミだと思って捨てたものが忘れ物だったとして連絡が入り、ゴミ庫から再度ゴミ袋を取り出して(こういう事があるのでホテルではゴミ袋には部屋番号等を記載して二日間程度は保管します)、必死で探す羽目になることも結構あります。当たり前の話だとは思いますが、ホテル客室は宿泊期間中はお客様のプライベートルームではございますので、破壊等の行為に及ばない限りはご自由にご使用頂いて結構ですが、普段使われているであろうご自身のお部屋ではないので、慣れてはいないために、どこに何があるのかという認識は難しい事も結構あると思います。しっかりした整理を心がけることは忘れ物をしないことにも繋がりますので、ご留意のほどお願いしたいところではございます。清掃員はプロではございますが何分にも時間に追われております故、努力はいたしますが、忘れ物の区別を完全にはつけられないので、ご協力いただきたいところです。大変なんです、忘れ物をゴミの中から探したり、最悪リネン類に巻き込まれていたりしたら、探す方は死ぬ思いをするのです。
3つめ、モノの定位置を決めてない。脱いだ靴下を布団の中や足元に放ってたり、何となく窓際に置いたライターを
そのまま置いていく。
これには反論させていただきますが、これも1番めに述べたのと同じで、このようなお客様は、滅多なことで忘れ物を連絡されることはありません。割とどうでもいいから、放っていかれるのではないかと思います。もちろん、そうでないお客様もいらっしゃいますが、お客様の真理としては、例えばライターであればそれがいわゆる百円ライターであれば、そんなのどうでもいいわけです。靴下などは特にそうで、靴下を後になって連絡してこられるお客様など全くいません。靴下に関する限りこれは100%断言していいレベルです。ですから、靴下なんか捨ててほしいんですよ、清掃員の皆さんは。でもね、言えないんです。何が忘れ物で何がゴミかは原則としてお客様が決めるものですからね。しかし、てめぇら常識で考えろ! と忘れ物処理させられる責任者はいっつもくっさい靴下を忘れ物に分類処理していたわけですよ。酷い日には忘れ物の殆どが靴下なんてこともザラにあります。しょうがないんですけどね、真面目に働いてくれる人ばかりなので、文句は口が避けてしか言えません。
4つめ、ビジネスホテルにわざわざ据え置きゲーム機持ってくる人。なぜかというと、そういう客は長期連泊で、しかも若い。
ホテルの地域性等によるのだと思いますが、私の務めたホテルでは据え置きゲーム機はそんなにございませんでした。今どきはスマホやPadで十分ゲームできますし、ノートパソコンでもいいわけですので。で、少ないですけど経験上からいいますと、こうしたお客様はほんとに大量のゴミあるいは忘れ物を部屋に放置されたままでチェックアウトされます。あまりに酷いので、普通なら一人で清掃するものを三人がかりでゴミ/忘れ物分類をした経験さえございます。普段ならダンボールに一箱二箱で一日分の全室の忘れ物を保管できるのに、たった一部屋で四箱もの段ボール箱を必要としましたが、これもまた結果的に連絡はございませんでした。たぶんね、いわゆる確信犯だと思うんですよね。以前の爆買時代には中国系の方が同様のことをされることもしばしばありましたが、まず連絡などありません。
靴下がダントツで充電器がその次、はこれはどこのホテルでも同じですね。充電器なんざどこででも買えますから個人的にはお忘れになられてもそんなに気にしなくてもいいのではないかと思いますけどね。でもご利用予定のある方への注意点としては、退室時にコンセントチェックを忘れるな、ですかね。これが結構多いんですよね。コンセントって、例えばカーテンの裏側になってしまったり、ベッドサイドのキャビネットなどの見えづらい位置にあったりして、どこにあるのか探すのに困ったお客様も結構いらっしゃると思います。言わば盲点なのでして、何はなくともコンセントだきゃぁ確認を怠るな、とでも覚えておいて頂いて損はないかと思います。バスルームを退室時直前にチェックするのも含めて、ね。
仰るとおり、荷物の多少に関わりはございません。ほとんど身一つで宿泊されたお客様が、ネクタイ忘れていく、だなんて普通にあります。油断大敵ですので、お気をつけ下さい。
ともかく、一分、いや十秒で結構です。お部屋をチェックアウトされる際には、荷物をまとめたら一旦サクッと部屋をチェックする、あるいは最低でもドア手前で一旦振り返る、これが寛容かと存じます。ゴミに分類されても二日間、リネンに巻き込んでもリネン屋で判明、忘れ物なら三ヶ月は保管されますので、忘れ物をされたと思ったらご連絡いただければ可能な範囲でご対応させていただきますので、何卒ご協力のほどお願い申し上げます。
特に、シーツ類への巻き込みと言うか、ベッド上に忘れていくのだけはやめてほしいです。シーツ剥がして清掃員が気付かずに巻き込んでしまうと、後で探すのメッチャクチャ大変なので。あと、細かい話ですけど、ホテルと同じ色や柄の私物パジャマだけはやめてくださいね。リネン洗濯に出さないといけないので、区別つかないと回収されちゃいます。
勤務先は県内に5店舗を展開する、とある会員制サービス業である。
他店と自店を比べてみると、明確な根拠はないのだが、どうも自店のみ客の質が悪いように感じてしまう。
小さなことに難癖をつけてくる、普通(何をもって「普通」とするか議論の余地はあるが)ならまず言わないようなことまでことさらあげつらう、嫌味が多い、など具体例は枚挙に暇がない。
あくまで私が主観的に感じるだけであるが、そう感じるのは「何らかの理由や根拠があるに違いない」と仮説を立て、思い当たりそうなものについて考えてみた。
自店の接客レベルが低い、基本的所作がなってない、地域性、双方の個性の問題…。
当社は同業他社に比べれば会費が安いことを売りのひとつにしているので、安かろう悪かろうの言葉通り「それなりの」客層になるであろうことは否めない。
現在、ジョージ・フロイド氏の死をきっかけにアメリカだけではなく、世界レベルの人種差別撤廃運動が盛んだ。
ただ、この活動は結局何も意味を成さないように思う。正確には何かしらの影響は出る。コロナによる閉塞感や不況に苦しむアメリカ国民のガス抜きになったり、マスター/スレーブや白黒という既に定着した用語がコンテキストを無視して言葉狩りされたり、あるいはトランプが失脚して後のアメリカの動きが大きく変わるかもしれない。
それだけだ。アメリカでの人種差別の本質は何も解決しない。あれはアメリカの社会構造/経済構造に深く根ざしている。100年かけて作られた社会構造を変えるには100年かかるのかもしれない。少なくとも表面的な言葉狩りで悦に入ってるだけでは何も変わらないだろう。
まず、アメリカにおいて「黒人あるいはヒスパニッシュを恐れ疑うのは正しい」というどうしようもない事実がある。
言うまでもないが個人を取り出したときに善良な人は山ほどいる。私の知人にも黒人は居るが彼らをことさら警戒することは当然無い。
ならばなぜ警戒することが正しいのか? それは彼らが貧困層としてスラムに多く居るからだ。スラムには黒人やヒスパニッシュが多く居るの方が正確かもしれない。性善説にしろ性悪説にしろ衣食足りて礼節を知るので、貧民街の治安は一般的に悪い。それは教育不足によるモラルの崩壊や全うな職にありつけないため犯罪に手を出さないと生きていけないという事に起因する。かつての日本の同和差別なんかもそうなのだが「ガラの悪い地域の人間と付き合うな」というのは小市民的な処世術としては致し方ないと言わざる得ない。お金があれば犯罪をしないかと言われれば当然そんなことはないが「今日のご飯のために」盗みはリスクが高すぎるのでしないという話だ。
適切な教育を受けねば経済的に自立できず、経済的な自立ができなければ犯罪に走らざる得ず、その状態では適切な教育を与えられない。そして「中には善良な人もたくさん居る」というのは事実と知りながらも貧困層と向き合うときには警戒せざる得ない。10人に1人の犯罪に走ろうとする人間が目の前の知らない誰かとは分からないからだ。
日本から見るとアメリカは教育先進国として紹介されることもある。それは一面で事実だ。多様性を重視しリーダシップ型の人間を育てるのに適した学校も多い。
義務教育期間の授業料が無料という話を聞いたこともあるだろう。そんなアメリカで経済的な理由で教育が受けれないというのは何故だろうか。なんのことはない、アメリカの教育費はメチャクチャ高額なのだ。
アメリカに住めばわかるがアメリカの教育費は基本的に高い。何故なら学区という考え方があるからだ。
日本では文部省主導による教育指導要領によってどの小中学校も基本的には同じことを教える。同じことを教えるから原則的には設備も似たようなものだ。教室があり体育館がありプールがある。調理実習のための家庭科室や実験のための理科室、音楽室なんかもふつうはあるだろう。最近ならコンピューター室とかもあるかもしれない。そんなのは当たり前で多少の地域性や教員のスキルの優劣はあっても、日本ではどの学校に行っても誰に教わってもだいたい同じことが学べる。だが、アメリカではそんなことはない。
アメリカの学校は学区ごとに完全に独立している。これは設備の有無はもちろん、教える内容も全然違う。進化論の代わりに創造論教える学校も普通にある。何故このような独立性があるかといえば、学校の費用は学区の税金から賄われている。つまり学校の周りの地価/家賃によって学校の予算が変わる。そして、予算のある学校は良い施設と教員を揃え先程あげたような先進的な教育をしてくれる。では、そうでない学校は? 不足した設備とやる気のない教員により十分な教育を受けることができない。
しかもアメリカは日本なんて比べ物にならないほどの学歴社会だ。なので、親は子供に良い教育を受けさせようと良い学区、すなわち家賃の高いところに住む。子供のために良い学区に住むなどもザラだ。そうして比較的裕福な層が住むことで治安も安定する。市の予算があるので街も綺麗で便利になる。すると子供を持ってない層でも住みたがる。アメリカで治安はマジで大事だ。そうすると家賃はどんどん上がり、貧困層は住めなくなり下手をすると元々居た土地から追い出される。
この学区というやつは相当細かくて、道路挟んで一つで世界レベルの金持ちが住む超優良学区と経済的に弱く残念な学区が同じ地域にあったりする。パロアルトとか。
サンフランシスコ等のシリコンバレー界隈で時々問題になる不動産の高騰問題がこれだ。ただ、これはアメリカ全土で程度はさておき起こっている事だ。家賃と教育や治安といった部分が強く結びついているため、経済的弱者が這い上がる事が難しく裕福層との差分は時と共に拡大していく。
無論、アメリカは自由の国だ。アメリカンドリームの国でもある。当然、貧困層への教育も考えており特に成績上位者を特別に上級な学校に通えるようにする仕組み等も整っている。「機会の平等を!」これに関してアメリカは取り組んでいる。
しかしながらそれは上澄みを救う対応だ。伸ばすべき人をもっと伸ばす。これはとても理にかなったことだが、固定化された格差の解決にはならない。必要なのは底上げだ。
これには奇しくも日本型の「結果平等」の考え方の方が向いている。日本の教育は決して万能では無いが、格差を固定させない----すなわち富の再分配としては良く機能している。
さて、話を戻そう。
先程から経済格差の固定の問題について話してきた。では何故それがアメリカでの人種差別の問題に繋がるのか?
このような社会構造が出来たとき、100年200年前の経済的弱者は誰だっただろうか? そう、奴隷解放されたばかりの黒人たちや中南米からやってきたヒスパニック達だだ。
ここから経済格差が固定され拡大された。今以上に白人至上主義な世相も大きく影響しただろう。
ヨーロッパの時代かユダヤ人差別を筆頭とした差別はあるし、それはどの地域、どの時代でも残念ながら変わらない。日本だって同和問題とか在日問題とか色々ある。
ただ、今のアメリカでそれはより深刻だ。単なる風説とか好悪だけではなく、必要悪として「貧困地域の人間を恐れる」という事と一体化してしまっている。元々差別にあっていた人種そのものが地域で固定されかつ教育/経済の両方に負のスパイラルが入り用意に抜け出せないという最悪の状態だ。この状態では単に黒人を恐れるなと言っても仕方がない。なぜなら犯罪を犯すものも事実として多いのだ。もっと良い職をというのも難しい。それは適切な教育を受けてないからだ。そして、それは偏見をどんどん加速させていく。事実と虚実がおり混ざって差別の根はどんどん深くなる。誤解と偏見を無くせば良い生易しい話ではない。
これは政治が全うに富の再分配をして、地域経済によらない教育/地域経済によらない治安というものを打ち立てるしかない。もちろん、偏見をなくすための活動はとても大事だが同時に事実としての固定化された経済と教育の格差を解決しないと根本治療とならない。
ただ、今までのアメリカはそういう国ではないし、これからなるにはかなり長い道のりの気がする。事実、このデモのさなかでそういったことはさほど話題にはなっていない。もっと初等教育を平等にすることに力を入れる方が大事なのに。誰だって今持ってる利権を手放したくないのだが、そこから目を逸しては今回の人種差別問題もさしたる成果は得られないのだろうな。。。。
地域性ゆえか実際に見たことはないし、なんならどんなものなのかも分かっていないが響きがカッコいい!ショパンの曲とかを流しながら町を移動しているイメージがある 豆腐屋みたいなもんなのか?
なんせカッコいい ハウルの動く城くらいのサイズでもいいし、もっとクソデカくてもいい メガフロートみたいな感じの海上漂流都市路線もいいし、ラピュタみたいな飛行都市も捨てがたい
男のロマンだ(これセクシスト発言?) 移動都市とかぶる所も多いけど、やっぱこう黒煙を吐きながらドシンドシン動く鋼の城って良い
たいていすごい威力の主砲みたいなのを積んでるんだけど、期待するほどの威力は発揮できないパターンがメチャ多い印象
このあたりがかっこ良すぎて「移動」ついてるだけでロマンを感じるようになってしまった
「移動祝祭日」はサーカスみたいでかっこいい、「移動ド」はテクニカルで強そう、最近じゃ「移動平均」なんてのも見るようになったけどこれも重心をずらして相手の予測の裏をかく技みたいで渋いんだよな
(追記)
複数言及があったモータルエンジン冒頭部見ました いいねえこの…なんだろう…馬鹿馬鹿しさというか勢いというか 移動都市ってこれだよ!!って感じ
増田やっててよかった
この原則に気が付くかどうかで世界の見え方が変わるので、言っておきたいと思う。
たとえば、今日はTwitterでこんなことが話題になっている。
「宅配便の人が帰って、扉を閉めた後少し待ってから鍵を閉める。これに優しい人は共感してくれる。」
という内容のツイートがバズった。
要するにバタンガチャだとまるで締め出されているようで不愉快と感じるので、それに配慮している、だから優しいということなのだ。
「親からそう教えられて育ちました。」
「いつも当然にやっていました。私って優しいんですね!」
■第二波:共感しない人の登場
「防犯の観点からやめておいた方が良いと思う。安全が一番だよ。」
「宅配の人そんな事気にしてないよ。」
「出た出たマナー(笑)。こういうマナーが犯罪の温床なんだよな。」
「自分の事優しい人だと思ってイキり散らしてるかわいそうな奴ら。」
「これだから思いやりのない奴らは。人の心がない。」
「親に教えてもらえなかったんでしょう、お育ちが悪いんですね。」
「当然のことが出来なくて、恥ずかしいですね。」
■第五波:遠目に見る派の登場
「やれやれ、みんな他人の価値観を受け入れられないんだなあ。」
「なぜ意見交換ではなく、喧嘩して攻撃しあってしまうのだろう?」
「どちらの主張も正しいと思うよ。」
さて、ポイントはこの5パターンの全員が、自分の事を無意識化でも一番いいやつだと思っていることである。
「いやいや俺は自分が悪い事知ってるからな、全然いい奴なんかじゃない」
「私はまだまだ未熟なので、良い人なんかじゃないですよ」
という人も中にはいるだろう。
しかしそのように斜に構えたり謙虚な姿勢を見せることを、最も良いと考えているからそのような行動をとるのである。
■追記
Q:増田は具体的にこの原則がわかってどう見え方が変わったの?
A:まず、自分と別意見の人間に対して一切腹が立たなくなるということだ。
少なからず無意識下で発生する「こいつは分らず屋だ」「こいつを分からせてやらねばならない」という気持ちがかなり軽減されるのだ。人間である以上たぶん0にはならないが。
ネットスラングで言えば「うんうんそれもまたアイカツだね!」である、アイカツ見たことないけど
Q:自分の思った良いこと(正義)に基づくのは当たり前じゃね?
A:言ってしまえばその通り。めちゃくちゃ当たり前。
しかし当たり前のことがあまり知られていないというのは、ネットの次の話題となった自殺案件の様子を見れば明白ではないだろうか。
なおこの増田に対して「お前だって自分のこと正義だと思ってるくせに」という旨のブコメがきっとあると思うが、これもまた増田が人間である以上当たり前である。
そしてそのような発言をすることが発言者の正義であることも当たり前なのだ。
A:増田は宅配の件は共感しない派。防犯意識が高い家だったのでそう教えられて育ったから。
そもそも親の方針や家の形状、地域性にもよる話だからねこれは。自分もまた家の特徴に対してこれが合理的だと思われる。
例えばオートロックのマンションで育った方に関しては鍵をかけるという概念すらそもそもふわふわしたままであることが推測されるように。
本日休日につき、#stayhomeしていたら、外壁塗装を行う地元企業の営業員と思われる人がインターホンを鳴らした。
飛び込み営業自体は別に構わないのだが、当然先方も探りを入れるというか、少しでも情報収集をしようと試みてくる。
真っ先に尋ねられたのが借家か否かということだった。
借家ならば営業すべき相手は住人ではなく大家なのだから、真っ先にこれを判定するこの営業員の姿勢は適切であると感じ、特段の不快感は覚えなかった。
「気を悪くせずに聞いていただきたいのですが、このお住まいは貸家ですか?」
こんな言い回しだった。
そして私の居住都道府県は持ち家率が高く、持ち家に住むのが普通、賃貸に住むのは何かよほどの"ワケあり"で異端、と判定されがちな地域性があることは確かである。
この営業員は、「借家に住んでいます」と表明することが気を悪くするようなことであるとの認識を持っているのであろうことが推察された。
まぁまぁ衝撃だった
中部地方で、駅員に土下座させたり、電車をブッ叩いたのを見た時と同じくらいの衝撃
家賃が安い地域なり(といっても千葉埼玉神奈川よりは高い)の出来事を見聞きしてきたし、
寂れている地域やリーゾト地に存在しがちな「?!」って人を見てきたので、
上面だけは世慣れというか、いろんな人間を知ってきたつもりだったが、
うーーーん、まったくそんなことはなかったんだなって
単純に地域性の問題で自分が住んでいた地域がまだ上澄みのほうだったんだなって
・・・が、話しても必ずしも通じるわけではない
(信条に反するから認めない、益にならなそうだから無視をするではなく、文字通り ”通じない” 。OSが違う)
その事は人の可能性を信じるのと同じくらい噛み締めていきたい
摂津(西部)・播磨・但馬・淡路・丹波(氷上郡・多紀郡)の5か国が置かれた。
神戸港が貿易で栄え、武器を収める倉ができ、兵庫という呼び名が広がり、いつの間にか合併されてしまったこの5か国。
兵庫県となった今も、この5か国の分断は続いている。
まず地形を見てほしい。日本海から瀬戸内海があるのが兵庫県だ。山も海もある。
隣県は大阪、京都、岡山、鳥取。どれも微妙に毛色の違う県である。
しかし、やはり県境というのは日本人にとって重大なもの。隣県に、いつも仲間に入れてもらえないのだ。
尼崎なんてそこらの大阪より大阪の中心部に近い。なのに、大阪ではない扱いだ。市外局番06なのに。ほとんどの市民が大阪に通って仕事しているのに、だ。
結果的に、地域性や自分がどこの出身かということを強く意識し、そして愛する人が多くなっていった。
自らを「〇〇市民」「阪神沿線」「阪急」「JR」「伊丹空港」「自然学校」などと称する人ばかりになった。
ゆえにケンミンショーという番組が始まるまで、兵庫県民という使い方は一般的ではなかった。
ケンミンの焼きビーフンは神戸の食べ物であり、別に兵庫県民に特別なじみがあるわけではない。
正直兵庫の真ん中、秘境の地(何もないので大河の撮影をしている場所)あたりの方言は、もはや関西弁ではない。何を言っているのかわからない。
淡路島という場所も兵庫県にある。ここもまた、独自の文化で発展した。
「神が生まれた島」ともされている。
それゆえか、いたるところにタコが干されている。タコの印象しかない。
しかし淡路島の玉ねぎが無ければ、日本に淡路島の玉ねぎが無いということになる。淡路島は大切だ。
姫路の人は神戸人のふりをする。姫路はド田舎だ。神戸は三宮以外わりとなんもない。
宝塚なんか松岡修造の祖先が作ったような地域だ。阪急の支配下である。ウィルキンソン炭酸水がとれるくらいしか土地的には面白みがない。
思うに、兵庫県と呼ばれる場所は、戦乱をくぐりぬけ、平和こそが大事だと悟り、大切に、尊重しあった結果、
自国(摂津播磨但馬淡路丹波)の概念は残り続けたのではないか。
それに伴い、兵庫県知事は住民票に基づく兵庫県民に対して「外出を控えるように」と宣言した。
海の、山の、六甲おろしを超えた、また海の、兵庫県民たちがざわついた。
決して、交わることのない兵庫県民が、はじめて一くくりにされた。
はばタン、空を飛ぶ。
スーパーマーケットが好きで、よく行く
食料品もあまり買い溜めずスーパーに行く機会が多くなるようにするし、借りる部屋を選ぶ時もスーパーの近さがかなり決め手になる
スーパーマーケットには生活がある ホームセンターとかにもまああるけど、それより日常との密着度が高くてより生々しい
それでいて清潔感と距離感もある 商店街の店なんかだと話しかけられたりしてビビるし、床も地面と変わらない感じ でもスーパーの床は(土足で入ってるはずなのに)なんとなく綺麗だし、全体的にモダンでクリーンで店員さんも必要以上にちかづいてこない
スーパーには多様性がある アイスが安い店とかエスニックスパイスに強い店とか惣菜が旨い店とかベーカリーが充実してる店とか、とにかく色々ある しかも同じ街の中にたくさんの種類があることが多い(コンビニは一番多くて5種類くらいだ)
地域性もある 旅行に行くたび地元のスーパーに入って何があるか見てまわる 地元企業の商品がたくさん並んでたり、食材が違う名前で売られてたり、そもそも全然見たことのないものが売られてたり 楽しい
スーパーには全てがある
手から唐揚げが出てきたとか、そういう都市伝説が千年後にマジで信じられるわけもない。
例えばビル・ゲイツが後の伝説的な、いわゆる神話クラスの始祖として宗教的偶像崇拝の対象になるなんて、まずありえない。
いわゆるインターネットを介さないミームによって伝説は作られると思っているので、今日では三国志演義的な嘘は全く通じないことになる。
「じゃないミーム」っていうのは、例えばメソポタミアあたりの古代の洪水神話が世界に伝播して各地の神話になった、みたいなものなので、ある程度の地域性と知名度と、出処の不確かさが必要なわけで。