はてなキーワード: 地域性とは
なので、その通り。
例えばヒトデなど。
ただ、ヒトデなんか自体も毒性の強さが地域性・個体で異なるので、フグも個体ごとに毒性が大きく異なる。
これが怖いところで、例えば「思い付きで有毒部位を食べたら死ななかった」というのがありうる。
それで、次回、有毒部位を食べたら一気に死んだりする。
有毒種の有毒部位を食べても、なんだなんともないじゃないか!ということも有り得る。
だからこそ、次回も食べようとチャレンジした人間が、過去に死んでいった。
ですので、有毒フグおよび鑑別できないフグは食べるべきではないです。
なお、テトロドトキシンは、乾燥後にも有毒性を有していたケースがあるので、煮干しでも危険。
個人的には、明らかに「有毒種」と鑑別できたものは、きちんと有毒部位を除去すれば食える。
ほぼ、というのはまあ大体大丈夫だけど、宝くじ1等に当たったり道で転ぶくらいの確率で違法にもなりえるから。
まあ、あくまで入浴を補助する女性がいるだけで、たまたま恋愛関係になってるという無理のある設定だが、管轄の警察やら保健所もまあ知っててスルーしてるかな。
料金はそれなりにするが確実にセックスできる。セックスが初めてでも、むこうもそういう客にも慣れてるので心配なし。カラオケボックスみたくドアに窓はあるが、普段はタオルで隠してるので大丈夫。
料金は入浴料+サービス料。最近は総額表示が多いけど高級店だと入浴料だけで万超えるので注意ね。
公式では禁止だが、もちかけるとOKも多い。(追加でお小遣い払うけどどう?みたく軽く一回聞いて駄目なら諦めるスタイル)
「AF(アナルファック)OKって実質そういう意味だよ]と嬢から言われた事はあるよ
ソープの存在しない地方都市だと客引きが「うち、本番できますよ」とか言ってたりする。
特に箱ヘルもない地方としだと実質本番ありみたいな状況もあるみたい。
ただ、あくまで公式では禁止なので無理だと言う子はいるし、リスクとウザがられるの気にならなければ。
追加料金は5kから10kくらい。
なお追加料金ありは円番とか言ったりするみたい。
感覚としてはデリヘルと変わらない感じ。ただ、いわゆる風俗的なサービスは期待しないほうがいいかも。
なお、デリヘルと出会い系で両面待ちしてるような状況もけっこうあるみたい。
場所によってはピンクコンパニオン。温泉やホテルに呼んで、ホステスさんが下着姿、あるいは全裸でエロい感じ。ただし、抜きサービスや二次会のセックスは本来してないので、「私はそういうのやってません」と言われる可能性はある。なお二次会は追加料金あり。
男だけの団体旅行であるけど、世間の普通の人は知らないのも多そう。
地域性を問わないとこんな感じかな?
生きてる佐藤と働いてる佐藤で割合が異なるとは考えづらいから、そこは無視してもいいような気がするが……
考慮するなら地域性とかだと思うよ https://style.nikkei.com/article/DGXMZO37367700V01C18A1000000/
タワマン全体が困るというのは、事件としてエンタメ性が強いみたい
まずこの時点でエンタメ性が強い
昔ほど最近は地域性が無いから、そういう意味で特定の地域の人が同じ課題に〜っていうのはタワマンくらいなんじゃないか?
ちなみにこの人数規模に近いのが「学校」だ
電気への影響が強くなるとかなんとか
自分ごとにして、タワマンに引っ越すのが有りか無しかという意味での興味本位もあると思うし
豪華客船みたいな感覚で「どんなもんなんだろ」という興味本位であったりもすると思う
実際はそんなもん無いのかもしれないけど、その縮図があるだけで野次馬はご飯三杯いけてしまう
身分、宗教、土地、いろんなエンタメでそういう構図は用いられている
・管理会社
・住民(高層、低層)
・親
・子
小説書けそう
そんな感じ
妬みとか無しにしてもバズりやすいわ
日本はそこまで広くないからな。たいていの地域から東京日帰りできちゃう。
米国や中国は首都以外の経済圏が成立するけど、イギリスやフランスやスウェーデンなんかは日本と同様に首都一極集中。
ドイツは東西分裂していた名残だから参考にならないし、イタリアやスペインは首都よりもミラノやバルセロナが経済的に発達しているということ。
江戸時代までは日本も地方政権の連合体だったから、その名残が残っていた戦前くらいまでは地方でも新興企業が生まれてきていたよ。
名古屋はトヨタをはじめとして全国ブランドが多数あるけど、大阪はきびしいね。
日亜化学やジャストシステムなどを生んだ徳島みたいに、大都市圏じゃなくてもバブル期以降でもで新興大企業が生まれてきている地域もあるから、地域性とか民度とかによるんじゃないかな?
もういやだ。
今や年号も変わったのになんの進化もないシステム。わかりにくいお便り。閉鎖的地域性のオンパレード。
兄弟がいること前提、近所に友達がいること前提、仲がいい前提で全てが進んでいく。
なんで地域で理解しあってる体で話を進めるのか。「〜さん所の誰それさん」いや知らない。「何時いつまでに〜さんとこ持って行って」誰だしどこだよ。未だに連絡袋とか本気か。その情報だけで理解できるの、なんでみんなそんなに仲がいいんだ。個人情報大丈夫か。
お便りもそれに乗じるな。わからん。こっちは何もわからん。重要事項を数枚に分ける上に見辛いデザインで渡すな。「これくらい知ってますよね」の体で渡すな。知らないよ。知ろうと努力するけど情報源がお便りしかないからなにも察せない。お便り見てやっと理解する。ルールを知るには行間を読めみたいなことあるけど経験も知識もないから読めない。書いてある通りにしか読めないよ。
相談するにしても親世代が違う。みんな世代が一回り違う。怖い。頑張っても話が合わない。輪が強固すぎる。コミュ障のよそ者にはハードルが高い。疎外感がすごい。
学校の疎外感を大人になってからも多方面で受けなきゃいけないとは思ってなかった。
願うのはこの2点だけどきっと叶わない。みんな知ってるから。知らないのは私達だけだから。
新興住宅に引っ越したい。地域のしがらみが少ない所に行きたい。
引っ越しして転校させてもっと「わかりやすい」学校に入れたい。
がんばるしかない。
がんばりたくない。
いまではURとかで多少はイメージが変わったのかもしれないが、昭和平成が生んだ「団地」という住まいとそのスティグマ、偏見差別を述べたい。
自分は両親健在で母は多少裕福で女性ながらに四年生大学まで行かせてもらえる経済環境に育った。父は祖父祖母ともに定職に就いても長続きせず、学力はあったが経済難にあり、掘っ建て小屋のような家で育った。そのためか結婚したら必ず持家を購入しようという意志があったようだ。堅実に新婚時代から団地で暮らし貯蓄していく生活を選んだと聞いている。
その団地は15階建てという昭和後期には珍しい高層建築物であったが、そのせいか自殺の名所になってしまっていた。月に1〜2人は飛び降りをするというその団地は年月の経過を得ていくほどに地域から煙たがられる存在になっていったのである。
そんな団地で何も知らず生まれ育った自分は当時サッカーに専念しており小学生クラブから私立中学へスカウトのお声をかけてもらうことができ、そのまま進学をすることとなるが、それが差別偏見、果てはいじめへと繋がっていくのである。
地域ではある程度裕福な子供が通う私立ながらに地域性も高いその学校では、自分の住む場所によってヒエラルキーが生じていた。定期券など見ればある程度住まいがわかってしまうため、団地暮らしである自分は「自殺の名所育ちかよ」「団地暮らしの貧乏人」と罵られた。何かと生活レベルの違う同級生はそのままエスカレーターで進学したが、自分はその環境に耐えきれずサッカーをやめて公立高校に進学した。
今でもその団地は存在し両親はそこに暮らしている。持家の夢は団地というコスパの良い暮らしにより妥協と、労働への意欲の低下へと変化していった。もちろん団地暮らしの人々すべてがそうだとは言わないが、いわゆる訳ありですよねと言われてしまう住人が多いのも事実だ。
だがそのような場所で暮らし生きていくというのは常に差別偏見を受けていくということで、豊かな生活とは程遠い。本来どんな人でも安心して暮らしていく権利があるものではないのだろうか。
週末に不動産屋に連絡を入れてみた。
不動産屋からネットに乗っていない家賃12000円の別物件を紹介され、そちらにすることにした。
トラバにある通り、田舎の古い空き家の多い地域ならではのテクニックなのかもしれない。
始めはトランクルームも検討していたのだが、ブコメなどでご指摘いただいている通り、部屋にして本棚に並べて参照して通覧する必要がある。
たとえばの本を出すと、たとえばの話だが
『足柄下郡誌』(伊勢治書店、1899)、『北巨摩郡誌』(山梨教育会北巨摩支会, 1915)な感じの古さとレアリティ、地域性の共通テーマを持った本が沢山ある。
これらは実際にはそれぞれだいたい国会図書館デジタルコレクションで電子化されているのだけれど、それだと項目ごとに通覧しにくいため、原著で持っていた方がいい。
そして、トランクルームだと取り出して参照して……だと手間がかかる。
ということで、テーマごとに本が並んでいると調べるのに都合がいいのです。
部屋を借りた方がトランクルームと同じくらいの値段でずっと広く使うことができる、と今回発見があった。
図書館で借りればいいのかもしれないが、もう一つ持っている本のジャンルがサブカル系のあるジャンル(たとえばの話『大技林』とか太田出版みたいな)で、
関西の「また遊ぼう」は関東では意味が通じない場合がある、というお話に衝撃を受ける人々「うそやろ!?」
https://togetter.com/li/1314047
読んでいてなぜこれを指摘する人がいないのだろうと思ったので書いておく。
この記事は要約すると「また」が関西ではネクストの意味で使われていて、関東ではアゲインの意味で使われるからすれ違いが起こる、という指摘をしたものだ。たとえば一度も遊んだことない人に「また遊ぼう」と言うと、「まだ遊んだことないよね?」と返事されるという事故を紹介している。
これに対して周囲の反応ではネクストの意味で使われるのは単なる方言だ、という見解に収束しようとしているが、これは単純な地域性の問題じゃないことをここでは指摘しておく。
このすれ違いは端的にいって通信技術によって可能になった「対面しない」コミュニケーションで起こっているということだ。
どういうことかというと、通信技術が発達する以前は、当たり前のことだが「また」という言葉はすべて相手に会った状態で発せられる。
ということは、今現在会っている状態が「初回」であり、「また」というのはこの次の機会のことを言っている。
つまり機会という領域においては「ネクスト」であり、会うという領域においては「アゲイン」になる。どちらも元より意味として含有しているのである。どちらか一方が地域によって使われているのではなく、「また」はどちらも含有した言葉なのだ。
だが、通信技術の発達によって「対面しない」状態で「また」を発することが可能になった。そうなると「初回」が宙に浮いた状態になり、すれ違いが起こるのである。