はてなキーワード: 主婦とは
なんでかなぁ。
なんか混んでるし、通路狭いし、主婦客が多いからか移動するときやたらぶつかるし、レジもいっつも並ぶし、
しかも並ぶ環境が整ってないから「こんなとこに並ぶのやだなぁ」ってところに並ばなきゃいけないし、気づくと他所の列が全部空いててボケっと待ってる自分が馬鹿みたいになってるし、
一人一人の買う量多いからちょっとの行列でもけっこう待つし、ポイントカードだなんだとうるさいし、レジ袋もいちいち確認されてだるいし、
自分も結局買うもの多くなるから帰り道がだるいし、でかいスーパーの袋持って歩いてるときに知り合いに会いたくないから気疲れするし、
当たり前だけどスーパーって生鮮食品多いから今の冷蔵庫の状況と未来の献立考えながら買い物しなくちゃいけないから疲れるのかなぁ。
でも学生時代にいじめられたこともあるし、いじめたこともある。
先生に反抗したこともあるし、やんちゃな子を諫めたり先生に報告したこともある。
職場ではいろんな自分を試して、あまり主張しないキャラで生活してみたり、
リーダーシップバリバリ発揮するキャラを演じてみたり、いろいろためした。
その経験からすると、結局、どんな立ち位置であれ視点を変えれば加害的な要素はあるのだ。
いじめられていた時は、自分の思い通りにならない時に不機嫌になってグループの楽しい雰囲気を台無しにしていた。
いじめていた時は言わずもがな相手の子に精神的なダメージを与えていただろう。
先生に反抗したことも、視野の狭い自分の意見を振りかざして授業時間を削り、先生に負担を強いていただろう。
やんちゃな子を諫めた時も、それを諫めようが諫めまいが誰も傷つかないはずなのに、規範を彼らに押し付けていた。
主張しないキャラでいることは、こちらの意思伝達コストを相手に丸々ぶん投げる行為でもあるし、
リーダーシップを発揮することは、チームの個々の利益(楽して稼ぎたいとかプライベートを充実させたいとか)を損ない、自分の社会的評価を獲得することでもあっただろう。
そんな具合で、どの立場であっても加害性というのは多かれ少なかれ存在する。
にもかかわらず、twitterやnoteなんかで見かける、「自分は絶対的な被害者だ」と言わんばかりの未熟な主張を見ると共感性羞恥とやらを感じると同時に、社会悪を見た時のようなモヤモヤした気持ちがわいてくる。
私の日常にある似たもので言えば、会社の禿げた課長が毎日鏡とにらめっこして、日本人なのにハゲててもクールなナイスミドルですねという称賛を強要してくるのだが、そんなナルシズムと同じ気持ち悪さだ。
20代前半ならまだいい。あれぐらいの年頃は自分が一番かわいくて、自分が一番かわいそうだって思いたいものだ。
だけど40代主婦です!30代です!なんてプロフに書いている人が、誰にも言うことができなかった状況なの!
なんて錦の旗をブンブン振り回して自省をしない様を見ていると、彼女らが苦労するのはある種自業自得だと思ってしまう。
ちょっと前にはてなで本当にヤバイ奴らは風俗などですらセーフティーネットにかからないって書いていたけど、
まさにそういう人たちはたくさん存在して、ほんの少しの画力や表現力が添加されているだけで、人間性としてはあまり関わりたくない、そんな人々たちが犇めいているんだなあと思うと、
やっぱり社会はまだまだまだ不条理で生きづらいんだろうなと、明日の出社準備をしながら悲しくなってしまった。
いや、この悲しさは明日出社しなくちゃいけないという憂鬱由来が8割だな。
憂鬱だからこそどうでもいいことを嘆いてモヤモヤしているだけなんだろう。歯磨いて寝るわ。
思ったより見てもらえてびっくりしている。
が、寝る前に勢いで書いたのでところどころ雑だなあと我ながら恥ずかしくなった。
さて、私はたぶん絶対的な弱者ではなくて偏差値で言えば40くらいの弱者だと思う。
記事中では自身が絶対的弱者だと主張していないのだが、ブコメを見るに私は強者だということになっているので、
せっかくなので、私の記事を見てもやっとしたり、攻撃されているという気分になった同じ偏差値40くらいの弱者の人にアドバイスがしたい
私は弱者を克服してはいないのだが、個人的な感覚としてはだいぶ生きやすくなった
未だに人が多い食堂は利用できないし、バスや電車に乗ると定期的に気持ち悪くなって降りてしまう後遺症があってもだ。
不便ではあるが絶対的な不幸ではなくなった。
ここでいう偏差値40とは、本人の自己研鑽で主観的な生きやすさが偏差値48~52くらいには上げることができる人を指したい
弱者の中にも努力でどうしようもならない人もいるし、努力をすればある程度は不便が解消される人もいる。
努力をすれば生きやすくなるのに、絶対的弱者に落ち込むことで努力をしない状態に自分を固定してしまう人もいるだろう
だけど、最近の風潮としては弱者に努力を要求することはご法度だ。
その中にはそれでこそ生きにくさを解消できる人も大勢いるとしても。
弱者に甘んじるということは、一般の人から見ると権力の行使としてとらえられる。
それはそれで生きにくいし、なんなら属性を明かさない方が生きやすい人も多いだろう
けど、絶対的な弱者は椅子取りゲームのようなもので、そこでも目に見えない戦いがある
また、人は遠くの石油王より、身近な時給が100円高い人に憎悪がわくものだ。
弱者を少しばかり克服して、医者から薬が必要ないことを仲間に告げたときに、
陰でいろいろ噂を流されたり露骨に嫌がらせをされたり人格否定をされたりと、
だからこそ、最近の風潮ではマチズモとレッテルを貼られて見向きもされないかもしれないけど、
気持ち悪い話し方だと言われたら3日坊主を何回も繰り返して話し方を改善したり、
生きやすくなった私のような例も示したいのだ。
もちろん、疲れた時に毒を吐くのもいいし、感情的になるのも大切なことだ
だけど、研鑽でのみ救われるタイプの弱者はそれに加えて自省内省が必要なのだ。
だれもそのことは表で言わない。今なら袋叩きになるだけだから。
そして、弱者は自分の身を立てることだけを考えて、絶対的弱者に近づいてはいけない。
上述の通り足の引っ張りあいも存在するし、何しろそこで他人に配慮している余裕なんてないのだ。
同情している健康な人たちは、気持ちを注ぐことである種の消費をしているものだ。
加えて、それを心得るだけで、ある種の人からは好かれるようになるのでオススメだ。彼らはいい人が多いので、少しばかり繋がることで本当に生きやすくなる。
こんな感じで、私は病名がつく障害を持っていて、
非正規で低所得で独身でも弱者の中の強者らしいので、強者は強者らしく振舞いたいと思う。
ちょっと本気でしらべればわかることだがADHDには根本対処できる可能性のある薬がいくつか出てる。
こういう根性論でどうにかしようって思うやつはそれこそADHDっぽいぞ
ADHDで薬のみながら子育てしている主婦エッセイも実際いくつかでてる(ブログでタダで読めるのもある)。
そうやって「うっかり殺したら刑務所にいかなければいけないほど絶滅しやすい生き物」を命がけで育ててきた人(おまえの親含めて)に感謝するべきだし
恩返しするためにおまえらもなんとかして必死で子育てするべきだとおもう
5才児が8階から落ちたり
浴槽どころか洗濯機や洗面器で溺れ死んだり
知らないおじちゃんについてってみたり
ADHDくらい自分で対処できるようになれ(無理だとおもうくらい酷い症状なら人に手伝ってもらっていいから障害者手帳と福祉年金で暮らせ)
この文章で一番やべーのここだよな。
正確には、界隈の中で本当に仲がよい友人ふたり程、それに地方在住のおそらく主婦業をやられているフォロワーさんからは来た。この方々がいなかったらこんなもの書く前にさっさと同人誌のことは黒歴史にして畳んでいただろう。
「下手くそすぎて黒歴史」とか「中二病すぎて黒歴史」とか「メアリー・スーすぎて黒歴史」とかはよく聞く話だけど、他人からの反応がなかったから黒歴史ってなんだよそれ。
自分の作品はどうでもいいのかよ。作品がかわいそうすぎるだろ。
たとえ5部しか売れなくても、たとえ1つも感想が来なくても、それでもこの本は愛すべき自分の作品なんだという気概がない人には同人とか向いてないよ。
むしろ同人活動をしていると表明している人間が実際には「同人誌を描いてくれた方に感想を送る」という責務を果たしていないことにあるかもしれない。
そんな責務見たことも聞いたことも実感したこともねえよ。お前の界隈おかしいよ。
この界隈には、いわゆる「ボス」的な立場にいる人間がいる。よくオンリーイベントやアンソロジーなどの色々な企画を取り仕切ったり、学級委員として何かを回したりする立場の人間と言えば、ほどほどの規模の界隈なら心当たりがあるのではないか。
そんなやついねえよ。オンリーはやりたいやつが企画して参加したいやつが手を挙げてやるもんだろ。10年以上関わってきた界隈でこないだ新しいオンリー開かれたけど聞いたこともないサークルさんが主催だったよ。それでも毎度コミケにいるような古参から初めて見るような連中まで一堂に会してオンリーやってたよ。界隈で有名な人はいても界隈を取り仕切るやつなんていねえよ。お前の界隈おかしいよ。
ボス程ではないが、同人活動「ガチ勢」の中にはちょくちょくそのような人間がいる。Twitterでは自分の原稿や界隈の中で行儀が悪い人への愚痴がほとんど。それなのに自分がインターネットに適当なイラストを上げる時は「RTうれしいな」と言っている。もちろん他人のイラスト・小説はほとんどRTしない。
少なくとも俺のいる界隈では、自分の原稿の話ばっかりする人はいるし、厄介さんへの愚痴をたまに呟く人もいるけど、「行儀が悪い人への愚痴」ばっかり呟いてる「ガチ勢」なんて見たことねえよ。普通は作品の話とか自分の萌えの話とか自分にとっての創作論とかを主に呟くもんでしょ。お前の界隈おかしいよ。
「同人文化を支えていこう」などとお題目を唱えている割に自身の……率直に言って絵柄やストーリーが大して練られているわけでもない原稿に時間を割いて、お友達以外の他者にはほぼ無関心なのは、彼らの言う「同人文化」もたかが知れているのではないか。
同人文化は個々人が自分の好きなことをしてその集積として成り立つもんなんだから、自分の創作や友達との交流を最優先するのは当たり前でしょ。個々人が自分の好きなことを追求できる自由な場があって、その場にお出しされたものが同人文化であって、同人文化を支えるってことはその場を(書き続けるとか読み続けるとかの形で)維持するってことなんだよ。他人にベタベタ干渉することが支えるってことなんじゃねえよ。お前の「同人文化」像おかしいよ。
半分答え出てるじゃん。お前が勝手に義務だと思ってるだけでそれは義務でもなんでもないんだよ。そのくらいわかろう? 自分の中で縛りプレイするのは勝手だけどそれを他人に押し付けたら駄目だよ?
あと、感想送る→活動止まるは見えるけど、感想送らない→活動止まるはすぐには見えないから気づいていないだけじゃないですか。何もしなければ責任を取る必要はないけど、真面目に考えるなら見殺しにしてきた同人作家の数でも数えた方がいいんじゃないですか。感想を送らないことを正当化する人間が一番腹立つんですよ。
俺は最近小説をあんまり書いてないけど、それはショボい文字書き(&設定厨)なのでネタが尽きてきたのと、私生活の面で色々なものごとに追われて余裕がないからであって、感想の有無は関係ねえよ。かつての俺は感想がなくても書き続けていたし、ありがたいことに最近過去作への感想をもらってそれ自体はめちゃくちゃ嬉しかったんだけど、だからって書くのを再開する気にはなれない。創作は徹頭徹尾自分のためにやることで、感想はそりゃないよりもあった方が嬉しいけどそれで自分の創作意欲が左右されたりはしない。
お前が感想によって創作意欲を左右される人間であり、お前の周囲にそういう人間が多いことはわかったが、だから感想を送るべきとかいうクソマナーを作られても困るんだよ。そんなもん知ったこっちゃねえよ。お前のお気持ちを世の中の常識だと思うなよ。どうしても送ってほしけりゃ「私は感想によって創作意欲を左右されるメンタルよわよわ作家なのでなるべく感想ください」とでも本に書いとけよ。そう書いておけば送ってやろうかという気になるファンもいるんじゃねえの? してほしい配慮は口で言わねえと他人にはわかんねえんだからよ。
正確には、界隈の中で本当に仲がよい友人ふたり程、それに地方在住のおそらく主婦業をやられているフォロワーさんからは来た。この方々がいなかったらこんなもの書く前にさっさと同人誌のことは黒歴史にして畳んでいただろう。
は? 同人誌ってのは自分が書いた文章が形になる、それだけで嬉しいもんなんじゃねえの? これまでは自分の頭の中にしかなかった「ぼくが書いた一冊の本」を活字として手に取れるのが最上の喜びなんじゃねえの? 感想なんて来なくたっていいんだよ。お前は自分が生み出した初めての本のことをどう思ってるんだよ? 感想が来なかったから黒歴史なのか? 違うだろ? 感想が来ようが来まいが、自分の萌えと理想を詰め込んだ一冊の本がそこに存在している、そのこと自体に幸せは感じねえの?
お前、自分の本に来た感想のことは気にしてるのに、自分の本それ自体を気にしてるようには(少なくともこの増田からは)見えないんだよな。はっきり言って異常だよ。子供が学校に行きはじめたんですけどちっとも友達を家に連れてこなくて~って言ってるみたいに見える。いや子供が毎日元気に学校でお勉強してるだけでめちゃくちゃ偉いだろ! 子供を褒めてやれよ!
うちの嫁は常に現状の不満を持っている その不満を打破するために自分で努力すればいいのだがそんなことは絶対にしない
常に「こんなはずじゃなかった」と他人に不満をぶつけるだけだ そして不満をぶつける対象を常に探し求めている
結婚前は「仕事が辛すぎる」と毎日愚痴を言っていたのに、結婚して専業主婦になった途端「私は家事と育児だけで一日が終わる あなたは会社があっていいよね」と平気で言う(じゃあお前も会社へ行け)
東京への転勤が決まった途端「あんなごみごみしたところ人が住む所じゃない」と言い放ち、数年して次の異動が出ると「田舎暮らしは嫌だ 東京に残りたい」と宣う
とにかく何もかもが不満でその不満を誰かにぶつけたい 駅でたまにいるスマホしている誰かにわざとぶつかりにいくおじさんと一緒の存在だ
そんな既婚女性に与えられたエクスカリバーが「ファミニズム」 これを思い切り振り回しガンガンと殴りつける
で、そうやって世の中のありとあらゆるものを切り刻んだあとで一体何が残るんですかね 何も産み出してなくね?
4.5.6月期は源泉徴収の1割を差っ引いて9割支給だから、完全休業でも特をする10%以上の源泉のやつは逆に得するコロナ下 この状況下で気になるのは
そんなもん 4 5 なんて できるわけがない 完全自粛に決まってる 金?だから休業のほうが儲かる仕組みになってる。
この状況下で 失業率といっても休業も含めた 失業率がわからない アメリカの40%というのは休業も含めた失業率を言うとそうなるのだろう。休業と主婦は違うから。
休業を選んだほうが、通常は源泉が10%なんてバイトだけだから得という状況下で 失業率が4%をめざして上昇中。
早く経済を戻さないと は そのとおりなんだが 下手に戻すと この特例給料があるから 連鎖倒産を引き起こしかねない 大阪の動きを見ている だまれっていうけど じっしつかなりだまってるよな
最近やたらツイッターでBLMだのフェミだのについてありきたりな持論を優等生面して語ってるけど
お前ニートじゃん
政治の話をすると面倒くさいやつだと思われるかもしれないけど、勇気もって話そう!」
とか言って、でもお前ニートじゃん
俺らフルで働いてて、家族の飯とか作って、子どもいるやつらはその面倒もみて、
皆すごく気を使い合いながらなんとか自分の考えを主張して人の主張も聞いてる、自民派も反自民派も
お前はニートで日がな一日ネットで配信の感想や正義漢ぶったお気持ちツイートを垂れ流して
自分と似たような意見言ってる有名人に擦り寄って自尊心満たして
たまにお菓子作っただのイラスト書いただの手芸しただのおいしいお酒飲んだだのってインスタアップはするけど
お金が無いからと言って寄付はしないし体が弱いからと言って活動も何もしない(海外旅行には年一で行く)
ツイッターも好きに楽しめばいい
ただ、俺たち勤め人を、主婦や子持ちを、啓蒙しようとするのはさすがにウザすぎるんだわ
「皆さんにもよく考えてほしいです🥺」じゃねんだよクソニートが
オタクだから仕方ないと思うけど、あこがれの職業だから『作家でござーい』というムーブしちゃって、ちょっとマウントしちゃう人たちに告ぐ。
私の知っているあなた。
「私作家だから会社員のあなたよりエライ!」ってマウントしてる相手のお仕事、お名前隠してるけれど編集さんですよ。よりによってあなたのお仕事関係です。
せっかくのお仕事、次の機会がなかったらどうするの?
あと以前にも見たけれど、一般書の作家さんなのでまるっきりペンネーム違う、隠してる、という人にマウントムーブしちゃってる人も見ている。
そんな人ごまんといる。
マウントなんてやめなって。
皆が皆、ペンネームを明かしているわけではない。
「仕事する用の名前」を晒して日々活動してるのはそんなに「強い」ことじゃない。
この世界の人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である。
数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。
この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに分けられる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である。
どんな記憶も忘却の可能性を含んでいて、それがいかに尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。
とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるものだ。例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類だ。
これから話す記憶は――意外だと思われる人もいるかも知れないが――恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は(少なくとも僕にとっては)、一度忘れてしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないということになる。
あるいは、死んだ猫の重みを人生の最後まで引きずっていく人もいるのかもしれないけれど、僕がこの世界からいなくなる時に、多分、死んだ猫の記憶は僕の傍にはいない。
人生というのはタフなもので、多くの場合予断を許さない。例えば、猫は前触れなく死んでしまう。そこに救済は存在しない。
猫は突然死ぬ。
だからこそ、我々はタフにならなければならない。タフな(きつい)人生に耐える為には、我々自身が精神的にタフにならなければならないのである。
して、タフな人生を生き延びるために重要な資質とは何だろうか?
僕が思うに、恐らくそれは一種の判断能力である。つまり、重要なものと重要でないものを区別する為の判断能力である。
この世界において、重要なものと重要でないものを比較すれば、前者は圧倒的に少なく、後者は圧倒的に多い。これは考えるまでもなく当然のことである。重要なものが我々の前に際限なく溢れ返っているのであれば、我々の人生はもっと救済に満ちたものになる筈だからだ。でも、現にそうなってはいない。人生における重要な事物は泥の中の砂金と同じである。それは、恐らくは多くの人が感じていることだろうと思う。
そう、我々が人生を全うする為にもっとも重要な能力は、数少ない重要な物事と出会った際に、その重要な出来事を迷わず掴み取る能力なのである。
タフな人生を本当に生き切る人間に備わっている素質は、恐らくはそれだ。彼らは汚泥の中の砂金を迷わず掴み取り、幸運の女神の前髪を毟り取らんばかりに握る。僕も、そういう人間になろうと日々心掛けてきた。この世界に溢れ返る物事の中に、ほんの僅かに存在している、かけがえのない事柄。あるいは、溢れ返る人々の中に存在している、かけがえのない人々。そういう人(もの)に出逢えば、できるだけそれを失わまいとしてきた。
我々の心の中には無数の記憶が存在している。その多くは、断言するに無意味な記憶に過ぎない。病院の記憶、体育館の記憶、商店街の記憶――はっきり言って、その殆どは無駄な記憶だ。重要な記憶というものは一握りしか存在していない。
我々の人生には限りがある、その限られた人生の中で、無意味な記憶に無意味な情愛を注ぐことだけは避けなければならない。情愛を注ぐべき人を選び、情愛を注ぐべき記憶を選別すること――自分にとって重要なものを、重要でないものの中から選び抜くこと――それが本当に大切なことなのだ。だから、我々は、警戒しなければならない。一見重要であるように装っておきながら、実際には全く我々の人生に無意味な事物……そういうものへの執着を捨てなければならないのである。
書いていて思うが、幾分このような視点には屈折の気配がある。勿論、それは自分でも分かっている。でも、やはり我々の人生は貴重なものであり、貴重でないものと触れ合うことで、その輝きを鈍らせる必要はない――そういう視点が一抹の正しさを備えていることも、また事実なのだ。
はっきり言おう。
これから語る記憶は、決して僕の人生に重要なものではない。むしろ、どうでもいいものなのだと。
大した記憶ではない。
道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。
その肉体の損傷は一見して分からなかったが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っていた。既に絶命していた。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの運転手はゆっくりと車を走らせていた。つまり、道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。
猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉の運動はとっくに停止している。
僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を自転車に乗って通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見ていた。
通り過ぎる。
川沿いの道を走り、こじんまりとしたアパートに辿り着く。駐輪場に自転車を停め、アパートの裏手へと回り込むと、階段を上った。
階段を上る度に、カンカンと乾いた金属音がこだまし、やがて僕は二階の自室の前へと辿り着いていた。
鍵を開け、扉を開け、自室へと体を滑り込ませる。
薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。
猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートルの距離があって、僕はあらゆる意味で当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。
再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートルの距離。時間はそれほど掛からず、辿り着いた時にも猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。
僕は歩道に自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に轢かれる心配のない路端へと引きずった。
そう、引きずったのである。
抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。猫の頭部がごろりと動いた。
猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレンの手袋に付着した。
そこには愛情は無い。僕の人生に残留するべき温かい思念というものは存在していない。
だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミングで忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。
僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである。
猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである。
ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。
僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。
初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路の中間辺りから続く夥しい血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、たまに、盗み見るように視線を向けた。本来の当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。
やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。
彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。
やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車だった。
この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフが二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両の収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。
僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレンの手袋を処理した後で、日常のルーチンへと戻っていった。
多分、この記憶は僕の人生に残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が死んだ猫の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。
しかし、それはあくまで一般的な教訓に限っての話だ。僕個人の、個人的な教訓に関しては、少しばかりはあるかもしれない。
多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタルな――欠くことのできないほど重要な――部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情の記憶であり、誰かからの愛情の記憶である。
そういうものを欠くと、我々のバイタルな部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。
とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。
これまで僕が延々と語ったこの記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。
でも、と思うのだ。
この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。
記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者の記憶の方が圧倒的に多い。この世界の殆どの記憶は後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。
それでも、と僕は思う。
その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。
僕の記憶の中で息をしている。
猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。
多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。
僕が猫のことを忘れ去るその時を。
じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。
この世界の人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である。
数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。
この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である。
記憶というものは原理的に忘却の可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。
例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。
これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れてしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないということになる。
タフな人生を生きようとする人間の功罪の常で、僕は重要な記憶とそうでない記憶を峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。
僕は自分にとって重要な物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要な人間とそうでない人間を峻別できると思っている。そこが功罪なのである。人間は自分にとって重要な人間とそうでない人間を並置し、比較し、時に冷徹に判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。
さて、そんなこんなでこの記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要な記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。
大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。
その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり、道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。
猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉の運動はとっくに停止している。
僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。
猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートルの距離があって、僕はあらゆる意味で当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン製手袋を取り出した。
再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートルの距離。時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。
僕は歩道に自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。
そう、引きずったのである。
抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。
猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレンの手袋に付着した。
そこには愛情は無い。僕の人生に残留するべき温かい思念というものは存在していない。
だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミングで忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。
僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである。
猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである。
ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。
僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。
初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路の中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来の当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。
やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。
彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。
やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。
この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフが二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両の収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。
僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレンの手袋を処理した後で、日常のルーチンに戻っていった。
多分、この記憶は僕の人生に残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。
しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。
多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情の記憶であり、誰かからの愛情の記憶である。
そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。
とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。
これまで僕が延々と語ったこの記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。
でも、と思うのだ。
この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。
記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者の記憶の方が圧倒的に多い。この世界の殆どの記憶は後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。
それでも、と僕は思う。
その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。
僕の記憶の中で息をしている。
猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。
多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。
僕が猫のことを忘れ去るその時を。
じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。
7月からコンビニ3社でレジ袋が有料化 注目高まるエコバッグも新型コロナ感染リスクに不安の声…対策法は?
https://www.nippon.com/ja/news/fnn2020060549399/
>可能であれば、マイバッグは(店に)持ち込まないというのが、感染対策上はいいということになります
>また、街行くエコバッグの利用者66人に「洗濯をしたことがあるか」と尋ねると、半数以上の52%が「ない」と回答。
>こうした中、環境への配慮から始まるレジ袋の有料化。正しいケアさえすれば、エコバッグも安心して使えるという。
>洗濯できるものであれば洗濯して持ち込むというのがいいし、お店に持ち込む前にアルコール等でしっかりと清拭して(店に)持って行かれるのが望ましいと思います
断言しても良いけど、毎回買い物する度にここまで手間をかける人なんていないよ。
例え意識が高い人であってもアルコールを振りかける程度で毎回洗濯なんかするわけがない。
良くて1週間に1度すればマシな方と言えるし、それならばリスク自体は変わらない。
エコバッグ何枚も買って回すとかする人とか今じゃ奇特な方でしょ。
生花や土に植えている植物はそれこそマイバックの使用なんて、非現実的だからそれこそレジ袋の利用は避けられないし、ホムセン関係は大きいものも多くてそういう意味では非効率的。
それに今ですらケーキ屋やパン屋とか個人商店レベルでは嫌がっている所も多いし、企業においても大手の大企業の良く判っていない上層部だけが賛同していて、現場レベルだと余計な手間ばかり増えて嫌がっている人も多いからね。
スーパーにしてもコンビニにしても店員に余計な手間が増えるばかりだからね。
それと喜んでやっているのか内心嫌がっているのか知らないけど、百貨店なんてただでさえ不景気及び消費税の増税、そしてコロナ禍の直撃で瀕死状態なのにここで更なるレジ袋有料化は余計に客足自体が遠のく悪手にしかならないのも目に見えてる。
それにエコバッグ自体小さいものが多いし、大きいものは入らないので絶対客とのトラブルも今後増大するよ(笑)
はっきり言って代替不可能のものも多かったのにも関わらず、強引に強行させたLED普及の時と同じで良く判ってない人が作った机上の空論による産物であり、これを作った人達はそれこそまともに買い物とかした事ない人達なんじゃないかな?
環境対策で一番有効なのはそれこそ人間の活動を潰す事だから、究極的に言えば人類が絶滅する事だってのは専門家も皮肉交じりで言っている事だからね(笑)
この辺もトランプ大統領がパリ協定から離脱し、環境政策自体嫌厭しだした理由なんだしね。
そもそもあの辺の環境対策とやらも排出権辺りから本気でおかしいものばかりだったから。
海洋汚染についてはポイ捨てが原因ならばそれを減らす努力をするのならば、ポイ捨てを防ぐためにゴミ箱を増やす方が効果的であり、レジ袋以外にも要因自体多いのだからはっきり言ってこんなもの家計のコスト増加及び更なる経済の停滞を招くだけであって、害悪でしかないよ。
今じゃ逆にゴミ箱を減らすとか却って不法投棄やポイ捨てする状況を生み出している本末転倒な結果を訳だしね。
ゴミ箱に関しては彼ら曰くテロ対策とか言っている側面もあるからこれだけが問題ではないのだけどさ。
それにそもそも日本だけで禁じても海外から流れて来るものについては意味がないと言える。
また他の人も言っていたけど、市や省庁が収入を増やしたいだけとかポスト先が欲しいとかそう言う思惑で言っているだけである事ももう一般人は見透かしているからね。
しかし当時の児童ポルノ禁止法でも著作権でも何でもそうだけど、意味のない自身の利益の口実に使う様な対策ばかりして余計に事態を悪化させたりする事ばかりしているなと思うね。
そしてこの手の綺麗なお題目で短絡的な規制をやらかす連中ほどやたら海外デハーとか言いたがる人多いのも事実だよね。
これにしても現状ただでさえコロナが問題になっている中でやらかすから、不潔で不衛生である点が更に問題視され、またコロナ禍で企業や経済の回りが悪くなっている上での家計への直撃を招き、不経済的で、より気軽な買い物が嫌厭される状況を作り出すのだから、ただでさえ不景気な上消費税増税とコロナ恐慌が重なり、悪化している中でやるのは経済的にも致命的な打撃を招く一つの要因と化すし、現状それこそあの人達の大好きな海外では万引きが増加した事例もあるから社会不安の悪化にも貢献する上に米国のカルフォルニアでもレジ袋を禁じたら却ってゴミ袋や紙袋の使用が増えて、CO2発生量が増加したと言う本末転倒な結果を招いているみたいだしね。
先進国がスーパーのレジ袋を禁止しても意味ないよ、という記事。
「海のプラスティック廃棄物の半分は中国、フィリピン、インドネシア、ベトナムの4カ国から来てる」また「カリフォルニアがレジ袋を禁止したら、ゴミ袋や紙袋の使用が増えて却ってCO2が増加した」#環境 https://t.co/g16JFm2Njx— 北欧の理想と現実 (@yasemete) June 21, 2019
これじゃ昨今コロナ禍において地方自治体が言っていた三密ならぬ三不を招く状況になる事でしょ。
エネルギー的や資源的にもこの手の意味のない所か害悪な環境対策の方がより無駄な浪費を招いているのは今まで言われている通りでレジ袋なんてそれこそ石油の残りカスから作られているのだから利用しないと逆に無駄な訳。
つーか、どっかの誰かさんも言っていたけど、変なリサイクルをする位ならばこの辺からも燃やした方が余程マシな訳。
SCP-2419みたいに亡霊の残骸が延々に再生するわけじゃないのだからさ。
ただあの人達はダイオキシンやら二酸化炭素やらがその亡霊の残骸みたいに思えているのだろうけど(笑)
しかしここまで環境問題もあの手の団体や政府や官僚が日本に限らず、悪用しているのだからそりゃ環境学や生態学、地球科学とかの専門家ほどうんざりする状況になっているのは理解できるよ。
この問題も変な国連を介したリベラル系団体や主婦系が絡み各国政府が悪用しだしてからより一層おかしな方向に行ったのも事実。
子供の権利や女性の権利とかでもそうだけど、この辺の団体は本当の意味で碌でもない事しかしないよね。
倫理や道徳や平等とかの綺麗事を言って自らの政治思想に悪用する様な事しかしでかさないから。
そもそも環境対策と言うのだけど、本来は人間の生存圏の延命対策なのだから、宇宙開発も見据えた循環システムの構築の研究にこそ力を入れるべきなのだけどね。
どうも省エネ化ばかりみてその辺すらおなざりにしてそこら辺の技術開発すら停滞させているのが今と言うのを実感しているし、その省エネ化すら的外れな所にばかり向かっているのが今だよね。
まじ?凄いニャ。
11歳娘が「お母さん、これ昔のネットで流行った踊りらしいんだけど、今またクラスで流行ってるんだけど知ってる?」って見せてきた動画がウッ-ウッ-ウマウマでひっくり返りそうになった— よく眠りたまに色々考える主婦 甘木サカヱ 紙書籍発売中 (@toppinpararin) June 4, 2020