はてなキーワード: 酸素とは
朝は快晴。暑さで起床。日差しが辛い。
・ROUTE 17 Rock 'n' Roll Orchestra
池畑潤二率いるバンドに、ゲストとしてトータス松本・甲本ヒロト・大江慎也(ルースターズのボーカル)がゲストとして登場。
グリーンステージ一発目としてお祭りの始まりを飾るに相応しい、愉快なロックンロールバンド。
甲本ヒロトがYMCAを歌っていた時に物販列に並んでいたのが非常に悔やまれる。
社長はいつも通りガウンを羽織ってらっしゃって非常に暑そうだ。
バンド内で社長の役割は「アジテーター」となっているが、実際はサックスのエフェクターをいじってダブ風にしたりパーカッションをしたりとちゃんと他の仕事もしていた。
クラブ・ジャズバンドであるため、どうしても後に見たJazzanovaと比較してしまうのだが、Jazzanovaの方に軍配が上がるかな。人数で負けてるし。
だからといってカッコ悪いというわけでなく、むしろこの二つはクラブ・ジャズ頂上決戦くらいな感じなので、最高に踊れた。
トランペットの人がソロの後に酸素吸入器使ってて、管楽器って大変だと思ったよ。
・怒髪天
普通のロックンロール。ただでさえ暑いのにめちゃくちゃ暑苦しかった。
別に嫌いとかそういうわけじゃなくて、「ゴミ分別に参加してタオルをもらおうキャンペーン」列に並んでた時に聞いたので、暑いのが辛かったってだけ。
ちなみに、「ゴミ分別に参加してタオルをもらおうキャンペーン」に関しては、タオル目的に参加するとフジロックごみ問題について考えざるを得なくなるという良企画だった。
みんな、リサイクル食器は食べかすが残らないよう綺麗に食べよう。
モッシュピットでは若者ではなく、いわゆるエアジャム世代のオッサンたちが大騒ぎ。
今でしょ!と思い人生初ダイブに挑戦するも、うまく支えてもらえずしょっぱい感じで前から退場。
今回二番目に楽しみにしてたバンド。
ついにJacking the Ballを生で聞ける時が来たか!灼熱のオレンジコートに涼しい風が吹き抜ける!と期待が高まるが…
CD音源の方がよかった。てかライブなのに露骨に既成音源使いすぎなんだよ…これ以上何も言うまい。
折角二列目で聞いてたけど途中で後ろに下がってしまった。
Twitter見てたら「オッサン感動して泣いてしまったよ」みたいな人が複数いたが、これで感動はさすがにハードル低すぎorノスタルジー効果でしかない。
2月に来日公演を見逃したマイブラ、ついにお目にかかれました。
Twitterで小野島大さんが指摘していたが、最初は音が小さく迫力不足だった。なんだマイブラこんなものかと。
音量は徐々に上がっていき、最後の曲くらいになるときちんと轟音と呼べるレベルになったので、ノイズの波に包まれる感覚はちゃんと味わえた。
しかし音量は上がったとはいえ、全体的は音の解像度が低く、音のレイヤーが緻密に重ねられているCD音源に比べるとかなりお粗末なサウンド。
ケヴィン・シールズの後ろには10台ほどのアンプが並び、ギターも一曲一曲取り替えていたが、努力虚しくといったところか。
Only Shallowのイントロとかライブだとどうなるのか楽しみだったのにな。
最後の曲で「うおーノイズの雨だ!」とか思ってたら本当に雨が降り始めて、「これはマイブラの演出か!?ハンパねぇ!!」とか感動していたのだが、その後雨は笑えないレベルに。
後ろの方で見るハメになったが、後ろの人達の目的はCharaではなくテントの屋根。
静かな曲の時も、隣の外国人が大声で会話をしており勘弁してくれという感じだった。
しかし「やさしい気持ち」は一応聞けたのでよかった。
Charaの声は生で聴くと尋常じゃなくハスキーであり、s/n比が大変なことになっていた。
もはやノイズボーカルといっていいレベルであり、非常階段のシャウト担当の人を思い出す。
「やさしい気持ち」サビでは絞りだすような歌い方がさらにノイズ成分を増していて、音程とかいう世界をもはや超越していた。。。
これは是非ライブで聴くべき。前で聞けなかったのが悔やまれる。
参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=EoUSERsC8VI
先日見た初音ミクオペラTHE ENDと同じ舞台構造で、背景のスクリーンと前面にある半透明スクリーンの間にDJブースがあるという構造。
このVJがすごすぎて、ちゃんとみんな音楽聞いてなかったんじゃないの?と思うレベル。
印象的だったのは、インテリジェントなサウンドと裏腹に、フライング・ロータス本人がかなり頭悪そう(いい意味で)でハイテンションなアジテーターだったことw
無駄に「オキナワー!キョウトー!インザマザファカ!」とか叫んでた。
・Char
迷うことなく1日目のベストアクト。
ライブはなんとノープラン。Charが友人ギタリスト及びフジロックで出会ったギタリストを順番に招いてひたすらジャムセッションしていくというもの(なんと二時間半も!!)。
ギターを少しでもかじったことがある人なら感動せざるを得ないライブだった。
Charはそれぞれのゲストとギターで会話。必要な言葉は「キーはDで!」というセリフのみ。
ギターでの会話にはきちんとシンタックスがあり、方言もあった。
奥田民生のソロの後にCharが「おっ、ギターも広島弁だねぇ」と言ったのが印象的。
フジロック当日に初めて会ったEddie Roberts(The New Masteroundsのギタリスト)はファンクギタリストであり、Charはブルースギタリスト。
ジャンルの違いは方言の違いのようなものであり、お互い歩み寄り会話を成立させていく様には全てのギター小僧が感動したことだろう。
Char本人に関して言えば、立ち居振る舞い、声、ギター、何をとっても最高にかっこいい不良中年だった。
ライブ中にタバコは吸うわ、ビール缶を蹴って客席に飛ばすわ、そんでもって58歳にもなってビールを口から友人に噴きかけるやつなんてCharくらいのものだ。
そして、Charはゲストたちだけではなく観客との掛け合いも忘れない。
「そろそろ声出しとく?」とライブ中何回もコールアンドレスポンスをはさみ、雨でずぶぬれになった観客たちの体を温めてくれた。
最後はWarの「Cisco Kid」の替え歌で、全てのギタリスト総出で「Fuji Rock Kid」を演奏。
我々観客はサビで「Fuji Rock Kid was a friend mine」と大合唱。
裏でやってた(どちらかと言えばCharが裏だが)ナイン・インチ・ネイルズも少し気になったが、Charを選んで本当によかったと思えるライブだった。
佐藤タイジと奥田民生はハードロック、鈴木賢司はエレキシタール、Eddie Robertsはファンク、CHABOとCharはブルースという、もう本当に異種格闘技戦だったわけで。
Char×Eddie Robertsなんてもう二度と見られないだろう。
ピラミッドガーデンという辺境の地でしかも深夜ということもあり、夕方のCharaとは対照的にセレクトされた客層。
どれくらい辺境かというと、メインステージがある方向と反対方面にテントサイトから徒歩20分というレベルなのだが、この場所は勝井さんたっての希望らしい。
まずは勝井祐二×U-zhaanの即興演奏。先ほどのCharとはシンタックスこそ異なれど、これまた達人同士による会話が繰り広げられる。
多分彼らは無限に会話を続けられるだろう。こうした即興演奏を見ると、もはや曲という概念がよくわからなくなってくる。
青葉市子はポンチョにサングラス、箒を振り回しながら登場し、その場にいた全員を困惑させる不思議ちゃんぶり。
青葉市子は弾き語りの音源とライブを聞いたことがあったが(翌日にも見た)、そこにエレキバイオリンとタブラが加わるとさらに素晴らしい曲に仕上がっていた。
最後はその日が命日であったrei harakamiとU-zhaanが共作した「川越ランデブー」を勝井祐二、U-zhaan、青葉市子の三人で演奏。
大げさな言い方だが、即興演奏の達人たちはもはや死者とも会話していた。
といってもシリアスな感じではなく、曲はむしろU-zhaan特有なシニカルなユーモアあふれるものだった。
後からYouTubeで原曲を聞いたが、歌の部分は青葉市子が歌う方が可愛げがあっていいと思う。
しかし、斎藤牛蒡店は自らのやばさに気づいてないあたり、U-zhaanよりもさらにやばい。
参考動画:https://www.youtube.com/watch?v=NICEXdZ2s3o
勝井さんの演奏を見るのはこれで4回目だが、毎度毎度違った印象だ。
親父が癌になったのは五年前だが、ついこの間の検診ではとりあえず再発はないそうで一つの区切りがついた。術後五年以内に再発がなければ「治癒」だそうだ。
でもなんか最近息苦しい、などという。で、肺の検査をしたんだが、真っ白だったらしい。タバコを吸わないのに肺がん?と思ったが、これはがんではなく老化現象だそうで、肺胞上皮細胞?が硬化しているとかなんとか。息苦しいのは硬化した細胞のせいでうまく酸素と二酸化炭素の交換が行われないためらしい。
風邪から肺炎になって死ぬ老人はおおいが、てっきり体力がないせいで体が持たないのだと思っていた。
だが、原因はこの老化現象のせいらしい。咳がでたりすると酸素の交換がうまくいかないので、あっという間に酸欠になって死ぬ。
現在治癒法はなし。予後は十年。ようするに十年経ったら寿命が来ますよということ。ちょっと風邪をひくとぱったり言ってしまうかもしれないので気をつけてください、などなどという話である。
祖母も同じ現象で七十代で死んだ。遺伝の可能性が高いという。
多分苦しいんだろうな。普段から。あんまり動いたりとかできなくなるから、体力も落ちるんだろうな。動かないからボケたりするんだろうな。
めんどくさいような受け入れられないようなよくわかんない感じ。親のほうが先に死ぬんだから仕方ない。別にたいして仲が良い家族でもないし感慨がないともあるともいえる。自分も同じような死に方するのかなとおもうと怖いような、遠すぎてよくわからないような感覚になる。
五年前に癌が見つかった時、親父は59歳だった。いま、64。寿命は74と医療機関に宣言された。
現代医学ってちょっと残酷だと思う。寿命まで宣言されるなんてね。昔だったら老衰で片付いてたけど、今は治療法のない難病でなすすべもなく死んだってことになってしまうんだなぁ。
増田なので吐き出し。
父が危篤の時、ボクは家にいた。
「いつどうなるかもわかりません。」
酸素吸入は、限界まで10リットル流されていたが、SPO2は60台だった。
内服のモルヒネは効果がなく、点滴に変更したためほとんど意識はなかった。
呼吸は下顎呼吸になっていた。
痛覚刺激も殆ど無かった。
「今夜か明日が山ですね。」
その日はそう言われていた。
そう父に言って、一度家に帰った。
ipadでエックスビデオを開いているが父のことが気になってなかなか硬くならなかった。
でも、とにかく出したかった。
パソコンにHDMI端子をつなぎ、テレビでエックスビデオを見た。
42インチテレビなら等身大に近い感じで映し出されるからより臨場感があるだろうと思った。
すこし硬くなってきた。
でも、なかなかぎんぎんにはならなかった。
ボクはそこで間違った行動に出てしまう。
そして、すぐにその時がきた。
父の呼吸が止まっていると電話があった。
その時、ボクはあまりに固くならないのにイライラしてバイアグラを服用ししてしまったのだ。
本当に情けない。
父の呼吸が止まった瞬間、ボクはギンギンになっていた。
しかし、その後はどんな動画を見てもボクのあそこは反応しなくなった。
大好きな女優の大好きな部分を見ても、父との思い出が頭をめぐりまったくの無反応だった。
父に面会したとき、ボクのバイアグラ血中濃度は結構あったと思う。
父の死に目の時にボクがバイアグラを飲んだ状態であろうとは父も思いもしなかったと思う。
父も死んでも死にきれないだろう。
ボクも今まで生きていた中で一番悲しかった日だった。
小学校のときは山瀬まみの物まねしてんのかっていうくらいの鼻炎だった。
以下けっこうグロい話。自分でかいててキモチ悪いから気をつけてね。
それがかたーい鼻炎といったらいいのか、冬になるとどうやっても鼻の奥にぎっちりつまったきいろいのがとれない。
ちょっと緩むとのどのほうに塊でおちてきてきもいから、おもいっきりカムんだけど、全然出てこなかった。
何回もおもいっきり息を鼻からだしてぶびーぶびーって音をさせて、あ、ようやくひっかかった、というときにはすごいきもちわるい音、こもったうがいみたいな粘着系の音がする。
自分はすっきりするんだけど聞いてる人はさぞかしきもちわるかったとおもう。
大人になっていろいろやってみて、なおりかけたときのことだ。
ずーっと腫れてた鼻の粘膜がしゅっと痩せてきてたんだとおもうんだけど、
あれ、これひっぱれる。と思うことがあったんだ。
そんでひっぱったの。鼻水を。そしたら脳のちかくの、以前いつもつまってたとこがついついってひっぱられ、はなのなかをこすりぬけながら
ずるずるずるずるひもみたいにどこまでもでてくるの。ティッシュをしゅっしゅってひきぬきながら、つまむやらまきつけるやら、ひっしでひっぱったよ。
あ、まだ端っこが出てる。まだひっぱれるって感じで。
そんでとぎらせないように全部つまんでひきだしたらめちゃくちゃはなんなか、おくのほうがすっきりして頭が軽くなって酸素が吸える感じになった。
それで2-3回くらいやったらキレイに治ったの。悪霊退散って感じ。
いつでもニオイがかげるし、鼻がつまりすぎてしゃべろうとしたらいきなり耳ぬきになってばちんっていうことももうない。
今は鼻くそ程度しかできない。鼻くそはひんぱんにできるようになった。
手前のほうにあってかりかりに乾いていて鼻をそとから揉むだけでぽろっとおちるからとりやすい。
これもけっこう形がはっきりしてる。
ようやくトイレの壁に鼻くそをなする人の気持がわかったよ、やらんけど。
ふつうの鼻水ってそんなにあつかいやすいんだなーという発見だった。
この医者は一般的にはまともじゃない医者なんだ。高いし混んでるしおしえてもたぶん行けない詐欺だっていわれるんで実名も出さない。
でも勉強してて、言うことがまともな医者だったよ。本は1冊くらい出してる。
薬は副腎ぴしつではなく漢方だったけど一本筋のとおった使い方だったし、普通に医師免許のある医者だけど科の学会に属してないよ。内科にあたるとおもう。
7時に110番通報したのであれば現場到着は10分程度であろう。捕縛術を使える警察官なら、単純な動作で暴れている者の行動を制圧することは可能。また警察官はコミュニケーション能力も訓練されているから、熟練した警察官なら、誘導術により行動を抑制することもできる。事件現場にいた警察官は、捕縛術や誘導術が使えなかった可能性があるが、そうではないという可能性もある。使えたのに使わなかったという可能性、すなわち殺人=現場処刑の可能性だ。
女性は報道によれば「子供のオモチャを投げた」だけど「刃物は持っていなかった」のであるから、物理的な制圧は必要なかった可能性が高い。被害者の精神状態の詳細は定かでは無いが、育児ノイローゼで情緒失調をおこす人などめずらしくない。また、警察には民事不介入の原則があるから、事件性を確認できない段階で私生活の事柄に介入するべきではない。「夫婦喧嘩は犬も食わない」は警察官の行動原則のひとつだ。にもかかわらず後遺障害どころか死に至らしめるほどの“民事介入”を強行した。殺意が無ければできないことだ。
暴力的あるいは物理的制圧は、事態の重大さと必要性に比例して適用されるという比例の原則は、警察官職務執行法のもとで適用される。ゆえに、背中の上に乗って呼吸や血流を停止させ、心臓を停止させる行為が、警察官職務執行法で言うところの「真にやむをえないと認められる限度で、行動を抑止するための手段」であるとは法的に認められないし、緊急性もない。社会一般通念に照らしても、そのような殺害行為が必要でありかつ正当であるとは認められない。
犯人が被害者女性の背中に全体重を乗せて心肺圧迫で低酸素血症に陥らせたのだとすると、おそらく数秒から数十秒といった短時間で意識を失っただろう。意識を失って呼吸が停止した瞬間から、脳に酸素が届かなくなり、3‐5分以上の呼吸停止が続けば、自己心拍が再開して呼吸がはじまっても脳障害(蘇生後脳症)を生じる可能性がある。こうした基本的な医学知識は、教育訓練や研修などで警察官なら知っていたはずだ。また民事不介入やそれ原則といった警察権行使のルールについても、警察官は徹底した教育を受けているので知っていたはずだ。だから、事件を起こした警察官たちは警察権行使のルールを知らずにやってしまったとは考えにくい。警察権行使のルールを知っていてあえてやったと考えるのが自然だ。
呼吸を停止させたのは遅くとも7時20分頃であろう。報道では「7時55分頃女性が意識を失っているのに気付」いたと報じているが、報道が事実だとすれば、35分間という長時間、犯人は呼吸が止まった女性の背中に乗り続けていたことになる。背中に乗っていて呼吸が停止するのに気づかないというのはあまりにも不自然だ。制圧をしに来て、過剰制圧にならないよう気をつけるべき警察官が、呼吸が止まったことに35分も時間がかかったという言い訳はあまりにも不自然だ。だからこの事件は、過失傷害などではなく、故意の報告遅延、すなわち死んでもとにもどらないことを確認してから救急を呼んだ。これはまさに殺人行為、しかも集団による組織的な殺害行為であった可能性が高い。
いずれにせよ、背中に乗って呼吸を止める必要性は無い。背中に乗れば呼吸が止まる可能性があったことは警察官なら予見可能だったし、呼吸が止まったことにすぐに気づいて救急を呼び応急措置をとることも可能だった。しかしそれをあえてやらなかった。複数の警察官が死ぬのを35分間なにもせずじっと見守っていた。しかも単独ではなく複数でだ。背中に乗ったことも、呼吸をとめてそのまま35分間放置したことも、殺人行為に当たる。これは単なる過剰制圧ではない。単独犯の突発的な事故でもない。複数の警察官による組織的な犯行だ。
警察官には、自分は正義の体現者であり、いかなる暴力も使えるし、たとえその暴力で相手が死ぬことになってもそれは正義の実現であるという、思い上がった動機を持っていたのかもしれない。またそのような正義の暴力を警察組織は日常的に産み育てる環境をつくり、正義のための暴力、正義のための処刑という考え方を称揚し、評価する環境が日常的に存在した。犯人たちの組織的な正義の暴走は、警察組織の日常活動の中で繰り返されていいたのかもしれない。
今回はたまたま家族が殺人現場に立ち会っており、加害者の行為は言い逃れできない状態にあった。今回はたまたま大阪府警に報告され、たまたま司法解剖にまわされ、たまたま司法解剖で物的証拠が確保され、今回はたまたま大阪府警が送検して事態を公開した。しかし、堺署は当初「問題はない」としており、組織的に事件を握りつぶそうとしていた。堺署の言い分がとおっていたら、事件はヤミからヤミへ葬られていただろう。そうなっていた可能性もあったし、かつてそのようにして握りつぶされた事件が各地で発生していた可能性もある。
こうした殺人=正義を認める現場処刑OKな警察組織の暴走を防止するためには、警察組織の刷新を実行するとともに、警察官職務執行法そのものを非暴力的なものへと改変する必要がある。裁判所は警察の正義の暴走を止めることはできない。またこうした事件を二度と繰り返させないために、実行犯だけではなく、立ち会った警察官、警察官を指導していた監督者に対する法的制裁が必要である。警察組織の社会的な信頼を失わせた責任を警察トップが引責することも必要だろう。ひとりだけ過失傷害で起訴だけして執行猶予つきで刑務所にも入らずに警察に復職するなどという事態は絶対に避けなければならない。過失傷害ではなく殺人罪による起訴。そして殺人現場にいた同僚は、殺人の共同正犯として起訴。上司は背中に乗って制圧するという方法を教えていたのだから殺人予備教唆で起訴。社会的な不安を生起させた事件であるから実刑が望まれる。
昨年11月、堺市堺区の自宅で暴れたとして警察官に押さえ付けられた女性=当時(40)=が意識不明となり、その後死亡する事故があり、大阪府警が業務上過失致死容疑で調べていることが24日、捜査関係者への取材で分かった。押さえた警察官を書類送検する方針。
女性に心疾患などの持病や外傷はなかった。背中を両膝で押さえ付けた警察官は大柄で、装備も含めて100キロ近い体重があったという。府警は、制圧行為に行き過ぎがあり、死亡との間に因果関係が認められるとみて、捜査している。
府警によると、昨年11月9日午前7時ごろ、女性の家族から「暴れている」と110番があり、堺署員3人が自宅に駆け付けた。女性は子供のおもちゃを投げるなどしたため、うつぶせにして手錠をかけ、上に乗るなどして押さえた。2人が手足を押さえるなどし、大柄な警察官が膝で背中に乗るような形だったという。
女性は刃物などは持っていなかったが、府警は「かなり暴れたと聞いている」としている。
約20分後、女性が呼吸していないことに気付き、堺市内の病院に救急搬送。11月14日に死亡した。司法解剖の結果、死因は脳に酸素が行き渡らなくなる低酸素虚血性脳症だった。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2013/04/25/kiji/K20130425005677870.html
警官が過剰な制圧、女性死亡=業過致死容疑で書類送検へ—大阪府警 - WSJ.com
堺市堺区の民家で昨年11月、大阪府警堺署員が暴れていた女性=当時(40)=を取り押さえて保護する際、女性が意識を失い死亡する事故があり、大柄の署員が女性の背中に乗り上げる格好で制圧していたことが24日、捜査関係者への取材で分かった。府警捜査1課は過剰な制圧方法だったとして、業務上過失致死容疑でこの署員を書類送検する方針。
堺署によると、昨年11月9日午前7時ごろ、家族から女性が暴れていると110番があり、署員は同僚2人と駆け付けた。午前7時半ごろ、物を投げ付けるなどしていた女性をうつぶせにして手錠を掛け、さらに激しく抵抗したため署員が背中に両膝を押し当てて乗り上げ、身動きを封じた。
女性は約20分後、脱力して意識を失い、病院に運ばれたが、同月14日に死亡した。司法解剖の結果、死因は低酸素性虚血性脳症と判明。制圧方法について、同署は当初、「問題はない」としていたが、同課の調べで、死亡との因果関係があると判断した。
http://jp.wsj.com/article/JJ11750838453408114619017710296122612588020.html
昨年11月、大阪府堺市の自宅で暴れたとして、大阪府警堺署の男性警察官に押さえ付けられた女性(当時40歳)が意識不明となり、その後死亡する事故があり、府警が業務上過失致死容疑で調べていることが24日、捜査関係者への取材で分かった。警察官は装備を含めて100キロ近い巨漢で、制圧行為に行き過ぎがあり、府警は死亡との間に因果関係が認められるとみて捜査。警察官を書類送検する方針だ。
堺署によると、昨年11月9日午前7時ごろ、女性の家族から「暴れている」と助けを求める110番があり、男性警察官を含む堺署員3人が自宅に駆け付けた。
女性は自分の子供のおもちゃを投げたり、叫んだりするなど激しく暴れ、手の付けられない状態。そこで女性を制圧するため、まず玄関先の地面にうつぶせにさせ、3人がかりで手足を押さえたという。
それでも女性が静まらなかったため、頭の上で両手に手錠をかけ、警察官のひとりが女性の背中を両膝で押さえつける正座のような姿勢で乗っかった。
しかし約20分後、ようやく静かになったと思った女性が呼吸をしていないことに気付き、緊急の心臓マッサージを行いながら堺市内の病院に救急搬送。その5日後の11月14日、女性は死亡した。司法解剖の結果、死因は「低酸素性虚血性脳症」だった。女性に心疾患などの持病や外傷はなかった。
女性の背中に乗った警察官は「かなり大柄」(堺署)で、体重は100キロ近くあったとみられる。府警は制圧行為に行き過ぎがあり、死亡との間に因果関係が認められるとみている。
低酸素性虚血性脳症は、何らかの原因で呼吸機能が低下し低酸素状態となり、中枢神経系のうち、特に大脳皮質という大脳の表面の部分に重大な障害が発生する症状。世田谷井上病院の井上毅一理事長は「警察官が女性の上に乗ってしまったことで、胸郭(胸部の外郭を形成する部分)や顔面の口か鼻の部分を相当圧迫してしまったのではないか」と指摘。女性がうつぶせの姿勢で押さえつけられたことで呼吸機能が低下し、脳動脈を流れる動脈血に酸素が行き渡らなくなったとみられる。
井上理事長によると、うつぶせになった人の上に体重の重い人や物が乗った状態が3分以上続くと、脳機能にダメージを与えるという。井上理事長は「20分も乗っていたとしたら非常に危険。その危険性を警察官が理解できていなかったことが問題」と話した。
http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20130425-OHT1T00036.htm
正義が暴走し自分の勝手な判断で死刑を執行した警察官たちによる殺人事件。
堺市堺区の民家で昨年11月、装備を含め約100キロの重さの大阪府警堺署員が、暴れていた女性(当時40歳)の背中に正座のような格好で乗って押さえつけ、意識を失った女性が5日後に死亡していたことがわかった。死因は呼吸不全などで脳に酸素が行き届かなくなる低酸素虚血性脳症だった。府警は署員の制圧行為に行き過ぎがあったとみて、業務上過失致死容疑で書類送検する方針。
同署によると、昨年11月9日午前7時頃、同区の女性方で「女性が暴れている」と家族から110番があった。この署員が同僚らと駆けつけると、女性が物を投げたり、叫んだりしていた。
署員は約20分後、女性を玄関先の地面にうつぶせにして同僚らと手足を押さえた。女性がなおも激しく暴れたため、頭の上で両手に手錠をかけ、背中や腰を手で押さえたが、静まらず、正座のような姿勢で背中に乗ったという。
署員は女性の抵抗が弱まると、背中に押し当てた両ひざの力を緩めていたが、同7時55分頃、女性が意識を失っているのに気付き、同僚らと心臓マッサージをしながら119番。女性は14日午後に病院で死亡した。
警察官職務執行法は、異常な挙動があり、救護が必要な者の保護を義務づけている。方法は府警の内規で定められており、自殺や他人に危害を及ぼす恐れがある場合、「真にやむをえないと認められる限度で、行動を抑止するための手段をとれる」としている。
感動ドキュメンタリーとして放送されていた登山家の栗城史多さんが、
「七大陸最高峰の無酸素単独登頂」をウリに登山をライブ中継するも、
http://pbs.twimg.com/media/BH9AkqXCcAAdtaQ.jpg
BLACKザ・タブーvol8という本だそうです。
http://www.amazon.co.jp/dp/4813067581
ここまでぼろくそに叩かれるほどのアレなのでしょうか。
栗城さんを擁護してる人はいないんですか。
志村けんのTV番組で、裸の女性が何人も温泉につかっていて、そこに主人公が一緒になって入る。それを見て、たまらなく下半身が膨張した。俺も一緒に入るところを想像しながら、夜、布団にこすりつけた。妄想の中で、クラスの可愛い女の子5人ぐらいと住むための部屋をつくって(ドラえもんの秘密基地みたいなやつで、小部屋が6つあり、中央がいわゆるヤリ部屋)、全員裸で暮らしていた。もちろんまだセックスがどういうものか知らない年齢だったので、裸でお互いの体をまさぐったり、キスしたりする程度の想像。いつかこういう場所で、女の子とたくさんイチャイチャしたいと思った。こういう部屋のことをハーレムというのだともう少し大きくなって知った。
はてなのよくある匿名日記と違って、今から話す話は、何かの共感を得て「よし明日から実践しよう」だとか、最初はダメだった作者がWEB関係で頑張って今は人並み以上ですだとか、色々あったけど明日結婚します、だとか、そういったスッキリするようなオチはありません。むしろ、スッキリしたいがために、これを書こうと思いました。
俺は今、無職の36歳で、独身、職歴多数、次に何をして食べていけば良いのか途方に暮れている。特別な職能もなく、その前に「夢(やりたいこと)」がない。
みんな夢があって良いな、とまず思う。こういうのやってみたい、こういうプログラム勉強したい、ネットでこういうサービスを作り出したい、そういうのがまるでない。今日はお鍋にしよう、という程度の軽いノリでも思いつかない。
もっと若い時、たとえば25歳ぐらいだったら、そういうノリで何かの夢を見れたのかもしれない。36歳。自分の向き不向きや、世界の辛さや、お金のために仕事することや、家族のないさみしさや、いろんなことを知ると、身体とは裏腹に心が重くなり、行動に移す前に、その夢想すらしなくなった。
そう考えていて、もしかしたら夢をかなえたから、次にやりたいことが見つからないのでは、と思った。スポーツ選手が夢をかなえて引退するみたいに。俺の夢は、ハーレムをつくること、たくさんの女の子とをセックスをしまくることだった。
童貞を卒業したのは大学3年の夏、21歳だった。やらずの二十歳で、相当こじらせていたんだと思う。ハーレムを作りたかった少年が、実際にセックスするまで10年以上かかった。
セックスを知ってから、ほぼ毎日、やりまくった。最初に付き合った女の子もセックスは嫌いではなかったから、会ってる時間の半分以上はセックスに費やした。その子と別れてからも、たくさんの女子に出会ってやりまくった。1年間に12人の女性と付き合ったこともあった。その時期から、いろんな女の子と付き合えば付き合うほど、心が重く苦しくなっていった。水中で酸素ボンベなしで泳ぎ続けるような感触。早く水面に上がった方が良いのに、20代の性欲のせいなのか、さみしいからなのか、俺はずっと潜り続けていた。でもこんなことを繰り返しても空しいだけだとはうすうす感づいていた。
仕事はどれも長続きしなかった。最長で3年。やりたいと思った仕事についたりもしたけど、諸々の事情で転職を繰り返してきた。俺に辛抱が足りないのも分かっている。ブラック企業ばかり経験したせいもあって、人の出入りが激しくて、辞めることに抵抗はなかった。
仕事はなくてもセックスがあったから、俺はひたすらやりまくって20代を終えた。同い年の友達が定職について、結婚して家族を作っていく中で、30代の半ばになった。
ある時、性欲がなくなっていることに気がついた。
広義の意味での性欲はもちろんあるんだけど、20代の頃のように何が何でもこの子とやりたい、というような強い欲望が微塵もないのだ。「歳のせいだよ」と言えばその通りなのかもしれない。でも、性欲のみを頼りにして突っ走ってきたから、それを失った今、何を目標として生きたらいいのか、日々の生きる希望がなくて、途方に暮れている。
小学生の頃の夢だったハーレムは、20代で実現していたのかもしれない。出会った女の子を口説いて、セックスする。申し訳ないけれど、最初は、女の子は言葉は悪いけれど今よりも「モノ」に近い感じだ。いやたぶん女の子が「モノ」というよりも、人間全部を「モノ」と思っていた。それは心の繋がり、相手を理解したい、相手の未来をちゃんと考えたい、といった想いが薄かったという意味での「モノ」表現だ。
ただヤル対象だった女の子が、20代後半から割りと真剣に付き合うようになって、同棲して、将来この子と一緒になるのかなと思った時期もあったけど、別れて、また違う誰かと付き合って、そうこうしているうちに、36歳になっていた。
オナニーはする。今は無職だからほぼ毎日。でも、生身の女性と関係を持ちたいとは思わない。思わないというか、持つまでの面倒くささ、持った後の面倒くささ、そういったものが大きすぎて、口説こうという意識が持てない。「セフレで良いじゃない」セフレだってしんどいよ、心をまったく無視して「モノ」みたいに扱えれば楽なんだろうけど、もうそういう気持ちにはなれない。綺麗ごとではなく。誰かと関係を持つというのは、誰かの世界を共有することで、その重さを持つのはかなりのパワーが必要なんだ。
夢はかなわない方が幸せなのかもしれない。
かなってしまったら、もう目標が無いわけだから、あれほど自分を突き動かしていた衝動がもう起こらないわけだから、毎日が凪みたいなもので、重苦しい朝を迎えて、ため息をつきながら起きて、公園に出かけて、ボーっと座ってる。精神科にも行って抗不安剤を処方してもらったけど、結局、未来を、道を決めるのは自分自身だから途方に暮れている。
織田信長の時代、人生50年だったら、このまま御隠居さんとしてあと15年ぐらい縁側で盆栽いじって若い人に「おなごを口説くとは」と講釈たれて生きておしまいにできたのかもしれない。でも、残りの人生、平均寿命が70としたらあと35年以上あるのだ。俺が生きてきた歳と同じだけの時間。長すぎる。
セックスさえ考えていればよかった時代は過ぎた。ハーレムはもう夢じゃなくなった。俺の次の夢。生きる目標。そんなもんなくたって、金が無くなれば食うために何かしらの仕事につかなきゃいけないわけだし、そうなるまでの、あきらめがつくまでの期間だってことも、薄々感じてはいる。
でも、それでも、っていうところだ。
***
ここまで長文を読んでくださった方がいたらありがとう。最後に。ここまで読んでくれたんだから、タメになることも書かないといけない気がした。たぶん若いころの自分がこれ読んだら、聞いてみたいこと。
「女の子にもてたいんですが、どうしたら良いですか?」
これだけです。
これは俺が師匠と仰ぐ人生の先輩がいて、その先輩曰く、片手間でもてたい言うんじゃない、と。「俺はもてるために24時間365日費やしてる。高校球児が全てをなげうって甲子園のためだけに白球を追いかけてるぐらいの意気込みで女を口説かないともてないよ」と。俺は納得して実践してある程度成果を出したし、たぶんきっと夢をかなえる近道というものはないんだと思う。夢さえ見つかれば、それが心底かなえたいと思う夢なら、きっとかなうよ。
いやいや、心の歪みとか将来の犯罪者率とかそういうんじゃなくて。
むしろ病んじゃうのは圧倒的に被害者。いじめられっことかいじめっことかなんかソフトな言い方はたくさんありますけど加害者と被害者ですよ。
加害者は別に歪んでないんですよ。世間的に肯定されるのは、なんだかんだ言ってあっち側の人たちじゃないかな。
だってね、偶然なの全部。いじめが蔓延るのは悲しいかな必然としても、加害者と被害者の境目ってほんと曖昧。
男子事情はちょっと分からないけど、女子なんて立場逆転は一日あれば済みます。
容姿が整ってて目立つ子と仲が良かったとか、からかわれる原因を持っていたとか、全部たまたま。
誰が決めたわけでもないの。自分で選んだわけでもないの。
偶然自分がその歳でそういう人間になっていて、偶然そのクラスや職場に入って、色々な要因が重なって発症した暴力の被害者になっただけ。
悪いとか悪くないとかの話じゃないんですよ最早。
「いじめられる方にも原因はある」とかドヤ顔して言ってる場合じゃないって。原因と責任は違うって。
で、集団にしこたま迫害された人間がどうなるかっていうと、人間が怖くなります。自分自身も含めて。
心因的な病気になったり引き篭もる反応のが正常だと思う。健全かどうかはさておきね。
自殺もね。見えないし、将来。自分以外の人間は全部自分を笑ってる貶めてる蔑んでるとか思うし。
身体ばっか大きくなって、親は信頼できないけど大事だから負担はかけたくないし、てゆーかもう起きるの無理、みたいな。
夜になって目を閉じるたびこのまま目覚めなかったらいーのになって。
自殺は後処理があるから嫌だな、存在そのもの消してくれないかな、とか。
そこで屋上とか昇っちゃったらもうね。首吊り縄とかふざけて作ったはずなのに、あれって。
一瞬じゃね?痛いのは。今までの方がよっぽど痛かったよなって。思っちゃったらたぶんもうだめ。
周りに相談があったら、とか学校側の対応は、とかそんな話じゃないんだよ。
「そうなるしかなかった」の。死んでみようかな、って考えちゃった瞬間から。
自殺だの自死だのこれまたソフトな名称出ちゃってますけど、いってみれば殺人ですからねアレ。
殺人者だよ殺人者。憎しみだけで呼吸するの。もう酸素なんて届いてないから。
今回の本題は、この憎しみが自分ではなく加害者に向けられた場合。
ようやっと話題になってきましたけど、報道番組観るたびいつも不思議だったのね。
加害者が被害者になる可能性もあるんですよって教えないのかなって。
憎しみとか恨みがあるわけですよ、人を殺すほどの。被害者がターゲットを偶然自分に選んだだけの話。
考えないの?
例えば小学校で熾烈な虐めにあったとする。どんどんエスカレートしていって、中学に上がるころには不登校。
高校通信行ってみたはいいけどモチベーション全然上がらないから勉強できないしそもそもコミュニケーションってなに?
親の定年なんてあっという間で、もしかしたら揃って事故死とか病気あって多額の医療費、も可能性はある。
で、なんやかんや一人ぼっち。食費なんてとっくに尽きたし光熱費もろくに払えないから寒い暗闇で包まる。
なんでこんなことに。どうしてだ。いつからだ。原因はどこだ。誰だ。
失うものは何も無いって気付かれたらそこで終わり。個人情報の溢れかえった現代で加害者のお勤め先なんて簡単に調べられちゃう。
もしかしたら自宅も分かっちゃうかも。加害者になる人は想像力が欠如してるので、そのまま成長してたら付近の写真とかバンバン掲載。
見渡せば母の遺した包丁が。指を切ってみる。血は流れる。
相手の血を見てからでも死ぬのは遅くない。汚い靴を履いて何ヶ月かぶりに外に出る。
極端な例ですけど、こういう話があっても何もおかしくはない。
悲しい事件はなくしたいよね、ひとつでも多くね。
カノセなヒトがこんなこと書いてるけど。
http://d.hatena.ne.jp/kanose/20121129/hatesa_hashimoto
まあ最強のはてサはid:Gl17だよね。もう絵に描いたようなダブスタっぷり。kojiなんとかなんて目じゃないぜってぐらいのダブスタ。
自民・維新・橋下・石原あたりは人格・名前・血縁・政策・喰いもの・夫人・服装に至るまで全て否定w
呼吸しただけも怒りだす始末w日本の酸素消費すんなとかwwクソわらったわ
kojiなんとかは確かにダブスタっぽいけど、まだ人間味のあるダブスタというか、橋下が嫌いなので橋下を否定することが最優先になって結果的にダブスタになっちゃったみたいな。まあ人間だしそういうことあるよね。人間だもの。ダブスタの無いヒトなんていないと思うよ俺は。カノセなヒトだって多分粗を探せばダブスタっぽい主張してるジャンルあるんじゃない。誰だってそういうのあると思うよ、人生長いし。
でもid:Gl17のヒトはそういう人間味が一切感じられない矛盾っぷりを貫き通してて潔いっていうか清々しいっていうかw自民・安倍ちゃんがかつカレーで叩かれてたときなんて大喜びしてんのな。しかもかつカレーを擁護したヒトに向かっては「大袈裟だ!ファシズムだ!」ってな具合。カツカレー擁護したらファシズムってwwwwwwちょwwwwwwムッソリーニもビックリwwwwwwww
まあ何が言いたいかっていうとだね、なにかとサヨクって馬鹿にするけど、まともな左翼なヒトが大多数なわけですよ。右翼も左翼も相手方を攻撃するのに人生を捧げちゃってるヒトってのはどうしても妙に目立つから人口比も高いんじゃないかって錯覚するけどね、ごく一部なの。そういうヒトにつられて右翼も左翼も頭おかしいって決めつけないで欲しいんですわ。
いろいろ迷ったんだけど、まあインターネットで知り合った人たちだし、インターネットの見える場所でお祝いの言葉を書くのも悪くないかなーと思って、なんか書いてみることにするよ。わかった人はてきとーに拡散でもなんでもして、ご当人たちの目の届く場所にでもこのURLを届けてください。ま「そういう人」なので、こっそりとどこかで見ていたりはしたわけですけど。
ボトルメールよりはもうちょっと確実性のある手紙でも、ひとつ。
つーか結局は自分語りな。この場合は自分語りしないと伝わらないこともあると思うんよ。
とりあえずそうだなー、びっくりした。びっくりはしたんだけどさ、なんていうか、あんがい意外でもないんですよね。ああ、なんか辿りつくべき場所に辿りついたっていうか。
そうね、まあ「彼」とでも呼んでおきましょうか。
彼との出会いは、俺が以前やっていたサイトの掲示板にまで遡る。俺がしょうもない日記書いて、共同で管理してた友人としょうもない対談みたいな記事作ったりして、まあ全体的にしょうもないサイトだったんだけど、掲示板だけは違ってたのね。エロゲやったりする人の多くがそうであるように、俺にも「青春」とか呼べる時期なんかなかったんだけど、もしあったとしたら、あの掲示板にそれはあったんじゃないかな、と思う。二十代後半だったけど。いいだろ別にいつ青春やったって。周囲に女とかぜんぜんいなかったけど。別にだからそういうのはいいんだって。
インターネット始めるまでは、自分の趣味のこととか話せる相手がいなくて、それで、俺は異常だと思ってたんだよね。こんなにフィクションに異常な思い入れする人間とかほかにいない。いたとしてもそれは同居人くらいで、ほかにはどこにもいないんじゃないか。まあ日本には人間が1億人くらいいるので、確率としてここに二人いる以上、もうちょっとはいてもいいんじゃないかなーと思ってたんだけど、サイト始めてみたら、思ったよりも多かった。そうやって集った同好の士のなかに、彼はいた。
あの掲示板って、ちょうどいまでいうツイッターみたいな空間だったと思うんだよね。界隈の人たちのたまり場みたいな感じ。あずまんが大王の塗装のバスとか出現したっていうんでわざわざ見に行って実況してみたりとか、やってることが本質的に一緒。そんな掲示板のなかで、彼の存在はひときわ異彩を放っていたと思う。寡黙でありながら重量感があり、切れ味も抜群、常に陰のようなものがあるのに、どこかすっとぼけた確信犯の諧謔がある。
同居人ともども彼の書き込みのファンになったね。彼が書き込んでくれるのが楽しみでしょうがなかった。
なんていうのかな、戦友、みたいな意識があった。骨の髄までフィクションに冒されて、二次元のキャラと添い遂げるくらいの勢いで大好きで、ほかに希望なんかなくて、掲示版みたいな場所に吹き溜まっててさ、でもそこしかなかった。ほかの人がどうかは知らないけど(たぶん似たような感情は持ってくれてると思うんだけど)、このクソみたいな世界のなかで、なんとか喘ぐように呼吸して、それこそ酸素に飢えた金魚みたいに口をパクパクさせながらなんとかエロゲとかマンガのなかに救いを求めて、そんでもって掲示版でなんか吐き出してる。ここでは本音で話せる。道端の路地の向こうに、あるキャラクターがいるかもしれない、永遠に会うことができないそのキャラの面影だけ追いかけてふらふらと散歩を続けるような、そんなポエムじみたことや、そういうバカで真剣でどうしようもない自分を笑い飛ばすようなことや、そんなことを日々繰り返して、それでもまあなんとか生きてるよね、別に積極的に生きる理由もないんだけど、とりあえずフィクションあれば俺ら呼吸はなんとかできるよね、みたいなそんな日々。
そんなのがまあ、俺にとっての青春だった。
そんな日々をともに過ごしてきた人たちに対しては、友人というより、仲間というより、やっぱり「戦友」っていう言葉がしっくり来る。
そういう場所を瓦解させてしまった理由ってのは、いくつかあると思うんだけど、まあいちばんは俺が結婚したからだな。
俺、アホだからさあ、どっちかしか取れないんだよね。真剣だったからこそ、ってのはあるかもしれないんだけど、少なくとも結婚するっていう事実の前では、俺はフィクションを捨てるしかなかった。だって、そこに魂の半分を置いてるんだもの。好きになるのも嫌いになるのも、すべてはフィクションのなかにしかそういう対象っていないんだもの。現実の人間なんて書割じゃん。こちらに実害を及ぼす人間だけが脅威で、あとは男だろうが女だろうが、じーさんだろうが幼女だろうがひとしく恐ろしいものだったわけで、それが、たった一人といえども「人間」を選んでしまったわけ。それは「世界を選ぶ」ということとほとんど等価だった。全否定してきて「フィクションを摂取する俺の肉体を生存させるための意味しかなかった」世界のなかで、俺は伴侶を得て歩いていかなきゃいけないわけよ。いいったって悪いったって、俺ひとりじゃない。とにかく俺は世界を切り開いて歩いていかなきゃいけない。
そうやって俺はフィクションを捨てて、書くことすら捨てようとした。
でもねー、書くのだけはやめられなかった。
言ってみればさ、フィクションを捨てること、書くことを捨てること、すべては裏切りじゃん。もちろん周囲の人はだれ一人として裏切りだなんて思ってなかったと思う。複雑な気分を抱えていたことは想像に難くないんだけど、俺が「この世界」に幸福を求めようとすることを咎める人なんてだれもいなかった。
だけどさ、逃げるようにサイトやめて、俺そういう不義理っていっぱいやってて、いつ見捨てられても不思議じゃない人間なんだけど、彼はそんな俺をずっと見捨てないでいてくれた。彼だけじゃない、俺の周囲にはそういうありがたい人たちがたくさんいて、俺は今日まで生きてくることができた。
いまはもうそうじゃなくなったけど、書くことだけが俺にとって救いだった時期ってまちがいなくあった。書いて、読んでくれる人がいる。そのことだけで「ひょっとして俺は生きていることを許されるのではないか」と思えるようなそんな日々があった。
ここに至るまでの十年以上、そのほとんどの歳月を、彼はだれよりも俺の読者でいてくれた。極端にいえば、命の恩人だ。ほかの数人の人たちと同様、彼は俺を生かしてくれた。読んで、なにごとかの感想を書いてくれることで「少なくとも書くことだけでは、生きている理由がある」と伝えてくれた。
でもね、そこにあるのは感謝じゃないんだよなー。いや感謝もしてるんだけどさ、あるとすれば「あのとき俺ら一緒にいたよな」っていう深い感慨だろうか。ああ、俺らはあのころ、あんなに生きるのが面倒でやってらんなくてつらくて、そんでもまあ十数年後のいまも生きてるよな、なんかかなりおもしろめでかつ珍しめの人生とやらをやったけど、まあ死んでねえよな、明日以降もなんとかやってくんだよなー、みたいな。
そんな彼が結婚する。
別に「結婚」っていう単語に無条件で反応しておめでとうなんて言う気はさらさらないんだけど、とにかく、彼は「見つけた」んだというひとつの明確な証拠ではある。結婚という形式に付随してくっついてくるいろんな義務とか権利とか、ようわからんけど、いろいろあるものをすべてひっくるめて引き受けて、たった一人の人を死ぬまでの伴侶として選んで、生命が終わるときまでは生きていくんだという決意の表明だ。そういうものとして「結婚」っていう形式はなんとも明瞭だ。
彼はそれを選んだ。
だからさ、変な話なんだけど、俺の感情としては「安心」っていうのがいちばん強いのかな。彼の生み出したさまざまなものの魅力の大きな源泉は「孤独」だったけど、それゆえに彼にはいつも荒野を歩いているような感じがつきまとっていて、もちろんこんなもん言葉になんてしないんだけど、その孤独のデッドエンドを彼が見てしまったらどうしよう、みたいな漠然とした不安はいつもあった。
そう、彼はもうひとりじゃない。
これかな。そうだ。あなたはもう、ひとりじゃない。ひとりでなければ、ふたりであれば、それはきっと世界を手に入れたも同然なんだ。この広大な世界を歩くのに、ひとりっていうのはなんともつらい。あまりに大きい。世界がその美しさの片鱗を見せたときも、厳しさのかけらを降り注がせたときも、たったひとりでは言葉すら虚空に消えていく。
あなたは、あなたの見た世界の美しさを伝える相手を得た。いや、最初からそれをふたりで見ることになるんだ。
それがどれだけ素晴らしいことかなんて、もう言葉にはできない。
たったひとりのための、あなたであるように。そのことがそのままであなたを幸福にするように。あなたと、あなたが選んだ人の幸福が、そのままで世界の美しさにつながる回路を形成しますように。
ちなみに、お相手の方もネットを通じて決して存じ上げぬ方ではございませぬ。存じ上げているっつーよりはもうちょっとよく知ってる。
なんで、この場を借りてお願いなど。
まあ、俺がいまさらこの場で言うことではないかもしれませんが、幸せにしてあげてください。言われるまでもねーよカスwwwと思われるかもしれませんが、それを承知でなお俺はそう言いたいのです。彼の孤独や、彼の傷つきやすさや、それでいてあんがい飄々としているところとか、飄々としているようでいて、もっと深いところで傷ついてたりするところや、そういうものをほかの人間よりは多少はよく知っている人間として。
なんかねー、ひとの旦那つかまえて俺のほうがよく知ってるヅラすんじゃねえよって叱られそうだけど。
そんでもまあ、そういうこと思っちゃうくらいには、彼は俺にとってかけがえのない人だったりするんですのよ。
あと還暦になったらクソどうしようもねえ鼎談とかやる予定なので、そこは多目に見てください。あなたもご存知の友人の環境が非常に劣悪です(もう一人の畏友とじょじぱんつのゴムを両端で引っ張ったり縮めたりしながらにやにや笑っている)。
まあ、なんですか、直接に会ったら俺のことだからビシッと決めて「おめでとう」とか言えそうもないんで、いまここで言っときます。ほら、しゃべるよりも文章のほうがうまいこと自分の考えてること言える人だから。
おめでとう。
つーかまあ、びっくりした。
新婦の方には俺も会ったことないんで、まあそのうち会いますかね。
第一報を知ってからすぐにうちの奥さまに知らせようとしたんだけど、あの人、ここんとこあるゲームにはまってて、仕事してる時間以外、寝るかゲームするかしかしてなくて、いま爆睡中。起きたら知らせるつもりですけど、たぶん反応はこんなもんすよ。
死に際の人は声を掛けられて何を思うのだろう?
聴覚は最期まで残ると言われていますから声掛けてあげて下さいねー
と言われても何を言えば良かったのか
余命1日の父に
何か話し掛けようとしても、声を出すより先に涙と嗚咽が漏れてしまいそうで全く無理だった。
病室に詰めている家族誰も涙を見せず、明るく努めていた。泣けるものか。
父が危篤前日まで結局余命や死後の話を一切せず、ひたすら治癒を語っていたのも一因だ。
病・死をただ敵視して、生きる未来を語っていた。そんな父に今までありがとう…とは言えない。涙を見せられない。
親戚が「長丁場だから」と貸してくれたiPadでゲームをしつつ、軽口を叩きつつ、荒い呼吸と酸素吸入器の音が響く病室で夜を明かした。
もう呼吸が止まる時も結局声を掛けられなかった。
「お父さん」と声を掛ければ涙があふれてしまう。半ば絶叫のようになってしまう。
そうすれば良かったのか。悪かったのか。
父が死んでもう8ヶ月になるが、ある小説を読んでその時を思い出したので書いてみた。
http://anond.hatelabo.jp/20121016235228
まず、肝臓由来iPS細胞作成が可能であること、山中先生が報告されています。
Generation of Pluripotent Stem Cells from Adult Mouse Liver and Stomach Cells
http://www.sciencemag.org/content/321/5889/699.long
次に、虚血性心筋症は、虚血によって心筋への酸素供給が絶たれて心筋が死んでしまい機能しなくなるものです。ご理解頂いている通り、血管の詰まりにはもちろん対処しますが、既に失われた心筋は原則として再生されません。そこで失われた分の心筋(機能)を補ってやるという治療戦略自体はおかしくはないです。
http://www.nims.go.jp/news/press/2012/07/p201207130.html
ブコメでなぜお酒を煮ようと思い立ったのか、疑問に思う声が多くあって、たまたま知っている立場なので書いてみた。
ところが空気中で放置すると、超伝導化する、というのがこの物質の特徴だった。
しかも、時間がたてばたつほど、少しずつ超伝導がよくなる、ということもわかった。
1ヶ月たってもまだ超伝導はよくなり続けた!
1年たってもまだ超伝導はよくなり続けた!
どこまで変化し続けるの?どうして空気中で超伝導がよくなるの?ということが疑問だったが、
変化がとても遅いことがボトルネックだった。
そこで、この変化を促進させる必要があった。(←ここがポイント)
結果、不思議なことに、赤ワインが最も超伝導をよくすることがわかった。
しかも高級なやつよりも、サントリーの「彩食健美」がよいとも言っていた。
白ワインよりも、ぶどうジュースよりも、水とエタノールの同じ混合割合のものよりも、
赤ワインは優れていた。
ではなんで赤ワインがいいの?ということになって、
今回のプレスリリース「キレート効果を持つ有機酸などが余分な鉄を除去」につながっている。
余分な鉄、っていうのが超伝導に悪さしていた、っていう理解だ。
空気中で超伝導がよくなる件については、たぶん余分な鉄と酸素が結合して酸化鉄をつくって、Fe(Se,S)という超伝導体の本体から析出したのではないかと推測する。
「酒で煮る」っていうのは、反応温度を90℃くらいでキープした、という意味だけども、
これは温度が高いほうが反応が速くなるから。
室温でも時間はかかるが、起こることは同じだと思われる。
単位質量あたりの酸素消費で哺乳類と魚類と比べたら,本質的にまずいと疑っています.酸素・エネルギー消費の桁が違うので哺乳類・鳥類においては,いわゆる教科書的な説明で正しく効率が一心房一心室系より二心房二心室系が必要になるという点です,一心室系で酸素化速度と血圧と血流を現存の哺乳類・鳥類の要求水準まで上げる設計が全然思いつかないのです.進化発生的な形態の拘束の話題は確かに教訓的ではあるのですが,循環系・呼吸器系の複雑化の膨大なコストとトレードオフに哺乳類・鳥類の体温・脳神経・心臓・(特に大型哺乳類・鳥類で)強大で機敏な骨格筋の維持・制御が可能になっていると疑っています.生物が専門でないのであまり議論を追っていないので単に疑いです.
以下は完全に与太ですけれど,ジンベイザメ1[kcal/kg・day](勘)よりヒトのほうが体重あたり消費エネルギー 40 [kcal/kg・day](だいたい正しそう) 程度がはるかに大きいはずで質量あたり酸素化速度が 40 倍くらいいるのではないでしょうか.もちろん局所最適にさえほどとおく大域最適なわけはないのですけれど,種の多様性などを考えるなら進化を超越して考えることは基本的に生物学的にナンセンスです.まあもう少し時代がたてば生物をシミュレートしたり合成できたりするでしょうからゲーム感覚にわかるかもしれません.
http://anond.hatelabo.jp/20120709163811
まとまりがなくてごめんなさいな.
生理学を理解するには,一定程度の物理学・化学の知識が前提になるしあなたの知識程度がわからない.心肺と動静脈の構造と機能および血液中赤血球と赤血球中ヘモグロビンの酸素運搬を調べなされ.http://bunseiri.michikusa.jp/ このサイトの呼吸器・循環・血液とか図書館や本屋で解剖学と生理学の簡単な参考書を読みなされ.心臓は,血液に流れをうむポンプで,肺はガス交換(主に酸素と二酸化炭素)の場で血液中のヘモグロビンを酸素化して血液中二酸化炭素を除去する装置.ヘモグロビン一分子あたり最大四酸素分子と結合する.
仮に肺でヘモグロビンが常に完全に酸素化され,体循環で全て脱酸素化されるとすると,単位時間あたり全循環の 3 割が肺循環,7 割が体循環だとすると,「肺で酸素化された血液が体循環でなく肺循環に戻ること」の効果で体循環への最大酸素供給が概算 9 パーセント低下し,「肺で酸素化されない血液が肺循環でなく体循環に戻ってしまうこと」の効果で最大酸素供給が概算49パーセント落ちる.単純にあわせると,一心室の場合二心室の場合の42パーセントしか酸素供給力がない.これは体循環で血液が全て脱酸素化されるというちょっと現実離れした仮定を置いているけれど数十パーセントの差がでるのはたぶん正しい.肺の体積が数十パーセント小さくでき進化的に有利さがありそう.
一心室系では単位時間あたりの血液酸素化効率(と二酸化炭素除去効率)が二心室の場合より落ちることは,水と湯を混ぜたら温度が中くらいになりお湯より温度が下がる自然.
ごめん、
そこの血圧を制御したとしても,肺で酸素化された血液が体循環でなく肺循環に戻ることと肺で酸素化されない血液が肺循環でなく体循環に戻ってしまうことを考えるともったいない.