はてなキーワード: 民事不介入の原則とは
具体的な日付はあまり覚えていないが道路族が去年の春ぐらいに引っ越してきた。
自分は長年ずっと京都の北の方に住んでいる。そんな中、一昨年ぐらいから空き地に新築住宅が建てられはじめていて音がうるさく嫌な予感がしていた。また、工事で騒音が出るのは当然なのにもかかわらず、事前に挨拶にも来ないので本当に嫌な予感しかなかった。核家族世帯にありがちだが、地域に住むということがどういうことかわかっておらず、都市部のように当たり前のようにサービスを受ける側だと思っていることが多いのだ。近所の住民とも少し話したが、どんな人が引っ越してくるのか不安でしょうがなかった。家の外観を見たところ、まあ若い世代が引っ越してくるのだろうと思った。とにかく不安だった。
そのうち家族が新しく引っ越してきた。見るからにヤンキーっぽい出で立ちであり、異質な感じを受けた。周りの住民たちは、どんな人間なのかを確認するために先手を打って若い家族に媚びを売っているようだった。自分はああいうのは好きになれない。まあ放っておけばそのうち挨拶に来るだろうと思っていた。
しかし、しばらく待っても挨拶に来ない。それどころか、毎日のように狭い庭ではしゃいでいる子どもと親を見かけるようになった。自分は昔から窓をあけてボーッと景色を見て考え事をするのが好きだったのでそれをぶち壊された気分だった。最初は新居で浮かれているのだろうと思っていたが、ずっと騒いでいるので、きっと周りの迷惑を考えられない人間なのだろうと憂鬱になった。
それにボーッと景色を見ているだけなのに、その余所者はジーッとこちらを軽蔑したような顔で見てきて、ヤバい奴らだなと思った。特に女の方は典型的なヒステリーを持ったようなやつで、自分の一番嫌いなタイプだ。自分は母親がそういうタイプだったのでよくわかる。「私こそが正義なり。私の思い通りにならない人間は悪である」と断罪するようなやつだ。観察していたところ専業主婦のようだ。
子どもと外で遊ぶのは良いことだが、それにしてもうるさい。平日の夕方や土日の終日で、ボールの突き跳ねや「イエーーーーイ!!!」だの「ギャハハハハハハ!!!」だの、およそ住宅地とは思えない騒ぎ方で騒いでいるのでいい加減こちらもノイローゼになってくる。心の休まるときがない。自分は学校に勤めているので、ちょうど自分の休みの時間帯と騒いでいる時間帯がよく被るのだ。家に帰ると絶えずうるさいというのは本当に困る。周りの住民もそれとなく「お子さん、元気でよろしいですね」などと遠回しに注意しているようだが、全然理解できていない様子だ。周りも迷惑しているのだが許容範囲らしい。あれを許容できるというのはよくわからないが、自分が神経質だとは特に思わない。
それで、これは良くないことだとは思うが、あるときもう我慢がならなくて2階から外に向けて小便をした。完全に不審者だ。しかしいろいろ調べたが、まあこちらのことをキチガイだと思ってくれれば怖くなってやむだろうと思ったわけだ。さすがに「うるさすぎたから嫌がらせしてきたのだろう」と考えるぐらいの脳はあるはずだと考えたわけだ。自分としては、もしそういうやつが横に住んでいたら相当嫌なので、まあこれで騒ぐこともなくなるだろうと思った。
しかし、なくなったのは最初だけで、しばらくするとまた「イエーーーーイ!!!」だの「ギャハハハハハハ!!!」だのが始まった。信じられなかった。気のせいかどうかわからないが、声量も大きくなった気がした。徹底的にうるさい。なんで自分は前から住んでいただけなのにこんな目に遭わなければいけないんだと苦痛だった。こう言ってはなんだが、隣人は精神障害者に違いない。相手の気持ちを推し量るということが不可能なのだろう。自分が姫であることは当然で、周りは姫である自分を輝かせてくれるための家畜にすぎないと、そう感じているのだと思った。その後も何度か同じようなやり取りが続いたが、一向に収まる気はなかった。
また、うるさいだけではない。夏になったら友人を呼んでバーベキューをし始めた。もう勘弁してほしい。バーベキューを住宅地でしないでほしい。常識的におかしい。臭いも騒ぎも酷く、精神がどうにかなりそうだった。我慢の限界だったので、注意しにいくことにした。だいたい会話はこんな感じだ。覚えてる限りでは、
「あの、すみません……」
「は? 何お前?」
「あの家に住んでる者です。バーベキューなんですがすごく臭うのでやめてもらえませんか?」
「別に臭わなくね? ねー、臭うかなー?? 別に届かないでしょ。何? クレーム?」
「いや、あの家の二階に住んでるから届くんですよ。やめてほしいです」
「いやいや! どう見ても離れてるっしょー! 臭くないでしょ」
こういう流れで自分が警察を呼んだ。警察を呼んでも何か変わるわけではないが……。民事不介入の原則というのがあるのだが、少なくともああいう輩は権力には弱いから効くだろう。
このトラブルに似たことが何度も何度もあった。あるときには、その隣人が親父に突撃していた。小便については親父にたしなめられたが、まあそれは自分でもイカれていると思うからわかっている。親父は「世の中にはああいう猿みたいなのもいるんだ」とある種の諦念を持っていて、自分がどうにか自助努力で回避しようとすることによく思っていない様子だ。会社でも愚痴って鬱憤を晴らしているが、どうにもこうにもいかない。
こういうのってどうやったら解決できるのか、本当に助けてほしい。
------------------
(なお、この話は https://anond.hatelabo.jp/20230504110406 に基づいた創作であり、内容はフィクションです)
7時に110番通報したのであれば現場到着は10分程度であろう。捕縛術を使える警察官なら、単純な動作で暴れている者の行動を制圧することは可能。また警察官はコミュニケーション能力も訓練されているから、熟練した警察官なら、誘導術により行動を抑制することもできる。事件現場にいた警察官は、捕縛術や誘導術が使えなかった可能性があるが、そうではないという可能性もある。使えたのに使わなかったという可能性、すなわち殺人=現場処刑の可能性だ。
女性は報道によれば「子供のオモチャを投げた」だけど「刃物は持っていなかった」のであるから、物理的な制圧は必要なかった可能性が高い。被害者の精神状態の詳細は定かでは無いが、育児ノイローゼで情緒失調をおこす人などめずらしくない。また、警察には民事不介入の原則があるから、事件性を確認できない段階で私生活の事柄に介入するべきではない。「夫婦喧嘩は犬も食わない」は警察官の行動原則のひとつだ。にもかかわらず後遺障害どころか死に至らしめるほどの“民事介入”を強行した。殺意が無ければできないことだ。
暴力的あるいは物理的制圧は、事態の重大さと必要性に比例して適用されるという比例の原則は、警察官職務執行法のもとで適用される。ゆえに、背中の上に乗って呼吸や血流を停止させ、心臓を停止させる行為が、警察官職務執行法で言うところの「真にやむをえないと認められる限度で、行動を抑止するための手段」であるとは法的に認められないし、緊急性もない。社会一般通念に照らしても、そのような殺害行為が必要でありかつ正当であるとは認められない。
犯人が被害者女性の背中に全体重を乗せて心肺圧迫で低酸素血症に陥らせたのだとすると、おそらく数秒から数十秒といった短時間で意識を失っただろう。意識を失って呼吸が停止した瞬間から、脳に酸素が届かなくなり、3‐5分以上の呼吸停止が続けば、自己心拍が再開して呼吸がはじまっても脳障害(蘇生後脳症)を生じる可能性がある。こうした基本的な医学知識は、教育訓練や研修などで警察官なら知っていたはずだ。また民事不介入やそれ原則といった警察権行使のルールについても、警察官は徹底した教育を受けているので知っていたはずだ。だから、事件を起こした警察官たちは警察権行使のルールを知らずにやってしまったとは考えにくい。警察権行使のルールを知っていてあえてやったと考えるのが自然だ。
呼吸を停止させたのは遅くとも7時20分頃であろう。報道では「7時55分頃女性が意識を失っているのに気付」いたと報じているが、報道が事実だとすれば、35分間という長時間、犯人は呼吸が止まった女性の背中に乗り続けていたことになる。背中に乗っていて呼吸が停止するのに気づかないというのはあまりにも不自然だ。制圧をしに来て、過剰制圧にならないよう気をつけるべき警察官が、呼吸が止まったことに35分も時間がかかったという言い訳はあまりにも不自然だ。だからこの事件は、過失傷害などではなく、故意の報告遅延、すなわち死んでもとにもどらないことを確認してから救急を呼んだ。これはまさに殺人行為、しかも集団による組織的な殺害行為であった可能性が高い。
いずれにせよ、背中に乗って呼吸を止める必要性は無い。背中に乗れば呼吸が止まる可能性があったことは警察官なら予見可能だったし、呼吸が止まったことにすぐに気づいて救急を呼び応急措置をとることも可能だった。しかしそれをあえてやらなかった。複数の警察官が死ぬのを35分間なにもせずじっと見守っていた。しかも単独ではなく複数でだ。背中に乗ったことも、呼吸をとめてそのまま35分間放置したことも、殺人行為に当たる。これは単なる過剰制圧ではない。単独犯の突発的な事故でもない。複数の警察官による組織的な犯行だ。
警察官には、自分は正義の体現者であり、いかなる暴力も使えるし、たとえその暴力で相手が死ぬことになってもそれは正義の実現であるという、思い上がった動機を持っていたのかもしれない。またそのような正義の暴力を警察組織は日常的に産み育てる環境をつくり、正義のための暴力、正義のための処刑という考え方を称揚し、評価する環境が日常的に存在した。犯人たちの組織的な正義の暴走は、警察組織の日常活動の中で繰り返されていいたのかもしれない。
今回はたまたま家族が殺人現場に立ち会っており、加害者の行為は言い逃れできない状態にあった。今回はたまたま大阪府警に報告され、たまたま司法解剖にまわされ、たまたま司法解剖で物的証拠が確保され、今回はたまたま大阪府警が送検して事態を公開した。しかし、堺署は当初「問題はない」としており、組織的に事件を握りつぶそうとしていた。堺署の言い分がとおっていたら、事件はヤミからヤミへ葬られていただろう。そうなっていた可能性もあったし、かつてそのようにして握りつぶされた事件が各地で発生していた可能性もある。
こうした殺人=正義を認める現場処刑OKな警察組織の暴走を防止するためには、警察組織の刷新を実行するとともに、警察官職務執行法そのものを非暴力的なものへと改変する必要がある。裁判所は警察の正義の暴走を止めることはできない。またこうした事件を二度と繰り返させないために、実行犯だけではなく、立ち会った警察官、警察官を指導していた監督者に対する法的制裁が必要である。警察組織の社会的な信頼を失わせた責任を警察トップが引責することも必要だろう。ひとりだけ過失傷害で起訴だけして執行猶予つきで刑務所にも入らずに警察に復職するなどという事態は絶対に避けなければならない。過失傷害ではなく殺人罪による起訴。そして殺人現場にいた同僚は、殺人の共同正犯として起訴。上司は背中に乗って制圧するという方法を教えていたのだから殺人予備教唆で起訴。社会的な不安を生起させた事件であるから実刑が望まれる。