はてなキーワード: メソッドとは
まず「子供を愛する」とかいう精神論について考えているのが間違い。
子供に必要なのは愛じゃなくて、愛されている実感によって醸成される自信とかだ。
そして子供に実感を与えたりするには、むしろメソッドが大事だったりするんだよな。
お前はせいぜい、誠心誠意お客様に接しましょう、程度の愛と子供相手の接客知識をもっていればよくて。そういうのって本心からの愛があればそりゃあ自然と出てくるんだけど、別に自然である必要はない。勉強して身に着ければいいたけどのこと。
お前が考えるべきは、自分に勉強してメソッドを身に着ける能力があるかどうかだ。
あと、こと生活についていえば、ガキを優秀にしようとか、完璧な人生を与えようとか、間違いのない教育を施そうとか考えるから「育てるのが大変」っていう話になる。都会出身で自称中流実質高等な家庭に育った人間はここを勘違いしている。
生きてりゃ丸儲け。最終的にそこらへんの職人のオッサンとかになるとしても悪人にはならない。幸福であれば大金持ちである必要ない……ぐらいの気持ちでいけば、この日本それぐらいのことは可能な福祉はある。具体的にはガキの食費ぐらいは自治体の支援で賄えるし、大学行きたいといいだしたら常人なら教育ローンぐらい組める。別に塾行けなくて高校生のときヤンキーくずれの学校に行っても親がちゃんとしてりゃ犯罪者になったりしないよ。
親のキャリアについても同じで、なんかオリンピックでも目指しているならキャリアにだけ集中すればいいが、大抵の人間のキャリアなんてものは少々子供に労力を割いたからって変わったりしない。完璧を目指すから不安になる。
9月12日(土)、俺は、全身麻酔下で行われる精索静脈瘤(グレード3)の手術を断ることにした。
精索静脈瘤のことは、男性不妊を受診した人なら良く知っていると思う。
精巣の周りの血の流れが滞ることで、玉袋の排熱がうまく機能しなくなり、
精子の運動力が弱ってしまうというものだ。ご存じの通り精子は熱に弱い。
精巣のエコーと触診の後、俺はこう告知された。
左:3.6mm。右:拡張が見られる。自覚症状は全くなかった。
完治を望める治療法は外科手術しかない。保険適用で自己負担は4万円。
命に係わるリスクなんて全くない、腹腔鏡による低侵襲な手術で、
盲腸切るよりもはるかにイージーだ。ひと眠りする間に治っている。
それで、俺の精子が元気になるなら、しない選択肢は無いと、理性ではそう感じている。
†
5chとTwitterで全身麻酔の体験談を読んでいて、本当に気が滅入ってしまった。
過呼吸とパニック気味になり、みっともなく妻の前で何度も泣いた。
「あっという間に落ちる」
「10数えようとして最後まで数え切らずに落ちた」
「一瞬で落ちて、次の瞬間ベッドの上に居る」
これを、苦痛の全くない素晴らしい治療と捉えるか、それとも……
俺は、これはとても怖いと感じた。
手術を受けている間の、無意識下の自分はどこに行ってしまったのか?
目覚めた後の自分は、本当に、目覚める前の自分と同一なのだろうか?
突然プツンと意識が途切れるのは一時的な遮断ではなく、死そのものでないか?
今ここにいる自分は死に、同じ意識をバックアップした他人が目を覚ましているのでは?
そういった、途方もないものを想像した時と同種の、金玉が縮こまる感覚が、ある
手術に対する恐怖心は、弟が大病をしたこともあり、子供の頃から人一倍あって、
手術になったらどうしようと夜一人でベッドで震えて眠れないこともあった。
幸いにして、大怪我一つもせずにこの歳まで生きてきた。
だから、この問いに対する結論は先延ばしにしていればよかった。
その先送りのツケを、今払わされている。
いまどき、ガン告知だって、もう少しあっけらかんとしているだろう。
いい歳して、そのくらい動揺してしまった。精神的に堪えられそうになかった。
精液検査の結果は悪いものではなかった。運動率は少々低かったが。
放置したところで、ガン化したり、命に別状のある病気でもない。
男性不妊以外では、積極的に治療されることは稀という事実も存在する。
言い訳だけはどんどん出てくる。
結局、手術は受けないことに決めた。
†
手術が怖いと訴える若者の存在自体は珍しくもないかもしれない。
幼い時から、気を失う、失神することへの恐怖が半端無く強い。
30年余りにわたり肥大し続けた認知の歪みは、ちょっとやそっとで打ち砕けるものじゃない。
そうはいうが、お前は毎日キッチリ5時間寝てるじゃないかといわれるかも知れない。
正直に答えよう。俺は、睡眠を取ることさえ、怖くなってしまうことが、よくある。
実際俺は、イヤホンでASMR音声を聞き続けていないと、不安のために寝落ちすることができない。
耳から入ってくる音声を頼りに、眠りにつく前の自分と、目覚めた後の自分の自意識が
ひとつながりになっていることを、毎日自分に言い聞かせ、それで漸く、おっかなびっくり
落ちていくことができるようになったのだ。全身麻酔ではそれができない。
手術室でもASMRを流してくれたら、それも可能かもしれない。
先日は、それすら堪えられなくなった。中間過程――睡眠によって4時間も5時間も、
途絶えてしまった自分の意識の屍――を想像してしまい、そのことがとてつもなく、恐ろしく
感じられたのだ。それは、死の時間そのものだ。横たわるベッドはさながら棺だ。
自分という存在が消滅してしまう恐怖を抱えて、どうして、赤子のように、
最近は、睡眠中1時間おきにアラームを鳴らすことで、これに対処するようにしている。
1時間の睡眠ならまだ「こちら」へ戻って来られるという感覚的なものが、自分の中にはある。
ウトウトしたかと思ったタイミングで、アラームが鳴る。現在の時刻をチェックする。
これを繰り返すことで、無意識を回避しつつ、朝までの時間をやり過ごす。
論理ではないのだ。
結局自分が納得できるかどうかが、恐怖を乗り越えるのに一番大事だと思わされる。
全身麻酔ではそれができない。
手術室でも1時間おきに覚醒させてもらえれば、それも可能かもしれない。
(思考実験をしてみたが、30分で完了する手術なら、躊躇なく受けていたと思う)
昏睡への恐怖を訴える患者に対して、麻酔科のWebページではこう説明されている。
今まで麻酔から目覚めなかった患者は存在しない。必ず覚醒している。だから大丈夫だ。
真っ当な説明だ、こちとら原理まで散々調べたからそれは承知している。
そう、それでも、絶対安全な「作り物の死」であっても堪えられないのだ。
思い出したが、俺はジェットコースターも楽しめない人間だが、それと同根な気もする。
ビビリの俺は、カリブの海賊からスモールステップで難易度を上げていかなければならない。
幸いにして精索静脈瘤には、自費負担にはなるが、日帰り局所麻酔による治療も
存在する(ナガオメソッドは良さげだがとても高額で、貯金を溜めておかないと払えそうにないが)。
どうしても自然な受精が困難であればこちらも選択肢に入れることにしよう。
†
これから20年30年生きていれば、体中にガタがどんどん見つかるはずだ。
脳ドッグを受ければ、脳動脈瘤が必ず1個や2個は見つかるだろう。
祖母は心臓が弱かった。心臓にカテーテルを挿入しないといけないかもしれない。
そのたびに、泣きわめいて何とか全身麻酔を回避する方法を探し求めるのか。
きっと俺みたいな臆病者がガン告知で取り乱し、代替療法にハマった挙句、
治るはずのステージをみすみす悪化させて、全身転移の末苦しんで死んだりするのだろう。
いや、それよりも何よりも、人生の終焉に待ち構えている大関門――死――、
死こそ、人知の及ばぬ、理性の制御できない最たる存在ではないか。
妻や、まだ見ぬ子と、どれだけ輝かしい日々を送ったとしても、それはいつか終わるのだ。
偽りの喜びでしかないのだ。
俺と、その家族が暮らしていた記憶は、いつの日かこの世界から消え去ってしまうのだ。
それに何の意味がある?
運よく在宅勤務で顔を見られることもない。
まさに今この時も、数秒後に脳卒中で誰にも気づかれず突然死してしまう妄念が頭から離れない。
大人になれば、こんなくだらない恐怖は薄れていくものと信じていた。それがどうか。成人して以降不安は強まるばかりだ。
まだ若いから、と一笑に付してきた最悪の可能性が、日に日に、無視できないほど大きくなっていく。
幼少期からの不安感が全く緩和されていないことに、絶望しか感じない。
死の数か月、数日、数時間前、俺は更に激しく動揺し、どれだけの絶望で染められているのだろうか。
どうして自分のことしか考えられない人間になってしまったのだろう。
誰よりも出産を希望していた妻に対して、本当に申し訳が立たない。
それとも、こんなにも死に怯え、生まれてこなければとさえ思っている男が、新たな命の親になろうだなんて、烏滸がましいということなのだろうか?
キャラクターイラストを描くのが趣味だ。そしてお絵描きしてると色ぬりも付いてくることが多いわけだけれど、色ぬりが苦手である。キャラクターのポージングとかについては理想が見えるからそれに近づけていけるけど、色ぬりの理想が見えない。正確には、理想は見えるのだけれど、その理想のレベルが低すぎる。
デジタル塗りが一般化してからキャラクターイラストの色ぬりのレベルが物凄く一気に上がったと思う。
二十年前のキャラクターイラストの塗りは、固有色がそのまま塗られてて、それに対して陰とハイライトが適切に入って、固有色の配色が魅力的なら上手に塗れているというものだった。けれども今は上手に塗るだけじゃ足りない。印象派が独自の色使いで一気に絵画の世界を変えたみたいに、デジタル塗りが一般化してから色使いの幅の振れ方が一気に広くなった。
これは、デジタルで色が塗れるようになったことにその要因がある。技術的な要因がこのブレイクスルーを起こしたのだ。
絵の世界にデジタル技術が持ち込まれた時に何が起こったのかというと、描き方の自由化が起こった。
アナログ時代の絵の描き方は、メソッドがかなり固定されていた。まずラフを描き、下描きを描き、ペンを入れ、色を塗った。その色の塗り方も、まずは広いところから薄い色で塗り始め、少しづつ濃い色で細かいところを塗り進めていくのが基本だった。
この手順は前後したりは出来なかった。なぜならアナログは、『やり直せない』からだ。
でも、デジタル時代の今は違う。まず色ぬりから始めてもいい。ペンは後からでも入れられる。むしろペンを入れない表現もある。自分のイメージが完成するところまで、いくらでも『やり直しができる』のだ。
加えて、そうした技術が人のイメージする力を引き上げているようにも思えるのだ。
さて、自分の絵の話に戻ると、私がもし二十年前に今の色塗りができていたのなら、それで満足できていただろう。キャラクターの色を上手に塗る以上の表現など、めったに見つからなかったのだから。でも今は違う。
単にキャラクターの色を上手に塗るだけではなくて、表現として華やかな色使いをしているイラストがたくさんある。それらと自分の絵を比べると、足りない、と感じる。だから、私もイメージする力を引き上げなければならない。
頑張る。
ミュージシャンのソウル・フラワー・ユニオンによるツイートが、日本で生活する重度精神障害者への差別を煽る投稿であるとして議論になっている。
5月23日、ソウル・フラワー・ユニオンは、「木村花さんの死が問いかける、ネット上の誹謗中傷の罪とプラットフォームの責任」という記事に言及する形で、数年前に「中川敬を殺す」という書き込みが続き、事務所が警察に被害届を出したことがあったと投稿した。
<滅入る。ネットの誹謗中傷による悲しい結末。数年前に「中川敬を殺す」という書き込みが続き、事務所が警察に被害届を出したことがある。結果警察が動き、犯人から謝罪文が来て終わらせた。重度精神障害で逆にこちらが気を揉むような状況だったが、やはりヘイト含め、SNS会社にはやるべきことがある。>
投稿によれば、ソウル・フラワー・ユニオンは被害届の提出後、犯人から謝罪文が来て終わらせたという。
ソウル・フラワー・ユニオンが述べていることが事実なのだとすれば、「中川敬を殺す」という書き込んだ犯人は罰せられるべきだし、被害に遭ったソウル・フラワー・ユニオンはお気の毒ではある。しかし、ここで「重度精神障害」という属性を敢えて書い他ことが、フォロワーの差別心を煽ったこともまた、否定できない事実だろう。
そもそも、もし現行犯で捕まえた犯人が健常者であったら、<逆にこちらが気を揉むような状況だったが>とツイートしただろうか? おそらくしないだろう。
もし重度精神障害が「中川敬を殺す」という書き込んだ犯人であったとしても、それをTwitterに書くことが、フォロワーのどういった反応を引き出してしまうか、ソウル・フラワー・ユニオンはもっと思慮深くなるべきだったはずだ。
「重度精神障害者に殺人予告をされた」ことが事実であるとして、その事実をそのまま伝えれば「日本で暮らす重度精神障害者全般」への人々の憎悪を煽りかねないことや、日本でマイノリティとして生活する一般の「重度精神障害」をどれだけ苦しめることになるかを、よく考え
てみてほしい。
現在、日本には排外主義的な考えが浸透してしまっている。「重度精神障害者の犯罪率は高い」「重度精神障害者が増えて街の治安が悪くなった」という意見を、さも事実であるかのように信じ込み、伝えようとする人も少なくはないようだ。
だが実際には、「重度精神障害者の犯罪率は高い」「重度精神障害者が増えて街の治安が悪くなった」という話はデマである。
犯罪白書によると、年間の精神障害者の犯罪検挙数は全検挙数の約0.6%であるとされている。精神障害者の数が全人口の約2%であることからすると、精神障害者の犯罪率はむしろ一般より低いといえる。しかもこの統計は、精神障害者に加えて、警察が「精神障害の疑いがある」と判断した数も含めているから、実際にはもっと少ないかもしれない。
こうした数字が出ているにもかかわらず、前述したような重度精神障害者への差別意識はなくならない。だからこそ、SNSを通じてネット上の誹謗中傷被害を訴える際には「重度精神障害」というレッテル貼りをすることに対して注意深くならなければならない。
歴史を振り返れば、約100年前の同じ9月、関東大震災の際に「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「朝鮮人が暴動を起こしている」というデマが飛び交い、多くの人が尊い命を奪われた。「犯罪」と「重度精神障害」を安易に結びつけることはこういった悲劇を再び生む危険性も孕んでいる。
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改変元:
https://wezz-y.com/archives/80942/2
https://twitter.com/soulflowerunion/status/1264103555264208898
http://www.kansatuhou.net/60_johonyushu/01_nyumon/02_Q&A6_10.html
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改変してみた理由
・「結構きわどいことを言ってるけど、特に炎上していない投稿」をあえて炎上したものとして改変することで、炎上する投稿と炎上しない投稿の何が違うのかをハッキリさせられるのかなと思った
改変してみた感想
「そのうえでつるの剛士はフォロワーからのコメントにリプライするかたちで、<一応目星がついていますので。畑近くの工場で働いてる外国人。もちろん次見つけたら通報します>とつぶやいた。
その後、こうした一連のツイートが外国人に対する差別を煽るかたちになっていると指摘を受けるとつるのは猛反論。
<日本人だろうが外国人でろうが農産物を盗む行為は歴とした犯罪。差別でもなんでもなく事実です>(原文ママ)
<日本人でも外国人でも農産物を盗む行為は歴とした犯罪!こちら100%被害者!差別??現行犯!事実!今回許してしまいましたが今後はこのような難癖つけられないよう次こそ必ず通報します!>」
「いま現在、つるの剛士のTwitterのリプライ欄には、今回の件に乗じたヘイトツイートを投稿しているアカウントが多数見られる。」
・「指摘されて強弁したこと」と「フォロワーの投稿内容」が炎上するかどうかのカギなのかもしれない。
・極端な思想に基づいてコメントしてくるフォロワーは、元の発言に肯定的な趣旨だったとしても全員ブロックするのが今後の処世術となるのかもしれない
・仮につるの剛士が「差別的に取られる可能性がありますよ」と指摘されたときに「不用意でしたね、当該投稿は削除します」と応じていれば特に問題にはならなかっただろうし、それが最適解だったのかなとも思う。
・個人的には、「つるの剛士、不用意な発言かもしれないけど、そこまでクソミソに叩かれるほどでもないな」という感想。
・同様にソウル・フラワー・ユニオンの投稿も、もちろん不用意な発言だとは思うが、クソミソに叩かれるほどのことではない(そして現実には誰も叩いていない)
・個人的には「いつもヤバイたまにダサいそん時はそん時でごめんなさいby呂布カルマ」の精神でありたい。
キャラクター、背景美術、音楽は素晴らしいのにアンバランスにヘタクソなシナリオのアニメが多いのはなぜ? なぜ日本のアニメはここまで脚本が軽視されてるのか?
映像作品の面白いシナリオの書き方ってハリウッドメソッドとかいうので既に確立してるんでしょ? なぜその通りに書かないのか?
なにも21世紀のシェイクスピアと呼ばれるような物を書けと要求しているわけではないのだ。
例えば、超能力者が荒唐無稽なバトルをするアニメなら、マーベルやDCのアメコミヒーロー映画あるじゃない? だいたいどれ観ても、まあ、面白いアレ。ああいうのを手本にして量産すれば良いと思うのだけど。
難しいのかな……
触れずに倒す、などのはっきり言えば別ジャンルの人によって勁は随分勘違いされてきました。しかし勁はマジックでもなければ詐欺でもありません。そればかりか日常的に勁は使われています。勁とは力の作用の仕方を総称したものだからです。例えば野球選手の投球フォーム、ハンマー投げ選手の重心移動なども勁の一種です。それが今日の体育的か武術的かの違いに過ぎません。
実際のところ発勁という単語は日本特有のもので、中国では単に勁と書きます。
身体操作法です。武術観点から言えばひねらずためず、肉ではなく骨の力を使うことが多いです。この場合骨盤や肩甲骨の回転、地面の衝撃を止めずに流す手法などが取られます。
勁には一番簡単な実感方法があります。ご自身で手を伸ばして、その先端が地平線上に糸でどこまでも引っ張られているとイメージしてください。その後その伸ばした腕が曲げられるか第三者に試させてください。普通に力任せに曲げられないようにこらえたときと違い、糸が伸びるようなイメージで伸ばした腕は曲がりません。このように「勁を働かせる」とは、普段惰性で行っている身体操作を意識の持ちようで別の動きに変えることを意図しています。
身体操作の内部的感覚を錬成するためにやるだけで、その感覚を得やすいからやってるに過ぎません。ちなみにこっちばかり先鋭化されすぎるとMMAでボコボコにされた某気功家みたいな悲惨な勘違いを生むことになります。ちなみにあの気功家、大東流柔術とは全く無関係の大東塾武道という流派を呼称しています。大東流の方もさぞ迷惑だったことでしょう(もっとも、これは擁護ではなく大東流の方々が直ちにMMAで勝負できるという意味ではありません)。
確かに現代的な練習を積んでいない武術家はぶっちゃけ弱いです。最近の事件として中国MMA格闘家が太極拳の指導者を叩きのめしたことは記憶に新しいです。この点は各方面から伝統派も実践式スパーを取り入れるべきだという意見が飛んでいます。一方、伝統派がスパーを入れて競技化すると武術的な技は形骸化して意味を失います。極真空手の型、柔道の寝てからの攻防など、体育化によって失うものもあります。
また、武術家全員が弱いわけではありません。古流空手出身でRIZINのトップファイター堀口恭司選手は、靭帯の怪我に泣かされて朝倉海選手に敗退するまで連戦連勝でした。彼は古流特有のロングレンジからの突きを多用します。また、総合のUFCで活躍する菊野克紀選手は古流空手で、そのパンチであるナイハンチは浸透勁の手法です(システマの打ち方に似ているという指摘もあります)。キックボクシングの大月晴明選手は合気道の歩法をキックの試合に取り入れた結果、ロー必ず当たるようになったと語ります。勘違いしてはならない点として、彼らは脱力した技法を用いるにしても、筋力の鎧はまとっているという点です。打たれてダウンする選手は活躍できません。
また、武術家当人が弱くとも、勁を通す技術体系そのものまで貶められるのは筋が違います。上記選手の方々のように使い方次第です。
別段ブロックは皮膚と内部を巻き藁あるいは鉄砂掌でならした空手家や拳法家が普通に壊せますので、勁とかそういった(働きもありますが)大げさなものではないでしょう。それに、内部に効かせるものが多いと思います。ボクサーなどにも言えますが、効くパンチとパンチングマシーンなどの衝撃測定では結構な落差が出ると言います。力を抜いてインパクトの瞬間だけ握りしめる手法も一種の勁で、この方法と相手の反射、例えばカウンター時に合わせるなどして一挙に意識外から意識を持ってゆきます。
実はここが一番問題です。本格的な勁の多くは極端な脱力によってもたらされるもので、力を込めて威力を加える近現代的な体育の身体作法とは真逆のアプローチを取ります。組み込み難さはかなりのものでしょう。そして、一番の問題は応用が効くまで一定の型内でしか発揮しにくい、という点です。例えばリング際で胴タックルから肘を入れられてのけぞらされた場合、少なくとも地面を利用した勁を使うことはできなくなります。こうした不測の事態を考えていない武術家は不利な状況下での身体操作を理解していないため、上述の太極拳指導者のようにやられてしまいます。もっとも、あの人の場合ただ単にパンチに反応してないだけですが。
あれをそのまま使う人はいません。基本的に力の流れを意識して体の内部を注視しながら感覚を身に着けさせるためのメソッドでしかなく、体操化した太極拳にはそうした体内を注視する意識も欠けています。実践の際にはもっと素早く動きますが、初心者に素早い動きをさせると力んで力を使うため、ゆったりと感覚を身に着けさせるように誘導します。
今の所中国ですら武術がスポーツ化していると言われており、武術的な型を使ったスポーツ化している選手が多いのではと推察しています。渡航しないとわかりませんけど。試合の流れの中で使う分には、散打特有の投げルールポイントを駆使したほうが勝利しやすい、などの理由もある気がします。
肩口から出る力を使い、脱力してインパクト時に握り、ミットやサンドバッグにあたった瞬間にその衝撃だけ伝えて手を引く、いわゆるジャブは肩口からの勁です。また、コークスクリュー・ブローは纏絲勁を前腕、リスト部分に用いた限定的な用法です。
限定された動きのみならず、すべて格闘技と異種格闘戦を行って武術的アプローチで対策を練る、現代的に見ると変な武術家が現れない限り、実力があるとは認められないのも事実かと思います。そんな申し出は社会的にも失礼な話ですからね。打撃に混ざって練習生を崩して投げるやつがいたら練習生の邪魔になります。
また、多く武術は投げ以降が簡単な関節技しかないため、寝技のあるMMAとスパーしても今度はMMA側が楽勝すぎて練習にならないでしょう。故、塩田剛三先生クラスでなければ寝た瞬間に力んでしまい、固められておしまいかと思います。この辺は型として、それも打ち込みで反復練習できる実践的な型として勁をどう使うか、という研究が足りない気がします。
id:sangping よく分からんが、勁が「力の作用の仕方を総称したもの」なら、昔ながらの抽象的な表現をそのまま用いず、物理数式に置き換えて実証すればいいんじゃないの? 現代なら計算によるシミュレートも可能だろうし。
砕ける人を捨てて砕けない人だけ拾い上げるメソッドですので
テレワークって、極論、田舎の実家からでも仕事できるってことですよね?電気とインターネットと机と椅子とパソコンがあれば。あとクロネコ。
ZOOMで面接して、入社式して、新人歓迎会飲み会して、仕事して、婚活して、あつ森で結婚式して、人生のほとんどZOOM化できるのでは??マトリックスみたいだなあ。
限界集落っていずれ人が居なくなってゴーストタウンになるわけなので、そこに100人とかがまとまって移住して、残されたハードウェア・インフラを流用して文化的に上書きして暮らせないのかな?
なんか中国人が100人とかでまとまって外国の特定エリアに集団移住して住みやすくする、ってメソッドと同じで。
都会人からすると田舎の近所づきあいはちょっと・・と難色を示すような問題を解決できると思うんですよね、都会の論理・価値観を持った集団で、都合のいい田舎に集団疎開して、都会の論理で自治をして暮らす。みたいな。人数がいればそのエリアの地方自治にも民主的に勝利・上書きできるし。
しかし限界集落ってインフラがオミットされていって、近くのコンパクトシティに集約されてたりするんで、不便すぎて立ち行かなくなったりしないか?
「最寄りのシティにアクセスできる程度の集落」が狙い目なのだろうか。地方都市はインターネットとクロネコを整備してアピールして「コロナ疎開・テレワーク移住歓迎」を打ち出すとか?ワーケーションの進化系かも知れない。
テレワークのシステム(ビデオ会議とかVPNとか)が使いこなせないから。という理由でテレワークやめたケースもあるらしいけど、それって高齢者が中心ですよね。
比較的に若い人ほど難なく使いこなせるわけで、テレワーク可能率が高く、どこでも働ける率が高い。つまり、若い人ほどテレワーク最適化郊外へ移住しやすい。と思う。お金も無いし給料も安いし。結果的に都内の昼間人口の平均年齢が上がるのかも知れない。
周りのふっつーのろう者にヒアリングしたので、その結果を踏まえて疑問にお答えします。
とはいえ私の周りには中高年ろう者が多いので若い世代の意見はそれほど反映できていないけれど。
あとみんなのコメントを見て思うんだけど、「ろう者は・・」つっても立場や年齢やらなんやらで意見は相当バラバラだよ。
聴者と同じようにね。
手話界隈めんどくせぇという意見を見たけどそれはマジでその通りだと思うw
☆☆☆
・聴者が聴者同士のコミュニケーションのために手話を利用することが「文化の盗用」「ろう者の権利や尊厳を損ねる行為」であるならば、聴者はオリジナルのハンドサイン体系を新たに構築する必要があるけど、めちゃくちゃ無駄だよね?
→無駄ですね。ただ「文化の盗用」と思っている人はろう者のなかでは少数派だと思います。
そもそも今回のニュース、私の周囲のろう者は好意的なリアクションが多数でした。微妙・・っていう人ももちろんいたけど。
広く言えば日本語対応手話だって聴者が作ったと言えなくもない・・
・日本語対応手話というすでに確立したメソッドがあるなら聴者が聴者同士でそれを利用しても別にいいよね?
→いいんじゃないでしょうか。私はその場にろう者がいないのに聴者同士で手話で話すのは恥ずかしいですが。
もちろんそう思わない人もいるってだけで。
・副産物としても、日本語対応手話を使える聴者は、少なくとも何も知らない聴者より多少はマシな存在だよね?
→少しでも・・・日本語対応手話だろうと手話ができるだけで「素晴らしい」「我々に理解のある聴者」と思う人が多数派です。
そう思わない人も以下略
・ろう者の多くはバイリンガルだろうから、聴者にとって比較的習得の容易な日本語対応手話を受け入れてもらうほうが助かる(=社会的コストが小さい)のだがそれとも聴者は日本手話も日本語対応手話も使うなと言っている?
・「俺たちの手話」を使うのはかまわんが手ぶらじゃ許さん、それなりの誠意を見せろ、って言っている?
→そう思っている人はいませんでしたね。
・なにがいけない?
→特にいけないことはないです。
・どうしてほしい?
☆☆☆
増田の制限なのかこれ以上URLを貼れなくなってしまったのだけれど、いただいたトラバの中にどうしても読んでほしいものがひとつあるのでこの記事を読んだ人はなるべく目を通してほしい。目に触れないままだと残念すぎるので。
こっちも読んでくれ
観光業の方々、経済を危惧する人、また(個人的にはとんでもない無能集団だと思っているが)現政権。
言いたいことはわかるし、ある程度の理解もできるが、これ以上感染を拡大させるメソッド(拡大こそスレ収束は無い)を政府がアナウンスするなんて気が狂っているとしか思えなかった。
重篤患者は多臓器不全で身体中がドクターイエローの様に黄ばみ、軽症者でも後遺症を残すような有様で、尚且これに対するワクチン等は現在存在しない。
志村けんさんが亡くなった直後あたりは、まだ活動の自粛などもあったように思うが、今の飲食店はもうコロナ前の8割くらいの動員なのではないか。
(私は都心に住み働いているのだが、3ヶ月前の緊迫感を同僚・友人・知人などから感じないし、マクドナルド等のファストフードの混み具合もすごい)
経済の専門家でもないし明るいわけでもないので、直接給付云々にも言及できないが、人を動かす以外で何か策はなかったのだろうか。
布製マスク、GoTo...多額の税金を投入しているが、国民の命を守るという方向に舵を切っているようには全く見えない。
当然、私自身が観光業の下で働いているわけではないので「おまえがいる場所をピンポイントで狙われても言えるのかな」みたいなのに反論もできない。
が、それでも私は人々の命が最重要だと考える。老人だから死んでもいい?何を言っているのか本当にわからない。
国費で保護も必要なのだろうが、デジカメが流行り、町の写真屋さんが死んでいった時に保護はなかった。