はてなキーワード: 電気ショックとは
まず、副作用の問題である。記憶ならびに認知機能障害(せん妄、逆行的健忘、記憶力低下)は明らかに認められている。
本著でも、国語辞典を引く際に、「あ、か、さ、た、な、」まではいいが、その後の順序があいまいで辞書を引くのが大変な例等が挙げられている(39頁)、
また、これは本著で紹介されている例ではないが、奥さんの顔と名前を忘れた、それどころか結婚した事実まで忘れた例や、
これは最近のアメリカの例であるが、看護婦が電気ショック療法を受けた結果、
それまでに覚えた看護技術をすべて忘れてしまったのだが「医療過誤裁判」で勝訴し、多額の賠償金を勝ち取ったという例も報告されている。
http://orifure-net.cocolog-nifty.com/net/2006/06/63_9a37.html
遠い記憶。
曖昧だが、覚えてる限り記しておこうと思った。
中学校1年夏、当時住んでいた部屋は広くなかったが
寝室代わりに使っている
その日は、とても暑かったので
ふと、股間がもぞもぞしたので触っていたら
恐る恐る、包皮をめくると
衝撃だった。
ビリッ!と
頭の先からつま先まで
電気が走るような衝撃に
なんだこれは。
ツラいんだが…また触ってしまう
さわ…ビリッ!
それからしばらくは
亀頭へ加える刺激にすっかり虜になった。
何度か繰り返しているうちに
数週間経つ頃には
射精もするようになり
ティッシュの消費が激増した。
それまでは、ティッシュ無しだったのが
今思うと驚くばかり。
あぁ、中1の頃と比べて
どれだけ鈍感になってしまったのだろうか。
あの電気ショックを味わえる日は
もう来ない。
前にも似たような日記を書いたと思うけど軽く絶望してしまっている人がいるので。
生きる理由がないということは、
死ぬという着地点に向かって落下途中の林檎である命にとって生きているというのは束の間の形態にすぎない。
生きる目的を決められていないからこそ自由に発想できるし自由に生きることができる。
よしんば、そこに自由以外のものが加わったとしても死ねば終わりだ。
最終回答の死という答えが既に答案用紙に書かれてからのスタートを今生きる人間すべてが試験している。
そこに何を書いてもいいし、破いてしまってもいいし、書くものがないからといって血で名前を書いてもいい。
とにかく、自由だ。
もちろん、そこに自慢の息子と娘を書いて可愛い孫を沢山書いてもいい。
それでも解答用紙に配られる前から書かれている「死」という答えは変わらない。
最後に書く言葉で流行っているのは「宗教」って書くやつらしい。
あんたも習ってみてはどうか?
意味がない。
だからこそ好きな事ができる。
本質的には意味がないという裏付けによって全てが包括され許容される。
何も無いという前提を元にして生きることで束縛されずに生きることができる。
もちろん、束縛されることを選んでもいい。
例えそれが不本意な形であってもそれは死という解答から裏打ちされた生き方だ。
それこそが自由を支持してくれている。
病院でチューブに繋がれて何度か電気ショックを浴びて目にライトを当てられて「残念ですが・・・」。
こうなるように生きてきたという結果だ。
これもそう。
過程である生きる理由はなくとも地面にぶつかるときにしている姿勢は1つしかない。
自殺は自分の中に作り出したスーパーエゴによって殺されたからだ。
それが理由だ。
生きる理由はなくともそれを目指すことはできる。
どんな形で死ぬのか。
どんな姿勢で落ちるのか。
本意・不本意であろうとも誰しもが結末は訪れる。
自分が何を望むのか今一度考える。
元増田の言い様にどうも納得がいかないので一席ぶたせてもらう。
なお、個々人が作品から何を見出すかは千差万別であることは認識しているので、この記事を読んで意見を変えろなんて言うつもりはない。
ズートピア世界は、理性によって被食-捕食関係が終わり、共存できるようになったからこそ成立している。
理性の存在は、動物が喋る/二足歩行する/服を着る/文明化してる/etc.と同レベルの、物語における大前提である。
理性/野生の対立軸は本編前にもう終わっているのだ。
もちろん、これは「過去」として本編中でも言及はされるし、“偏見”の大本にもなっているが、この過去そのものが本編中に蘇ったりはしない。
では、元増田が見出した“野生”というのは何か?― それは“偏見”である。
「肉食動物は凶暴で草食動物を襲って食べたがっている」という偏見だ。
そしてこれはズートピアにおいて一貫して存在している、理性/偏見という対立軸の一部なのだ。
「肉食動物は凶暴」なんて、「ウサギは臆病」「キツネはずる賢い」と同種の偏見と言えば分りやすいんじゃないかな。
― 当然さ!でもそれは“野生(という名の「肉食動物への」偏見)”とは別物なんだ。
草食動物だって「野性的」で「野蛮」で「非社会的」な行動を取るだろうって?
― 当然さ!まさに黒幕がそうだったろう?
― あれは薬物による凶暴化さ。野生とは関係ないよ (薬物中毒の人間が暴れてるの見て「野生だ」って言う?)。
「理性は必ずしも野生より優れてはいない」、「理性が善、野生が悪とは限らない」、「理性ばかり肯定的に扱うな。野生にも光を!」。
しかしズートピア世界においては、過去に克服された野生にしろ、偏見としての“野生”にしろ、内容的には「共に暮らす隣人(隣獣?)を襲う」というものだ。
なに? 野生は自然だから善?それは自然主義の誤謬と言うのだ。
元増田は言う。
「ズートピアはユートピアを意識しているはずなのに、ユートピア文学等を踏まえた批判/論評が盛り込まれていない!つまらん!」
さて思い出してほしい。ズートピアはユートピア/ディストピア的な世界だっただろうか?
初期案(肉食動物に電気ショック首輪等々)であれば、これはなるほどユートピア/ディストピア的世界だと言えよう。
映画があって道路があって、スマホもあるし、屋台、車、電車、etc。職業だって警官からお役人、詐欺師もいれば泥棒だっている。
では、我々の世界はユートピア/ディストピア的だろうか?―もちろん答えは「いいえ」だ。
単に、ズートピアは作品の名前であり、都市の名前であり、ZooとUtopiaの合成語である。
ユートピアの俗語的な意味、すなわち“理想郷”的な意味合いは持たせているだろうが、それだけだ。
ぱっと見、理想郷にも思えるような、動物たちの共存する大都市ズートピア。
そこにも現実の、我々人間の世界と同じように偏見があり、差別がある。そういう世界。
タイトルがユートピアのもじりだからって、ユートピア的世界観なわけでなし、なんでわざわざ関係ない批評を盛り込む必要があるのか。(もちろん盛り込んでも良いが)
ズートピアはZooという単語も含んでいるわけだが、動物学(Zoology)の観点からの批評とか盛り込むべきだと思う?私は思わない。それと同じさ。
以下のブログ記事では「野生」の原語(Biology, Biological)について示してある。(全部ではない?)
http://anond.hatelabo.jp/20151223232520
に書いた続き。
年末は実家に帰省し友人たちとワイワイできて楽しかったのだけど、
家族と地元の神社に初詣に行ったら、期待してたほど楽しくなかった。
そして年を越すと
楽しみも無いしやらねばならないこと多いしでとても鬱な気分になった。
先日、何となく血圧を測ってみたら、高血圧で薬を処方されてる両親より高かったので
それから毎日血圧を測るようにしているが、今日も150-90ぐらい。
動脈硬化とか心筋梗塞なら交通事故みたいに人に危害を加えることなく人生を終えられそうだし、
自殺みたいに保険金が下りなくなるようなこともないんじゃないかな、とか考えている。
記憶を亡くす件に関しては、先日とあることで軽く電気ショックを受けたせいか、
少しマシになった気がする。
元増田です。多少情報が増えたので、面倒臭いので逃げていた漏電遮断器の話を多少書いてみます。長いので読んでも特にためにはなりません
今回の事件で一部報道とかで『電気柵の電源部分に漏電遮断器を設置しておけば防げた事件だった』という言い方をする人がいるが、これはある意味では正しいが間違ってもいるし、今回の事件にとっては本質的な要素ではない。
電技解釈第4節「特殊施設」の第224条で[電気さくの施設]についての規定があり、
『田畑、牧場、その他これに類する場所のうち、人が容易に立ち入る場所に電気さくを施設する場合にあっては、電気さく用電源装置に電気を供給する電路には、電気用品安全法の摘要を受ける漏電遮断器(定格感度電流が15mA以下、動作時間が0.1秒以下の電流動作形の物に限る。)を施設すること』
下の方に書いてます。
http://anond.hatelabo.jp/20150724092101がよくまとまっているのでそれへの返事です。読んでも電気の知識のない人には意味不明です。
そもそも電流差で作動する漏電遮断機はこの例のように漏電させてナンボな用途には不適切じゃなかろうか。
2次端子A→(A)→電柵
2次端子B→(B)→アース
トランス2次端子A→漏電遮断器(の左側の端子)→(A)→電柵
トランス2次端子B→漏電遮断器(の右側の端子)→(B)→アース
という回路を作った場合、アースに繋いだ瞬間に漏電遮断器が落ちる可能性があるせいです。
例の、送電の勉強したときに出て来る静電容量の関係です。ちゃんと計算してはいませんが、それなりの長さで電線引っ張っていった場合、電線と地面の間をコンデンサが延々と繋いでる例の図っぽいものが再現されることになり、いきなり漏電判定される可能性があります、というかどっかの現場で似たようなことがあって原因に気付くまで大変でした(遠い目)。
保護回路いれるのなら、トランス2次側端子Aと電柵の間に電流制限する何か、
例えば mA で反応する高感度遮断機なりポリスイッチっぽい素子のような物を挟むのが正解なはず。
(それぞれ一般に売っているかは知らない)
これは現実的ではないでしょう。先述の静電容量による誤作動問題をクリアできていたとしても、別の問題、というかより本質的な問題があります。
つまり、電気さくは、人間が常時監視せずとも、ほったらかしでも動物を寄せ付けないのが最大のメリットです。高感度・高速型漏電遮断器を設置した場合、動物(や飛んできたゴミやら植物やら人間やら)が触る度に手動で再始動させてやる必要があります。
今回のような違法施工を行った設置主がそんな不便な装置に満足すると思いますか?
つまり、「漏電遮断器を設置していれば」というのは、「ちゃんとした電気柵用の電源装置を使っていれば」とか「専門の業者に施工を依頼していれば」とか「あんな高電圧を流してなければ」とか「あじさいぐらい鹿に食われてもええやん」と言ってるのと大差ないです。
ポリスイッチも、動作特性的に感電から人間を保護できるほど反応の速度の速い物があるかは疑問です。
「毎回の放電の度に、それこそ高速型漏電遮断器が動作した場合よりもさらに高速で電源を遮断している」
的な回路になっています。電流値を監視して一定値より大きかったら遮断しようとか何とか、そういうややこしい判断は挟まず、毎回毎回止める方が確実でしょう。
何にせよ2次側は2次側で閉じた系になるはずだから、1次側上流に漏電遮断機が入っていても反応し
ないんじゃなかろうか、ってのには同意。
この点はその通りです。と言いたいところですが、単巻トランス(一部ブコメで出ていたスライダックも単巻です)とか1次側2次側が非絶縁のトランスだと、縁切りできてないので、先ほど書いた「アースに接続した瞬間に静電容量のせいで漏電遮断器がトリップする」もあるんじゃないかと思います。まあよっぽど敏感でない限り作動しないとは思いますが、一応。
というわけで「漏電遮断器と電気さくの話はあまり関係ない」というのが結論になります。
電気解釈に書いてるとおりの場所に漏電遮断器を設置した場合の目的とは、
「電気さく用電源装置が故障して、装置から漏電していた場合の事故を防ぐ」
ということになると思われます(ここはちょっと自信なし。識者の解説希望)。
市販品の電気さく用電源装置は(ごくごく短時間動作の繰り返しとはいえ)、数千ボルトの高電圧を発生させています。こういう装置については、漏電遮断器を設置すべしと定めるのは、たしかに理に適っています。
電技解釈で漏電遮断器について書いてるのは第40条[地絡遮断装置等の施設]なんですが、これだけでは電気さく用電源装置が該当するかしないか分かりにくいので、第224条に明記しておくという方針は理解できます。
以上が本題です。以下は余談です。やる気がなくなったら書くの止めるし対象読者特に決めずに書き始めるので尻切れトンボになってたらお前ら察しろ
遮断器の一種です。漏電(electric leakage)が起きたときに、回路を遮断する機器(circuit breaker)です。一般的な略号はELB。
現場で「漏電ブレーカー」という言い方もしますが、大変紛らわしいことに「漏電警報付きブレーカー」というものも世界には存在しており、それもよく「漏電ブレーカー」と呼んでる人がいます。間違えると困る場面ではちゃんと確認しましょう(電気屋以外そんな場面に遭遇しねえよ)。
基本的に電源というのは端子が二つ(以上)ついており、一方の端子から送り出した電気がもう一方の端子から戻ってくる、という形で電気が流れます。
※嘘です。送り出し端子と戻り端子に同時に触ると普通は感電してとても危ないです。
で、送り出した電気が、そのまま戻ってこないで、どこか違う場所に流れるのが「漏電」です。
「どこか違う場所」と書きましたが、漏電の場合には実際流れる場所はほぼ決まっており、アース、つまり「地面」へと流れ出すのがほとんどです。
これを「地絡」と言います。
慣用的に「漏電」と呼んでるものは「地絡」、つまり本来の電気が通る道(電路)の途中で電気の一部が漏れて、地面に流れ出してしまうことです。
送り出しの電路と戻りの電路に同時に触った事による感電事故ももちろんたくさんあるのですが、今回の事故、そして日常的にもよく発生するのは、こっちの漏電による感電事故の方です。
さて、先ほど書いたとおり、電源というのは端子が2つ(以上)ついてて、送り出しと戻りとがあって、両方を繋ぐことで初めて電気が流れます。
ですので、電気が流れ出さない状態であれば、たとえば裸電線に素手で触っても電気は流れず、感電もしません。
「地面には無限に電気が流れ込むから漏電(地絡)が起きる」と考えている人がいるかも知れませんが、そういうものでもありません。
たとえば、バッテリーを用意して、一方の極だけを地面に繋いでやって、もう一方の極は何も繋がない状態にしても、電流はほぼ流れません。
じゃあどうして地絡が起きるのかというと、電源の一方の極が、実際には地面に繋がっているからです。
さて普通の交流電源は、極の一つが接地、つまり地面に接続した状態で供給されています。家庭で普通に使うコンセントに供給される電源も同じです。
電源プラグをコンセントに差し込むときに、左右の向きを気にする人はあまりいないと思いますが、実際には左右で電気的な意味は大きく違っていて、普通は一方が接地側極、もう一方は電圧側極と呼ばれる物になっています(左右どっちがどっちかは本当は規定があるんですが、間違って繋がれてることが割とあるのでここでは書きません。調べるとすぐに分かりますし)。
接地側極に素手で触っても、普通は感電しません。一方、電圧側極に素手で触ると…感電しないことも実はたまにはあるのですが、普通は感電します。
電源の電圧側極→電線→コンセントの電圧側極→人体→(家とか床とか何か地面まで繋がっているもの)→地面→電源の接地線→電源の接地側極
という経路で電気が流れます。途中の家とか床とかの絶縁が完璧であれば、たぶん感電しないで済みます。
逆に地面の上に直接立ってる状態だと激しくびりびりします。この事故を防ぐのが漏電遮断器の役目です。
電源の電圧側極→電線→ELB(慣習的には左側端子)→電線→コンセントの電圧側極→何かの電気器具→コンセントの接地側極→電線→ELB(の右側端子)→電線→電源の接地側極
という経路で電気が流れています。ELBを通って流れた電気は、ELBを通って電源に戻っています。このとき、ELBは何もしません。
ここで地絡事故が起きると(話を簡単にするために地面の上に立っていたとします)、
電源の電圧側極→電線→ELB(慣習的には左側端子)→電線→コンセントの電圧側極→人体→地面→電源の接地線→電源の接地側極
という経路で流れます。先ほどと違って、ELBの右側端子を通らずに電気が流れていますね。そうするとELBは
「あ、左側端子を通っている電気と右側端子を通っている電気の量が違う! これは漏電だ、ヤバい!」
と判断して電源を遮断します(これをトリップするとか飛ぶとか言います)。
当然、停電するので、懐中電灯を用意して漏電遮断器の設置してある分電盤まで出掛けて
「あ、やっぱりトリップしてる」
と言いながら手作業で復旧動作しないといけません(で、漏電原因が取り除けてなくてすぐにまたトリップする、というのもよくある話です)。
ざっくり言うと、普通の電気柵は「地絡事故を起こしてその時の電気ショックで動物を追い払う装置」です。
ですので、漏電遮断器を直接繋いだ場合に起きることとは普通は「電気は流れっぱなしで漏電遮断器は作動せず、保護の役を果たさない」か「動物が触ると毎回毎回停電して手動で復旧しないといけない」のいずれかになります。
※電気さくには稀に「裸電線aと裸電線bに同時に触れると感電事故が起きてその時の電気ショック以下同文」というものもあるらしいですが、とりあえず今回の話には関係しない、と思われます。
上の方に書いた
トランス2次端子A→漏電遮断器(の左側の端子)→(A)→電柵
トランス2次端子B→漏電遮断器(の右側の端子)→(B)→アース
と接続したとします。電柵に触ると、トランス2次端子Aから出た電気はアースを通ってトランス2次端子Bに戻ります。当然、漏電遮断器は「左側端子を通っている電気と右側端子を通っている電気の量が同じだ。これは漏電ではない」となります。役に立ちませんね。
さて、こう書きましたが、この漏電遮断器が実際には動作する可能性も少しはあります。なぜかというとアースに繋がれているのはトランスの2次側端子Bだけではなく、さらに上流の電源についても言えることです。この場合、
(略)→電柵→動物→地面→(略)トランス2次端子Bの経路以外に、
(略)→電柵→動物→地面→地面→大元の電源の接地線→大元の電源の接地側極、
という経路でも電気が流れる可能性があるためです。実際にどういう条件だとどうなるかは面倒で計算していませんが、そっちの別ルートで十分な量の電気が流れた場合、漏電遮断器はトリップして手動復旧する必要があります。
で、さっきまで書いたのは「電気さくに漏電遮断器を直接繋いだ場合」の話です。
次はツッコミ記事の時にも少し書いた「1次側の漏電遮断器」の話です。
といっても実際に起きることは9割方「動作しない場合」と同じです。
かっぱ寿司の正社員は、河童たちが逃げたりサボったりしないよう
電気ショックを与えたりする。
河童のほとんどは子供で、「お父さん、お母さんに会いたいよう」と
逆らうとキュウリを減らされる。
の様に書き換える事もできる。
↓
電気ショックを与えたりする。
慰安婦のほとんどは強制的に連れてこられた少女で、「お父さん、お母さんに会いたいよう」と
逆らうとご飯を減らされる。
↑
なぜか慰安婦を当てはめたく成った。
ブラック企業を辞めた。
いや、正確には企業ではない。
最初はプレイヤーで入り、そこからウエイターを経て人材業務とか運営なんかもした。
かれこれ2年半ほどだろうか。
この業界で1年続くのも珍しいのだから、それを考えれば大分古株って感じだ。
「飛ぶ」とは?
無断欠勤して出勤しないことだ。
僕もその一人。
まずは、暴力。
散々やられた。
歯も折られたし、骨も折られた。
入院が必要だったのに、人手不足を理由に入院させてもくれなかった。
治療費は払うといったけど、それも形だけ。
7万ほどもらって終わりにされた。
挙句の果てには、治療費払ってやってるんだからありがたく思えとか言い出す始末だった。
「言いたいことを言わないと殴るぞ」ぐらいな勢いで脅されたが、言いたいことを言ったところで結果は自明。
どちらにしても暴行を受けるだけだ。
そのうち、本当の意味での「イエスマン」にしかなれなくなった。
実験では犬を2群に分けた。
片方の群は、ボタンを押すと電気ショックが止まる部屋に入れられる。
もう片方の群は、何をしても止められない。つまり一定時間電気ショックを受けなければならない。
一定期間の後、後者をボタンを押すと電気ショックが止まる部屋に入れる。
するとどうだろう。後者は電気ショックを甘んじて受けるようになってしまっていた。
これを「学習性無力感」というのだが、正しくその状態に陥っていたらしい。
「特別罰金」の名のもとに、些細な失敗やミスで3回にわたり10万円ずつ、計30万円を給料から差し引かれたのだ。
普通なら、そこで抗議とかを考えるだろう。
そして、飛んだ日。
でも、しーらないっと。
挙句、法的手段に出るとか言ってきたが、もう馬鹿かとアホかと。
1000%こっちが勝てるのにね。
辞表送って終わらせようと思ってたのに、火に油を注ぐあたりがどうにもアホすぎて笑える。
それはさておき、ずっと基幹的な業務もしてた。
経理やら事務やらはほぼ一人で。
他のチームメンバーがあまりにも使えずどうしようもなかったからだ。
11時ぐらいに出勤して、帰りは平均で25‐26時。
ある日のこと。その日は打ち上げと言っていたが、現場に出なければならなかった。
チームリーダーも、何か仕事があるらしく、残りのメンバーで食事に行かせた。
そうしたら、なんと3万円の請求が来たというではないか。
一番働いている2人が何も食べてないのに、3万円とはこれいかに。
「一番働いてる人間は何も食べてないのに、なんでやろ」って。
僕とチームリーダーは唯一愚痴を言い合えたのだが、それはまた理由がある。
北朝鮮。
この名前は誰しもわかるだろう。
イメージするのはなにか。
「密告社会」
そう、正しく兼ね備えてるではないか。
こんなことがあった。
ある時、軽微な不正があった。
事務処理上のもので、敢えてそこまで追及する種類のものでもなかったのだが、あろうことかそれを密告したのだ。
当然尻拭いに大わらわ。
事務処理上、慣例的に行っていたのだがどうにもこうにもそいつ的には許せなかったらしい。
不条理さに腹が立った。
所詮、「何かあったら話し合え」とか言っていてもそこはセリグマンの犬。
黙っていたほうが賢明だ。
もう一つはこれ。
地上の楽園って話。
当時、僕は面接官でもあった。
嘘八百を並べ立てて、何としても入店させようとする、させなければならない。
従業員に言われた。
「●●さんが人生狂わせた」と。
僕は2年半も浪費したわけだけど、なんだかショックだった。
「水商売の勧誘にはついていかないように」と。
男性諸氏は喜ぶかもしれない。
ようやく辞めて、一息ついたところで。
暴露本でも出したら儲かるかしら。
しばらくは、相手の出方を伺いつつ、しかるべき準備を進める所存。
ダブル・バインドの罪。子供を怒るということ : あぱかば・ブログ篇
でも欲求が満たされないとわかると 泣かなくなるのです
はてなブックマーク - 乳幼児が施設養育で損なわれる危険性-EUにおける乳幼児の脱施設養育施策の理論と方策-(PDF)
なぜ怒鳴りつけたのでしょうか? - reponの日記 ないわ〜 404 NotFound(暫定)
あいつは人生のどっかで人を怒鳴るってことを覚えちまったんだな
無力と放棄態度を、スカタン上司に調教され、そして再び以下ループ、か。
基本的に気絶させてからじゃないといけないらしくて電気ショックで仮死状態にするとは言ってましたよ。
でも素手で殺すことには変わりないようです。
見た動画はどこかのアジアの国の近年の映像で、殺しているのは屠殺業者ではなく一般人でした。
ですから、日本や欧米ではちゃんと資格を持った人が設備を整えてもっと人道的な方法で行っているのだと思いますが、
いかんせん相手は規格化された物ではなく生き物だから、機械化には限界があって、最後には人手に頼るしかないそうです。
害虫駆除業者はもちろん、魚介類を捕る漁師にも全然偏見ありません。
むしろ虫を殺して合掌するという感性の方が理解できません。
脳があるのかもよくわからないし、意識とか自我とかないと思うし、生物というよりコントローラー付きの機械みたいなものだと思いますが。
ましてや植物を摘み取ることを「命を奪う」行為だと考える感性に至っては理解不能です。
生命をどう定義するかによるけど、植物は生命体じゃないでしょ。
細胞分裂して増殖して自己複製して自己保存しようとしていることが生物の条件だと定義すれば、無理やり生物とみなすこともできるのかな。
でも少なくとも動物じゃないし、生えているか枯れているかの状態の違いはあっても生死の観念を適用できるものではないと思います。
あと実験動物も普通の動物と変わりないから同じようにかわいいよ。
それが理由かわからないけど動物実験している人にも生理的な嫌悪感は沸き起こる。
でもそれ以上にその人は人間や動物の命を救っている。「生き物を生かす技術」をその手に持っている。
屠殺業者は、毛皮を取るための業者もそうだけど、動物を殺したその手で他の生命を救っていない。から嫌なんだと思う。
その方法だと豚は苦しむし肉が不味くなるし(当たり前だけど生前に苦痛が多過ぎるとストレス過多でストレス物質が体内に放出されてしまう)、今時は電気ショック類でできるだけ安楽死に近い方法でやるんだがな。あまり適切でない動画を見たんじゃなかろうか。ちなみにバイオ系のマウス使った実験でも、普通は脊髄ブチって切って瞬時に殺すのが定番。
(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%A0%E7%95%9C%E5%A0%B4)
何はともあれ、普段ムシャムシャ食ってる豚肉や牛肉の向こう側に生身の豚や牛がいて、その豚や牛を殺す人々がいるという事実を、肌身で感じられたという得難い経験をしたわけだ。それで良いのではないかね。別に伸びてるスレでも書いたが、人間は動物の命だけを殺して食ってるわけじゃない。極端な話、植物の命だってバンバン殺して食って生きているんだ。生きている限り、他の生命を犠牲にすることは避けられない。その厳粛な事実の恐ろしさが理解できただけでも成長したと思えば良い気がする。
あと、「線引き」は勝手だが後で自己矛盾に悩むことになるかもよ(こういうナイーブなことを言う奴に限って後々それと矛盾する生業を持つことになったりするんだよな)。少し哲学書や思想書、それこそ宗教書でも読んでじっくり考えてみることをお勧めする。
可愛い動物を殺す人間は許せないけど、害虫を駆除したり実験動物を切り刻む人間ならOK?何だか可笑しいな。実験動物だって醜いものばかりじゃない。実験用マウスも場合によっては実験者に懐いちまう奴もいてだな、「あれ?今日はどこに行くの?」なんて目をしながら手術台に運ばれるマウスもいたりする。そして大学のバイオ系の学科専攻だと、そもそもマウス一匹殺すのにも倫理申請がいるし、そこで不必要な苦痛を与える殺害方法は現在ではほぼ確実に認められない。それどころか、実験動物の慰霊祭を年に一度やってるところが大半。これが現実だ。
個人的なことを書くと、俺は蚊やゴキブリを叩き潰した後でも基本的には合掌してから処分してる。もっと言えば、メシ食う時も料理に合掌してから頂いてる。どっちであっても生命を奪ったことに変わりはないからな。少なくとも俺はそこに明確なラインを引くつもりはない。
目の前に巨乳の女性がいたら、ジロジロ見てはいけないと思っていながら、本能的につい視線を向けてしまう。
次の瞬間、「胸ばかり見ていたら変態だ、セクハラだと言われても申し開きできない」と思い、不自然に視線を背ける。
もうこの時点で胸よりも「どうすれば自分が変態だと思われないか」ということに意識が集中している。
本能のレベルでは見たい。しかし、見続けたら変態の烙印を押されて社会的に抹殺されてしまう。
巨乳の女性なんて今時珍しくもない。こんなことで社会的地位を失ってたまるか。
もう頭の中は、自分が「本能を制御できないケダモノ」と認定される恐怖でいっぱいだ。
巨乳に視線を向けることは、犬がエサを眼の前にして涎を垂らすのと同じくらいの本能だ。
もし犬が涎を垂らすたびに電気ショックを与えられて罰せられていたら、犬はエサを見るだけで恐怖を感じるようになるだろう。
それと同じレベルで、私は巨乳に対して恐怖している。自分の巨乳に対する本能に恐怖している。
巨乳の女性が胸元の開いた服を着たり、ピッチリした服を着ることは自由な権利として認められている。
着たいものを着るのは確かに自由だ。誰もそれを咎める権利なんてない。