前にも似たような日記を書いたと思うけど軽く絶望してしまっている人がいるので。
生きる理由がないということは、
死ぬという着地点に向かって落下途中の林檎である命にとって生きているというのは束の間の形態にすぎない。
生きる目的を決められていないからこそ自由に発想できるし自由に生きることができる。
よしんば、そこに自由以外のものが加わったとしても死ねば終わりだ。
最終回答の死という答えが既に答案用紙に書かれてからのスタートを今生きる人間すべてが試験している。
そこに何を書いてもいいし、破いてしまってもいいし、書くものがないからといって血で名前を書いてもいい。
とにかく、自由だ。
もちろん、そこに自慢の息子と娘を書いて可愛い孫を沢山書いてもいい。
それでも解答用紙に配られる前から書かれている「死」という答えは変わらない。
最後に書く言葉で流行っているのは「宗教」って書くやつらしい。
あんたも習ってみてはどうか?
意味がない。
だからこそ好きな事ができる。
本質的には意味がないという裏付けによって全てが包括され許容される。
何も無いという前提を元にして生きることで束縛されずに生きることができる。
もちろん、束縛されることを選んでもいい。
例えそれが不本意な形であってもそれは死という解答から裏打ちされた生き方だ。
それこそが自由を支持してくれている。
病院でチューブに繋がれて何度か電気ショックを浴びて目にライトを当てられて「残念ですが・・・」。
こうなるように生きてきたという結果だ。
これもそう。
過程である生きる理由はなくとも地面にぶつかるときにしている姿勢は1つしかない。
自殺は自分の中に作り出したスーパーエゴによって殺されたからだ。
それが理由だ。
生きる理由はなくともそれを目指すことはできる。
どんな形で死ぬのか。
どんな姿勢で落ちるのか。
本意・不本意であろうとも誰しもが結末は訪れる。
自分が何を望むのか今一度考える。