2016-11-18

雨宮まみの生きた理由はないが、死んだ理由はある

人間には生きる理由はないが、死ぬ理由はある。

前にも似たような日記を書いたと思うけど軽く絶望してしまっている人がいるので。

 

人間には生きる理由はない。

人間以外の動植物細菌の生きる理由は明白。

子孫を増やすこと、種を繁栄させること。

人間は子孫を残さなくても生きていけるし、

種を繁栄させることにマイナスなことも平気でやってのける。

それは人間には生きる理由が無いからだ。

 

生きる理由がないということは、

まれから死ぬまでの間は「余暇」だ。

死ぬという着地点に向かって落下途中の林檎である命にとって生きているというのは束の間の形態にすぎない。

生きる目的を決められていないからこそ自由に発想できるし自由に生きることができる。

よしんば、そこに自由以外のものが加わったとしても死ねば終わりだ。

最終回答の死という答えが既に答案用紙に書かれてからスタートを今生きる人間すべてが試験している。

そこに何を書いてもいいし、破いてしまってもいいし、書くものがないからといって血で名前を書いてもいい。

とにかく、自由だ。

なぜなら何を答えようが意味が無いからだ。

もちろん、そこに自慢の息子と娘を書いて可愛い孫を沢山書いてもいい。

それでも解答用紙に配られる前から書かれている「死」という答えは変わらない。

クラスメイト全員に死という解答は平等に行き渡ってる。

最後に書く言葉流行っているのは「宗教」って書くやつらしい。

あんたも習ってみてはどうか?

 

意味がない。

からこそ好きな事ができる。

本質的には意味がないという裏付けによって全てが包括され許容される。

それが人生の最大のテーマだ。

何も無いという前提を元にして生きることで束縛されずに生きることができる。

もちろん、束縛されることを選んでもいい。

兎に角自分の好きなように生きることができる。

例えそれが不本意な形であってもそれは死という解答から裏打ちされた生き方だ。

それこそが自由を支持してくれている。

 

では「死ぬ理由」とはなんだろうか。

死ぬ理由とは死に着地した瞬間の姿勢のようなものだ。

病院チューブに繋がれて何度か電気ショックを浴びて目にライトを当てられて「残念ですが・・・」。

これが死ぬ理由であり死の姿勢だ。

こうなるように生きてきたという結果だ。

本意・不本意ないまぜになり自由の結果・結末が死ぬ理由だ。

 

山師が山で死ぬ

これも死ぬ理由だ。

 

いじめられて電車に飛び込む。

これも死ぬ理由だ。

 

特攻して死ぬ

これもそう。

 

死ぬときは必ず何らかの姿勢で着地する。

過程である生きる理由はなくとも地面にぶつかるときにしている姿勢は1つしかない。

 

雨宮まみが死んだ理由自分に負けたからだ。

自殺自分の中に作り出したスーパーエゴによって殺されたからだ。

それが理由だ。

 

自分が地面に着地するときにどんな姿勢でいたいのか。

生きる理由はなくともそれを目指すことはできる。

どんな形で死ぬのか。

どんな姿勢で落ちるのか。

本意・不本意であろうとも誰しもが結末は訪れる。

自分が何を望むのか今一度考える。

雨宮まみ雨宮まみの臨む形で着地をした。

あなたあなたの望む形で着地できれば幸福かもしれない。

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