はてなキーワード: 和式とは
王子さまは目を閉じて、くんかくんかしながら言いました。「女子がいつもこんなにいい匂いなのは、目に見えないところで気を使ってるからだよ」。
女子は朝起きてからも、昼休みや会社を出るとき、合コンに向かう前、トイレに行くたびに制汗スプレーとかをして、いつでもいい匂いをキープしてるんだよ」。「はえ〜」と僕は感嘆した。「君は、」と王子は言いかけてやめて、それからまた「君は、自分が汗臭いと分かって人前に出たり電車に乗ってるだろ」「うん!」「女子はそんなことは恥ずかしくてできないのさ」。
バイト帰りの女の子とラブホに行って、感情が昂って、ジーンズ脱がして股間に顔を埋めたら(エンッ!)って酸っぱい刺激臭かして、ワイはニコニコと「一緒はシャワー行きましょう」と言うと、女の子もニコニコと「うん」と言った。
前に1回だけ、地下鉄で隣りに座ってた、革ジャンを着たガタイのいい金髪の白人女性から漂う臭いが、甘くて生臭くて気持ち悪くなる臭いだった。体臭なのかな。
関係無いけど、中華料理のコースを食べた後、女の子とキスしたら吐息が中華丼の臭いで、ワイの中で女子評価がすんごく落ちたけど、本人は何も悪くない。けどずっと思いだしてる。違う女の子と台湾料理食べに行った夜の軽いニンニクの吐息は可愛く思えた。
さらに関係無いけど、家のトイレは水洗洋式脱臭機能付きだから、ずっと自分のうんちの臭いを嗅がないでいれた。田舎の駅でお腹が痛くなり、そこのトイレは和式で、久しぶりにしゃがんでうんちしたけど、和式は水洗でも臭いが立ち上ってきて、(あーそうだったそうだった)と、臭かった。あれは流しながらするって聞いたことあるけど、レバーは踏みたいから。あと、拭いても拭いても汚れが残る。汚れを薄く伸ばしてるよう。もう諦めてパンツ履いた。
新クレはたまにしか読んでないけど
ネットではひろしは理想の父親、みさえはクズ嫁という評価だけど、
読んでたらひろし過大評価されてるわ
逆にみさえは過小評価されてるわ
ひろし、普通に子育て(しんのすけの躾やひまわりの夜泣き対応など)をみさえに押し付けたりみさえの用意した朝食に文句言ったりしてるし、みさえのことをしんのすけと二人でペチャパイだのからかってひまわりにも教えてるし、子供の前でエロい番組見てるし、その上部下の若い女性社員にセクハラもしてるわ
ひろしが過大評価されたのって、アニメで年収600万だかの描写がされたのとか、連載当時はバブルで低スペックとされていたひろしのスペックが時代に伴い高スペックになったのとか色々あるけど、
アニメだとお向かいの門呂さんが出てこないのも一因なんじゃないかと思うわ
みさえが草刈りだのゴキブリ退治だのをひろしに頼む→ひろし体調悪いと言って渋る→お向かいの門呂さんというセクシーな人妻が野原家にきて男手がほしいと同じ用事をひろしに頼んでくる→ひろし、下心満載でノリノリで引き受け、最後は痛い目を見る
ってシリーズ
文句言いながら毎回ひろしを送り出すみさえって寛大だわ
門呂さんには怒らないし
あと、ひろしの父親って(たまに母親も)毎回野原家にアポ無し訪問してそのまま住み着くけど、
みさえの家事の手間が増えてその上みさえにセクハラ、授乳覗き(未遂だけど)もしてるけど、
しかもひろしは碌に父親を諌めないで会社に逃げるという、現実だったら炎上しそうな有様だけど、
それでも義両親となんだかんだで仲良くしてるみさえは寛大だわ
やっぱり時代の流れで炎上しそうな描写は減って、アニメだともっと減ってるのかな
一番炎上しそうなのは、しんのすけが預かった犬のパトリシアちゃんに虐待としかいえない行為をしたやつだけど。しんちゃん昔から動物には優しいのにあれは異様だったわ
みんな鍵かけないからしんのすけに家に入り込まれたりミッチーヨシりんに入り込まれたりしてる
クレしん世界善人しかいないから施錠甘いし子供だけで留守番させられるのだろうか
またずれ荘編やおとなりのおばちゃんに顕著なんだけど、基本的に善人しかいないし超気軽に助け合ったり子供預けたりしてるし、ああいいなあ理想郷だなぁって思う。あんな世界に住みたい。でもまたずれ荘は今思うと地獄すぎるだろ。雨降ったら雨漏りだらけで室内びしょ濡れだし、子供の力で壁壊れるくらい脆いし、何よりトイレが部屋の外で男女共用で和式一個しかないとかどんな地獄よ
メイカーなんだけどさ。確かにトランスジェンダーの人いるんだわ。
ある日突然、新しくトイレができたのよ。吹けば飛ぶような工場建屋には全くふさしくない無駄にちゃんとしたトイレ。工場とは別当。外観はなんかの観光施設みたいで豪華。
あんなのに金使うぐらいなら給料上げてくれ、って言っている人も黙っちゃう出来。
地場の木材を使うともらえる補助金使って、木造。杉の爽やかな香りがする。
男性用、女性用、狭い誰でもトイレ(普通のトイレより広いが車椅子の転回はちょっと厳しい。オストメイト付き)、広い誰でもトイレ(サービスエリアにある様な広々としたトイレ。オストメイトはもちろん、何故かベビーベッドまである)という構成。
で、車椅子来客があった場合と、癌やって人工肛門使っている人ののため、という事になっていたんだけど、風の噂で、会社見学に来た学生さんが現場トイレに入って青い顔を出てきて消えた、女性→男性になった人がいて、その人が必要だと社長に直訴し、それが決めてだったと聞いた。
うっすらと誰だかは分かったんだけど、同じく前から男性という認識だったよ。みんな同じ色の作業着。田舎なので更衣室はなくみんな作業着で通ってるし。現場のトイレは男女共用だったし。
あー、話には聞いてたけど、いるんだああとうっすら思った覚え。
夢なので色々と脈絡も整合性もない。「〜〜はおかしい」→夢なのでそのまま書いている。グロ有り。悪夢の類だと思う。
「敵が来ます、逃げてください」の街頭放送、目の前のものを掴んでポケットに入れて逃げる、何かを取りに帰ろうとしたら「戻らないでください」とアナウンスが入る。
駅。駅ビル。灰色の空。逃げる人々。やがて周囲の景色がSF的に細かいガラス、金属片のように細切れに粉々になって空中に浮かび上がり吸い込まれて?収束して?いく。ああ、巻き込まれる、と感じる。死の恐怖はなかった。巻き込まれながら音が軋みノイズのようになってブラックアウトし、すぐに次のシーンになる。地表、芝、東屋。公園のような広場。逃げてきた人々が炊き出しを貰っていたりする。靴の事は気にしなかった、履いていたのかどうか意識にない。何も履いていなかったかもしれない。保育舎のような施設、あかるい、大勢の保護者と子どもたち、自分の子供をそこで見つけて引き取る。
駅ビルに隣接する巨大なホテルが避難民に解放される。エレベーターは動かず階段、途中から階段も無くなりモルタル製の壁面の装飾、突起にしがみつきながら何故か複数名で上の階に向かっている。「オーナーが逃げたのでチーフが仕切っているらしい」何階かにトイレがあった、タイルの上、仕切りがなく等間隔に並んだ和式便器、蓋がつけられている。清掃婦がひとり佇んでいる。「使ったらダメ」と言われる。蓋のない便器の中には目玉や肉片が浮いていてそれは動いている、敵とはこれか?アメーバーのように蜘蛛の糸のように細く伸びる触手から逃げる、子供とともに逃げている。夫の姿はない。自分の住んでいたマンションに戻ってきたらしい、植物のツタにくくられた籠がするすると降りてきたのでそれに捕まって上がる。喋る蛙、もしくは爬虫類のようなものに助けてもらえたようだ。植物のツタを太いものに結びかえる、隣のベランダに置いてあるカゴについたツタに結びつけようかと思うが、そのツタが固定されていなかったら地表に打ち付けられてアウトだしな…と思っていたら今居るベランダが自分達の部屋のベランダであることに気付く。荒れた室内、テレビの音、付けっぱなしで逃げたのかな、と子供が言う、中にはいっていくと空の浴槽に前のめりになってばたついている人影がある、助けると夫である、大変な目にあった、と言っていた、口の横をぐるりと何十針も縫われていた。
巷では「ゆで理論」とか「ゆでたまごだから……」の一言でバカにされがちなゆでたまご先生だが、最近のシリーズの話の展開を見るたびにそのストーリーの構成力というか、腕力というか、力技でも納得させる力には感服させられる。
今のシリーズでは本来は生来不変のはずの超人強度が、なぜかキン肉スグルを始めとしたアイドル超人(とその対戦相手たち)は時に本来の超人強度以上の力を発揮するが、それが友情パワーとか火事場のクソ力とか言われるもので、それが故に世界の均衡を乱し……と話が繋がっているのだが、もともとこのあたりの設定が固まったのが王位継承編の初戦、マリポーサチームと戦う中で敵のミキサー大帝の能力でキン肉スグルから火事場のクソ力が分離される描写があったのが始まりだと思う。
元々スグルは超人強度95万パワー程度のはずが、全員が5000万パワー以上を誇るマリポーサチームになぜか連勝する、という謎に対する答えが火事場のクソ力というブースト能力の存在で、それを奪うためにミキサー大帝の必殺技でスグルから火事場のクソ力だけを分離し、邪悪の神々の力も借りて封印する、という話の流れだったはず。うろ覚え。
ここで注目すべきはミキサー大帝の能力で、彼は文字通り家庭用のジューサーミキサーに手足と顔がついたような形で、胴体のジューサー部分に犬をいれてスイッチを押すと中が回転し、骨とそれ以外(肉と毛皮)に分離して取り出す、という技をデモンストレーションで行う。
これを利用してスグルから火事場のクソ力を分離抽出するのだが、まあそういう話のために出てきた超人なのでスグルには勝ったものの次戦で名前だけの大将と思われていたアレキサンドリア・ミートに負けるというお前本当に5000万パワー以上あるんか、という退場の仕方をする。いや、これはこれでいい戦いなんだが。
だがここで注目したいのは、ミキサー大帝はこの火事場のクソ力の定義のために登場したとおぼしきキャラだということだ。
このあたりで超人強度と強さの設定が固まり、新キャラが出ては超人強度でその強さを表現し、こんなの勝てっこない……と思わせてからの大逆転勝利、なんでだよ超人強度にすげぇ開きあるじゃんと言われてもいやいや友情パワーと火事場のクソ力でブーストされてたからですよ、という話がスムースに繋がるようになる、大きなターニングポイントになった。
そしてその後数十年を経てまたその設定を元に話が動いているのである。
つまりミキサー大帝はそういう設定を無理なく説明するためのギミックだったと捉えることもできる。
そうなるとここで1つ、大きな疑問が出るのだ。
「ミキサーってかき混ぜるための機械であって、分離するものじゃないよな……?」
私は子供のころリアルタイムで読んでいたが、全く気づかなかった。つい最近になり、ようやく「?」となったのだ。
聡い人たちは気づいていただろう。
そして多分、ゆでたまご先生だって分かってやっていたに違いない。(少なくともお絵描き担当の方のゆでは)
だが、考えてみてほしい。
既に超人オリンピック、七人の悪魔超人、マッスルトーナメント(タッグマッチ)と人気を博してきた長期連載のテコ入れとも言える新設定の導入にあたり、その説明のために出すキャラに、説得力がありそうでよく考えると全く無い技を使わせて話を転がすというその度胸の凄さを。
そしてそれを描ききり、特にフォローも説明もせず流し、そして話を進めて行く強さを。
やれジェロニモが分身しただの(説明ついたけど)、やれザ・ニンジャの戦績が3戦3敗3死亡だの(更新されたけど)、和式便器のフォルムのベンキマンがなんで古代インカ出身なんだだの(解明されたけど)
そんなことに突っ込んでるのがアホらしくなってくる剛腕である。感服するしか無い。
なお余談だが30年ほど前ゆでたまご先生はジャンプフェスのゲストとして登場した際、会場の子供からの質問コーナーで「どちらが『ゆで』でどちらが『たまご』なんですか」と聞かれ、嶋田先生のほうが「僕が『ゆでたま』で彼(中井)が『ご』です」と言っていた。
増田が大家として便宜的にタトゥーNGというカットラインを設けていることに問題はないだろう。
これ見よがしにタトゥーを入れている奴はろくでもない人間である「可能性が高い」というのは(現時点で)実際そうなんだろう。
単なる商売人である増田に「誤射」を無くす義務は無いのである。
しかし何の利害関係もなくて「そうだそうだ、タトゥーを入れている奴はまずロクでもない人間と見做してよい。これは差別ではない」という声はどうだろう。
例えば在日クルド人は日本人平均より犯罪率が高いので来店お断りとラーメン屋が掲示したらそれは差別になる。
「タトゥーは民族出自と違って自分の意志で入れたんだから自己責任だろう」
それはそうだが、例えば底辺高校卒業者は一流進学校のそれよりクズの可能性が高いのでウチの嫁としては相応しくないというのは差別になる。
まあ過度な一般化というやつだ。
内心の自由というのがある。また社交上のマナーというものがある。我々は差別について完全に無辜でなければ生きる資格がない、わけではない。各々まあこのくらいはOKだろうというラインを設定して日々生活している。
私の基準は、個人でやってる大家が裏足切りラインとしてタトゥー忌避している話を読めばふーん面白いねとは思うが、そこで「そうだそうだ、タトゥー入れてる奴なんてろくなもんじゃない」と同調するのは違うというものだ。同調してるようでそれらの間にはけっこうな距離がある。
あと「〇〇は差別の要件を満たさないから自己責任!」と、なるべく判定を狭くしようとする感覚も自分とは違うなと思う。オレの視点からは問題ないと思われることでもグサグサ刺さる人もいるだろうから、なるべく安全側の判断を心がけるほうが無難だろうと思っている。
これは全くの印象論なんだけど、「経済難民や単なる犯罪者も申請があればフリーパスで難民と認めるべきだ、認めない入管行政は鬼畜生だ」と主張する和式リベラルで、入れ墨者や低学歴や田舎ヤンキーはいくら差別してもよい、というか「差別じゃない!自己責任だ!」とかいう奴、少なからず居そう。
高速道路に乗ってからすぐに異変に気がついた。いつもはこの時間ならまだ混んでおらず、鬼門の町田ICも落ち着いているはずなのに何やら車の量が多い。おそらく事故だろう。ついていないな、と思いながらゆっくりと車が進んでゆく姿を眺めていたが、20分が過ぎ、30分が過ぎるとともに尿意が催してきた。
今朝コーヒーを2杯飲んだのが効いてきたようだ。まあでも車をしょっちゅう運転していればおしっこがしたくなる瞬間はたまにある。車のナビを見ると、一番近いサービスエリアまであと13キロとあった。
今日は母が運転してくれていたので、私は助手席に座ってツイッターに「事故渋滞にとらわれた。クソ。」と投稿をした。地図アプリを開き、サービスエリアまでの時間を調べる。あと45分か、まあ我慢できるだろう。
しかし15分が過ぎ、サービスエリアまでの距離はほぼ縮まらないまま、尿意と到着予定時間だけが異常なペースで育っていっていた。
自分の下腹をちらりと見ると丸く膨らんでいる。見ると余計におしっこがしたくなってきたので、少しでも締め付けをなくそうとシートベルトの位置を調整する。少し楽になったかもしれない。
地図アプリを見ると、到着まであと40分だった。最悪だ、伸びている。私の様子がおかしいことに気がついた母が「降りようか?」と聞いてくるが、降りたところでジ・エンドだ。ツイッターを見る限り下道もとんでもないことになっているので、「大丈夫、そのまま進んで…」と答える。
膀胱への圧迫を減らすために椅子を少し後ろに倒してみたが、膀胱の中で水分がたぷたぷと移動しているような感覚に襲われて危機を察知し、慌てて戻した。次にお尻を椅子から浮かしてみようと思ったが、浮かすために腕に力を入れた瞬間膀胱がギュッてなるのを感じてまた慌てて座り直した。
もぞもぞと動く私に母がしきりに声をかけてくれる。脳内では「あと20分くらいのはず、大丈夫、希望はある」と自分を励ましていた。他のことを考えようと漫画アプリを開いてみるも内容が頭に入らない。むしろ緩みそうな気がして、膀胱に意識を全集中させることに注力した。
だいぶ近づいた。地図アプリを見ると、あと35分。35分の文字を見た瞬間絶望した。希望なんてない。現実世界では確かに時間が進んでいるのに、地図アプリが教えてくれる到着予定時間は進んでいない。時空が歪んでいる。膀胱は容赦なく警報を鳴らしてくる。あまりにも苦しくてつい「人生終わりだ、『神は乗り越えられる試練しか与えない』と言うけど嘘だ!!」と大声を出した。大声を出すと腹に力が入り逆効果なのだが、もうどうすれば良いのかわからなかった。
母は私の顔を見て「顔色がすごく悪いよ、後ろに行ってビニール袋に出しちゃえば?」と提案してきた。しかしここで出してしまうとなんだか人間としての尊厳が失われてしまう気がして、「いや、まだ頑張れる…」と説得力のない声で断った。
「もう出しなよ」と定期的に諦めを促す母と、うわ言のように「大丈夫…大丈夫…」と繰り返す私。どうしてこうなってしまったのだろう。いつもはコーヒーを1杯しか飲まないのに、朝食が厚切りデニッシュだったせいで一口食べる度にコーヒーをごくごくと飲むはめになった。兄がお土産に買ってきてくれた高級そうなデニッシュだったが、すべての元凶はこのデニッシュなのだ。デニッシュのせいで口の水分が持っていかれ、コーヒーをいつもより多く飲むことになり、全身が「おしっこしたい」という感情に染められた。私の中では、兄はもはや大罪人だった。
無言のままシートベルトを引きちぎるような動きを繰り返す私を見て母がいよいよ限界だと悟ったのだろう。車が完全に停車してしまったので、その隙に母がおやつ用に持ってきたキャラメルコーンの中身をビニール袋に移し、「これにしなさい」とキャラメルコーンの空袋を渡してきた。
愛車は大きなワゴンカー。後ろに行けば広々とおしっこをすることができる。葛藤がなかったわけではない。もうここでしちゃおう、と、サービスエリアまで待とう、を何度もいったりきたりした。身体は限界だったが、気持ち的にはサービスエリアまで待つ以外の選択肢はなかった。
しかしどうだろう。キャラメルコーンの空袋を渡された途端、「車で出す」という選択肢が一気に現実味を帯びた。現実味が帯びると人間はどうなるかわかるか?今までギリギリ我慢できていた尿意がまるで我慢ができなくなるのだ。出せる、という希望(見方によっては絶望)を見出した途端自分を騙せなくなってしまった。しかも幸いなことにただのキャラメルコーンの袋ではない。「でっかいドッサリパック」のキャラメルコーンなのだ。袋の口がデカいということは、狙いやすいということだ。しかも大渋滞で車の動きは最小限、思わずよろけて狙いを外すリスクがほぼない。ティッシュもある。ウエットティッシュもある。すべて揃っているのだ!神は味方している。
そこからは早・・・くはなかった。まず下腹部がパンパンなのである。少し動いただけでバーストしそうになるので、慎重に助手席から後ろに移動した。次にズボンを脱ぐ。脚を引き抜くにはお腹に力を入れないといけないので危険度マックスだったが、なんとか左脚、右脚と引き抜くことができた。ズボンのゴムの締め付けがなくなったからか膀胱が楽になった感じがして、その達成感から思わず四肢を投げ出してしばし喜びに浸った。今思えば、椅子に沈み込むように座ってパンイチで大の字になっている人が隣の車にいたら恐怖だったと思う。同じふうに下着も脱ぎ、キャラメルコーンの袋をレジ袋(Lサイズ)の中にセットする。万が一外したときの保険用だ。レジ袋単体だと液体が漏れてしまうおそれがあるが、キャラメルコーンは袋の内側に加工がしてあるので強度が高いはず。エコバッグを忘れた時用に車にストックしていたレジ袋がこういう形で役に立つとは思わなかった。簡易トイレを作った後は、和式トイレの要領でキャラメルコーンの袋にまたがり、一瞬自分の人間としての生を思い浮かべる。良い人生だった。この選択に悔いはない。そうして・・・緊張していた入り口をわずかに緩めて、いざ、放射。
知っているか?人はおしっこを我慢しすぎると勢い良く出ないんだ。ちょろちょろ、ちょろちょろ、と出てくるおしっこを必死にキャラメルコーンの袋の真ん中をめがけてエイムする。進捗はゆっくりだが、確実に脳内が気持ちよさで破壊される感覚があった。安堵感、脱力感、そして謎の達成感。ありがとうキャラメルコーン、ありがとう東ハト。一生買い続けると誓うよ。
ちょろちょろと出てはしばらく出ず、でも残尿感が残っているのでそのまましばらく下腹部に力を込めるとまたちょろちょろと・・・ということを20分繰り返した。20分もやっていると、運動不足が祟って脚がぷるぷると震えてくるが、なんとか溢さずに済んだ。危機を脱し、ひとまずはお尻を拭く。ウェットティッシュにプリントされているくまモンの笑顔が眩しい。下着とズボンを履き、キャラメルコーンの袋を厳重に封をして一息ついたら母に「顔色がよくなった」と言われた。そしてついに、ついに!サービスエリアに着いたのであった。
サービスエリアのトイレにかけこみ、まずはキャラメルコーンの中身をそっと捨てる。すごい、内容量は122gらしいが、どう考えても122g以上の液体が入っていた。500mlのペットボトルと良い勝負かもしれない。すべて捨てきったらまた尿意が催してきたので、今度は優雅に便座に座り用を足した。まだ全然出た。しっかりと最後まで出し切ったあと、のんびりと車に戻り、念願の水を飲む。「いろんな人生経験をしてるね」と母に褒められ、そういえば何年か前に高速道路で大のほうも危うく漏らすところだったことを思い出す。しかし今日のこれは漏らしたうちに入るのだろうか?ちゃんと受け止めきれたからセーフではないだろうか?答えはわからないが、良い日だった。
来客がキッチンシンクを皿用スポンジで洗いやがった、清潔観念がおかしいもう絶縁だとか、旦那がそれやりやがった、もう離婚考えているとか、シンクをスポンジで洗う事で発生するトラブルは多い。
これは畢竟、ケガレの観念の問題だ。シンクは下(シモ)の範疇になっているのである。
実は日本人のこのシンク=シモの感覚というのは20~30年前に定着したもので結構新しい。それまではシンクは上(カミ)の範疇であり、1990~2000年頃はこれらが混じり合った状態だった。また、調理の現場ではまだシンク=カミだ。
ところで古い国鉄時代の特急などでレバーやボタンを放すと即座に水が止まってしまって手が洗えない洗面台に困惑した事はないだろうか?
シンクというのは元の意は「溜め」だ。水を溜めて使うのがシンク。これとは別に「流し」もあった。これは小学校のプール付属の長いのが判り易いね。
故にキッチンシンクも水を溜めて使う、流しとして使うの二つを兼ねる事が前提になっていた。これは洗面台も同じ。
だからキッチンシンクにも洗面台も水を溜める為の栓が必ず付属していた。
また、1990年代前半までのシステムキッチンのCMでは、シンクに水を張ってそこに野菜をまるごと投入して洗うというシーンがよく登場した。それは清涼感の演出のためであり、つまりはシンクはカミだったのだ。
洗面台ではゴム栓だけではなく、もっと機能的なレバーやノブ式の排水栓が一般化していた。洗面水栓の近くにあるノブなどを引っ張ると水がたまるのだ。
今では洗面台ボウルは手を洗った水受けや歯磨きうがいした後の水の吐き出し受けになってるから洗浄後でも水を張ってそこに顔を付けるという行為はしたくない人が多いだろう。つまりはシモである。
このシンクやボウルに水を張って使うというのは80年代後半~90年代に廃れ、キッチンでもシンクにボウルを入れてそこで洗うというのが一般的になった。
この為に2000年代前半から各調度品メーカーは水溜めの栓とか排水蓋を付属しなくなる。洗面台のレバー式排水栓も廃止された。
こうなると利用者の方のケガレ観念も完全にアップデートされてシンク、ボウルはシモのケガレあるものとなり「皿用スポンジでシンク洗いしやがった、信んじらんねぇ!」となるようになったのである。
一方、プロの調理場の方ではシンクは水溜めのままだ。シンクに水溜めて食材洗うし食器のすすぎもする。カミのままなのだ。
だから皿用スポンジでシンクを洗った人は調理場で働いている可能性もある。汚いという意識が発生しない(排水口の網などは別だ。ここは単純に不衛生だ)。
増田も「気まぐれクック」で金子がシンクに魚置いているのを見て「不潔だな」と思う口だったが、実際に自分でも魚捌きをやるようになると、シンクの中でやらないといけない作業が結構ある。
すると食材をシンクに置くなんてとんでもない!というケガレ意識はなくなった。
特急で多客期や臨時列車などで国鉄時代の電車が来ることがある。
トイレが和式なのも困るが、後に手を洗おうとするとすると、出水レバーやボタンから手を離した途端に水が止まってしまうので両手をすり合わせての手洗いが出来ない。一定時間で止まる装置が壊れちゃったのか?
しかもお湯と水の二つのボタン、レバーがあるが、お湯の方を押すと火傷する熱さで手洗い出来ない。なんだこれ!どうやって使うんだ!?
こういう体験した事ないだろうか?
また、昭和中期の古いホテルや旅館に泊まると、同じように水栓が湯水二つあり、こっちは普通の蛇口で出しっ放しには出来るものの、お湯の方はやはり熱くて使えない。
しかもメインのボウルの他に小さなボウルがある。これは一体どうやって使うんだ…。
これも説明しよう。
例を用意した。
これは戦後すぐに製造or改装された旧型客車の手洗いで、ボタンを押している時だけ湯水が出る、洗面ボウルの右にワンタッチ排水栓がある、メインのボウルの左手前に小さいボウルがあるというこの問題の全入り品だ。
https://twitter.com/ma_mere_loye/status/1642412578201800704/photo/1
小さいボウルがある。水栓は湯/水二つ式だったのを潰して後付け水道管に変更されている。
なんでこうなっているかというと、今の人は手も顔も水を出しっ放しにして手を洗い、流水を掌に受けて顔を洗うだろう。
だが昭和中期までの日本人は流水でそんな事をしなかったのである。ほぼ必ず洗面器のボウルに水を溜め、それを掌で掬い、顔を洗ったのだ。だからお湯と水を洗面台で混ぜて適温にしていた。
昔は冷房も無く窓を開けていたので蒸気機関車の煤煙で顔が汚れた。長時間の乗車も多い。夜行列車も多かった。だから洗面は必須だった。
そしたら歯磨きしたりうがいした吐き出しはどうすればいい?
それが手前の小さいボウルなのだ。ここは吐き出し専用で、痰が残ったりしたら手で水を掬って水で流すのだ。
つまりは洗面台=手を洗うところ、夜行なら歯磨きや洗顔の排水受け、または化粧直しの場という風になったのは昭和後期であり、それまでは洗面台はその名の通りに水を張って顔を洗う場所だったのだ。
因みに洗面器という名もその通りで、水を溜められない流しなどでは洗面器に水を張って手で掬って顔を洗う為の物であった。その洗い方では石鹸で水が汚れるが、そしたら水を交換して2回くらいで洗顔する。
ただ、この洗顔法は昭和後期には誰もやってなかった筈であり、感覚的にも大勢が痰や唾を吐いたり手洗いの排水受けた洗面ボウルに水張って顔洗えるかという感覚だった筈だ。国鉄は融通が利かずに規格化されたこのタイプの洗面台を発注していたが当時から手洗いしにくい不便なものという評価だったと思われる。
だからJRになると今のと同じ、自動水栓や時間水栓に交換されたりした。
そういう訳でシンクや洗面台に対する日本人の清潔感情、ケガレの意識がアップデートされ、それによって水を溜めるという構造の調度品が作られなくなり、それでまた更に清潔感情がアップデートされ、となって来た。
故にシンクを皿用スポンジで洗うと非常識に驚き、古い構造の洗面台は使い方すら判らない、という事になるに至ったのである。
だが調理場ではシンクは未だ水溜めて使うカミのものであるから、そういう従事者が他業種の人と交差するとトラブルになる。
またハードな料理をすると家庭でもどうしてもシンクで食材扱うようになるから感覚は変わる。
ほんと、多目的トイレ使えよ。最近は多いじゃん、多目的トイレ。
例えがちょっとアレかもだけど。
和服に慣れてなかったら、トイレはちょっと配慮するよね。広い個室じゃないと不便なので多目的トイレにすっか~みたいな。
和服の人が普通の個室に入れるように個室を広くしろよ、とか。和式に戻せ、とか誰も言わんし。レアケースだからな和服って。
公共施設ってのは人数多い集団に合わせるか、最悪のケースに合わせるか、ってなるのが一般的なんだから。
男と女とその他色々って分けても差別じゃないっしょ。んで、最悪、女装したオッサンがいやらし目的でトイレに入ってくる事が事例付きで想定できるんだから、その最悪のケースを避ける運用にするのがフツーじゃんよね。
レアケースのトランスの人は多目的トイレでいいじゃん、っていう風潮になって欲しいんだけど。女と同じトイレ使わせろって感じの声がデカい人たちが多いからなー。
ONの時代からアメリカとは大人と子供の差で、ドミニカより下の世界3番手っていう状況は現在に至るまで全く変わっていない。
日本野球は簡単なことを難しく捉えて習得を余計に難しくするという誰得な特徴が昔からあって、この謎の性癖が変わらない限り今より良くなることはないと思う。
たとえば、最先端の技術論に基づいたメジャーリーガーのフォームについて
「類まれな柔軟性が~」
とか
とか言って、
まるで雲の上の存在にしか実現できないとでも言いたげな総括をして日本以外のノウハウから何とかして選手を遠ざけようとするシーンはよくある。
ちなみに、メジャーリーガーの多くは下半身が日本人の比じゃないほど股関節が硬く、どう頑張っても和式便所でしゃがめないので来日時に酷い目に遭った選手もいたくらいだからよっぽどだ。
抽象度が高く剣豪みたいに高尚な技術論が蔓延していてミリ単位でフォームを洗練させて、
それでもアウトローの速球を逆方向へ華麗に運び定位置の凡フライ打つしかできないんだから、
いい加減ヘンテコなこと教わり続けているのでは?と勘づけよ
とも思うんだけど70年以上にわたってこうした状況は変わらなかった。
なので今後も日本野球が万年3番手から上に行くことはないと思う。
もっぱらメジャーリーグしか見てない人からしたら衝撃だろうけど、プロ野球において内野手の右足前捕球が浸透したのはここ数年のことです。凄いでしょ?
・巨乳・巨尻は許すがくびれは許されない設計。多分人体を『円筒』として設計している
・くびれをタオルなどで駆逐後、スカート丈を合わせて巻きスカートしてから、上半身を整える
・着付けサイトとかで最初の方が意味不明なのは、「下半身だけ整える(=上半身はまだぐちゃぐちゃで構わん)」の概念が伝わってないから
・腰で1回蛇腹のように折りたたむ(おはしょり)ことで全てをそこで調整、不具合も全部そこに押し付けて和式コルセット兼ベルトである『帯』で隠す
・留め具としてボタンやバックル、チャック、マジックテープといった便利技術は使用禁止。紐のみ使用可。帯は「デカくてオシャレな紐」カテゴリ
・今の浴衣は最近のペラッペラの服より生地がしっかりしてるので、下着つけても響かない。下着つけないのは正しさではなくロマン
・でも「身八つ口から手を突っ込んで生乳揉みたい」とはみんな思うものだと思うんだ
・身八つ口(みやつぐち):前見頃と後ろ見頃が縫い合わされてない部分。袖と帯で隠れるので着付け後は見えない。乳を覆う前見頃とストンと落ちる後ろ見頃で体を覆う布の長さが変わるので、和裁では『縫い合わせない』という選択をした。なお巨乳であればあるほど前見頃のおはしょりがぐちゃる
・おはしょりって実は「インしないシャツの裾」くらいの意味合いしかない気がする。おはしょり出さない選択もできるけど、出した方が「かわいい」から出してるだけ説
・大体おはしょりくらいまで襟がある、が、大体正面からは見えない
・ぐびれ不可。円筒設計なので、ウエストが絞られるとシワだらけかつAラインになってしまう。あと多分摩擦で維持してる帯が落ちる
・浴衣でAラインは「はしたなさ」がある気がする。タイトスカートというか、裾が絞られてるくらいの方が「お淑やかさ」として好感度が高いイメージ
・円筒設計かつストレッチ素材ではないので、足が自由になるのが原則円周の範囲内。つまりウェスト100cmの人は一歩が大きく取れるが、ウエスト50cmの人は一歩が小さくなってちょこちょこ歩きになる。裾をさばいて歩く技術もあるらしいので、痩せ気味の人は事前に歩けるか確認の必要あり。下手すると階段の上り下りができない
https://www.sankei.com/article/20230220-PQDZSMO6ORMX5GHJ5BHHAZOCGM/
同性婚法制化は和式リベラルが「ウリ」や「棍棒」にできるイシューではもはやない。
なんで自民支持の若者は同性婚法制化に賛成なのか。悪い大人に騙されてふだんうっかりウケーカしてしまってるだけで本当は政治的に正しい、よい子なのか。
とりあえず思いつく理由は以下の三つ。
周りに疎まれても法の許す範囲で己を貫こうよというのではなく、後ろ指さされるリスクを取ってまで他人に干渉したくないよという、空気の個人主義。
マイノリティ当事者が社会に権利上の訴えをしていく上でそれはむしろ壁になる。自分のことで他人を巻き込んで騒ぐのはどうかと思いまーす。でも天王山的なポイントを越えると追い風になるんだな。鈍重で無責任な羊の群れ。
同性婚の法制化は既存制度に「同性でも可」と機械的に付け加えるだけで済む話ではない。法体系の中でいろいろ軋みというかハレーションを起こす。そのいちいちにパッチしていかなければならない。
外付け拡張でとりあえずどうにかするだけじゃなくて、根本のところにも手を入れる必要がある。
「じゃあそうすればいいじゃん」というのが若い世代の感覚だろう。憲法にだけは触れずにという宗教上の理由による謎ルールを共有していないので。
若い世代ほどドメスティックなものや伝統的習俗を疎んじる傾向というのは普遍的なものではない。大きな波がある。ざっくり言って80年代末くらいからは「伝統、むしろカッコイイ」フェイズだろう。
その流れになんとなく乗って、二人の契りをお国が裏書きしてくれる制度にイニシエーションとしての価値を置いている。個人の選択として生涯未婚だとしても「結婚に何の意味があるかわからない、興味がない」のではなく、いろいろ事情があった上での決断としてそうするに過ぎない。
同性婚の法制化推進は、国が認める正式な婚姻という枠組みを重視する点では「保守」的センスにむしろ沿っているのだ。
婚姻の制度的枠組みをいじるということは「そもそも結婚ってなんだっけ」という原理的問いを前景化させることだ。「同性カップルだけ婚姻届出せなくてかわいそうだよね」「そうだね、じゃあ同性もOKにしよう」だけで話は終わらない。じゃあポリガミーは? そもそも必要なもの?と続くことになる。
そもそも婚姻は法律より前からある。当たり前のことだが、結婚とは原始時代からの土俗的慣習と現代法のアマルガムなのである。
生活者は忙しい。制度なんてうっかり変えてみればいいんだよ。それで人生狂う人も出るかもしれないけど、法律ってそういうものだから。実社会で対照実験はできない。