はてなキーワード: キズナアイとは
シャーロット・ホームズ→エロ度3。読んでないけど内容はけっこうエグいらしい。
駅乃みちか→エロ度2。このあたりからフェミ側の性的視線が暴走しはじめた印象。
ゆらぎ荘の幽奈さん→エロ度8。公共の問題ではなく児童の教育問題だが。
境界線上のホライゾン→エロ度6。ラノベ売り場はゾーニングされている判定。
多分あれだよ、宇崎ちゃんのことだけじゃなくて、ここんとこずっと萌え絵キャラ叩かれ続けてるから、もうこれ規制や検閲と同じじゃんってなってるんだと思うなー…
キズナアイ然り、駅乃みちか然り、自衛隊ポスターのブルマにのうりん(まあのうりんは私もちょっとエッチ度高いなやべえなって思ったけど)、海女さんのアレとかなんか他にあったっけ。
私も最初のうちは社会学者の説明読んではーなるほど…って思わなくもなかったけど、よくよく考えてみるとなんかおかしいな…?っていうこと多かったし、今考えるとこれは別によかったんじゃね?っていうの多い気がするんだよね。
そんな感じでここんとこずっと無視できない数の人がめちゃくちゃ怒って喧嘩しまくってたけど、最近はもうなんか理屈が謎すぎてよくわからなくなってきてる。
私も女性だけど、置いてけぼり感すごい。
お気持ち表現規制派を殴るついでに社会構築主義殴られても困るんだよねぇ,正直.
私は人文系で別にジェンダーの問題には関心ないけど,構築主義的な考え方は別にフェミニズムに限られた概念でもないし,社会学だけじゃなく人類学や歴史学でも受け入れられてる.
「民族」が構築されたもので云々みたいな話はさんざんされてきていているわけで.きちんと実証的にやろうとすればするほど構築主義の考え方を取らねばならない局面って多いんだよね.
社会構築主義への批判もあるにはあるけど部分的修正を促すものだし(たとえば「老人」というカテゴリの特殊性から社会構築主義の大前提を疑った論文もあり,これはかなり面白い),本質主義に戻れるかといえば戻れないので,まあ構築主義を受け入れた上でどうやって実証に活かすかという話になるわけだけど,そもそも社会構築主義はおかしいって言われると「ええ……」ってなるよな.
社会構築主義批判が悪いわけではなく,きちんとした論を立てて批判してくれるなら全然大歓迎なわけだけど,一部のアンチフェミな方々の議論は耳を傾けるべき水準に達していないので.
正直もう本当にうんざりなんだけど,お気持ちフェミニストを殴りたかったらお気持ちフェミニストをピンポイントで殴ってほしい.社会学批判とか始めるならネット上の断片的な社会学についての解説だけじゃなくてちゃんと社会学の本やら論文やらをちゃんと読み込んでほしい.当たり前のこと言ってるはずなんだけどなぜか通じない.いやキズナアイを叩くなら彼女の配信をちゃんと見ろとか宇崎ちゃんポスター批判するなら漫画を読めよとかと同じことを言っているはずなんだが? という.
表現規制を求めるお気持ちフェミニスト批判ならオタクとして賛成するけど,雑きわまりない構築主義批判を始めるならそれは文系の学問に喧嘩を売っているに等しいわけで,こちらも文系アカデミシャンとして「は? お前何言ってんの?」というモードに入らざるを得なくなるんだよな.
だからまあ私の感想は,去年キズナアイが叩かれてたときに書いたの(anond:20181011062902)と同じになるわけだけれど.
とにかく私は両側にもうウンザリ.ろくに事実関係を調べもせずVTuberについて基本的なことを知りもせずキズナアイを叩く連中にも,ろくに文系について知りもせずどんな研究をしているか理解もしないできないのにクソバイスを垂れ流す連中にもウンザリです.オタク叩きも文系叩きもクソくらえ.どっちも私の敵.
仕事仲間から趣味を貶められ趣味仲間から仕事を侮蔑されるのそろそろ勘弁してほしいわけですが,まあこの流れは収まらないんですかねと諦めモード.どっちの陣営にも話通じない人がいて辟易.
まあせめて自分が誰に喧嘩を売っているのかはちゃんと把握してくださいね.表現規制派を批判するためにフェミニスト全体を殴ると性の解放を唱えるフェミニストに流れ弾が当たるし,社会構築主義にまで戦線を広げるならフェミニズムや社会学だけじゃなく人類学とか歴史学にまで喧嘩を売っていることになるわけだけどそこはちゃんと自覚してます? 自覚がないなら攻撃対象はもうちょっと限定しようね.もしそれらの分野に喧嘩を売るなら各分野の基本書はちゃんと読んで勉強してねという話になるけど,その覚悟はありますか?
(もちろんこれは男性向けジャンルの潮流とか文化とかについて碌に知らずお気持ちで批判してくる一部のフェミニストや社会学者にも当てはまることだけどね.よりにもよってそのジャンルでデータベース消費論に基づいた雑分析をやりますか? ほんと勘弁してくれ.男性向けだからどうせ女体目当てのポルノだろうみたいなその偏見をどうにかしろ.オタク,というよりも男のセクシュアリティを単純化するな.参与観察なり文献調査なり統計なりの実証手法を使いこなせ.表象分析やるならちゃんと作品に向き合え)
ところで献血行って冴えカノのクリアファイルもらってきたんだけど,今期アニメで白衣着て献血のポスターに採用されてほしいキャラって誰? 僕は,クリーブランドちゃん! アズレン未プレイなんだけどアニメは見てます.出来いいよね.さすが艦これより先にアニメ化されるだけはある.ユニオンとロイヤルと鉄血と重桜でそれぞれ1種類ずつナース服のクリアファイルとか作って献血ルームで配布してほしい.あ,『放課後さいころ倶楽部』も捨てがたい.翠ちゃんいいよね……仮にコラボやるならやっぱり京都府内限定とかになるのかな……(やると決まったわけじゃないだろ起きろ)(もう一回『ヤマノススメ』とコラボしてほしいよぉ……)(いま気づいたんだけどアズレンの鉄血って「血」って字が入ってるから献血にちょうどいいんじゃないか? プリンツ・オイゲンが上から目線で献血を要求してくるポスターとか,どうすか)
似たような話題を似たような面子で似たようなコメントで殴り合うの見てるのは正直言って苦行なので、色々な所に飛び火するのは割とありがたい
勘弁してください.俺は楽しくオタ活や研究して気分よく献血したいだけなんです.献血ポスターを燃やされ趣味を踏み躙られた挙げ句に仕事にケチつけられるとかただただ迷惑でしかないんです……一部のフェミが放火してまわって一部のオタクが焦土作戦しかけてきてるのは巻き込まれた村人Aとしては消耗するだけなんだ……
これはっきり言っておくけど,去年のキズナアイバッシングに付随しての文系バッシングのときにも,私が書いた増田を読んで「こういうのが読めたのはよかった」と言ってる人大勢いたけど,私まだ根に持ってるからね.なんもよくねーよ.水が言葉を記憶しないことについてやたら解説が充実していたり数多の歴史的事件のなかで南京大虐殺にだけやたら詳細なFAQがあったりするのはちっとも良いことじゃねーよ.文系バッシングはこれっぽっちもありがたくないです.一部のフェミに好きな作品を燃やされてもちっとも嬉しくないのと一緒.宇崎ちゃんの売上は上がったらしいけどそれを素直に喜べるかといったら喜べないでしょ.宇崎ちゃんバッシングなんてない方が遥かに良かったわけで(もちろん表現の自由というものがあり,作品への批判をするなとは言わないのだが,しかしその批判をどう思うかというのはまた別の話で……).
社会学部に運動家が集中しすぎている。法学部や経済学部や文学部とは比較にならないほどに集中して存在する。社会学と社会学部全体がうさんくさいものとして見られるようになった。
社会学部なんて設置してる大学は少数派なんですが本当に印象論でしか語ってないんですねというのがよくわかる.偏見を正当化したいだけのノイズ.
この世界は全て物理法則に従って動いている、というのが本質主義なら実際それは多分正しいんだよなぁ…そこに戻れないのは単に人間の知性が追い付かないから「仕方がない」だけなので/クリーブランドはロリだから叩
学問的良心からはたかだか門外漢との対話なんぞのために本質主義を採用するなんてできませんわ.
社会学部を設置してる大学は少数派でたいていの大学に社会学部なんてものはないわけですが本当に印象に基づいたお気持ちで社会学を叩いているんですね(それとも,ひょっとして社会学部がある大学の卒業生なのかな?).
人によります.普通の句読点使う人とかカンママル好きとかコンマピリオド派とか.出版社だと東京大学出版会は横書きの本は基本コンマピリオドですね.岩波もそうだっけ?
「お気持フェミが自分のお気持の裏付けとして使用していますがそもそも関係ありませんし用法も間違っています」というならわかる。フェミニズムと深い関連があるなら批判に耐えるだけの論拠が欲しい
耐える以前の問題で批判側が雑すぎてマトモに相手してやる価値もないというだけの話なんですが.社会構築主義を批判するなとはもちろん言わないけど,批判の質が悪ければ歯牙にもかけないよ.当たり前でしょ.
というかそもそも,社会構築主義の是非と一部のお気持ちフェミの表現規制要求の是非って無関係だし.勝手にその2つを結びつけたのはアンチフェミの側.一部のお気持ちフェミには自由主義とか哲学とかのツールを使って対抗すればいい話で,社会構築主義を疑う必然性はどこにもないし,疑うっていうなら俺の立場は表現規制反対派のオタクから文系研究者に変わりますよというだけの話.文系研究者としては雑なアンチフェミの議論なんて支持できるわけないでしょ.一介の市民としてなら喜んで性的解放とか表現の自由とかを叫ぶけどさ.
本来ならそこは互いに削り合ってこそ信頼性が担保されるはずなのにおフェミさん達は互いにお手々つないで仲良しするからこうなの。社会構築主義の信頼性を担保したかったらおフェミがそれを乱用するのをたしなめろよ
マジで社会構築主義がフェミニズムのあいだでしか通用しない概念だと思ってんの? 馬鹿じゃないの? もう何度でも言うけど本当に馬鹿じゃないの?
文系の学問について無知なのは別に悪いことじゃないけど無知なのにこんな勘違いしたままでドヤ顔で物申すのは馬鹿で恥知らずだと思う.勉強しろよ.
社会構築主義はポスター批判側から確かにあんまり出てなかったけどいなかったかといえば居たような…。「表象」とかゆってた人はソレとは違うの?教えてください!
表象の話は『世界』5月号に載ってた小宮さんのやつかな? あれは社会構築主義とはあんまり関係なくない? いやもちろん関係ないということはないんだけど,小宮さんが言ってるのは表象と女性差別の問題だよね.
実のところ社会構築主義ってマジで社会について分析する上でのベースとなる考え方だから社会構築主義が滲み出てくるのはある程度仕方ないところはあるんだけど,anond:20191104014500でも書いたように社会構築主義の是非以前の問題だなと思うことはあるんだよね.ジェンダーは(というかセックスも)社会的構築物だけど,それは議論の前提であって,じゃあその上でどの程度の女性表象を許容すべきかみたいなそういう話は倫理とか哲学とか思想とかの領分じゃないですか.そこに社会構築主義はどうなんだみたいな話を持ってくるの不毛すぎない? ロールズとかの話しません?
ちなみに私は小宮さんの主張には反対するんだけど『世界』掲載論文の注10(236ページ)には同意する.みんなもっと本質的な話しよ.「そもそも男性だって公共空間で性的消費されてるんだから架空の女性が多少公共空間で性的消費されてたって別にいいじゃないですか」「性的自由の拡大が目指されるべきであって表象を制約しようとするのはおかしいでしょ」「医療のための広告には高い倫理性が求められるのだとしても,人気マンガの多少えっちなイラストを使った広告すら問題とされるのはおかしい.それは医療のための広告に求められる倫理の範疇に収まるはずだ」みたいな話しよ.
……この規制反対増田を多数の「お気持ち棍棒」で殴り倒して口封じし「パワフル表現規制」した方が、学問で論破するより遙かに低コストって事は確実そう。だから規制派は扇動するのか。なるほど、俺でもそうするな。
それは過大評価ですよ.私はフェミニズムに学問的反論を加えているのではなく,フェミニストの一般社会に対する主張の一部に対して一人の市民として反対しているだけだもの.私は知の体系としてのフェミニズムにはちっとも触れていないので学者としてフェミニストに勝つことはできません.それはジェンダー研究の偉い先生が私の専門分野で私に勝てないのと同じ.
気持ちはわかる。が、賛成批判両側ともに多数の人間がいる以上、雑でなんも考えてない意見は出るだろうし、そういう意見は大体過激でツッコミ所が多いから目立つんだよねえ。正直、どうしようもない気がする。
フェミニストのお気持ちで趣味を殴られるのもオタクのお気持ちで仕事を殴られるのも正直疲れ果てたというお気持ちがあるけど,でも流石に今回は献血ポスターが叩かれたということで全血献血15回以上行ってるワイもちょっとプチッと来たよね.これまでは割とフェミの言い分もわからなくもないという感じだったけどキズナアイバッシングと献血ポスターバッシングで「こいつらの主張は基本聞く必要ないな」くらいにまで変わった.メチャクチャすぎるものこの2件.でもこの2件でオタク界隈に吹き荒れた文系バッシングの嵐も忘れてないからね.キズナアイバッシングや献血ポスターバッシングを主導したフェミと社会学叩きや文系バッシングを煽ったオタクはどちらも僕の中では絶許という扱いです.あとpixiv論文事件での学問叩きのことも忘れてないぞ……(しつこい)
まあフェミのことなんて無視して表現の自由を満喫してオタクのことなんて気にせず学問の自由を謳歌すべきなんだろーけども,オタクであることも学者であることも私の重要な一部なので,そう簡単に忘れることはできないんだよなー.
あー、キズナアイの時と同じ人か。私の感想としては当時のこちら(https://anond.hatelabo.jp/20181010204115)の増田とほぼ同じです。ていうか、学問の重要さを訴えたいなら匿名じゃない場所でやったほうが効果的でしょうに。
ネット上の有象無象が学問をdisってるときになんで納税者様への説明責任みたいな話になるのか理解できんわ.科研費の報告書とかはちゃんと出してますし論文も書いてます.納税者様への責任はそれで果たしてるはず.はてブ民とか棘の米欄住人とかに丁寧に説明して差し上げる義理はどこにもないよね.
というかそういうこと言うなら同じ口で二度と民主党政権の事業仕分けを批判しないでほしいんだが……
匿名じゃない場所でやれ? 嫌です.自分の専門分野を誠実にさらけ出して物申した先生方がいたけど,どうなったかといえば物知らずの連中が学問分野ごと燃やしに来ただけでしょ.私は私の専門分野に無知と思い込みでケチをつけてくる連中を招き入れるつもりはありません.
あのさ,それは何一つ否定してないじゃん? 法学部や文学部と並んで社会学部って書くのはおかしいよねって話じゃん? 誰も社会学専攻は置いてないなんて言ってないじゃん? 学部の名前と学問分野の名称は往々にして乖離するもので,そんな肌感覚もなしに批判してるのかよって話じゃん?
ただ関西の方だと有名な私大には社会学部を設置しているところが多いので,関西の有名私大を出た人だと社会学部があるのは当たり前って思っちゃうかもしれない.関東の大学でも,例のキズナアイバッシングの急先鋒だったセンセの勤務先は社会学部だしね.けど繰り返すように全国的には社会学部を設置してる大学は少数派です.
「社会学部」と「社会学専攻」を混ぜて論じてよいと思っている人につける薬はありません.文学と文学部,法学と法学部を区別できないってことでしょ?
歴史学者や政治学者や文学研究者もヒウィッヒヒーには生息して色々発言しているわけだけど,社会学者への偏見があるから社会学者が目立っているように見えるだけでは???
※ あくまでも持論であるため全員が全員納得してくれるとは更々思ってないので、以下はただの面倒くさいVTuber好きのオタクの戯言だと思ってくれ。
今週、あるVTuberのツイートが大バズした。以下がその文章(原文ママ|ステマと思われたくないため、どこからの出展は記載しない)
Vtuberが配信主体になってしまったことの何がダメかって、ほとんどのVtuberは配信してるうちにRPが剥がれて素の人間になってしまう所だよね…二次元のキャラクターがYouTuberとして活動してくれることがVtuberの良さだったのに
まぁ何でもってVTuberなのかを定義するのはナンセンスであるため、そこに関しては同意しなき。
しかし、昨今の「素の人間」をヨシとする風潮は聴く分には好きだが、実態としてはあまりいい顔をしてない。
ちょっとふんわりした表現だったので、具体的に記すと「そもそもキャラ設定を投げて、ただ素の姿で配信する配信メインVTuber」に対してあまりいい顔をしていない。
これは「にじさんじ」で最近よく見かけるようになった光景で、我も続けということで、個人/企業共に、ゲーム実況&ただの素配信が増えた。
いや面白いんだよ、面白いんだけどね、何だろ、「それってVTuberじゃなくて、ただのガワが2次元のニコ生主やん」って思ってしまうのよ。特に「リアルに〇〇さんに会ってきた」とか「身バレした」とか、仮にもバーチャルで生きる身としてどうなんだろーって思ってしまうわけで。
あくまでもVTuberというキャラがある以上、そのキャラの設定に従って、所謂ロールプレイをしなきゃいけない。
ただ、時々発生する「そのVTuberを演じている役者(所謂、魂)」がポロッと出たとき、そのキャラのギャップが生まれ、例えばバズったり、例えばファンが増えると思ってるのよ。
例えばキズナアイの「ふぁっきゅー」、例えばピーナッツくんの兄ぽこなどね。特に後者に関しては、所謂ピーナッツくんの中の人なのに、カルト的人気があって、何故かファンアートがあるくらい。
ただ、最近どうもキャラ設定を忘れ「声がキャラにあってるのなら何したっていい」という風潮があるんだよね。それもただのゲーム実況/雑談で。そりゃただの生主だし、ぶっちゃけ全員がそれやってるから没個性、誰(魂/キャラ造形)が何やっても同じじゃんという感じ。
まぁ何を言いたいかっていうとね、もう少しキャラ設定を深く考えて、脳死で素の自分をだす「魂の大安売り」しないで、魂とキャラを一致するよう心掛けて、「このキャラは、この魂じゃないとおかしいよね」と思わせるようなVTuberが増えて欲しいなと。それこそやりやすいから生配信だけやる、じゃあ無しにね。
まぁ、自分は、いちVTuberファンで、才能も糞もないので自分自身がVTuberになろうとは思ってないので、ただの机上の空論だけどね。ただの愚痴だし。
主体性と客体化について。
https://anond.hatelabo.jp/20191031141650 の補記の続き
- id:ultimateblue 自分の店の看板しょって下着広告出してる下着屋と献血の看板しょってトロ顔乳袋女広告出してる赤十字は全然違う話なのになんか無理やり共通化して黒塗りに持っていこうとしてない?この章だけなんか変
- id:peta0227 ポスターと下着で矛盾するの、主体露出はOKで客体消費はNGの文脈が今回は不適当なケースだからだと思う。ポスターのテーマが「公共で客観的にどう映るか」なら「下着は主体だからOK」はハイコンテキストで不適当かと。
- id:kutabirehateko 下着の広告は消費者たる女性をターゲットに作られており、着用する女性を性的に消費することを煽るためのものではない。男は下着姿の女性や女性用下着を性的に消費するものと公言してはばからない世の中がおかしい。
- id:kumaponta 主体と客体なんて委託でも入れたら途端に不明確になる。判断基準としては合理性に乏しいものだと思うな。主観的な基準はいくらでも騙せるものだよ。明確な客観的基準こそ合理的だと思うよ。
- id:junglejungle 女性下着が本当に主体的なのかかどうか。勝負下着という言葉もあり、男性の性的喚起を目的としている要素もある。かわいい下着を着るべきというジェンダー観の押し付けもある。と、こういう屁理屈もつけられる。
主体性と客体化に関する言及が多く見られた。この観点は重要なのではあるが、正直に告白すると、複雑すぎて細かい議論から逃げてしまった。
たとえば、以下のような2つのケースは、比較的論じるのが簡単である。
前者は「女性の客体化」であり、認められない表現だという人もいるであろう。今回の宇崎ちゃんのポスターは、ポスター批判派にとってはこれにあたる(露出度ではなく、乳袋だが)。
後者は「主体的」な露出であり、前者を認めない人も、こちらを認めるケースが多いであろう。下着広告の大半はこれにあたる。
では、以下のケースはどうであろうか。
これは言い換えると「主体的な客体化」であるが、このケースはどう判断されるのだろうか。
さらに次のケースはどうだろうか。
段々と即答が難しくなってくる。次の例はどうだろうか。
これはコメントでも多く言及されていたが、女性誌の一部などで発生しているケースである。宇崎ちゃんが認められない場合、男女を入れ替えただけのこのケースも認められるべきではないように思われる。
次のケースはどうだろうか。
ここでいう団体は、具体的には赤十字である。赤十字には、恐らく女性を客体化する意思は存在していなかった。今回のケースでは、たまたまコラボレーションをした作品に、女性を客体化した要素が含まれていたことになる。もう少し正確に表現するならば以下だろうか。
このケースからは、なんとなくまずそうな雰囲気が漂っている。情報によると、セーラームーンはこのパターンらしい(anod:20181007164838)。セーラームーンの露出度の高い服装が、男性編集者による女性の客体化に由来しているという文脈を考慮するのであれば、セーラームーンは全面的に認められなくなるかもしれない。セーラームーンは認められると考えている方は、どう判断するだろうか。キズナアイも、もしかするとこのケースに入るという人もいるかもしれない。
このケースを、少しいじってみよう。
セーラームーンが認められやすい理由は、セーラームーンのキャラクターたちにはっきりとした自己が見られるから、という説は一定の説得力がある。似たような例といて、次のケースはどうだろうか。
ナミや峰不二子はこのケースだろうか。自己がはっきりとしていると、多少の露出度の高さは認められる傾向があるように思われる。あるいは、露出度の高さは、「貞淑であるべし」というジェンダーロールからの開放と見なされることすら有り得る。ここで興味深いのは、これらのケースでは依然として、男性による女性の客体化がベースにあるということだ。
このケースの考察は、個人的には、非常にクリティカルであると考えている。もし、ナミや峰不二子、あるいはセーラームーンが認められるとすると、「客体化」や「主体性」は、実は判断基準としては重要ではないという可能性が出てくることになる。むしろ重要なのは、「自己をはっきりと持つキャラクター」と表現の外形であり、言い換えれば「異性に媚びてない」見た目であれば、その誕生経緯はどうであろうと、問題ないという判断になりえる。
「宇崎ちゃんは嫌だが、セーラームーンは許せる」という人は、「宇崎ちゃんは異性に媚びているが、セーラームーンは異性に媚びていないようにみえる」からという心理が理由かもしれない(もちろん、違うかもしれない)。これが正しい仮説だとすると、表現の是非の判断が、外形が許せるか許せないか、という問題に帰着してしまう。さらに、an・anの表紙にも違和感を覚えない人であれば、「同性が異性に媚びている表現は嫌だ」という結論になる可能性がある。
私自身は、このような表現の判断基準の持ち方は、どちらにしても問題ないと考えている。なんらかの経緯により、このような判断基準に至ったとしても、それは個人の自由である。一方で、客体化あるいは主体性が表現の是非に影響を及ぼすという観点の妥当性は、必ずしも明白ではない、とも考える必要があるのではないだろうか。
いずれにせよ、表現の誕生経緯を勘案することは非常に難しい。セーラームーンの例にしても、男性編集者の存在など、そもそも知らなかった人も多いだろう。これはつまり、外形のみでセーラームーンの表現の是非を勝手に判断していた人が、それなりに存在しているということだ。私自身は、このような理由もあり、客体化あるいは主体性といった要素を表現の是非に持ち込むことには慎重になるべきだと考えている。
もし、何らかの理由で客体化に触れたい場合は、例えば「過剰に異性に媚びた表現は、性的搾取やセクハラの助長につながるのでNG」といったように、むしろ外形をベースとした基準にしてしまったほうが、理解も得られやすいし、運用が楽なのではないだろうか(もちろん、「過度に」とはどの程度か、とか、「異性に媚びた表現」が果たして本当に性的搾取やセクハラの助長につながるかどうか、「異性に媚びることは悪いのか」などの別の議論は必要である)。
ところで、議論を混乱させるもう一つの問題として、アファーマティブ・アクションの話と、男女同権が達成されたその後の世界の話を混ぜて話している人がいるように見受けられる。たとえば、「必然性なく女性のみをアイキャッチ的に使うべからず」というのは、過渡期における一種のアファーマティブ・アクションとしては、一定の妥当性を持つと考える。一方で、真に差別が解決した世界では、そのような配慮は逆に不要になるかもしれない。たとえば、「必然性なくA型の人のみをアイキャッチ的に使うべからず」というガイドラインは、馬鹿げている。そもそも血液型など誰も気にしていないからだ。性別の問題も、真に男女差別がなくなった世界では、最終的にはそこに行き着くのかもしれない。類似の例として、アメリカなどでは、商品パッケージに人物を複数掲載する場合、人種の割り振りに対して神経質になるところがある。これは、特定の人種のみをアイキャッチに使う場合、人種差別を助長しているとみなされる可能性があるからだ。現在ガイドラインとして策定されているこのようなルールが、既存の不平等を是正するための措置であるという事実を無視して議論を展開することは、好ましい姿勢とは言えない。また、このようなガイドラインを「女性をアイキャッチに使うべからず」と極端な方向に誤読したり、「男性をアイキャッチ的に使用するのはいいのか」と、誤読を元にしたミラーリングを行うことは避けなければならない。
このようなアファーマティブ・アクションそれ自体が不公平あるいは不正義であり、そもそも認めない、という姿勢はあり得るかもしれない。また、単純に過度な配慮は不要であるという意見もあり得る。例えば、過去に発生したNHKにおけるキズナアイ騒動や人工知能学会誌の議論では、性的役割の固定に対する議論が行われたが、性的役割の是正を求める批判派(アファーマティブ・アクション派といえるだろう)、とそこまでの配慮は必要ない、あるいは(その後の世界では)むしろそのような配慮こそが差別である、とする擁護派の間で、意見の対立が見られた。個人的には、この2つの個別の事例に対しては、過度の配慮であると考えている。一方で、批判派の言いたいことも理解できるので、批判自体には問題がないと考えているし、耳を傾けるべき指摘であろう。なお、特にキズナアイ騒動については異なる論点もあったようだが、その点についてはここでは議論しない。
議論の多くは、おそらく件のポスターが性的、あるいは過度に性的かどうかに帰着するように思われる。そして、この点について、両陣営の合意は、ほぼ得られていない。
擁護派の多くは、件のポスターは性的ではない、あるいは性的な要素はあるとしても、問題になるほどには過度に性的ではないと考えている。一方で、批判派の多くは、乳袋や表情を理由として、ポスターは過度に性的であると見なしている。ポスターが過度に性的であると認められた場合、女性差別につながる表現であり、セクハラにもなるかもしれない。一方で、そもそも性的でないのであれば、セクハラにも女性差別にもならないだろう。
巨乳それ自体がいけないわけがない。また、ごく一部の過激派を除いて、大多数のポスター批判派も巨乳自体への攻撃はしていないように見受けられる。この点を議論するのはあまり意味がないし、ごく一部の過激派の意見のみを根拠に、相手陣営全体に対して「差別主義者」といったラベル付けを行うのは、誠実な姿勢とは言えないだろう。
これは全員にとって非常にクリティカルな指摘である。正直なところ、私自身も自分の認識が社会の平均と合致しているかどうかの自信がない。ポスター擁護派のうち、オタクを自認する人たちの意見が気になるところである。
例えば、「ビキニアーマー」は恐らく今となっては性的な表現のように思われる。肌に密着した黒タイツはどうだろうか。乳袋も本当にセーフなのだろうか。境界線は自分の中でもあやふやである。セーフな気もするし、性的な気もする。あるいら性的な要素はあると認めたとしても、過度に性的かどうかと言われると、過度ではなさそうか。みなさんはどうだろうか。
何を性的と見なすか、あるいは、何を過度に性的と見なすか、は個人どころか社会においてもあやふやであり、時代の変化にしたがって変化してく。
ポスター批判派は、(仮に今現在は認められていたとしても)今後このような表現は社会的に許されなくなり、状況は是正されていくべきだと考えている。これは、過去には普通に存在していた、水着の女性が(無意味に)アイキャッチとして使われていたビールのポスターが、近年ではほぼ絶滅した経緯と相似形である。
一方で、私は別の未来も想像している。それは、このような表現が、むしろ緩く認められる社会になるのではないかということだ。近年すでに指摘されている通り、「オタク」自体が一般化しているらしい。それに伴って、乳袋のような表現に過度の性的な要素を見出す層が減っていく可能性がある。言うなれば乳袋ネイティブ世代の誕生である。こうなった場合、乳袋は広く認められた表現になる可能性がある。
宇崎ちゃんは性的であるが、ワンピースのナミやセーラームーンは性的でない、という意見が見受けられる。これはポスター批判派からも出ている意見で、ナミは性的ではないという意見が見受けられた。
ポスター擁護派は、ナミも宇崎ちゃんもどちらもが乳袋を表現として用いていることから、仮に宇崎ちゃんが性的なのであれば、ナミも同じく性的であり、ナミを公共の場で用いることは認めら得るべきではないと考えている。同じくして、ナミを認めるのであれば、宇崎ちゃんも認められないと一貫性が失われると指摘する。
ここで興味深いのが、ポスター批判派の中でも、この点については意見が別れているということだ。これは、ポスター批判派が用いている「性的な表現に無自覚になっている」人々というのが、ポスター批判派の中にも存在するという事を意味しているように思われる。ワンピースは非常に歴史がある作品であり、オタクだけでなく、社会的にある程度の知名度を持って受け入れられている。好きな漫画といえばワンピースという人も多い。そのため、本来は過度に性的な表現を持ち合わせているはずのナミも、ワンピースという作品と共に社会に受け入れられてしまっている。ポスターに対して批判的であるが、ナミについては認められるという人は、乳袋ネイティブ世代に染まりつつあるといえる。私自身は、もし宇崎ちゃんのポスターが「乳袋は女性を性的に消費する表現である」として認められないのであれば、たとえナミであろうと、乳袋は許されないという姿勢を維持するべきであると考えている。ここで一貫性が崩れてしまうと、「(過度に)性的な表現」の定義が非常に困難になってしまうため、合意が得られにくい。「ナミは(見慣れているから|みんな好きだから|明るいから|強い女性だから)セーフ」という話になってしまった場合、個人の「お気持ち」と揶揄されるのは避けられないだろう。
セーラームーンについてはどうだろうか。すでに指摘されている通り、セーラームーンも公開当初はブルセラを想起させるであるとか、露出が多いであるとか、性的な表現についての批判が女性からもあったようだ。現在では市民権を獲得しているため、このような批判が行われることはまず見かけないが、たしかに絵面だけ見た場合、肌の露出は大きい。セーラームーンを使用した表現が公の場で許されるとしたら、なにが理由だろうか。
ポスター批判派からは、男性からの人気を得るために胸が強調された(宇崎ちゃん|ナミ)に対して、女性が良いと思う服装を女性に着せただけのセーラームーンは、性的消費には当たらないという説が挙げられている。これは、一理あるように思われる。セーラームーンは単に綺麗だったりかわいい格好をしているだけで、それを性的と見なすのは、見る方に問題がある、という考え方になる。韋駄天の例では、靴下を脱いだだけなのに、勝手にそれを性的と見なす男性陣によって問題が発生していたが、セーラームーンも同型だと言えるだろう。人には好きな格好をする権利があるのだから、女性がどのような格好をしても、他人にどうこう言われるのは好ましくない、というのは理解できる。
ここで、本人が望む格好は、どこまでなら許容されるべきであろうか、という議論がある。仮に、ある女性が自分にとっては裸がもっとも自然であると考えた場合、その女性を公の場に掲示されるポスターに使用することは妥当であろうか。そして、その裸のポスターを過度に性的であると誰かが見なす場合、それは見る側の問題であろうか。これは、冗談ではなくて、例えばヌーディストビーチの議論においては、既に似たような議論が起こっている。現在の日本において、恐らく多くの人は、裸の女性の写真を公の場に掲示することは、本人の意志はどうであれ、過度に性的であると見なすであろう。裸は極端としても、例えば胸の谷間が強調された服装はどうだろうか。このような服装を自発的に好む女性は存在するが、公共の場でポスターに使用することは適当であろうか。もし、そのような服装は適当でないと考える場合、あるポスターを評価する上で、本人の意思は、具体的な表現に劣後すると言えるのではないだろうか。つまり、本人が望んでいようとも、性的なものは性的であると見なされるということである。
ところで、海外の識者に宇崎ちゃんのポスターを見せたところ、ネガティブな反応があった、という情報がある。ここで、気になるのが、同じ人物にナミやセーラームーンのポスターを見せた場合、どのような反応があるか、である。宇崎ちゃんに対して否定的な反応がある場合、ナミやセーラームーンに対しても、これらの作品を知らない人からは同様の反応が帰ってくる可能性が、それなりに高いのではないだろうか。セーラームーンも、背景情報がなければ、過度に肌の露出が多い若い女性をアイキャッチに使っているだけのポスターに見える可能性がある。漫画やアニメに馴染みのない人たちにとっては、ナミも宇崎ちゃんもセーラームーンもどんぐりの背比べに映るのではないだろうか。そのような人にとって、セーラームーンを許容するあなたは「性的な表現に無自覚」であると見なされるかもしれない。
こういった観点を踏まえた場合、本人の気持ちや、背景情報といったものは、表現が性的であるかどうかを判断する上では、必ずしも重要な要素ではない、と考えることは可能である。「勝手に性的に見ている」という見方もできるが、多かれ少なかれ、だれもが自分の中の基準をもとに、ある表現が性的かどうかを判断している。そのため、「勝手に性的に見ている」こと自体を悪とする言説は、筋が悪いであろう。これは何も男女間にだけ発生するわけではなくて、世代間や宗教間にも発生する。そうであるならば、性的な表現の基準を考える上では、本人の意志や背景の文脈を考慮するよりも、物理的な要素(肌の露出度など)を用いるのが妥当である、という見方もできる。
ポスターのやつ、いろいろな記事を読みつつ、自分の考えを整理するために書き出していたら、結構な量になってしまった。論点が多くてあまりまとまっていないが、せっかくなのでここに置いておく。少しずつメモ帳に書いてたら気がついたらめちゃくちゃ長文になっていてビビったというか、途中で切らられちゃうので分割するはめになった・・・・。
ポジショニングを先に述べておくと、私は男で、オタク、宇崎ちゃんポスターはギリセーフかな?ぐらいの認識だ。
いきなりだが、ポスター擁護側の反応が過剰である、という意見がある。これは、ポスター擁護側の危機感の強さに由来するものと考えている。「彼らが最初共産主義者を攻撃したとき」という有名な言葉があるが、ポスター擁護派にとって、オタク表現に対する段階的な譲歩は、最終的にはすべてのオタク表現が認めらない未来につながる、という危機意識があるのではないだろうか。この危機意識を補強する要素として、これまでの事例(NHKにおけるキズナアイや人工知能学会の表紙など)も存在する。一方で、ポスター批判派にとっては、あくまでも自分の信じる妥当な指摘をしているし、これまでの個別の事例は必ずしも自らによるものでないので、ここまで反発を受ける理由が分かりづらいのかもしれない。
ここで問題となるのが、ポスター批判派と擁護派の間に信頼関係が無いことである。ポスター擁護派にとって、ポスター批判派とは、個々人の「常識」に基づいて、それぞれ微妙に異なる理由でポスターの問題点を指摘する存在に見えている。特に共有されたガイドラインがない状況でこうなってしまうと、ポスター擁護派は最終的にどこまで譲歩すればいいのかわからない以上、一歩たりとも引くことができなくなってしまう。ポスター擁護派が「お気持ち案件」と言うのはこういう理由からであろう。両陣営の間に紳士協定が存在しない以上、お互いに譲歩は難しい。
個々人の嗜好や常識が異なる以上、必要となるのは各陣営の同意が得られたガイドラインになるであろう。現時点で即効性があるガイドラインは恐らく法律のみであり、法律に基づくのであれば、法的な「わいせつ物」でなければ問題ない、ということになる。もちろん、「TPOやマナーをわきまえろ」という意見もあるだろうが、TPOやマナーへの遵守はベストエフォートであり、必ずしも守る必要がない。法律のみを基準として考えた場合、件のポスターが「わいせつ物」とは言えない以上、それ以上の規制を求めることは「過剰な要求」と映ることもあるだろう。ポスター擁護派には、恐らく規制派の意見が法律を超えた「過剰な要求」に映っている。
では、みんなが納得するようなガイドラインを、批判派と擁護派が一緒になって作ることは可能だろうか。残念だが、私の印象としては、そのようなことは難しいように感じられる。各人それぞれ譲れない線があるらしく、すり合わせは容易ではない。しかし、後述するが、私はそのようなガイドラインは「表現する側」が作れば良いと考えている。
安易なポスターの取り下げ要求は、表現への萎縮につながるという説もある。これは一理あると同時に、必要な行為でもある。私自身は、自由はなるべく保証されているべきだと考えているので、ポスターへの批判をTwitter上で放言することは、それがどのような理由に基づくとしても、認められるべきだと考えている。たとえそれが、個人的な心情に基づいたものだとしてもだ。また、赤十字に対して直接的に取り下げを求める行為についても、特に問題はないと考えている。なぜなら、圧力、あるいはロビイングは、自分の信じる世界を作るための戦術の一つであると考えているからだ。批判派も擁護派も、お互いにやればいい。
さて、赤十字にも、表現の自由がある。赤十字が公的団体か私的団体かに関わらず、赤十字にはどのような表現を行うかを自発的に決める権利がある。もし、赤十字が、批判に対して「なるほどそういう考え方もあるのか」と考えてポスターを取り下げるのであれば、それは赤十字の自由だ。一方で、批判を受けた上でポスターを取り下げないのも、赤十字の自由だ。赤十字がインターネット上でどちらの意見が多いかを見定めで、それに基づいて判断を下したとしても(統計的な正確性の問題を別として)、問題ないだろう。決めるのは赤十字である。
前述のとおり、私は、批判派と擁護派が意見をすり合わせて統一ガイドラインに至ることは難しいと考えている。となれば、最終的には、どのような表現が認められるかどうかは、その表現の発信者が決めるしかない(この場合は赤十字だ)。この前提に立つ場合、両陣営は、発信者を説得するために最善を尽くすのがミッションとなる。つまり、ロビイング合戦だ。実際のところ、自治体はもちろん出版業界や放送業界などを始めとして、様々な企業や業界には、表現者として独自のガイドラインがある。これらは過去のロビイングによって少しずつ構築されてきたものであり、それぞれの価値観をすり合わせた結果とも言える。そして、このような自主規制ルールを作る上では、表現の自由は関係が無い。
ところで、何人たりともリソースの限界というものがある。特に赤十字にとっては両陣営からの意見を受け付けて適切に判断を下す、という非常にリソースを消費する作業が求められる。結果的に、赤十字は、問題が起こりにくい表現のみを使うようになる、つまり表現の萎縮が起こるという懸念が残る。しかし、究極的に言えば、私はこれは問題が無いと考えている。ポスターなどの表現は結局はコストパフォーマンスの問題であり、クレーム対応へのコストと得られる利益(この場合は血液量だろうか)のバランスを鑑みて、最終的には収束するであろう。コスト削減のために無難な表現を選ぶ、というのも戦略の一つであるし、多少苦情が来るのを受け入れつつ、血液を大量に集められる方向に舵を切るのも赤十字の判断だ。赤十字には自由がある。
しかし、ここで注意しなければいけないのは、必要リソース量には非対称性があるということだ。たとえば、赤十字に対して長時間苦情の電話をかけ続けるといった手法は、ロビイングの方法としては好ましくないと、私は考えている。表現者のリソースを飽和させることによって、半ば強引に要求を飲ませる手法は、私の目には品が良く映らない。人によっては、この手法自体を、不当な手段による「表現の抑制」と見なすこともあるであろう。意見の伝達は、なるべく相手のリソースを消費しないように心がけたい。もちろん、あなたがどうしても相手に飲ませたい要求であれば、多少強引な手法を取ることは(法律で禁止されていない範囲で)可能でもある。しかしその場合、まさにその行為自体が非難の対象となり、結果的に周囲からを理解も得られない結果になることもあるだろう。私自身は、Twitter上で意見をつぶやくぐらいが、相手にとって負担の少ない範囲だと考えている。
ロビイング合戦となると、「声が大きいほうが勝つのかよ」という非難もあるかもしれない。そうなのだ、声が大きいほうが勝つのだ。こればっかりは民主主義の必要コストなのか、いわゆる自由のための「不断の努力」というものなのか、各人が自分の信じる事を唱え続け、みんなを説得するしか無い。しんどいが、そういうものみたいだ。もちろん、弊害もある。「米国はNRAがロビイングを続けているせいで、いつまで経っても銃乱射事件が無くならない」という人もいるだろう。しかし、ではNRAの発言権を強制的に奪うことができるかというと、そうはならない。あなたにできるのは、あなたの意見で周りを説得して、支持者を増やすことだけだ。でも、しんどい。できれば相手に静かにしておいて欲しい。きっとお互いに「またかよ」と思うこともあるだろう。不毛に見えることもあるかもしれないが、自由とはそういうものなのだろう。
さて、表現の萎縮を懸念する材料として、一度決まったルールは安易に緩和されないという指摘も考慮する必要がある。
たとえば、知っている人にとっては「定番の話」であり、それ以外の人には「なんでそんなことに」と思われがちな自主規制として、「4本指のイラストは禁止」という決まりがある。これは、自主規制ルールとしてそれなりに広く運用されているはずのルールだ。このルールは部落開放同盟からの意見が由来らしいのだが、私自身(関東出身)は最初に聞いたときは「なんじゃそりゃ」と感じた。今現在も、「そろそろ無くしてもいいんじゃないの」と思っている。
一般に、規制というものは強くなる方向に圧力がかかる。形骸化したルールが、それを理由に削除されることは、傾向としては少ない。そのため、理由はどうであれ、細かいルールを積み重ねていくと、最終的には非常に厳しい規制が完成する。この傾向は、表現の自由度を求める陣営にとっては脅威である。一度決まりができてしまうと、それを覆すのは難しい。もちろん、ロビイングや社会の変化によって緩和が行われることもあるだろうが、できるならば規制が生まれる事自体を避けたい。この非対称性を考慮した場合、ポスター擁護派が過敏に反応することは、ある程度理解できる。譲歩の積み重ねが厳しい規制につながることを懸念するのであれば、今がまさに踏ん張りどころだと言える。
日本赤十字は半ば公的な機関であるので、より安全なルールを運用するべきではないのか、という指摘は、私自身は一理あると考えている。赤十字を公的機関と見なすかどうかについてはここでは議論しないが、公的機関がなるべく安全な表現を使う、というのは、すべての人へのサービスを提供する以上必要なことである。たとえば、政府がセクハラを是とした表現を行うことは望ましくない。なぜならば、セクハラは良くない行為であるという、社会通念上の合意が得られているし、法律という形で明文化もされている。あるいは、政府が過度に性的な表現を行うのもまた、望ましくないであろう。これは、公の場では性的なものを隠すという社会通念上の認識が共有されているからだ。
では、どのような表現が「望ましくない」ものとして社会で共有されているか、となると、全くもって難しい問題である。法的に認められていない行為は当然「望ましくない」し、差別を助長するような表現も、おそらくは「望ましくない」。しかし、社会の大部分は実際のところ未定義エリアとなっており、個別の案件ごとに勘案することになる。すでに広く指摘されている通り、たとえどのような表現でも人を傷つけることは往々にしてある。その前提に立つ場合、単純に「私(や私の周りの人々が)が傷ついたから」という理由だけで「望ましい」かどうかを定義することはできない。たとえば、単に子供が掲載されているポスターがあるとして、どうしても子供を授かることができない夫婦が傷つくからといって、そのポスターを取り下げるべきだろうか。この例に対する答えはない。もし、そのような人が日本で大多数を占める状況であれば、きっと日本政府はそのポスターを取り下げるべきであろうし、あるいは、その傷つき方が非常に強いものであれば、少数のために取り下げることもありえるだろう。(なお、この例示自体が、そのような人を傷つけているだろうという指摘も当然ある)
今回のポスターは、擁護派にとっては、このような未定義エリアの問題であり、どちらかといえば問題がないものとして想定されている。一方で、批判派は「望ましくない」ことが確定したもの、具体的には性差別の問題として認識している。この前提が異なる以上、公的機関が今回のポスターを掲示することの是非について議論するのは、あまり意味がないように考えられる。極端な話、件のポスターがポルノであれば、赤十字が掲示するのは不適切であろう。しかし、そもそもポルノかどうかという点が両陣営の間で確定していない状態では、それ以上の話はしようがないのである。
ところで、公的機関にとっての表現のコストパフォーマンスとは何だろうか。恐らくは、どれだけ全体を幸福を最大化できるか、という観点になるだろう。そして、なるべく多くの人が傷つかない、ある意味では無難な表現を用いるという戦略は、単純にコストパフォーマンスに優れるであろう。そういう意味では、公的機関を特別視するというよりも、彼らは単にコスパがいいから無難な表現を好む、と考えるのが妥当なのかもしれない。
献血を推進するためであれば、ポスターが引き起こす問題は無視されても構わない、という考え方が観測される。これは是でもあり非でもあるだろう。
ここで重要となるのが、ポスターが引き起こす問題とは何なのか、である。仮に、その問題が差別問題であると判断される場合、たとえ献血目的であろうとも、その表現は認められないと考えられる。例えば、「白人は慈愛に満ちているので、どんどん献血に行こう」と書かれたポスターは、現在の社会通念上認められないだろう。一方で、「差別とまではいかないけれど、傷つく人もいる」表現の場合、献血の重要性を理由に、多少の問題は無視されることもあるだろう。先程の例を再び使うのであれば、献血ポスターに子供を掲載することは、おそらく現在の日本では問題となることはない。
さて、ここまで来るとまた同じ話になるのであるが、今回の文脈において、ポスター擁護派は今回の問題を差別問題であると認識していない。一方で、批判派は、これは性差別の問題であると認識している。そのため、両者の話は噛み合わなくなる。結局の所、この論点もあまり意味がない。件のポスターがポルノであれば、それを公の場に掲示するのは、女性差別になるであろうから、献血のためとはいえ認められないであろう。一方で、ポスターがポルノでない場合、献血のためであれば、多少のことは無視される可能性はある。
続くよ
ぼくたちがキズナアイを愛した理由は、その人間臭いキャラクター(個性)だ。
今までのキャラクタービジネス、キャラクターモデルは個性すら外見と同じく誰かの手によって作られたものだ。
それは管理可能なもので、誰かの手によってコントロールされたものということを、ぼくたちは知りながらもあえて目を背けて楽しんでいた。
ところがぼくたちは気づいたのだ。
キャラクターの個性は、アンコントローラブルだからこそ面白いのだと。
シロにしても輝夜月にしてもトップvtuberの多くは過剰な個性を演出している。それは多くが中の人ひとりの個性に依るものであり、コントロールされた今までのキャラクターの個性とは違う「人間臭さ」をぼくたちはそこに見た。産業用のロボットのAIと事故死した青年の心を融合された、あのロビタのように。
そしてキズナアイは分裂をはじめる。キズナアイの成功をより多くのユーザーに届けるために運営が量産を開始したのだ。
いずれぼくたちは目にするだろう。
アンコントーラブルな個性を身に着けたキズナアイは、分裂したうち誰かひとりの死が、全体の死に直結する。それに運営は気づいているのだろうか。