はてなキーワード: 現代社会とは
現代社会で問題となっている「格差拡大」を解決するためには、教育問題の解決が効果的だと考える。高等教育を受けることで、問題解決能力や知識の応用力が身につき、高収入の仕事に就く可能性が高まるためである。
しかし、現実には「学ぶことが難しい人たち」が存在し、格差の「下側」に多いのではないかという仮定がある。この仮定が正しいとするなら、その人たちを一時的なお金で助けても根本的な解決にはならないだろう。
例えば、アフリカへの援助が成功していない理由の一つとして、援助を受ける人々が目の前の困難を解決することで精一杯で、将来的な投資ができない状況が挙げられる。これは現在の日本でも同様のことが行われているのではないか。
格差を縮小するためには、学習能力の低い層の教育水準を向上させる必要があるが、その中には「学習障害」や「グレーゾーン」といった問題を抱える人々も存在する。このような人々を「なくす」ことを目指すと、優生思想になってしまう危険性がある。
本気で格差是正を考えている人たちは、この問題にどう答えるのか、それともただ「考えているふり」をしているだけなのかを知りたい。
以下は、結婚が女性にとって必ずしも健康リスクを増加させるわけではなく、むしろ長寿に寄与するという主張に基づく反論です。
結婚が女性にストレスを与える可能性は確かに存在しますが、それは一部のケースに限られています。結婚は多くの場合、社会的支援や心理的な安定を提供し、特に健康上のサポートが得られる点でメリットが大きいです。実際、研究によれば、結婚している女性は未婚女性と比較して、心血管疾患や精神的な健康リスクが低いと報告されています。また、家事や育児の負担は時代とともに変わり、現代では男女平等の意識が高まっているため、伝統的な家父長制の影響を過大に評価することは不適切です。
選択バイアスの可能性は認められるものの、結婚自体が長寿に寄与する可能性は依然として強いです。結婚がもたらす社会的・経済的安定、相互扶助、そして感情的なサポートは、健康に大きなプラスの影響を与える要因です。また、複数の研究で結婚した女性は全体的に生活習慣が健康的で、医療サービスへのアクセスも改善されていることが確認されています。こうした要素が結婚の実際の健康効果を支えています。
死別がもたらすストレスは無視できないものの、それが結婚全体の健康効果を否定する根拠にはなりません。死別のリスクは結婚の一要素であり、それを理由に結婚全体を否定することは偏りのある議論です。また、死別後も社会的支援を受けることで、女性の生活は安定する可能性があります。多くの研究で、結婚した女性は未婚の女性に比べて総合的により健康であることが示されており、死別のリスクをもって結婚の全体的な利点を覆すことはできません。
文化的・社会的背景を考慮することは重要ですが、現代社会では男女間の役割分担は多様化しており、結婚生活における負担の偏りは減少しています。多くの先進国では、家事や育児において男性の参加が増えており、女性に対する負担が軽減されつつあります。その結果、結婚生活が女性の健康に悪影響を与えるという主張は一般化するのが難しいです。さらに、結婚は社会的ネットワークの一部として、孤独感を軽減し、健康増進に寄与するという側面があるため、全体的には女性にとってプラスとなるケースが多いです。
「女性は結婚すると早死にしない」という主張には、十分な根拠があると考えられます。結婚は心理的・社会的な支援を提供し、長寿に寄与する可能性が高いです。もちろん、個別のケースや文化的背景によって影響が異なることもありますが、全体として、結婚が女性の健康に良い影響を与えるというデータは支持されています。
これはワンアイデアで「〇〇すればいいじゃん!」なんて話では到底済まない大きなテーマだね。俺もけっこうずっと考えてるんだけど
昔は「被害者意識」とか「恨み」「復讐心」は宗教とか掟的なものによって半ば無理やり社会化されていたのが、「各自でうまいこと解消してね」ということになってしまった。
そこから考えると社会化・共有ってことがひとつ方向性としてあるだろう。同病相憐れむじゃないが同じような立場の人と体験を話し合うということ。
でもだだ漏れに喋ってれば傷が癒えるのかというとむしろその行為が自分の主体性を溶かしていってしまい自己憐憫ループにはまっていく可能性もある。
だから「聞いてもらう」だけじゃなくて聞く側・助ける側として他人のために心砕くことが自己救済につながるということもあり得る。
んんwwww増田氏の見解、実に興味深いですぞ。しかし、拙者の視点ではその議論にはいくつかの認識不足が見受けられるですぞ。
まず、男女平等を推し進めることが「生きづらさ」を生むとは一概に言えないですぞ。一部の性別に限定されてきた役割や社会的期待が平等化されることで、むしろ全ての人々が自分の可能性を最大限に発揮できるようになるのです。有限なリソースをどの性別に偏らせることなく分配するのが理想的な社会の形なのですぞ。
また、「無価値な男性」や「無価値な女性」が「消える」という表現は非常に誤解を招く表現ですぞ。人間の価値は社会的地位や経済力だけで測れるものではないのです。人々はそれぞれ異なる才能や価値観を持ち、多様性が尊重される社会こそが真に繁栄するですぞ。
さらに、社会淘汰が「自然淘汰」以上に厳格かつ合理的なシステムであるという考えには異議を唱えざるを得ないですぞ。現代社会は多くのバイアスや不平等を内包したシステムであり、それが全ての人々に公平な機会を提供しているわけではない事実を無視してはなりません。
ですから、増田氏の意見は興味深いながらも、もう一度その前提や議論の深度を見直すことをお勧めしますぞ。多角的な視点から再考することでより豊かな洞察が得られることを期待するですぞ。
膣襞はミルフィーユ状になっておりチンポが吸い込まれるような至高の快感を得られる。
しかし昨今はそんなタワマンに対して様々な問題点が見つかり懐疑的な声が見受けられる。
前述した通りタワマンの構造上高らかなマンコである事が特徴的だが、そうなると短小チンポは奥まで届かない。これではタワマンの利点を全く活かせない。最近の成功者には短小チンポも多く、そういった短小さんから不満の声が漏れている。
もう一つ高いという意味では、タワマンの女がお高く務まり維持費が高い。
一昔前は成功者の証としてタワマンを買うことがステータスになっていたが、昨今の経済事情からタワマンは高すぎるという声が多数ある。
そしてタワマンでなくても、田舎にある低層マンコを買い悠々自適に暮らすのが最近の若者の間ではQOLが高いとして話題だ。
そうなると港区など一等地にあるタワマンの不要説が囁かれている。
数年前、武蔵野市のタワマンの女が排泄が上手くいかず意図しない場所でタワマンから糞尿を垂れ流してしまった事件を覚えているだろうか?
あの事件からタワマンは構造上、排泄処理が上手くできないという問題点が浮上し、タワマンの購入率が一時期ガクッと下がった。(しかし一部のマニアの購入者には人気があったとか)
いかがでしたでしょうか。
タワマン──、かつては一般庶民の憧れでしたが現代社会ではその価値観が少しずつ変化しているということがお分かりいただけたでしょうか。
ではまた。
生きたい。でも生きていても良いことも、楽しいことも、やりたい(かつ実現可能な)ことも一つもない。
安定した職に就いている両親の揃った家に生まれること、10代のうちに歯列矯正を済ませること、幼少期ゴールデンエイジのうちに父親に外でいっぱい遊んで貰って身体能力をなるべく高めておくこと、中学受験と大学受験を自己満足ではなく他人から評価されるレベルで成功させること、などなど。
一つでも欠かしたら大人になってからの生きがいや自尊心がとんでもなく下がって人生のハードさはとんでもなく跳ね上がるのに、俺は全部失敗してる。
おまけに浪漫のない現代社会じゃ命を犠牲にヒロイズムを満たして死ぬようなこともできない。
ナポレオン戦争時代に生きてたら戸惑いなく胸甲騎兵になってイギリス軍やオーストリア軍に突っ込むし、日露戦争の時に生きてたら躊躇なくロシア兵に突撃するし、太平洋戦争の頃に生きてたら躊躇なく飛行機に乗って連合軍の艦隊に突っ込む。
でも現代じゃそんなふうにヒロイズムを満たしながら命を捨てることも出来ず、(手に入らない)トロフィーを集めながらとにかく生き続けることを求められる。
死にたいし生きたい。
社会に「分断」が無ければ、議論と対話が進んで人々の社会参加意識が高まり、合意の下に多数意見が力をもつことになる。
これを、一種の民主主義の理想状態だと考えると、少数意見の持主にとって、この状況は甚だ都合が悪い。エキセントリックな自分たちの少数意見が顧みられることがなくなるからだ。
つまり「分断」とは、民主主義を無効化・ハックするための少数者の武器であり、意図的にこの分断を煽ることは民主着の破壊に加担する行為であるとさえ言える。それは、現代社会で原則合法的なやり方で社会革命を志向する思想家に比べても、実力行使的な手段であるという意味において、数段革命的な行為である。
https://anond.hatelabo.jp/20240904005812 の感想と個人的な考えの羅列
自分を含む多くの男性にとって、スキンケアは日常習慣の一部に過ぎない。もちろん日焼け止めや化粧水、乳液は教科書通りに使っているが、それは風呂に入ることやヒゲを剃ることと同じ、日常のルーティンである。
しかし、上記の記事に見られるスキンケアへの熱量は、異常なほどに高い。この熱量の背景には、肌に関わるルッキズム、社会的な要求、自己投資、官能、評価のあいまいさ、そしてコミュニケーションツールとしての側面があるのではないだろうか。
美しい肌は「中流」以上のコミュニティに参加するためのドレスコードの一部となっており、それが一種のルッキズムを生んでいる。
(この中流が何を指すのかは人によって異なるだろう)
スキンケアとは、その価値観に対する投資行為だ。しかし、この投資は常に変動し続けるものであり、スキンケアを続ける限り、終わりのない旅が続く。
スキンケアは単なる自己投資にとどまらない。自分の肌を観察し、手で触れ、歓びを伴う行為である。これはセルフケアの中でも最もフィジカルで、最もプリミティブで最もフェティッシュなものである。スキンケアを通じて、自身の肉体と深く向き合うことは自己肯定の行為にほかならない。肌に直接触れることは、他者の評価に依存せず、自分自身をケアする極めて個人的で感覚的なプロセスだ。
容姿に関する特徴のひとつは、その定量的な評価が極めて難しい点にある。美しさを完全に数値化することはできず、どのスキンケアが「最適」であるかを判断することも、無限に新しい製品が登場する中で困難だ。自分に合うものを見つけるには時間と試行錯誤が必要であり、その過程で「暫定的な解決」に達することはあるが、加齢や体調により状況は変わる。つまり、スキンケアとは常に変化に向き合う行為なのだ。
興味深いのは、スキンケアが単なる自己ケア以上の役割を果たしている点だ。スキンケアは女性同士の間でコミュニケーションの一部となり、容姿に関する話題を提供する。それは「機材談義」に似た、平和で楽しさを伴う話題だ。お互いの容姿レベルを直接的に評価するのではなく、グルーミングコミュニケーションとしてのスキンケアは、お互いを気遣いながら行われる。
最後に、肌は常に改善の余地がある要素であり、盆栽的な要素がある。
完璧な肌を手に入れることは難しいが、少しずつ改善していくプロセス自体が楽しみの一部なのだろう。(元記事の主張もそこにある)
現代社会において、私たちが直面する最大の憂いの一つは、日々の情報が馬鹿げた話題で溢れかえっているという現実である。このような状況は、私たちの精神を蝕み、深遠な思索を妨げるものとして、静かに、しかし確実に私たちの生活に影響を及ぼしている。
情報技術の発展により、私たちは膨大な情報にアクセスできるようになった。しかし、その多くは浅薄で一過性の話題に過ぎない。メディアは視聴率やクリック数を追求するあまり、センセーショナルで軽薄な内容を優先し、本質的な問題から目を逸らさせる。このような情報の洪水は、私たちの注意力を散漫にし、深い思考を阻害する。
このような環境下で育つと、知識や教養を追求する意欲が薄れ、知性が衰退していく危険性がある。私たちは、物事の表面的な部分だけを捉え、深く考えることを避けるようになってしまう。哲学や文学、科学といった深遠な分野に対する関心が薄れ、代わりに短絡的で即時的な満足感を求めるようになる。
この知性の衰退は、社会全体にも深刻な影響を及ぼす。複雑な問題に対する議論が浅くなり、短絡的な解決策が優先されるようになる。民主主義の根幹である熟慮と対話が失われ、極端な意見が台頭する危険性が高まる。
しかし、このような状況に対して私たちが無力であるわけではない。知性を尊び、深い思索を重んじることは、個人の選択に委ねられている。私たちは、意識的に質の高い情報を選び取り、深く考える習慣を身につけることができる。読書や対話を通じて、知識を広げ、視野を深めることが可能である。
馬鹿の話題ばかりが溢れるこの時代において、私たちが失ってはならないのは、知性と深遠な思索への渇望である。それは、私たち自身の内なる豊かさを育むだけでなく、社会全体の健全な発展にも寄与するものだ。私たちは、浅薄な情報の波に流されることなく、自らの知性を磨き続けることで、より良い未来を築くことができるのである。
パソコンが新しくなったので、
もの凄く快適になったのよ。
もう永く使っていたパソコンは窓から放り投げて捨ててしまったわ。
過去を振り返らない私。
そう思うけど
時すでにお鮨。
まあ気にしないわ。
べつに古くったっていいんだけれど
パソコンは動くのに使えなくなるのは勿体ないわよね。
そう思わない?
まあ慣れるも慣れないも事務所のパソコンが古かっただけという話で、
私の使っているお仕事の本当の経理用のパソコンはそもそもとしてそれじゃないと確定申告ができないので、
経理用だけでもはや買ったといっても言い過ぎではないぐらいの過言なのよね。
だから全く慣れていないというわけでもないけど。
まあ全体的に速くなったことということは正義なのかもしれない、
そう感じているわ。
この入れ替えの旅に私が窓から放り投げ捨てなければならない分、
窓の下が大変なのよ。
これも問題だわ。
まあ一石と言うより一パソコン投じてるってことになってるけど。
私がまた一石を投じたいこととして、
あの最近の私の悪習慣!
あれの止めどきが分からないし
ついつい30分といって思っていた3時間経ってしまっていたり。
えー!こんなに!?って
正に時すでにお鮨なのよ。
せっかくの貴重な休日もショート動画で無くなっちゃったら勿体ないわ。
あれ見ても何も記憶に残らない品にも役に立たないし一見役に立ちそうなドゥーイットヨアセルフの玄能テクニックも
その時見たらなるほど!って思うけれどすご技だわ!って思うけれど
私の実生活でそんな玄能のお役立ち情報は一切使いそうにない一生無駄な能力だと思うの。
実生活では役に立たないのよね。
でも見て得した感じはあるのよね。
なんたるちゃーって
もう気が付いたときは時すでにお鮨なのよ。
そんなんだったらスプラトゥーン3やったりテレビを録り溜めてる番組をみたり
竹内まりやさんが借りた辞書ページを破ってそのページだけ返して辞書の本体を捨てるにならって、
私もそのショート動画を見てしまう悪習慣をセプテンバーばりに投げ捨てる良い機会でもあるしいいセプテンバーでもあるわ。
このことを肝に銘じて何もそこからは得られる栄養が無いものと思って
厳しく鬼にして心をセプテンバーにするわ。
でもなんか疲れているときに限って
なーんにも考えずに見続けられる脳へは熱量の少ない負担の少ないことでもあるのよね。
分からないけれど、
もしかしたら自然と脳を休まっていることにもなっているのかしら?
それは不明だし、
脳が休んだーってスッキリする感じもしないのよね。
それを今月の目標としてアースウィンドアンドファイアーさんたちばりにもそうセプテンバーしていくようにするわ。
秋の終わりに良い報告ができるように
うふふ。
しんなりしたスライス玉ねぎにバターがいい感じに絡まってハムと挟まっているバターたっぷりめな夜遅い時間の深夜に食べたらたぶんギルティーなやつ。
朝だから美味しくいただけるノン罪悪感を噛みしめて美味しく食べたわ!
新商品続くと良いな!
また新たに買ってこないといけないわ。
まだまだ暑いと思うので
急に9月に入ったからってセプテンバーなわけになるわけじゃないので、
暑さ続くし
油断大敵よ!
水分補給は
しっかりとね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ひとつのノートの中に自分の精神を集約するという考えがしばしば私の心を捉える。私の注意力は散漫であり、精神活動の成果をただ生活の諸場面に撒き散らして終わってしまう。だがそれを一か所に押しとどめることができれば、そこに何か、私の精神の輝きと呼べるようなものが見えてくるのではないか、と期待するのである。
瞑想がその役割を果たしてくれればよいのにと思う。だがこうして左手で文章を書くことのほうが、はるかに強く光を集める。(注:この文章は紙のノートに利き手でない手で書いた文章を転記したものである)
瞑想によって心を集中させるには、私は自分に甘すぎるのかもしれない。単にコツが掴めていないだけかもしれないが。
これからの自分の人生に何一つ希望が持てていない。希望というか、楽しみにしていることがない。またそのような対象ができるとも思えない。というのは、未来において何かが得られることを心待ちにするという心理状態が、もはや私においては不可能と感じられるからだ。
つまりこういうことだ。手を尽くして欲しいものを掴み取ったとする。すると私は「手を尽くしたのでこれは当然のことだ。起こるべきことが起こっただけだ」と思うだろう。そこには高揚感や達成感はなく、自明な疲労感が残されるだけである。では苦労なく手に入れたとしたらどうか。その場合は「ただそのようになっただけだ。私の人生とは関係がない」と思うだろう。
要するに、私は非常に疲れやすいので、達成の小さな喜びは、達成に至るまでの労力に打ち消されてしまい、かといって単なる幸運を自分の手柄とも思えない、ということである。
そもそも達成したい事柄が自分にはほとんど存在しないのである。物質的成功はもはや煩わしいものとなっている。もちろん私は虚栄心にまみれた人間だから、ちょっとした成功でしばしば調子に乗ってしまう。そしてしばらくして我に返り、みじめな気分になるのだ。それは、その時の喜びが、純粋に虚栄心に由来するのであって、自分の本当の望みとは関係ないことを知るからだ。何かが上手くいくたびにそれがわかるのだ。
この記述自体が虚栄心によるのであって、私は自己認識に失敗している、と思う。
仮に努力の末に二兆円の資産を得たとしよう(自己認識の上では、別にそれが欲しいわけではないが)。私は喜ぶだろうか?働く必要がなくなり、時間的自由を得られたことを自分はポジティブに評価するだろうとは思う。つまり少し安心するだろうということだ。
私にとって物質的成功とは、物質的苦痛を減らす方法に過ぎない。苦痛は少ないに越したことはないが、耐えれば済む話でもある。快適に生きて快適に死んだとして、それをよい人生とは思えない。その意味で、快も苦痛も大差ないと考えている。
私は異常に理想が高いのだ。あるいは、私の理想は、現代社会で一般的なそれとは位相が異なっている。これは宗教的な感情である。
もちろん、物質的快楽よりも宗教的崇高さのほうが格上だから、と私の虚栄心がささやいているだけという可能性は否めない。というかたぶんそうなのだろう。自分のやる気の無さにもっともらしい説明を与えているだけだ。
異様な無気力。これだけが真実である。しかしそれが真実であるなら、私の人生の目的が形而上学的位相にのみ存在しうる(しないかもしれないが)、ということもまた真実ではないか?
「無気力は治療できる」という通念が、社会の物質的傾向を強化しているのだ。物質的傾向というのはここでは精神的位相を無視する傾向性のことを意味している。「我々に迎合しないのは甘えである。なぜならその手段は常に準備されているのだから」というわけだ。コンサータを飲んで労働にいそしまないのは甘えである。
勇気をもって NO を突き返そう。だがその NO が具体的にどのような形をとるのか分からないから困っている、と言える。出家か?だがこの道も物質世界に吸収されて久しい。
二ヶ月に一遍ほどAmazonを使うが、それほど緊急性を帯びた、これがないと困る、というようなものを通販で買わないので(そんなもの普通のBtoCの通販で売ってるのか?)、来るのが早すぎて引く。2日3日でも早いと思うのに翌日とかに来られると申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
Amazonではないが、それなりに名の知れた店の通販の倉庫で働いていた際に、個人的には仕事自体にそれほど嫌気がさしていたわけではないが、ひっきりなしに延々延々大きな商品から大したことない商品まで延々延々捌いていくうちに、客の方に嫌気がさしてきて、こんなしょうもないものすら通販で頼むなんて現代社会ではそんなに人々の時間が奪われてるのかねと、どんな事情があるのか知らんが侮蔑と憐れみの入り混じった気持ちになったものだ。とはいえ俺もここで働いて金もらってる以上その活動に加担してる訳だからあんまり偉そうな口はきけないとは思いつつも。
そういうことがあってより一層通販を頼まなくなったものの、通販でしか手に入らないものというのもあるのでAmazonで頼むときは自分の物欲を軽蔑したりするのだが、時折別のサイトで頼むとき、入荷次第発送とかウン週間後お届け予定の文字を見ると安堵の嘆息が出る。実際のところがどうなのかわからんし、勝手な想像になるが、この画面の向こうにはあの止まらないコンベアもシャトルランの如く走り回る管理者もいないような気がして
よく知られている方の「リーナスの法則」は、「十分な目ん玉があれば、全てのバグは洗い出される」と言われるが、今述べたいのはもう一つの「人生の意味」についての「リーナスの法則」であり、どちらもリーナス・トーバルズが主張している。
リーナスの法則は、人間の動機づけを3つの段階で説明する考え方である。この法則は、人間の行動や動機を理解する上で洞察を提供している。
1. 生きること(Survival)
3. 享楽・娯楽(Entertainment)
リーナスの法則は、単なる欲求の分類にとどまらず、人間の進化と社会の発展を反映している。生存から社会生活、そして享楽へと至る過程は、人類の歴史そのものを表しているとも言える。
トーバルズは、この法則を通じて技術開発の本質を捉えようとした。彼の視点では、真の革新は「楽しみ」を追求する過程から生まれるのである。
「ただ楽しいからやる」という動機は、創造性と革新の源泉となる。この考えは、選択理論心理学の「楽しみの欲求」と共鳴する。楽しみの欲求は、ユーモア、好奇心、学習・成長、創造性といった要素を含み、人間の精神的欲求の重要な部分を構成している。
リーナスの法則は、オープンソースソフトウェア開発の哲学と深く結びついている。Linuxの開発過程は、この法則の実践的な例証となっている。開発者たちは、生存や社会的地位のためではなく、純粋な楽しみのために貢献し、結果として革新的なソフトウェアを生み出している。
この法則は、現代社会における幸福と成功の再定義を促している。単なる生存や社会的成功を超えて、個人の内面的な満足や創造的活動の重要性を強調している。これは、持続可能な社会発展と個人の幸福追求の両立を示唆するものである。
若き頃のリーナスは、人生の意味について、ある種の確信を持っていた。だから著書ではこの理論について最初に述べていたというわけである。