2024-09-01

2024/08/31

 ひとつノートの中に自分精神を集約するという考えがしばしば私の心を捉える。私の注意力は散漫であり、精神活動の成果をただ生活の諸場面に撒き散らして終わってしまう。だがそれを一か所に押しとどめることができれば、そこに何か、私の精神の輝きと呼べるようなものが見えてくるのではないか、と期待するのである

 私という薄ぼんやりした光は集光レンズ必要としている。

 瞑想がその役割果たしてくれればよいのにと思う。だがこうして左手文章を書くことのほうが、はるかに強く光を集める。(注:この文章は紙のノート利き手でない手で書いた文章を転記したものである

 瞑想によって心を集中させるには、私は自分に甘すぎるのかもしれない。単にコツが掴めていないだけかもしれないが。

 これから自分人生に何一つ希望が持てていない。希望というか、楽しみにしていることがない。またそのような対象ができるとも思えない。というのは、未来において何かが得られることを心待ちにするという心理状態が、もはや私においては不可能と感じられるからだ。

 つまりこういうことだ。手を尽くして欲しいものを掴み取ったとする。すると私は「手を尽くしたのでこれは当然のことだ。起こるべきことが起こっただけだ」と思うだろう。そこには高揚感や達成感はなく、自明疲労感が残されるだけである。では苦労なく手に入れたとしたらどうか。その場合は「ただそのようになっただけだ。私の人生とは関係がない」と思うだろう。

 要するに、私は非常に疲れやすいので、達成の小さな喜びは、達成に至るまでの労力に打ち消されてしまい、かといって単なる幸運自分の手柄とも思えない、ということである

 そもそも達成したい事柄自分にはほとんど存在しないのである物質成功はもはや煩わしいものとなっている。もちろん私は虚栄心にまみれた人間からちょっとした成功でしばしば調子に乗ってしまう。そしてしばらくして我に返り、みじめな気分になるのだ。それは、その時の喜びが、純粋に虚栄心に由来するのであって、自分の本当の望みとは関係ないことを知るからだ。何かが上手くいくたびにそれがわかるのだ。

 この記述自体が虚栄心によるのであって、私は自己認識に失敗している、と思う。

 仮に努力の末に二兆円の資産を得たとしよう(自己認識の上では、別にそれが欲しいわけではないが)。私は喜ぶだろうか?働く必要がなくなり、時間的自由を得られたことを自分ポジティブ評価するだろうとは思う。つまり少し安心するだろうということだ。

 私にとって物質成功とは、物質苦痛を減らす方法に過ぎない。苦痛は少ないに越したことはないが、耐えれば済む話でもある。快適に生きて快適に死んだとして、それをよい人生とは思えない。その意味で、快も苦痛も大差ないと考えている。

 私は異常に理想が高いのだ。あるいは、私の理想は、現代社会一般的なそれとは位相が異なっている。これは宗教的感情である

 もちろん、物質快楽よりも宗教的崇高さのほうが格上だから、と私の虚栄心がささやいているだけという可能性は否めない。というかたぶんそうなのだろう。自分のやる気の無さにもっともらしい説明を与えているだけだ。

 異様な無気力。これだけが真実であるしかしそれが真実であるなら、私の人生の目的が形而上学位相にの存在しうる(しないかもしれないが)、ということもまた真実ではないか

 「無気力治療できる」という通念が、社会物質的傾向を強化しているのだ。物質的傾向というのはここでは精神位相無視する傾向性のことを意味している。「我々に迎合しないのは甘えである。なぜならその手段は常に準備されているのだから」というわけだ。コンサータを飲んで労働にいそしまないのは甘えである

 勇気をもって NO を突き返そう。だがその NO が具体的にどのような形をとるのか分からいから困っている、と言える。出家か?だがこの道も物質世界に吸収されて久しい。

 手書きだと時間がかかる。続きは明日考えよう。

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