はてなキーワード: 合唱とは
ほんとこれ。同感。
Twitterで同じような事言ったら謎のオタ軍団から大量の糞リプ頂戴した。
宮崎事件当時は社会の無理解あっての過激な報道があったのはわかるけど、
ハードコアなオタの性表現って、リョナにせよハイエースにせよ今でも世間の理解は得られないよ。
例えば、知るかバカうどんあたりが世に知られたらどうなるか、想像ぐらいつくよね?
一般向け深夜アニメだって、自主規制しているとはいえ相当なもんだよ?
それをわきまえて、部屋でひっそり楽しむ程度なら何も文句言わんわ。
そんなアングラな人達がネットで大団結して一斉に被害妄想に駆られて自己弁護、マスコミ叩きの大合唱をしたら
大半が大人しくても一部の暴走してるオタが居たら、偏見の目で見られても仕方なくない?
オタのマナーも悪化してるし、今は特にネットでもリアルでも群れてバカやらかしまくってるから
公序良俗に反するお仲間を咎めようともしない、ド腐れだらけのコミュニティだし。
とにかくオタの被害妄想からの自己弁護、マスコミ叩き、諸々の過剰反応は病的だなと思いました。
これから書くのは私の主観であり、本人達の意向は知らないし、知る気もないただの新規の戯れ言です。ただ言いたかっただけ。
キラキラして、ギラギラして、てっぺん取るって京セラドームで泣いたあの日から1年半くらい経ちました。てっぺんには近付いたのかな。
私には遠ざかったように見えます。
ツアーの途中でこんなこと言うの違うとは思うけど、でももう耐えきれなくない?私だけ?そんなことないよね?
まず初めに。
変な噂を抜きにしても、どう考えてもやる気が感じられない。仲良し小好しで全国回って地方は旅行気分でヘラヘラやってるようにしか見えない。横浜と関西とその他地域の格差が酷い。
みんな言ってるけど、横浜の扱いは何なの?ツアーの初日は各種取材がいるからちゃんとやるけど、残り6公演はへろへろになってこなしてるだけ。何が楽しいの?東京Jrが付いてくれて、明らかにどう考えてもダンスはバックの方が踊っててしかも上手い。たった7公演のために振りも立ち位置も全部覚えてくれただけでも感謝するべきなのに、その子達よりもどう見ても手を抜いてる。デビューしたから偉いとでも思ってるのかな?
「開演前歌えよ?」問題
これ批判派多いのは皆さんご存知かと思いますが、開演前のアナウンス聞いてる?聞いてないよね?お姉さんが携帯の電源切ってとか言ってるやつ。聞きなれて聞いてない人もたくさんいるけだろうけど、あれだって大切な音なんだと思う。
それをかき消すかのように歌うことに意義はありますか?
自発的に歌ってくれてる、とかテレビで言って半強制的に「歌うよな?」って圧かけてるよね。実際歌ってるのなんて、半分も満たない10代の子くらい。
歌うことは強制することではないと私は思います。24コンの開演前、ええじゃないかが流れて口ずさんでたら音が揃っちゃった、みたいに自然と起きるからこそ特別で価値のあるものなんじゃないかなと、少なからず私は思います。
他のグループでもオーラスでトリプル前に自然と歌いだしたりはあるから、合唱自体に異議を立てたい訳では無いんです。それを"強制すること"に異議がある。
君らやる気なくない?
お金払ってこっちは見に行ってんのに、雑誌で平然と手抜き発言。歌番組で歌詞は間違える。間違えたり事故ったりすると笑って歌わない。おふざけ曲と勝手に決め込んで全く歌わない曲もある。
何を考えてるの????って感じです。
別に間違えるなとか音外すなとか言ってるわけじゃないです。そんなの仕方ないし。それを改善しようとしないことに物申したい。
歌詞は作詞家の方が、振り付けは振り付け師さんが、全部誰かの手で作ってもらったものなのに、当たり前のように歌わない、踊らない、踊っても手抜いて揃える気もない、上手くなろうという気概が見えない。
ツアーの終盤になっても音外し続けてるのどう考えてもおかしいと思わないのかなあ。ボイトレ行く暇もないほど忙しいの?
メンバーが振付したのに、サングラスで辛い顔隠したり、明らかに体がついていかないのは体力が無いからしょうがない?しょうがなくないでしょ、それが仕事なんだから体力くらい付けたらどうなの?そもそも随分休んだあとに踊ってるよね?
この1年でファンが減ったなと思います。Jrに降りた友人が何人いるかわからないくらい。
だって好きになった時に見た「売れてやる!!!」ってギラギラ感が無いんだもん。そんなやっつけで仕事してる人達のことアイドルだとは思えないし、応援したいとも思えない。
下がついにデビューするのにそんなんでいいの?って感じ。
いっそのこと仕事とファンがごっっそり減ったらいいんじゃないかなって思っちゃうくらい。
嫌いになったならファン辞めればいいじゃんって話だけど、私は彼らに売れてほしいと思ってるし、才能が無いとは思ってないから、だからそれを無駄にするのはやめて欲しいって思ってます。
私はそう思うけど、そう思えないようなら「今でもそれなりに売れてるし仕事もあるし困ってないから現状維持で仲良く楽しく可愛い子だけに手振ってればいいや」ってハッキリ言ってほしい。未練も悔いもなくただ嫌いになっておたく辞められるから。
もうすぐ5年。たった5年。まだまだ先は長いよね?まだスタートしたばっかりだよね?
そうかなあ。
7話では新型雪上車を積み込んだり、人数が足りないとかこの計画は無理があるとか、先に立ちはだかる困難を予感させる演出バリバリだったのに、
20代も後半戦に差し掛かり、じわじわと友人の結婚式に呼ばれる回数が増えてきた。僕はというと残念ながらそんな予定は当分立ちそうにないのだが、高校時代や大学時代を共に過ごしてきた友人達がタキシードに着られて愛を誓ったりスピーチしたりしているところを見るとなんだかちょっと居心地が悪くなる一方で、ああ彼は我々を残して大人になったんだなあという尊敬の念も感じるのである。
はじめに断っておくが、僕は断じて結婚式が嫌いではない。むしろ結構好きだ。久しぶりに友人達と会ういい機会になるし、何よりお酒が飲み放題である。しかも飯も大抵美味しい。今まで出席した結婚式はだいたい飯が美味かった。
久しぶりに友人達で集まって美味しい飯を食べながら酒を牛のようにがぶがぶ飲む、この点においては結婚式は超楽しいのだ。
しかし、だ。
どんかに楽しい結婚式でも一瞬にしてテンションが地底深くまで落ちるイベントが中盤に控えている。
ファーストバイトだ。
僕はとにかくあの無駄にでけえスプーンが嫌いなのだ(調べたらビッグスプーンというそのままな名前がついていたが、以下MDS[無駄にでけえスプーン]と表記する)。
今まで出席した結婚式でかなりの確率でMDSが使われていたが、あれは一体どういう会話があって使われることになったのかが理解できない。
学生時代に同じことでケタケタ笑ってた友人達が、なぜMDSを使うことを面白いと思って決断したのかが理解できない。
人は結婚を機に通常より大きいスプーンを使って口の周りを汚すことを面白いと感じるようにでもなるのだろうか。あるいは通常料金だとMDSになり、普通のスプーンを使いたければ10万円ぐらいのオプション料金がかかるのだろうか。それだったら確かに納得がいく。
まあ結局のところだいたいが新婦の趣味なんだろう。一度ファーストバイト中の新郎と目が合ったことがある。俺だってこんなことしたくねえけど分かってくれよ、新郎は確かに目で言っていた。
MDSのダサさを譲歩してまで結婚したい相手がいる、それって素敵なことだと思う。少なくとも今の僕だったら彼女がもしMDSを結婚式で使いたいなんて言った日には買ってきたゼクシィを鍛え上げた筋肉でバラバラに引きちぎり、紙屑となったゼクシィに火をつけ、その周りで三日三晩踊り続けて彼女の気が変わるのを祈るだろう。それを見た彼女はMDSどころか結婚までやめてしまうかもしれない。
新婦が得意げにMDSを出して新郎が苦笑い。それを見て周りは一笑い。司会者の合図で「あーん」の合唱をして最後に新郎の口の周りについたクリームを新婦が拭いている間、僕はいつも天を仰いで無駄になったクリームと、大人になった新郎に思いを馳せている。
(https://anond.hatelabo.jp/20180322081336 からの続き)
めぐっちゃんと、「南極行きの荷物整理中に見つけためぐっちゃんのゲーム」を「(昔は2人でプレイしていたのに)キマリが一人だけでプレイ」しながら「めぐっちゃんの知らない、キマリの友達」の話をするという流れが端的にめぐっちゃんの心境を表している。めぐっちゃんの心境は各話で少しずつ描かれているが、ここで一気に「めぐっちゃん…」ってなる非常に強烈なシーン。
めぐっちゃんがキマリにすべてを打ち明けるシーン。以下自分語り。
私には小学生時代に知り合った友人がいた。友人はきっかけはよく覚えていないが、小学校高学年になる頃にはほぼ毎日一緒にいたと思う。ただ友人は変に気の強い性格だったのか、私が他の子と遊んでいると鬼のような形相ですっ飛んできて私をそこから連れ出そうとしたり、一人にされることを極端に嫌がったりした。それに振り回されるうち、私は一日中その友人とセットで行動するようになり、中学生になる頃にはその子以外と一切遊ばなくなっていた。
私が当時その状況に甘んじていたのは、一つは友人といて楽しかったと思ってたから。友人はいろんなゲームや漫画のある家庭に育ったので、友人の家に行けばわりと満たされたからだ。そして二つ目は、私が友人から距離を置こうとすると全力で拒否するようになったからだ(暴力込み)。はじめのうちは喧嘩もしたけれど、そのうち「あまりに近くなりすぎないよう距離を置きつつも、概ね抵抗せず、常に機嫌を伺う」というぬるま湯に浸かる術を身につけた私達の仲は、大学時代まで続いた。
その当時の心境を端的に言うと「友人には私が必要だが、私はそうでもない。でも友人から得られるものもある。適度に利用しながら、距離をとっていこう」みたいな感じだった。
別々の地方大学に進学したあとはコミュニケーションを取る頻度が劇的に落ちた。たまに友人からヒステリじみたメール等が飛んできたけれど、物理的な距離のおかげで友人の拘束から逃れることが出来た。そして一人になって初めて、孤独というものを強く思い知らされた。サークルに入っても上手く人に合わせられない。ワイワイする方法がわからない。大学生同士の話題についていけない。同じ趣味の人を見つけることが出来ない。何もかもが上手くいかない。そしてその悩みを共有する相手がいない。本当に空虚だった。案外、友人を縛り付けていたのは私だったのかもしれないな、と今は思っている。結局友人とは音信不通になった。
だから、面と向かってキマリがめぐっちゃんにこの話をしたのはキマリの鋼メンタルを物語ってる。言わば「いっつも面倒見てくれて、それにずっと甘えてきたけれど、もうやめにしよう」とめぐっちゃんを突っぱねたんだから。「いつも面倒かけて申し訳ないから…云々」という消極的な理由ではなく「ゲームの相手になれるくらい」の関係を築きたいというキマリの想いは絶交を宣言しためぐっちゃんと対照的なのだけれど、どっちの気持ちも分かる。私がずっと抜け出そうとしなかった不幸のぬるま湯に、めぐっちゃんもキマリも気づくことが出来て、しかもそこから抜け出そうと一歩を踏み出したのだから。私には二人が眩しく見えた。
でも一方、5話におけるライティング演出が二人の「ここではない、どこかへ」という勇気について非対称性を感じさせる。簡単に言ってキマリ=陽 めぐっちゃん=影 なのだけれど、出発のシーンでは
「絶交無効」…陽
となっていて、「友達と4人で」一歩を踏み出すキマリの明るい予感と、「そうではない(一人で)」一歩を踏み出すめぐっちゃんの暗い予感という対比に見えた。私自身めぐっちゃんルートだったから、最後にキマリが絶交無効したシーンで二人に陽が当たる演出は、「めぐっちゃんにキマリは必要」であることを肯定的に描いてて本当に好き。そう考えると、5話におけるライティング演出の狙いはすべてこの「絶交無効」に収束している気がする。
19:00頃~
日本編と航海編をつなぐ回。シンガポールのメジャーな建物が現地民も納得のハイクオリティで描かれていて、めっちゃ行きたくなる。本作における聖地巡礼は、館林(群馬)→歌舞伎町(新宿)→極地研(立川)→シンガポール→フリーマントル(オーストラリア)が無難か。
キマリ&ゆづの部屋と報瀬&ひなたの部屋でダボーベッドの広さが異なって見える(報瀬ひなた部屋のベッドの方が距離を感じる)。計測したらどっちもほぼ2m幅になっていたので、2組それぞれの心の距離に差があることを非常にうまく対比している、すっげえ大好きなシーン。
無理ーってなってる日向を、自分のわがままで引き止める報瀬。このやり取りは、3話で報瀬が自身の性格について自己嫌悪していた時、日向が「思いの強さとわがままは紙一重である」とアドバイスするとても尊いシーンと対になっている。あのとき日向が報瀬のパーソナリティを肯定したからこそ報瀬が成長し、その結果として6話があるのだと考えるとこんなに幸せな話は他にない。
シンガポールの街並みを見ながらそこに住む人々の生活に思いを馳せ、
同時に過去(日本での生活)を思い出しつつ未来(人々の生活が存在しない大陸)を暗示させる印象的なシーン。
19:35頃 ビジネスクラスのチケットを持ってムッフーなってるキマリ
前回の観測船→今回の観測船の対比(減ったトラックや物資、前回は多くの取材陣に囲われていた隊長、前回は一緒だった貴子)
アバンだけで「観測隊の船出が順風満帆ではないこと、また隊長、かなえ、貴子の関係」を回想と現実の対比によって簡潔に表している。
本作を支える「緻密な取材に基づく描写」がこの辺りから本領発揮する。砕氷艦報瀬の内部構造がしっかり描かれていて、話の内容関係なく観てて楽しい。
ここまでの伏線として「先行き不透明」とか「カネがない」とか「南極ってめっちゃ過酷やねんで」等重大な問題が示唆されているのだけれど、それに対して「一発逆転(一攫千金)の方法」とか「やってみなきゃわかんない」等の非現実的な展開によって解決せず、「これから先いろんな困難が待ち受けている」のではなく「いろんな困難があったけれど、強い覚悟で3年間戦ってきたからこその今がある」っていうもう一つのドラマとして丁寧に大人組を描いていて、主人公の4人よりむしろ大人組に感情移入してしまった。隊長の「この船は、そういう船」っていう言葉で胸がいっぱいになる。
だからこそ、その観測隊員の前で自己紹介をするキマリ、ゆづ、ひなたの晴れやかな顔を見ると「ああ、この子たちはそれでも主人公なんだな」って感じさせるくらいのドラマがあったことを思い出す。大好き。
ここまで「南極にとらわれているお姫様」という舞台装置でしかなかった貴子の「星を見る船を率いていた一人」という側面を知ったことで、報瀬が抱く(手放しで仲間と呼べない)観測隊への複雑な想いが伝わってくるし、自己紹介のとき「小淵沢…報瀬です…」という言い方からも彼女にとって、そして隊員たちにとっての「小淵沢」という姓の重さが伝わってくる。だからこそ、敵or仲間相手じゃないと普通に喋れないポンコツ報瀬が(日向のフォローもあって)あのセリフを言えたことは彼女の成長を強く感じさせたし、「報瀬のコールに応える隊員たち」というシーンだけで、セリフもない隊員達含む全員の想いを完璧に描いた演出は控えめに言って最高すぎる。
8:40頃 物資を運ぶのが大変すぎて、疲労のあまり原型を失ったキマリ
氷海域へ到達!波濤を進む砕氷船「しらせ」での艦内生活【南極観測隊シェフ青堀力の南極紀行2】 https://serai.jp/tour/141947
船内のシーンでは声の反響がシチュエーションごとに異なっていて、反響を聞き分けるだけでその部屋の大きささえもわかるくらい細かい。
「特に荒波に揉まれる砕氷艦の船内」の音がすごい。どうやって作ってるんだろ
キマリの前髪という話題に触れるのは8話が初めてであり、言ってみれば「主人公のキャラデザ(キービジュアル)に個性的な伏線を張り、それを8話まで引っ張る」というマネをしている。「なんやこのキャラ、あんま可愛くないやんけ」って思われたらどうしようとかそういう不安をぶっ飛ばすストロングスタイルな戦略である。前髪の理由を聞いて「あー、だから・・・」って思った私は見事術中にハマっていたらしい。キャラデザ最高かよ。
Bパート以降ずっと画面がゆらゆらしている。公式ラジオでキマリの中の人こと水瀬いのりが「アフレコの時ずっと見てて軽く酔った」と言っていて、たしかに大きい画面で観ると結構きつい。むしろそういう効果を狙った演出だったら笑う。
大人の一人として扱われ、荒波に揉まれる(物理)姿は新社会人を思い出す。観測隊としてやっていくためにはもっと多くのことを出来るようにならなければダメだし、そこに「やる、やらない」という選択肢はなくて、ただ与えられる業務を淡々とこなすことが求められるのも社会人の一つの形なのかもしれない。そしてそういう姿に青春は宿らない。「宝石の国」(2017)12話のフォスフォフィライトを「入社3ヶ月目の俺」と評した人がいたけれど、この4人ももしかして…と思わせるような心境が「頑張るしか無いでしょ…他に選択肢はないんだから」という報瀬のセリフによって描かれている。
これと対になっているのが4話ラストのシーンで、4人が観測隊(あるいは報瀬の旅)についていくのではなく、「みんなで南極に行く」という覚悟が対になっている。だからこそキマリの「この旅が終わった時にはぜったいにそう思ってるもん!」はその鋼メンタルに痺れたし、その後4人のやらかす姿は相変わらず青春しててめちゃくちゃ眩しかった(夜なのにね)。また4人が水平線に流氷を見つけた時の顔は出港時の4人と全く同じ構図になっていて、彼女たちの「変わらなさ」を象徴している気がした。
南極の大変さにビビってたキマリたちがかなえさんに昔の観測隊が何度も何度も南極に挑み続けた話を聞いて、あるいは同じ話を幼い報瀬に話していた吟隊長、そして今の報瀬が砕氷艦のラミングを繰り返す姿に「行け!」って前のめりになっている姿がすごく良い。時代を超えてそれぞれに受け継がれてきた魂のようなもの(作中では「吟の魂」と表現されててかっこいい)の強さがラミングしながら進む砕氷艦の勇ましさや音響とシンクロしてて、控えめに言って最高。
あと、「吟の魂」がなかった3人組は吟と想いを共にする隊員たちより縄跳びが下手で、一方それを幼少期に受け継いだ報瀬は縄跳びがうまいっていう文脈良いよね。そういう意味で3話Cパートの「貴子と、縄跳びを手に持つ報瀬の写真(撮影者はおそらく隊長)を手に持つ隊長」のシーンは非常に印象的。なお現実の観測隊でも縄跳び大会があるみたい(娯楽大会と称して、アウトドア競技やインドア競技で盛り上がるらしい)。
「その貴子はもういないのよ」というかなえのセリフが刺さる。吟は強い信念を持って前回の南極観測に挑んだ結果貴子を失ったことを非常に悔やんでいたし、加えて報瀬を強く傷つけた。しかも自分の信念をロリ報瀬が受け継いだからこそ今の報瀬は母の亡霊と決別するために、あろうことか「宇宙よりも遠い場所」を目指しちゃって、しかも成功しちゃって今目の前にいるというのは吟のカルマそのもので、もはや「自分のせいで報瀬の人生めちゃくちゃ」なのか「報瀬は報瀬なりに一歩を踏み出す勇気を持った子に育ってくれた」のか分からないよね。両方か。そのくせ自分は過去に囚われてるままだし。ラミング→貴子の回想っていう構成で胸がいっぱいになる。
だからこそ最後の「ざまーみろ!」を最初に報瀬が言う演出は最高だった。おまけに大合唱だし。泣くやんあんなの
ラミング(2回め)の氷が割れる音がすごいので、ぜひ爆音で聞いてほしい。あと氷にまつわる音で思い出すのは「宝石の国」(2017)7話の流氷の音。あっちもすごい。
11:55頃 甲板で会話する報瀬と隊長の二人を、下からこっそり見守るキマリのアホ顔
南極のあらゆるシーンで息が白くない。これは気温が低くても息が白くならないリアル南極の仕様を再現してるのだけれど、「白い息を描かない」ことで「ここが南極であることを再認識させられる」っていうのがなんか良い。
「ヘリの音がうるさくて会話が聞こえない」というシチュエーションをアニメで表現しているところを見ないのだけれど(当たり前か)、このシーンはガチでヘリの音がうるさくて好き。ぜひフラットな出力の(人の声を強調しない)スピーカーで大音量にして聴いてほしい。
朝の「ご安全に」、ついつい復唱したくなる。あのシーンだけで「この基地においては隊員たちがああやって生活している姿がメイン」であることを再認識させられる。南極だから彼らが毎日特別なことをやっているわけではないんだよ、というメッセージになってて好き。
「友達とはなんぞや」という話を中心に、それぞれのキャラクターを描く回。10話から本格的に基地での活動や生活を中心とした物語になる関係上それぞれのキャラクターが「友達とは」に言及する尺が結構短い。なのにすごく説得力があるのは、うまくこれまでの物語で彼女たちの心を描いてきたからこそだなぁ、と感じる。
ゆづが「友達誓約書」を出してきて、もしこれが3話とか4話だったらただの笑い話なのだけれど、あれから7ヶ月も一緒だったからこそ3人が曇った顔をしていた気持ちもわかるし、5話があるからキマリが泣いちゃう気持ちがわかるし、一方笑顔でめぐっちゃんの話をするキマリを見てると胸がいっぱいになるし、1話やカーチャンのことがあるから報瀬の友達論は重みがあるし、6話があるから日向が「友達って」をうまく説明できないのが辛い。そして何より、3話で自分から「友達になりませんか!」という宣言とともに獲得した2人の友達(察しのいいゆづならきっとその2人がなんで友達になってくれたのか分かるはずなのに)にすごくこだわっていたゆづ故の「友達誓約書」って思うと、すごく切ない。だって7ヶ月間ずっと待ってたんだぜ?友達宣言。
大好きなのは日向と報瀬がゆづを励ますパーシャル丼のシーン。BGMが3話等の挿入歌「ハルカトオク」のアレンジになっている。BGM聴いただけで「なんて温かいシーンなんだろう」って思わせるくらい優しい空間になっていて、(ゆづの悩みとは裏腹に)明るい予感に満ちている。メッチャ好き。
現代風の表現を用いる時の問題として、時代の変化によってその意味が変質したりするという点がある。これは意図して変質を招くことは少なくて、大抵は無自覚に発生する問題である(ex,宇多田ヒカル”Automatic”の歌詞に出てくる「受話器」)。今作で言えばSNSアプリでのやり取り。もしSNSがポケベルと同じ運命をたどった時、その未来においてこの作品の意図はどれくらい伝わるんだろうか…と心配になるのだけれど、10話の18:30頃において、「既読が付くこと」を「”ピッ”って、読んだよーってサインが付いたり」と表現していて、思わず「おおっ」ってなった。現代風に言うなら「既読スルーしてやんの」とか言いそうな所だけれど(キマリは言わないけど)、「”ピッ”って、読んだよーってサインが付いたり」という言い方は向こう20年くらいは伝わる表現なんじゃないだろうか。風化しにくい表現を選んだ、と言う意図があるかどうかは分からないけれど、すごく好きな表現だ。
ある界隈では口にした瞬間にその場の全員から石もて追われ二度とその界隈の住人とは見做されなくなる恐ろしいワードである。うっかり口にしようものなら村八分確定であり、女性同性愛者を意味するスラングを気軽に口にするポリコレ意識のあまり高くない人たちからもぶっ叩かれる究極のポリティカルインコレクトネスである。だが、以前うっかりこの言葉を使ってしまいフォロワーさんから非難の大合唱を浴びた人間として、少々自己弁護を口にしてみたくもなる。
私たちが見たいのは関係性である。しかし関係性が好きならBLだろうが百合だろうが区別なく摂取すればいいのに何故百合ばかりを求めるのか、と言われればそれはイケメンの男の子よりも可愛い女の子が好きだからである。いやイケメンの男の子も嫌いではないし同性としてこいつ性的魅力にあふれてんなとは思うが性的対象ではないのである。これは逆側もそうではないのか。BLを嗜まれるお姉さま方のけっこうな割合はヘテロセクシュアルであろう。関係性を楽しむとき、そこには当然に性的視線が介在している。
そしてその関係性には強弱がある。あるのである。一部の妄想力や発想力の逞しい方々は公式で何も会話していないキャラ同士の絡みを公式設定であるかのように信じて邁進することができるらしいのだが、公式から理由も分らずに押付けられたカップリングを大人しく受取って、理由も分らずに消費して行くのが、我々凡夫のさだめだ。とにかく、公式で「あっこれはガチで女の子にしか興味ありませんわ。そして両思いですわ」というキャラやカップリングもいれば(あーなたのうーたにーわたーしのーハーモニーかさーねてー♪)、「友達でも通用するし、男とくっついても違和感がないけど、でも××ちゃんと○○ちゃんが仲良くしてるのはいいなぁ……」という根拠薄弱なカップリングもあるのである。あるったらある。強いカップリングと弱いカップリングはありまぁす! 電磁カップリングとか重カップリングとかがあるのかどうかは知らない。
その弱々しい関係性の芽を大輪の百合の花に育てきるのが一流の同人作家だったりオタクだったりするわけだが、我々貧困な想像力しか持たぬ凡夫は惑うのである。あれ? この子とこの男友達って、いい感じじゃね……? などとヘテロフィルターがかかってしまうのである。大吉山で白ワンピ着て楽器吹いてイチャイチャしてたと思ったら普通に原作で男と付き合っていたりするのであり、では公式で否定されたから百合ではないのかと言われるとでもやっぱりこのふたりの関係性とか姉との繋がりとか眼鏡の先輩との絡みとかも恋愛感情に発展させていきたいよぉ! と二次創作がマルチバースであるのをいいことに色々な世界線をアラカルトでつまみ食いしたくなるのだ。凡夫は往々にして雑食になる。EMTEMTと言って天使と男が性交する薄いブックを購入することと天使とお姉ちゃんが百合百合する同人誌に手を伸ばすこととのあいだに特に矛盾はないのである。
この傾向に、最近の若い者がハマっている「そしゃげえ」というものが拍車をかける。これらのゲームではキャラクタはプレイヤーに向かって話かけてくる。そしてそうプログラムされているから当然なのであるが、彼女たちは同じゲームの女性キャラと仲良くするのと同時に、まるでプレイヤーに好意的であるかのような振る舞いを見せるのである。likeの範疇に留まっていればいいのだがどう見てもloveにしか見えない場合もあるし妄想力を働かせるとloveに聞こえてきたりもするし、一方では他のキャラとイチャコラしていたりするのだ。もー体触るのやめてよー。つまるところそこに現出するのは、「○○ちゃんが男とくっついていても女とくっついていてもどちらも公式設定として通用してしまいそうな世界」なのである。
そして頭の悪いオタクはマルチバースを統一するのが大好きである。某アイドルアニメにおいて赤髪ツンデレな医者のご令嬢のカップリング相手は小柄ツインテにっこにっこにーな上級生もしくは猫語尾の体育会系アホの子と相場が決まっているのだが、「あれ……? にこまき前提のりんまき、いいのでは……?」などと閃いてしまうのであり、これはりんまきに失恋モチーフの同人漫画が多いことからも容易に察せられる宇宙の真理なのである。秘めた恋心を自覚したときには既にふたりがにっこにっこにー(隠語)していたので恋を自覚するのと同時に失恋を味わい部屋でひとりで泣くCV飯田里穂のキャラはいて、それは間違いないこの世の真実なのだが、ともかくそういう風にマルチバースを統一したがるオタクの眼の前に「自分(プレイヤー)を好いている××」「別の○○ちゃんとイチャついている××」の2つの道筋が示されたらどうなるだろうか。加えて○○ちゃんの方も私に好意的な態度を取ってくれているのだ。
そう、「混ざりたい」のである。ようやくこの表題に辿りつけた。別々の世界線のままにしておくのもそれはそれで良いし、現に私は提督LOVE合同誌もBig Northな薄い本も持っているので、別々のままにしておいてもよいのだが、混ぜたくなるのである(はいここダブルミーニングです。テストに出ます)。自分と○○ちゃんの双方に好意を持っている××でいいじゃないか、という解釈を見つけ出してしまうのである。
「そういうのは『ハーレム』でいいじゃん」と言われるかもしれないが、ハーレムはそこに集められた女性同士の関係が良好であることを保証しない。極端な話どこぞの王侯貴族が作るハーレムなら同じハーレムの一員と一度も口を利かずに終わることもありうるだろう。そういうのも悪くはない、いやこれは欺瞞なのではっきり言うとある種の夢ではあるのだが、そういうのが見たければ素直にハーレムものを読みに行く。私はジェンガ艦橋を持つ姉妹がお互いに愛し合いながら私にもその愛情の一端を向けてくれる世界を妄想しているのである。私と彼女との関係だけが重要なのではなく、彼女ともうひとりとの関係性も尊いと思っているのであり、そのふたつの関係性をひとつの世界で縒り合わせようとした時に貧弱な発想と乏しい語彙を絞り出した結果として出力されるのが、忌み語として名高いかの5文字なのである。
この呪われし文字列は今や百合好きのあいだでの共通の敵となっており、普段はカップリング論争を繰り広げる諸氏もこの言葉が発せられた瞬間に一致団結するという驚異的な接着力なのでDIYに役立ちそうな語なのだが、発する側としてもそれなりに理屈があって言っているのである。しかし、ここまで摩擦を生む語である以上、「百合」とは棲み分けた方がいいという意見にも一理あろう。この5文字を聞いた瞬間に親を殺されたかのごとく怒り狂う人びとも、別にこのような関係性への志向を理解できないわけではなく、単にそれを「百合」と名指されたくないだけなのであろうから、共存はできるだろう。ただ私の中でそれらは連続的なもので、簡単に切り離したりできないんだよ、ということは伝えておきたかった。
当たり前であるが、上で述べた理屈は現実の女性同性愛者あるいは両性愛者のカップルに向けて「俺も混ぜろよ」と発言することを肯定するものではない。あくまで紙とJPEGで表示される女性のことを言っている(もちろんこの言明は、現実に女性2人男性1人で構成される愛のあり方を否定するものでもない)。また、そのような消費態度が現実の同性愛者に対して搾取的である、と言われるかもしれないし、実際に女性同性愛者の表象を簒奪しているという議論も成り立たないわけではないかもしれないが、バイセクシュアルやポリガミーのことを考えれば、男が混ざろうとするのはおかしいというのも別種の抑圧に与することになりはしないかという危惧はある(シスヘテロ男性が言っても説得力がないと言われたらまったくその通りであり、反論できない)。
あと、“男性向け”百合と“女性向け”百合を分けようっていうのは、私はあまり賛同しない。薔薇とBLは棲み分けているというが、近年腐男子という存在がそれなりに登場するようになっており、その中には男性同性愛者も一定数いると聞く。彼らにとって薔薇/BLという壁は窮屈なものなのではないか。というか百合好き男性の界隈で好評を博す作品にはプラトニックな作品が多く(私も好きだ。新米姉妹の部屋の居間に置かれた時計になりたい……)、女性の百合好きに好まれる作品とどのくらい違いがあるかというと、正直あまり違いがあるようには見えない。だったら無理に分ける必要もないように思う。“男性向け”百合と“女性向け”百合とのあいだに強固な壁はなく、なんとはなしのグラデーションの中で共存しているのだから、あえて「こちら」と「そちら」に分ける意味もあるまい。性描写の有無はR-18シール貼ればいいわけで。というか性描写で区切ろうとすると「百合とレズは違う!」とか言い出して「清らかな女の子同士の百合」と「レズ」を切断してレズビアン差別に加担する百合好きが出てくるというお排泄物みたいな現状があるからそこで区切るのは害が大きい。腐女子の“学級会”はよく揶揄されるけど、ほんと百合界隈もたまにはちゃんと“学級会”する必要があるんじゃないかと思うよ。
なんの話かというと、型月厨のお前らロード・エルメロイII世の事件簿読めよ、イスカンダル大好きなウェイバーちゃんマジ尊すぎんぞ、という話でした。というかあの作品はグレイちゃんが師匠に向ける思いも尊すぎてミステリ部分はガバガバだけど人間関係部分は尊さの塊なんや……
murishinai 「混ざりたい」だと、すでに成立してるカップル双方の思いを無視して割り込む感じがあるので良くない。この増田はポリアモリー的な物を目指してあるのであるから、もっと別の表現を探して使うべきだ。
なるほど「混ざりたい」への違和感の原因はそこだったのか! と目ウロコ。確かに日本語の語感としてはそうですね。
jet-ninjin 女性向けの夢にあたる概念は男性向けでは何て言うのかな。オリキャラ女主はよく見るが男性向けでオリキャラ男主ニーズあるのかな…。
というか、女性向けと違って男性向けでは所謂「夢」がデフォルトなので特別な名前がついてないという事情があるような(デフォルト、というのは実際の頒布数に占める割合ということではなく、「男性向け同人誌」と言ってパッと思い浮かぶのが百合じゃなくて女性キャラと男性がイチャコラしてる本、みたいな、イメージの問題です)。男性向けのえっちな本の多数派は百合ではなく(もちろん百合もありますが)女性キャラと男性(もちろん既存キャラである場合も多いですけど――キョン!AVを撮るわよ!――モブおじさんとか整備員とか用務員とかの所謂「竿役」はオリキャラのことが多いんじゃないかなと)がえっちなことをする本であったりするわけで、男性向けでの「俺の嫁」は文字通りの「俺の嫁」なのです。
seachel 長くてよく分からんけど夢女子と腐女子兼ねてる子は女にもよくいるので、自分自身すらマルチバースと捉えたらいいのでは? Aカプを愛でる増田、Bカプを愛する増田、夢男子の増田…みたいな切り替え方式。
この切り替えというのが難物というのはあるかもしれないですね。私にとってそれは全部連続性を持ったただひとつの私で、はぁこのカプ尊い同居してる部屋の目覚まし時計になりたい……という私と○○ちゃんとイチャラブしたい私というのはあくまでグラデーションの両端でしかなく、その真ん中を厳密に切り分けるのはなかなか難しいのですが、切り分けていかないとムラハチを食らうしこんなこと言ってる私も鶴賀学園の主将と副将に混ざりたいとか言われたらイラッとするので(ザ・自己中の極み)、場の空気を読んで穏便に使い分けて生きていきたいなと思いました。