はてなキーワード: 単身赴任とは
誰しもが、普通に生きてて「この問題さえ無ければ」っていうのあると思うんだけど。自分は少なくともあって。
僕はそれがひどいアレルギーなんだよね。
厄介なのが目に見える症状がアトピーくらいしかないんだけど、なんか普段から人より体力・余裕半分くらいなイメージ。
休日も無気力にこたつから出れないとか部屋が散らかりまくってるとか、人を誘ってご飯とか行きたいけど何もしてないのに疲れた顔してたら迷惑させちゃうんじゃないかって思っちゃう。
最近は良いアレルギー科にかかっててマシになってきた。(その代わり副作用か太ってきた)
みんなの課題は何?
ちなみに上司は単身赴任って言ってたけど、比較してしまうとそんなもん??って思ってしまうよね
各位吐き出して上手く社会をやっていこうな
夫婦で京都の岡崎神社に行ってきた。ご利益は子授かり、安産。妊活中の自分のために子授お守りを、不妊治療中の友人のためにもお守りを買った。
夫は単身赴任中で機会は少ない。土日にしか会えないのに排卵日が3日くらいズレて平日に来てなんでだよ!?と思ったらそれが当たった。後で調べたら排卵日2日前がいちばん妊娠しやすいらしい。結果としてドンピシャになったわけだ。前日とか当日がベストなのかと思ってた。排卵日はどうせコントロールできないのでろくに調べていなかったのですごく驚いた。
不妊治療中の友人もなんかうまくいった。これまでの試行でうまくいかなかったのでこれまでのお守りとか全部捨てて、岡崎神社のだけ持っていったら初めて成功していたという。
ふと物心ついた頃から母方の祖母と母の仲がものすごく良いです。私が幼稚園くらいの頃からよく私を置いて二人で旅行へ出かけたりしていました。それ以外の時にも祖母と母がほぼ一緒で子供の頃はあまり行事に来てもらえず今では祖母が家を汚したり食べて無くなったものを帰ってきた母が私のせいにします。仕事で日中私が居なくてもです。
おそらく共依存だと思っています。父は単身赴任で年末に帰ってくるのですが昔から物を投げたり軽い暴力を振るわれているのでこう言ったことの相談先が分からず住んでいる地方の女性向けシェルターに事情を説明しお金を少し貯める間だけ住ませて欲しいとメールをしましたが私に問題があるんだと思います、返信は来ませんでした。同じような悩みを持つ方の相談サイト(発言小町など)を読んで気を紛らわしている日々です。今日は久しぶりに仕事が休みだけれど祖母がまた暴れて疲れました。
祖母の事を私のせいにされ否定しても嘘扱いされ続けてもう疲れました。私自身持病があり長時間働けないものの実家を脱出するために貯金をしていますがどうしても耐えられなくて吐き出せる先が無くてここに愚痴らせてください。長々と乱文申し訳ございません。ここまで読んでくださった方がもしもいたならありがとうございます。お目汚し失礼致しました。
若い独身者はともかく、子供産むと夜勤出来ないからと辞めていく(個人クリニックとかの平日日中だけで済む職場に移る)看護師は山ほどいる。
それでも何とか保ってるのは、言っちゃ悪いが看護師が医師ほどの長いキャリアを必要としない
(6年教育の医学部と違って3~4年の教育で養成でき、新卒数年くらいで一人前扱いになれる)仕事である事や、
最初から女性の仕事として、一定数子供産んで辞める事を見越した人数が育成されている事(だから潜在看護師が山ほどいて復職促してるけどな)
があるからだよ。
男医なら僻地勤務強要されても医局に逆らうと出世出来なくなるからと渋々引き受けて、子供を妻に丸投げして単身赴任する人が一定数いるけど
(医局の力が弱まった今ではそういうのは減りつつあるけど、いない事はない)
子持ちの女医でそれはほぼいない。
女医だと子供を夫に丸投げ単身赴任という訳にいかなくて、自分が子連れ転勤するしかないし
医師になるくらいだから皆教育熱心なのに、子供に僻地の遅れた教育なんか受けさせたがらないからね。
子供が受験して私立に入ってたりするのに、それ辞めさせて田舎の公立校なんか行かせられないでしょ。
知り合いにいたら聞いてみ。
タイトル通り、私の友人はキャバクラで働き大学の学費を稼いでいる。
友人の名前をミカとしよう。ミカは今年の3月にバイトで知り合った友人で、大学2年生だ。誰もが振り返る、超絶ウルトラパーフェクトビューティーでキュートな女の子。
最初、ミカは心の壁が分厚かった。同い年なのに敬語を使ってくるし、やたら自分を卑下してこちらを持ち上げるしで、「絶対こいつ家がやばいな」と察した。
色々と力技を駆使して私はミカの心の壁を破って打ち解けることに成功した。ある日、ミカは私に複雑な家庭事情を打ち明けた。
ミカの家は所謂「機能不全家族」だ。カルト宗教信者の親の下で育ち、彼女は今も、恐らくその洗脳が抜けていない。
ミカの母は高校3年生の頃、癌で亡くなった。亡くなる前から、治療費が高額だから離婚したいだとか家族内で分裂が起こったり多くの問題があって、ミカは治療費を稼ぐために受験生ながらバイトに追われ、その上周りの大人は母親の死後処理なども全て彼女に押し付けた。
そんな中で勉強に集中できるはずもなく、成績は落ち、彼女は望んでいなかった大学へ進学した。
1年目は無利子の奨学金を月5万借り、祖母から残りの学費を援助してもらっていた。しかし家の家賃や自分と弟の生活費、そして母の治療費へ充てた借金を返す為に稼がなければならなかった。父親は単身赴任をしているが稼ぎが良くない。
彼女はキャバクラでバイトをし始めた。大学まで片道2時間かかるから、早朝に家を出て学校へ行き、夜は遅くまでキャバクラで勤務。そして帰宅・・・。
2年生になる前、借金完済の目途が立ったので、キャバクラを辞めた。そしてこのバイトを始めたということだった。
しかし今年の夏、ミカが通っている大学は祖母が進学を反対していた所だったこともあり、祖母はミカへの学費支援を打ち切った。ミカは、自分で学費を稼がねばならなくなり、キャバクラへ戻った。
私とミカが知り合ったバイトは、1年続けることを条件に採用される。だからミカはこのバイトを辞めず週2で入れ、キャバクラでも働き、学校も通い・・・と睡眠時間も休む暇もない日々を送った。
結果、ミカは倒れ、やむを得ない為こちらのバイトは辞め、稼ぎの良いキャバクラを続けることにした。
ミカがバイトをやめた後、私は電話で「キャバクラで夜まで働いて、睡眠時間もままならないまま早朝家を出て・・・って体に負担かけてまで、ストレートで大学卒業することにこだわる必要ある?」と尋ねた。
ミカは「母ちゃんの遺言に、4年制の大学を卒業して欲しいって書いてあったんだ~、今生きる意味、それがすべてって感じだから・・・」と言った。
「家の問題とか、自分を大事にすることを覚えなきゃいけないこととか、痛感したよ。精神科も受診した。大学も4年生になれば楽になるから、あと1年頑張れば大丈夫!」とミカは言う。
お母さんの遺言を守りたいのはわかる。遺言は故人からの最後の贈り物だから、大事にしたい。私も大切な人を亡くしたことがあるからわかる。
それでも、大学を卒業するのは、今じゃなくていいと思うし、私はミカに体を壊すような生活を送って欲しくない。ミカの家族は今までミカを大事にしてこなかったし、それが変わることは正直望めないと思う。
私のエゴだっていうことも、他の家の事情に口は挟めないことも、彼女の意思を尊重するべきであるのは分かる。
でも、長年家族や周囲に洗脳されて、真面目な気質に付け込まれ本来大人が負うべき責任を押し付けられ、間違った自己責任論を信じ込む彼女の意思通りにすることが良い結果につながるだろうか。
弟はまだ中学生だし、ミカは精神病の正式な診断が下っているし、二人とも公的機関によって保護を受ける権利がある。一度休んだって良い、というか休むべき。
それにミカは今までの苦労を鑑みると、どこでだって働いていける。大変だけれど、一旦働いて学費を確保してから通うとか、通信制を利用するとか、方法は他にもあると思う。学費の高い、今の私大に拘る必要もない。
勉強だって、私も自分の勉強に毎日追われているから一緒にするし、家から逃げたければ手段を一緒に考えるし実行を助ける。ご飯ならいくらでも奢る。
私が全て何とかすることができるわけではないし、自分の意見を押し付けるべきではないし、人の人生に介入する権利も、止める権利もない。ミカの人生だからミカ自身で考えて選択することだ。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181120/k10011717631000.html
このニュースを見て、震えるほど悔しくなったので増田に吐き出します。
21世紀を迎えた時、私は高校生でした。翌年、東京の有名私立大学に合格し、来る大学生活にたくさんの夢を乗せて期待に胸を膨らませていました。東京での一人暮らし。誰もが知る有名私立大学の学生として、充実した勉強、素晴らしい友人が私を待っているに違いありません。
その年、父が働いていた工場が閉鎖しました。父は日産系列の工場の社員でした。高校を卒業し、ひたすら真面目に働くだけが取柄だったけど、車と私たち家族が大好きな父でした。別の工場への転勤を打診され、単身赴任で引っ越していきました。
父の給料は増えるどころか減るばかりです。工場も、地元出身者はともかく、よその工場から来た人には冷たく、居心地は悪かったようです。
単身赴任はお金がかかります。有名私立中学に通っていた弟がいたので母は地元に残っていたのですが、弟の高校進学を機に父と同居することになりました。弟は地域の公立高校に進学し、母のパートも辞めざるを得ず、うちの家計が日々苦しくなるのを見守るばかりでした。
2年生の夏、母から電話がありました。「家計が苦しい。学費は出せるけど、仕送りは来月から出せない。」その日から、私のバイトだらけの日々が始まりました。毎日飲食店でのアルバイト、深夜まで働いても数千円、それでも食事代は浮きますし生活は助かります。キラキラした学生生活を送る同級生を脇目に見ながら毎日アルバイト漬けでした。
父は、本体の工場から地域の協力工場に移らされ、給料もさらに切り下げられました。学費も自分で払ってくれ、そう言われたのは3年生になる春でした。もう普通のアルバイトでは払えない額です。はたちも過ぎてましたし、水商売のアルバイトに手を付けざるを得ません。昼は飲食、夜はキャバクラ。でもお金が足りません。講義になんかちっとも出る余裕もなく、時に中年男性に肌を委ねることもしばしばでした。だいたい、私が初めてお付き合い(それをお付き合いと呼ぶのなら)した男性は、水商売で知り合った45歳の中小企業の社長ですから。男性の裏側、汚いところを嫌というほど見せつけられました。
そんなことをしていたら、大学の成績だって散々たるもの、まともな就職はできません。ちょうど就職氷河期、面接官の男性には「○○大学の子には珍しくお水ぽい、うちはそういうのはダメなのね」と言われ、有名企業の面接は全滅。結局、拾ってもらえたのは、何の因果か日産系の中小部品メーカーでした。
でも、それが災いの元。今度は、日産本体によるサプライヤーの整理再編の中、最初に勤めた会社はあっという間に倒産しました。転職しようにも特別なスキルがない私は、そのまま派遣で2~3年おきに企業を渡り歩いています。派遣先の男性に交際を誘われたりしますが、水商売時代の記憶で、どんなに表で良い顔をしていても、裏では何をやっているか想像がつのります。どうしても結婚する気にはなれません。
それでも、父が愛した日産が立派な会社になるのなら、亡き父のことを考えると一縷の救いもあろうかと思ったら、日産のお金は、ゴーンの贅沢に費消されていたとか。
こんなことが許されていいのか。
私の人生だけではなく、同じような話が本当に数万人の身の上に起きたはずなんだ。
こんなことがあっていいのか。
記者会見していた西川社長のつやつやした顔、あれだって同罪だろう?
何かがおかしいよ。
世の中はおかしいよ。
世の中は、弱い人はとことん虐げられるようにできている。
悔しくて震える。
悔しくて涙が止まらない。
ほんとこればっかり言い訳にしたがるけど、
産むのは女にしか出来ないが育てるのは男でも出来るのに男がやりたがらないだけだろ。
だから任せてるだろ嫁に
俺は別に女が過酷な現場や単身赴任、転勤族になりたがらないのを悪いとは思っちゃいないんだ
男は女よりも身体が強い、戦争にも行く、昔から過酷な現場に身を置いている
身体的特性として戦わせるのなら男に任せるし、過酷な現場があるなら男を突っ込む、そういう話をしているんだ
だが平等だの自由だのを訴える連中はこういう部分を極論だと言って聞く耳を持たず、極論と言わない連中は極少例をもって反論した気になり、あまつさえ、いわゆる3K職のことは大抵の場合は無かったことにされる
嫁より稼いでるし嫁より過酷な環境に居ると思ってるし嫁より島国である日本経済支えてる自信あるわ
まぁただ逆に家事も子育ても両親の様子を気にするのも普段からできないし、その点は嫁に任せてるよ
俺は一種の単身赴任の環境であって、その単身赴任にどれだけ日本の女が貢献してるんだ?と思うわ
土建屋では泊まり込みで工事に従事するなんて話をよく聞くし、大型トラックの運ちゃんも四六時中走っていて家に帰れないなんてザラらしいよな
結局、女はデスクワークだったり小売だったり飲食店に務めたがっているわけで、単身赴任やら仕事の環境が過酷な現場には就きたくないんだよな?
そういう部分にわざと目を向けないで、やれ平等だ、やれ自由だっていうのは聞いていて馬鹿らしいよな
最近はやっとほんの少し、ほんの少しだけ女も増えてるとは聞いちゃいるが、じゃあそんなことを俺に脊髄反射のように反論として突きつけようとする連中はどういう環境で働いてらっしゃるのか教えていただきたいなと思うよ
二十代後半で乳がんが見つかった。
乳腺症のひどい胸をしていて、二次性徴が見られるころからずっと胸が痛かった。
二十代半ばをすぎたころから何となく胸全体が柔らかくなった気がしていたけれど、
よく触ると固い部分があるからやっぱり自分の胸はこういう胸なんだと思った。
巨乳にあこがれて、理想はEカップだったけれど、長い間Cカップだった。
がんが見つかる2,3年前に下着屋さんで測ってもらったらDカップになっていた。
Dカップも小さくはない部類だなとのんきに考えてはいたけれど、
しこりが大きくなってきているのは薄々感づいていた。
自然と乳がんの話になり、乳がんは肉まんの中に梅干しのタネが入っているみたいな触り心地らしいよ、と、年上の同期が言った。
肉まんの中に梅干しのタネ入ってるのなんか触ったことないですよね~、と、呑気なフリをしていつもの通りおちゃらけて私は返事した。
実は私の胸にもしこりがあるんですよ~、触ってみます?と、いつも通りの雰囲気で、しかし内心焦って続けた。
胸のしこりは、想像の中にある肉まんの中の梅干しのタネに触り心地がそっくりだった。
彼女たちは触らず、微笑みながら言った。
帰国して約一か月、土曜日にトイレでぼんやりしながら、そういえば、と思い出した。
何となく人気らしい病院を選んだ。院長が講演活動なんかもやっているらしい。
電話がつながったものの、案の定、初めての患者は一か月くらい診てもらえないと応答した女性は言う。
「しこりがあるようなら、うちじゃなくても良いんで、一刻も早く診てもらってください」
あまりにも真剣な声だった。電話で問い合わせただけの相手に言うにはあまりにも真剣だった。
予約がとれなければ面倒だからやめとこう、そう考えていた私に次の病院へ電話をかけさせるには十分すぎる熱量だった。
仕方なく次の病院に連絡をしたら、その日のうちに検査ができた。
マンモグラフィーは痛いものだと健診で受けたことある友人から聞いていた。
それにしても痛すぎるのではないか。
それまでの人生、私は自分が痛みに強いのだと思って生きてきた。根拠があるわけではないのだけれど。
しこりのある胸を挟まれた時、あまりの痛みに体が震えて、冷や汗が出た。
検査技師のお姉さんに肩を抱かれて、一旦休憩しようかとベッドに座らされたときにパニックになりそうだった。
こんなに痛い検査が侵襲性のない検査とされているのがおかしい、どうかしている、
痛みを我慢できなくて恥ずかしい、情けない、あまり働かない脳みそを使ってぼんやり考えた。
しこりの少ない胸を検査された時も痛かった。だけども反対側より随分と楽に思えた。
自分の名前を呼ばれて診察室に入った時に、お医者さんからかけられた第一声は「大丈夫?」だった。
大丈夫ではなかった。血の気が引くとはこういうことをいうのかとしみじみと考えた。
そういう知識は持っていた。普通の会社員として働いてはいるけれど、学校で習った。
エコーでお医者さんが見せてくれたしこりは、もこもこしたクリームパンのような形をしていた。
お医者さんは、難しい顔をしている。モデルのように美しい女医さんだ。
良性の腫瘍の表面はつるりとして、悪性の腫瘍はデコボコしている。
そういうことも学校で習った。
これがもしも何ともなければ、がん保険に入ろう。
だから大丈夫だ、言い聞かせるように胸の中で何度もつぶやいた。
医師の友人に連絡をとった。
友人はマンモグラフィー読影の講習を受けたばかりだから何でも聞いてくれといつになく自信にあふれていて、
エコーがこうで、というと、段々と友人の返信に元気がなくなってきた。
当時、転勤になったばかりで、それまでとは全く別の職種にコンバートされていた。
それまでは暇で仕方なかったのだけれど、打って変わって忙しく
新しい職場は単身赴任のおっさんばかりで、慣れない環境に日々翻弄されるばかりだった。
登録していない番号に胸騒ぎがする。折り返すと病院に繋がり、すぐにお医者さんへと代わった。
電話で細胞診の結果を言うことはできない。でも詳細に検査がしたいので予約時間を変更してほしい。
結果を言うことができないも何も、それは告知のようなものではないのか。
人生を揺るがすほどの言葉を、私は残業中に、会社の非常階段で受け取った。
診察室で細胞診の結果を見た。
あまり詳しくはないけれど、学校で見たことのあるような悪い顔をした細胞が並んでいた。
バコラ生検といって、皮膚を切って漫画のような太い針をした注射器のようなもので組織を吸い上げる。
局所麻酔を打つ。痛みがありますよ、なんてお医者さんは言ったけれど、マンモグラフィーの方がよっぽど痛い。
検査をしてくれた個人病院ではなく、大学病院へそのまま紹介状が書かれた。
色々な説明を受けた。
詳細な検査なしにはわからないけれども推定されるステージ、予後、タイプによる治療方法の違いや色々。
がんのサイズは3cmあったので、ステージⅡ以上は確定だと、悲しい顔で告げられた。
「先生、すぐ治りますか」お医者さんにバカみたいな質問をした。
「うん、すぐに元気になるからね」お医者さんは、今思えばとんでもない嘘つきだった。
大学病院での検査の結果、私はホルモンレセプター陽性、HER2タンパク陽性だった。
簡単にいうと、乳がんの治療薬に対して感受性が良いから治療しやすいタイプだ。予後も非常に良い。
その時は、結果に対して良いことだと感じた。
しかしそれが不幸なこととだと後々思い知る。
術前に二種類の抗がん剤をし、術後に放射線治療とホルモン療法をする。
卵巣の保護とがんの発育を防止するために女性ホルモンを止める注射を打ち
手術は、温存できそうであれば乳房は温存、シリコンは30年で入れ替える必要があるからおすすめはされなかったので
術中にすべてが終わる、同時再建となる。
私の乳がんは治療効果が出やすい。出やすいということは、可能な限りの治療法をすべてやってしまうということだ。
予後が良いことと、元気に余生を送ることは違う。
若いから体力がある、回復が早い、とあまり知識のない周りは言う。
元々同い年の友人と比較しても筋肉痛になりやすく新陳代謝の良かった私に副作用はてきめんに出た。
2,3回の抗がん剤でがんは柔らかくなり、一種類目の抗がん剤を終えるころには触れることさえできなくなった。
それでも、標準治療という、乳がんに決められた治療は命に関わる副作用でもない限り続けられる。
味覚障害にならなかったことで体重はどんどん増えていってしまった。
病気のストレスでどんどん食べる。抗がん剤の副作用の吐き気がおさまれば、
副作用止めのステロイドのせいで食欲がとどまることを知らない。
乳がんです、と職場に言えば早期と言った覚えもないのに早期のがんの扱いをされる。
実際に早期の分類ではあるものの、どうせ早期なんだろ、と軽くみられるのは納得いかない。
咳が止まらない風邪のおっさんが、俺もガンかな、と独り言を言う。
病人扱いはしない、と言われたけれど、仕事は当たり前に1人分用意されていて
懇願しないと手伝ってもらえない。
確定診断の前、がんかもしれないと連絡したらいつもお前は私たちを驚かせてばかりだとなじられた。
そのあとに、あんたが落ち込んでると思って、と電話をかけてきた母に優しさは感じたけれど
最終的にはがんは自業自得だと罵られて終わった。
突然健康と容姿を奪われてしまって、なおかつ職場と家族の理解が伴わない、そうなると当然頭がおかしくなる。
手術はうまくいった。乳首も残せた。傷跡も自分ではそれほどは気にならない。
少しずつ萎縮しているようで、元々がん抜きにしても健側の乳房より大分おおきめだった乳房がかなり小さ目になっている。
それでも医療機関で新しいスタッフに出会うたびにきれいだと褒められる。
術後4年とそろそろ半年がくるが今はがんのためには何もしていない。
時期的にはそろそろ寛解といっていい。
手術痕はきれいなものの、剥がれた背中の筋肉や、弄り回されて傷ついた神経は軽い疲れや天候不順で大いに痛む。
この手術がうまくいっていないようで周辺のスジがひどく痛むし、こうしてキーボードを打っていても
薬指や小指のあたりに力が入らない。
抗がん剤で傷ついた手の表面の神経はいまだに感覚が怪しく、ざらざらした布を撫でると奇妙な不快感を覚える。
足も不意に菜箸でつつかれるような痛みを覚えるときがある。
私は元々婦人科系のホルモン疾患があって、ピルを飲まなければ日常生活を送ることすら困難だった。
しかし、ホルモンがエサになるタイプのがんだから使用することができない。
ホルモンの乱れ、心身に蓄積したダメージ、見た目が元気そのものだからこそ理解されないタイプの不調を抱えている。
こんな体調だし、あまり弱みを他人に見せることが好きではないから彼氏はいない。
太ってしまったものの、髪の毛は生えてきているし、我ながら顔は普通レベルには整っている方だと思う。
だけれど、結婚して、子供を産んで、ということは私には夢物語だ。
人生で一番色恋にうつつを抜かさなければならない5年間私はひたすらに体調が悪くて自分の世話さえままならない。
がんが連れてきた不調によっては死に至ってしまうかもしれない。
幾度も孤独な夜を越え、みじめさと苦しさと痛みに、毛のない頭を抱えてもだえ苦しんだ。
粘膜が弱って、鼻が蛇口になったのかと思うほどの量の鼻血が出たこともあった。
ホルモン療法を始めてすぐはひどい鬱状態に陥り、首を吊りたい欲求を抑えることに必死になった。
それと比べれば瞬間最大風速は今の方がぬるい。
でも、終わりもないし先が見えない。
次にがんができたら、そう、一度でもがんを体験したことのある人間なら頻度はともかく頭に浮かぶだろう考え。
できれば死にたい。
何もなくて、安心を得る人もいる、見つけて、切って、はいおしまい。で済む人もいる。
でもそうでもない人もたくさんいることだろう。
そもそも私は乳がん検診適用の35才より若くに自分で病院にかかったから
がんサバイバーがエネルギッシュな姿をさらすことは勇気を与えるかもしれない
でもサバイバーがエネルギッシュにならなければいけないという無言のプレッシャーがある。
現に、私の母は新聞で見た乳がん患者はこんなに元気なのに、あんたはいつまで病人気取りなんだと叱責してきた。
元気がない人にも声を上げさせてほしい。
下手にがんが見つかるとこういう辛い思いをして、死ねずに生きる羽目になる。
だからそれでも生にしがみつきたい人だけが検診をする覚悟を持てと。
やさぐれて、どうしようもなくて、地の底を這いずり回って泥水すするような気持ちで毎日を送る羽目になるぞ。
末期で見つかっていれば、大事な人にありがとうと、嫌いな人へ呪詛を伝えて心軽く天国だか地獄へ行けていただろうに。
病気になる前よりずっとずっと性格が悪くなってしまって悲しい。
長い長い、そろそろ自分を乳がん患者と呼ぶのにためらってしまう三十路女の独り言。
たくさんの方に愚痴に付き合っていただけたことに、少し気分がすっきりしました。長くてすみません。
Amazonの欲しいものリスト!?公開したら物をいただけるの!?さもしい私は飛びつきそうになりましたが、三十路レディなので澄ました顔で見ない振りができます。
お肉食べたい!不眠改善のために良い寝具欲しい!楽して痩せるダイエット器具!
…物欲は止まることを知りませんが、あなたの周りの少し元気がない人に美味しいご飯やおやつをごちそうしてあげて下さい。
回り回っていつか私がご相伴に預かることになるかもしれません。
◆母のこと◆
クソ!母親が!!うちひしがれている娘に!!!そんなことを言うだなんて!!!と、当時発狂しそうに悲しんだんですけど、母も恐かったんでしょう。
恐がりなんです、恐がってる自分を受け入れられなくて、私に当たることしか出来なかったんだと思います。
今も、私が一刻も早く普通に戻れることを期待しています。私の体調が悪いこと、気持ちの落ち込みがあること、すべてを気の持ちようで片付けようとしています。
私は、母の中では病人であってはならないのです。あって欲しくないのです。
だからと言って、娘に言って良いことと悪いことの区別がついていない理由にはなりませんが。
母は、母なりに私に愛情を持っていることだけは誤解されたくなくて追記しました。
内弁慶で臆病なおばさんなんです。
ちなみに、近親者で乳がんは父方の祖母(60代発症)だけで、姉も、おばや従姉妹、その他男性、他に誰も乳がん患者はおりません。
◆職場について◆
国家資格は取得しているものの、勤めている会社ではその資格を使ったお仕事はしていません。
ですので、デリカシーのないおっさんらもあんまり医療知識がないです。
とは言え、どう考えても非情な対応をされたことは間違いありません。
もっと貶してください。
叩いて下さい。
あの頃耐えて笑っていた私が報われます。
今は優しい人達の多い職場に転勤しています。仕事にも人にも恵まれています。
泥水をすすりすぎて、濾過した雨水うめぇ!水道水最高!って言っている状態なのかもしれません。
分子標的薬で心不全症状がガンガン(乳がんだけに)出ていた最中に引越しを伴う辞令を出した会社には多少わだかまりはあるものの、結果オーライで職場環境は確実に改善されています。
それでも体が辛いものは辛い。
そうなんです、八つ当たりなんです。
わかっているんです。
気軽に乳がん検診に行こう、それで簡単な処置で助かる命がある、それは尊いことなんです。
ファッション感覚でピンクリボン、ウェーイ!としている女子が妬ましいんです。
ウェーイしている女子がいるからこそ気軽に検診が出来る、それが本来の目的なんでしょう。
ただ、若年性乳がんって、乳がん全体のほんの数%なんです。貧乏くじ引いてしまった感が否めないんです。
元々ちょいちょいツイてなかった私が、こんな所でもツイてなかったかー、と。
妬ましく思っても許して下さい。
エネルギッシュに闘病体験を語って、良い感じの活動をしている先輩サバイバーを見て、そうはなれない(なりたい訳でもないけれど)不定愁訴がしんどいんです。
残っている後遺症のようなものも障害レベルではなくて、1個1個は誰しもが抱えている何らかの不調なのかもしれません。
不調の数が多すぎて、歯車がガタガタで、支える気力も尽き果てた状態が今の私です
ぶっ飛ばさせて、レッドリボン軍だか、クリボーだか、びっくらぽんだかのアイツを。匿名のこの場でくらい。面と向かっては、きっと吐き出せないので。
優しい言葉をありがとう、長い愚痴に付き合ってくれてありがとう。
嵐のような感情の発露は鍵付きのTwitterだけで行っていました。
初めて書き散らしたこの場で、思いもよらずたくさんの方に見ていただけて、嬉しく思います。
大好きなアーティストに懇願して(服の上から)触って貰ったことあるので、本体の私は乳のせいで地獄のクソ煮込みをわんこそばで注ぎ込まれている割に、乳だけは世界で1番幸せ者かもしれません。
小中は公立を出た。田舎に育ったので、レベルの高い公立校に行けない子がいく、レベルの低い私立高校を出た。で、適当に入れた私大に入学した。その間、一切勉強しなかった。いや、一度だけ中3の一月に焦って受験勉強をした。もちろん間に合わず志望校は落ちた。が、少しだけ遅れて成果が出た。高1の夏の全国模試で偏差値70を全科目で超えた。その後、全く勉強せず、遅刻とサボりを繰り返して何とか卒業した。
大学受験は家から一番遠いという理由だけで、大学を選んだ。入れた私大の偏差値はたぶん50くらい。今は少し上がったらしい。
中学の成績がいつも真ん中あたりだったので、自分は偏差値50あたりの、いいかえれば「普通の人」だと思っていた。大学を出たあと、仕事を少しして、海外の大学院を修士だけ出て、いま旧帝大の博士課程にいる。その間、趣味でつくった文章が編集者の目に止まるなどして、急に、環境が変わった。周囲の社会階層が上昇していって、いまは、いわゆる上級国民ばかりになった。友人たちは教授、医者、弁護士、官僚、大企業役員の子弟で、就職先は公官庁や大企業ばかり。英語は出来て当然で、みなドイツ語やフランス語もできる。ぼくは語学が苦手なので英語しか出来ない。あとはせいぜいギリシア語、ラテン語を辞書を使って読める程度だ。
博士課程にいるが、学振に落ちたので、翻訳の仕事などをして日銭を稼いでいる。先日、単身赴任から帰ってきた友人にあった。月収100万超の彼は飲み仲間で、バカ話をしては呑んで終わる間柄である。その中で、社会資本やら教育格差の話になった。なんとかしたいと思いつつも、何をどうすればいいのか分からない。
大阪の底辺中学校生徒の家庭教師をした友人いわく「家に本がない」子も多いと聞いた。当然、本棚もないのだろう。その家の子は、親からスマホの従量欲しさに殴られて、端末を取り上げられたこともあるらしい。
大学全入時代というが、実際には、半分の人の選択肢でしかない。偏差値など、その半分の中での曖昧な目安にしか過ぎない。しかし、そこに象徴される社会的分断は、想像しているよりも大きなものなのだ。たとえば「ラフマニノフ」と聞いて、ぼんやりとでも芸術関連のことばだと気付くか否かは、どうしても環境に寄るのではないか、と小説家の友人が言っていた。そうかもしれない。そういえば、ラフマニノフは一枚も持っていない。
ぬるいオタクでもあるので、趣味仲間にはいろんな人がいる。それはすごく楽しい。同時に、恥をかくこともある。ネット仲間の知り合いで初めて会った人が「工場勤務です」というので、研究開発だろうと思って話していたら「ライン作業です」と言われてしまった。自分の想像力の無さを恥ずかしく思った。
親はよく「金がない、金がない」と言っていた。小4のときに引っ越してきた友人の家は金持ちだった。ずっと連絡していないが、誰もが知るPCサプライのメーカーの社長だった。また父親の友人に、趣味のクルーザーで釣りに連れていってもらったことがあった。父の友人には、ニューヨークの画商や官僚がいた。彼らに比べれば「金がない」という意味だったのだろう。たしかにバブルの頃に、毎週、生け簀のある料亭で食べていたし、家にはマッキントッシュの真空管アンプが数台あった。祖父が現金で、さらっと一億用意するのを見たこともある。ごく幼い頃の記憶だ。
ずっと自分は金がない普通の家の人だと思っていた。無論、何が普通かなどわからない。ただ努力をしないまま、適当な大人になった。結果として自分が貧しくなることは覚悟していたが、それ以上に、社会が崩壊していく速度のほうが速かった。社会資本がなんちゃら、教育資本がうんたらかんたら。ニュースで見かけ、たまに出会う、自分の「普通」とは違う人々について、チャラチャラと考える。何とか人の役に立てるようになれないだろうか。答えは出ない。