はてなキーワード: ポジティブとは
幼児でも4歳くらいになってくると目鼻立ちがはっきりしてきて、なんとなく美人・イケメンとそうでもない子がわかってくる。
通っている保育園でも、戦争になるからもちろん口には出さないが、この子は可愛くなるだろうな、イケメンになるだろうな、とかが見えてくる。
いや、正直なところ、俺自身は言わずもがな、妻も別に美人ってわけでもないし、普通に考えてそんな器量が良くなる理由はないんだけど。
そのはずなのに、可愛すぎて客観的な視点で測れないんだよね。誇張抜きで世界一可愛いのでは?って思うし。
とはいえ、前述の通り遺伝的にポジティブな要素はあまりないのでおそらく娘も思春期が近づくにつれルッキズムに悩まされることだろう。
どの子も親にとっては世界一なんだな、ということを踏まえた上で、俺も冒頭のような曇った目で子どもを見るのはやめようと思った。
Twitterを観察すると、そこそこ多くの人がAIイラスト生成に取り組んでいて驚く(専用アカウントを作成している人が多い)。
最近では、「AI術師」や「AI呪文者」などと自称することが増えており、「描く」ではなく「生成」「出力」と表現する人も多い。
これには、謙遜的な意識があると同時に、「絵師」という呼称を避けて独自の文化を築きたいという意図も感じられる。
(なんとなく違和感があるが、「絵師」という言葉が定着したように、AIイラスト文化も進むことでこの呼び方が定着するかもしれない)
AIイラストは一般的には否定的なイメージがあるが、生成者同士のコミュニティでは当然そのような忌避感はない。手を出してなくても、技術的進歩として肯定する人もいる。
この肯定側のポジティブな感情と、世間の否定的なイメージがどのように関わり合い、変化していくかは未知数に思える。
現在は大きな論争は起きていないが、生成側のモラルに問題がある行動が増えると、Winnyのように邪悪な存在とみなされる可能性がある。
もちろん、時が経つとデジタル作画や3DCGのように受け入れられる可能性も高い。正直どうなるかは分からない。
なので、AIイラスト文化が良い方向に進むためには、世間は忌避感を受け入れ、抑圧された状態を維持する方が、結果的にモラルが生まれやすいとも思う。
「術者」「出力」という語句を用いるのは寧ろ良いことのような気がしている。
某所で「声優のような絵ができた」と実写調のイラストをアップロードされていたが、プロンプトを確認すると声優名が記載されたloraが使用していた(恐らく、写真で学習したものが配布されている)。
彼は無邪気にその絵をアップロードしたんだろうが、誰かに補足されてTwitterあたりで拡散されると、炎上してた可能性は十分にあった。
グレッグ・ガットフェルド:バド・ライトはインフルエンサーに頼るというばかげた決定を下した
Gutfeld は、Bud Light と Dylan Mulvaney のパートナーシップは「台無し」だったと言います
グレッグ・ガットフェルド グレッグ ・ガットフェルド | フォック
https://www.foxnews.com/opinion/greg-gutfeld-bud-light-made-idiotic-decision-rely-influencers
皆さん、ハッピーマンデー。したがって、アンハイザー・ブッシュは今すぐ飲み物と、ツガのようなバドライトよりも強い飲み物や、列車の脱線事故の近くの湧き水などのよりおいしいものを使用することができます. 同社は、ディラン・マルバニーの論争をきっかけに、大量のお金を失いました。彼らは、女性の顔をフィーチャーした最初の記念缶を私たちに与えました。売上げは、ポルノ劇場でのハンター・バイデンのズボンよりも速く急落している. そして、ケビン・スペイシーの寝泊まりキャンプよりも多くのボイコットが見られます. それは大丈夫。私がそう言ったのは大丈夫です。冗談です。しかし、私にはこれは間違っています。なぜなら、会社が失敗したときに大衆からメッセージを受け取るのは良いことだと思いますが、ボイコットは通常、生計を立てていた人々を傷つけるからです。
もちろん、左派は常に良いボイコットを好みます。なぜなら、彼らは自分たちよりも楽しんでいる人、つまりすべての人に報復を求めるからです。しかし、私たちは違います。私たちは楽しいです。Budweiser が教訓を学んだことをうれしく思います。他の企業が流行に流されないことを学ぶことを願っています。でも、それで十分ですよね?アンハイザー・ブッシュのブレンダン・ウィットワース最高経営責任者(CEO)は、 「アメリカに対する私たちの責任」という声明を発表しました。「165年以上前にアメリカの中心地で設立された会社のCEOとして、私はすべての消費者が私たちが醸造したビールを誇りに思うようにする責任があります.私たちはこの国の構造の一部であることを光栄に思っています.」
ええ、それが、ほとんどの消費者が一度に 8 ~ 10 個のバッドを飲む理由です。アメリカの誇りを感じるためです。実は違う。それは、娘のローラが今はラリーだと発表したとき、拍手喝采をしなかったことで彼らを国内テロリストと呼ぶナッツバッグ大統領によって運営されている国で、給料から給料への生活の苦痛を麻痺させるためです. 私たちはアメリカ人だから飲むのではありません。私たちが飲むのは、アメリカを失っているからです。話は続きますが、まとめます。1) バドワイザーはビールをたくさん作ります。2) ブレンダン・ウィットワースは海兵隊にいて、彼にとって良い人でした。3) アメリカ。Pete Hegseth のポケットチーフの 1 つからより良い PR ステートメントを得ることができます.
でも大丈夫です。同社はまた、大失敗に対応して新しい広告を出しました。アメリカの中心に根ざし、挑戦にチャンスと明日への希望を見いだした人たちのために醸造されたビールだと彼らが言わないことを願っています.
私はほとんど缶を私のa **に押し込みたいと思っています。ともかく。つまり、なぜそんなことを言ったのかわからない。私が愛国心を感じると、それが起こるようです。とにかく、彼らがクライズデールを使ってくれてうれしい、彼らが代名詞を求めない限り。彼らにドラッグ クイーンのストーリー アワーをやらせるのは十分に悪いことです。そうです、これは大失敗でした。しかし、それは本当にオンですか、バッド? 私はそうは思わない。それは私たちの文化にあると思います。実際の能力よりもパフォーマンス ドラマを高める文化です。そして、それはどこにでもあります。私たちは物事をしません。私たちは物事をするふりをします。あなたが消防士を演じる俳優になれるのに、誰が消防士になりたいですか? したがって、問題はトランスではありません。その問題がどれだけ私たちに押し付けられていても。結局のところ、私たちは何年にもわたって多くのトランスジェンダーの人々を見てきました. 地獄、私も雇った。ええ、私もそうかもしれません。それが彼女の新しい本の第二章です。
代わりに、インフルエンサーに頼るのはばかげた決断でした。あなたは彼らについてよく耳にします。ある意味で、彼らは信頼性を求めて有名人や高揚するブランドに取って代わりました. 問題は、インフルエンサーの信頼性が、彼らが自分自身に向けた注目のみに基づいていることです。しかし、ソーシャル メディアで何百万人ものフォロワーを獲得しているなら、正しいことを知っている必要があります。間違い。インフルエンサーは何も知りません。それは仕事ではありません。それは能力よりも注意です。そして今、注意は能力になります。その基準では、お尻で火をつける地下鉄のフラッシャーがバッドの次の候補になる可能性があります. それは私です。では、インフルエンサーを採用することは、企業の収益にとって良いことなのでしょうか?
代わりに、インフルエンサーに頼るのはばかげた決断でした。あなたは彼らについてよく耳にします。ある意味で、彼らは信頼性を求めて有名人や高揚するブランドに取って代わりました. 問題は、インフルエンサーの信頼性が、彼らが自分自身に向けた注目のみに基づいていることです。しかし、ソーシャル メディアで何百万人ものフォロワーを獲得しているなら、正しいことを知っている必要があります。間違い。インフルエンサーは何も知りません。それは仕事ではありません。それは能力よりも注意です。そして今、注意は能力になります。その基準では、お尻で火をつける地下鉄のフラッシャーがバッドの次の候補になる可能性があります. それは私です。では、インフルエンサーを採用することは、企業の収益にとって良いことなのでしょうか?
バド・ライトによるトランスジェンダーの活動家ディラン・マルヴァニーの宣伝は、アメリカ人の二極化を続けています。
赤い色が好きな場合や、潮のポッドを飲み込んでいる子供に尋ねた場合、彼がまだ生きているかどうか. おそらく、Anheuser-Buschの無知なコジャーは、「ねえ、このかわいい小さな牝馬が誰なのかはわかりませんが、若いマーケティングクリエイティブタイプを信頼しています. キャンペーンの準備ができたらお知らせください。ガラケーで調べます。」しかし、あなたが知らない誰かがあなたの製品の良いスポークスマンになるだろうと思い込むのは怠惰で愚かでした. 審査は重要なので、1993年より前に生まれた人に少し審査をしてもらうかもしれません。フォックスはしませんでした。そして、何が起こったのか見てください。
しかし、何かポジティブなことをするようにあなたに影響を与えたインフルエンサーは誰ですか? Mulvaney は Bud の顧客に St. Pauli Girl に切り替えるよう影響を与えました。要するに、インフルエンサーは私たちに彼らが推奨することとは反対のことをするように影響を与えます。彼らは最悪です。確かに、今週重要だと思う社会問題について人々を黙らせることはできますが、スポークスパーソンを見るためだけにビールゴーグルが必要な場合でも、人々を恥じてビールを買うことはできません.
https://anond.hatelabo.jp/20210406154303
日本人の大多数は、「トイレの神様」って聞いて別に違和感は感じないんだけど、
じゃぁ、「トイレの神様」の存在を信じますか?って質問には、日本人の大多数は口ごもる。
更にややこしいのが、口ごもるけど、存在が100%無いと断言するような感覚もないのよ。
凄い単純化すると「どちらでもない」みたいな感覚だけ存在していて
ほんとの人がこれらの宗教的な質問にうまく答えることができない。
大体の人が参加することに違和感もなければ、ポジティブな信仰心も特にない。
日本人の宗教観は、「信じる」「信じない」の二択でも、その間のグレーゾーンでも、
「他の熱心な信者に比べると、信仰していないので無宗教」でもなく、
信じたり信じなかったりどちらの感覚もありつつ、どちらでもないというややこしい宗教観。
(厄除け行かないと気持ち悪いけど別に信じてるわけじゃないみたいな)
なので、元増田の「無宗教」といわれることに違和感は正しくて、「無宗教」ではないけど、
たぶん的確に言い表す言葉がないだけ。
https://anond.hatelabo.jp/20210406154303
日本人の大多数は、「トイレの神様」って聞いて別に違和感は感じないんだけど、
じゃぁ、「トイレの神様」の存在を信じますか?って質問には、日本人の大多数は口ごもる。
更にややこしいのが、口ごもるけど、存在が100%無いと断言するような感覚もないのよ。
凄い単純化すると「どちらでもない」みたいな感覚だけ存在していて
ほんとの人がこれらの宗教的な質問にうまく答えることができない。
大体の人が参加することに違和感もなければ、ポジティブな信仰心も特にない。
日本人の宗教観は、「信じる」「信じない」の二択でも、その間のグレーゾーンでも、
「他の熱心な信者に比べると、信仰していないので無宗教」でもなく、
信じたり信じなかったりどちらの感覚もありつつ、どちらでもないというややこしい宗教観。
(厄除け行かないと気持ち悪いけど別に信じてるわけじゃないみたいな)
なので、元増田の「無宗教」といわれることに違和感は正しくて、「無宗教」ではないけど、
たぶん的確に言い表す言葉がないだけ。
アイルランドあるしと思ったんですが下手にぼかしても意味ないですね…政治が完全に機能不全&英語圏ってもうイギリス一択ですよね…
保守党政権はEU規制由来から来ている労働関係の規制を更に緩めようとしてますし、正直どうしようもない状態です。サッチャー政権以降製造業は弱体化したままですしね。
製造業を復活させようとする動きは多少あった様ですが、BrexitのせいでEUへの輸出関係がコストと時間が掛かって悲惨ですし、次の政権が労働党になってもこの保守党政権10年間で破壊されつくしてて少なくとも10年くらいはポジティブな方向にはならないだろうなと思ってます。
上手く立ち回る術を身に着けないと生き延びれないかもしれませんね。
胸の谷間で女性のアクティブ度、ポジティブ度が向上!「谷間」ができるブラ着用で、コミュニケーション能力と活力がアップ~左脳が活性化し、自律神経の活動量が高まることが明らかに~
https://www.wacoal.jp/news/newsrelease/201905/release144821.html
良さそうな株があれば朝売買して3時前に手仕舞いする。
半分以上短縮出来た。
自ら死のうとか考えるなよ
なぜ人が死のうとするのかはアキネーター3〜6問で分かるんだからな
もう精神病棟で拘束するしかないんすよ。あらゆる物事が死のピタゴラスイッチのどこかの仕掛けを起動しちゃう状態なので。
ちなみにここまでの言説に根拠や網羅性はないので頭に入れるな。
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ここからは確実な話の本題なんだが、俺の友人の話なんだが、例の動画でシコった。
そいつはXVideos以外からスカトロ等のグロ系ポルノ動画が排除されたことに怒るが、アングラサイトは見ないくらい正義感のある普通の性的癖の男なんだが、なんかシコってしまったらしい。
あとその後Twitterのアカウント2つ見つけて、さらに1アカウントごとに1回シコったらしい。それぐらい興奮した。
普通に画像やツイッチの配信動画を保存したらしい。最後にスマホを持ってたことから輪廻を信じてる説や最後に後悔したような嘆きを聞き、それがなぜか良いものに思えるらしい。
彼は良心がすごいから葛藤しかけたけど、別に普通に暮らしてるらしい。
あとエロ画像フォルダ(ラジオ系、という名前で偽装してるし.nomediaをちゃんと置いてる)にわざわざ特設フォルダを作って、写真や動画を入れ、zipにしたらしい。
でも、彼は普通に生きてるし、何も苦しくない。それでいいんです。死をなんと捉えるか、それはなんでもいいんです。ただ、ただただあなたの晴れ着姿がみたいから、20年生きてくれ、答はいらない、20年後に聞きます。#拡散希望。#希望の拡散。#絶望の散逸。
中学校の合唱コンクールの練習で、私の前で歌っていた合唱部の子に一部分、音が外れてるから直せと何回も注意をされたことがあった。最初は直そうとしてみたのだけど何回やっても上手くいかず、たしか最後は声を小さくするか、口パクで歌っていたと思う。
その時に、音楽の先生に、注意されている事を話したら、CDを貸すから家で練習をしてこいと言われた。でも、その時に私は正直、学校の合唱コンクールでなぜわざわざ家にまで持ち帰って練習しなくてはならないのかと思った。もちろん、音楽の先生は練習してこいしか言うことはないだろうなと今なら分かる。
他にも、中学生の体育のリレー授業で、私の足の遅さが原因でペアの陸上部の子を怒らせてしまったことがある。
その子は別に怒っていた自覚も無いのだろう。ただ3年生の時期だったから内申点に響くのが不安でヒステリックに私にあたったのだと思う。中学生だから仕方ないと今は思う。
その子は仲間の陸上部の友達と3人で、リレーが終わる度、集まって、なんであの子のペアなの?なんで出来ないの?とか、私のことをこそこそ陰口を言っていた。プリントにはタイムを記入しなくてはいけないけれどタイムも見せてもらえなかった。3対1の圧で、当時の私は怖さと劣等感と恥ずかしさで、授業終わりまで涙を堪えることができず、リレーが終わり次第、授業終わりののチャイムが鳴るのを待たずに、体調が悪いと言って保健室に行き、泣いた。保険室の方が同級生に見られない、次の授業に遅れても大目に見てもらえると思ったからだ。
保険室の先生は優しかったけれど、そんなに泣くなら足を速くする努力をしたら?と言われた。でも、やっぱり私は、なんでそんなことに時間を使わないといけないんだろうと思った。相手が劣っていたらぞんざいな扱いをしていいのだろうか。
ここまでの話だと私は全く努力しない人間に見えるだろう。いや、実際私の努力なんて他の人から見たらゴミみたいなものの可能性だって大いにある。
こんな私でも運動が苦手なのに、結構ガチな運動部で毎日練習していたし、毎朝走る練習をしていた時もあった。水泳も泳げなくて授業で晒し者にされて、自分でプールに練習しに行った。(下手くそすぎて友人や知らないおじさんに馬鹿にされまくったけど)
進学後は絵が上手くなりたくて苦手なデッサンを勉強し、毎日授業後も残って描いていた。
苦手な接客がうまくなろうと、人と関わるバイトをしたり、発表のときに大きい声が出せるようにとカラオケで練習したり。
他の人の努力に比べたら些細なものだけど。(複雑で文章に出来なかったけどもちろんチームワークのために努力したこともあったよ。寧ろ、お節介だから、そっちの方が多いよ…)
何が言いたいのかというと、努力できることは人によって違うということだ。
私も、一応、苦手なものに立ち向かう意識はある。けれども、あまりにも苦手なことが多い人や、過去のトラウマで頑張る気持ちが潰されている人は、努力できない分類のものもあるのだと思う。
もちろん、なにもかも頑張ることができたらそれはそれでいいし、運動も勉強もリーダーシップもなんでもできる子はたくさんいた。その子達は努力していた。でもみんながみんなそうではない。一位がいたら最下位がいる。
社会に出たら、運動神経なんか必要なかった。なんでもできる子だけが輝いているわけじゃなかった。
今でも怒られたあの時私は、走るのを早くする練習をしなくてはならなかったのか?と考える。自分が選んだ道なら、ある程度のレベルまで引き上げる努力は必要なのかもしれないけれど、選んでもいない体育の授業、ましてや昔からからかわれて嫌な思い出しかない体育で、そこまで頑張ることはできないなと。私に強くあたったその子が美術の授業で足を引っ張っていたとしても(そんなグループワークはほぼないけれど)その子は改善する努力をするのだろうか。
結局は分からないけれど、
ただ私は逆上がりができない子がいても、絵が上手く描けない子がいても、勉強ができない子がいても、それを馬鹿にして揶揄う、ぞんざいに扱うような人が一番良くないと思っている。
できないことがあっても、無駄に劣等感を感じず、前向きに取り組める教育になっているといいなと思う。
【追記】
こんなに反応を頂けると思っていませんでした。なのでタイトルが大雑把ですいません。皆さんの意見、興味深いです。
体育は苦手でしたが、スポーツは好きで楽しめました。苦手なくせに、なぜか好奇心で部活をしていたから運動の楽しさを味わえたけれど、していなかったら味わえなくてもっと体育が嫌いだったのかなぁ。
最近の体育はタブレットで動画を撮って教え合うって聞いたことがあります。できないを揶揄するのではなく、できるように互いに教え合うって、最近の子は出来ないことがあっても対等の関係性を築けるのか。すごいなぁ、大人だなぁと。
タイトルは、努力は必要か?にしてしまいましたが、人に合わせて無闇矢鱈に努力することは必要か?できないからといってぞんざいに人を扱うことは仕方がないのか?ということが言いたかったのだと思います。結論を出すというよりは考えたくて、書いていました。
出来ないことがあるからってぞんざいに扱ってはいけないとか言ったけれど、私自身、相手に、なんでこんなことが出来ないんだろう?なぜ努力しないんだろう?と思い、腹を立ててしまうこともあります。でも、その人にとってそれは努力するべきことじゃないのかもしれない。実はそれでも努力しているのかもしれない。努力できる環境や、状態じゃないのかもしれない。自分の価値観で人の努力を測ってはいけないなと思ってはいます。
それでも、授業だと評価基準に努力点を入れるから何を見て評価すべきか難しいし、社会だと、もうちょっとなんとかならない?って人もいるし、努力してない人の支援は気持ちが進まないところも正直あるし…(でもそーいう支援はとても大事だとは思っている)なかなかハッキリと線引きはできず…
不安を煽られ、努力するのではなく、ポジティブに自分の理想のために努力できたら1番だなぁということをよく考えていたのでこんな古い昔の話を書きました。
あと、話は少し逸れますが、コメント欄にもあったように、私も努力のことについて考える時に障がいを持つ方を思い出すことがあります。
障がい支援にほんの少し携わったことがあるのですが、本当にその多用さに考えさせられました。良い場所だとそれぞれにあった支援をしていて、努力するための支えがしっかりしていて、そのような環境は、もっと他の場所でも成されるといいと思っています。
身内に障がいがある人がいたのですが、環境次第で大きく良くも悪くも変わったことがあったので…
長々とすいません。
職業訓練校の話になると高専の話題が出るが、卒業者の一人として思ったこと。
現時点の採用側や大学や職場での高専卒に対する能力の評価はポジティブなものが多い印象受ける。
だけど、そこを担保しているのは
・学校数が少なく、入学の段階で一定の学力が必要なこと。(中学卒業者の1%)
・一般的な年齢の子が大学受験に要する時間の多くを、実務や専門の勉学+α(ロボコン等)に割けること。
・高校生相当の年齢(15〜20才)で留年する子がそれなりの人数発生すること。
※卒業した高専は在校生の1割が留年経験者で、入学時からストレートで卒業するのは8割くらい。退学者も多い。25%が留年したクラスもあった。
大部分は若い段階で学力と専門への適正で篩い落としが働いていることが大きいと思う。
他の高専は分からないが入学以降はカリキュラムと塾がリンクしていないので、塾で成績を上げてきて入学した子は辛そうな印象を受けた。
高専退学者で怨嗟の声もよく聞く。若い段階で篩い落としが激しいので当然。
近々だと卒業者が毎年全国で1万人ほどで、就職するのが6000人弱。しかも専門の特性上特定産業。
専門とマッチする卒業生が就職市場に何人投入されるんだろうなって人数。
大学もここまで極端に数が少ないわけではないが、そこに至るまで競争や篩い落としが働いてたこそ質が担保されてた側面もあるんじゃないだろうか。
高専の数を増やすだけだと、私大が増えた現状と似た感じで安泰とは言えなくなるように思う。
現状は工学に偏ってるので、他の専門分野の高専が増えるのなら面白く思うが。
【追記】
・第一に小学校の中学年時点でなりたい職業が決まっていたこと。大学生になって学べるようになるまでの時間を考えると中学卒業時点から学べるのは魅力があった。
・高等教育は受けたいなと思っていたこと。それに対して高専のコスパが良かったこと
・田舎だと教育コストの関係上 公>私 の価値観。私立高校に対する認識は、大学内におけるFラン私立のような認識。
・高校受験が学区制で自分の学力と合う公立高校が近隣になかったこと。調べたら現在半数の都道府県で学区制は廃止らしい。自分が受験した当時は大半でまだ学区制があったようだ。
学区内の公立進学校の偏差値が60、次点の公立高校が55。近隣の私立高校は公立進学校よりも低い。
自身の偏差値が60半ば、高専の目的の学科が60前半だったので高専を選んだ。
自分が住んでいる地域に置ける中学卒業時のコスパを含めた選択肢の狭さの影響が大きい。
中学卒業時点で学力さえあれば住んでいる地域に限らず入学できるよっていう公立学校が高専しかなかった。国立のメリット。
公立小中学校→推薦→高専→入社だったから、組織に入る際に学力を測るテストを受けたことはなくそこに関しては個人として特殊なんじゃないかと思ってる。
「死ね」→「生きる!」
「しばくぞ」→「避ける!」
みたいに、みんながポジティブで返せるぐらいの強さというか、余裕があればなぁ(ノーダメでスルーでも)
パワハラ認定されるからまっとうな注意とか指摘も書面を通して上司なり審査機関にハンコ貰ってから提出するような未来かになる前に
どっかで歯止めをかけれるか、AIさんがさっそうと救ってくれるか
【余談】
こないだ好きなおんなのこが友達と
「あたしらってネガティブよね」「よく死ぬ死ぬ言うよね(ヤバイとかの類似用法として。それもどうなのかという問題提起)」って
話になったらしくて、
「ポジティブになったほうがいいんがなー」
「死ぬっていうのやめてみんが?」
「生きるにするとか?」
「うけるwwwwまじもう無r,生きるwwww」
ってしばし笑い転げてた
それを友達に言ったら当然のように原西の話になった
当たり前だろ!
なぜそうなのか分かるか? おれには分かる。
何故かと言えば物語にポリコレ要素を入れるという事は、「つまらなさを減らす」「面白さを阻害しているものを減らす」ことであって、「物語を面白くする」ことではないからだ。
順を追って説明しよう。
説明する必要あるか? 単体のポリコレは面白くない。つまらないのではなく面白くない。無味無臭だ。
ポリコレしかない映像を想像してみろ。男女人種均等、パワハラもセクハラもない映像だ。"面白くない"だろ。
(もちろんここでポリコレ的平等下でもヒューマンドラマで面白さは出せる、と言う人がいるかもしれない。でもそれはヒューマンドラマが面白いのであってポリコレが面白いわけではないよね? という話をしている。あと面白いからパワハラやセクハラを入れろという話でもないし、パワハラやセクハラは面白いという話でもない)
爆発しかない映像を想像しろ。恋愛しかない想像でもアクションしかない映像でもいい。"面白い"だろう。まあ一瞬で飽きると思うが、ポリコレはその一瞬の面白さすら提供しない。
ポリコレの役目は爆発や恋愛やアクションの面白さを受け入れるにあたり、視聴者や読者の脳から「でもこの話「(反ポリコレ要素)」だから引っかかるな……」という不快さを取り除くことだ。
では、「ポリコレは物語を面白くする」と「ポリコレは物語から不快さを取り除いて面白さを受け入れやすくする」は何が違うのか?
全然違う。この二つを一緒にしないで欲しい。
だってさっき書いた通り、"ポリコレは物語を面白くしない"のだ。物語を面白くしないのに物語を面白くするから入れろ、って受け入れられるわけがない。
例えば「この果物には甘みが足りない、塩をかけよう」って言われたら、知らない奴からは意味が分からないだろう。料甘くするなら砂糖が先だ。塩をかけろと指示するなら「塩をかければ果物自体の甘みが引き立つから」と先に提示するべきである。もちろんこれは喩え話だ。言いたいことは分かるだろう。
ただポリコレ支持者側が「塩を入れれば料理の甘みが逆に引き立つ」という因果をあまり理解しておらず、塩が甘い≒ポリコレは面白いという理解をしていそうなので、甘みを引き立たせる≒不快を取り除いて面白さを受け入れやすくする、という説明自体が出来ないのかもしれない……。
俺は、『ポリコレ支持者のうち多くが「ポリコレ面白物語と非ポリコレ面白物語を見て後者を受け入れられなかったとき、その理由についてあまり考えず「ポリコレが物語を面白くした」と考える』と思っている。人間全体が"そう"なんだからポリコレ支持者だって"そう"に決まっている。人間全体が物語について深く考えないし、浅く考えて簡単な結論に飛びつく。だからポリコレ支持者も"そう"だ。
では、全ての物語はポリコレを話に組み込むべきなのか? という話に移る。
これに関しては答えが出ない。難しい。俺が何かしらの物語を描くとき、無理のない範囲で組み込みたいなとは思っている。
しかしなんか色々すったもんだあった末、今では「ポリコレが物語に組み込まれている」「作者がポリコレを意識している」こと自体に不快感を覚える人間がいる始末だ。
難しい。
今から全然関係ない話をするのだが、ポリコレって物語の面白さを担保する要素ではなく不快を取り除く要素であるのだけど、テーマに使われる場合もある。
なんか前同性愛者のスーパーマンが話題になっていたが、連載前からポリコレ要素が大々的に喧伝されていた。
あれってどうなの? 俺はああいうポリコレがテーマの作品で「ポリコレがテーマです!」って宣伝されるとめちゃくちゃむしゃくしゃする。おれの中には「自作のテーマについて語る作者」という不快のスイッチがあってそこを踏む。今回のテーマは愛です、みたいに語る監督に感じるやつだ。いや勿論スーパーマンのときは作者が語ってたわけでもなかった記憶はあるが。
あと普通の話は男女差別きつくて読めないけど××はポリコレ遵守してるから読める、みたいな感想をたまに見るのだが、あれ普通に滅茶苦茶攻撃的な文章だからやめた方がいいと思う。
「最近の映画はポリコレきつくて見れないけど昔の映画は男らしさにあふれてるから見れる」みたいな枕で昔の映画推奨してるやついたらムカつくでしょ。
「今時"男らしさ"~!?」みたいな怒りより前にさ、"ポリコレきつくて見れない"の時点で怒りがきてその怒りが「今時"男らしさ"~!?」の方で爆発して男らしさをdisる形になるイメージ。
物語の面白さを引き立てたり、受け入れやすくする要素はあるかも知れないが、物語の面白さの絶対量を増やすことはない。
"物語の面白さを引き立てたり、受け入れやすくする要素"を入れることを、物語を面白くすると呼ぶ人間は多分多くないし、インターネットやツイッターでクソみたいな論争してる時にそこまで頭が回る人間はいない。(何しろ園士温みたいな実在の被害者が出てる"気軽に言及できない"案件と違ってみんな"気軽に言及してる"はずなので。)
物語を面白くする、が主目的であるとき、非ポリコレ要素、反ポリコレ要素で物語をより面白くするものがあれば止めづらい。
ポリコレテーマを喧伝すると興味ある人間からはポジティブな興味を得るが、テーマに興味がない人間(これはテーマが嫌いな人間だけではなくテーマに強い関心がない人間も含む)からは「テーマを語る人」という文脈でネガティブな興味を得てしまう。
難しい。
追記した→https://anond.hatelabo.jp/20230409121152
以下本編******************************************************
両親を比較的早く亡くして色々その後の始末をした体験から。また、人の親の終活のサポートをサポートするような仕事をしていた体験から。
そもそも、「終活」って、そこまで「むむむ、必須…!!」と思わなくてもよい。
そもそも、一番大切なのは終活する以前に、親御さんとちゃんと円満な人間関係を構築し続けておくということで、これが実は一番割と大変だったりする。
親がどこに何を仕舞っておきがちか、どんな人生を送ってきたかとかがなんとなく分かっていれば、別に整理整頓されていなくても残された子供たちで探し当てたりあちこちに問い合わせればいいだけなのでそんなに問題ない。親子の関係が良好なら、何なら親の方から「大事な書類や通帳や印鑑はこうやって保管してあるからね」とか言ってきてくれたりする。
そういう、あたたかくお互いを思いやれる親子関係でもないなぁ…という場合は、まぁまずは親に終活をさせる以前に、親子関係を良好化しておくことが必要。
そうじゃないと何を言っても親は子の言うことなんて聞かないんだよね。親にとっては子は中高年になったところで子供だし、老いの自覚があればなおさら我が子に対して頑なになる、ということはよくあること。
そもそも、金持ちで株式やら不動産やらを持っている人以外は、親が大した整理もせずに死んでもそこまで大変でもないことも多い。まぁそもそも、人が一人死んだらそりゃ多少は手続きやらが大変なので、そこはもうそういうもんだと思って。
親が金持ちの場合。傾向的には、ガチの資産持ちの人は弁護士や税理士やら銀行の担当者やら、誰かしら外部の相談者がいることが多いので、まだ元気なうちに「営業に来てる銀行の担当の人とか税理士とか、今度紹介しといてね」と言っておくと割とはかどる。税理士なんかがいる場合はほぼ無問題。名刺交換しておけばおけー。
小資産持ちの場合。プチブル勢(高給取りサラリーマンや自営)の場合、結構厄介かもしれない。親御さんがまめに日ごろから管理をしている人であれば心配ないが、GDP右肩上がり世代なので「なんとなく色んなとこに預けたり掛けたりしてるだけ」みたいなケースがあって、これはもう、がんばって、エンディングノートやら終活やらをしてもらう必要がある。
お金がなさそうな場合。自宅とちょっとの貯金だけ、なんていう場合は、もうほとんど心配しなくていい。実際はこういうご家庭が一番多いんじゃないかなと思う。通帳、保険証券、印鑑を仕舞っている場所だけ、何かのついでに(例えば親がちょっとした病気で入院した、とか体調崩して手伝いに来ている時とか)さらっと聞いておこう。銀行の届出印はちゃんと確認しとく方が良いなと思うが、死後に届出印が分からなくても銀行に提出する書類が1枚増えるだけなので、まぁわりとどうってことない。「窓口の人」は基本親切だし慣れているのでどうしたらいいか聞けば大丈夫。
もういちどおさらいだが、「銀行印が何かを聞いておく」とか「終活をお願いする」などは、要するに子供から老いて色々億劫になってきている親に頼む、大事な情報を聞き出す、ということなので、その前に人間関係を良好にしておけ、というのが鉄則になるわけです。
文章や文字を書くのが苦にならない人、普段から日記をつけてたりする人は、比較的楽だと思う。
エンディングノートは市販されている紙のものもあるが、アプリもあったりするので、親の性格に合った内容のものを子からプレゼントするのもよいと思う。
これぐらいが分かってれば財産回りは大丈夫。この辺は市販のエンディングノートだと記入式で書いていけるようになっている。また最近は終活アプリなんてのもあるので、スマホやコンピュータがいける口の親御さんならそれでもOK。
市販のエンディングノート選びでいうと、例えば、記入欄が多いものをズボラな親に渡しても嫌がるわけで、選ぶには匙加減が結構大事。結構「思い出記入欄」とか「自分史書き連ねページ」とかがあったりする。そういうのを書くのが好きでノリノリで書きそうな親御さんなら、自分史から書いてもらってついでに大事な資産周りの情報も書いてもらえる。
逆にそういうのを全然書きたがらない親御さんの場合は…記入項目が簡単なものを使って、親にヒアリングをして子供がノートに記入していくのがお勧め。ズボラな人や「そういう書類を作成したり整理したりする経験がない(今の高齢者世代だと女親は多くの場合就業経験が少ないので困る場合があるよ)人」は、緊張して思考停止しちゃうので、子供が寄り添おう。また同じ結論だが親子の人間関係を良好にしておく必要がある。
そして、しっかりした親御さんの場合でも、隠してたタンス預金やら隠してた借金やら、愛人がいたやら隠し子がいたやら、まぁ隠そうと思えば隠せるわけなので、あまり根を詰める必要はないわけです。
あとは、「死んだら葬式に誰を呼んでほしいか問題」も、エンディングノート項目にある。こういうのもノリノリで書いてくれる人もいるが、面倒くさがって書かない人も同じぐらい多い。書きたがらない場合は、実家の年賀状を取っておいてもらう。正月に帰省した時に、親あての年賀状を見ながら「この人誰だったっけ?」とか話をしながら、だと、整理する気になってくれるかもしれない。まぁ要するにノートに書いてなくても全然よくて、年賀状に付箋でも貼っておけばいい。
エンディングノートひとつ記入し終わるのは、現役の我々でも結構めんどいので、一度には片付かない。1年、2年と、年単位でゆっくりやればいい。
比較的多そうで且つ厄介そうなケース、「ズボラな小金持ち親」と「忙しいしなんだか色々面倒で帰省は年に1、2回の子」の場合、エンディングノート作ろうかと持ち掛けてから、帰省頻度を増やして1テーマごとに埋めていく、みたいな作業を想像した方がいいかなと思う。エンディングノートを作ることで親子関係を和らげて距離を近づけていく作戦。平行して介護が始まってきたりするんだよね…。
今日は通帳を整理したから乾杯!また再来月来るからそれまでに保険証とか、暇なときに探しといてねーと声をかけておく、次の帰省までの間にも連絡を入れて雑談をしつつ「見つかった?」と聞いておく、みたいな、まめな営業努力が効いてくる。通帳を整理し終わったはずなのに忘れてた通帳が出てきた、出てきたけどその通帳はとっくの昔に口座解約してたやつだった、みたいなことも起きます。でもまぁそれが笑い話になったりするので。
自分のことで言えば、これらの作業を両親とやっていたら、なぜか押し入れの奥から父の結婚当初の給与明細の束が出てきたり、両親の結婚前デート写真が出てきたり、新婚旅行の時のメモノートが出てきたりとめちゃ楽しかった。照れて無口になる父、はしゃぐ母、はしゃいだ母は記憶力がぐんぐん回復していって笑った。
親子関係を改善しつつ、楽しくエンディングノート作りをある程度進めていくと、親の方からぽつりぽつりと、聞きにくいことを話してくれたりするようになる。人間関係構築は偉大。
父親が三男、母親が姉妹の長女だったので、母方の墓を引き継ぐんだろな…と漠然と思っていたのだが、母方の祖母(父にとっての義母)が100才近くで元気なのに、先に父が病気で余命宣告が出てしまったので、墓の所有者である祖母よりも先に娘婿である父が墓に入る可能性が高まっていた。
実は、父と、母方の祖母はあまり仲が良くなくて、母と私は「お父さん、お墓どうしようかねぇ…」と悩んでいたのだった。
父は、仲が良くない義理の関係の墓に入りたくないのではないか、それなら別に墓を用意するなり樹木葬みたいにしてもいいよね、と母と私は話していたのだが、一方で、母としては姉妹なので、実家の墓を継ぐ人がいなくなってしまう心配もしていた。お父さんは海に撒いてくれと言ってたけど私は一緒のお墓がいいのよね…とか、別に墓を買えばいいじゃん檀家の金もかかるしおばあちゃんが死んだら合祀しよう、とか、合祀にもお金かかるねぇ…なんて母と娘は少し前に話をしてはいたのだ。でも言い出せず。
ある時、余命カウントダウン中の父の病床で、子供たちと孫たちに囲まれて、私は父のそばで通帳とかの整理をしていた(生々しい)時に、父が私に「東京の爺さん(母方)の墓に入るから、よろしく頼むよ」と言ってきた。お父さんそれでいいの?嫌じゃない?と聞いたら、まぁ婆さんはアレだったが爺さんにはさんざん世話になったしなぁ!色々面倒だろうからお前頼んだよ、と言われた。
もし順当に「祖母死去→母に墓を相続→父or母が墓に入る」であれば簡単だったのだが、順番が逆になってしまったので、実際ちょっと面倒だった。祖母と叔母(墓にまつわる利害関係者)への相談と許諾をもらったり、何やら一筆書いたり、父のカウントダウンと追いかけっこで奔走した。もっと早くに聞けてればなぁと思ったが、まぁそれもタイミングだし、しょうがない。病床で、傍らに金勘定してる娘がいて孫がわらわらしているところで「俺はあの墓に入るぞ!」といった父の話は今でも家族の間で語り草の笑い話だよ。
母は、まぁ父の死の片づけをしたわけで、「自分の時はもっと効率的にやるわよー」と張り切っていたが、やはり割と急スピードで病を得て亡くなったので、志半ばという感じだったかもしれない。エンディングノートこそ作らなかったが、財産関連の書類はファイルに整理されており、友人関係については娘の私がかなり把握していたので、多くの人に葬式に来てもらえてよかった。ご近所のお友達はもちろん、中学高校時代からの長い付き合いのお友達や、職場の友人や転勤先で仲良くしていた友人や、私も知っている人や私も知らない人や、大勢が母の思い出を私たちに話してくれて、それがとてもよかった。
父は、生前自分のことを語らない男(昔の男性は割とそういうところがある)だったのだが、闘病が長くゆるゆると終活を付き合ったので、その端々で父がぽつぽつと話してくれた色々なことが記憶に残っている。
そして余命カウントダウン期間に「会っておきたい人をリストアップして!」と父に命令をしたので、大勢の人に見舞いに来てもらえた。なので正直、葬式の時はかなりラクチンだった。連絡先を聞いておけたし父の古い友人の中から葬式の手伝いをしてくれる人もいて、大学の仲間がだいたい何人ぐらいくるよ!とか、職場OBがだいたい何人くるよ、とか、取りまとめてくれて葬式代の見積がめっちゃ捗った。お父さん人望あったんだなぁ…だっていいやつだったもんなーお父さん、と、しんとした通夜の夜にポロリとしたりね。
何ていうか、「死ぬ」というのは人生の時間の中の一つの点ではあるのだが、一方で、その一つの点である死に向かう状態が延々と続いていくのが人生、特に老人の人生なんだよなと思う。
終活は、1カ月でで終わらせる!ということではなく、徐々にゆっくり何年も時間をかけて死んでいくタイムラインのなかで整理をしていくことで、その「整理する時間」ごと思い出になったりするような、妙に充実する時間だったような気もする。文化祭は当日より準備が思い出深い、みたいなことというか…。
親の終活を手伝うことで親との関係が良くなったりなんか味わい深い思い出が増えたりするから、早いうちから、家庭内イベントとしてやるのがいいのかもしんない。
一般的にはエンディングノート業界では、エンディングノートは定期的に(数年に1度)見直して、変わったところがあったら修正しておきましょう、とか言われている。まぁ生きていれば当然、財産の状態も友人関係も変化をするからね。なので「財産目録を作らねば」とか「エンディングノートを書いてもらわねば」というよりも、親子ですごく間遠な感じの過去日記をつける、みたいな取り組み方なのかもしれないな。