はてなキーワード: スイスイとは
デュアルディスプレイ、もしくは液晶タブレットや板タブを使ってる人間で、モニターアームを使ってないやつは馬鹿だ。今すぐ買え。
分かる。ちょっと前までは、まともに使えるモニターアームと言えば4、5万はするし、ごつくて重くて一人で設置するのは大仕事だった。
しかし、今は不良品ガチャさえクリアできれば、Amazonの中華製5000円程度でまともなものが来るし、クイックリリースなら10分もかからないし、腰も痛くならない(クイックリリース対応でないものには2000円程度の追加部品が必要だが、その価値はある機能だ)。
「机にクランプが挟まらない」というなら、もう穴開けちゃえ。どうせハードオフで500円で売れるかどうかも怪しい机だろう。粗大ゴミで1000円払う羽目になるんだから、穴なんかいくらでも開けるべきだ。ホームセンターの1500円の電動ドライバーと10mmのドリルピットでいい。ずぶっと開けちまえ。
それだけで、「自分の思うところにスイスイ動くモニタ」が手に入るのだ。ケーブルの配線も楽ちんだぞ、回るから。
モニタがスイスイ動くと何が良いかって、細かいストレスが減る。
動画見てる時は、ハイバックに寄りかかって目線上にした方が楽。なのでモニタを高くする。
資料を並べながら作業する時は二枚横に並んでると楽。なのでぐいっと横に回す。
リングフィットアドベンチャーやりたいが、机の前にスペースがない。しかし、裏にはある。裏側に向ける。
それが、くいくいっとモニタの端っこ持つだけで動き回るんだから、QOL上昇半端ない。中華アーム最高。
壊れたって5000円くらいだし、壊れた頃には手放せなくなってるから、お高い信頼と安定のエルゴなんとかとか買えばいいのだ。
自分は、テレビとソファでゲームするより、ゲームに合わせて視線を変えられるモニターアームの方が圧倒的に楽なので、HDMI切り替え機も買いました。というか、テレビもモニターアームにしたい。するか。
カプコンのアクションゲームに胸を熱くさせ、任天堂で育った人間だ。
それでもまだまだ新作PVを見ては心ときめかせて、今はFF7Rを少しずつ進めている。
歳のせいか、リメイク版ではクラウドが可愛くて仕方ない。そんなゲーマーだ。
格闘ゲームを初めて触ったのは、ストリートファイター2だ。
幼少期、友達の家でわちゃわちゃ騒ぎながら対戦した。
波動拳を打つことができるTくんが猛威を振るったが、友達同士の対戦は無性に楽しかった。
負けるたびにコントローラーを交代して、みんなで打倒Tくんと、一丸となった。
キングオブファイターズ、ギルティギア、鉄拳やバーチャファイターなど、
ただ、どれもひとりで遊んだことはない。
友達の家や、ゲームセンター。あくまでも、その場で遊ぶだけの対戦ツールとしての楽しみ方だ。
だから、ひとりでうまくなるために一生懸命努力したことはなかった。
昔から勉強も、授業を聞いているだけでそれなりにテストの点は取れたから、
きっと、似たような感覚だったのかもしれない。
もちろん新作が出ると手を出して、オンラインで対戦したこともあったけれど、
画面の向こうの誰かの存在を感じることができず、
「昔遊んだ格闘ゲームとは、なんだか違うゲームだな」と首を傾げたりして、
それよりデビルメイクライでお手軽簡単なかっこいいコンボを試したり、
無双シリーズでバッタバッタとザコ敵を薙ぎ払うほうが、遥かに楽しくて、気持ちよかったのだ。
そんな折、『グランブルーファンタジーヴァーサス』という格闘ゲームが発売した。
ソシャゲのグラブルを題材にした、2D格闘ゲームだ。(ストリートファイター2みたいなやつだ)
格闘ゲームは自分にとって敷居の高いものだと思っていた私だが、
グランブルーファンタジーヴァーサス(以下GBVS)については、ちょっと手を出してみようかな、と思った。
理由は3点。
ひとつはネット上の付き合いのある友達が、何人かプレイすること。
近年はDiscordなどのボイチャ環境が整ってきたため、小学校の時のあの間隔を味わえるのではないか、と淡い期待を抱いたのだ。
これなら格ゲーの浅瀬をちゃぷちゃぷしていた自分でも、そこそこ戦いを楽しむことができるのではないだろうか。
3点目。これが大事だった。そもそもグラブルをやっていた自分にとって、
あのかわいいキャラを操ることができるのは、非常に楽しそうだったのだ。
ジータちゃんが最初から使えないことには憤慨したものの、それはじゅうぶん手を出すに足る理由だった。
プレイするたびにすぐ辞めるのが、いつもの私の格ゲーにおけるパターンだ。
今回もそうなるんだろうな、という予想が、どこかにあった。
ともあれ「またすぐ辞めてるw」と友達に冷やかされるのも、悔しいので、
続けるための努力はするべきだろう。
さて、始めるとなれば、キャラ選びだ。
これが大事であるということは、今まで数多くの格ゲーに挫折していた私は痛いほど知っている。
まるで永遠の伴侶を決めるかのように、慎重になるべきだった。
私はペルソナ4が大好きで、その格ゲーが出るということで、狂喜乱舞したことがある。
その際は、最愛の伴侶として千枝ちゃんを選んだ。千枝ちゃんと添い遂げようと思ったのだ。
けれど……私は、挫折した。
キャラ愛だけではどうしようもならない壁が、そこにはあった。
私は千枝ちゃんを愛することができなかったのだ。
その反省から、今回は好きなキャラにこだわるのはやめよう、と思った。
できるだけ気楽にお付き合いができるような、そんな人だ。
私は『カタリナ』という女騎士を選んだ。
本家グラブルにおいて、カタリナさんはそれほど人気の高いキャラではない。
女性キャラとしてはむしろネタ枠で、グラブル内で連載されている4コマ漫画でも散々弄り倒されている。
私自身も、ヴィーラさんは好きだったけれど、カタリナさん自身にはいい印象も悪い印象も、なにも抱いていなかった。
なので「まあ、ジータちゃんが追加されるまで、お付き合いをお願いします」という気分で、彼女の手を取った。
彼女はこんな不誠実な私にも、「よろしくな」と微笑んでくれた。
交際を始めると、カタリナさんは確かに動かしやすいキャラだった。
必要なパーツはなにもかも揃っている。炊事も洗濯も掃除もできて、さらに素直な性格だ。
実際、カタリナさんはどのプレイヤーからも「強いキャラ」と言われていて、
自分がうまくなればなるほど、誰にだって勝てるポテンシャルを秘めているらしかった。
一緒にゲームを始めた、格ゲーに詳しい友人は「君がカタリナを選んでほっとした」と言ってくれた。
間もなく、格ゲーにおいて、操作が簡単である、ということの重要性を私は初めて思い知ることとなる。
少し話は変わるけれど、
誰もがグー、チョキ、パー以外に、
ギョス、メランダ、ポポポチーノ、アラモ、ショポーリ、スイギョー(適当)などなど、
30個ぐらいの手をもっている。
スイギョー、ショボーリ、パー、ニャフ、など4つの手に勝てる。他の24個の手とはあいこだ。
こういったことを、毎瞬毎瞬、頭の中で考えながら、試合を進めていくゲームだ。
難しいのだ。
複雑なルールが覚えられない私にとって、カタリナさんは救世主だった。
カタリナさんは、グー、チョキ、パーの三つさえ覚えれば、だいたいなんでもできた。
他キャラが30個の手を使いこなしてくる中、カタリナさんの手は三つで足りた。
初めて見る相手に、「えっ、なにその技!? どうやって対応すればいいの!?」と度肝を抜かれる攻撃をされても、
自分で調べてみれば、「なるほど、これは実はチョキで勝てる手だったのか……」とすぐに答えが用意されている。
対戦して、一方的にやられて、自分で調べ物をして、そしてまた対戦をする。
すると今度は、相手のゾゾゾジゾという手に勝てるチョキを用意した私が優勢に戦える。
対戦相手も私がチョキを連発するようになると、そのチョキに勝つ手を用意してくる。
これを繰り返していくと、私はいつの間にか、さっきまで手も足も出なかった相手と五分に渡り合えるようになった。
楽しい。
楽しくて、毎日GBVSをやった。
昨日あれほどボコボコにされたフェリに対して、一晩練習しただけで、それなりに勝てるようになるなんて。
すごい。
どんなに強い相手でも、カタリナさんがいれば「いずれは勝てるようになるかも」という希望を抱いた。
今まで私は格闘ゲームを誤解していたんだ、と気づいた。
私は格闘ゲームはゲームの上手い人がやるゲーム、という認識でいた。
バイオハザードでゾンビに一度も捕まらないようにスイスイとプレイする人が遊ぶものだと思っていたのだ。
けれど、違った。
格闘ゲームというのは、非常に複雑なジャンケンで、相手の行動に対してこれをすれば勝てる、という手を用意しておくゲームなのだ。
こんなにシンプルなゲームだったのか……と目からウロコが落ちた。
もちろん、それを教えてくれたのは、カタリナさんだった。
「カタリナさん、本当に強いね」
「なあに、私を上手に操ってくれる、キミがいてこそだよ」
カタリナさん……。
いつの間にか、私にとって彼女はかけがえのない大切な存在になっていた。
よくよく見れば、顔もめちゃくちゃ美人だった。
(余談だが、先日本家グラブルにおいて開催された水古戦場においてカタリナさんが使えて嬉しかった)
私はカタリナさんとともに、反復練習、そして調べ物を続けた。
負けては調べ、負けては勝てる手を考える。
少しずつ成長していった。
共に初めた友人はSSランクというメジャーリーグみたいな場所に旅立っていったけれど、
私もAランクというマイナーリーグでそこそこ戦えるようになっていった。
なによりも、自分が徐々にうまくなっていくのが楽しかったのだ。
私の実力があがると、カタリナさんはますますその力を発揮し、期待に応えてくれた。
いや、違う。私がカタリナさんの期待に応えれるようになったのが、嬉しかったのだ。
私のそばでは「キミは日々強くなっていくな」とカタリナさんが微笑んでくれていた。
彼女は出会った頃よりわずかに……いや、明らかに綺麗になった。(私は強めの幻覚を見るようになった)
途中のバージョンアップでもともとの本命であるジータちゃんが追加されても、
私はカタリナさんのまま、GBVSを続けていった。
「本当に、私でいいのか……?」と恥じらうカタリナに、私は大きくうなずいた。
「当たり前だよ。私にとって、カタリナさんがグラブルなんだ」
社会人ゲーマーになると、とにかくゲームの時間を捻出するのが大変だ。
積みゲーもたくさん増えてきた。
そんな中、回転寿司のように、次々と新しいゲームに手を出してはクリアーしていくのが、私の最近のスタイルだった。
ストーリーのないゲームに時間をかけるのは、無駄だと思いこんでいた。
けれど、GBVSは違った。
それだけ多くの時間、私はカタリナさんと共に過ごした。
そして、4月28日。
バージョンアップの日がやってきた。
先に言っておくと、カタリナさんは確かに強かった。
「仕方ないさ。格闘ゲームというものは、バランスが大事なんだ」とカタリナさんは寂しそうに微笑んでいた。
だから、ある程度の弱体化が入ることについては、私も納得していた。
「しょうがないよね。調整ってよくある話だし」
といっても、これは『頭で』納得していた、というだけの話だ。
よく格ゲーでは「修正しろ」だの「弱体化はよ」だの、声が多く上がる。
実際に私も、スマブラDXで友人のフォックスに宇宙の果てまで蹴り飛ばされた際には「修正しろ!」と叫んでいた。
だけど、私は本当の意味での『修正』という言葉を知らなかったのだ。
なぜなら今まで、本気で格闘ゲームに向き合ったことなどなかったからだ。
カタリナさんが弱体化された。
私の顔はたちまち青ざめた。
唖然とした。
メインで使用する近Bがなによりも、破格の弱さになっていたのだ。
近Bという技は、どんな状況でも万能に使える最強のチョキであった。
多くの手に勝つことができて、コンボでも重要な役割を担う、カタリナさんの愛刀であった。
なによりもモーションがかっこいい。レイピアを高速で振り下ろすと、空気を切り裂くようにそのしなりが見て取れる。
カタリナさんの力強さ、そして剣に懸ける想いがこれでもかと伝わってくる、袈裟斬り。それが近Bだ。
その近Bが、死んでいた。
『硬直を増やしました』『認識間合いを狭くしました』というそのたったふたつの言葉で、
カタリナさんの手触りはまったく変わっていた。
私は震える声で問いかける。
「カタリナさん、カタリナさん、大丈夫……?」
するとカタリナさんは笑顔でこう言うのだ。
そう、気づいた。
たったひとつの技が弱くなったそれだけで、カタリナさんは、
私が2000試合も共に歩んできたカタリナさんは、
まったくの別物になってしまったのだ。
私の結婚したカタリナさんは、もうどこにもいない。
これからは近Lという、漫才のツッコミみたいに手の甲をぺちっと突き出して柄で殴る技を、メインに使わなければならない。
「近Bか? しかしあの技は、使ったところで仕方ないだろう」
このカタリナは苦笑いをする。
「ガードされて1フレーム不利だ。立ち回りで振るような技じゃない。私はそういう戦い方はしないんだ」
違う。私のカタリナさんはそういう戦い方をする人だった。
私のカタリナさんはどこにいったの?
ちょっとずつヒット確認ができるようになっていった遠Cが弱体化されたことなんて、どうだっていい。
色んな所からヘイトを集めているJUなんて、削除してくれたって構わない。
だから、近Bを、近Bを返してくれ。
せめて微不利じゃなくて、五分にしてくれ。
私のカタリナさんは、2000試合で少なくとも近Bを2万回以上は振り回した。
その技が、処刑されたのだ。
格闘ゲームの『調整』がどれほど恐ろしいものなのか、私は初めて味わった。
セーブデータが消えるんじゃない。自分が今まで積み上げてきた『努力』が無かったことにされるのだ。
ただ受け入れることしかできない突然の交通事故に遭ったような気分だ。
有名プロゲーマーが「なによりも調整を恐れている」という発言をした際に、私は「そういうものか」と思っていた。
弱くなったキャラを捨てて、すぐに強いキャラばっかり使う人のことを「キャラに愛着がないんだなあ」と思っていた。
バカだった。
私のカタリナさんは、間違いなく近Bを主軸に攻め込むカタリナさんだった。
だけどもう、そのカタリナさんはどこにもいない。
別物だ。
「でもどうせ弱体化されるんだろう」という想いを抱いて、遊んでいくのだろうか?
ただ、ひとつだけ言わせてほしい。
ありがとう、カタリナさん。
あなたのおかげで私は、強くなるために努力することの大切さを知りました。
あなたのおかげで私は、格闘ゲームの楽しさを初めて知ることができました。
あなたがいなくなったグラブルを愛せるかどうかは、まだわかりません。
もしかしたら別の恋人を見つけて、恥知らずにグラブルを続けるのかもしれません。
ありがとう、カタリナさん。あちらへいっても、元気に近Bを振り回してください。
まあいうて、新しいカタリナさんでも、それなりに戦えそうではあるんだけどね……。
操作感が変わる調整は、やっぱつれぇわ…………。
コロナが嬉しくて仕方のない人、コロナもっとがんばれって思ってる人、自分の他にいませんか?
誰にも言えないけれどここ最近ずっと嬉しくて、ドキドキワクワクして、心のうきうきが収まらなくて、どこかにきちんと吐き出さないと、言いふらしてしまいそうだから、ここに残してみる。
自分はいままで散々、会社で色々な雑務が大量にふられて、自分の仕事が進まなかった。在宅勤務になってから、スイスイと仕事が進むようになった。ヒステリックに怒る人たちと顔を合わせずに済むようになって、心も健康になった。いま、怒鳴ればなんとかなった人たちや、下っ端に仕事を丸投げすればいいだけだった人たちが、困っている。
職場に行って理不尽な思いをしては、一人暮らしの家で深夜に「クソーっ!!!」と怒鳴っていた日々だったが、リモートワークになって職場に行かなくなってからは、どんなに家仕事が増えようと、心は晴れやかになるばかりだ。
コロナうんぬんじゃなくても毎日出勤しなくていい仕事をしてる人はいる。それに就けばいいじゃないか。
…やれたら既にやっている。結局、毎日出社しなくていい生活を手に入れたのは、作家だったり、ライターだったり、Youtuberだったり、その努力と才能のある人に限られている。自分のように、努力も面倒で才能のない者は、どこかの会社に巻かれて、出勤するしかない。
さらに自分は普段から死にたい願望が強かったので、「志村けん羨ましいな〜」とさえ思う。コロナでコロっと、この機に乗じて死ねるのでは?って。
リストカットなどをしているわけではない。けれど、生活をすること、生きること自体がめんどくさくて仕方なくて、だけど自殺を進んでするほどの勇気はない。そんな人、たくさんいるのではないか。そしてその人たちは、自分と同じように、コロナ万歳、って思ってはいないか?
「自分はいいけど、身内や親、大切な人が万が一コロナになったら嫌でしょ」という意見も目にしたけれど、仕方ないって諦められる。諦めるしか、人生病まずにうまくいく方法はない。
今となっては、コロナの心配もなく毎日出勤しなければならない世界線のほうがもっとこわい。コロナ、もっと頑張って人類を脅かしてくれ。
工場は高卒あがりばかりで、こういっちゃアレだが、自分の学歴からするとかなり格下の会社に入ったと思う。
人事的には数年現場も経験させて管理職ってプランだったんだと思う。
ネジしめたり掃除したりする単調な日々のなか、ある時60過ぎの再雇用の人から統計の手ほどきを受けた。
専門家からしたら子供の遊びみたいな簡単なものだが、不思議とスラスラと頭に入った。
一緒に習った数人のなかで、ドロップアウトしなかったのは自分だけだった。
自分だって数学なんか好きじゃなかったが、世の中の人は数式が苦手らしい。
ネジの長さやら瓶の重さみたいな単調なデータでも、解析すれば次から次へと新しい発見があった。
自分に統計を教えてくれた人は、統計は使えても、パソコンが並の老人よりマシ程度のスキルだったので、紙の記録からせこせこエクセルに手打ちで入力して、都度せこせこと式を立ててというスタイルだったので、自分だけが機械から出力されたcsvファイルからスイスイと統計解析できた。
仮説をたてて、データぶっこぬいて、統計量をだして、分布表にあててp値を出す、それだけのことが世の中の人はなかなか出来ない。
世の中の人のほとんどは、プログラミングはおろかエクセルもろくに使えない。配列数式くらいで部署で1番になれる。
あの頃は天狗だった。
そのうち現場を離れることが多くなり、法律を読んだり役所にだすお堅い書類を作らされたりさせられた。
世の中の人の半分くらいは、法律みたいな少し堅苦しい文章になるだけで、日本語の文章を読むことすらできないようで、その手の仕事でも重宝されるようになった。
そうこうしてるうちに、かなり大きな会社に買収された。
上司は親会社からの出向組で占められ、ここから出世は難しそうだなあと思い始めた矢先、人間関係のトラブルで会社を辞めた。
しかし、今度は大卒、しかも修士とか博士ばかりで、びっくりした。
ここでは大半の人よりも自分のほうが手が早いし、数字のハンドリングも、ITスキルも役所とのやりとりも出来る。
手先が器用で、サイエンスな文章を理解できて、数式を理解出来て、法律文書を理解できて、クラシックな統計解析が出来て、データベース操作と簡単なプログラミングが出来て、報告書とプレゼン資料が作れれば、どんな会社にいても重宝されると思うのだ。
どうしても疑問で。
と言いながら、
だから隠れてやりましょう
っていうのは、どうもなぁ……、と思いつつも、長年二次創作を続けていた。
長年書いていたおかげか、妄想出力速度と精度が上がって、第三者目線から見た出来はともかく、自分で読んで悦に入るには充分くらいの力がついた。
それで、これくらい二次で書けるんならもしかしたら一次創作も出来るんじゃね?と思って試しに書いてみたら、思った以上にスイスイ書けてしまった。他人が読んだらどう思うかはともかくとして、自分の理想は詰め込めるだけ詰め込んだし妄想再現率は90%を余裕で超えているので、私うっとり。読み返しては独りでグヘヘと笑っている。
ところが、一次創作では自分の作り出したキャラやカプの妄想をTwitterなどで呟いても、誰も賛同もしなければノッてくれることもない。当たり前だ。私のキャラやカプは私の脳内にしかいないのだから。かといってあんまり自分のキャラやカプの事を解説しては、自らの作品のネタバレを垂れ流すことになってしまう。
なので、ひたすら黙々と書き続けるだけになる。出来上がったものを自分で読んで、ゲヘヘするのはたのしい。幸いなことに、面白いと感想を貰ったりファボされたりもした。だが、二次創作みたいに、誰かと萌えを共有してキャッキャ出来ないのが、少し寂しい。
一次創作コミュニティに入るのも良いのかも知れないが、自分の書くものにしか基本興味のない私がそういうコミュニティに入ってもなぁ。
例えば、尼子惣兵衛先生とか諫山創先生みたいな、プロ中のプロだったら、自分のキャラでファンが妄想を膨らませてキャッキャするのを眺めたり、ファンからの質問を受けてキャラや世界観を掘り下げてみたりとかいうことも出来るのだろうなぁ。
でも、そこまで神になれるはずはないし、別になりたい訳でもないので、なんか寂しいぞ……と思いつつ、脳内一人相撲をしながら、今日も孤独な執筆作業をするのだった。
徹夜組が影響を受けたやら始発組が影響を受けたやらデマっぽいのが出回ってるので自分の体験を記しておく
自分が見た範囲だけなので事実誤認や覚え間違いはあると思います
自分は9時15分頃にりんかい線国際展示場駅に着いて、あらかじめリストバンドを購入していたので誘導どおりに進んだら東駐車場に行くことになってしまった
Twitterの検索結果を見たら8時台のどこかぐらいから11時ぐらいまで前後に来た人あたりが東駐車場に行くことになってしまったようだった
以前東館が使えた頃に何度も東駐車場に並んだことはあったが、今回はそもそも移動経路が大幅に異なっていた。
非常に細くて2、3人程度しか幅が取れずに階段によるアップダウンがあるルートを途中で通る羽目になった(防災公園の外側の大回り?)。一般の人とのすれちがいも発生してスムーズには通りづらい感じであった
もちろん横断歩道の待ちなどもあって、この移動だけで30分から1時間弱ぐらいはかかってしまった気がする
東駐車場では前から2つ目から3つ目ぐらいに作られた列についた
スタッフが「こんなフライパンを使う予定ではありませんでした。熱中症に気をつけてください」と話していたが、このあとあんなひどい状態になるとは思っていなかった
まったく人がいない状態の直射日光で十分に加熱された状態のところに来てしまったからか、「地面が熱いので直接座らないでください」という状態になっていた
周りに飲み物を入手できる場所はなく、(仮設トイレはあったらしいが)トイレについての案内も何もなかった
スタッフは数人ぐらいしか見かけなかった(周りで見たのは2,3人) 後述する体調不良者の続出もあって、まったく手が足りてなさそうだった
途中で「もうすぐ移動します」という話がスタッフからされたがその後一時間以上ぐらいは自分がいた列は一歩も進まなかったし前や周りの様子も何もわからなかった。
スタッフからの情報はほとんど何もなかったし、聞いた人がいても「わかりません!」という感じだった
並ぶのを諦めて列を抜ける人も結構いた
一番ひどいときには10分に一つぐらい何かが起こっていた気がしていてよくわからなかった
救急車両(消防車や救急車)が自分が見た範囲で3台、知り合いに聞いた話では8台ぐらい来ていたらしい
自分には何もできなかったので何も言う資格もない気がしますが、あの状況で対応していた方々は本当にありがたいと思う
本当にひどくなる前に自分は東駐車場から出てしまったのですが、下記のツイートが熱中症の救護にあたっていた人のもののようなので雰囲気を知るにはいいと思います
https://twitter.com/kawagoeairlines/status/1160459637927239684
自分がいた列の移動が始まったのが12時前ぐらいだった気がする
救護活動などでの混乱の中、列の移動が始まった。移動が始まったとともに隣の列の一部が急に溶けてこちらに混ざってきたような気もするがよくわからないぐらい混乱していた
横断歩道や細い道や階段を通るルートでここからの移動が更に数十分かかった。
コスプレをしてるところの間を抜けて正面の入り口に通されたが中から出てくる人の列と完全に交差していてなかなか進めなかった。中に入ろうとする東駐車場組と外に出る人たちが交互に移動していた
駅からやってくる人は特に交差をしているわけでもないのでスイスイとフリー入場していた
熱中症で命に関わる自体になる方がでないでよかった。救護活動されていた方々には頭が上がらない
入場規制が解除されていて、あとから来た方々がかなり前から入場できていたという話を見てわりとショックではありましたが、イレギュラーな対応だったとのことなのでしょうがないと思うしかないです
信号で止まっているときにスイスイと車を抜きながら車道を走ってる自転車を見ると、こいつ死なないかな、と思ってしまう
自転車って免許が必要ないから、そもそも交通ルール学んだことないやつが多い
ほんとうに堂々と逆走しているやついるんだもの
そのまま車と正面衝突してくれないかなって思う
しかも最近、なんの嫌がらせなのか道路の左側に自転車用のレーンであるかのようにペイントがされているんだよね
拡張もせずにペイントだけしてあって、車が抜けないんじゃないかって幅の道があって危険なんだよ
あいつら何を考えてんのか横にふらついたりして挙動不審なんだよ
車気分で道路を走らんでくれ
迷惑なんです、こっちは
みんな旅行とか行ったのかな。
積ん読してた本が2、3冊消費されたところでたまらなくなってエッセイ紛いのものが出来上がったので、どこに書くにも場所がないのでこちらに。
運良く窓際の席を取れたが、ゴールデンウィーク、しかも異例の10連休である故か通路には立っている人が端から端まで広がっている。自由席だからなのだろうが。
当日に特急券を購入するという考えが甘かったと悟ったのははるばる新潟駅に到着したその時である。慌てて自由席のチケットを購入し、1時間も前からホームに並んで電車が到着するのを今か今かと待っていた甲斐があり、無事に窓際で座り込んで駅弁を食べる贅沢をする権利を得た。
窓の外には平野の田園風景が広がっている。その遥か向こうにそびえる奥羽山脈の頂には、5月にもなろうかというのに相変わらず雪が降り積もり白く輝いていた。
奥羽山脈は手前の山に阻まれ隠れ、そしてまた姿を見せる。手前の山には仄かに淡い白さが点在している。どうやらあれは山桜のようだ。
そう、窓際の席とは山側なのだった。
初夏の日本海の底知れぬ青黒い美しさはえもいわれぬ郷愁が湧くが、遠く高くそびえる山脈の頂上の銀色もまたノスタルジーである。
列車が北に向かえば線路は海に近くなっていき、奥羽山脈は遠く離れて行く。その遥か向こうに見える頂に銀色が輝いていればいるほど、胸の奥が詰まってたまらない心持ちにさせられるのだ。あの山の上から下に降りてくればきっと緑が増えるのだろうが、初夏になろうとしている時季に尚白く輝く凛とした佇まいが胸を打つ。これを横目に眺めながら移動するとはなんとも美しい初夏の電車の旅である。
新潟らしく広く大きな田んぼの中ではトラクターが動いている。ちらほらと水が張られた田んぼも見られ、秋になればここ一帯は美しい金色の広がる風景が見られるに違いない。
さて、新潟平野の自然の豊かさ美しさは想像するに難くない。今回は駅弁をただただ食べている1人の女の話である。
そもそもの旅の出発点は京都なのだが、本日の始まりは富山からだった。富山発、始発の電車に揺られて向かったのは直江津である。つまりは日本海側を延々と北上していくのが今回の旅の目的なのだ。というか、それだけである。日本海側を北上して秋田に向かうのを目的とした旅だった。どこに書くにも宛がないし、需要もなにもあったものでないからこうしてつらつら散文を書き連ねている。
富山駅前に24時間経営または早朝から開いているお寿司屋さんなんかがあればおそらく私はそこに直行しお寿司を朝からとはいえお腹いっぱいいただいていたと思う。しかし富山駅前には何もない。朝5時から、もしくは6時から…更に粘って7時なんかにも開いている店、更にいうならば寿司屋なんて存在しない。7時台から開くのはチェーン店かモーニングをやっている喫茶店か何かだけである。そして元気に営業していたのは24時間営業の吉野家のみであった。
その時点で私は富山で味わう海の幸の幻想を頭の中から叩き出した。白えびの軍艦に唐揚げ、新鮮な蛍烏賊の踊り食いや辛子味噌和え、ずわいがにや幻魚、その他内陸では食べられないお魚などなどである。食べたかった。
しかしそうも言っていられない。猶予はあまり無いのだ。今日中に秋田のその先まで着かなくてはならない。家族と合流する予定がある。そのためにただ日本海を傍目に北上しているのだ。
あいの風とやま鉄道に揺られて泊駅に着けば、1時間近くの待機時間の後に直江津行きが発車する。その頃には7時も回っており、ワンマン運行の1両のみの車内には案外人がいた。
さて直江津に着くまでに私がしていたことといえば、ただ海を眺めることだった。
日本海は海が近い。個人的な感覚だがみんなそう思うのだろうか。太平洋側の事はあまり詳しく無いが、日本海の海は近く深くあるような気がする。その黒く光る朝の海の美しさと言ったら!まるで海の表面にも溢れそうに青魚の群れが泳いでいるかのように、白く立った波が時々日光を浴びて生き物のように揺れている。青さの深い、銀と灰色と藍と黒が混ざったような深い深い海色は、海から随分と離れた所に行ってしまった私の目にも優しく映った。遠く沖には白い漁船が横切って行った。すわ喘ぎそうになる郷愁を感じる。胸の奥に響いて打ち震えるかのような懐かしさと海への憧れが込み上がっては目の奥がじいんと熱くなった。
電車の揺れが心地よくてどうやら眠っていたらしい。これは最近しばらく満足に寝られていないせいだろう。気がついたら直江津駅に着いていて、次の電車が出るまであと1時間の間があった。
大正時代の立ち売り衣装に身を包んだおじさまがいるということをきちんと事前に調べておいた。スマホでなんでも調べられるとは便利な世の中になったものだ。
到着するのが9時前でなくお昼時だったなら今度こそ寿司を食べに行っていたが、時間がないのでそうも言っていられない。
電車好きの皆々様が声高らかに宣言するように、私ももれなくそうだと頷くことにしている。車窓から見える景色も楽しいものだが、そこにご当地の駅弁が加われば怖いもの無しであるし何よりお腹いっぱいになって幸せになる。
朝ご飯代わりに駅弁を購入する事を楽しみに直江津駅に降り立った。
改札口に向かうと、出る直前の部分にこじんまりとしたささやかな売り場がある。まあ何がどうなっているかは気になった人が各自で調べればいいので詳しくは書かない。
しばらく待ってもおじさまが来ないのでどうしようとウンウン首をひねっていたら、親切な黄色ジャンパーの方が声をかけてくれる。同じ会社の人のようで連絡を取ってくれた。すぐに戻ってくるそうだ。どうやら弁当が残り少なくなってきたから補充をしに行っていたらしい。
いただいたのは鱈づくし弁当である。しかし、戻ってきた駅弁売りのおじさまが持ってきた物の中にさらに目を惹く物が存在した。上越名物(?)スルメの天ぷらだった。本当にこれが名物なのかもわからないがとにかく美味しそうなので購入してしまった。繰り返すようだが朝9時前である。少しというか結構重たいラインナップなんじゃないか?との一抹の不安と、大人になった事によって気になったものをパッと買える喜びで押し挟まれながらわくわくと胸を躍らせた。
味や中身の紹介は調べればいくらでも出てくるので割愛するが、鱈づくしの弁当は珍しいものだし鱈子も入っていて味も良い。スイスイ食べれてしまう。しかもスルメの天ぷら、これが1番の食わせ者だった。とにかく美味しい。お酒飲みたい。これを文字通り酒の肴にすればいくらでも日本酒が進むこと間違いない。移動距離が長いため朝の脳内では流石に自重してしまったのだが、どうせ移動中に転寝するならお酒を嗜むのを選択するのが大人の行動だったと今になって反省している。今度こそは間違わず躊躇わずに酒を購入する事をここに誓います。
流れる景色を眺めながら食べる駅弁の味わいの乙な事と言ったら!と満足ながらもやっぱり少し重たかった。行儀が悪いのは重々承知で半分残し、今度はお昼ご飯にするためにとっておいた。
今が秋ならば目の前一面に稲穂の海が広がっているだろう。田園風景の美しさとは未来が楽しみなことにもあるかもしれない。
点在する民家の遥か向こうに山々がそびえている。その更に向こうに相変わらず悠然と存在する白い山脈の頂きを眺めながら駅弁の蓋を開けるこの瞬間の静かな興奮である。
美しい景色を眺めながら、その土地の食べ物をいただき、更に移動までさせてくれる。電車の旅でなければ味わえない幸福な感覚に1人で酔いしれながら最後まで食べきったが、終わってしまうのも少し物哀しい。
ここが機内食やなんかと違う所なのである。駅弁は去り際に満足感と一緒に微かな残り香を置いていく。決して美味しい匂いが残るわけではない。なんだか少し物足りないような、それでいて胸がいっぱいになるような、この土地に少し近づけたような、微かな証を残していく。
反対の窓の向こうには日本海が近づいてきていた。人と人の隙間からちらちらと光る海が見える。
一人暮らししている普段は、勉強をしようしようと思っても、とにかく苦痛で全然できなかったんだが、
同じ家に人がいると、すんげー楽。
思うに、俺みたいに自堕落な人間は、一人でいるとダメなんだな。
努力を見てくれる相手(悪く言うなら見栄を張る相手)がいるとスイスイできる事が、一人だと面倒で苦痛でどうしょもない。心の支えが無い。
一人暮らしはした方が良いとは思うが、
5年も10年もは続けない方がいいな。
小中高が実家 → 大学が一人暮らし → 大学を出て社会人2年目か3年目辺りで彼女と同棲
って感じの推移が理想的な気がする。
特に「自分のほうが先に並んでたのに」「自分のほうが先に乗ってたのに」という感情が強すぎてやばい。
例えば、二列に並んで電車を待ってたとき、自分が並んだほうはなかなか進まなくて、もう片方の列はスイスイ乗れてたりするとめちゃくちゃイライラする。
あとはバスに乗って、立つ場所が悪くて、あとから乗ってきた人が席に座れていく中自分だけはずっと立ちっぱなしだったり。
「後から来たくせになんで先に乗れてんだよ!/座れてんだよ!」という怒りの感情でいっぱいになる。
でも表に出すのはまずかろうと思って、平静を装ってる。内心じゃ舌打ちしてるし足踏みしてるけど。
今日は老人に横入りされてさすがに耐えられず「並んでるんですけど」と言ってしまった。
「ほぁ?」って言われてスルーされた。舌打ちをこらえるのに大変だった。
流石にあそこまで幅広い原料調達はしないけれど。
うちの研究室は合成系の中でも異端というか、単離も合成も(下手すれば活性も)やるマッチョ研究室。
なので、ド大量の原料を用意してそこから薬になる成分を抽出する。
数十キロ単位の海藻や植物、時にはホヤなんかもあるけれど、そういったものを破砕したり加熱する。
そうして出てきたものを抽出、抽出、精製、反応かけてまた抽出。時には装置なんかも使って綺麗にしていく。ここまで早くても一週間。
ゲームみたいに名前が分かるわけでもないし、どんな構造かもわからない。
なので一つ一つの化合物に分けて、どんな構造かを核磁気共鳴だとか赤外線だとかで逐一確認していく。
慣れればここは早いけれど、複雑なものだと時間はかかるし、ミスだって増えていく。
論文でよくミスが問題になるのもここで、「お前らがこの構造だっていうから作ったのに違うやんけ!」とよく合成屋の人から怒られる。
間違えずにスイスイ構造を明らかにする先生とか見てると尊敬するし、あの境地は無理だろうなって思う。
そうして有用そうだとわかったら、試験のために合成して供給量を増やしていく。
錬金釜に色々入れて新規アイテムを合成する感覚でやりたいところだが、これがまた時間がかかる。
アトリエシリーズだって一か月とか普通に経つけれど、こっちも同等かそれ以上、数年越しに合成できるなんてのもざら。
うちの研究室は数工程で済む合成が殆ど(その分合成種類数で稼ぐ)だけど、中には二十工程かけてものをじっくり作っていく人もいる。
この途中で新しい反応が出来たりするとそれについても調べて効率化しないといけないから本当に大変である。
そのくせ、完成したものを試験してみると全然病原菌とかに効果がなかったりするので報われない。
ゲームみたいに必ず効果がすぐ分かる(し、まず効果があることが約束されている)ようになればいいのに。
何をどう作ろうか、レシピを短縮できないか、もっと良い原料の集め方は。
考える本質は同じだけれども、時間軸をゲームと現実でずらすだけで、めちゃくちゃ体育会系になるんですよ(ゲーム同様楽しく思える時もあるけど)
アトリエシリーズをやるときに、こういった現実でアトリエやってる人もいるんだなってことを思い出してくれればありがたいっす。
仕事なんだけど、別に作品の価値について自分達が判断する必要はないのよ。魅力を見出したり好きになってあげる仕事ではないです。ただの作業。
けど、作業でも読んでるのが辛くって。ベテラン作家さんの本だと文章も内容もこなれててスイスイ作業できて、それが終わるとラノベが回ってきて、やだなー、しんどいなー、と思うようになった。ラノベでもたまに上手な人はいる。そういうときはラッキー。何度も推敲したんだろうなって思える丁寧な文章とか、しっかりした下調べがあってできるだろう描写とか。でも別にそういう本が売れてるようでもなくて。何でこれが売れてなくて、あれが売れてるんだーって不思議でしょうがない。文章の良さはほとんど関係ないってはずもないと思うんだけど…そうなのかな。文章も内容もあんまりなので、集中できなくてますます作業が長引くんだよね。気がつくと空を見てる。
なろう、というかエンタメ作品のランキングトップ層には、リーダビリティ特化した作品というのが必ずあるもんだろ。毎日かならず一定数連載して、どんなに低品質でも必ず数ページに一回は山場があり、深くはないながら難しさを一切要求しない作品というものが。
あー、そういう作品だったのかも、あれ。筋に関係ないことを長々と妙に感動的に書いてる不思議なパートがちょこちょこあった!数ページに1回の山場だったのか。なるほどね。ちょっと気が紛れる。ありがとう。以前、全く好きになれない内容の村上春樹を読みながら「やれやれ」だけをカウントしてやりすごしたのを思い出したわ。