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はてなキーワード: アインシュタインとは

2020-06-25

anond:20200625114945

だいたい役割特性がちがうのに、優れてるとか優れてないって価値観一元的でアホっぽい

からしたらアインシュタインよりおっぱいかい女のが優れてる

anond:20200625112947

それはあまり女性に失礼だわ

僕は増田よりたぶん、本当に優れた女性を知っていると思うな

僕の上司女性教授だよ

一般的な優れた男性と遜色ないレベル女性はいっぱいいる

元増田が言ってるのはアインシュタインとかレベル人類史上のトップブトップの話で、スタップちゃんとか言及するに値しない

2020-06-21

anond:20200621160913

別にホーキングが思いつかなかったら別の科学者が思いついてた。

あれは知識が溜まってきたら必然的に誰かが思いつくことを最初に思いついたことで名を残した

アインシュタインとかベルタイプの人だよ。

anond:20200621085027

上野千鶴子はマルフェミの人で、80年代後半ぐらいが理論的切れ味という意味では全盛期。

ジュディス・バトラーなんかがメインストリームになった後の話では無理解が目立つ。

量子論時代になってもアインシュタインが偉大だというのはそうなんだけど、

上野場合新時代理論に、理解が足らないのにいっちょかみしたがるのが問題なのよね。

若手の議論は若手に任せて、自分ができるところをきっちりやってくれればいいんだけど。

容姿について言及するのはタブー風潮が納得できない

最近の傾向になりつつある容姿について言及する発言不謹慎風潮が嫌いだし納得できない。

そもそもなぜ容姿のみ?いやわかるよ。容姿って一番目につく部分なのに生まれ持っての差が明確だもんね。わかるんだけど…それ容姿だけじゃないよね?

まれもって足が速い人もいれば遅い人もいる。記憶力がいい人もいればそうじゃない人もいる。歌唱力画力、その他でも生まれながらの差ってあるよね?なのになんで容姿だけ言及不謹慎になるの?

どれも能力に差はあれど、努力でも変えられる部分が大きいのは同じじゃない?

でもこう言うと 私がどんなに努力したって橋本環奈みたいにはなれない とか言われそうだけど、どんなに努力したってイチローみたいにはなれない人も多いだろうし、どんなに努力したってピカソみたいになれない人、バッハみたいになれない人、アインシュタインみたいになれない人…と、どんなに努力しても○○みたいになれないのは全てに当てはまる話だと思う。

容姿も他の才能と同じでしょ。ただ外見か中身かの違いで。

なのになんで容姿だけ言及タブー?外見が綺麗と言うのがタブーになるなら内面についての言及タブーしろよ。てかどっちも言えばいいだろ。言われたくないなら自分は言われたくないと相手意思表示をすればいい。それがコミュニケーションだと思う。ただ嫌だと伝えた上でその気持ち無視するやつはダメだ。付き合いをやめろ。

話が逸れたけど、日本は美への同調圧力が云々…てよく言われがちだが、美への追求をしたくて容姿への言及が欲しい人を排除する傾向になってない?と感じる。

恐らくそんなことはないと言う人が殆どなんだろうが…"容姿"に限定されるのがどうしても納得できない。その人を構成している全てが生まれもった才能ばかりなのに、なぜ容姿だけ…?

今までAだったけどBをする!という行動は凄く大切で素晴らしいものだと思う。だけどAを排除しなくても良くない?

この時代に〜てよく目にするけど新時代になったのなら尚更多様性を求めて多くの人がそのままでいられる環境に変えていけばいいんじゃないの?

新しい流れが以前の流れを殺す方向になるのは必要な部分もあるのかもしれないけど私は少し違和感があるし納得できない。

でも、容姿への言及を無くしたいって考えを持った人を否定したいわけじゃない。だからその人達はこれからも元気に主張を続けてほしい。私も元気に違和感を抱き続けるから

みんなが幸せになれる世界を目指そうね!

※これはあくまで私の気持ちを綴っただけだから正否の話ではないです。

2020-06-20

anond:20200620071559

「落ちた数が少ない奴は優秀」じゃなくて、「原因を調べずに再試行する狂人が居る」んだよ。「何百社に落ちた」奴はそれ。アインシュタイン狂気

2020-06-15

anond:20200615151556

アインシュタイン曰く「狂気とは同じことを二度やって違う結果を求めること」と言うが、この増田は明らかに結果に不満なのに同じこと繰り返してんな

2020-05-26

なぜ博士号をとったか大学教員になったのか

すまん。書き出しで結論を言うと、自分でもよくわからん

アカデミックあきらめた博士号保持者の記事が目に留まったので、運よく大学に残れた側のエッセイを書く。小さなころから科学者になりたかったんです、なんていう大学教員を見ると、眩しくてクラクラちゃうんだ。すまんな、憧れもなく大学教員になってしまって。

僕は少年時代に、科学者に対する憧れというものほとんどなかった。ニュートンとかガウスとかアインシュタインなんかの伝記を読み漁ったりして、心惹かれるものがあった。だけど、それは自分科学者になりたいという憧れとは少し違って、科学者仮面ライダーウルトラマンのように現実と断絶した世界にいるヒーローのようだった。

大学に入ると、教員たち講義を受けて、ずいぶん大学先生は楽しそうだと思った。あとでわかるが、それは誤解だった。ただ一人、すごく楽しそうに熱く語る先生がいた。専門を簡単説明する。それでいて奥が深い講義だった。僕はその講義に夢中になったが、周りの学生からは評判が良くないのが不思議だった。こういう先生なら、なってみたいかもしれない、とぼんやりと思った。

僕は研究者というよりは科学ファンだった。自ら新しい科学を切り開くということに、それほど魅力を感じなかった。それなのに、大学院へ進んだのは「もっといろいろなことが知りたい」という一言に尽きる。このセリフは厄介で、一見すると科学者適性がありそうだが、実際は逆だ。「ただ自分の興味が向くことを、気の赴くままに知りたい」という僕のような人は研究者に向かない。いったい僕は何になればよかったのだろう。大学院生としての一番の幸福は、図書館の薄暗い書庫顔パスで入り、紙が焼けているのにピンピンしていて、全く手を付けられていないような文献を読むことだった。だから論文が書けず苦労した。今もしている。研究者世界は手を動かす、アウトプットをするのが貴ばれる。研究世界に飛び込むことは少し違和感を覚えたが、もっと良い場所もなかったので居続けた。卒業したいので、しかたなく研究した。

学会で一流の知性に出会うのは、本当に楽しいことだ。僕にとってはスターライブであり、学会の懇親会で大物に研究の着想を聴いてみることほど楽しいことはない。

大学から学位記と一緒に追い出されるように飛び出し、一つ目の職場就職した。就職が上手く決まらなかったので、ダメなら別の業界に行こうと思っていた。だけれど何とか職場が見つかった。そこへ行った理由は、この業界にいれば、また暗い図書館での心躍る体験が、いつかできるかもしれないと、不純な希望を持ったからだ。着任した先では、学力が酷かったけれど、教員博士号持ちの熱血教師ぞろいだった。教員たちの教育に対する熱いパッションを聞かされて、なぜだかすっかり気持ちが冷めてしまって、他に居場所を探した。転職するためには、論文必要だったので必死研究した。欲しがりません勝つまでは、を地で行くスタイルで無理をした。体調を崩して大病してしまった。

なんとか次の職場を見つけ、落ち着いている。学生時代の環境を思えば、ここの学生世界が狭くかわいそうだと感じることもあるが、一つ目の職場と比べればだいぶましだ。すべては相対的だ。転職して、自分時間が増えたのでぼちぼち研究している。いつか解明したいテーマも懐にしまっている。いつか、は来ないので少しずつチャレンジしている。だけれども、ほとんどの研究時間は一日も早く給料を上げたい、そう思って不純だと思いながら心の血を流しながら論文を書いている。僕は興味が散発的なんだ、だから論文がこれほど憎たらしく感じられるんだと思い続けている。

博士号取ったのに大学教員にならなかった氏が言うように、大学が残念な場所であるとは認める。成績不良の学生面接したときは、部屋に一人残って泣いてしまうこともある、僕が。これから教員仕事うなっちゃうんだろうかって悩みつづける。実にこの業界ジリ貧だ。だけれど、大学教員以外に僕のふわっとした欲求を満たせる場所を知らない。雑用を投げてくるスーパースプレッター同僚もいるが、傷付きやすい僕を大学以上に放っておいてくれる職場を知らない。

文科省大学経営陣も学生も同僚もみんなクソだ。クソだけれど、僕はそんな奴らの戯言を骨抜きにしながら、今の場所に居座ってみようと思う。僕の興味と幸運の続く限り。

研究者にもなれない、だが学生を思いやる教育者にもなれなかった。一人でいたいから、学内政治家もっとごめんだ。いったい僕は何になればよかったのだろう。

2020-05-20

NHKニュースの真ん中の画面に

アインシュタインの顎の人が出てるのは何なん?

2020-04-08

自分人生には意味がないと思う」

健康診断メンタルヘルスチェックの問診票にこんな質問があって、なんだかなあと思った

人生意味があるわけないだろ

自己肯定感多寡を見たいんだろうけどさあ…

楽しく生きてて自分のことが好きなのと人生に「意味」があると思うことは全く別やんけ

スティーブ・ジョブズマザーテレサアインシュタイン加藤智大も、全員人生意味なんて無いだろ! って思うのはメンタルヘルスというより信条の話なんだよな

まあめんどくさいしそういうことを聞いてるんじゃないことはわかるから「いいえ」にするんだけどね でもクソ質問だなあとは思う

2020-03-18

レシート出すならデータくれよと増田思う万尾出す魔とヨレクターナスだとーシレ(回文

おはようございます

あのさ

レジレシートって長くない?私そこで思ったの。

忍者体操第一にある

長いレジレシート24メートルを頭にくくってそれが垂れ下がって地面に触れないようにして走る訓練をしようと思ったけど辞めました。

それ忍者ハットリ君のやつ!って霜降り明星さんの言うようにするところまでが遠足です!って

校長先生が言いそうだけど、

昨今そんなにしていくらレジレシートが長いからって

そんな修行に勤しんでいる人見たことないわ!

話変わるけど

お友だちにね、

作曲はしないのか?って聞かれたんだけど、

作曲ってなんか恥ずかしくない?自分の作文読まれてる感じがして私はちょっと恥ずかしいのよね。

メロディー旋律をのせるのはいいんだけど、

旋律メロディーをつけるのはできないのよ。

恥ずかしいわ。

長いレジレシートを頭にくくって走るか、

旋律メロディーをのせるかって、

どっちかって言われたら私は長いレジレシートを頭にくくって走ることを選ぶことを誓うわ。

そんな選手宣誓ばりの朝の私の主張を言ったところで、

じゃ今度長いレジレシートが来たら!って奮起していたら、

もう短いレジレシートしかこないと言う、

これもレジレシートあるあるよね。

レジレシートペーパーだけど、

あれは一向にペーパーレスにならないわよね。

電子決済で全部データは残っているはずなのに、

汎用データとして私たちも見られるようになったら、

レシート入らなくなるし

それ電子決済のいわば醍醐味じゃない?

自分電子決済で買ったものなのに、

その詳細は本人は分からなくて、

電子決済をとりまとめている会社が全部把握してるって話しも、

れいかに?って思うんだけど、

レジの全部の買ったデータが分かったら、

献立考えるのも楽になるし、

アレイ使ったっけ?って

アイツの頭を鉄アレイで殴った日も覚えてくれてるはずよ!って違う違う

れいつ買ったけ?のそこらへんの誤変換活用第三段、

し、し、しれ、しる、しれ、しよ!

五段活用なのに六段ある不思議

もうこれ何回も言ってるけど

中国のお友だちの大親友の満っちゃん

いっぴき、にひき、さんびきの

ひき、ぴき、びきをどの数字に付けたら良いのか分からなさすぎて

なんでも「ぴき」を付けてるところが可愛いと思います

そこ萌えるわ。

なんかこれ萌えるって使い方あってるかしら?そう思いながら、

私はお利口に花図鑑今日も毎朝1枚ずつめくって

花言葉を覚えるんだけど、

コスモスって秋桜って書くぐらいだから

秋の花よね!知ってた?って事務所の人に言われたんだけど、

その知識みんな知ってるんじゃない?ってドヤ風吹かせたところで

ふわっさーって私の髪も靡かせることは一切無いからね!

分かってるのかしら?

あ!そうそ

そのドヤ風でレシートぐらいは靡かせることができるでしょ?って

なにをもってか伏線回収か分からないけど

無理矢理繋げてみたら全部の伏線を回収する

SFファンタジーのような作品には仕上がらないけど

私はこれを書き上げたら延々と続くサーガというゲームマウントヘッドディスプレイをしてプレイし続ける

これって人類にとってのユートピアなのかディストピアなのか分からないけど、

窓枠が空いたようなバケツを頭に被って、

頭が360度ぐるぐる回ってる!ってやってる手品師の人たちは少なくともナポレオンズさんだと言うことは。

そっと閉じておく私のファンタジー物語の締めくくりにはとてもふさわしい演出よね。

膝の左右が入れ替わるマジックも、

あれ本場ラスベガスで見たら驚愕するからね!

うふふ。


今日朝ご飯

今日もなんか出掛けるらしいので、

しっかり食べておかない戸という意味も含めて、

タマサンドと厚焼き玉子サンド

思いっ切りタマかぶりしているけど、

私は平気!

最近緑茶業界界隈で

粉末緑茶が良いらしいと言う情報をゲットしたので、

私も粉末緑茶チャレンジしてみたい人体実験を試みたく健康に良いのかしらね?って思いつつ、

今日の日刊緑茶新聞をよみながら、

今日デトックスウォーターである

ホッツ緑茶ウォーラーを飲みながら思ったんだけど

実際にはどうなのかしらね

自分の身をもって体験したことじゃないとってアインシュタインさんがいってたもんね!

やってみようかしら。


すいすいすいようび~

今日も頑張りましょう!

2020-01-03

anond:20200103154522

相関関係があることと、因果関係があることはまた別だ。

相関があっても何の関係はないことはよくある。

 

出生率が高いのは子一人を育てるコストが低い社会だ。

まり小卒の単純労働力を多数求めるような発展途上国である

 

産業が発展してきて4次、5次となっていくと、より高度な教育を受けた人間必要になる。

より高度な教育を受けた人間はより高給をもらえる。

たんじゅんに勝ち組である

 

男はこの勝ち組を目指す志向が強い。より高度な教育を受けたことで高給職についた男は

自分の子にも高度な教育を受けさせようとする。

しかし、高度な教育親の金銭をより必要とする。つまりコストである。 

コストな子を育てるためには、同じように高度な教育を受け高い資質保証される妻であるほうが効率が良い。

 

そういうわけでまず男が高コスト化し、

次いで女が高コスト化する。

 

このコストを下げるためには…あれであるアインシュタインが語った第四次世界大戦

この第4次世界大戦後には、日本出生率は"回復"しているであろう。

人口も減っていて産めよ増やせよ雰囲気だろうしね。

2020-01-01

100分de名著シリーズバックナンバー約100冊を読破したら人生変わった

補足書きました

思った以上の反応を頂いて驚いてます

コメントへの返信など、追記しようかと思ったのですが、長くなったので別記事しました。

興味あったら見てください。

https://anond.hatelabo.jp/20200102201209

はしがき

釣りっぽく書いたけどほんと。

結構色んな意味読書知識というものに関する意識が変わったので、なんかアウトプットしたくなった

なお、名著そのものを知ったことに関する感銘とかは今更私が言うまでもないので省きます

書きたいのは100分de名著シリーズ対象にした読書を集中して実施したことに関するメタ効果に関して。

ちなみに、読破したと言っても読破したのはあくま解説本。

スペシャル版とか、ブックス版はもう少し厚いけど。どれも約120ページで、読書慣れしてる人なら2-3時間で読める量だと思う。

いやそれじゃ読んだことにならないだろ原典あたれよ、って思うよね。私もそう思っていた。

から最初20冊くらいは解説本を読んで、原典にあたって、と繰り返していたけど、以下の2つのことに気づいて一気に解説本を読む方向に転換した。

原典を読むのは、それが終わってからでも遅くないと感じた。

本の解説で繰り返し取り上げられる要素(人名思想歴史上の出来事など)があることがわかった

勉強とか、何でもそうだと思うんだけど、繰り返し出てくるものって記憶に定着しやすくなる。

さらに、その要素が「影響を与えられた」もの解説として出てきたり「影響を与えた」もの解説として出てきたりする。

何でもそうだと思うんだけど、流れというか構造の中にある知識って単発の知識より遥かに定着しやすくなる。

なので、バックナンバーの中で関連のありそうな同時代、同地域、同分野の本をグループ化して間開けずに読んでいくのが効果的に思えた。

原典が全16巻とか(おまけに明治時代の訳だったり)あるものがあった

まぁ要するに、それを読むだけで半年とかかかりそうなものがチラホラあったということ。

そこに突っかかっているうちに飽きて来ることを懸念した。

実に20年ぶりくらいに読書エンジンがかかっていることを実感していたので、これに水を指したくなかった。

約1年かけてバックナンバー読破して効用として感じていることは、、、


文系学問価値理解できるようになった

ちなみに私は理系出身

よく「文系は作者の気持ちでも考えてろ」と言われるけど、「本気で作者の気持ちを考える」ってのは実に尊い活動だと考えられるようになったこと。

今みたいにリアルタイム意見のやり取りが出来るわけでもないのに、驚くほど人間の考えや意識ってのは「繋がって」いることがわかった。

ある偉い人がいいことを言うに至った過程を忘れてしまうのは人類の損失だなと。というか、理系と一緒なんだよね。

アインシュタイン相対性理論だって洞窟暮らしていたアインシュタインがある日突然思いついたわけじゃない。

それに、曖昧さを嫌い、論理にはもととなる論理が明確に存在する理系学問「ですら」そうなんだけれど、

現時点の主流見解は現時点の正解ですらなくて、考え直しが迫られるのはよくある。

そういうとき、どこから間違っていたかどこから考え直すためにも歴史的な思考の経緯は絶対に失わせてはいけない。

文系学問の究極の目的は、新しい思考を生み出すことと思っているけど、新しいものを生み出すために今までの流れを知ることも必要だ。

果実を生み出すのがポンと生まれてきた天才的な作家哲学者だけれど、

天才誕生を待つ間その過程を丁寧に残すのがむしろ普通文学者役割で、

アカデミズムとしての文系学問の真髄はそちらにあるのかもしれないと思った。

これ、理系ブレイクスルーを起こす天才待ちと同じ構図だよね。

天才、と呼ばれる人間自身の業績についてちょっと違う視点物事を捉えただけ、とかちょっと違う組み合わせを思いついただけ、と語るのはよくあることだ。)

大学教育意味について捉え直せた

バックナンバーの消化も終わりに近づいたことろ、私は思った

「かなりいい勉強になった」

大学生の頃にこういうことをやっておくべきだった」

「というか大学でこういう講義あってもいいのに」

「あ、でもこんな事やってたらそれだけで四年間終わっちゃうか?」と。

そこで計算した。

100分deというくらいなので上記解説本一冊は、約100分の映像となる(補足説明踏めると1-2割、解説本のほうが情報量多い気がするけど)。

以下、とても雑な計算だけれど。

大学はだいたい15時間講義で1単位とされる。

まり900分だ。上記解説本でいうと、9冊。

100冊なら、約11単位計算してみて驚いたが、たったそれだけ。

一般的大学生は1年に20-30単位取得するだろうし、卒業には120単位程度必要だ。

定義サボり気味の大学生の半期分程度の勉強しかしていないことになる。

嘘でしょ?

驚いたついでにもっと攻めた想定をしてみる。

こんなことを意識している大学生はほとんどいないと思うけど、15時間講義には、30時間の事前学習と30時間の事後学習が想定されているらしい。

http://www.ohshiro.tuis.ac.jp/~ohshiro/univlaw.html

1冊辺り6時間程度の読書時間が追加で想定できるわけで、

原典には上記したとおり全16巻あるものもあれば、100ページもないものもあるから、慣らすとだいたいそれで読めてしまうとする。

するとつまり大学とは本来

「最も頭の冴えた4年間に」「専門家が選んだ良質なテキストを」「専門家解説付きで、必要なら質問し放題の環境で」「1200-1300冊読んで理解する」

場所だ、ということだ。

ああ、確かにそれをこなせば立派な「学士様」になれたろうと思う。

私は修士を持っているが、この10分の1も学士になれた気はしない。俺はなぜあん無駄時間を、、、

可能なら、放送大学なりでもう一度大学生をやってみたいと思う。

叶うなら今度こそ、学士になりたいものだ。

読書習慣と、読書をする体力を取り戻せた

なんというか、これから実施していきたい諸種のおもーい本を含む読書に挑む筋トレというかジョギングと言うか、基礎体力を作ってくれた感ある。

活字を追う体力、意味を捉え続ける体力みたいなのがないと、ほんとうの意味読書趣味にすることは出来ないと思った。

ていうか、楽しむ余裕がない。

スポーツと一緒で、やる気と勢いだけでやっても続かないと言うか。

この1年やってきたことは運動部の1年生が実施するような、練習をするための練習。これがまず必要だったとろこで、その役割果たしてくれたと思う。

練習のための練習として、この「解説読破」が有用だったと思う理由は以下の2つ

2-3時間で1冊終わること

週末、朝と夕方に一時間読む気でいればその日のうちに「また1冊読めた」と思って寝れる。

平日でも、風呂に入ってる30分で読めば25%終わり、はっきりと進んだ位置しおりを挟んで寝ることが出来る。

進捗が目に見え、さらにすぐ終わりが見えるというのは精神的に楽だ。

無駄足にならないこと

価値保証されている書物を、その書物についての深い理解があることが保証されている著者が解説する本であるということは、

読んでいた時間無駄になることはない(たとえ激烈につまらなくても3時間で終わるし、つまらなければ原典を読む必要はないという判断ができるということだ。)

という確信を持って取り組めるということだから、これも精神的に楽だった。

つらいだけのうさぎ跳びとかしたくないのよ。

今後読書を続ける動機づけになった

いろいろな本の中で語られていたことだが、

日々「モヤッと」してることはたいてい昔の人も同じこと感じていることがわかった。

下手の考え休むに似たりではないが、自分程度が疑問に思ったことはきっと昔の頭の良い人が一生かけて考え抜いているので

自分の中で結論出そうとするより同じ疑問を持っているであろう偉人の著書にあたったほうが

考えを前進させる上でコスパが遥かに良いことが芯から理解できた。

実はこれが一番の収穫だと思っている。

これから

というわけで、これから年末にかけていよいよ原典にあたっていこうと思う。

の前に

山川日本史世界史を買った。

解説読破の中で出てきたいろいろな付随知識、これがまとまりそうで纏まらなかった。

これをまとめてからの方が、今後の知識吸収速度が格段に上がりそうな気がすると思って、適切な本を暫く求めていたが結論まさか高校教科書だった。

今読むととんでもなく面白い本だ。まさに私の求めていたものだった。無論完璧じゃないが、知識統合がすすむすすむ。

なぜ俺はあん無駄時間を、、、と思うけど、おそらく解説読破と順番が逆じゃだめだったろう、OKOK。

さて、年末山川をやっつけたあと、原典の中で特に気になっていたものを30冊ほど買った。解説本で実施した筋トレ効果で読むスピードが上がっているが、

途中で気になった関連書籍とかその年気になった本とかをはさみつつ、100冊(巻数でいうと200近い)読み終わるのは3年後くらいの想定だ。

来年シリーズは続いていくので、積ん読もどんどん増えるだろう。

やりたいことが増えていくともっと若くからやっときゃよかったと思うことばかりだけど、

何もすることが無いよりはいいか、、、

とりあえず、今買った30冊とプラスαくらいは、今年の年末までに読み終わっておきたいところだ。たぶん出来る気がする

2019-12-22

雨の日

わたしはややあって整体師をしている

色々なお客様がいらっしゃる

今日最後お客様は、長い黒髪大学生だった

お団子に結い上げていた髪の毛をほどいてもらい、施術台に寝てもらう

今日はお休みですか?」

明日試験なんです。なんかもう、疲れちゃって」

「お勉強されてたんですね」

「お勉強しない自分に疲れちゃったんです」

なにをお勉強しに進学なされたのかはわからなかったけれど、彼女の肩はとてつもなく凝っていた

今日で一番だった

とんでもなく労働基準違法した企業会社員だった時のわたしの肩と並ぶほどに

ケアされているであろうしっとりした肌とのギャップが印象的だった

着ている服は大学生御用達、安い量産ブランドのものだったけれど、それでも彼女は研かれた美しさを持っていた

「雨の中のご来店、ありがとうございます

と声をかけてみたけれど、彼女はもう夢の中だった

背中も腰も、凝っていた

彼女スマートフォンの通知の音と雑音、ヒーリング音楽だけの世界だった

彼女の寝顔は、わたし会社員時代恋人に似ていた

とても綺麗な男性だった

地元に帰らなければならなくなった彼も、いまや一児の父である

建築業を営みながら、奥さん二人三脚育児に励んでいるらしい

SNSでそう知ったとき特に思うことはなかった

ただ、わたし子供ができていれば、いま彼はまだ東京にいたんじゃないかと、そう思った

「強くなりましたね」

彼女が声を出した

起こしてしまったのかもしれない

「雨、今日はだいぶ降るみたいですよ」

「雨足じゃなくて」

彼女こちらを見た

「お兄さんの、力」

彼女の正面の顔は、元恋人に似ていなかった

すみません、癖なんです。考えごとをしていたから」

「それくらいの方が好きですよ。たくさん考えましょ。わたしもいま考え事してました。アインシュタイン相対性理論提唱しなければよかったのにって」

彼女理系らしい

意外にもあどけない顔で笑う彼女に、つい笑い返してしまった

彼女ともう少し話がしたいと思った

雨足は弱まっていた

2019-12-19

anond:20191219212939

アインシュタインは「本で調べれば分かることをなぜ覚えておく必要があるの?」と言ってたらしいぞ

2019-11-19

静止質量が持つエネルギーmc^2だとアインシュタインが言ってた気がする。

動いてる物体運動エネルギーは(mv^2)/2と習った。

となると光の速度で動く物体は(mc^2)/2になるのかな?

何で半分しかないの?

そもそもくらべちゃいけないの?

教えてエラい

2019-11-17

哲学黄昏

http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html

サーバメンテナンスみえないっぽいけどめちゃくちゃ面白いね。いまさらだけど。

谷村先生は本当にまじめな先生だな、と思う。

メタな話をすれば、哲学者側は最先端物理学者との対談で自分の論に箔をつけて業績にできるめったとないチャンスで、対する物理学者側は正直こんな本が出ても業績としてたいして価値があるわけでもなく、無難お茶を濁しても誰も何も言わないだろう状況へこのガチファイターの投入である。(ほめてる)

流血覚悟、魂をこめた渾身の右ストレート

そしてこの叫びである

https://twitter.com/tani6s/status/1193542355975950336

https://twitter.com/tani6s/status/1193542463169810432

谷村先生人間味が感じられるツイートお気に入りである

心の哲学が何を問題にしているのか、とか全然興味なかったけど、おかげさまで浅いなりに理解できたし興味も出てきた。谷村先生が頑張らなければひっそりと専門書の棚に気付かれることなく置かれてるだけだったかもしれない本だったかもしれず、関係者谷村先生感謝しすぎてもしすぎることはないんじゃなかろうか。

ところで谷村先生が指摘した部分というのは、理系研究者人間であれば多かれ少なかれ感じていたが言語化するのがためらわれた結果、これまで表面に上ってくることのなかった問題のように感じる。

学生の頃、人文系研究室卒論科学研究室卒論とを同じ発表会で見る機会があったけど、科学系の教授の人文系の発表への容赦ないツッコミを思い出した。

用語定義しろ立論にしろ結論を導く論理しろ君たちあまりに緩すぎないか?というのが共通する雰囲気だと思う。

科学が発達していなかった昔、哲学科学がまだ扱えない領域を先んじて論理の力で掘り起こす役目を担っていたと個人的には思う。(谷村先生の期待もこういうものではなかっただろうか。)

だが色彩論でのゲーテニュートン批判とか、時間論でのベルクソンアインシュタイン批判とか、科学哲学に先行して真理を掘り起こした結果、取り残された哲学が宙ぶらりんのままになる状態19世紀以降は顕著になってきたんじゃねえかと思う。まあ哲学のことはよくわからんのでアレだが。

ベルクソンアインシュタイン対話翻訳ネットで拾って読んでみたが、ベルクソンが長く理解しにくい文章で考えを述べる一方、アインシュタインは明晰で短い文章でバッサリと切っていて既視感がすごい(語彙力)

今、AIとか脳科学研究が進んで、心に関する諸問題哲学ではなく、科学俎上で実際に解決される可能性が高くなってきたと思われる。

意識ハードプロブレムとかも、哲学からの「まだまだ科学に扱えないものがあるんだよ!!」という断末魔叫びのようにも感じられる。

だが科学は進む。

意識問題も脳というハードウェア上に構築されたニューラルネットワーク状態空間として科学領域に取り込まれ哲学領域はまた一歩小さくなっていくのだ。

地動説人間の住む地球宇宙の中心ではなくなったように、進化論人間が神に作られた特別存在ではないことがわかったように、有機物生命作用なしに合成できることがわかったように、意識もまた特別な何かではなく、我々自身哲学的ゾンビなのだということを認めざるを得ない瞬間が必ずくるだろう。

キリスト教根底にある思想最後まで魂の特別性に拘泥するかもしれないが仏教だと五蘊皆空と思えばどうということもない気もする。

まとまらず終わる。

2019-11-14

京大博論を元にした本が東大紀要書評フルボッコされてる件

日本大学特に文系学問に対する風当たりが厳しい昨今、文系学者達は自分たち存在意義を示そうと必死だ。大学で行われている文系研究は、どう役に立つかはともかく、それ自体研究としてちゃんとしたものなんだ!ということは前提となっているし、みんなそう信じている。文系先生達は決してSTAP細胞のようなデタラメをやっているのではないと。

だが、それは本当か? 証拠はあるのか? 最先端研究専門家でさえ評価が難しい。たとえばアインシュタイン一般特殊相対性理論を作ったけど、時代の先を行き過ぎていて正当な評価がされなかったそうで、ノーベル賞は他の業績に対して与えられた。文系研究基本的には同じで、研究の良し悪しを判断できる人は極少数だ。だから、知らないうちにトンデモない研究がはびこっていて、それに社会的評価が伴っていても、ほとんどの人にはわからない。専門家が厳正に評価してくれていることを信じるしかない。

パンドラの箱が開いた

本題に入ろう。最近、1つの書評論文東大言語学研究室発行の紀要に出た。

田中太一日本語は「主体的」な言語か―『認知言語類型原理』について―」『東京大学言語学論集』 41 (2019.9) 295-313

https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=53475&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1

書評された本は『認知言語類型原理』(京都大学出版会)。

https://www.amazon.co.jp/dp/4814001177/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_6P9YDbPVN9WJ2

著者は、関西外国語大学 短期大学部 英米語学准教授中野研一郎先生

 

普通書評というのは基本的にほめるものだ。批判はあっても最後ちょっとだけ。しかし、この書評は、冷静な筆致でありながら、酷評酷評、ボロクソ、クソミソ、ケチョンケチョンフルボッコだ。一個もほめてない。批判が当たっているなら、トンデモ本に違いない。

こうすればあなた博士になれる

一番ヤバいのは、この本が博士論文を元にしたものということ! 一応説明しておくと、博士論文とは、最高の学位である博士」の学位を取るために大学院生が何年もかけて書く長大論文で、大雑把に言って本1冊以上の分量がある。もちろん、何でもいいからテキトーに書けばいいわけではない(はずだ)。自分オリジナルで、学術的に価値のあること、つまり、これまで誰も知らなかった知見を新たにもたらして人間知識を拡大するような研究の成果でなければいけない。どの分野でもそうだ。

そして博士論文原稿は、3~5人の審査委員審査する。審査委員は全員、その分野に詳しい大学教員だ。審査は3回くらいある。まずは博士論文の大枠ができた後、本格的な執筆にゴーサインを出すかを決める一次審査、そして論文が大体書けた後、論文大学に提出していいか審査する二次審査最後論文が完成し、大学に提出された後、博士学位を与えるか否かを決める最終審査がある。それぞれ少なくとも1時間はかかる本格的なものだ。ディフェンスと言われる最終審査の口頭試問は、公開で行われる。最後に別室で結果を審議した審査委員が会場に戻ってきて厳かに合格が伝えられると、みんな拍手で心から祝福する。

ミサト:おめでとう!

アスカ:おめでとう!

レイ:おめでとう。

シンジ:僕はここ(アカデミア)にいてもいいんだ!

研究人生のフィナーレではないが、1つのピーである。こうやって研究者の能力お墨付きを与えるのが大学存在意義の大きな一部分だ。

要するに、博士号を取るのはとても大変なのだ日本だと博士号を持っている人は1万人に1人くらいしかいないらしい。日本大学は入るのは難しいのに出るのは簡単だとよく言われるけど、大学院の博士課程はそうではない。入るのも修士課程ほど楽ではないし、文系では入っても博士号を取れない人の方が多いくらいだ。これだけ大変だから博士号はアカデミアでは評価される。大学教員になるなら、博士じゃないとエントリーすることさえほぼほぼ不可能。『認知言語類型論』の中野先生は、フェイスブックを見たところ、以前は高校先生だったみたいだけど、博士号をとってから、50歳を過ぎて関西外国語大学准教授になったようだ。周知の通り、大学終身雇用教員の座をめぐる争いは非常に激しい。博士号がなかったら就職できなかっただろう。

 

博士号はどこの大学でとっても価値は同じ、みたいなことを何度か読んだことがあるけど、あれはデマ。真に受けてはいけない。いい大学博士号ほど高く評価される(Why not?)。中野先生がお持ちの京都大学博士号は、京大が超一流なのと同様、超一流の博士号だ。50歳を過ぎて大学就職できたのも不思議ではない。しかも、中野先生師匠は、日本言語学界の大物中の大物、山梨正明先生だ。『認知言語類型原理』に山梨先生が解題を寄せているから間違いない。この大先生は、「日本代表する理論言語学者の一人」([wikipedia:山梨正明])。中野先生が在学していた頃には、日本語用論学会(2008〜2011)や、日本認知言語学会(2009〜2012)の会長を同時に務めもした大物中の大物だ。ちなみに、山梨大先生2014年度に京大を定年退官して、2015年から中野先生より一足早く関西外国語大学で教鞭をとっている。ちょっとややこしい話だが、博士論文審査が終わる前に京大を定年退官したようで、審査主査ではないが、審査委員には名を連ねている。https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/199376 博士論文を書くのに何年もかかるから、こういうことはよくある。

日本語に主語目的語、態、時制、格、自動詞他動詞はいらない?

さて、超大物お墨付き博士論文(を元にした本)はどんなもんなんだろうか。書評から拾っていこう。2節は専門的な議論でよくわからいかパス。3節「日本語に存在しないとされるものから見ていこう。まず、1節に同書のまとめらしき部分から引用がある。

日本語(やまとことば)」を深層とする日本語において、「形容詞 (adjective)」・「主語 (subject)/目的語 (object)」・「態(voice)」・「時制 (tense)」・「格 (case)」・「他動詞 (transitive verb)/自動詞 (intransitive verb)」といった、従来ア・プリオリに前提とされていた統語・文法カテゴリ妥当していないことも論証した。さらに、「膠着」言語の一つである日本語」においては、その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしていることを論じた。

(『認知言語類型原理』[以下、中野 2017] p. 308、書評論文[以下、田中 2019]p. 295から禁断の孫引き。以下、同書の引用は全て孫引き)

昔、『日本語に主語はいらない 百年の誤謬を正す』[amazon:日本語に主語はいらない]という本が出て、言語学者に酷評されたことがある。金谷武洋日本語に主語はいらない』批判記事一覧 - 誰がログ https://dlit.hatenadiary.com/entry/20071216/1197757579

主語がいらないと言っただけでそうなったのに、『認知言語類型原理』は、ミニマリスト断捨離なんてもんじゃない。主語だけじゃなく、形容詞、態、時制、格、自動詞他動詞も、いらない、何も、捨ててしまおう~♪と謳っているらしい。全部なしで日本語の文法はどうなっているのかというと、「その語・語句・節の生成メカニズムは、「音」自体に「意味」を見出す「音象徴 (sound symbolism)」を基盤にしている」ということらしい。

「音象徴」の名の元に蘇る亡霊

これは熊倉千之氏の「音象徴理論に基づいているそうで、熊倉氏は、

膠着語にかんして、「イメージイメージを膠でつけるように、ことばができているのです。ですから、具体的なモノとモノをつなげると、言語(コト) としての「抽象」 性が生まれ、新しいことばが作られるのです (熊倉 2011: 18)と述べた上で、日本語の音素はそれぞれ何らかのイメージを持つという観察を根拠に、やまとことばの「音声と意味」には、ソシュールの説に反して、「恣意的」ではなく、密接な繋がりが感じられる」 (熊倉 2011: 30) と主張している。

(これも田中 2019: 309から禁断の孫引き

熊倉千之 (2011)『日本語の深層〈話者のイマ・ココ〉を生きることば』東京: 筑摩書房.

とのこと。

近代言語学の父、ソシュールの一番有名な恣意性原理否定しているが、それ自体はない話ではない。音象徴が当てはまる例として、ポケモンとか怪獣名前は、音と意味関係が全く恣意的なわけではない、みたいなことが最近よく言われている。ただ音象徴基本的オノマトペ擬音語擬態語)や新たに名前を付けるものについての話、しかあくま傾向性言語全体の「語・語句・節の生成メカニズム」になるようなものとして扱われてはいない。しかし、中野説はそういった主流の音象徴研究とは一線を画する。具体的に見てみると、

「あ/a/」は「空間出来の語基」 として、「い/i/・居」 は「様態化の語基」 として、「う /u/・続」 は「プロセス化の語基」 として、 「音象徴」 により語彙を創発させる機能を担っているのである(中野 2017: 247) 。

知らなかったー、日本語ってすごいですね(棒)。たとえば、「合う・会う」は、「あ/a/」+「う /u/」だから、「(出来)動詞」だそうだ。書評子が、

「「出来」が「プロセス化」すると「合う・会う」になるという説明は到底理解できるものではない」(田中 2019: 309)

と言う通りだ。「あい」(愛とか藍)はどうなるんだろう。中野先生によると、音象徴

日本語(やまとことば)」の同音異義の語の数の多さと、またオノマトペの豊穣さの、母体にもなっている」 (中野 2017:232)

そうだが、書評子は、ここに鋭く矛盾を見て取る。

この主張は、本書の議論を決定的に破綻させるものである。もし「音=意味」という恣意的でない結びつきが存在するならば、同じ音を(同じ順序で)組み合わせれば同じ意味になるはずである同音異義語存在が極少数に限られるならともかく、その数が多いのであれば、日本語の全体を「音象徴」に基づいて分析することが不可能であることは自明である。(田中 2019: 310)

かに。他にも、中野先生は「確かに」・「達する」・「頼みます」・「たった、これだけですか」・「立つ」・「経つ」・「絶つ」・「裁つ」などを例に、

日本語(やまとことば)」では、音部分が同根であれば、「音象徴」に基づき、その意味機能通底している 。 [中略] 「た/ta/」音を語頭とする語は「心的確定(確信)」を基に語彙が生成していることが理解できる。「日本やまとことば」の「た/ta/」音は、「音象徴」において「確信」を「意味」とする「音」なのである。 (中野 2017: 255)

と言っているそうだが、「立つ」とか中野先生自身の例でさえ、どこが確信関係があるのかわからない例もある。この説が無理なのはよく考えてみるまでもない。

そもそも、「音象徴」なんて流行りのタームを中野先生熊倉氏は使っているが、こういう説は「音義説」[wikipedia:音義説]と言うのがより正確だ。近代以前に唱える人がたまにいたけど、今ではググるとわかる通り素人が唱えているだけのものだ。ちなみに、このような形で同書に大きな影響を与えた熊倉千之氏とは、

1980年「『源氏物語』の語りの時間」でカリフォルニア大学バークレー校にてPh.D.取得。ミシガン大学サンフランシスコ州立大学などで日本語・日本文学を教える。1988年帰国後、東京家政学院大学教授1999年金城学院大学教授2007年退職

[wikipedia:熊倉千之]

という人。ウィキペディアでは一応「日本文学者・日本語学者」となってはいるけど、専門はどう見ても文学言語について言語学界とは関係なく自由思索著述をしている人のようだ。そういう独自言語論を唱える文学思想研究者はよくいるけど、普通言語学者はそういうのはまともに相手にしない。『認知言語類型原理』もその類の本だったなら、東大言語学を学ぶ書評子も取り合わなかっただろう。でも、これは京大言語科学講座で博士号をとるために書かれた論文(が元になった本)なのだ

驚愕の主張の数々

他にも同書には、業界震撼の主張が満載みたいだ。是非同書を買って私の代わりに確認してみてほしい。

日本語では論理的命題を表すことができない」(田中 2019: 305)
日本語は英語を含む近代ヨーロッパ標準諸語に翻訳できず、また近代ヨーロッパ標準諸語も日本語に翻訳できない」(中野 2017: 268)
科学数学物理学化学生物学法学経済学歴史学社会学言語学等)」と称せられるものの全ての言説は、日本語で書かれている限り、「日本語(やまとことば)」の論理によって、「客観的であるとする言語論理的根拠を維持できないのである。当然のことながら、この本自体も、日本語で書いている限りはその陥穽から逃れることができない。」 (中野 2017: 268)
日本語の「伝聞」というコミュニケーション様態においては、伝えられる内容は、伝える者によって「主体化」されており、したがって、その「主体化」された内容の真偽判断に関わっては、「権威」が必要となる。伝える者に「権威」が伴っていない場合、伝えられる内容は真と判断されない。」(中野 2017: 16)

しつこいようだが、これで5年前に京大博士号が取れたのだ。

ちなみに、なんで日本語が英語などと違ってこうなってるかと言うと、中野先生によると、日本語は歴史的文字を持たなかったからだそうだ。とはいえ英語だってそうだし、文字で残っている歴史の長さも日本語と同じくらいなんだけど。っていうか、どの言語も昔々は文字がなかっただろ!

ということで、書評の内容は変な言いがかりではないようだ。そもそもこんな空前絶後激辛書評論文大学院生が書くこと自体大きなリスクを伴う。(書評子、いろいろ大丈夫か?)無理なイチャモンをつけるためにそんな危険を冒すわけがないし、出版前に東大で止められるだろう。ま、『認知言語類型原理』は、博士論文審査から本の出版にいたるまで、誰にも止められなかったみたいだけど!

京大STAP細胞はありま~す?」

もう終わりにしよう。書評批判が当たっているなら、こういうことだ。超大物教員指導の元、こんな博士論文が書かれ、専門家達が「厳正な」審査をし、超一流の博士号が授与され、それをテコに大学で職を得た人がいる。これがわかったのは、本が出版されたおかげだ。ちなみにこの本、名もない出版からではなく、京都大学出版会が出している。もちろん、本の出版は著者が勝手にできることではない。本の最後に超大物元指導教員が「解題」を寄せているから、知らなかったはずはない。解題を見てみたところ、基本的にほめていて、特に批判らしい批判はなかった。実はその解題、公開されている博士論文審査結果の要旨とほとんど同じ。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/199376/1/ynink00705.pdf

審査結果からもいくつか引用しておこう。

論文は、個別言語における認知メカニズムの解明によって言語固有の形式文法カテゴリ創発する根源的理由説明を試みた意欲的研究であり、認知言語類型論という新た

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