はてなキーワード: 行使とは
増田やらtwitterで立て続けにブラック企業体験談を目にした。
何度でも言うけども、狂った状況に置かれても働き続ける思考停止の阿呆が相当数居るから
2020年代なんていうキラキラ近未来になっても数え切れないブラック企業が生き長らえてんだってば。
俺の周りにも居たよ。ずーっと愚痴吐きながら暗黒企業を全く辞めない阿呆どもがわんさかね。
はよ辞めろよ、退職代行使え。それも億劫ならこっそり備品返却&私物撤収して無断欠勤、そのまま引っ越せ。
こう言うと「〇〇さんはそうやって簡単に辞めれて良いね、スキルあるから・・・」との返し。
は?そもそも俺とお前は同じ職場で働いてたんだぞ?大したスキルなんか持ってねーよ。
「でも給料そこそこ良いし・・・」バカか?使う余暇も精神的余裕もお前には残ってねえだろ。
しかも単にお前が相場を知らねえだけで、同業者間で比較すればむしろ低い方だから。
「やっぱ辞めずにもうちょい頑張ってみるわ。他で通用するか分かんないし。」
他で一丁腕試ししてみるくらいの気概を見せろや、根性なしが。万が一、他でダメでも死にやしねえよ。
でもここで働き続けたらマジでお前は死ぬかもしれないけどね。お前、誰かに自分の様子を録画してもらえ。
青ざめた顔、窪んだ目、浮いたクマ、剃り残したヒゲ、おぼつかない足取り。頭も口もろくに回ってない。
徹頭徹尾、動かない為の苦し紛れの自己弁護と言い訳。そらこんな腰抜け、搾取されてもむべなるかな。
自分から進んで養分・生命維持装置になって、わざわざブラック企業を延命させてる。白痴以外の何者でもない。
生存バイアス・強者の理屈と詰る馬鹿もよく話聞け。俺は「そんな暑いと喚くなら、エアコン入れたら?」程度のことしか言ってない。
「Dappiが会社として反立憲民主など野党を攻撃するSNS活動を請け負っていた!許せない」 わかる
「他にも自民党から金をもらっていたやつらはいるはずだ」 わかる。
ajakan 先日話題になった記事で中間層のフォロワーに返報をしてるのが与党が多かったっていう記事。Twitterのテクニック行使してるから、代理店ついてると思ったらやっぱりhttps://news.yahoo.co.jp/byline/toriumifujio/20211005-00261538
リ、リ、リベラル、リ、ベ、ルンルン!
だめだ、やっぱりリベラルはだめだ!!! 頭の中がゴルゴム脳すぎる。
都合が悪いことは全部そっちに寄せて考えちゃうんだ!
悲しいくらい話題になっていないが、田端信太郎氏がこんなものをはじめたらしい。
https://boot-camp.tabata-univ.jp
最速で年収をアップさせる
など勇ましい文字列がたくさんある。30万円で転職の相談が受けられるらしい。
「LINE時代には給与所得1億円突破も」が一年なのか在籍期間なのかわからないが、あえて「年収」といわないあたり、SOを行使したときのものと思われるが、そういう細かいテクニックはどうでもよい。
田端氏は今、何を発言しても炎上しなくなってしまい、目にすることも少なくなってしまった。はてブのユーザーももはやほとんど忘れてしまっているのではないか。
炎上するやつを取り上げるのは利するだけだから無視をしたほうがいいとはよくいわれるが、実際にはなかなか難しい。人はどうしても反応してしまうからだ。しかし、いよいよ本当に無理されるようになるとかなり悲惨だ。好きの反対は無関心ではないが、本当にいないものとして扱ってしまう。
田端氏に関する話題を久しぶりに見た、しばらく本当に頭から消えていたという読者も多いと思う。
この記事ではLINEやZOZO時代はブイブイ言わせていた彼が、どうしてこのような情報商材とオンラインサロンをやるようになってしまったかだ。その理由について考えてみたい。
なお筆者は田端氏のことは優秀なビジネスマンだと考えており、度重なる炎上発言には否定的に思っているものの、評価に値する人物だと思っていた。しかしここ最近では、大きなビジネスで活躍するのでなく情報商材屋の方向に向かっているように感じ、少し残念に思っているという立場だ。
なぜこうなってしまったの理由だが、一つはやはりとあるベンチャーキャピタルに在籍している女性社員への誹謗中傷が問題になり、顧問をしていた会社から処分をくだされ、役員をやめさせられてしまったのがある。あの件で、一部の投資家や監査法人から危険人物扱いされてしまった。
とある筋の情報だが、田端氏が反社だという投稿があり、それが問題だというものもいた。見てみると
久々に会ったので「祝儀や」と5万円渡したら、わしが反社会勢力だと知りながらその金を慣れた手つきで懐に納めていた。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=941970239487694&id=100010241796353
○○○○○さんが過去の思い出をシェアしました — 田端 信太郎さんと一緒です。
9月7日 7:21 ·
この日初めて田端は反社の金に手を染め、その旨みを知り、ZOZOを辞めていった。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1501798990171480&id=100010241796353
というものだった。
これはさすがにジョークだとわかるものだが、まっとうなビジネスマンなら冗談でも反社との取引があるというのはご法度である。もしも本当につながりがあった場合に言い訳ができなくなるからだ。なので、たとえ誰でもわかる形だとしても反社と取引があることを匂わせる投稿を、フェイスブックのタグ付でしてしまうのは問題はある。
かといってこの投稿を元に田端氏を反社だというのはさすがに無理がある。LINE上場時に問題にならなかったことからもありえない。
しかしながら、彼の度重なる炎上、顧問先をやめさせられたという事実などが重なり、ベンチャー会社で顧問などをすることが難しくなってしまった。会社としてリスクが高すぎなのだ。先の投稿などで反社だというのは単に言い訳であり、炎上可能性がある人物を投資時や監査時などに排除をしやすくするためのものであろう。
明らかな証拠もないのに反社扱いをしてしまうことは極めて人権侵害なのだが、田端氏に依頼を検討するベンチャーからしてみれば、単に依頼をしなくなるというだけだから質が悪い。東証が審査基準を明らかにしない以上、何がひっかかるかわからない、だから少しでも問題があるという噂が出回っているだけで顧問として依頼することが難しいという状態になってしまうのだ。
そして、彼がやっているYoutubeもあまりうまくいっていないのも原因ではないか。日常的にはせいぜい1万再生だ。これでは1回に収益は2000円程度だろう。数少ないヒットした動画は電通を標的にしているものだが、あの動画のせいで大手広告代理店が激怒しているという話もあり、ビジネスマンとして適切だったかはわからない。
オンラインサロンはかなり数を減らしており、現在121人まで減ってしまった。1万円近くするため120万円以上の収益があるとはいえ、炎上もほとんどしなくなり、その他のメディアも特に伸びておらず、ビジネスマンとしての実績をこれ以上重ねることができなくなっている今、ジリ貧だろう。
こういった状況から、転職相談をする情報商材を売る形になってしまったのではないかと推測する。
炎上芸人として名をあげ、その知名度でオンラインサロンやYoutubeで稼ぎ、情報商材で稼ぐ、というある意味では王道の行為をしているが、この方向で果たして本当に幸せなのか、というところは疑問だ。
議員連盟が一個人や私企業にもの申せばそれは圧力になりうると思うんだが
今回警察というこれまた公的機関に対して抗議しているわけだから公権力の行使かと言われるとなあ
というか人により認識に差があるのが見てとれる
『圧力=不当な公権力の行使』的な『悪いこと』ととる人もいれば、単純に『警察の判断に影響を与えうる外からの声』という力学的な要素としか見てない人もいる
おかしくないよ。
つまり、議員は公権力であり、その公権力を行政に行使するのは、
使い方を誤れば圧力になるわけ。
圧力というのは、力があって初めて掛けられるものであるからね。
今回は、「性犯罪を助長する」なんて、言い掛かりも甚だしい雑な権力行使だったから、
それは圧力だと皆に思われたわけ。
ってのが今までの主張と矛盾しているからおかしいんじゃないの?
「服装の自由を行使」したいやつがマジョリティだから訴えてたんじゃないのか?
なんで今になって「服装の自由を行使」するやつなんて少ないだろってマイノリティ気取るんだって話だよ。
それと「服装の自由を行使」って事の解釈が人によって違くて、大抵の人はTPOに合わせて「服装の自由を行使」をしたり
それで今まで問題にならなかったし、靴擦れが出来たくらいで大騒ぎするようなアホはいなかったんだよ。
靴擦れなんか工夫でどうにでもなるし、規定範囲内で解決可能だし、それでも無理ならコミニュケーションで解決したんじゃないの?
それが出来ないでKutooとかわけわからん運動に仕立てたのがそもそもイミフなんだよ。
ハイヒール必須で困っている女性が沢山いるなら、そのことだけをピックアップして問題にすればいいだけで、
どこにそういう企業が職種があるか分からず、一部の人だけが困っている事を殊更沢山の人が困っているように問題提起するから話がどんどんややこしくなる。
面倒臭いのでここにまとめるけど、「どう見えようと自由意思」とか「ジェンダーアイデンティティ」とか個人レベルのことを言っているのではなく、あまたある服装・キャラの中で、ある一つがアイコンとして公的機関に選択された時、それは公的なメッセージ性を帯びたものとして看做され得るということ。 https://t.co/FQ9dMl7CVt— 大野左紀子 (@anatatachi_ohno) September 24, 2021
なんかよく分かんないんだけどさ、そんなにみんな仕事中に自分の服装の自由を行使するっけ?表現として。
その場その場でふさわしい格好をすることと、関係ないところで自由に好きな格好をすることは両立するやろと思うんだけど。https://t.co/2m1PlygZom— 石川優実11/22「もう空気なんて読まない」🇯🇵🌈🥺👞👠 (@ishikawa_yumi) October 4, 2021
攻める側より守る側になってしまったということだろうか
公共広告というのは基本的にすべての人を対象としたものだ。今回の広告は若者がターゲットということだったが、若者以外が見ないわけではない。誰かが不快になる表現はなるべくあってはいけない。
も上記2件ほどではないが前置き癖を感じた。
@ishikawa_yumi
なんかよく分かんないんだけどさ、そんなにみんな仕事中に自分の服装の自由を行使するっけ?表現として。
皮肉じゃ無しに本気で「これはKutooと矛盾する」と思っている人は、石川氏を責めるのでは無く自分の不明を恥じるべきだろう。
以前から石川氏は「TPOに合った服装をする」ことに全く反対していない。自分が職場でハイヒールを履いて足が痛くなったことをきっかけに、職場でハイヒールを強制することを批判しているだけで、それ以上の自己決定とか自己表現とかに彼女はほとんど興味を示してこなかった。
身体的自由権だけを問題にしていて、精神的自由権は全く問題にしていないのだ。
私は「妥協が必要な部分はあっても、基本的には個々人が自由に服装を選べるのが良い社会で、マナーやTPOの強制は最小限にしなければならない」という主義の人間なので、Kutooの目的に対して共感はしても、運動に対して積極的に賛成することはできなかった。
pipechair おぎの稔はオタクと統一教会を結ぶためのハブとして活動してる人間、とそろそろ言い切っていいのではないか。統一教会が何だかわかっててそれでも「距離を置く」とさえ言えないなら構成員と見なす他ない。
mouseion おぎの稔とか山田太郎とかが署名求めて応じたオタクはただのアホだよな。表現規制タカ派の麻生太郎の車にローゼンメイデンの漫画が置かれてたのが記事になった時ローゼン閣下と呼び親しんでたもんな。ホントちょろい
chada_5 早速否定して擁護しようとする人間が現れてて笑う
chi-Haya 宗教がVtuber利用して布教、と言う内容は十分にありうる。Vtuberが全員ソレとは言ってない
kazatsuyu 突然もなにも署名活動で目立ったからバレたというだけの話では……
D_Amon カルトが実体を隠して近づいて絆で絡めとって信者獲得する方法として一部のVに近づいたりVを運営したりすることは十分ありえると思う。引用されているおぎの氏の反応が臭いすぎる。
cinefuk 荻野稔氏自身がVtuberとして人脈を作る中で、界隈を系列メディアにオルグしているのか>『バーチャルのじゃロリ狐娘Youtuberおじさん』ねこます氏にインタビュー!アバター文化は世界を変えるのか?(Viewpoint/世界日報社)
nowa_s 普通ならその態勢で"政治と無関係は通らない"けど、「?別に政治活動とは無関係ですよ?」とさえ言えば「そうか、無関係なんだな。だってそう言ってるもん」と思ってくれるピュアな人をお客として選別してるんだろね
tobalno1tobalno1 これ本人たちは布教活動の手伝いしてる自覚多分ないんだよね。そして気づいた頃には公私共に教団関係者が関わりすぎてて離れられなくて「個人としては良い人だから…」と自分を騙しながら過ごしていくと。
sink_kanpf ご当地ヒーローが流行った頃、地域振興団体を装った原理がヒーローをプロデュースしてた事があったから、Vをオルグ媒介にする事を聞いても驚かないけど、カルト警報出す人への反応を鑑みるに入れ食いなんだろなー^^;
spirobis 想像以上に統一教会系とズブズブなVtuberもいる、という話。カルトに対する無自覚ぶりには驚きを通り越して呆れる。
tegi タイトルは扇情的だが、実際なかなかにやべえ展開だな…と背筋が寒くなる印象
msukasuka ズブズブとは言い難いが、かなり忍び寄ってる事は言えるかな…。やめてほしい。Vそのものには興味ないし信仰の自由はいくらでも行使してもらえればいいけどソレと隠してオタク界隈に布教するのだけは勘弁して欲しい
mori99戦後の新興宗教の最盛期を知らない世代が増えているのか。統一教会と言えば、お払いのためとかで普通の壺を法外な値段で売り付ける霊感商法詐欺などで名前を馳せた有名なカルトなのだが
cha9 おぎのが言い訳してる様がもう完全にカルトに絡め取られた信者のそれ。踏み絵だとわかってて踏み絵踏めてないのが見て取れる。おそらく常日頃カルト被害者に接してるヤマベンは同じ匂い感じ取ってんじゃないのかね
agricola ↓統一教会は「宗教」ではなく「宗教を入り口にした反社カルト」。後者と前者の同一視は致命的だぞ。矮小化してる界隈は馬鹿でなければ……。
Dragoonriders 統一協会がフロント使って忍び寄ってくるのはいつものこと。そういうメディアがあるということは頭に入れておかないとね。署名の件を含め注意喚起は当然で、特にあの大田区議の不誠実さは論外だろう。
yamada_shirou この流れは、ここ最近急に河野太郎の悪事が暴かれだした現象に似ている。やはり悪事は必ず挫かれ正義が勝つのだな。
sasoridan はてなーが予想外に統一教会に寛容でビビってる。カルト抜きにしても(カルトの時点で論外だが)仮にも左翼を名乗るなら不俱戴天の仇のはずだし、もしかして韓国系だからとかないよね…
ScarecrowBone おぎの稔と統一教会を要警戒
beresford 統一教会への警戒を怠るな、という点だけ留意する必要があると捉えておく。
coffeeglass 「運動」に裏は付きものですよ。賛同するにも背景を気にしながら。
senbuu 直接カルトの宣伝はしなくとも、カルトの関係者とコラボすれば、そのカルトに、これまで己が積み重ねてきた信用をまんまと利用されることになるんだよね。政治家が詐欺師とのツーショット写真を撮られるのと同じ罠。
俺は裁判ってのは
・人に危害を加えうる猛獣に調教を施す期間や殺処分の可否を設定する
って機能を持った精度だと思ってる。
そして、このどれに当てはめても責任能力がないことが無罪になる理由がわからない。
起こしてしまった犯罪という行為に対して「狂ってたから仕方ないんです」では犯罪者予備軍たちに「狂ってるふりすればいいだけじゃん!!!」という動機づけをしてしまう。
犯罪予備軍度が低い人に対して「でも狂っちゃったら裁かれるならもう頑張って生きても結局裁かれるかも知れないしバレない程度に犯罪してこ」と感じさせる部分はあるかも知れない。
だがそれだって「もしも狂っても犯罪をしない内に病院に行ったり、犯罪をしないように普段から距離を置いていこう」と考えさせる効果もあるはずだ。
危険予知運転の基本として教習所で「速度を低めにする。かも知れない運転はしない」と誰もが教わっただろうが、それらを道交法以外の部分にも応用していく。
狂ってしまった瞬間の自分の瞬発力を予測し、日頃から犯罪との距離をとり、そして近づいていると感じたら早めに病院に行く。
キチガイ無罪の否定はそういったことへの動機づけになるはずだ。
有罪判決によって懲役や死刑を課する目的の本質は、犯罪者を無辜なる者達が暮らす社会から遠ざけることだ。
そして、戻ってきても再び犯罪をさせないように調教を施すことである。
調教に失敗した場合のリスクを考えると生かしておくこと自体が不適切と判断した場合はもはや殺処分しかない。
犯罪者に対する処置は保健所による害獣指定と大枠は変わらない。
実刑判決を受けた人間は人権の何割かを奪われ、そのへんのペットよりも悲惨な階級の生物となる。
さて、それでは気が狂っていたから責任能力がないとされた人間はこの調教を逃れる権利を与えられるべきなのだろうか?
与えられるべきではないだろう。
狂ってしまったからといって犯罪を犯しておきながらキチンと処罰を受けなければ、犯罪に対しての価値観が歪んでしまう。
さながら某アーチストが過去の障碍者イジメをイキりながら自慢したように、歪んだ価値観からは歪んだ行動が生まれるばかりなのだ。
歪み始めた価値観を矯正するためにも、治療と並行して刑務所での調教も施すのが本人のためではないだろうか?
もちろん、一時的な狂気によって外れたと思われるタガが殺人と行った禁忌にまで及ぶのならば殺処分も検討していくべきだ。
ここだけは少し悩ましい。
その需要とはなにかといえば、究極的に「悪いやつは裁かれる。正しいやつは裁かれない」というシンプルな勧善懲悪論の肯定だろう。
人類全体の教養レベルが向上したことで、現代人の道徳観は昔ほどは短絡的でなくなったにしろ、未だに基本的な部分はこのシンプルな理論に基づいている。
そして、裁判というシステムの需要はこれによって支えられている。
裁判においてキチガイ無罪が成立すべきか否かとは「キチガイ故に犯罪をしたものは悪いやつなのか?」という命題に置き換えられる。
悪いやつという曖昧な定義の中身に「実際に犯罪をしたら悪いやつ」「望まずに犯罪をしたのならギリ正しいやつ」といったものが含まれている。
これらの衝突によって生まれた歪の間でキチガイ無罪は宙に浮いている。
時代によって変わっていく価値観によって、最近の社会では多少人間として欠落していても許していくべきという方向で世界はまとまっている。
が、それでもなお「人に大きく危害を加えないなら」という注釈がつきがちだ。
そしてキチガイ無罪に対して考えるべき点は、「現代の精神医療を持ってすれば多くのキチガイが治るキチガイである」ということだ。
強い薬の服用によって元の人格が歪むリスクや様々なホルモンのバランスが崩れる可能性もあるが、それでも治せるキチガイの数は非常に多い。
そうなると現代の価値基準では「人に危害を加える前に病院に行く選択肢もあったのに、チンケなプライドや我が身可愛さにそれを忌避した時点で悪いやつ」となるのではないだろうか?
道徳観が進歩したからこそ多様なあり方が肯定されたが、同時に医学が進歩したことでキチガイで有り続けるという愚行権の行使が許されにくくもなってきている。
ロボトミー手術を受けろと行っているわけでもなく、単に1日3錠のカプセルを服用しろというだけのことを嫌がって、人に迷惑をかけることが、現代の道徳では許されるのだろうか?
許されないことのほうが多いだろう。
ものすごい些細なことなんだけど、悩みがあるので相談させてくれ。
ウチでは、子供の保育園への送り迎えについて、送りが俺で迎えが妻という分担にしているのだが、妻が頻繁に体調を崩すため、その度に帰りも俺が行くことになる。
だいたい週1くらいで頭が痛いとか腹が痛いとか微熱があるとか言い出して、
表面上「いい夫」であることを心掛けようとしている俺は「じゃあ、俺行こうか?」と内心かなりイライラしながら代わってあげている。
だが、たまにこのイライラが表に出てしまって、「そんなに嫌な顔されるなら、いいよ!」みたいな感じで喧嘩になる。
なぜ、こんなに些細なことでイライラするのか?と疑問に思う人も多いかもしれない。
まず、自分が頻繁にお迎えを代わってあげていることに関して、代わりに何かしてもらったことがない。
そりゃ、もちろん俺が体調崩したら妻に代わってもらうこともあろうから、そういう意味では権利はイーブンかもしれないが、その権利行使回数が不公平すぎると思う。
そして、妻が保育園に迎えに行っている約30分というのは、「確実に家に一人でいられる瞬間」であり、セックスレスになって長い俺にとってめちゃ貴重な時間であることは言っておきたい。
であるからして、単純に「次の日に妻に送りに行ってもらう」みたいなことでは全然代わりにならないのである。
当然、以上のような不満を体調が悪い人にぶつければ、こちらが悪者になるので言えない。
俺のオナニーより妻の体調のほうが優先なのは言うまでもないが、ある意味オナニーはメンタルも含めた体調管理であることを女性諸君には理解していただきたい。
正しいフェミニズムの主張としては女性は自分の好きな服装をする権利があり、それに対して男性が自分勝手に劣情を催し卑劣な行為に出ることによって、自由な服装をする権利が阻害されている現状こそを打破すべきなんですよね。
女の子がどんな服装に憧れたって自由であるべきだし、公許良俗に反しない限りは好きな服装をする権利がある。それを「女だからこういう服装はしてはならない」とか、一方的に価値観を押し付けられてきた過去を否定して、女性としての正しい権利を取り戻すことこそがフェミニズムなの。
性欲に身体を支配されたあたまのおかしい男にレイプされるかもしれないから女はおとなしい格好をしていなさい、なんてゴミみたいな押しつけを否定することこそがフェミニズムなんだよ。
「へそ出しミニスカートは『女性として正しくない』服装であり、それを肯定するようなコンテンツは許されない」なんて主張はあまりにも男性的な価値観の押しつけが過ぎる。へそ出しミニスカートの女性はVtuberじゃなくても世の中にたくさんいますが、彼女らが誰かに迷惑を掛けましたか? 彼女らは自分の好きな服装をする権利を行使しているだけですが、それが社会的に何か問題がありますか?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/teshima_kairei/n/nc91a6390f4cf
田川 滋 TAGAWA Shigeru 타가와 시게루 on Twitter: "署名ページでの記述から、当初あった賛同者・賛同団体の個別名が現在消されている。つまり署名者に対し「一国民の会」の渡瀬裕哉氏(統一教会メディア関係者)を含む署名賛同者を、署名者に対しページ内で隠した状態に変更されている事について、お… https://t.co/JxNTu4ZBtR"
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/kakitama/status/1441915380461568000
このブクマ数の違いが分からんか?数字は力。6万の署名を集めた我々にはてなブックマークだって力を貸している。統一教会がどうであろうと、悪いのはフェミだという論説が正義だ
統一教会なんてのは言いがかりであり、仮に統一教会に問題があったとしても山田議員も荻野議員も何一つ悪くない。むしろ社民党とか共産党、もちろん民主党とかの方がずっと悪いことをしてきた
6万人は統一信者だ!と言ってきても、だったらクソフェミ議連は数百人しかいないじゃん、で余裕の論破だ
また、荻野議員は寸借詐欺の件で誹謗中傷の裁判をちらつかせているし、アニメだけじゃなく、アウトレイジのセリフみたいな一般層にも親しみやすいワードを使ってクソフェミたちを牽制している
「年収300万の非モテ男」を想定して、どんな政策を期待するものなの?
ちなみにオイラは地方旧帝大(文系)を出て年収300万の、さらに半分ぐらいしかない専業非常勤講師だから、野党になった方が多少は大学のポストも増えねぇかなぁ、と思ってる。
現状、割と安上がりに生活が成り立っているのでなんとかなっているけど、例えば今の住まいが取り壊しで他を探せとか言われたら、それだけで詰むかな。
人はパンのみに生きるにあらず、ということで、着手しちゃった仕事に拘っているだけです。
殺されない限りは、なんとか続けたいと思っている。
テーマは深刻なんだけど、ジョニーデップの持ち味の出た、面白い映画だった。
どうでもいいことだけど、昔からなぜか、
ジョニー・デップのことをしょっちゅう、ジョニー・ディップと言い間違えてきた。
これは、バングラデシュのことを、バングラディッシュと言い間違えるより恥ずかしいことだと思っている。
そのジョニーデップが写真家ユージン・スミスを演じる?というのが、
パイレーツオブカリビアンのイメージがこびり付いた身には全く想像がつかない。
興味本位で観に行ったら、本人としか思えないユージン・スミスぶりに、おお、と感動してしまった(あったことはないけど)。
ユージン・スミスのことは、というと
この映画を見るまでほとんど何も知らなかったので、どういう背景があって、あの写真が生まれたのか、垣間見られてちょっと感銘を受けたりもした。
映画で描かれているユージン・スミスは、アル中で薬中。過去のいろいろで、メンタルをやられて写真家としてのモチベーションがどん底にあった頃のユージン・スミスだ。
一方、フォトジャーナリズムを標ぼうしたものの、売上が上がらず、次第に、魂を売るかのような大衆迎合的な記事や広告を載せ始めた、落ち目の写真誌「ライフ」が背景として描かれている。
ピューリッツァ賞を夢見て起死回生を図るべく、次の目標に選んだテーマが、当時、世界のあちこちで問題化し始めた公害だった。
当時、すでにMINAMATAの名は世界でも、
日本の辺境の地で奇病だの猫踊り病だのと言われ、長い間、対応がなされず蓋をされ続けてきた公害として知られていた。
この映画は、写真家として再起を図るユージン・スミスと逆転ホームランを狙う写真誌が、水俣病に目を付けるところから始まる。
いやー、こういう不純な動機、構図。なかなか良いと思う。
水俣の記録ドキュメンタリは、これまでも土本典昭やNHK、いくつかみたことがあったけれども、この目線はいままでなかった。
この映画の見どころはなんといっても、ユージン・スミスの写真家として、親としての葛藤を描くジョニーデップの演技。
日本にきたものの、途中でやる気をなくして投げ出してしまい、大切なはずのカメラまで現地の少年にあげてしまうシーンとか。
ただ、残念でならないのは、ロケ地。
違和感があったのでググったら、なんと日本ではない。観終わったあとに読んだ町山智浩のコメントによると、セルビア・モンテネグロなのだという。
どうりで、海のシーンが逆光でぼんやりしているものが多かったわけだ。
漁民も、漁民たちが扱う魚も、明らかに違和感ありまくりで、端的に貧相だった。違うだろ。。もっと豊かな海を描いてほしかった。
あと、土本作品へのリスペクト、というのもひそかに注目していたのだけど、
まあ特にないのかな、という印象だった。
過去の記録映画を観ていれば、モデルが誰なのか、すぐにピンとくる。
ここはやはり、あれだろう、船頭小唄だろう、と思ったのだけど
そのかわり、ユージン・スミスになついて、カメラに興味を示し、撮って遊ぶ天真爛漫な少年が描かれている。
しかし、考えてみれば、船頭小唄なんぞ奏でようものなら、そのメッセージ性が強烈すぎて、
物語を邪魔してしまうだろうから、日本の観客向けにはむしろないほうがいい、ということかもしれない。
映画のクライマックスは、水俣病の歴史で欠かすことのできない、大きな事件である、チッソ株主総会。
そこからの流れはとてもテンポがよく、裁判によりチッソが補償を決定するまでの激動の動きが、
ユージン・スミスのもっとも有名な写真である、「入浴する智子と母」の撮影シーンを織り込んで進んでゆく。
國村隼演じるチッソ社長が人間味があって、いい味を出していた。土本作品など過去のドキュメンタリ映画ではなかなか見ることのできなかった加害者の視点、被害者と向き合い補償を決断するチッソ社長の描かれ方は映画ならではであり、圧巻と言わざるを得ない。
見事な演出だと思う。
NHKアーカイブスでも視聴できる有名なチッソ株主総会は、1970年。
スミスが乱闘に巻き込まれて負傷した事件は翌年の東京本社での事件なので史実とはちょっと違うが、
映画は、1973年、チッソが補償を決断し、川本輝夫(映画では真田広之演じるミツオ)が裁判での勝訴をかみしめるところで終わる。
その後の水俣病の動きはわずかにエンドロールで触れられているに過ぎない。
この映画は、ベースの設定が雑誌ライフの復活とユージン・スミスの再起というテーマを背負っていたため、
チッソが責任を認め、補償に応じる、という、ここで終わりになるのは、それはそれでエンタメ的な収まりどころ、なのかもしれない。
しかし、現実の水俣病の歴史は、ある意味、まさにこの裁判勝訴と、それに続くチッソの補償協定とを契機に、
チッソVS被害者団体という構図から、経済優先で被害を黙認する行政VS被害者という構図に大きく変化してゆく。
この映画が第2幕の終わりだとすれば、第3幕はスーパーヒーロー不在の、果てしなき国との闘いだ。
チッソの社長が除去された水をコップで飲んで見せたことで有名な、有機水銀除去サーキュレーター。
効果がないのを知りつつ黙認してきた通産省を筆頭に、高度経済成長を錦の御旗に被害に蓋をし続けてきた行政の悪業が明らかにされてゆく。
最終的に国の規制権限を行使しなかった責任が最高裁で認められたのは、それから四半世紀後の2004年。
さらに一方で、1973年の被害者の勝訴判決は、チッソの患者への補償の契機となったものの、その補償協定そのものが、地域社会の新たな分断の出発点ともなった。
補償をするためには、患者が症状によって定義される必要があるのは自明の理だが、補償協定の1600万円を受け取るに値する症状という形で定義・整理されてしまったのだ。
そこに絡んでくるのが厚生省と当時の環境庁だ。国の定める、公健法上の患者認定基準が、チッソと患者団体との補償協定の要件に連動してしまったのだ。
どういうことかというと、国は広範囲に患者認定を推進するため、公害健康被害補償法により水俣病被害者の認定制度を創設したが、
そこで認定された被害者は、73年に本来は一部の患者団体と締結した補償協定の適用を受けることが認められ、1600万円を受け取ることができるようになる、という仕組みだった。
しかし、1600万という高額の補償が、結果的に、チッソの補償能力を超え、被害者認定の足かせとなってしまう。取りこぼされた多くの被害者が今日に至るまで苦しんでいる、というのが、
映画のその後の世界なのだ。2004年に最高裁が被害者の要件を国の認定基準より緩く認定した、にもかかわらず、だ。
そして国の重要産業である化学工業、そしてチッソの賠償破産を食い止めるため国や県が金融支援をし続ける、という構図がこの映画の後に待ち構えている世界だ。
国は当然、実態調査、疫学的調査に消極的で、というか一度もなされたことがない。
その意味では、映画のエンディングシーンである勝訴判決は、実は新たな闘いの出発点ともいえるのが水俣病の歴史だ。
そのことを思い返しながら、映画の話に戻ると、この映画の残念なところは、以下の点。
・風景が日本でない、不知火海が見えない、漁民がいまひとつリアリティがない
・写真家、出版社、一部の被害者闘争のリーダーという限られた構図で、実態解明に尽力した熊大や問題を放置した行政が出てこない
・だから、なぜ原因企業が折れて補償に応じたのに問題が解決しないか、みえてこない→多分世界中の公害で類似のことが起きているだろう。
・エンドロールで見せている世界の公害にリアリティを与えるためにはやはり行政の視点をどこかに織り込まなければならなかったのでは。
ただ、だからといってつまらない映画では決してなかったし、満足感は高かった。みようによっては、セルビア・モンテネグロにしちゃあ頑張って日本の漁村を描いた、ともいえる。
ジョニーデップのクズっぽいキャラは最高に楽しめたし、撮影に至るまでの信頼関係の醸成など背景がみえたのは、この映画の見どころだ。
(追記)