はてなキーワード: 社会主義とは
chatGPT の回答
”””
左派の人々が平和や人権の重要性を主張しながら、中国の人権侵害やロシアのウクライナ侵攻を批判しない理由は多岐にわたります。以下は、一般的な理由の一部です。
まず、左派の中には、アメリカや西欧諸国など、先進資本主義国家の影響力に反発し、彼らが支配する国際社会に対して批判的な立場を取る人々がいます。このような人々は、中国やロシアなどの社会主義・共産主義国家を、資本主義諸国に対する反抗の象徴として見ることがあります。そのため、中国やロシアが人権侵害を犯したとしても、彼らに批判的な立場をとることができず、あるいは批判することができないという場合があります。
また、左派の中には、日本の過去の戦争犯罪についての反省と謝罪を求める立場にある人々もいます。彼らは、日本が他国に対して犯した人権侵害や戦争犯罪に対する反省と謝罪を求める立場をとっているため、他国の人権侵害について批判することができないという場合があります。
さらに、左派の中には、国際社会の力関係によって、一部の国々が人権侵害を行っても批判されない現実に対して、懐疑的な立場をとる人々もいます。彼らは、人権侵害を行っている国々を批判することが、その国々への敵意や攻撃を助長することにつながる可能性があると考えている場合があります。
これらの理由以外にも、個々の人々がそれぞれの立場や信念に基づいて、批判するべき問題や、批判しないべき問題が異なる場合もあると思われます。
”””
元ネタ→https://b.hatena.ne.jp/site/m-dojo.hatenadiary.com/
希望と力を もう一度
みんなみんなみんな 手を取り合って
輝く社会主義の 旗を掲げよう
ハデなる街 迷い込んだ
若者たちが 戦い続ける
気高き者たちの 信念に導かれ
いざ、闘いの 幕を開けよう
アンアンアン 鍛えた拳で勝ち抜く!
元気な鳴き声 聞こえると
誰もが笑顔になる
電気の力で 敵を倒す
みんなの期待に 応えていく
いざ、冒険の 旅を始めよう
(期待に答える頼もしいやつ。旅のお供に是非)
世界中の人々が 求めている
素晴らしい未来を 一緒に作っていこう
いざ、未来へ 飛び立とう
「ハイ!ChatGPT」
みんなに愛される ファーストフード
いざ、お腹を 満たしに行こう
(おいしそう)
男女平等 求める想い
女性たちの 力を信じて
社会を変える ために行動しよう
いざ、世界を 変えにいこう
(順当!)
日本社会党中央執行委員長、議員淺沼稻次郞君は、去る十二日、日比谷公会堂での演説のさなか、暴漢の凶刃に倒れられました。
私は、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、全国民の前に、つつしんで追悼の言葉を申し述べたいと存じます。
ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。
かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。
私は、目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬことを、皆さんとともに、はっきり誓いたいと存じます。これこそ、故淺沼稻次郞君のみたまに供うる唯一の玉ぐしであることを信ずるからであります。
淺沼君は、明治三十一年十二月東京都下三宅島に生まれ、東京府立第三中学を経て早稲田大学政経学部に学ばれました。早くから早稲田の北沢新次郞教授や高校時代の河合栄治郞氏らの風貌に接し、思想的には社会主義の洗礼を受けられたようであります。
当時、第一次大戦が終わり、ソビエトの「十月の嵐」が吹いたあとだけに、「人民の中に」の運動が思想界を風靡していました。君は、民人同盟会から建設者同盟と、思想運動の中に身をゆだね、検束と投獄の過程を経て、ごく自然に社会主義運動の戦列に加わったのであります。
大正十二年母校を卒業するや、日本労働総同盟鉱山部、日本農民組合等に関係して、社会運動の実践に情熱を注ぎ、大正十四年の普選を機会に、政治運動に身を挺したのであります。
すなわち、同十四年農民労働党の書記長となり、翌十五年日本労働党の中央執行委員となった後は、日労系主流のおもむくところに従い、戦時中のあの政党解消が行なわれるまで、数々の革新政党を巡礼されたのであります。
君が初めて本院に議席を占められたのは、昭和十一年の第十九回総選挙に東京第四区から立候補してみごと当選されたときであります。以来、昭和十七年のいわゆる翼賛選挙を除いて、今日まで当選すること前後九回、在職二十年九カ月の長きに及んでおります。
戦後、同志とともに、いち早く日本社会党の結成に努力されました。昭和二十二年四月の総選挙において同党が第一党となり、新憲法下の第一回国会が召集されますと、君は衆望をになって初代の本院議運委員長に選ばれました。書記長代理の重責にあって党務に尽瘁するかたわら、君はよく松岡議長を助けて国会の運営に努力されたのであります。幾多の国会関係法規の制定、数々の慣行の確立、あるいは総司令部との交渉等、その活躍ぶりは、与・野党を問わず、ひとしく賛嘆の的となったものであります。
翌二十三年三月、君は、日本社会党の書記長に当選、自来、十一年間にわたってその職にあり、本年三月には選ばれて中央執行委員長となり、野党第一党の党首として、今後の活躍が期待されていたのであります。
かくて、君は、戦前戦後の四十年間を通じ、一貫して社会主義政党の発展のために尽力され、君自身が社会党のシンボルとなるまでに成長されたのであります。淺沼君の名はわが国政治史上永久に特筆さるべきものと信じて疑いません。
君がかかる栄誉をになわれるのも、ひっきょう、その人となりに負うものと考えるのであります。
淺沼君は、性明朗にして開放的であり、上長に仕えて謙虚、下僚に接して細心でありました。かくてこそ、複雑な社会主義運動の渦中、よく書記長の重職を果たして委員長の地位につかれ得たものと思うのであります。
君は、また、大衆のために奉仕することをその政治的信条としておられました。文字通り東奔西走、比類なき雄弁と情熱をもって直接国民大衆に訴え続けられたのであります。
よごれた服にボロカバン
きょうは本所の公会堂
あすは京都の辻の寺
これは、大正末年、日労党結成当時、淺沼君の友人がうたったものであります。委員長となってからも、この演説百姓の精神はいささかも衰えを見せませんでした。全国各地で演説を行なう君の姿は、今なお、われわれの眼底に、ほうふつたるものがあります。
「演説こそは大衆運動三十年の私の唯一の武器だ。これが私の党に尽くす道である」と生前君が語られたのを思い、七日前の日比谷のできごとを思うとき、君が素志のなみなみならぬを覚えて暗たんたる気持にならざるを得ません。
君は、日ごろ清貧に甘んじ、三十年来、東京下町のアパートに質素な生活を続けられました。愛犬を連れて近所を散歩され、これを日常の楽しみとされたのであります。国民は、君が雄弁に耳を傾けると同時に、かかる君の庶民的な姿に限りない親しみを感じたのであります。君が凶手に倒れたとの報が伝わるや、全国の人々がひとしく驚きと悲しみの声を上げたのは、君に対する国民の信頼と親近感がいかに深かったかを物語るものと考えます。
私どもは、この国会において、各党が互いにその政策を披瀝し、国民の批判を仰ぐ覚悟でありました。君もまたその決意であったと存じます。しかるに、暴力による君が不慮の死は、この機会を永久に奪ったのであります。ひとり社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません。
ここに、淺沼君の生前の功績をたたえ、その風格をしのび、かかる不祥事の再び起ることなきを相戒め、相誓い、もって哀悼の言葉にかえたいと存じます。
(中略)党は、この状況を打破して、まず平和で民主的な日本をつくりあげる民主主義革命を実現することを当面の任務とし、ついで社会主義革命に進むという方針のもとに活動した。
(四)第二次世界大戦後の日本では、いくつかの大きな変化が起こった。
(中略)第二は、日本の政治制度における、天皇絶対の専制政治から、主権在民を原則とする民主政治への変化である。この変化を代表したのは、一九四七年に施行された日本国憲法である。この憲法は、主権在民、戦争の放棄、国民の基本的人権、国権の最高機関としての国会の地位、地方自治など、民主政治の柱となる一連の民主的平和的な条項を定めた。形を変えて天皇制の存続を認めた天皇条項は、民主主義の徹底に逆行する弱点を残したものだったが、そこでも、天皇は「国政に関する権能を有しない」ことなどの制限条項が明記された。
この変化によって、日本の政治史上はじめて、国民の多数の意思にもとづき、国会を通じて、社会の進歩と変革を進めるという道すじが、制度面で準備されることになった。
(中略)国民主権の民主主義の流れは、世界の大多数の国ぐにで政治の原則となり、世界政治の主流となりつつある。人権の問題では、自由権とともに、社会権の豊かな発展のもとで、国際的な人権保障の基準がつくられてきた。人権を擁護し発展させることは国際的な課題となっている。
最初に社会主義への道に踏み出したソ連では、(中略)レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義・専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。
(中略)
いかなる覇権主義にも反対し、平和の国際秩序を守る闘争、核兵器の廃絶をめざす闘争、軍事同盟に反対する闘争、諸民族の自決権を徹底して尊重しその侵害を許さない闘争、民主主義と人権を擁護し発展させる闘争、各国の経済主権の尊重のうえに立った民主的な国際経済秩序を確立するための闘争、気候変動を抑制し地球環境を守る闘争が、いよいよ重大な意義をもってきている。
(中略)
(一一)この情勢のなかで、いかなる覇権主義にも反対し、平和の国際秩序を守る闘争、核兵器の廃絶をめざす闘争、軍事同盟に反対する闘争、諸民族の自決権を徹底して尊重しその侵害を許さない闘争、民主主義と人権を擁護し発展させる闘争、各国の経済主権の尊重のうえに立った民主的な国際経済秩序を確立するための闘争、気候変動を抑制し地球環境を守る闘争が、いよいよ重大な意義をもってきている。
(中略)
日本共産党は、労働者階級をはじめ、独立、平和、民主主義、社会進歩のためにたたかう世界のすべての人民と連帯し、人類の進歩のための闘争を支持する。
(一二)現在、日本社会が必要としている変革は、社会主義革命ではなく、異常な対米従属と大企業・財界の横暴な支配の打破――日本の真の独立の確保と政治・経済・社会の民主主義的な改革の実現を内容とする民主主義革命である。それらは、資本主義の枠内で可能な民主的改革であるが、日本の独占資本主義と対米従属の体制を代表する勢力から、日本国民の利益を代表する勢力の手に国の権力を移すことによってこそ、その本格的な実現に進むことができる。この民主的改革を達成することは、当面する国民的な苦難を解決し、国民大多数の根本的な利益にこたえる独立・民主・平和の日本に道を開くものである。
(一三)現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容は、次のとおりである。
1 現行憲法の前文をふくむ全条項をまもり、とくに平和的民主的諸条項の完全実施をめざす。
2 国会を名実ともに最高機関とする議会制民主主義の体制、反対党を含む複数政党制、選挙で多数を得た政党または政党連合が政権を担当する政権交代制は、当然堅持する。
3 選挙制度、行政機構、司法制度などは、憲法の主権在民と平和の精神にたって、改革を進める。
4 地方政治では「住民が主人公」を貫き、住民の利益への奉仕を最優先の課題とする地方自治を確立する。
5 国民の基本的人権を制限・抑圧するあらゆる企てを排除し、社会的経済的諸条件の変化に対応する人権の充実をはかる。労働基本権を全面的に擁護する。企業の内部を含め、社会生活の各分野で、思想・信条の違いによる差別を一掃する。
6 ジェンダー平等社会をつくる。男女の平等、同権をあらゆる分野で擁護し、保障する。女性の独立した人格を尊重し、女性の社会的、法的な地位を高める。女性の社会的進出・貢献を妨げている障害を取り除く。性的指向と性自認を理由とする差別をなくす。
7 教育では、憲法の平和と民主主義の理念を生かした教育制度・行政の改革をおこない、各段階での教育諸条件の向上と教育内容の充実につとめる。
8 文化各分野の積極的な伝統を受けつぎ、科学、技術、文化、芸術、スポーツなどの多面的な発展をはかる。学問・研究と文化活動の自由をまもる。
10 汚職・腐敗・利権の政治を根絶するために、企業・団体献金を禁止する。
11 天皇条項については、「国政に関する権能を有しない」などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する。
(一四)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。
-->
日本共産党が民主主義的な変革を通じて、ゆくゆくは社会主義を目指している政党だというのは知っていた。
ソ連や中国の方向性に異を唱え、社会主義の前に、まずは民主主義の確立を目指すという意味では、共産党は憲法の擁護者であったし、自由と議会制民主主義の擁護者としてふるまっていると思っていた。
そういうことを知っていたつもりだったけれども、このたび、異論を許さない態度で党首公選制を訴えた党員を除名処分にするニュースはあまりにも自由や民主主義の考え方と乖離する、という違和感が強い。もちろん、50年代、60年代に、ブントからさまざまな新左翼党派が生まれた経緯を反省すると、党の結束重視、分派につながる動きへの警戒は理解できるものの、なんとなく民主主義を擁護している風の皮をかぶりながら、やっぱり統制好きな人たちなのか?という印象はぬぐえない。
そこで日本共産党綱領を民主主義というキーワードがどういう文脈で使われているかを改めて読み直してみた。
まとめると、以下の特徴が読み取れた。
・民主主義的な変革(革命)は専制政治や覇権主義との闘いである
・変革(革命)の担い手は労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生からなる統一戦線である。
民主主義は設計された所与のプラットフォームというより、【変革】により戦った【主体】が勝ち取る動的な運動と認識されている。その主体が定義されリスト化されており、その【統一】には社会構成員全員が含まれているわけではない、というのも注目に値する。はっきり書いてないが打倒されるべき悪しき存在の匂いがぷんぷんする。昔よりマイルドになったとはいえ、人民が戦って勝ち取るぞ的な歴史観がすごい。
綱領は最後に、現在、日本社会が必要とする民主的改革の主要な内容として、国の独立・安全保障・外交の分野から憲法と民主主義の分野、そして経済的民主主義の分野で目指すべき方向性を示している。
この中には安保破棄といったおなじみのものから、ジェンダー平等など最近になって共産党自身が認識を改めたものも含まれている。
経済的民主主義の分野においては、労働規制、食糧安保などが強調されているが、自由主義経済の擁護はやはり、というか、やっぱり記載がなかった。
憲法・民主主義の分野の記載で、もうひとつ特徴的だと思ったのは、民主政にとって、ある重要なメカニズムが全く記載されていないことだった。
ははあ、と腑に落ちたところがあった。なぜ民主政にとって、もっとも重要な概念が抜け落ちてしまうのか。
共産党の考え方では、民主主義は、戦いと表現されることから象徴されるように、そもそも主体的に、イデオロギーの進歩として達成されるべきものと認識されており、しかもそれは社会主義革命に至る途上の段階とされる。
民主主義が革命に向かう運動と理解され、この革命の担い手「主体」がキーワードになるんだな、と改めて気が付かされた。運動主体が【統一】されるべきである、という共産党員の自画像が、今回の件で、党外発言を攻撃とまで罵る背景にあるように思えた。
というのは、いわゆる自由主義社会においては、「主体」について全く異なる理解をしている。多様な主体のもとで、社会が進展するという考え方のほうが支配的だからだ。
広い意味でのリベラリズムでは、リバタリアニズムやレッセフェールなど完全放任まで幅があるものの、経済や社会の進歩は、特定のイデオロギーによって達成されるのではなく、優れたものが自然に選択されるという淘汰圧が客観的な社会のダイナミズムとして理解されている。
表現の自由についていえば、特定のイデオロギーの正しさは、歴史が自然に結果を出すものであって、教会や政府が真理として押し付けるものではない、というのがヨーロッパでもアメリカの政治体制でも共通の前提となっている。
そのような認識の下では、多数の目から一見すると正しくない言論や行い、考え方についても、その考えが社会に存在することを排除しないのが美徳となる。
差別的言論しかりであり、正しくないと思えるものが一定程度、社会に蔓延するのを認容する、というのは、長い目でみて、社会が進歩するための副産物と考える。
したがって、雑にまとめれば、自由主義社会の制度設計では、ブルジョアやプロレタリアートといったイデオロギー的な主体の覚醒は必要とされないし、イデオロギー的な主体の覚醒や人民の団結を呼びかけるような政治体制は、資本主義的な搾取構造以上に、暴力装置である、というのがリベラル側からみた共産主義の問題点といったところだろう。自由主義では、イデオロギー的に多様であっても、そして無自覚であっても成立し、発展しうる社会設計を構想しているのに対し、共産主義では、変革の主体が強く意識され、その主体が統一(戦線)されることが変革のキーだと考えられている。
民主という言葉が登場するたびに、それは専制によって奪われてきた歴史であり、覇権主義との闘いであり、それに抗い変革を進める担い手が強調される。
そして、ひとたび担い手に注目するやいなや、担い手の気づきというか覚醒が求められる。革命は待ってても自然には起こらないということだ。
これは共産主義独特の進歩史観だ。ここに、担い手を教育し、同じ価値観やイデオロギーを共有させようとする契機がある。
これは、党首公選制を唱えた者を破門する、という最近みられた動きと表裏一体ということになる。
綱領に言論の自由の記載が一行も存在しないのも納得である。言論の自由のもつ社会のダイナミズムを理解しつつ、イデオロギーを啓もうすることは自己矛盾だ。
というわけで、社会の変革にとって、イデオロギーに共鳴する主体醸成を重視するか、
それとも自由のダイナミズムを重視するか、ここに分かれ道がある、というありきたりな結論に至ってしまったな。
政治体制 | 言論自由 | 進歩史観 | プレイヤー |
---|---|---|---|
自由主義 | どちらかというと放置 | 蓋然的・客観的 | 多様性重視 |
共産主義 | どちらかというと統制的 | 必然的・主体的 | 一体性重視 |
みたいなイメージになった。
しかし、共産党の皆さんに是非、戦後の世界の歴史をもう一度振り返ってもらいたいと思うのは、
言論表現の自由がもたらす社会の不協和音、暴力という副産物をある程度社会が許容できたからこそ、社会運動が大きく広がった。
この運動はもちろん差別と闘う社会変革の主体抜きには語ることはできないが、過激な言論を民主主義の副産物とする社会のプラットフォームがあることによって、運動の価値が昇華された。
暴力性という点では労働権の暴力性(争議権)も社会改革の進展のかぎだ。今では自明性に埋没して疑いもしない労働者という言葉、実は【労働者の概念】とその暴力性は、革命の概念と地続きり、出自はもちろん自由主義ではありえない。
異なる出自をもつ二つの権利、争議権と言論の自由は、社会変革のダイナミズムに伴う暴力という意味では実は共通項だ。
他者危害原則が基本の社会において、なぜ規範からの逸脱という暴力、そして異端の存在を、広く多様性という価値を認めて、一定程度、許容する仕組みを自由主義社会は構想しているのだろうか?同一コミュニティに閉じている限りは進歩も進化もない、という、それはやはり、進化のプロセスに対する直感が働いているといわざるを得ないだろう。
争議権というのは、学校が停止したり電車を全面的に止めたりと経済に甚大な被害を与える超暴力的な行為を時に伴うが、そのような痛みを社会が許容することによって社会が改善することがある。自由主義社会はこうした社会変革に伴う暴力を一定のコントロールに置いたうえで社会の進歩を進めてきたといえる。
ちょっと余談になるが、日本での社会権の受容はGHQ改革に始まって、やや独特の経緯をたどって欧米とは異なる展開となった。
敗戦直後、それまでの動員される勤労者から主体的な労働者へ突然、主体の変換が起きた。その結果としての、労働者階級の過剰な希望、そして暴力に伴う社会的な混乱は、失望と社会秩序維持へのさらなる圧力を生み、やがて国労と新左翼だけが残った。そして秩序を乱す奴イコール、テロリスト、という空気が蔓延した。
日本は国労が新左翼と一緒になって調子に乗りすぎた結果、争議権は骨抜きになった。日本では社会秩序と暴力が明確に対立概念となり、争議はなれ合いとなり、労使協調という言葉に象徴されるように、労使間の秩序模索にすぎなくなった。ただ一方、ヨーロッパではそんなことはなく、社会権の潜在的なラディカリズムが広く受け入れられている。病院だろうが航空機だろうが、誰が困って死のうがストが決行される暴力性が顕在なのだ。なんなら革命で政府を転覆させるぜくらいの勢いで。
ともあれ、自由主義社会が社会主義的な発想でラディカルな主体の考え方を一部取り込んでいる、という動きは、自由主義VS社会主義と単純に括ることができないことを示している。
絵画にトマト投げみたいな環境急進主義しかり。ヨーロッパになぜあれほどラディカリズムがパフォーマンスを繰り広げられる余地があるかというと、そもそも自由主義社会は社会変革の萌芽を言論統制などによって政府の力で摘まない社会設計になっているからだ。彼らはヨーロッパのニュース上ではResistantと表現されてもテロリストと表現されることは少ない。それは「労働者」という主体を仮構したうえでの争議権の意義とパラレルなのだ。
なんなら、「LGBT」しかり、なのだ。共産党は実は、長い間、同性愛者を差別してきた歴史がある。かつては「労働者」という概念が主役で争議権という武器が社会変革上、最重要な部分だったので性的マイノリティに考えが及ばない時代だった。LBGTというイデオロギー的な主体の意義に気が付き、公式に考えを修正したのはつい3年前の2020年のことだという。
https://www.sankei.com/article/20210706-L4MJ2RSGZFLHJLGW2LWKXILBGI/
LGBTの存在に気が付き、こうした修正が可能になるのは、自由主義社会が、ラディカリズムも含めて、多様な言論を放置できる社会だからだ。そのくせ日本共産党がLGBTをあたかも自分たちの応援団かのように仲間に入れようとするのは、労働運動が退潮し、運動の屋台骨が骨粗しょう症のようになってしまった日本の文脈を思い起こすと、図々しいという気もする。皮肉なことにこの記事を執筆した元板橋区議の男性も、党本部から除名処分を受けている。
結局のところ、共産主義においては、社会変革のための主体を重視し、その統一をもとめるがゆえに、主体そのものの議論が決定論的なものになってしまい、議論されにくい。
その結果、主体自身の変革は阻害される、というジレンマというか自己矛盾をはらんでいるといえるだろう。社会を変革したがるくせにね。これはある意味自らの正義の禍々しさに苦悩するヒロイズムのジレンマだ。自由主義社会でダークヒーローのドラマや映画のプロットが西部劇の昔から最近ではジョーカーに至るまで一定の需要があるのは変革の萌芽は必ずしも正義によって見出されるものではないという世界観の違いに由来する。
でも、自由主義社会にいる日本共産党としても社会の変化にも気が付かざるを得ない。
その過程で、弱体化した【労働者】を補完するべく、新興の主体、LBGTグループを統一戦線の一員として、ちゃっかりと追加したりする、ということが起こったりするわけだ。
であれば、社会主義革命を目指す共産党においても、内なるノイズをある程度、コントロールしつつ許容し、社会変革への考え方をより確実にする、という方向性もありうるんじゃないだろうか。その結果、やっぱ内ゲバをコントロールできなくなって、この調子じゃ人を教育して主体構成を前提とした社会主義化って無理じゃね?となって解散するならそれもよしなんだよ。
今回の除名騒動を受けて、党内で議論すべきことは党内で、というのが統治の基本、という主張が共産党から強調されているようだ。
一見正論だが、しかし、俺はちょっと違うと思う。それは、つまり【寄り合い】だ。
なぜなら、そのようなガバナンスの考えこそが組織の硬直化を招来し、日本の労働運動が労使間の秩序模索に堕落した一因であるし、日本的組織風土に風穴があかない最も大きな要因だからだ。寄り合いといえば、かつて日本の農村漁村を調査した宮本常一は、寄り合いによる時間をかけた合議の意思決定を観察し、他者の信頼醸成のプロセスが共同体のしきたりにない、外部社会の新しい事柄の受容のキーとなっていることを見抜いた。宮本はまた、共同体を飛び出し、放浪の旅を経て戻ってくるようなアウトローの存在を外部の知識をもたらす【世間師】として共同体が受け入れる様子も描写している。寄り合い的なコミュニケーションにおいても、異物を内部化するプロセスはあるということだ。
民主主義という視点に戻ると、言論の価値、そして、争議という変革の手法が組織どころか社会に迷惑をかけることを前提に行われることの意味をもう一度振り返ってもらいたい。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/EriHirakawa/status/1618496628289318913
かつての民主党時代に自民党やその支持者は子ども手当を「社会主義」「バラマキ」と批判していたらしいけれど、バラマキはともかく一体何処が社会主義なんだ?
子ども手当っていうのは結婚し、子供を産むという勝ち組に対する成功報酬じゃん。その結果ただでさえ酷い格差がますます広がるんだから、全然社会主義の訳がないじゃん
その逆で子供がいない人や独身に対して配るならばまさに社会主義だろうけれど、貧しい人達から奪って恵まれた人達に大盤振る舞いする事の一体何処が社会主義なの?
これめちゃくちゃやばいことだろ
ロシア以外にもロシア語圏ってあるよな?って思って調べたのが以下。やっぱいるよな...。頭悪すぎるしバカに発言力持たせるの怖すぎる
正解は、推測で約2億8000万人です。
ロシア語が通用する国々は、意外に多く15カ国存在します。これは、かつての社会主義時代国家であるソ連邦(1917~1991)に統合されていた歴史に起因しています。
ロシア語圏の15カ国のうち、特にロシア(1億4296万人[1])、カザフスタン(1603万人)、ベラルーシ(960万人)、キルギス(533万人)の4カ国は、ロシア語を公用語に定めています。しかし、ウクライナ(4545万人)、ウズベキスタン(2744万人)、アゼルバイジャン(919万人)、タジキスタン(688万人)、トルクメニスタン(504万人)、グルジア(435万人)、モルドバ(357万人)、リトアニア(332万人)、アルメニア(309万人)、ラトビア(225万人)、エストニア(134万人)では、ロシア語が法的な地位を持っていません。ソ連時代と比べてロシア語使用の衰退化傾向が見られるものの、ロシア語が日常レベルでは今でも幅広く使用されています。
また15カ国以外にもアメリカ、カナダ、オーストラリア、イスラエルなどに移民したロシア系ディアスポラの間でも一定の程度ロシア語が使われています。
表現規制反対派の弁護士さんが「マンセー」っていうネットミームを使ったことで一部界隈がざわついてるけど、普通におかしいと思う。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/horishinb/n/nf694f276c77f
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/lunuladiary/status/1613524724201705472
って堀弁護士は書いてるけど、これはどう考えても韓国じゃなくて北朝鮮由来のネットミームだよな。TVの報道で、北朝鮮の人が「マンセー」って言って過剰に金正日や金正恩を讃美してる光景見たことない?
少なくとも現代日本で、あんな指導者讃美は「普通に存在する現象」じゃないよ。どっかの幼稚園で安倍首相を応援させてた光景はドン引きされたでしょ? あれを国家規模でやってればネタにされるのは当然だわな。
韓国語は、自由民主主義国家である大韓民国や、日本で国籍を奪われ差別を受けている在日コリアンの言語であるのと同時に、世襲全体主義国家朝鮮民主主義人民共和国の言語でもある。
仮に韓国や在日コリアンへの揶揄はよろしくないのだとしても、社会主義を謳いながら最高指導者の地位を世襲し、国民にマスゲームで最高指導者を讃美させる国のことなんて、いくらでも擦っていいに決まっている。「マンセー」も「ジークハイル」や「カミカゼ」と同じように揶揄のためのネタにしてよい。自由と民主主義の支持者であれば、北朝鮮の国家体制を許容できるはずがないからだ。
増田は現実主義者なので、中国と違って領土的野心を剥き出しにしておらず、たまにミサイルを海に落とすパフォーマンスをしてくるだけの北朝鮮なんて大した脅威ではない(「国体護持」がしたいだけなんだろうからほっとけ)と思ってはいるが、同時に自由民主主義の支持者なので、あの国の体制は打倒され北朝鮮の人民は解放される必要があるとも認識している。そして、滅ぼされるべき悪しき独裁国家で指導者讃美のために使われていた表現は、人をバカにするためのネットミームとして使われても当然だ。
確かに韓国語話者にとっては居心地がいいことではないかもしれないが、ドイツ語で単に「指導者」という意味のFührerや、ロシア語で「会議」や「評議会」を意味するсоветは、非ドイツ語圏や非ロシア語圏では悪しき語として扱われてしまっている。残念ながら「マンセー」もそういう語になってしまったということだ。それが嫌ならぜひ金正恩による世襲独裁体制を打倒するために立ち上がってほしい。現実主義者としては支持しかねるが、自由と民主主義の支持者としては心から応援する。
サヨクにもいろんなのがいるってのは分かったうえで、そのうちの一つのタイプについてのみ書くね。「自分はサヨクだけどこんなじゃないぞ!」ってやつはごめんな。
あいつらムカつくんだよな。
なんというか、なんでもかんでも世界を「上」と「下」に分けて、「お前も自覚を持て!」と言ってくる。
フェミニズムであれば、「男」は搾取する「上」であって、「女」は搾取される「下」であることを自覚しろ、と言ってくる。
社会主義、そこまでいかずとも経済左派的な観点からは、「金持ち」と「貧乏人」がそうだ。
もし「上」であるという自覚を持ったら最後、俺は「下」の人間の苦しみに対して一定の責任を負わなきゃならんし、自分が当然のように享受している幸せも
何かしら放棄しなくちゃならんかもしれない。そんなのムカつく。
そんで「下」であるという自覚を持ったら最後、俺はこのままだと自分の将来は不幸な方向に向いていて、「上」の人間に勝利しなければその運命は変えられないという
絶望的な未来を悟ることになる。そして「上」の人間に対して被害者意識を向けることになる。そんなのムカつく。
これで、サヨクのいう事が100%正しければまだいいんだけど、人間だから100%正しいわけじゃなくて、サヨクの人も結構間違ったこと言うんだよね。
サヨクに「上」と認定されるってのはほぼ「攻撃される」と同義だけど、その認定が間違ってるときも全然あるわけ。
なんならサヨク同士でも何が「上」かの見解が一致してないもん。ムカつくよね。サヨクが沢山いて沢山しゃべるとそれだけで胸がざわざわする。
いわゆるネット右翼とかは、多分差別主義とか愛国心とかそんな大層なものは持ち合わせていなくて、こういう感情がベースとなって動いてる人が多いと思う。
で、この「サヨクがムカつく」の気持ち自体は、ネトウヨじゃなくても、保守でも中道でも、いやなんなら当のサヨクすら持ってるんじゃないかな?
理性で考えたときとはまた別の問題として、感情で考えれば、みんなサヨクなんて嫌いだと思う。
だから、俺が一番馬鹿だと思ってるのは、「サヨクはこういうやり方をするから嫌われる、こうすれば嫌われないのに」みたいにしたり顔で言うやつね。
サヨクなんてなにしたってどうせ嫌われるよ。八方美人を目指した時点でそれはサヨクを廃業したことと同じ。
こんな嫌われ者のサヨクだし、本人たちはクソみたいなのが多いんだけど、どういうわけか社会をいい方向にもっていくこともまぁまぁあるんだよね。不思議。