はてなキーワード: 社会主義とは
はてブの方の人気エントリに時期外れな「うなぎ断ち」の記事が上がっていた。
うなぎ断ちとその背景にあるうなぎの絶滅危機や漁獲量の話になると、大抵、水産庁の管理が甘さや流通ルートに関わる反社、そしてなにより無駄に大量に仕入れて安く売りさばくスーパーや外食チェーンへの批判になる。
それで強めに主張する人は、もっと流通を締め上げて、薄利多売の小売や外食では取り扱えなくして、専門店に供給を絞るべきという風に主張をする。
この考えはうなぎの保護という観点ではまあ基本的に正論だと思うよ。
正しく水産資源管理がなされて、その状態で市場原理が働けば必然そういう風になるし、そうあるべきなのだろう。
でも俺はそれが正しいと認めた上で、この考えが反吐が出るほど嫌いだ。
結局これって、ちょっとお高い専門店で食える上流共は「うなぎを食べられない」という不利益を小金で回避して、そうでない庶民だけがうなぎを取りあげられることになるわけじゃねぇか。
俯瞰的な「正しさ」のために下々ばかりが犠牲を強いられる、あまりにも典型的なバラモン左翼仕草だ。
俺はそれが気に入らねぇ。
別に個人でうなぎ断ちする分にはどうぞご勝手にだが、それを少しでも押し付けてきたり、上から目線で啓蒙とかほざいてくるなら、そこから先はもう正しさとは別軸の階級闘争だよ馬鹿野郎、って気持ちになる。
それでも、うなぎの保護が大事だってんなら、バラモン様も一切捕らない一切食わないくらいの覚悟を見せてほしいね。
いや、実際に一切捕らなかったらそれはそれで別問題が起きそうだけど。
あんまり下に合わせてなんでも規制規制って考え方は好きじゃないけど、正しさを謳うならそのくらいの姿勢を見せろやって話だ。
(俺はうなぎ好きでもないからそれで全然構わないわ、って人もたくさんいるだろうけど)
【追記】
俺の知識不足で、はてなでしばしば見る「バラモン左翼」というワードを使ってしまったが、「ゴーシュキャビア」とか似た感じの表現が色々あるんだね。
「リムジンリベラル」とか「シャンパン社会主義」とか調べたら出るわ出るわ。
「シャンパン社会主義」はWikipediaの記事まであって、そこに「世田谷自然左翼」も書かれててワロタ。
この手の他人に負担を強いて自分達は正義に酔う傲慢なクソ野郎共が、こうやって地域や時代を問わず正しく嫌われて、侮蔑の名付けをされているという事実はそれだけで少しだけ胸がすく思いがするな。
あと、それ左翼か? みたいなコメントもあったけど、侮蔑的なニュアンスのスラングとしての「バラモン左翼」って言葉で言い表される奴等は、正義を振りかざして気持ち良くなれれば本来の左派としての在り方とか無視できる一貫性のないクズ共だと思ってるんで、本当にそれが左派かはあまり気にしてなかったわ。
あと、ブコメにあった
庶民にも食わせろというのが左翼っぽいというのはなるほどと思う一方で、近年は左翼の方が全体最適を唱え、ウルセー好きにさせろ!なタイプが右翼に行く傾向もあるか
に同意。
ブコメの「暴力革命を放棄するとか書きようはいくらでもある」「暴力革命を未来永劫否定すると文章に明記すればよい」これに尽きるのでは?
国民の消費生活を統制したり画一化したりするいわゆる「統制経済」は、社会主義・共産主義の日本の経済生活では全面的に否定される。
https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/
このように共産党の綱領でも何かを明確に否定する表現は使われているので暴力革命の全面的な否定を明記しない理由は別にあると考えざるを得ない
そもそも「綱領は〇〇すると書くものであって〇〇しないとは普通書かない」自体が眉唾で自民党の綱領には「社会主義的政策は採らない」とあるのだが
「絶対に書かないわけではないが普通は書かない」程度の話であれば共産党と暴力革命の関係はまさに普通から外れている問題なのだから書くべきだろう
「表現の自由」問題が盛り上がっているが、前々から思っていることとして、「表現の自由」は以下の三つの立場に分けて理解されるべきだろうと思う。
「どんな不快で差別的な表現であっても、お互いにそれを我慢して認めるのが表現の自由であり、表現への批判それ自体も表現規制につながる危険性が高い。」
「不快で差別的な表現も認められるべきであり、政府による表現規制は好ましくないが、表現への批判も表現の自由の一部であり、そのリスクはきちんと引き受けるべき。」
「不快で差別的な表現を放置することは、社会的弱者やマイノリティの表現・言論の自由を行使する機会と意欲を奪うことになるので、真の表現の自由の実現ためには一定程度は規制されるべき。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E5%B7%A6
”極左は通常は、平等主義[1]・社会階層上の政治的、経済的、社会的な権力層に対する徹底した反対と闘争[2]を主張し、支配階級に関連する人々と敵対する[3]。
「極左」や「極右」の用語は学者により多くの意味で使用され、相互に矛盾するものも含まれる。また「極左」や「極右」はあくまで相対的な用語であり、自称する例は少なく、レッテル張りに使われる場合も多い。”
”社会主義や共産主義の中で特に急進的な思想のことである。しかし、どこからを急進的と呼ぶかは時代や学者や観点により異なる。”
”社会的側面における「左翼」とは通常、社会的平等を実現するために権威や権力の最少化を推進する無政府主義であり、その「極左」とは無政府主義の中で特に急進的な思想のことである。”
”代表例には集産主義的無政府主義やアナルコサンディカリスムなどがある。その「極左」とは、これらの中で特に急進的な思想のことである。
フランスの『極左の辞典』(Serge Cosseron編)は、「極左」を「共産党の左に位置しているすべての運動」と定義している[5]。
なお思想上の急進主義ではなく、行動上の暴力主義は通常「過激派」と呼ばれる。極左の暴力主義集団は日本では通常、マスコミでは「(左翼、極左)過激派」、警察では「極左暴力集団」と呼ばれる。”
戦争最高、天皇万歳、うちの国だけよければOK(愛国)、韓国は敵、中国も敵、核武装したい、銃規制するな、政府に権力を集中せよ、市民はそれに従え
「インターネットが自由にできる世界では」今世界的に男女平等や多様性が押し進んでいるので、それに抵抗したくて、結果的に変革(古きを取り戻せ、女に好きにさせるな)になってる
北朝鮮と中国は普通にはツイッターにアクセスできないでしょ、どうしてもインターネットがない・自国完全管理になる、社会主義(保守の終点)って。言論統制で調べて。
それに戻りたいってインターネットで叫んでるの馬鹿っぽいよね。
平和最高、男女平等最高、多様性最高、生まれる国も性別も人種も選べないのだからどの立場になっても文句のない世界をつくろう、政府に権力を集中させるな、おかしなことは抵抗するただし非暴力(座り込み)、クリアにオープンにしろ隠蔽はだめ
例えば…??確かに綺麗事の裏で漁夫の利得ようとする人間はいるけど「どの立場になっても文句のない世界」で少数派が頑張ることを、自分たちに都合よくってとらえてるなら、相当マジョリティのぬるま湯にいるんだね。
あと、言うまでもなく、ついったは100%ネットなんで…。140文字のレスバでネトウヨと争うネトサヨ(?)も政治知識はお察し。
左右は相対的なものでしかないので、国によって概念が変わってきます。
日本はアメリカ政治の影響を受けますから、アメリカ的な解説をすると。。。
大きな政府を作って、大きな政府のもとで平等や多様性を管理していこうとする考え方。
この考え方を突き詰めていくと社会主義になって、情報もメディアも経済も「大きな政府」が統制すべし!となります。
真・女神転生のLAW的な考え方。
できる限り政府の関与を小さくすることで、自由や多様性を確保しようとする考え方。
だから政府が国民皆保険制度や銃規制を進めようとすると「政府が統制しようとすんじゃね-よ!」となります。
資本主義・自由主義陣営と共産主義・社会主義陣営の対立のなか自由主義を掲げるアメリカで社会主義≠共産主義を掲げる思想家が差別・排除されないために自由主義を騙る「アメリカの」社会自由主義(リベラル)が自由主義にカテゴライズされるのは
全員が同じことを出来るわけではないから
分かり易いのが農業で
適当に仕事をしたいのなら、農協の統治の下、規格を満たすものを作って納品し対価を得るのが良い
規格を満たしさえすれば対価を得られるが、最高においしいものを作ったところで、それだけ高値で買われたりはしない(一般論としてな)
だから、出来る農家は独自ブランドとして販路を作り、農協の統治を外れる
出来る人間はきちんと対価を得られることになる
これが社会主義だと許されない
↑左翼
左翼。
資本主義は格差が激しくてついていけないから、もっと平等で公正な社会を目指そうぜ、という感じ。
資本主義によって、土地や工場などを私有する資本家が労働者をこき使って搾取するようになったので、それを打破して平等な社会を目指す。
そのためには、労働者自身が土地や工場などを管理する体制(プロレタリア独裁)を武力を用いてでも築くべきだ(暴力革命)、という感じ。
暴力革命を志向するテロリストや、スターリン・毛沢東のような独裁者を生み出した。
マルクス主義を反省して、暴力革命やプロレタリア独裁を否定し、民主主義を通じて政府に働きかけ、平和的に社会主義を達成しよう、という感じ。
政治面においては「俺たちには自由に生きる権利があって国王や貴族でさえそれを侵害できないぜ」という感じ。
民主主義や共和主義を志向する。フランス革命時における「左翼」。
経済面においては「俺たちが自由に商売すれば自然とバランスが取れるんだから政府は余計な口出しすんな」という感じ。
資本主義や市場主義を志向し、個人の権利を重視して「国家権力は小さくあるべき」と考える。
「社会自由主義」の台頭後は、区別のために「古典的自由主義」と呼ばれる。
古典的自由主義のように野放しにしていると、差別や格差が広がって個人の自由が制限されるから、むしろ国家権力が介入して積極的に差別や格差を是正すべきだ、という感じ。
社会自由主義の反動から、一周して古典的自由主義に戻ってきた感じ。
自由な市場を実現するために、規制緩和をしたり、法人税を下げたり、国営企業を民営化したりする。
右翼。
何らかの急進的な政治運動に対して、それに反対する立場が「保守」と見なされる。
それぞれの政治体制や歴史的経緯によって何が「保守」となるかは異なってくるが、現在の日本においては、政治的には「国家主義」を、経済的には「新自由主義」を指すことが多い。
もとは自由主義と連動していて、誰かに支配されたりするのではなく「俺たち」が中心となって行動すべきなんだ、という感じだった。
しかし国民国家が成立して「俺たち=国家」となると、「おまえも俺たちと一緒だよな」と均質化を強要したり、「おまえは俺たちと一緒じゃない」と排外主義になったりした。
「俺たち」を結びつけるものは「民族」「家族」「宗教」「伝統文化」などであることが多い。
さらに行き過ぎると「個人の権利よりも国家の利益が優先される」という「全体主義(ファシズム)」となる。
↓右翼
https://twitter.com/mizloq/status/1594608637208850434
https://twitter.com/mizloq/status/1594554415045742592
WJSの調査をまとめ直しただけなのだけれど、こういう視覚化が珍しかったのか、たくさんの反応ありがとうございました。
https://pbs.twimg.com/media/FiEvYdVacAIZ4Rg?format=jpg&name=medium
あの表から読み取っていただけることはいくつもある中で、表を作ってTwitterに投稿した者として是非注目していただきたかった点は次のとおり。
この点はあとで少し詳しく書きます。
「いま国民的議論の対象とするべきものはこれだ」「次の政権はこの論点で選ぶべきだ」を提示するのがマスメディアのしごとだ、ということですよね。この項目が上位に来るのは、世界67カ国調査をざっと見たところ、日本と韓国だけです。韓国マスメディアについては詳しくないので触れませんが、日本のマスメディアについては、その発祥と発展の経緯がこれに大きく関わっていると思われます。
萬朝報が中心となって1901年に「理想団」が結成されて以降の日本のマスメディアは、社会主義的な思想をベースに、自分たちの役割を
と任じ、そうやって自らが牽引して作った「世論」にマッチした政治が政府によって実施されるかどうかを「監視」していました。したがって、政府がその世論に従わなければ反政府反権力的な言論を展開しましたが、政府が世論どおりに運営されれば権力と一体化して少数意見を封殺する言論展開を躊躇いませんでした。その尻尾がまだ残っているんだなあと、個人的にわりと感動したところです(褒めてません)。
アジェンダ設定のような能動的行為は「客観的観察者であること」を大きく損ねますから、それをジャーナリズムの重要な役割とすることには拒絶ないし躊躇があるのが当然でしょう。日本以外のすべての国で「政治的アジェンダを設定すること」への重要度認識が低いのはそのためです。
この「人々が意見を表明できるようにする」の原文は "Let people express their views” なので、「人々の意見を表明するツールとして自分たちのメディアを使わせる」というニュアンスも含まれます。世論を醸成し政策アジェンダ設定が重要と考えているくせに、いや、だからこそかもしれませんが、実際の「人々」の意見を汲み上げて報じることにはあまり重要性を感じていないわけです。120年前と同じように、「自分たちが良いと思う世論を作る」という意識なのだとすれば、そうでないさまざまな意見の表明はあまり好まないのも不思議ではありませんね。
「政治リーダーの監視と精査」 「時事問題の分析の提供」 「人々の政治的決定に必要な情報の提供」については、それらへの重要度認識が高いこと単体に違和感はないし、しっかり頑張っていただきたいものですが、「事実をありのままに伝える」「客観的観察者」などを差し置いてそれ以上に重要と感じていることには強い嫌悪を覚えます。
特に、「政策アジェンダを設定するのは自分たちの重要な仕事」とこれら3点がセットになっているのを見ると、吐き気すら催します。
全部に対応するのは無理ですが、いくつか類型化して主な反応にお答えしてみます。
はい。「お国柄はあるものの」と書いているとおり、この回答には各国それぞれのジャーナリズムの歴史がほんのりと現れていて興味深いものです。大雑把に言うと、
という感じでしょうか。
それでも日本を敢えて「異様」と書いている理由は、この調査で「事実をありのままに伝える」トップにならないことの異常性です。
この項目は、ジャーナリズムを体系的に学んだ者なら誰でも気づく、他の約20の項目とは完全に異質の質問です。他の項目は「お国柄が出ますね」で済むけれど、この項目だけは別格です。
いわば、「あなたはジャーナリストとして最も基本的な動作を正しく重要視していますか?」とほぼ同じ意味の項目です。
と問うような質問なのです。
「勝つことだけが重要ではない」「ほかにも大切なことがある」という選手はいるでしょうけれど、「勝つことの重要性はあまり高くない」と答える選手はかなり少ないでしょう。そう答える選手が1/3も存在するチームを応援する気にはならないし、スポンサーになる気にもトトを買う気にもならないですよね。ほかにどんなに重要と思うことがあったとしても、実際に勝てないとしても、プロスポーツ選手である以上は「勝つことは大切」と思っていて欲しいじゃないですか。
まともなジャーナリズム教育を受けた人であれば誰でも、「事実をありのままに伝えることはジャーナリズムがジャーナリズムであるための最も重要な要件」と学びます。
別の言い方で「ファクトとオピニオンを明確に区別せよ」とも言います。
たとえば、40年ほど前に私が専攻していたジャーナリズムの学科はジャーナリズム研究と並行してジャーナリスト実務者養成の要素が強く、1年間ずっと報道文の宿題を提出して「この表現は客観的でない」「ここはファクトにオピニオンが混じっているからオピニオンを削れ。さもなくば明確に分けろ」と重箱の隅をつつかれ再提出させられ続けるという地獄のような講義がありました。
そういった養成訓練を受けた人なら、あとからどんな思想的政治的干渉を受けたとしても「事実をありのままに伝えることはジャーナリストの最も重要な仕事」という考えが覆ることはまずありません。だから、中露ですらこの項目はトップになるのです。
「日本人にアンケートを答えさせると5段階の5をめったにつけないから・・・」という擁護も来ましたが、今回の表は4と5を合わせて集計したものですからその影響は小さく、現にたとえば「政治リーダーを監視精査する」は堂々90%を超えていますから、その考慮は必要ないでしょう。ていうかそもそも、仮にそうだったとしてもほとんど条件反射で「5」と回答して欲しい質問なわけですよこの項目は。日本のジャーナリストの1/3が、建前としてすらも「極めて重要/とても重要』と答えない。これは嘘吐きかどうかとはぜんぜん別の「恐怖」です。
そういう思いから、日本のジャーナリズムを「異様」と書きました。
それは情報の誤読です。「事実をありのままに伝える」を重要と思っている度合いの相対的に弱い人が35%いるというだけです。その人たちが日常的に嘘を書いているというわけでもないし、逆に、重要と思っている人が嘘を書かないというわけでもありません。
・・・まあそうは言っても、たとえば「自分が伝えたいことや自分の設定したいアジェンダにとって都合の悪い事実があったときの行動」は違うだろうと容易に想像できますから、信用問題ではありますね。
それは情報の誤読です。この調査は「あなたは事実をありのままに伝えていますか」ではないので、ご希望の数値はここには表示されません。
さきほどのプロスポーツ選手の喩えでいうと「勝つことが重要だ」と言いつつ練習もサボり試合にもボロ負けする選手ですね。「勝つことが重要だ」という建前すら言わないで練習をサボりボロ負けする選手よりはずっとマシだと、私は思います。まあ感じ方次第ですけど。
これは別のデータ等をもとに別に議論されるべきでしょう。もし感覚だけで言うなら、私はそうは感じていません。日本のジャーナリストには「ファクト」と「オピニオン」を厳密に分ける教育も訓練も不十分な人が多く、そのせいか、「ファクトのように読める部分にオピニオンが混じり込んでいる」というフェイクニュースではないけれどフェイクニュースよりもたちの悪い報道が多数見られます。
現状の「原因」としては大きいと思います。ただ、読者や視聴者と異なりジャーナリストはそれを職業とする人々であり、現状への「責任」を同列に語るのは適切でないと考えています。原因と責任は別物です。
ぜんぶ来ましたw どれも当たっていてどれも間違っているんだと思います。
これらの評価(罵倒)を言ってしまうのは、ご自分たちの考えと合致した世論を喚起し政策アジェンダを設定していく役割、もっとあからさまに言うと、ご自分たちにとって都合の良い機関紙としての役割をジャーナリズムに求めているからです。ジャーナリズムは本来そのようなものではありません。「事実をありのままに伝える」を重視して「客観的観察者」の実践を続け「政策アジェンダを設定する」から遠ざかっていけば、ジャーナリズムがそういう評価の対象になること自体がもっと減るだろうと考えています。
私もそう思います。世界の一般的なジャーナリストにとって「報道の自由度が低い」とは「事実をありのままに伝えることや自由な表現を阻まれる」を意味します。日本のジャーナリストは世界の一般的なジャーナリストと異なり、自分たちによる政治アジェンダ設定や世論形成を重要視している度合いが強いので、それを言いっぱなしにさせてくれず邪魔されたり反論されたりそのとおりに世論が形成されなかったりするのを「報道の自由度の低さ」と勘違いしていると思います。
これはいろんな考え方があるでしょうが、私は、「事実をありのままに伝える」というジャーナリズムというものの普遍的な存在意義にかかわる話は、法律等の要請やメディア運営指針に過ぎない「政治的中立性」と同列に語ることは全くできないと思っています。また、たとえば日本のマスメディアがよくやる両論併記は政治的中立性の名のもとに行われますが、科学的知見に基づくコンセンサスと大きく異なる異端論をいつまでもいつまでも書き続けるような形で現れることが少なくなく、「政治的中立性」はあまり褒められたものではないと思います。