はてなキーワード: 矮小化とは
右派団体による抗議した件への裁判を偏向報道じゃないか?と思っていたら
なんで裁判でストレートで有罪が確定した判決について批判するのに、背後の細かい事情まで出さなきゃいけないの?まああって欲しかったという要望なら分かるけど、それが無いからと言って変更報道だ!と主張するのは無理がありすぎるよね。
該当事件において参加していた在特会メンバーは威力業務妨害罪、侮辱罪、器物損害罪で逮捕され起訴され有罪判決を受け控訴を棄却され上告も棄却され有罪判決が確定しております。そんな基本的なことも知らずにコメントしてたんですか?あとこちらが示した資料をまったく、読んでいないことも確定しましたね?
というか「民事事件だから有罪じゃ無い!」って、日本では民事と刑事で同時に裁判が進行して行くことも知らないのか、それはいくらなんでも。
こんな基本的な情報も知らずに批判する人に「偏向報道」とか言われたく無いよね、メディアも。そしてそんな最低限の知識も調べる気がない人にまでいちいち配慮などしてられないよね、時間は有限なんだから。
それにしてもすごい、2012年2月時点で上告棄却で刑事裁判にて有罪が確定した犯罪行為に対して「社会現象」「係争中の事件」なんて矮小化も甚だしい表現を使えるなんて。その上で「偏向報道だ!印象操作だ!」と主張しているんだから、本当に恥知らずとしか言えないですなあ。
こういうところで「自転車通勤は楽しいし、いい事なのにそれが苦痛と感じちゃう時点で底辺( ・´ー・`)ドヤァ・・・」とか書いてる連中って精神力や体力が有限なリソースであることにすら気づかないんだろうな。
そもそも増田がリンクはってるまとめでそのことがしつこいくらいに書かれているんだが。
肉体労働でボロボロになってる時はたとえ趣味が自転車だろうと乗る気力も体力もなくなるって事や自分が自転車通勤楽しいからって他人がそうではないかもしれない事くらいなんで思い当たらんのだろう。
でも増田がキレてるのはこういう状況の事を話しているのに個人の資質の問題に矮小化する連中だからある意味正しい反応なのかも。
大学が忙しくなったので定期的なバイトのシフトが組めなくなり、仕方がないので日雇い派遣の会社に登録して働く事になったが実に最悪だ。
基本的に糞な点を挙げると
1、働いている人間が糞。基本的に怒鳴る、キレる、等でしか人とのコミュニケーションができない人が多い。
「アレやっといて」「アレってなんでしょうか?」「んなこともわかんねえのかよ!」な感じ。
2、現場に統一されたマニュアルがない。誰かの言うことを聞いて仕事をすると別の誰かが「なんでそのやり方でやってんの!」とかキレる。
基本日雇い相手なので育てるという発想がなく、牢名主みたいな連中が我が物顔で仕切っている為行き当たりばったりにしかならない
3、それでありながら給料が非常に安い。最低自給な870円とか。しかも余計な人件費使うまいと、早く終わるとその給料分はケチをつけて払わなかったりする。
4、1~3が相まって職場にはものすごい負の空気が漂っている。
今までの週4のテレアポの仕事をつらいと感じていた自分が懐かしい。
コンビニはじめ日本の便利さってこういう奴隷産業が支えているんだとしみじみした。
そんな仕事場に電車賃すら惜しくて自転車で一時間かけて通い、食事に270円の牛丼を食ってると「ああ、俺は本当に奴隷なんだな」と思って涙が出てきて、仕事が終わるとまずくて気持ちが悪くなるのを承知で氷結果汁でも飲まずにはいられなくなる。
僕はこの生活が期間限定であることがわかっているからまだ耐えられるが、もしずっと続けなければならないとしたら本当に寒気がする。
赤木智弘が「31歳フリーター。希望は、戦争」を書いたときに左系の知識人から「それは結局体制派を利するだけの感情論に過ぎない」とか批判されたが
もしこの生活を一生続けざるを得ないとして、その時にレーニンやヒトラーでもいいが、このやり場のない憎しみをまとめ上げて指向性を与えてくれる人間がいたら非生産的なのを承知で自分はあっさりついていくだろうなとも思う。
さて先日、伊東乾先生が村上春樹を「所詮は経営の苦しい己のジャズ喫茶の赤字黒字を思いつつビールをなめつつ書いた原稿であって、しらふの本気の人間には最初からキャンてなもんで太刀打ちも出来ない」等とdisっていた。
まあご立派な環境で作ってらっしゃる伊東先生の音楽は「あっ前衛的っすね」で済ませとけばいい現世と没交渉な退屈極まりないものだとは思うけど、その一方で「人間の大半を決定する多感な10代20代をどう送ったか」が創作をする人間は非常に重要というのはうなずける点がある。
村上春樹自身がジャズ喫茶経営の経験から書いている事だが、絶え間ない肉体労働と貧困というものは人間を絶え間なくすり減らしていくものなのだ。
奴隷に仕事をやらせて哲学談義にふけったギリシャ人のように、文学なんてものはそういうのものと離れ余裕を持った人間でもない限り、難しいだろう。
肉体労働者から小説家になった西村賢太にしろレイモンド・カーヴァーにしろ例外中の例外だからこそ目立つのだ。
世の肉体労働者が心をすり減らし、アルコール等に逃げざるを得なくなりどうなっていくのかを見たければ山谷なり黄金町なりにいけばいい。
腐るほど日本の成長の為に使い捨てられた先輩奴隷たちの末路を見ることができる。
そして貧困を逃れられた人間でもその憎しみをかつての自分の同類に向ける渡邉美樹のような人間もいる。
「貧困や苦労が人を立派にする」などと言うのは自分と同じ苦しみを味あわせるためか、苦労を知らず貧困にロマンを持つ馬鹿のたわごとに過ぎない。
正確を期するなら「貧困や苦労を抜け、その苦しみを自らが相対化できるだけの余裕を持てたとき、人は立派になることもある」とでもいうべきだろう。
とりあえず、僕はこの生活で自分から余裕がなくなり、憎しみをため込んで、嫌な人間になりつつあることを自覚している。
おそらく数年間続ければ自分達最下層奴隷を意味なく怒鳴り散らしているベテラン奴隷になるのだろう。
「日本は社会の格差の増大に苦しむという。 そういう人は、電気のない干ばつのアフリカ、砂漠の続く酷暑のアラビアで、まずほんの短時間にせよ、生きてみたらどうか。 そして飢えに苦しむ人々に自分の食べるパンの半分を割いて与えるという人道の基本を体験したらどうか、ということだ。」とかほざいている金持ちの家に生まれた曽野綾子。おまえは一年くらいここで働いてみろや。
あと人道の基本ってのはお前ら持っている人間が持たざる人間に対して与えることだろうが。
お前みたいに「うちの奴隷はよその奴隷に比べて待遇がいいから耐えろ」とかいうことじゃねえ。
この十年の大学の学費の異常な値上がり、不況による仕送りなんかの減少で自分みたいな大学生は多いだろう、というか周りを見回してもたくさんいるし、学費がはらえずに脱落していった人間も多い。
そして窮状を訴えれば団塊だのバブルだので好き勝手やった連中が「甘え」だのと言い、アホな学者は「牛丼福祉」なんぞとほざき、弱者の味方のはずの左翼のみなさんは「脱成長」だのイデオロギーありきな「脱原発」なんぞにかまけててこっちを見ない。
ほんと、どうにもならねえよ糞ッタレ。
とりあえずこれからツタヤで100円で借りたアメドラの「スパルタクス」で奴隷が蜂起して主人達を皆殺しにするシーンでも見ることにする。
あと金がないっていう事について非常に参考になるまとめをはっとく。
追記
さらに追記
こんな駄目大学生が書いた文章を多くの方に読んでいただき恐縮です。
あとブコメでnetcraftさんという方のお名前が出ていましたが、その方と僕とは関係がありません。
さてこの文章を書いた意味、と言うようなものは正直特にありません。
本来なら「不況なのにシャレにならないレベルで上がった学費をどうにかしてほしい。お金持ちでない家の大学生でもある程度勉強に専心させてください。世間に対して影響力のある人が現在の若者の状況をろくに調べないで自分の脳内のみで考えた若者像で批判ですらない中傷をしないでください。」等と書くべきなのかもしれません。
ですが残念ながらこういった状況を改善しようとする意見が、自己責任だの甘えだのといった安い言葉で個人の内面の問題に矮小化され冷笑されるのをずっと見てきましたので今更そんな事を言おうとも思いません。
書いた事に意味がなくとも理由があるとすれば「主人の見ていないところで文句をたれる」という奴隷にも残された自由でストレスを解消したことと、これから大学生になろうとする人に家がお金持ちでなければ、学費と学部の選択や就活等によってこのような事態は容易に起きるという事を知ってもらえればということくらいです。
僕は自分が今している仕事は奴隷であり、心底糞だと思っていますが、所詮期間限定であり、ずっとこのような環境で働き続けて消耗し、抜け出そうという気力すらなくしてしまった人々のつらさには比ぶべきもありません(まあ脱落して戻ってくるかもしれませんが)。
ただ現状こういった労働は「無敵の人」を大量生産する工場として機能し始めていますし、その問題を社会問題として対策をとるのではなく個人の問題として切り捨ててきた以上、ツケは社会全体に回ってくるとは思います。
兎にも角にも読んでいただいたみなさん、ありがとうございました。
よく「女の相談は話を聞いて欲しいだけ」って言われるが、それは必ずしも正しくないと思う
ウザい男(全ての男とは言ってない)の「アドバイス」がウザいのは説教や自分語りだからであって
例えば仕事が辛いと言ってきた相手に「ならやめれば?」と極論を言ったり
「そのくらい我慢しろ、お前は根性が足りない」と説教をしたり「俺なんかもっと辛いのに耐えてる」と自分語りをするのじゃなくて
効率の良い仕事の進め方や人間関係を円滑に進めるコツを的確にアドバイスしてくれるなら全然歓迎。
世の中には的確なアドバイスが出来る頭の良い男もちゃんといるんだから、男女論に矮小化してしまって男としての能力の差を無視するのはよくない。
勿論女でも的外れなクソアドバイスや説教してくるのは多いしな。
アドバイス自体が不要なんじゃなくて、その自称アドバイスが的外れだったり単なる説教や自分語りに過ぎないから嫌がられてるんだよ。
「妙齢の独身男女が腐るほどあぶれている現状」が解決されるという根拠は?
個人的には少子化はどの先進国も抱えてる問題で、日本に限れば劣悪な労働環境と不況が一番の原因と思ってるからコミュニケーションが原因とするのは問題の矮小化だと感じるが。
昨日の増田が書いてた内容は恋愛テクニック的なもので、 「コミュニケーション基礎論」 とは呼べないんじゃないのか。 で、その程度のテクニックなら本でもサイトでも溢れてて誰でも学べるようになってるが、わざわざ学校でやる意味って何なんだ、と突っ込まれてたんだろ。
学校で一律に教えることでの幣害(画一的な男女観や性的マイノリティへの偏見助長)もあるというのに。
コミュ障で友人が一人もいないけど恋人だけはいる、ってケースだってそれなりにある。精神的・金銭的DVで無理やり縛りつけて関係を保ってる場合もある。
どっかの国立大学で恋愛学の講義ができて話題になってただろ。需要があるのは分かるが、 恋愛に限らず人間関係の形は自由であるべきで、他人が干渉するのは慎重でなければならない。ましてや教育をや。
恋愛に限らずコミュニケーションをマニュアルで教えるのは難しいだけでなく、そのような教育には問題がある。だから大変かもしれないが自分で実施で学べ、ってことだよ。で、経験の前段階としてのテクニック的な情報なら腐るほど溢れてるって言ってんの。経験から学ぶのが苦手ってのは、ちゃんと「経験」した上で言ってるのか?
追記:id:showgotch(技術教師)さんご本人から、元増田記事を書かれたのは別人であるというご連絡を頂きました。当初、誤った推定でこの記事を書いていたために、showgotchさんに不要なご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。
なお、元増田記事が投稿された日、showgotchさんはお誕生会を開かれていたそうです。そして、せっかくのお誕生会から帰ってこられたときに、自分が元増田記事を書いたと思われたことを「不愉快」に感じられたそうです。それを含めて、元増田記事の投稿者だと勘違いしたことをお詫びします。そして、お誕生日おめでとうございます。
以上:追記おわり
コウモリ(Rlee1984)です。ご質問を頂いたので、お返事いたします。
①技術教師のid:showgotchさんが、こういうブログを書かれる。
→ http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20140228/1393606968
②コウモリ(Rlee1984)について書かれている部分があるので、そのブログにコメントする。
③コメント欄で幾つか話す。
④id:showgotchさんの記事とコメントを見た誰か(不明)が増田に、無リンクでの投稿をされる。
→ http://anond.hatelabo.jp/20140302105919
A、該当記事のリンクは上記の通りです。念のため、以下にも再掲します。
B、元増田記事での引用から抜けている部分を以下に引用します。
C、元増田記事に対して、返答が必要と思しき箇所のみ簡潔にご返答いたします。
①引用元のブログ記事と自分のアカウントを隠蔽し、リンクも貼らず、任意のコメント欄だけを抜いた形での増田投稿による文脈操作は、良くないと感じます。
②繰り返しになりますが、僕は個人攻撃やマウント合戦には興味がありません。ブログ記事でご返答すべきものがあるとは思えないこと・増田でご意見を頂いたことから、この場を借りてお返事さしあげる次第です。
http://d.hatena.ne.jp/showgotch/20140228/1393606968
『ちきりん氏の科学教育論もそろそろ幕引きで』 id:showgotchさんのブログ記事
showgotchさんが、記事内で僕(コウモリ・id:Rlee1984)について触れた部分を引用します。
なんか高卒ニートがそんなトラウマからか、調べて頑張ってる様子だったのだけれど限界が見えているので細くしておこう。それよりニートに屑とか言っちゃダメだよ増田。
Id:Rlee1984の主張は、経済を勉強した学生によくありがちな「ハイ論破」のつもりで結局平面上を右往左往してる議論にしかかなってない。
トレードオフの話を取り出してくれたのは自分で落とし穴掘ったようなもので、結局つめこみvsゆとりの構造から脱却できてないわけでしょ?ぜんぜん脱構築もアウフヘーベンもしてないじゃん。系統学習か経験学習か、と言われれば両方横断するのが一番なのである。僕の好きなメタファの一つに「デールの円錐」と言うものがある。~略~
分けて返答するのが困難なため、元増田記事とshowgotchさんの記事を同一意見とみて返答しています。
指導要領では、「系統vs経験を乗り越えて」、「ゆとりか詰め込みかを乗り越えて」、というお題目がセットになるものです。
それを引きの視点で見て分類した話をしています。(僕の記事の注釈で分かるかと思いますが、言葉の範囲を拡大して分類整理に使っています)
たしかに企業による利益誘導は問題ですが、『学者や教師以外は外野』と言ってしまうのは極端です。
教育は社会の基幹であり、この社会に暮らす万人が広く意見を述べる権利があると思います。
対応発言:元増田の『より学問や科学知に近いスキームを得られるようにした方がいい』
対応発言:元記事の『学校で行われている教育は100年の改善を積み重ねて来た等しく必要な教育』
対応発言:元増田の『100年の積み重ねがある教育を~中略~必要とはいえなくても不必要とは言えない。』
対応発言:元記事の『その二つは同一平面じゃない。円錐の一番上としたなのですよ。』
これを受けて、平面ではない具体的な制度論としての「提案」を求めておりました。『幕引き』とタイトルで仰られていたからです。そのため、次の発言は意味が分かりません。
また話を広げようとされているので、収束が面倒なのですが;
ICT教育への期待(教育効果の可視化)と、弊害への心配(教育目標の矮小化)については、ツイッター上の発言部分をご参照ください。
→http://twilog.org/1984lee このツイログから検索すれば、見つかるかと思います。
ここで多元的評価(羅生門アプローチ)についても話しています。
僕の記事では、「学習指導要領の変遷くらい眺めてから記事を書かれてはどうですか」と申し上げました。系統vs経験は、ざっと眺めれば素人でもすぐに見つけられる用語です。そして伝えやすさのため、他のベクトルを含む用語を一旦わきに置いて絞り込んだ説明をしています。徒に自分の知っている専門用語をばら撒くのはマウント目的と判断されやすいからです。相互の記事における、固有名と専門用語の数を計算してみれば分かるかと思います。僕はコメニウス、デューイ、ブルーナーの名前すら出していません。また、ICT教育の語も用いておりません。
そのように評価される教育関連の方もいらっしゃるのだ、と受け止めさせて頂きます。
また何かありましたら、よろしくお願いいたします。
ただ今後は、「相互の理解を深める」「生産性ある見識を広める」こと以外を目的としているように思える場合には、返答しないことがあります。ご了承ください。
私は大規模・小規模、それこそものすごい人数でのチームや、自分一人のプロジェクトまで経験してきた。化石のような連邦事務局でもクールなシリコンバレーの会社でも働いたことがある。私は12種類以上のプログラミング言語を学び使っていた。私の時代には ウォーターフォール/BDUF (big design up front), 構造化プログラミング, トップダウン, ボトムアップ, モジュラーデザイン, コンポーネント, アジャイル, スクラム, エクストリーム, TDD, OOP, ラピッドプロトタイピング, RAD, その他思い出せない様々な手法が生まれた。 でもそれらで上手くいってると思えるものは一つもなかった。
( 注:ここで書いてある「ソフトウェア開発手法が上手くかない」の意味について説明させてほしい。それらはソフトウェア開発のプロセスや、ソフトウェア開発そのものについて予測性や再現性を提供していないという意味だ。ほとんどのソフトウェア開発手法はプログラミングに工学風のプロセスを提供してくれる。しかし、上記の理由でそれだけでは不十分だ )
チーム生産性・幸福度・メンバーのつながり・1日あたりのコード量・人月・コードの品質・製造された成果物、、、そういったもの以外でソフトウェア開発手法が上手くいってるか、いってないかを図るものはあるのだろうか?
もちろんどんな手法論だって、それに合わせた正しい指標を使えば上手くいってるか・いってないかが計測できる。しかし一番肝心の問題 ーー予算と期限内で要求を満たす事ーー について定常的に結果を図れる開発手法を見たことがない。
上記は私の経験則だけど、僕の知ってる殆どのプログラマは同じような事を経験している。それらの話から言えるのは「ソフトウェア開発手法について厳密な研究は存在しない。なぜならソフトウェア開発上のすべての要素をコントロール事が出来ないからだ」
こんな思考実験をしてみよう、
2つのプログラマのチームがある。どちらも要求・期間・予算はしっかり確定していて、同じ開発環境・プログラミング言語・開発ツールを使うとする。一つのチームはウォーターフォール/BDUFをつかう。もう一つのチームはアジャイルテクニックを使う。
この思考実験にはもちろん意味がない。メンバー一人ひとりのスキルや性格、お互いにどんなコミュニケーションを取るか、そういったことの方が開発手法よりも大きな影響を与えるのは明らかだ。
アリスター・コッバーンが2003年に"People and methodologies in software development" (http://alistair.cockburn.us/People+and+methodologies+in+software+development) という記事でまとめている。
" 人と人の間で、更には刻々と経過する時間の中で変化するメンバーのキャラクターこそがチームの振る舞い、結果に影響する最初の要因だ。 "
私がプログラミングを始めた1970年当時、開発体制はプロジェクトマネージャー・ビジネスアナリスト・シニアプログラマと言った階層構造でガッチリと管理されていた。開発言語やツールを選ぶことは許されていなかった。私はいくつかの大きく複雑なプロジェクトに関わっていたが大体上記の様な働き方だった。成功したプロジェクトもあれば上手くいかないものもあった。
今は開発言語やツールに合わせて、開発手法・働き方をプログラマが選ぶのが当たり前になっている。アナリストやらがプログラマを監査することは殆どなくなった。プロジェクトマネージャーは"リーダー"・"スクラムマスター"という形で矮小化され、管理職の権限は無力化され「チームの意見をまとめる事」以外は何も出来なくなっている。
ガントチャート・スケジュール・ドキュメントを使った「厳格なマネジメント」は"ユーザー"や"ステークホルダー"の関与を省かせて、"ユーザーストーリー"を要約していた。今や私の周りではまともな大人が監督してるとは思えないプロジェクトばかりだ。プログラマのカウボーイスタイルのコーディングを放っておいてるのに、彼らは自分好きな手法を適用するか作るかさせて、1980年代以上に決め事・儀式だらけだ。
実際、今のプログラマは1970年代のCOBOLの現場以上に手法論について厳格で、盲信している。実際私が最近関わるプロジェクトは、大体の場合何も価値を生み出さないのに一人か二人のメンバーが開発したプロセスや"ベストプラクティス"を背負わされてるものばかりだ。
プログラミングチームが手法論を採用する(多くの場合チームの数名か、一人のいじめっ子が決めるのだが)と、やがて厳格に従うように要求を始め、やがてそれは宗教になる。そうなることではじまる無自覚な攻撃が、手法論やテクノロジーが生産性を高めるより早く、チームの生産性を下げてしまう。
私の経験から言わせると、アリスター・コッバーンの論文やフレデリック・ブロックスの「銀の弾丸はない」http://www.cs.nott.ac.uk/~cah/G51ISS/Documents/NoSilverBullet.html で述べられているように、プロジェクトを成功させるにはチームメンバーが共通のビジョンを共有する事(その本では「コンセプトの統合」と呼ばれている)が必要だ。特に何かの手法論を指しているのではなく、これと言ったプロセスがない場合でも同じだ。私はプロジェクト管理ツールの「完了」ボタンをクリックするだけのチームで働いことがあるが、何故か分からないがBDUFやアナリストの監査の元で働いていた昔よりも気分が悪いものだった。
私はプログラマは様式やツールにこだわるより、同僚の話にもっと耳を傾け、もっと一緒に働くことに注力したほうが良いとおもう。そしてプログラマは手法論やプロセスについてもっと疑って掛かった方が良いと思う。そうすればみんな魔法の様に生産性が上がる、間違いない。多分プログラマが社交的なスキルを高めるのは他の職業より大変な事だと思う。(私は必ずしもそうだと思っていないが。)でもそういったスキルを鍛える事は、手法論を試すより事よりはるかに元が取れる、間違いない。
これの翻訳です。
http://typicalprogrammer.com/why-dont-software-development-methodologies-work/
この手紙をどうはじめたらいいだろうと蝉の鳴き声もかまびすしい夏からずっと考えていましたが(伝えるって本当に難しいです)、結局気の利いたすばらしい挨拶が見つかりません。ですから、はじめまして、小鳥さん、とだけわたしはいいたいと思います。あなたに伝えたいことがあって今回このお手紙を書くことにしました。突然のことで申しわけありません。
*
あなたはまず思ったことでしょう。お気に入りの自転車のかごに放り投げられた、飲み口にまだ内容物のこびりついている中途半端につぶされた空き缶みたいな不躾で無礼なこの恋文を送りつけてくるわたしが誰なのか。
わたしは現在36歳、独身、職歴なし(アルバイト歴はあります)、童貞、アニオタ、精神のほうをわずらっており、精神障害2級、まったくありがたいことに障害基礎年金も受給させていただいており(2級。786,500円/年)、日々社会復帰に向けて努力している(作業所で時給200円で働いております。内職系の作業です)日本に確実に数%は存在するありがちな中年男性です。若いころのあだ名は塩昆布です。キモオタAAを想像していただければおわかりになると思いますが、この世の悪意を集中的に浴びてきたせいか皮膚が月面のクレーターのようになってしまっており、細身という点ではまだ社会的に許容されうる生物なのかと思ってはおりますが、実際かなりの醜男です。野良猫に般若の面をかぶせて火をつけてみれば、野良猫はおそらく面を残してなに食わぬ顔で逃げていきますが、ちりちり灼かれていくその面に残った放火魔の殺意と怨念と哄笑こそがわたしの顔からにじみ出ているといってもよく、わたしはそのような人間とは正反対の人見知りでおとなしい男であるにもかかわらず、買い物先のイトーヨーカドーで出会った幼児には顔を見るたびになにか恐ろしいものでも見たかのようにびくっと反応され、かならず泣かれてしまうのです。
小学生のころから容姿をからかわれいじめられてきたわたしは他人に自分の姿を見られるのが恐ろしく、友人も恋人も作らず、いや、作れずといったほうが正確でしょうか、人生に絶望し、引きこもり、勇気を出して面接に行っては人事担当にお祈りされ、ついに自殺未遂をしたあとでは、家族にもうなにもするなといわれ、こうやって小鳥さんのことを考えて毎日すごしています。小鳥さんの腋を見ると、わたしのあのひからびてしまった棒状の物体(その先は言う必要ないですよね)も突如として復活し、さらさらとしたそれでいて粘性のある透明な液体が山奥の新鮮なわき水のようにちょろちょろとあふれてきて止まりません。そんなしょうもない中年のわたしですが、小鳥さんは「わたしでしていいよ(・ω<)」といって顔をほんのり赤らめほほえんでくれます。ああ、なんて天使なんだ!
「小鳥のやつはさ」と鉄男さんは眠たげに足を組むと、たばこに火をつけていいます。「遊馬のことが好きなんだ。だけど遊馬のやつはED(勃起障害)でさ。超越論的跳躍(かっとビング)しすぎた副作用らしいけど。小鳥も酬われないよな」
「わたしは遊馬のことが許せませんよ。小鳥さんを情熱的に愛撫すべき立場にいながら、なめらかな肌といやらしい声と絶妙なチラリズムの天使を無視して、蜜蜂のように扱ってはしっしっと追い払ってしまう」
「そこなんだよ。たしかに処女膜から声は出ていないが、間違いなくあいつは処女だぜ。でも遊馬はEDなんだよ。詰みだよ、詰み。チェックメイト。E、N、D」
「EDになってから幽霊(アストラル)が見えるようになったとか」
「霊感商法ってやつだよ」
「まったくひどい!」
「その通り」鉄男さんはそういうと、たばこを排水溝にはじき飛ばして立ち上がり、ふうとため息をつきました。その背中がとても男らしかったです。
鉄男さんは遊馬と親友という噂でしたが、実はそれほどでもなく、微妙な距離感を保っているらしいですね。ちなみに鉄男さんには璃緒さんという統合失調症の未来の恋人がいるらしいので、小鳥さんには興味がないということでした。よかった!
*
わたしは小鳥さんの魅力を語りたいのです。
*
まずは腋です。小鳥さんはことあるごとに片手を突き上げてその美しい腋を全世界に全宇宙に見せつけています。小鳥さんの腋のくぼみ方はミケランジェロも参考にしたといわれるほどの芸術的な曲線美で、腋汗が溜まりやすく、舐めると南国の風の爽やかさとやや辛めの塩味が感じられてとても美味です。安い発泡酒を飲みながらちびちび舐めるのがとくに好きで(まずい酒のほうが腋汗のうまさが引き立つ)、まるで食べて応援することによって日本社会が皮肉っぽくも明るくなるように、わたしの鬱々とした気持ちも小鳥さんの腋汗によって応援されるようなのです。鬱病患者に「頑張って」は禁句だと世間はいいますが、それは世間のしょうもないオッサン、オバハンからの善意という名の嫌がらせについていうものであり、火星の砂粒やミトコンドリアすら愛するような天使からの励ましはわたしを勇気づけてくれます。「増田くん、頑張って!」「いいですとも(`・ω・´)」
鉄男さんは小鳥さんの腋について以前こうおっしゃっていました。
「小鳥の腋はすげえよ。おれが小鳥に決闘(デュエル)で勝てないのはあれのせいなんだ……」
「というと?」
「見たらわかるだろう? あの肉感的な陰翳、くぼみに渦巻く官能的な黒い風。あの腋が生み出す磁場はファルスを屹立させる特殊効果を持っているんだ。おれは決闘に集中できなくて、それでどこに意識を集中してるかっていったら……」鉄男さんはちっと舌打ちすると、それにつづくことばをためらっているようでした。
「なるほど。でも鉄男さんは璃緒さん押しなんですよね」
「もちろんそうさ。璃緒さまは小鳥とは違うよ。璃緒さまは性的なものを超越していらっしゃるからな。でも小鳥はやばい」
「ですね」
「小学生のころ、夢のなかに小鳥が出てきてさ、『鉄男くーん』とかいって頭の上で手を振ってるんだよ。まだ毛も生えてこない腋がちらちら見えてな。そしてあの磁場がおれのファルスにとりついて、シェイクスピアの生み出したあの世紀のアホ、リア王とでも比べればいいのか、情けないことにおれは下着を濡らしてしまった! とんだ娼婦だよ、あの女は!」
「でも、その……、よかったんでしょう?」
「まあな」鉄男さんはそういって照れくさそうにくすくす笑うと去っていきました。こちらを振り返らずにあばよと手を振ってよこしたのが夕陽の逆光のなかで見えました。
おそらく小鳥さんの腋からはなんらかのフィールド魔法が自己言及的に発動していると思われます。腋が下半身に絡み付いてくる、ちょうど異星人の触手が美少女戦士をしめあげて離さないように。そこでわたしは腋地獄という概念を提唱しました。小鳥さんの腋はバウムクーヘンのように七層構造になっていて、そのそれぞれが自律的に動いています。そして腋全体も螺旋状に回転していて、ちょうどウロボロスの蛇のように、リビドーが第七層の腋まで達すると今度は第一層の腋に連結され、循環され反復されることによって小鳥さんの腋地獄はさらに磁力を増すのです。もがけばもがくほど深みにはまる底なし沼、負ければ負けるほどやめられないギャンブル、呑めば呑むほど呑みこまれるアルコール。そうです、小鳥さんの腋とはあらゆる依存症のメタファーなのです。小鳥さんの腋はやめられない。前立腺の指圧師! 快楽の大銀河!
*
つぎに太ももについてです。これについても新概念を導入しましょう。それは不可視のパンティです。あるとき鉄男さんはつぶやくようにいいました。
「なあ、増田ちゃん」
「なんです、鉄男さん」
「お前、見えてるパンツをどう思う?」
「どうってどういうことです?」
「いやな、おれくらいになると見えてるパンチラに興奮しないんだよ。わかるかな。見えてるパンツはただの布だよ、増田ちゃん」
「メモっておきます」わたしはあわててオタク風の黒いリュックサックから黒い手帳と黒ボールペンを取り出しました。「でも、パンチラとは見えるからチラなのでは?」
「そこなんだよ、増田ちゃん」鉄男さんは少々呆れたように笑います。「パンチラとはいうが、チラってしまえばパンチラではないんだ。パンチラとは一種のパラドクスのことなんだよ。パンチラとは非パンチラのことだ。おれたちはその見える“かもしれない”という可能性に人生をかけているのであって、布に人生をかけているわけではないのだ。見えそうで見えない、でもよく見ると見えているかも、いや、見えていない。それがパンチラというものだ。わかるかい、増田ちゃん」
「うーむ。なるほど。あ、すみません、鉄男さん。このボールペン、インクが出ないのでメモれません」
「書けないボールペンとな!」そういって鉄男さんはぼくの手からボールペンを引ったくると大事そうにズボンのポケットにしまいました。「見えないパンティこそ美しい。書けないボールペンを使えば時空の果てでも恋文が書ける。そして璃緒さんはうるわしい!」
わたしは小鳥さんのパンティを見たことがありません。あ、どうか勘違いしないでください。わたしは見たいと言っているのではありません(それでは変態さんですね)。見えそうな状況でも見えないということが小鳥さんの魅力だといいたいのです(しかし絶対に見えていないともいいきれません)。小鳥さんはパンティを見せないことによって、自分の存在が布へと矮小化されてしまうことを一種のヒロイン的生存本能によって防いでいるのです。布ならば手に取りじっくり見て分析し解釈し考察することもできますが、小鳥さんはそのような研究対象から逸脱した、科学的な尺度によっては測ることのできない超越者だということなのです。小鳥さんの太ももには慈悲があり永遠の平和がある。そこにわたしは神を見たのです。
*
小鳥さんはとても明るく元気でまるで熱帯雨林のように表情豊かな方です。明るい陽射しのなか丘の上に立ってこっちに手を振って鈴蘭のように笑っている顔も、土砂降りのなか服をびしょびしょに濡らして蒼白になって泣いている顔も、誰かさんのテストの点数のように真っ赤になって恥ずかしがっている顔も、遊馬を心配している顔も、感じている顔もすべて素敵です。そしてその表情のすべてが一回きりのもので、ふたたび同じ表情が現れることはありません。小鳥さんの表情は数によって大小を示せるようなものではなく無限そのものなのです。これは誇張でもメタファーでもありません。小鳥さんの顔は見ていて飽きません。
「増田、おい増田」誰かと思って振り向くと雑居ビルの影から鉄男さんが呼んでいました。
「鉄男さん、どうしたんですか。てか、そんなところでなにやってるんですか」鉄男さんの首にはひもがかかり、その先端にカメラがぶらさがっています。
「いいからこっちこいって」あの穏やかで紳士な鉄男さんがいつになく興奮しています。
雑居ビルの影に隠れると、わたしは十数枚の写真を渡されました。そこには璃緒さんが写っていました。
「美しいだろう?」
「きれいなひとですね。で、なにやってるんですか」
「これから璃緒さまが病院に行くんだ。ここはその通り道になってるってことだ」渡された写真をよく見てみると、どの写真も雑居ビルの薄汚れた壁と特徴的なお掃除ロボットが写っていて、まさにこの場所だとわたしにもわかりました。璃緒さんは写真ごとに異なった服装です。
「璃緒さま、今日はどんなお洋服なんだろうな」
「鉄男さん、これってストーカーってやつでは?」
「おれには愛がある!」
璃緒さんの無尽蔵の洋服が鉄男さんのコレクター魂を刺激し惑わせ堕落させたように、わたしも小鳥さんの表情に吸い寄せられ離れられなくなってしまいました。でもこれは愛なのです。
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小鳥さんの声はわたしの敏感な部分に海底トンネルのようによく響きます。よくあるきんきんした味気ないテンプレート的萌え声ではなく、ロリであるにもかかわらずエロいという特徴があって、少女として見ると大人っぽく、大人として見ると幼女っぽいという絶妙なバランスとなっております。尿検査では中間尿を採取しますが、それと同じようにわたしたちが最も注目すべきなのは、少女でもなく大人でもない、その境界線を肉付きのいい脚でまたぎ、ふくらみかけの乳房を突き出しながら居心地悪そうに立っている半熟の女の子なのです。小鳥さんの声はまさにその時期を繊細に表現しているいってもよく、この世でもっとも貴重な声のひとつであるとわたしは断言いたします。
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最近の女子は料理が作れなくなってきたといわれています。そんな現代社会ですが、小鳥さんは決闘飯(デュエルめし)を作ることができるとても家庭的な素敵女子なのです。小鳥さんの体液、通称小鳥汁がしみ込んだ決闘飯とはいったいどんな味がするのでしょう。鉄男さんによれば、小鳥さんの決闘飯は「バイアグラの味」だそうです。
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ああ、どうしましょう、くだらないことを書いてしまいました。申し訳ありません。わたしはどうしたらいいのでしょう。生きているとつらいことばかりです。すべてがむなしいです。幼女を見てもかわいそうだと思うようになってしまいました。こんな不完全な世界の重圧をその春風のような無垢なほほえみで受け止めなければならないなんて。世界はグロテスクで悪臭を放っていますが、迷信のごとき科学技術や洗練された(!)法治主義社会がたくみに見せかけの清潔さで覆い隠してしまいます。それは合成着色料のようで、すべてはフォトショップ的ともいえる一種の嘘で塗り固められていて、どこにも真実はなく、しかし虚偽すらなく、ただひたすら軽薄で浅薄で希薄で、原初の一点から湧き出たあの宇宙的エネルギーはどこにいってしまったんだと、この時代の無意味さ、無価値についてわたしは考えるわけですが、わたしのそんな行為ともいえない似非行為すらまったく意味のないことで、わたしが死ねばすべてはどうでもよくなるのだと思ったりもするのです。
しかし自殺しようかなと思ったときに毎日小鳥さんがわたしにほほえみかけてくれます。「増田くん、超越論的跳躍(かっとビング)よ!」なるほど、たしかにわたしの眠っていた愚息は雪融けのように感動的な反応を見せ、天上の世界(アストラル界)を目指してぐんぐん伸びていきます、蛇玉さながらに。そしてわたしは今日も生きようと思うのです。EDになるまでは。小鳥さん、あなたが存在していてくれてありがとうございます!