はてなキーワード: 学習指導要領とは
http://anond.hatelabo.jp/20170401111105
絶賛拡散中の上記内容についていくつか
1.「銃剣道」は「旧指導要領から存在し、新指導要領でも残った」というのはガセ
上記ブログでは、
とあるが、現行の学習指導要領中学校保健体育解説では下記のようにある
また、
ともある。実はこの記述で現学習指導要領で「銃剣道」を教えることも抜け道的に可能なのだ
(逆に言えば、正式に学習指導要領に書き込むことで例外的ではなく、大手を振って「銃剣道」を教えられるともいえるだろう)
一応、「銃剣道」は「巻末参考資料」には「日本武道協議会加盟団体実施種目」として掲げられているが、
この種目の内容を行うようにという記載はない。あくまでも参考資料でしかない
とあるが、別に学習指導要領の「武道=日本武道協議会の種目」という規定はない
実際、政治的な背景から同協議会の種目が採用されたのは推測に易しいがそれが既定路線であるような書きぶりはかなりのミスリードを誘う。
ちなみに日本武道協議会自体、各種団体の寄り集まりの連絡団体だから、「正式採用種目」という表記も誤り。
これだとまるで日本武道協議会という権威が日本武道としてふさわしい競技を議論して採用したみたいな書き方になっている。
3.槍術を残したければ銃剣道ではなく槍術そのものを残せばいい
スポーツ化された「銃剣道」と軍隊格闘術としての「銃剣格闘」は別物で、
http://www.jukendo.info/jukendo-tankendo/jukendo
これは単純に論理破綻していて、槍術を残したければ銃剣道ではなく槍術そのものを残せばいい、で片付いてしまう。
中国の南方武術を残すために空手を普及しようなんて論理が成立するだろうか?
総括
これを「復活」「新たに追加」という見だしと表現で報じるのは限りなくイメージ操作意図の報道だと思う。
これのせいで騙された人間がすごく多い。
イメージ操作云々というか、事実誤認のオルタナファクトを垂れ流している書き手の行為自体がかなりまずい
なんというか、ひどいとしか言いようがない。騙してるのはあんただよとしか言えない
現行学習指導要領
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/chu/hotai.htm
https://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000154962
https://search.e-gov.go.jp/servlet/PcmFileDownload?seqNo=0000157166
次期学習指導要領(決定版)
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2017/03/31/1383995_3_1.pdf
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2017/03/31/1383995_4.pdf
これらはすべて文部科学省サイトやそこからのリンク先に載っているんだから、せめて一次資料に当たってから議論してくれないものかな。
http://www.asahi.com/articles/ASK3P7KX3K3PULZU00T.html
道徳の教科書検定で「パン屋」を「和菓子屋」に変えたという話が割と身に覚えのあることだった。
弊社では人事評価のとき「企業理念に沿った行動をした」ことを述べた作文をする必要がある。
そのときには企業理念に含まれる単語ベースで自分の業務との関係を無理やりひねり出して、それを上司に提出する。
検定の話も似たようなもので、学習指導要領に「伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度」という項目が含まれているから、何かしら「国」に関わるものを教科書に含めなければならない。
そのとき「和菓子屋」を持ち出せば、「和菓子屋が出るので国や郷土を愛する態度の項目はOKです」と偉い人に説明がしやすくなる。一瞬で説明できる分かりやすさが大事。
「単語が網羅されなくても、道徳の大切さは伝えられる」とはいうものの、誰にでも分かる明確さ・透明性で言えば単語を基準にするのは有効だと思われる。
出版社が既存の話の「パン屋」を「和菓子屋」に変えただけで検定に通ったことから、実際に単語が重視されていることは間違いない。
出版社としては「国」の項目を埋めるために新しい話を加えるのはコスト的・教科書の文字数的に厳しいので、既存の話の語を差し替えるという手段をとったのだと思われる。
教科書とは限られた文字数の中で学習指導要領の22項目に関係する単語を盛り込めるかを競うパズルのようなものだ。その制約下では、パン屋よりも和菓子屋の方が空間効率が良い。
なんと、かけ算を初めて勉強する小学校2年生で教えることになりそう!!
順序あり派はこんな感じになるのかな?
先生「かけ算にはかける数とかけられる数があって、正しい順序で式を書いてくださいね」
こども「はーい!」
先生「かけ算では交換法則というのがあって、かける数とかけられる数を入れ替えても同じ答えになります」
こども「はーい!」
こども「交換法則だから、かけ算する2つの数があってればいいんだよね」
テスト返却
先生「この問題は交換法則の問題じゃないから、順番が正しくないとダメなんです!」
先生「……」
ちゃんと小学2年生のこどもがわかるように説明するの無理でしょ!
いい加減、「かけ算には順序がある派」の人、降伏しなさい!!
教育を受けた人が将来社会に出て活躍することを目的であるとしたとき、成果が出るのは少なくとも20年後くらい。
20年後の社会を見据えて学習指導要領を作らなければならない。
ビッグデータだのIoTだのに踊らされてプログラミング教育を導入したとしても、20年後にプログラミングが意味のあるものかどうかは不明。
普遍的に教えるべき内容も分からない。三角関数は重要なのか?三角関数より優先すべきことがあるとしたら何か?
「今の時代だからこそ必要なこと」「普遍的に重要なこと」のどちらも分からない。
何を教えるのが良いのか分からない霧のなか、無理やりに方針を示さなければならない。
前回『【新共通テスト記述式】氏岡真弓氏による朝日新聞の記事を批判する』という記事で、朝日新聞編集委員 氏岡真弓氏の署名記事について批判した。
その要点は、氏岡氏の記事が、国立大学協会入試委員会の対応に関して、(意図的にせよ結果的にせよ)明らかな印象操作を行い、「新共通テストの記述式試験を大学側が採点する」という方法が極めて問題の多い案であるという事実を十分に報じないまま、この方法の採用を後押ししてしまっているという点にある。
いくつかのコメントに飛ばし記事であるとか文科省側のリークというような話が出ていたし、私自身もその可能性はあると考えている。
しかし、その一方で、私は文科省も国立大学協会も正しく状況をレクチャしたにも関わらず氏岡氏自身が(意図的か無意識かはともかく)内容や方向性の間違った記事を書いた可能性、つまり氏岡氏の持っていた見解やバイアスや資質の問題が今回のような記事を書いてしまった原因である可能性も留保している。
これらの点を詳らかにするためにも、氏岡氏は自分自身の言葉で今回の記事に関する経緯を説明してほしいと考えている。
今回私が批判したいのは、8月19日付朝日新聞4面に掲載された『<解説>大学に負担、利用未知数 新テスト記述案』という記事である。
前回の内容は記事化の経緯に関する点であり、氏岡真弓氏に非があることは明らかであると(少なくとも私には)感じられる問題だったが、今回はもう少し論争的な部分を批判したい。
はじめに結論をかけば、
氏岡真弓氏は今回の新共通テストに関する問題特に採点方法の問題を論じる/解説するにあたって、この問題に関する十分な見識を欠いているのではないかということだ。
私が特に重要視している記事の記述は次の2つの記述に集約されている。
この問題を論じるにあたって、国立大学協会入試委員会の提出した論点整理や文科省の有識者会議=高大接続システム改革会議の出した最終報告は役に立つ。
私の批判の要点は、氏岡氏はこの記述の中で、記述式問題において何を問うかという点に関する検討・理解を十分に行わないまま独自解釈を述べていないか、ということである。
特に、「文章を理解し説明する設問」と「自分の考えを書く問題」とを明確に区別した書き方をし、大学側が採点する方法を採ることにより、後者が可能になったと断定している点である。
国公立大学の二次試験の国語で問われている問題はおおむね前者にあたり、文章の記述の内容把握や根拠説明を要求するものになっている。
一方小論文試験や国公立でも非常に僅かだが一部の大学(2016年度だと例えば滋賀県立大・静岡大・首都大学東京・島根大など。ほかにもあるかもしれない。)の国語の試験には、課題文の内容理解を踏まえる形で「あなたの考えを述べよ」という「自分の考えを書く問題」が出題されている。
では、新共通テストの記述式問題で本当に後者のような問題を出すことが想定されているのだろうか。
国語については、次期学習指導要領における科目設定等を踏まえ、知識・技能に関する判定機能に加え、例えば、言語を手掛かりとしながら、与えられた情報を多角的な視点から解釈して自分の考えを形成し、目的や場面等に応じた文章を書くなど、思考力・判断力・表現力を構成する諸能力に関する判定機能を強化する。(p.54)
とあり、ここにみられる「自分の考えを形成し」という語句は一見氏岡氏の記述に合致しているように見えるかもしれない。しかし、これは、例えば選択肢を選ぶのではなく自分の言葉で説明することを指していると通常は解釈するように思う。
実際、
「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の記述式問題については、現在、国立大学の二次試験で行われているような解答の自由度の高い記述式ではなく、設問で一定の条件を設定し、それを踏まえて結論や結論に至るプロセス等を解答させる「条件付記述式」を中心に作問を行うことにより、問うべき能力の評価と採点等テスト実施に当たっての課題の解決の両立を目指す。(p.56)
と述べられていることを見落としてはいけない。最終報告のp.75に掲載されている図も見落とすべきではない。
つまり、「解答の自由度の高い記述式」や「小論文」は、創造性・独創性・芸術性の評価も含む問題であり「個別入試になじむ」と整理されている。
仮に大学が採点することになるからといって、この整理を放り出して、「解答の自由度の高い記述式」や「小論文」を出題するとか、
「自分の考えを書く問題」を出題すると述べるのは、議論の成果である最終報告よりも明確に一歩踏み込んだ記述になっていると言わざるを得ない。
では国立大学協会の「論点整理」ではどのように記載されているだろうか。
解答文字数をふくめて出題の多様性の幅が拡大することである。また、設問の中に構造化された能力評価の観点を踏まえつつ、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーに基づき独自の採点基準を採用することができ、各大学(学部)の主体性が発揮できる。
ここでいう「解答文字数をふくめて出題の多様性の幅が拡大する」という記述には、氏岡氏の言うような「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」という趣旨を読むことはできないと私は考える。
というのも、ここでいう「出題の多様性」という文章は、前半にある次の記述を受けてのものだからだ。
全国共通試験への記述式・論述式問題の導入は、多肢選択問題では測ることのできない能力を評価するための大改革であり、適切にその能力を評価するためには相当数の問題が課されるべきである。また、評価すべき能力が個々の設問の中に構造化されるわけであり、その観点からは、短文記述式(40-50 字)設問のみでは、改革の主旨に沿った十分な評価を行うことができないと言わざるを得ない。解答文字数を含めて出題の多様性が出来るだけ拡大されることが望ましい。短文記述式のみでは早晩パターン化し入試技術化する危惧もあり、持続可能性の観点からも、同様のことがいえる。
これは、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題」を出題するべきというよりは、文字数は40-50字の短文記述よりは長めで、個数は多めにするべきということである。個数を多めにというのは扱う内容の多様性を確保せよといっているように私には見える。50万人が共通して受験するテストの場合、題材が1つだけだとどうしても能力よりもその話題になにがしかの知見があるかどうかなどの運の要素も出てきてしまう。十分な量の問題と十分な長さの解答要求をすることでしか「適切に能力を評価」することはできないだろうと言っているように見える。ここには、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」というような観点は入っていない。氏岡氏の記述は国立大学協会の「論点整理」の文脈からもはみ出していると考える。
また高大接続システム改革会議の最終報告の参考資料2には、今回の新共通テストの問題例が掲載されている。(ただし、あくまでも何を問いたいかを例示するためで直接試験で出題できる問題として掲載しているわけではないという注釈付き。)この中の「国語」の問題では、交通事故の発生件数・負傷者数・死者数の年度変化を示すグラフを掲げ、「交通事故の死者数が他よりも早く,平成2年(1990年)以降減少傾向になっていること」の理由について考えさせている。要求しているのは、資料から読み取れる内容の記述や自分の主張を裏付けるためにはどのような資料を見ればよいかを記述させることである。これは、「自分の考えを述べる」問題ではないことは明らかである。
「出題の幅」とはどういう意味なのかはっきりしない。最初に取り上げた4面の解説記事の記述にもあるが、「自由記述」「本格的な記述」のような書きぶりにも現れているように、言葉の選び方が不用意で十分に検討したと思われない。
しかし一方で、氏岡氏の名誉のために、次のことは指摘しておくべきだろう。
読売新聞が8月20日付の記事『大学新テスト、英語「話す」で民間試験の活用案』の中で次のように記述している。
国大協は記述式の採点を、受験生の出願先の各大学が行う案を示した。(中略)国大協はテストを1月中旬に実施しても、各大学が採点すれば200字~300字程度の記述式が導入できると想定。大学による採点が難しい場合は、採点期間を国立大学前期試験直前の2月下旬まで延長する別の案も示した。
これも国大協が大学側が採点するという案を提示したという問題のある記述をしているのだが、それ以上に、国大協が「200字~300字程度の記述式が導入できると想定」などという「論点整理」には全く書かれていない話を登場させている点に注目したい。
「40-50字の短文解答式」ではまずいという議論から、いきなり「200字~300字程度の記述式」というところへ直接は結び付かない。
上の最終報告にある問題例は、40字以内と80字以上100字以内の設問である。通常、短文解答式ではないものを、という点でみれば、いきなり200字~300字となるのではなく、80字~100字程度の文字数ということを考えるのが自然ではないだろうか?
また国公立の二次試験を見ても、単独で200~300字の記述を要求する大学はむしろ珍しく、東大でさえ最大文字数の問でさえ100字~120字で述べさせる問題である。
もちろんこの「200字~300字」というのが、たとえば小問3個での合計解答文字数というなら話は違ってくる。(1個の大問全体での記述量が500~600字程度ということは珍しくない。)読売記事がそのあたりの正確さを欠く記事になっていることは批判されるべきだ。
といったことだ。
しかしどれであったとしても、氏岡氏の記事は、高大接続システム改革会議の最終報告からは乖離しているし、現状の国公立二次試験での国語の出題状況などについても十分把握しているとも言い難い。また19日時点では取材していなかったのかもしれないが、国立大学協会の「論点整理」とも乖離している。こうした点からも、署名記事を書いた氏岡氏はいったいどういう経緯と解釈でこの解説記事を書いたのか説明するべきだと私は考える。
実は、国立大学協会の論点整理の中には、次のような記述もあることを付け加えたい。
そもそも、記述式・論述式問題に評価すべき能力をいかに構造化できるかは、根源的な課題である。評価すべき能力の構造化があって初めて、各大学(学部)はアドミッション・ポリシーの中に、記述式・論述式問題を適切に位置づけることができる。しかしながら、国立大学全体にも大学入試センターにも、そのための知識やノウハウの蓄積は未だ十分ではない。平成 32 年度実施に向けて能力の構造化に向けた記述式・論述式問題設計の理論構築、体系化が喫緊の課題といえる。国大協としても、過去の各国立大学の個別試験における記述式・論述式問題に関する実績を調査・分析することなど、この課題に積極的に取り組んでいきたい。
これは、どのような形式で何を問うかということについて、決して十分な知見があるわけではないことを述べており、すなわちこ(「学力の三要素」といった抽象論ではなく)具体的な設計レベルでみれば、新共通テストにおける記述式問題の形式や内容についていまだに十分合意が取れているとは言えない現状を示している。にも関わらず、「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」とか「大学が採点を担う国立大学側の独自案が具体化すれば、入試改革は実現に大きく近づく」などと断定する氏岡氏の記述に私は強い不信感を抱かずにはいられない。
退職から一年が経過し、新しい職場(WEBベンチャー企業)での仕事に慣れたこと、
また、富士通の同期入社の友人から頻繁に転職の相談を受けるようになったこともあり、本エントリを執筆する。
はじめに、筆者の退職理由を簡単に述べると、富士通という会社に未来を感じなかったことと、やりたい仕事はできないだろうと判断したためである。
参考までに、筆者は公共機関向けのシステム開発部門に所属していた。
担当していた業務は様々で、小規模なシステム開発や、子会社・下請企業の管理であった。
富士通には、人材キャリアフレームワークという社員評価制度があり、現場には、入社何年目はこのレベルの仕事、といった暗黙の了解がある。
本人の能力や意欲とは全く無関係に、入社後の経過年数で、仕事の裁量の幅が大きく制限される。
このことはいわば、学習指導要領ならぬ、業務指導要領があるようなものだ。
このような枠組みや暗黙の了解が存在すること自体が問題なのではなく、その枠組から逸脱した人材を想定しない・評価しないことが問題なのである。
筆者がお世話になった優秀な先輩方は、この業務指導要領の要件を満たして手に余った人、
いわば天井にぶつかった人から先に、より大きな仕事がしたいという理由で辞めていった。
筆者もその一人である。
既存産業の大きな成長が望めなく、社員個々の多様性が重要視される昨今の経済情勢において、
高度成長期における横並び思想をもとの作られたやり方が未だに社内を謳歌しているのは時代錯誤というほかない。
富士通への提言として、これからの時代は、年齢も在籍年数も関係ない人材評価制度を作っていくべきである。
そして重要なのは、会社の既存事業でいかに利益を上げたかについての評価ウェイトを下げ、
いかに新しい発想で新しい事業を提案したか・実現したかという評価項目を設立するべきである。
なお、富士通には社内ベンチャー制度があるが、これはうまくいかない可能性が高い。
なぜなら、社内ベンチャーを承認するのは旧式の人材の典型例である高齢な経営層であるからだ。
いままで数十の社内ベンチャーの審査結果を見てきたが、彼ら経営層に事業の将来性を判断する能力はないと痛感した。
また、他の理由としては、富士通の既存事業と衝突すると社内ベンチャーが潰されるということがある。
将来性のない既存事業を残して、将来を託すべき社内ベンチャーを潰すという企業風土なのだ。
富士通という会社には多数の既得権益集団がいる。そして、社内のルールは彼らが決して不利にならないように作られている。
なぜなら、ルールを作る権限は、先頭を走る集団、1980年代に大成功を収めた既得権益層がガッチリ握っているからだ。
いわば、前を走る人を抜かしてはいけないレースのようなものだ。
このような出来レースで若手社員のモチベーションが続くはずはないことは明らかだ。
筆者は、決して年功序列主義を批判したいのではない。
既得権益層が年功序列を悪用して、部下の手柄を自分の手柄にし、部下の失敗を部下に押し付けている実態に対する批判である。
ノブレスオブリージュ、権利を有するものには義務がある、という思想がある。
富士通の既得権益集団には会社の技術力や社員を率先することで、企業としての地位を向上させていく義務がある。
実態は、社内の後進に抜かされることを恐れるあまり、後進の他社に抜かされている。
ちなみに、この既得権益集団に有利なルールが生み出した現状については、
同じく富士通OBである城繁幸氏の著書「若者はなぜ3年で辞めるのか?」(光文社新書)が詳しい。
経営学において「ヴィジョナリーカンパニー」という名著がある。
この本によると、会社が永続的に成長・発展していくためには企業理念(ビジョン)を社員ひとりひとりが持つことが必要不可欠であると指摘している。
富士通の企業理念は、変革に挑戦し続ける姿勢や、よりよいICT社会づくりに貢献することを掲げている。
しかし、富士通という会社の現状として、このヴィジョンを失っている社員、とくに管理職がとても多い。
30代を過ぎて会社に定住することを決めた社員に変革に挑戦しようという熱意ある人物はひとりもいなかった、
そういう人々にとってICTで社会づくりなどどうでもいいのだ。
ただ顧客の要求を聞いて、それを子会社や下請けに作らせて予算や利益を達成することにしか興味がない管理職が大半であった。
元GEのCEOであるジャック・ウェルチ氏は、たとえ成果を出していようと企業ビジョンを共有しないものはクビにしろと自著で語っている。
このポリシーを導入したら、富士通の管理職の80%はクビになるであろう。そのくらいに富士通の管理職は夢や熱意のない人物ばかりであった。
そのような人材が将来的に会社を破壊する、というウェルチ氏の指摘の正当性を、富士通という会社の惨状が示しているのは皮肉という他ない。
富士通への提言として、ウェルチ氏のやり方を実行すればよいのだ。
成果によって管理職のクビを決めるのではなく、ヴィジョンを共有できているかでクビを決めるのだ。
このやり方を実行すると既得権益を握って離さない経営層や管理職が一掃される。
既得権益にしがみつくだけの人物こそ、ヴィジョンを持たない人物である割合がとても多かったことを付け加えておく。
経営コンサルタントの大前研一氏は、日本の生産性がアメリカの半分しかなく、もはや発展途上国にすら負けていると指摘している。
その原因について、日本では業務標準化が全く進んでいないためであると述べている。
自分の住む自治体と異なる自治体のマイナンバーのITシステムを比較してみてほしい。
ここで、自治体が異なればITシステムも異なることに気づくはずである。
はたして自治体ごとに個別のマイナンバーシステムを作る必要があるのだろうか?
答えはもちろんノーである。全国どこでも一律の業務であるべきであり、同じITシステムを導入するべきである。
自治体ごとに業務フローが異なるために、別のITシステムを使用した時に業務がこなせないという事態が発生する。
そのため各自治体が個別にITシステムをITベンダーに発注することになる。
そこでITベンダーは各自治体ごとに個別のITシステムを作ることになる。
ITベンダー側からすると一度作ったことがあるものをカスタマイズして、業務の順番を入れ替えたり、扱うデータを多少変更するだけで済む。
それなのに膨大な金額を請求するわけだ、ITベンダーとしてはボロ儲けである。
(なお、主要ITベンダー決算書を見ていただくとわかるが、ITベンダーの利益率が高いわけではない)
特に自治体のITシステムは国民の税金で作られているわけである。
各自治体は、このような現状を放置していて、国民に申し訳ないと思わないのであろうか?
このことは、決してITベンダーにのみ責任があるわけではない。
総務省が陣頭指揮をとって各自治体の業務標準化・統一化を進めなくてはいけないのに、それが全くなされていないのは監督官庁としての責任放棄である。
このように業務標準化が全く進んでいない現状は自治体に限らず、民間企業においても同様である。
会計パッケージにおいて、世界のデファクトスタンダードになりつつあるSAP導入に失敗する事例を数多く見てきた。
失敗する理由は、個々の企業の業務に合わせてSAPをカスタマイズしており、そのカスタマイズでは対応できない業務フローが存在するからである。
問題なのは、そのような業務フローは、決して必然的な業務ではなく、過去の慣習から存在しているだけであることがとても多い。
ここにおいて、ITシステムが業務に合わせるのではなく、ITシステムに合わせて業務の方を変えていかなくてはいけないのだ。
このことは、サービス・流通業の顧客からSAPのカスタマイズで無理難題があがってくることが特に多いことと無関係ではないであろう。
富士通は、既存顧客の業務標準化およびデファクト・スタンダードとなるITシステムの開発の陣頭指揮をとる役割を果たすべきだが、その望みは期待できない。
なぜなら関係が深い企業において、業務が効率化すると大量の社内失業者を出すことになるからだ。
そのような"顧客との良い関係"を崩すようなことはやらない会社である。
日本という国のあるべき姿を長期的に考えた際に必然的なことであるにもかかわらずである。
富士通の企業理念である、よりよい社会づくりに貢献するとは、まさにこの業務標準化を推し進めることなのではないのか。
富士通には外国籍の社員が相当数在籍している。しかし、彼らに求められる日本人への"帰化圧力"がとても強い。
同期入社の中国籍の友人は、対外発表会のために完璧な日本語の発音の練習をさせられていた。
完璧な日本語の発音は日本人に任せるべきで、中国に精通しているというメリットを活かせる部署に配置転換するべきである。
なお、残った外国籍社員をみると、小学生から日本にいるなど、生まれたのが海外というだけのほぼ日本人だったりする。
外国籍社員の離職率が高いことに対して、本部長が提示した対策が、
長く働きたい会社とはどのような会社か、というテーマで外国籍社員を集めランチタイムにディスカッションさせるというものだった。
この席で「無能な人が本部長にならない会社で長く働きたい」という大喜利でもすればいいのだろうか。
富士通はグローバル企業を表明しているが、このような組織で海外進出などできるはずもない。
なぜならば富士通の利益構造では、海外において利益を上げられないからだ。
このカラクリの解説は大前研一氏が詳解されているので、参考にしていただきたい。※1
6.富士通の良いところ
ここまで富士通に対する批判と改善の提言を述べてきたが、富士通の良いところについても触れておきたい。
まず、個々の社員の仕事力や組織力といった点では、他の大企業と比較して遜色ない。ただし、富士通の主要グループ企業に限るが。
数十を超える大企業および中小企業と仕事をしたが、やはり大企業は個々の社員のレベルが高く、組織力も高い傾向にある。
顧客として他社と仕事を進めていくうえで、大企業の方が優秀な担当者に遭遇することが多く、仕事がとても進みやすかった。
この理由について、大企業の社員育成能力が高いことはもちろん、社内チェック体制が整っているからではないかと思う。
社内で質の悪いものは弾いており、社外に出さないようにしているのだろう。
また、富士通は顧客主義がきちんと徹底されている会社であると感じた。
筆者と富士通の顧客主義が異なっていた点はあるものの、顧客起点に立つという考え方は大事なことである。
柔らかい人が多く、職場の雰囲気はとても良かった。お世話になった直属の上司や先輩方は、優しく丁寧なご指導をいただいたことに感謝している。
7.おわりに
最後に、立花隆氏の著書「東大生はバカになったか」(文春文庫)から名文を引用したい。※2
「いま、この辞めたい気持ちを逃したら、この会社に骨を埋めて、あそこにいる連中と同じになってしまうと思った。」
結局、筆者の退職理由は、偉そうな顔をしているがロクなビジョンも打ち出せない富士通の上層部のような人間になりたくなかったからである。
富士通という会社に必要なのは、優秀な若手の育成などではなく、無用な老害の排除である。
筆者には、富士通という会社は、沈みゆく泥船にしか思えなかった。
※1「産業突然死」の時代の人生論、第44回 談合をなくす二つの妙案-"便利なゼネコン"はいじめの温床
http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/46/
(この記事のゼネコンをITゼネコン(ITベンダー)に置き換えていただきたい。)
※2 引用にあたり、語尾を改めた。
補足1.城繁幸氏の著書「内側から見た富士通」(光文社)についてのコメント
この本は富士通が先んじて導入した成果主義が、名ばかりで社員のやる気を奪う結果に終わったという実態を告発した本である。
この本について、いくつか述べたい。
まず、本題である、成果主義が経営層のご都合で導入されて、社員のモチベーションを奪うという最悪の結果に終わったという指摘はまさにその通りである。
また、この本が出版されてから10年以上経つが、実態は改善されていないし、する気もないのだろう。
(そもそも経営者のご都合成果主義の導入を失敗だと気づく能力が欠如しているのかも知れない)
管理職の仕事は、部下の成果を評価することではなく、予算内におさまるように部下の評価を調整することであった。
なお、成果主義の導入を評価している現場社員は誰もいなかった。
(成果主義を批判する幹部社員はいなかった。おそらく批判すると何らかのペナルティがあるのではないかと邪推している。)
補足2.転職について
筆者の転職について、考慮したことをいくつか述べる。
まず、次の会社・仕事の選び方および交渉の進め方については、山崎元氏の著書「会社は二年で辞めていい」(幻冬舎新書)を大いに参考にした。
転職は考えていなくとも、今の時代を働く考え方、人材価値のセルフマネジメントなどは一読の価値がある。
富士通という大手を辞めたはいいが、次の会社で苦労している人が多いという意見についてコメントしたい。
筆者に言わせれば、それは転職のツメが甘いのだ。
現職のどこに不満を持っていて、そのうち、どこが改善の余地があり、妥協するべきであり、次の職で改善を期待するのか、についての思慮が浅い。
社会のルールをわかっていないで転職したとしか思えないケースもある。
そもそも富士通という会社に勤めているにもかかわらずITゼネコンの生態系を理解していない社員がとても多い。
下請け企業にいけばもっとやりがいのある仕事ができる、などという浅い考えで転職する人はいる。
ITゼネコンの下請けを生業とする会社の社長は、中間管理職と何一つ違いはない。
上の指示(元請けの発注)を受けて下に伝達するだけであって、自身で新しい事業を生み出す能力のない企業である。
新しい会社は、自社で新しい事業を生み出す能力があり、きちんと利益を上げている。
転職において改善したかったこと、専門的な業務ができること、自分のアイディアを事業に活かすことができること、それらがすべて達成できた。
って、義務教育の小中学校の教育課程で「プログラミング」を教えることを「認める」ってことだよね。
いままでは、「学習指導要領」に盛り込まれていないから、「コンピュータを使って、プログラムを作る技能」を教える授業は、モンスターの襲来によってできなかった。
もうね、「受験の科目」に「プログラム作成」を入れたらいいと思うよ。
でもね。「プログラミング」ってのは、目的を達成するための手段・道具なんだよね。手順・アルゴリズムを考えて、プログラム言語に落とし込むのがプログラミングなんだけど……
学校教育でそれを教えることができるのか。プログラム言語の使い方・文法ってのは、手段であって目的じゃないんだけどなぁ。絶対にそこんとこはき違えた指導要領・教育課程・授業になる……不安だ。
http://www.j-sla.or.jp/material/contests/qa.html
小学校学習指導要領(平成10年度改定)は国語科の「第5学年及び第6学年」の教育内容として「書くこと」の能力を育てるため「事象と感想、意見などとを区別するとともに、目的や意図に応じて簡単に書いたり詳しく書いたりすること」について指導することとし、また、「読むこと」の能力を育てるため「書かれている内容について事象と感想、意見の関係を押さえ、自分の考えを明確にしながら読むこと」について指導することと定めている。読書感想文の作成はこれらの指導の一環として行われる。ただし、学習指導要領における各規定は「事象」と「感想」「意見」の区別・関係把握について指導することを主眼としているため、「感想文」の作成よりも「論文」の作成を想定しているとする意見もある。
読書感想文の作成指導においては単なる読後「感想」の記述にとどまらず自己の経験等を交え自分の「意見」を記述することが求められることも多い。そのため、客観的な文章の作成はあまり重視されず主観的な文章の作成が奨励される。さらに、道徳的な感想には高い評価が与えられやすい。
課題図書に選出されると全国の小学校の児童の親が購入することになり、作者・出版社に莫大な利益をもたらすことが約束される。しかしこの指定課題図書への選出基準は曖昧かつ不透明であり、作家・出版社・選考委員の癒着による影響が懸念されてきた。
読書感想文(どくしょかんそうぶん)とは、就学児童らに活字に対するアレルギーをもよおさせ、大衆を愚かなままに留めるために学校教育に組み込まれている「報われない労働」の一種である
Q:読書感想文は、何のために書くのですか。
書くことによって考えを深められるからです。読書感想文を書くことを通して思考の世界へ導かれ、著者が言いたかったことに思いをめぐらせたり、わからなかったことを解決したりできるのです。ですから読書感想文は「考える読書」ともいわれます。また、どんなに強く心を動かされても、時がたてばその記憶は薄れてしまいます。読書感想文は自分自身の記録です。読み返すことによって、いつでも「感動した自分」に出会うことができるのです。
Q:なぜ、本を読むことが大切なのですか。
一冊の本が、人生を変えてしまうことがあります。本の中で旅をしたり恋をしたり、冒険をしたり……。人は本の中でいろいろなことを体験できます。登場人物と自分の生き方や考え方を比べて、共感したり反発したりします。また、本を使って、疑問に思ったことを解決するために調べることもできます。本を読んで新しいことを知ると、びっくりしたりうれしくなったりします。本は、人の心を成長させてくれ、いろいろなことを教えてくれる友だちです。
Q:何をどう書けばいいかわかりません。どうすればいいですか。
本を読んで自分がどこに感動したのか、なぜ感動したのかを考えましょう。そしてもう一度本を読んでみましょう。自分の生き方や経験と本の世界とを照らし合わせると、いろいろなことが見えてきます。感じたこと、思ったこと、連想したことなどを忘れないうちに全部メモしておきましょう。そうしたら、順番を入れ替えたり内容を補ったりして、どう書けば自分の心の動きにぴったりするか、それがうまく人に伝わるかを考えましょう。先生や家の人と相談してみるのもいいでしょう。そうするうちに何をどう書けばいいのか、自分が一番言いたいことは何なのかがはっきりしてきます。書き終わった時には、それまでとはどこか少し違った自分になっていることに気づくはずです。
正直言うと、感情的には私も校長の意見には賛同できてないから反論するのが心苦しいんだけど、個人的にはやっぱり今回の発言で免職に追い込まれるのは処罰が重すぎると思う。
「少子化は社会の問題で、個人に帰結させるべき話ではない」ってのは全くもって正論。
ただ、この国の教育のあり方として「お国のために滅私奉公しなさいよ」と教えることが罰に値することかというと、残念ながらそれは違う。
最初の投稿でもチラッと触れたけど、学習指導要領には個人よりも社会を優先させるような(ある意味においては個人の権利を制限することを是とするような)教育方針が実際に散見できる。
この校長の発言はある意味で現在の日本のマジョリティたちの意見を分かりやすくまとめたものであって、オブラートに隠されていた主張を明けっ広げに表現したに過ぎない。
「お国のために女性は我慢して子供を産んでくれ」という主張は個人的には賛同できるものではないが、処罰に値するほど「世の常識」から外れているとも思えない。
校長の思想が如何に誤っているとしても、それがこれまで是とされてきた主張であるならば、今回だけそれを処罰の対象にするのは公正ではない。私はそう思う。
この件についても「正すべきは社会の方であり、校長個人に帰結させるべき話ではない」のではないだろうか。
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私は自分をリバタリアンだと自認しているので、感情的には今回の校長の発言には相当頭にきている。
個人的には、校長の発言に非がまったく無いわけではないが、処罰の対象になるような事案ではないと思う。
以下、考察。
1、女性が子供を(平均して)二人未満しか産まない社会には重大な問題がある
3、女性が子供を二人以上生むことは、仕事でキャリアを積むこと以上に重要である
さて、以上の3つの主張のうち、どれがOKでどれがNGだと感じただろうか。
まず、1について異議のある人は、ほとんどいないと思う。
というか、1を否定してしまったら、少子化問題はまず間違いなく解決しない。
ところが、これが2になると、早くも抵抗を感じる人もいるのではないだろうか。
「何が重要なのかは個人の問題で、他人が指図するものではない」
そんな声が聞こえてきそうだ。
しかし、よく考えてみると2の主張は、1の主張を単に具体化しただけのものである。
論理的に考えて、1で示された問題(女性が子供を二人未満しか産まない社会)を解決する唯一の方法は、女性が子供を二人以上生むことである。
そして重大な問題を解決するための唯一の行動は、当然にして重要であるに違いない。
にも関わらず、多くの人は、感覚的に1はOKでも2はNGだと感じるのではないだろうか。
実際、ネット上に見られる批判意見の大部分は、2を問題視したものであるように思われる。
繰り返しになるが、1をOKだとして2をNGだとする意見は論理破綻している。
だから、今回の発言を問題と見るか否かの争点のひとつは、3から2を引いた残りの部分、つまり「仕事でキャリアを積むこと以上に」が適切だったかどうかに集約されるはずだ。
子供を二人以上生むことと、仕事でキャリアを積むことは、どちらが「社会」にとって重要か。
これは確かに校長の主観であって、実際には議論のある問題であろうから、発言が100%適切であったと擁護するのは難しい。
したがって、この点で校長の発言には一定の非があったと私は考える。
しかし、比較の問題である以上、どちらか一方が他方よりより重要であることは明らかだ。
そして、前者が後者よりも重要ではないと断言できる絶対的な根拠も存在しないだろう。
すなわち、校長の主張が完全に誤りであると断言できるような根拠もまた存在しないのである。
もうひとつの論点は、「社会」にとって重要な事柄を、「個人」の人生の指針として指導することの是非についてだ。
平たくいえば、「社会の役に立つ人になりなさい」と子供に教育することはOKなのかNGなのか、ということである。
おそらく、個人主義志向の人であればNGだと考えるであろうし、全体主義志向の人であればOKだと考えるはずだ。
ただ、個人の主張とは別にして、公人としての校長の責任という視点のみで考えるなら、この点について教育委員会は校長の非を問うことはできないと私は考える。
なぜなら日本では教育権の一部が国家にあると判例で認められており、実態としても、公教育の中で子どもたちに「国の役に立つ人になりなさい」という指導が当然のように行われてきているからだ(「道徳」の学習指導要領などを見れば、一目瞭然である)。
したがって、この点に関して校長の発言には非がなかったと私は考える。
前述のように、私は校長が「子供を二人以上生むこと」と「仕事でキャリアを積むこと」を比較して、前者の方が社会にとって重要であるという個人的意見を、あたかも絶対の真実であるかのように表明した点のみに問題があったと考えている。
また、校長の主張は根拠を欠いたものであったが、絶対に誤りだと否定できる根拠もまた存在していないと考える。
確かに校長の発言は正確性を欠いてはいたものの、そこに差別的な意図などは含まれておらず、またその他に問題と考えられるような主張も含まれていない。
以上の点から考えれば、少なくとも「辞職の勧告」などといった極めて重い懲戒処分を下すことは不適当であると私は考える。