はてなキーワード: 嘲笑とは
現在某アニメと町おこしキャンペーンが大炎上している、らしい。
らしいとつけたのは私がこの騒動にあまり集中していたくないからだ。
ここ数年でアニメ(もしくはいわゆる“萌え”キャラ)とのコラボキャンペーンで公共の広告としてはあまりにも性的ではないか、という議論が頻発している。
最初は賛否両論喧々諤々といった議論はいつの間にか過激さを増し、現在は両陣営とも相手の過激な発言を嘲笑っては罵倒する、地獄の蓋が開いたような様相を見せている。
私自身はというと、最初のあたりはこういった議論をとおして或る程度ガイドラインの設定なんかが進んだらええなぁとか能天気なことを思っていた。
そんなことをいうと「やっぱり規制派閥かこの女!」とお怒りの方もいらっしゃると思うが、ぶっちゃけ私はいくつかの場合(例えば実際に今生きている人の誹謗中傷や被害者がいるかたちでの児童ポルノとか)を除いて自由の表現のは守られるべきだと思っている。
じゃあなんでガイドラインとか言い出すんだこの女と思わるかもしないが、そりゃ表現規制派の言う「悪影響」を否定できないからだ。
例えば、私は小学生のとき「なあおまえ、まん毛生えてるの?」と男子にニヤニヤされながら聞かれたことがあった。
例えば、私は中学生のとき隠語を女子に聞こえるようにわめきたてて、嫌がる姿をうれしそうに観測されたことがあった。
例えば、私は高校生のとき露出狂につけまわされ、家の前まで着けられたにも関わらず「後の報復が怖いから」と親の一存で被害届をださなかったことがあった。
例えば、私はその直後、事情を話していた男友達に「やっぱり女ってレイプされたい欲望とかあんの?」と嬉しそうに聞かれた(マジ切れした)。
すべて「比較的治安のいい」地区で育った「地味な女オタク」の身に起こった内容だ。
これら全ては教師や保護者のいない環境下で行われ、被害者たちが訴えたとしても「男子の悪ふざけで女子が怒った」「法的には軽犯罪だし」「犬にかまれたようだと思って」……
しかしながら私は一生彼らのニタニタ顔を忘れることはできない。誓ってもいい。
それは、自身を取り巻く世界には、他者を自分の欲望を満たすだけの存在と考え、行動する存在がおり、しかも社会はそんな存在を優遇していることを思い知らされたからだ。
かくしてろくなケアもされずに社会に放り出された存在である私は、どうしてこんな理不尽が起こってしまうのか、傷跡が炎症を起こすように過敏になっていった。
ある人はメディアが悪影響を与えるのだといい、ある人は社会構造的な宿痾だという。またある人はそれを依存症と考え、治療すべきだという。
そのどれもがおそらく正しく、かといって現実の被害者を救う答えとはなりえない。
ならば、どうすれば私のような経験にあう人を減らせるのか。私たちは社会にどうアプローチし、耳目を集め、社会問題だと認知させ対策をとるべきなのか。
あなたたちを駆り立てたのはなんだったのか。
どうか思い出したら教えてほしい。
私たちの、そしてあなたたちのこどもたちが被害にあわないために。
私たちができることはなんだ?
悲しいので、簡単に
・宇崎ちゃんの胸は、現実でも似たような大きさの人いるよ!⇒だから多少オタク表現にもにょってもOKだと思った
・ラブライブのみかんコラボは、そんな鼠蹊部協調してるプリーツスカート履いてる人、AVパッケージ以外にいる???
・公共の場に掲示するコラボとしては、現実でもいる人とAVパッケージだとちょっと印象変わるんじゃない?(極端なたとえですが)
・とはいえアニメコラボなんてファン向けのコンテンツなので、外野がやいのやいの言うのは筋違いだよね
みたいな感想なんですが、ラブライブのイラストがアニメ的2次元的表現というのは分かったうえで、そういう表現方法が分からない人もいるから配慮しようね、って思います。
なんでもかんでもオタク文化が受け入れられて当然という風潮には疑問を感じます。
ラブライブのイラストがAVパッケージ、というのは極論というかいろいろ突っ込みを受けるだろうと思っていますが、そのくらいエロさを感じたということです。(この感覚には個人差があってしかるべきですが)
躍動感な表現である、という言説も見受けられますが、性的なラインを強調すれば躍動感が生まれるんでしょうか?
個人的には、女体のラインを不必要に強調したイラストに見えます。
そしてのその女体のラインを強調したイラスト手法の根底にあるのは、エロへの訴求だと思っています。(それが悪いことであるとは思いませんし、言っておりません)
こういう女体(当然ながら男体であっても)、肉体の性的部分を過度に強調されたイラストを見て、好ましいと思う人間と、嫌だなと思う人間がいることは想像に難くありません。
表現の自由は守られてしかるべきですが、今回のラブライブのイラストは、オタク文化に慣れたいち個人から見たとしても「同じ嗜好の人間の間だけで味わう良さ」を詰めた作品に思えます。
したがって、ゾーニングを考慮したうえ、一般人の目に触れる部分に関しては、自分たちの嗜好が「一般的」ではないという自覚をもって配慮すべきであったと思いますし、
「透けている」はちょっと認知能力的に疑問を覚えますが、そう見えた人もいるという事実を考慮して、批判者を嘲笑するのではなく、理性的に対処すべきかと思います。
(批判しているフェミニスト?の方たちの言いがかり的な暴論にも辟易しますが、
その批判者たちを馬鹿にして嘲笑し時には人格攻撃にまで発展しかねないオタクたちの態度も目に余るものがあって、
理解を得るには根気強いコミュニケーションしかないと思っているので相手がいくらあばれ馬であろうとも、徒労に終わろうとも、理性を失わないで欲しいなと思う次第です)
結論から言おう。僕は就活に失敗した。理由は明確で、自己分析が全く足りていなかったから。この記事は、皆さんに自己分析の大切さを口酸っぱく伝えることが目的だ。「そんなこと言われなくてもわかっている」という方も、反面教師として嘲笑する目的で読んでほしい。
僕は、いろいろあって、新卒で入った会社を3月末で退職する。世間では「3年は働け」とよく言われているが、これは半分間違いで半分正解である。精神が病むほどひどい環境ならやめるべきだが、そのかわり転職の難易度はグッと高くなってしまう。なのでできることなら、頑張って長く続けたほうがいい。そういう僕が1年で退職するということは、頑張って長く続けることが不可能だと感じたからだ。
これから、自分が仕事をやめる原因となった「いろいろ」について延々と語っていく。時間がない方は、下の方にある「【幸せとは何か、とは哲学でなく分析である】」まで飛ばしていただくのが良いと思う。
就活の時期、私はプチ鬱に陥っていた。大学の研究室の多忙さと、難航する就職活動。「人の心を動かしたい」という信念のもと、エンタメに関わる仕事がしたくて、倍率の高い大企業しか受けていなかったのだ。20〜30エントリーするべきと言われていたところ、僕は10社未満しか応募できていなかった。その結果見事に全落ち。路頭に彷徨っていた時に拾ってもらったのが、いま僕が働いている会社だ。
この会社は、数十人規模の中小企業だった。不況の荒波に流されないよう必死にしがみついていて、必然と業務もハードになる。裁量労働制という、無知な人にとっては「最新鋭」と思われそうな制度のおかげで、全員時間を気にせず残業しまくっていた。
正直、労働環境は劣悪だった。特に大変だったのが、自分の周りに歳上の女性しかいない環境。いちばん歳の近い男性が上長、さらに同期はほぼ一人もいない。男子校で6年間育ってきた僕にとって、女子校のような職場は未知数だった。そんな状況でも、熱意があるから頑張れると思っていた。思ってしまったのだ。
業務内容は、僕の好きな分野だった。毎日新鮮な体験ができ、仕事が楽しくてたまらなかった。一年目でまだまだ仕事ができない自分だが、楽しいから頑張っていける。そう思っていたのも約半年、そして僕は現実を思い知った。
仕事が思っていたよりできるようにならない。なぜならば、上司に相談しやすい環境が全く整っていなかったからだ。いちばん歳が近い上司は、「それ前も言ったよね?」と覚えが悪いことを怒る。女性が怖くなり、男性に相談しようとしても、いちばん歳が近いのが部長なのでなかなか相談しづらい。そんな環境で、何が正解かわからなくなっていた。
もちろん入社前から予見していたことだが、人数も少なく多忙な会社に、新卒を教育する余裕なんて全くなかったのだ。「仕事覚えが悪いせいだ」と言われたらそれまでだが、僕からすると、あまりにも部下の失敗に対する寛容さが足りていなかったように思えた。
やめるかもしれない、と思い始めたのが11月。立て続けの仕事に追われ、ストレス発散のために飲みの予定を立てた。学生時代お世話になっていた方との飲み会で、絶対に断りたくなかった。その日、上司から仕事を頼まれた。僕は苦渋の思いで仕事を断った。その結果、その上司からの評価がガタ落ちした。
全て断定形で書くとこんな感じ。こうして見れば大したことない出来事だが、その後に問題があった。僕だけがいない飲み会で、僕の悪口で盛り上がっていたそうだ。
部長は、全てを大声で話す人だ。叱る時は大声かグループラインで。内緒話もできない。その上長がいる飲み会で僕の悪口を言えば、きっとそれが僕にも伝わってくるだろう。そういう確信のもと、僕は飲み会をサボったのだった。
確信は事実へと変わった。全員がいる職場で、「お前けちょんけちょんに言われていたぞ」と大声で言い放つ部長。その瞬間、私の熱意は温度を失った。
別に、私が仕事をサボったことに関して悪口を言われるのは良い。だが、それ以外にも、芋づる式に私への罵詈雑言が飛んでいたそうだ。良かれと思ってやったことが、その上司にとっては許せなかったり。細かな内容までは知らないが、ざっくり言うとそんな内容である。この環境で働くのはもう無理そうだな、そう思った入社7ヶ月目だった。
確実にやめようと決意したのが、12月頭。そんな状態で仕事をしているので、当然作業が遅れてしまう。全員熱意だけで働いている環境で熱意を失うことの重大さは、誰にでもわかるだろう。そしてまた当然のように、上司からの冷徹な叱責を受ける。精神的ダメージからいつもできていた仕事ができなくなり、また怒られる。その繰り返しで、僕の心はボロボロになっていった。
だが、そんな状況でも、大仕事を一つ持っていたため、具体的な転職活動まで乗り出せないでいた。
そんなある日、限界が来た。いちばん嫌いな上司に激怒された次の日、仕事が全く手につかなくなった。
そこからはもうあっという間だった。年が明け、心がリセットされるかと思ったらむしろ悪化し、実際に転職活動を始めることになった。会社にも正式に報告し、3月末で退職することが決まった。
しかし、1年目で辞める人間など、できれば雇いたくないというのが会社の常だろう。就職活動は難航を極めた。数十社応募し、面接に行きまくった。裁量労働制のいいところは、自分で勤務時間を決められること。そのアドバンテージを最大に活かし、朝面接に行き、会社に行き、夜また面接に行く、という多忙な生活を繰り返している。
そして現在に至る。まだ転職先は見つかっていないが、さすがにそろそろ見つかるだろうというタイミングだ。これで本当に見つからなかったら、正真正銘のバッドエンドになってしまうので、焦らずいい職場を見つけていきたい。
結論として、僕が言いたいのは、「自分の軸をしっかりと考えろ」ということだ。軸とは言い換えるならば、幸せの定義である。「これさえ守れば自分は頑張れる」というものがなければ、きっとあなたは挫折する。
昔、学生時代は、とにかく「人の心を動かす」ことを軸にしていた。しかし、それは恐ろしく独りよがりな考えだった。一人でも多くの人を幸せにしようとするあまり、自分とその周りの人々を幸せにすることがすっぽりと抜け落ちていたのだ。
これは、やはり自己分析の欠如による悲劇に他ならないと僕は思う。今までの人生でつらい時には、優しい先生がいた。励ましあう仲間がいた。そんな健全な環境で、僕は今まで成長してきたのだ。
それが前職ではどうだったか? 周りから浮き、誰も信じられず、一人で悩みを抱え込む日々。入る前に完全に予見するのは難しいだろうが、少なくとも、労働時間が長くほぼ女性しかいない職場で僕が生き残る術はなかったのだ。
一つ目は、自分が幸せになること、幸せな生活を送ること。彼女と結婚して幸せな家庭を築き、親孝行し、生を謳歌することが、人生における最大の目標になった。
二つ目が、いい労働環境に恵まれること。いい上司に恵まれること。伸び伸びした環境なしに、スキルアップは望めない。いい土壌なしに美味しい野菜は育たないのである。
そして三つ目に、やりたい仕事をすること。これは正直、もうどちらでも良い。上二つを実現できない仕事ならやる意味がない。そう思うようになった。
もう一度あなたに考えてほしい。あなたが思っている軸は、本当に軸としての機能を果たしているのか?と。そして、その軸と職場を照らし合わせたとき、本当にその軸を守り続けられるのか?と。
以上、自己分析が足りていなかった僕がここ一年で味わった絶望とこれからについて話してきた。僕と同じ立場の人は、世の中にごまんといるはずだ。決して人ごとだと思わず、自分の人生と照らし合わせて考えてほしい。
仕事にせよプライベートにせよ、この先あなたはどこかで挫折するかもしれない。しかし、挫折は敗北ではない。挫折して立ち上がらないことこそ敗北なのだ。軸が折れたとしたら、より強い新たな軸を探せば良い。そうして人間は太くなっていくのだろう。
でも新卒で入社してすぐに折れたくなかったら、今から自己分析をしなさい。全くしてこなかった人も、今からでも遅くない。
前田裕二氏の『メモの魔力』という本をおすすめする。何がなんでもメモする癖を付けることで、とことん自分を突き詰められるようになるらしい。という僕もまだまだメモする習慣を身につけられていないので、ちゃんとメモします。
まず言っておくと、ポスターへの批判や、ポスターに嫌悪感を表明することへの批判の気持ちは一切ない。
シスヘテロ向けコンテンツ愛好者と過激派フェミニストのバトルなんて心底どうでもいいからである。
ただ、白熱したバトルの様子が毎日のようにTwitterに流れてきたりホッテントリ入りしてくるので、その感想。自分語りを交えて。
(次の例は、たまたま私がよく観測・記憶してしまうだけであって、もちろんそうじゃない人も大勢いるし、主題じゃない。)
いわゆるツイフェミの中にはMtFを女装した性犯罪者と見分けつかないからと差別してトイレくらい我慢しろと言い放つ人がそれなりにいる。
自分が安心する理由をつければ人権を否定しても差別じゃないから。
いわゆる表現の自由戦士の中には淫夢とかヤマジュンをネタにして男性同性愛者を嘲笑してる人がそれなりにいる。
献血しない層はターゲットじゃないから批判するなと言いながら、己がターゲット層じゃないコンテンツをわざわざ違法コピーし面白おかしく編集して偏見を広めて回っている。
性的搾取だとか差別だとか表現の自由だとか理論武装して崇高なことを言ってるけど、
結局大抵の人間って、いじりやすい奴を徹底的にいじるし、気にくわない奴を徹底的に叩く。
物心ついた時から今現在に至るまで出版物でもテレビでもネットでもLGBTはそういう扱いをされているから、よく分かる。
そう気がついてから、自分の中に(ゲイであることとは別の)確固たるアイデンティティを築けるように努力した。
今では人生を最高に楽しんでいる。
不快な表現を見て多少傷ついても止めろと騒ぐ気力も湧かないし、自分の表現や趣味嗜好を否定されても必死に反論する必要性も感じなくなった。
(LGBTの社会活動をする人達のおかげで差別が減ってきたのは事実なので、それには感謝してるし尊敬もしてる。)
公式に守られた匿名の姿で野に放つのだから、読み手はこの文をどうしてくれても構わない。
ただ、このタイトルや冒頭だけでも読んで、自分は同性婚についてどう思うか? という意見を明確にするために、頭の片隅にでも考えて欲しい。
国民全員が同性と結婚しろなどという馬鹿げた事態にはならない。
今のところ日本人には、異性と結婚する、もしくは結婚しない、という2つの選択肢が提示されている。
この法案はその中に、同性と結婚する、という選択肢を加えるのだ。
繰り返すがこの法案は同性との婚姻を強制するものではない。そして、そもそも誰とも結ばれたくない人間には結婚を強要するものでもないはずだ。
(今の世間は結婚しないことを許してくれないじゃないか、という意見がありそうだが、それは論点がズレるので横に置いておく)
この話をすると、「同性愛者優遇じゃないのか?」という意見が出がちになる。
ふだん普通に暮らしている人間が、同性愛者という魔法の肩書き1つでさまざまな権利を得ると思うのだろう。
しかしよく考えて欲しい。同性と結婚したい人間には、現在婚姻の自由、またパートナーとの仲を法的に保証されること、病院での身内としての付き添いなど、異性と結婚した人間には可能なことができない(病院は原則、手術や急病による入院などの場合、法的な家族関係を持つ人間しか付き添えない)。
パートナーシップを認める自治体は増えているが、それはやはりあくまでも「自治体の条例」であり、住む場所を変えても引き継がれるような全国的普遍的な効力は持たない。
養子縁組という手もあるが、家庭の事情等で組めない場合もあるだろう。
同性婚が認められることによって、このマイナスが異性婚者と同じラインまで引き上げられる。
ただそれだけだ。
個人的には同性婚したいカップルやパートナーシップ・養子縁組がいいというカップルで、どれについても尊重出来たら良いと思う。
どうしても人間としての権利をマイナスのままにしておきたい方々には…もう私は何も言うまい。
選択肢が増えるということは、異性愛者や同性愛者という垣根をあいまいにするだろう(そもそも両者はグラデーションで、明確に分けられるものではないんだけど)。
異性しか愛せないと思っていた人の中にも、もしかしたら同性を好きになり、共に生きたいと思う人が出るかもしれない。その逆も然り。
そんな時、選べる人生の形が多いことはとても心強いことだと思う。
こうもはっきり言うのは、私がそうだからだ。「ソースは俺」理論とでも言うか。
基本私は異性を好きになるが、一度だけ同性の友人を、自分でも驚くほど好きになったことがあった。
後にも先にも同性を好きになったのはその一度だけで、自分をどの立場に置くか正直揺らいでいる。
そういう人間は思っているよりずっと多いと思う。
そして、どんな形に落ち着いても法的に好きな人との関係が保証されるなら、こんなに嬉しいことはないだろうとも感じたのだ。
そういえば某議員が「生産性がない」、と言ったのなんだので話題になったが、まあそれはああそうですかという感じである。
子作りを生産性という言葉で片付けるのか? などという話は抜きに、実際同性カップル間で子どもが作れないのは事実だ。これは変えようがない。
だが、代理出産や里親など、子育てをしたいカップルにも子を持ち育てる手段は存在する。それは健やかに愛されて育つ子どもを1人でも増やす、『生産性のある』ことではないのか。
また、同性愛者に生産性がないなら、無理やりに望まない相手と結婚をして子を作るのが正義なのだろうか。子のない異性婚家庭についてはどう説明するのだろうか。
この辺、純粋に議員さんに問うてみたいことではある。曲解されたり横槍が入ったりしやすいネットや文面上ではなく、対面で。そんな機会はないが。
閑話休題。
2013年にニュージーランドで同性婚法案が成立した時、これに関する議員のスピーチが話題になった。
私も感銘を受けたことは受けたし、かなり拡散もされていたのだが、同性婚に否定的な日本人に向けてこれを勝ち誇ったように掲げるのも、なんだかな、と思う。
海外に右ならえしなきゃという感じもあって、そこは好かなかった。日本人ならいくらかは自国の言葉で語れなければいけないのでは、と。
なので、このスピーチからちょっと気になったところを少し参考にしつつ考えてみた。
気になったのは下記の部分。
「法案が通ったその日から、ゲイによる総攻撃が始まるだろう。」
議員は、ゲイによる総攻撃って何なのか? と思ったと言うし、私もそう思ったが、これはかなりの問題でもある。
異性愛者にとって同性婚法案が成立するということは、自分が好まない同性から性的アプローチを受ける可能性が生まれる、ということにも等しい。
「ゲイだって普通に相手は選ぶ」「節操なしじゃない」「自意識過剰だ」という反論はまあそうなのだが、それでも不安は残る。
社会がそんな法案を法的レベルで許したら、同性愛者が大手を振って街を歩くはずだ。
好きでもない相手にアプローチをかけられる可能性が、多少なりとも上昇する。
そのアプローチが同性からなんて想定のうちに入っていない。もしかしたら同性に尊厳を奪われるかもしれない。
――それはまさに、同性愛者が「総攻撃」を仕掛けてくるような恐ろしさだろう。
オープンリーゲイの人々が極めて奔放なように見えてしまうことはあるだろうし、第一に性的体験談の掲示板などを覗けば、真偽問わずいわゆるノンケ(異性愛者)となだれ込むように関係を持つことに成功したと書かれているものがある。
恐れを抱かれても仕方なかろう。
しかし、大抵の同性愛者は同じ性的指向の者同士でコミュニティを持っている。
それは異性愛者と何ら変わらないことであり、異性間のコミュニティにまでこれがはみ出すことは基本ほぼないと言ってもいいのだ。
それでも、ノンケというかまったく同性に興味無さそうな相手を好きになる者はいる。
挙句の果てに、そこから望まぬ交渉が発生することも万が一あるかもしれない。
その時にはもう法やら周囲やらに頼るほかない。相手がどんなクズか、どんな非道かを訴えねばならない。
非力な異性愛者が異性に望まぬ交渉を強いられた時と同じように。
それらは同じことだ。
世間体が気になってしまってなかなか言い出せないであろうことも、きっと共通している。
どうかやられたら存分にやり返してほしい。泣き寝入りをしてはいけない。同性愛者に負のレッテルを貼り付けるようなクズを、同じ性的指向だからと言って守る者は恐らくいない。万が一いたらそいつも同じクズである。存分に叩け。
それで安心しほとは言わないが、少なくとも望まぬ交渉を強いる時点で異性同性等しく下道である。
議員は述べた。
「この法案に反対する人に私は約束しましょう。水も漏らさぬ約束です。
明日も太陽は昇るでしょうし、あなたのティーンエイジャーの娘はすべてを知ったような顔で反抗してくるでしょう。
明日、住宅ローンが増えることはありませんし、皮膚病になったり、湿疹ができたりもしません。
布団の中からカエルが現れたりもしません。明日も世界はいつものように回り続けます。
だから、大騒ぎするのはやめましょう。
この法案は関係がある人には素晴らしいものですが、関係ない人にはただ、今までどおりの人生が続くだけです。」
「恐れることなかれ」
と。
異性と結婚するか、そもそも結婚しないか。それだけの選択肢を前にして生き続ける。
私はできればそのかたわらで、同性と結婚したい人々という「全然関係ない」人たちが「全然関係ないところで幸せに暮らし」、「全然関係なくそれぞれの道を歩んでいける」社会になれば良いと思う。
不安を抱いて反対する人々に、大丈夫! と堂々とは言えない。なんせ同性婚賛成派にも色々な人間がいるもんだから。
でも同性婚に賛成する人々は、反対派を叩き潰し殺してやるとまでは思っちゃいない。
ただ、話し合いの場に来て欲しいのだ。
「キモイ」「好きじゃない」「自分はしないから他人もするべきじゃない」ではなく、
人々にとって何がメリットになるか?
何がデメリットになるのか? を踏まえた上で、
賛成なら賛成、中立なら中立、反対なら反対と言って欲しいだけだ。
だからこのエントリーでは、私の思うメリットデメリットというか、なるべく「愛って素晴らしい」というような結論には落ち着かないよう気をつけて打ったつもりである。
そして、恐れてもいいから、恐れている理由を明確にしてほしいな、と思うのだ。
スマホで2時間直打ちしたのでだいぶ読みづらくなっていそうである。
ここまで読んでくださった方ありがとうございました。もちろん少しだけ目を留めてくれた人も。
このエントリの下の方ででも、Twitterででも、あるいは友人との話や自分の頭の中だけででも。
どこでもいいから、「同性婚どうしたい?」ということを考えて貰えたら幸いだ。
https://www.huffingtonpost.jp/2017/11/25/nz-gay-marriage_a_23288119/
ドラえもんのアニメのせいで、目覚めてしまった性癖がある。CFNMとCMNFだ。つまり、男性と女性のどっちかが着衣で、どっちかが全裸だというシチュエーション。私が見たエピソードのなかで強烈に覚えているのが、着せ替えカメラのせいで、のび太が静香の前で素っ裸になってしまう話だ。たしか、四次元くずかごとかそんな名前の道具が出てきた回だった。
そこで、静香はのび太の股間を見て、「のび太さんのエッチ!」と顔を覆うのだが、私はそのシーンを何度も見るうちに、興奮するようになってしまった。どうしてなのかはわからない。でも、性に目覚めるというはそういうものだ。一見無害に見える子供受けの番組のギャグシーンで、私は裸は恥ずかしいことだ、という意識に目覚め、それから裸を異性に見られたいという感覚を得てしまった。
最近、全裸露出で捕まってしまった増田が、露出狂にはSとMがいる、と述べていた。つまり、自分の裸を見ておびえる相手を見るのが快感なのと、自分の裸を見られて相手から嘲笑されるのが快感なのと、その二通りだ。私の場合、その両方を発症しているようだ。当然、犯罪行為に走ったことはない。そういうテーマのイラストを見るのが好きなだけだ。加えて、私が着衣なのに相手が全裸という設定も萌えてしまう。男と女、どちらか一方が裸にされている、というのが好きでたまらなくて、おかげでpixivのブックマークはほとんどそれで占められている。この場合も、相手が積極的にこちらを襲うために全裸になったのと、急に裸にされて羞恥におびえているの、どっちも好きだ。
そればかりではない。男女が互いに裸で、しかもお互いにすごく恥ずかしがっているというシチュエーションにも興奮してしまう。互いにセックスをするつもりもなく、でも強制的に二人が公共の場で露出しているというのが好きだ。だから、ドラえもんのコミックスの「エネルギー節約熱気球」のラストのコマが、漫画の歴史の中で自分にとっては一番エッチなのだ。
せっかく女体化したのに、女を呼んで百合プレイをするというチキンな展開もどうでもいい。
「(女体化したら)乳首が服に当たるだけで痛い」「新たにできた神経が過剰反応しているせい」
→いや人間の男の乳首だって神経通ってるよな?と突っ込んだが、まぁそれも許す。
途中で男性の性産業従事者に対するルッキズムっぽいものもあった気もするが、
まぁキライなオカズに当たっちまった時の反応だろと思ってスルーする。
オチとは以下の通りだ。
両性具有の天使が女体化した折に、プレイの相手としてハイエナ娘(男根がある)を選んだことを
……一同、振り返って異形を見る眼付で天使を見る。
天使「?」
(終わり)
いや何だよこの展開!
男が男性をセックスの相手にすることを、明らかに変態の趣味として扱ってるよな?
衝撃の事実とか笑いの要素とか、そういうものとして扱ってるよな?
これ作ったやつら、いったい何を考えてるんだよ!
これを出した脚本家、
これを通した脚本会議のメンツ(少なくとも制作進行と監督は絶対同席するはず)
これのコンテ切ったやつ、
誰一人「この展開はマズいのでは」と思わなかったんだな?
描いておいて違和感も何も感じなかったんだな?
この内容に完全に無反応。
つまりこういうことか?
単に演技が下手とか展開が無理やりすぎとか映像がチープとかそういうことじゃなくて
この反応を見る限りはそういうことだよな?
そして制作スタッフは全員、美輪明宏氏の「紫の履歴書」を読め。
当事者にどれほどの悲しみや苦しみを与えてきたのかちったぁ理解しろ。
以下、気づいたことや補足など
・インキュバスボーイの広告…褒められた行為ではないが、対象者が目の前にいない
・人間とエルフの脳内妄想……そもそも脳内の妄想で、(作品内の)現実に存在する人間への差別ではない
・セリフはないが、異形を見る眼付で天使を見る人々の中に酒場のウェイトレス(女性)も混じっている
・本人に面と向かっては言っていない、それと人間の男のように受け入れる者もいる
要するに第三話のラストで問題なのは、以下の4点がそろっている点である
・酒場という不特定多数の人(この場合の人とは、知的生命体の意味)が出入りする、準公共的な場所
・その場にいた全員
・(異性愛者であり)同性愛者である天使を、本人が視線に気づくほど公然と異形を見る目つきで眺める
・蔑まれた天使の背後に、同性愛者のシンボルとして有名であり、作品中でも「同性と性交可能」の隠語として使用されている虹が出る
人間とエルフとドワーフの三人だけがテーブル囲んでひそひそ話をしながら天使を異形を見る目つきで眺める、だったら印象は変わる。
「話の流れに必要不可欠なネタでもないのに、安易に人の趣向を貶めやがって。も少し頭使えや阿呆ども」と思うだけで、わざわざ行動に移しはしなかった。
黙って見過ごすのは良いことではないと感じたのだ。
このアニメのOP曲は,かなり「Go West」をネタにしているというか、パクってるように聞こえる。
Village Peopleの音楽に乗っかって、同性愛を差別するってどういう了見なんだ。
侮辱にもほどがあるだろう。
イカ帰宅とはイカを食べながら帰宅することだ。徒歩であることが限りなく望ましい。
イカは帰宅中に調達する。食べながら帰るのだから調理不要かつ様々な場所で買えるイカ、つまりさきイカかあたりめが候補になる。
私は常にあたりめを選ぶ。
買う場所だが大抵の場合はコンビニだ。スーパー、リカーショップで買うより割高ではあるが小袋ならば百数十円もあれば足りる。
買ったイカは封を切ってポケットに入れると手軽に取り出せて勝手がいい。特に冬の服装には手を突っ込んでおくためのゆったりとしたポケットがあり、一層都合がいい。
口の中にイカの味を満たしながら帰るのは想像よりもずっと幸福だ。
あたりめというとガシガシして顎が疲れるというイメージをもつ人がいるかもしれないがこれは大抵の場合、
あたりめとの時間的隔たりによって無根拠なイメージが膨らんでいるだけだ。
実際に食べれば容易に分かることであるが口に入れて咀嚼しないでいても30秒もすれば口内の水分でふやけ、
ジューシーとまではいかないまでも容易に噛みしめられるようになる。そして改めて言うのも野暮だが噛むたびに旨い。
ただ旨いだけじゃなく思わぬ副産物もある。
あたりめの中には時折非常に細長いものがある。その場合一口で全体を含むことができず必然的に一部分が口から飛び出る形になる。
これが何か滑稽な感じがして多少愉快な気分になる。私としてはこれを利点と言いたいが、どう感じるかは個人差があるだろう。
他人にその姿を見られ、嘲笑されることを恐れるような自意識の強い人もいるだろう。
実のところ私は多少そういう意識があり、細長いのを食べるのに多少のためらいが生じたこともある。しかしすぐに克服した。
何故なら口からイカが飛び出しているのを見た人は瞬間的には奇妙な印象を抱くに違いないが、
もう日本は令和だよ、2020年だよ。いいかげん「性被害に騒ぐのはブスばかりw」とかいう価値観は過去のものになってほしいんだよ。なのにこれだよ!
ツイッターで女性専用車両や痴漢が話題になるたびに、出回った頃にはまだ物心ついてなかった、下手すれば生まれてなかったような中学生や高校生の若者達が、嬉々としてこの画像を貼りまくる。そして「痴漢痴漢と騒ぐのはブスやババアばかりだよなw」と笑うのだ。
「どこでもいいです」の彼女は「何故痴漢のために被害者側が移動しなくてはならないのか」という思いから答えたというインタビューが出たのに、嘲笑われている中年女性は「娘がいるから」安心と言っていたのに。
おばさんだって若い頃があって、痴漢被害経験があって、自分の娘や若い子達に同じ思いをさせたくないからなのに。
第一、ブスもおばさんも痴漢にあうのに。痴漢に顔は関係ないと、大人しそうな被害者が狙われると何度言ったらわかるの?
「ブスを狙うんですよ。誰がお前みたいなブスを触るか!って言い逃れる為に」って言ってる痴漢もいたのに。