はてなキーワード: 功利主義とは
生活インフラただ乗り厳禁!新卒フリーランスはキャンピングカーマナーを守ろう
http://browncapuchin.hatenablog.com/entry/camper-freeride-20160603
一般的な生き方から外れたことをしてるマイノリティがいたら、その人を取り締まることで全体としての幸福を維持する。そんな感じの考えが多いのかな。
僕はマイノリティの存在を許して、社会全体である程度負担を共有するリベラルな考えもあってもいいと思う。
自分が必ずしも常に多数派でいられるかわかない以上、他人のイレギュラーな生活の仕方も”ある程度”許容できないとルールにがんじがらめにされたすごく生きづらい社会になると思う。
(”ある程度”は人によって、今までの生活によってみんな違う。だからたくさん議論があるのはいいことだと思う)
「みんなやったら社会インフラが壊れる」っていうブコメがあったけど、すごくまっとうなことを言ってると思う。
自由な社会について考えると、常にモラルハザードの問題もついてくる。
本当にたくさんの人ががやり始めたら、現在の社会インフラは多分壊れるだろう。
でもそうなった場合、キャンピングカー所有税なり、キャンピングカー排泄所なり、新しい仕組みの社会になってるだろう
「イレギュラーじゃなくてイリーガル」っていうブコメは、さすがに先走りしすぎだと思う。
そもそもやぎって人がここに書いてある生活をしているわけじゃないし、違法ではなくモラルを問われる問題だと思う。
ぶっちゃけこの件に関して、僕はこれが正しいって言いきれる意見を持っていない…
書き殴りで申し訳ない。以上。
警備業法に記帳されている教育(新任30時間・現任教育上期8時間・下期8時間)は義務付けられています。1級の検定保持者や警備員指導教育責任者の有資格者じゃなく普通の隊員がこの新任教育や現任教育を受けないとその後の半年の警備の仕事には就けないです。受けないと業務に就けなくなり経済的に死活問題になる教育です。
そこで教育する会社の選任警備員指導教育責任者が嘘を云ってはいけないですよね。その中で「現場で警備業務以外にタッチするな!」選任警備員指導教育責任者が云っていました。この事はこの会社の建前だったのでしょか?
昨年の11月に建設の現場でそこの職員の指示で保安要員で行っている警備員に看板の雪下ろしさせたり路上を竹箒で掃かせたりといった事をさせていました。その時問題あるからその事を現場の警備員の責任者に云ったのですが、一向に改善せず、この事を某所にメール送信したら警察が動いたことでユーザー(お客様)の建設に迷惑をかけた事で2月25日に警備会社に呼ばれに解雇予告通知書を部長から出されました。ただ地方公務員も問題があったから動いたのでしょう。私は最終的に職を失いました。
この件を匿名で労働基準監督署に問い合わせしたら公益通報者保護法に該当すると云っていました。
役所の推進につきましては、日頃から特段のご配慮を賜り厚くお礼申し上げます。役所の窓口です
。
ご意見をいただきました、交通誘導員についてお答えいたします。
本件につきましては、交通誘導に支障とならない範囲で警備会社の指示、交通誘導員の判断により看板の雪下ろし等を行っていたことを確認いたしました。この行為につきましては、警備会社の指示であるため「労働派遣法」に違反しておらず、かつ行為自体も「警備業法」に違反していないことから問題はありません。
また、某所による指導についてですが、某所へ確認をいたしましたがそのような事実はありませんでした。
引き続き、適切な道路管理に努めてまいりますので、ご理解とご協力をお願いいたします。
ただ警備会社がこういった事を指示したら不味いですよ。
以前、役所の安全大会で警備業協会の部長が「警備業務以外でケガした場合は労働災害保険適用されない」と云っていました。
YAHOOへの質問・警備会社が現場に行く警備員に業務以外の看板の雪降ろしや竹箒で路上を掃かせたりする指示を出したら問題無いでしょうか?
YAHOOの答・警備業務中はさせたらダメです。現場の交通状況によっては受傷事故の原因にもなりかねないですから。ただ作業開始前や終了後に自主的に行うような指導を行うと取引先からの会社や、その本人の評価に繋がってくると思います。
こういった解答が来ました。
企業の社会的責任(きぎょうのしゃかいてきせきにん、英語:corporate social responsibility、略称:CSR)とは、企業が利益を追求するだけでなく、組織活動が社会へ与える影響に責任をもち、あらゆるステークホルダー(利害関係者:消費者、投資家等、及び社会全体)からの要求に対して適切な意思決定をすることを指す。CSRは企業経営の根幹において企業の自発的活動として、企業自らの永続性を実現し、また、持続可能な未来を社会とともに築いていく活動である[1][2]。企業の行動は利益追求だけでなく多岐にわたるため、企業市民という考え方もCSRの一環として主張されている[3]。貢献度の指標としては功利主義的なSROI(社会的投資利益率)を挙げることができる。数値指標はピグー税に議論されるような検証不可能性という問題が残る。
そこで、無責任な企業を発見し淘汰する消費者世論の社会的責任(consumer social responsibility) 、あるいは市民の社会的責任(citizen social responsibility)が必要不可欠と考えられている。社会的責任投資(SRI)はより直接的に評価する。国際標準化機構(ISO)では、対象が企業(corporate)に限らないという見地から、社会的責任(social responsibility、略称:SR)の呼称で国際規格 ISO 26000 を2010年11月に策定した。日本語にも翻訳され、JIS Z 26000 「社会的責任に関する手引」として2012年3月に制定された[4]。
企業コンプライアンス(きぎょうコンプライアンス、regulatory compliance)とは、コーポレートガバナンスの基本原理の一つで、企業が法律や内規などのごく基本的なルールに従って活動する事、またはそうした概念を指す。ビジネスコンプライアンスという場合もある。「コンプライアンス」は「企業が法律に従うこと」に限られない「遵守」「応諾」「従順」などを意味する語だが、以下では主にこの語を使う。なおRegulatory complianceは直訳すると「規制追従」という意味になる。
今日ではCSR(corporate social responsibility の略。企業の社会的責任履行)と共に非常に重視されている概念、仕組みである。
2000年代から、法令違反による信頼の失墜や、それを原因として法律の厳罰化や規制の強化が事業の存続に大きな影響を与えた事例が繰り返されているため、特に企業活動における法令違反を防ぐという観点からよく使われるようになった。こういった経緯から、日本語ではしばしば法令遵守と訳されるが、法律や規則といった法令を守ることだけを指すという論もあれば、法令とは別に社会的規範や企業倫理(モラル)を守ることも「コンプライアンス」に含まれるとする論もある(後述の「コンプライアンスとモラル」参照)。また、本来、「法的検査をする」といった強い実行性をもっている。
そのとき、ある性質について少数派の人は、自分が少数派であることによって不利益を受けたくはないだろう。
しかし、自分が少数派であるような性質についてだけ不利な扱いを止めさせた上に、
自分が多数派である性質については少数派の不利益に無関心でいたい、
などと主張しても、受け入れられにくいだろう。
また実際にはそう主張したいと思わない人も多いだろう
なので、一般に少数派の利益について、多数派は少なくともやりたい放題に無視してはならない、
くらいの方針を受け入れることによって、自分が少数派であるところについての不利益をも避けるという方針を、
完全に利己的な人であっても採らざるをえないのかもしれない。
その人が大事だと思う人が少数派であることによって不利益を被り、
そのことに自分のことのように憤りや悲しみを感じることはあるかもしれない。
元の話の主旨ではないだろうが一応書いておくか。
最大多数の最大幸福ってのは適切ではないな。
京大ミス・ミスターコンテスト2015がTwitter上で盛んに行われた批判(と一部中傷)により中止に追い込まれた。私自身は京大生でもジェンダー論界隈の人間でもないのだが、この過程を見ていて多くの疑問を感じたので、ここにまとめていく。別にミスコン批判について詳しく解説する記事ではないので、そのようなものを期待していたなら別に読まなくていい。
基本的にはこのtogetterに沿って発言していく。ミスコン批判者側のパースペクティヴがわかりやすく整理された良いまとめであると思う。最初に断っておくが、私はミスコンをやめさせることには賛成であり、その意味でミスコン批判者側である。ミスコンを開催するようなやつらは大抵が最も憎むべきタイプのキモい人間である。しかし今回、ミスコン開催反対派としていち早くステートメントを出していた人々の持つある決定的な傾向が私にはないと感じたので、普通の意味でのミスコン批判を〈ミスコン批判〉と呼び、この記事で疑問を投げかける対象となるものを「ミスコン批判」と呼ぶことにしよう。
注意しなければならないのは、私は「ミスコン批判」者に敵意は全くない、ということだ。ミスコンを中止に追いやったこと、ただその一点に関しては全面的に肯定したい。この記事が特定の人々に対する人格攻撃に見えたのなら先に謝罪しておこう。申し訳ない。私が考えたことのどこが間違っているのかをわかりやすく教えてくれるひとが現れれば、私は満足だ。
11月16日に「京大ミス・ミスターコンテスト」なるアカウントが取り上げられたことから騒動は始まる(アカウント作成自体は7月のようである)。
【開催】本日より京大ミス・ミスターコンテストを開催します!???????? 11/29まで1日1回投票を受け付けております????是非サイトをCHECKしてみて下さい????✨ ▶︎http://www.missmisterkyoto.com/
これまでに何度かミスコンに関し議論が繰り広げられてきた(そして開催を阻止してきた)京大でのミスコン開催がこの時点で全くと言っていいほど問題視されていなかったという事態を重く見たひでシス氏らは、「京大ミス・ミスターコンテスト2015の問題点まとめ」なる文書の公開及びミスコン運営団体に対する公開質問状の提出を実行した。
「京大ミス・ミスターコンテスト2015の問題点まとめ」草案 です。気が付いた点があれば自由にコメントや編集をしてください。 https://t.co/ZZeaWzn81b
.@kyotomissmr 京大ミス・ミスターコンテスト(京大ミスコン)に対して公開質問状送りました。https://t.co/ENgjjDZwvk 多くの京大生たちが貴団体のコンテストについて違和感・疑問点を抱いています。生産的な対話となることを期待し、誠実な回答を希望します。
正直に言うと私にはこの公開質問状の意味がわからない。大学当局主催ならまだしも、単なるひとつの学生団体(企業が関わっているかどうかは本質的な問題ではない)にこのような物々しい文書を送りつけても「一部のTwitterユーザーに臨場感を提供できる」ことくらいしか得られないだろう。
今回、貴団体が「京大ミス・ミスターコンテスト」をWeb上で開催していることを知りました。しかし、私はこのコンテストにどこか違和感を覚えざるを得ませんでした。それは、これまで京大において積み重ねられてきた、ミスコン開催を巡る歴史と議論をまったく軽視しているように思えたからです。
「これまでのミスコン開催を巡る歴史と議論を軽視している」のは当たり前ではないか? そんな歴史と議論を認知している学生がいったどれ程いるというのだろうか。私が部外者であるから知らないだけでほんとうは多くの京大生――あくまでも「当時の」――がミスコン問題を認知している、という可能性もあるが、そもそも前回類似の問題が取り沙汰されたのが2012年(なんと3年も前である! 当時の2回生は留年・休学あるいは大学院進学していなければもういない)らしいということからも明らかであろう(そしてあなたが京大生ならば、2012年から2015年にかけてあなたのフォロー欄にどれだけの変化があったか考えてみてほしい)。2012年のミスコン問題について調べたところ今回のものとは異なる質の問題だとも感じたので、実質2004年まで遡って議論を追っていく必要がある。Twitterも存在しない時代じゃないか。突然「これまでのミスコン開催を巡る歴史と議論」などと言われても混乱するだけだ。
今回議論に参加したわれわれ京大生の多くは本コンテストの開催を知りませんでした。京大の名前を冠しているにも関わらず、京大生への認知不足に不信感を感じる覚える意見が多く出たのは事実です。「大部分の京大生の知らぬ間に京大ミス・ミスターコンテストを開催し既成事実を作ろうとしたのではないか」等の疑問点や不満を持っている方が多くいます。ミスコン開催容認派からもこのような声は聞かれました。本コンテストの告知をどのように行ったか具体的にご回答下さい。
これは単なる団体の体力の問題だろう。7月にアカウントを作り、9日間でフォロワーを300人まで増やし、ビラも配っていたのに「知らぬ間に」などと責めたてるのはちょっと厳しすぎる。普通にかわいそう。「京大」名義の使用には許可が必要という話は置いておくとして、京大の名前を冠しているかどうかは本質的に重要な要素なのだろうか。逆に、誰の目から見ても十分な告知が成されたところで京大の名前を冠しても良いと言えるのだろうか。ところで私の大学のミスコンも毎年知らぬ間に終わっている。あれが外見至上主義的だなんて思ったこともない(し無自覚に外見至上主義を推奨しているようにも見えない)。
「美」のほうには噛みつくのに「知」のほうには噛みつかない理由についてひでシス氏は以下のようにツイートしている。
ちなみに「人を社会的に容姿で順序付けることはよくない」と考えている人たち、その理論も論理力という権力勾配に乗って展開されてること、人を学力で順序付けることに関してはどう考えてるのだろう。ぼくは「学力による順序付けは生産性向上を通じて人類の幸福に影響する」で一応決着つけてるんだけど
故にこの批判の核、と言うか土台は、ガッチガチの功利主義であることが明らかとなった。「普遍的な道徳が前提とされていて、それに従っている」というわけではないらしい(「ミスコン批判」者の中には功利と道徳の混同が見られるステートメントを提出する者が多く見られた)。功利に基づく批判はホリィ・セン氏の以下のツイートの後半と衝突する。
「容姿」という価値基準が絶対化してしまった世界――「顔という牢獄」――からの逃げ場はあるべきで、京大はその逃げ場を担っていると思う。もし京大がミスコンを許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも、ミスコンは阻止しなきゃならん。マジで。
〈ミスコン批判〉とは「多様性の維持」のためにミスコンを阻止しようという運動であるという側面を持つ、ということか。「功利」という価値基準が絶対化してしまった世界――「ユーティリティという牢獄」――からの逃げ場もあるべきである。もし京大が功利主義を許してしまったら、他大学も「右にならえ」でしょうよ。ある種の「多様性の維持」のためにも、功利主義には断固として抵抗しなきゃならん。マジで。
今回気になったのは、そういった少しでもマシな社会を引き寄せるための泥臭い活動を、シニカルを装って冷笑したりこのヒドい現状をさも世の中の真理のように説いたりする言説があったことですかね。「たしかにおかしいとは思うが仕方ない」と言った瞬間に少しでもマシな社会は手から離れていってしまう
良い社会を実現するためには何をやってもいいのだろうか。功利主義的には良いんだけど。社会的に悪い影響を与えるというただその一点だけを根拠にして、単なる一つの企画を弾圧することを手放しで称賛するような風潮を放置しているとさらにとんでもないことになるのは火を見るより明らかであろう。正当かつ普遍的な理由で反対していないのだから、中止の時点で追及はやめるべきである。
先程のホリィ・セン氏のツイートに従うなら、今回のミスコンを功利主義的に弾圧することは避けるべきなのだ。ホリィ・セン氏のツイートそれ自体が京大における 「多様性の維持」という価値基準が絶対化してしまった世界――「ダイバーシティという牢獄」――を象徴してしまっているのが残念ではあるが。
さて、公開質問状に戻ろう。
突然「容姿による人間の順序付け」というワードが出てきたが、ミスコンと何の関係があるんだ? そもそも「ミスコン」と「容姿」の間に直接的な関係はあるのだろうか。これらの間接的・結果的な「つながり」がこの一文によって再生産されている、ただそれだけである。
c. 所謂「女性らしさ」や「男性らしさ」の押し付けに繋がることについてどういった意見を持っていますか?
大学という本来容姿や性で判断されてはならない場でこういった企画を行うことは問題だ。という意見が寄せられています。
ミス・ミスターコンテストは、ほとんど容姿で判断されるコンテストと言って過言ではなく、そういったコンテストを男女で分けて行い、女性(男性)同士を比べてその中で1番を決めると、「この人が女性(男性)の中で1番」という「基準」が生まれてしまう。その「基準」は女性(男性)らしさの押し付けに繋がっているという意見が出ました。
同上。直接的には繋がらない。最初からルッキズムが浸透していることを仮定しており、本末転倒である。また、ミスコンごときが出場者以外への特定の価値基準の「押し付け」に繋がるとは到底思えない。
公開質問状についての主要な議題は以上である。この質問状とTwitterでの制御の効かなくなった批判・中傷によりミスコンは中止となった。
今回のコンテストの中止を決定いたしましたのでご報告いたします。
中止の決定の後4時間ほどで公開質問状に対する回答が送られてきた。ただ多くの質問に説明責任がないとして回答しないもので、不誠実だと感じられた。
説明責任はない。どうして説明責任があると思ったのだろう。純粋に、不思議だ。
京大ミスコン問題2015の公開質問状に対して回答が得られたので、議論用のDocsと総括用Docsを作成しました。ご自由にコメント・編集下さい。 回答と議論: https://docs.google.com/document/d/1BybFd2Th2NzTMQ3AK76kTrVjxB7S0jkMBSjVKGdQ4oE/edit 総括とこれから: https://docs.google.com/document/d/1L8bcokWX-gEHD0ecqT8UC_NyDBrboPULl3TSlZewjY4/edit
また、以下のような危うい意見もあった。
ミスコンの基盤となる差別的価値観は日常の模倣で、「ミスコン」はステージだけでなく日常で行われ続けているという事を認識してたら、一つ企画が中止になったところで「勝利」なんて言えないと思うけど。。ミスコン反対もクエストになってどうすんの。 >京大ミスコンクエスト
このような発言をすることによって差別的価値観を再生産し続けると永遠に闘い続けなきゃいけなくなりますよ、としか言いようがない。自足自給はやめましょう。
ちなみに言っておきますけど、ミスコンの内包している問題的構造は日常の中に浸透しているからこそ今回ミスコンがミスコンとして具現化した・言い換えるならばミスコンは日常的にも起きている、というのはその通り。
同上。
moralistよりもethicistになりましょう。そして自分たちがやったことについてもう一度よく考え直してみましょう。
以上、眠くなってきて最後の方はテキトーになっているが、ここで終わろう。言葉をうまく選べているか不安だが、最初に述べた通り、攻撃の意思はない。
なるほど。統治行為論を背景に、政府の憲法無視は9条にとどまる、という考えなのか。それは論理的にありうる立場だし、それに十分に信頼を置ければ安保法案への私の評価は変わる。ただ、今のところ私はそこまで日本の立法や行政に対する司法の強さを信頼出来ないかな。統治行為論の判決が出る前に米国大使に最高裁裁判長が判決を漏らすみたいな、論外なことをしているし。
http://www.masrescue9.jp/fukawareiko.pdf
一番恥ずかしいのは、それが米国の開示文書からしかわからないこと。日本がどのくらい民主主義を真面目にとっているかがわかる。それに、一票の格差はいつ解消されるんだ。
デモクラシーに守られるべき価値がデモクラシーそのものによって毀損されるのは許されない、というのは同意するが、その価値が「国民の幸福」というのはちょっと保留かな。最広義に「幸福」を定義すれば自明で空虚な文になるし、一番狭く、ベンサム流の客観的に観測可能で社会で加算して「総幸福」を定義できる何か、ととったらそれは時代遅れだろうと思う。個人的にはセンのケイパビリティ論に共感している。
君に当てはまるかはまた別だが、功利主義者とか、いわゆる「リアリスト」の人たちは、幸福だとか国益だとかを狭く定義する傾向があるように思う。殺すより殺されたい、という人はいる。そのまま見ると分かり合えないと思うかもしれないが、「でっちあげの根拠でイラク政府を崩壊させイラク国民に無政府状態をもたらす戦争に参加しなければ米国との同盟が維持できないのであれば、そこまでして米国様に尖閣を守ってもらわなくてもよい」という立場だと思えば、同意する日本人は多いと思う。
昭和天皇が大戦に果たした役割は、面白そうな話だが、時間が尽きた。個人的には、田中義一首相を昭和天皇が叱り、その後総辞職して自殺した、というのがターニングポイントだったと思う。大日本帝国憲法は構造上天皇がいざというときは出ていかなければならないようになっていたのに、田中義一首相のエピソード以来、必要以上に立憲君主の枠から出るのに謙譲的だったように思う。(多分バイアスがかかっている資料によると)昭和天皇はあの時代の有力者の中では、例外的に開明的な思想を持っていたらしいから、惜しいな、と思う。
あと、英明な君主による独裁のほうが民主主義より優れた結果をもたらすのは別に当たり前の話だと思うよ。英明な君主の安定的な確保が致命的に難しいだけで。
なんでそんなに国想いなんだ…功利主義者?
あぁ…やっぱ分からないかなぁ。年金ってのは経済的弱者救済措置なのよ、健康保険でも「オレ病院行ってないのに、取られ損だから、病気になったら10割払うわ」ってのと同じなのよ。その社会的なシステムから打算で脱退したいっつーのが、利己的じゃん。保険屋の終身保険CMじゃねーんだから。
でさ結婚も、ある種女性の社会的救済の意味もあるわけ、「女性は自立してんだろ」って放置ってのは、現在でも問題ある事になってるでしょーが。自分の両親が損得度外視で、子育てや結婚を考えたから自分が存在してる訳じゃないか、ソコで自己存在を否定してどーすんの。
最近は、社会制度とかインフラまでコスパ悪いとか言い始める輩が多くて参るわ。
そういうのを経済的効率でコスパ悪いって論じるのは頭悪いってのが、常識だよ。
結婚や医療や教育とかって社会的制度は、「損得考えて自動車買うのやめました」っていうのと論じるカテゴリーが違うの。
そんで、功利主義者が苦し紛れに「社会の多様性」なんて言うんじゃないの、どうせ理論破綻してんだから。経済的非効率な少数派のセクションに税金を投下できるかの社会的合意こそが、社会的多様性を認めるって事だろ。
お世話になっております。
本日ドタキャンされて暇になってしまったため本文を提出するに至りました。
昨年 デフレ大学 から リフレ大学 に 転学した スズキと申します。
円通貨は 資産の20%ほど現在でも保持し円建てで見るとキャピタル部分が年間12%くらい増えている今日このごろいかがお過ごしでしょうか?
自国通貨切り下げ は 功利主義の側面からすると大変歓迎できる事象ですが日本共同体の一員としてとても悲しく感じています。
光通信やリクルートのような大変危険な戦場で責務をまっとうする戦闘員の給与が 経済破綻寸前でサッカー賭博に勤しみ食後のシエスタを2時間ほど楽しむご夫人達よりものより低いのです。
東京大学を卒業しDENAやサイバー等上場企業に煽られ、一日15時間働いているスーツのご貴族さまの可処分所得が 四則演算もろくにできないデトロイドの工場員様方より 低いのです。
必死に学問に勤しみ司法試験に合格し兄弟ご家族を興奮に導いたイソ弁様達の給与が スイスのマクドナルドの店員より低いのです。
ワンオペで 一日30万売り上げるすき家の店員様の給与が。。。。。。。。
頑丈なインフラと教育、勤勉性、止めどない博愛思想を持たれた日本国民の能力と実利の差分に 気持ち悪さを感じ喉元が詰まる所存でございます。
まあ俺はどうでもいいけどね。みんながんばれ貧乏人。
うまく両親と折り合いつけていらっしゃるようで恨めしいです。。。
もうすこし僕の家族もコミュニケーションを頻繁に取れるようになればいいのですが。。。僕にも方法がよくわからないし、めんどくさいなーって思ってるんですよね。実際。
もとい!
僕は子供を作ったことがないので実感はないのですが、確かに性欲によって子供が作られているのですし、その瞬間には理性的な思考が無い以上、その手前で理性的な思考がなされていないのであれば、何も考えずとも子供が作られることは考えられます。
主義とか思想とかは単に価値判断なので、無意識下であるか意識下であるかはあまり関係ないようにも思います。単純にどのように人間が考えて判断しているのかを僕は表現したかっただけであります。もし子供を産む前に考えるのであれば、祖父母のことを思い浮かべるのではないだろうか、もし子供を産んだあとに他の子供を見て、自分の子供とを比べてみた時に、よりよい物を与えたいと考えるのでないかと想像したまでであります。よくよく考える人もいれば、まったくと言っていいほど考えない人(そういうひとでも価値判断は確実に行なっているというのが僕の考えではあるのですが)もいるだろうという、元増田さんの仰る通りのお話であります。しかし、まったく考えない人がどのような判断を下すのかということに言及するのは、非常に難しいように思いますし、明らかに僕が力不足であります。
いずれにしましても、しっかりした思考、計画のもとで妊娠、出産が行われているのかが多いか少ないかは、僕もきちんとした情報を持っていないので、この場では正確な情報は現段階で分からないという結論に至ると思います。もちろん、増田さんの言及していらっしゃる
という点、つまり一体どこの情報であるのか、大都会でとられたデータなのか、小さな田舎町でとられたデータなのかで、その意味合いも変化してくるのだとも思いました。
それにしても、上記の発言で僕が仰るとおりだと言及したのですが、
動機や考えなんて人それぞれです。あくまで私はこうである、という話です。
この考え方は。。。
本当に倫理学を学んだばかりなので、教科書と同じことが言及されるだけで興奮します笑
と主張する人に違和感を感じているのでしょう?そうなんですよね???
もっと別の視点があるはずだ、相手が相手の倫理観、道徳観を押し付けるだけではなく、(つまり説教というコミュニケーション方法ではなく、)自分の倫理観、道徳観を聞き入れて欲しい、そうすることによって新たな、自分の納得できる倫理観、道徳観を生み出したいとは、、、
いや、思わないからこそ、匿名ダイアリーに投稿しているのでしょうか、、、いや、お思いのはずだ。ただ、別に新たな倫理観、道徳観を作り上げるまで研究に研究を重ねなくてもいい。とにかくあなたは、それ以前にどんな物語があったにせよ、子が産まれてしまった以上、子育てに対する義務感を両親は持つべきだし、子供にも教育を受ける権利や、もっと簡単に言えば、育てられるという権利があるのだと主張をしたい。そして子育てが一定程度行われないならば、子供は親を批判しうるのに、
親を否定すると叩かれる風潮
が世の中にはある。さらには、一定程度の子育てが行われたら行われたで、親の説教というコミュニケーション方法によって、私(親)の施した子育てに感謝せよ、と子供は言われる。あなたの価値観(権利観といったほうがいいのでしょうか)からしてみたら、こうした世の常識はおかしい、そう仰りたいんですよね。
もしこれが僕の妄想であってもいいんです。これは子供の権利の問題にも関わってきますね。面白い。しかし、この問題はどのように解決できるのでしょうか。とりあえずここにお書きになることによって反応をみる、ということにしているんでしょうけど、はてなでは子供の権利は理解されていないようにも見えます。これは僕の見識不足なのかもしれませんが。。。
うーん、すこし自分の勉強不足が見えてきました。どこまで子供は親に対してどこまで権利を行使することができるのか。子親関係で権利が行使されることによって尊敬や感謝は変容するのか。そうした状況下で、尊敬や感謝はどのような性質を持ちうるのか。
もっと親子関係というのは小さくなっても良いのではないか、ただただ権利と義務があるだけであるでも良いではないか。もちろんその関係が前提となって、親子互いの愛に溢れる家庭を築いてもいい。あるいは、そこまで愛には溢れないが、きちんと権利と義務の関係は保たれ、平穏な暮らしを共に歩む家庭でもいい。
長いですね(笑)
考える機会となれてよかったです。
しかし、親が子供を産んだ本当の理由は、夫婦以外には中々分からないものだと思います。
そもそも勢い余って出来ちゃった子だったり、複数人男がいて、誰の子か分からないけど妊娠して出産したからといって、
子供に真実を伝えないでしょう(私の故郷ではこういう例もそれなりにありまして)
それこそ親が子を育てる理由だって、私が言った事が全てではありません。動機や考えなんて人それぞれです。あくまで私はこうである、という話です。
利己主義によるものか、利他主義によるものか、功利主義によるものか、そんな事意識して産んでいる人少数派だと思いますよ。
おりゃーやったるでー!→出来たわ、みたいな展開なんて往々にしてあるわけですよ。
感謝とはありがたいと思う気持ちです。
僕もそう思います。
はい。自分の利益がある時点で生まれた時に、つまり、ある利益を誰か他の人が産んで、それが自分のところに来たら、その利益を産んでくれた人に感謝する。
飯を食わせ、家を買い、車を買い、学校に行かせ、塾に行かせ、好きな習い事をさせる。
これらは何のためにやるのでしょうか?
その通りでしょうね。
ここは、ちょっと親御さんを悪く言い過ぎてると思いますよ。エゴイズム、つまり利己主義だと。つまり親御さんは自己満足で子供を育てているのだろうと。そうした部分があることは否定できませんが、それだけではないのではないでしょうか。
親御さんはどうして子供を作ったのだと思いますか?そもそも本当に親御さんご自身だけでお子さんをつくろうとなさったのだとお思いですか?親御さんのお父さんお母さん、つまりお子さんのおじいさんおばあさんに、孫の顔を見せてやりたいと思ったこともあったのではないでしょうか。
少なくとも自分の利益のためだけにお子さんをお作りになったとは到底考えられません。それこそ学校や塾、習い事などは相当な金が必要でしょうし、子供なんかいないほうが親御さんは金銭的には節約できるはず。
あるいは別段金銭的な問題を親御さんは考えてはいないものの、少子化とか、社会的な問題意識があって子供を作ったのかもしれません。これも利己主義的な考えに寄っているとは言い難いでしょう。どちらかと言えば利他主義的です。
あるいは他の子供を見て、自分の子供も他の子供と同様、あるいはそれ以上の教育や物を与えたいと考えているのではないでしょうか。これだけを見れば、別段、親御さん自身の利益を親御さんが見ているわけではないし、それよりもお子さんの利益を見ている。親御さんが利己主義とはいえない。これも子供を他者とするならば利他主義です。
僕も勉強したばかりですが、あなたの「親は、子供の利益のためになることが重要である、という考えの元で動く、利己的な自己中心的人間だ」という意見は、おそらく心理学的利己主義に該当するのではないでしょうか。
あなたが感謝したくないというのであれば、しなければいいのではないでしょうか。当然の権利として親に育ててもらった。そのとおりでしょう。
では、もしあなたが、親に感謝している人間がなぜそうしているのか、を理解したいのであれば、上記に書かれたことに関して知らなければならないと思います。つまり親御さんにおける利己主義的考え以外の子供を産んだ理由をあなたは知らなければならない。
そして、思うに、それをした結果は、おそらく今あなたが考えている感謝という言葉になかなかフィットしないながらも、親を思う人間像が浮かび上がってくるのではないでしょうか。いずれにしても、今現在、僕はなんだか、「感謝」というあなたの言葉が一体具体的に何を指しているのか分かっていません。そして、感謝という言葉も曖昧な言葉だと思います。感謝とは一体どのように人を思うことだと思いますか。そんなに家族という関係は一面的に感謝し、感謝される関係だと思いますか。尊敬という言葉を使っている方も見ましたが、同様です。そんなに家族という関係は一面的に尊敬し、尊敬される関係だと思いますか。あるいは、どのようなときに感謝したり、尊敬したりするべきだと思いますか。おそらくこうした問題は人それぞれで異なると思いますし、グループ一つ一つの問題であるように思います。人間が違えば気に入った感謝や尊敬の方法や度合いは異なってくるはずです。
僕の母も「こうあるべき」とか「こうするべき」って話が多いですね。話の八割方はそうなのかなってかんじです。人に親は大体二人ですし、他の家庭と比べることはなかなか出来ないんですが、他の親御さんもこういう方が多いんでしょうね。どうしてこうなるのかは、僕も親になったことがないのでいまいち分かりませんが、僕の家族を考えて見るに、いろいろ家族内の重圧が多いんじゃないかなっていうのが印象です。僕の母なんかは特に嫁に入っているわけで、家族が近くに居ないっていうのはプレッシャーなのかなとも想像しますよ。
いずれにしても、親御さんとお話し合いがお子さんと必要なのかなと思います。どこか、自由な話し合いが家族内でなされていない感が見受けられます。僕の家族も、どこか母に気を使ってか、議論をしたがらない傾向にあるように僕は思っているのですが、いやはや。。。家族内での自由な議論というのは難しいんでしょうね。とにもかくにも、いろいろなことを想像し、話し合うのが、割合うまくいくのではないでしょうか。
文面を見るに功利主義的な考えをお持ちのようです。僕もまだまだ未熟者ですが、こういう問題は、もちろん別の視点もありうるとは思いますが、倫理的な問題でもあるのかなと思います。一緒に倫理を勉強しませんか?あるいはもう勉強済みですか?
子供を作るのは鬼畜の所業。それか馬鹿。http://anond.hatelabo.jp/20130613154103
はじめに言っておくと全面的に同意する。
ずっと自分も考えてきたことだった。
そのうえで、この「生まれない方がマシ」というこの主張は時代性というか、現代を体現しているように感じる。
なお、他の「生まれない方がマシ」言説として、学術レベルではこんなのがある。
http://www.amazon.co.jp/Better-Never-Have-Been-Existence/dp/0199549265
この人は比較的最近知ったのだが、2ちゃんねるでもスレが建てられるなど、徐々に認知度は上がってきているらしい。
あとシオランは有名だよね。
話を戻すと、はっきり言って,少しも異常な議論だとは思えない。
快を善とし苦を悪とする功利主義的前提を徹底すれば不可避的に行き着く結論だからである。
そしてこの前提、そして言うまでもなく「他者危害原則」が現代のスタンダードだからである。
他者危害原則は、普通は愚行権(「他人に迷惑かけなければ何やってもいい」)という話だが、裏を返せば「他人に迷惑かけることはしてはならない」ということでもある。そして、出産とは根源的な他者危害行為である。
すでにその一部を書いたところだが、根本的には「ネオリベ」。これに尽きる。
話は簡単である。
現代とは、社会の改良(福祉的な方向での)に対する希望がまったく失われた時代である。
というか“社会は存在しない”ので、そもそも改良することも、異議申立てをすることもできない。
こうして一切が「自己責任」となるなか、昨今の科学的知見は、遺伝子・幼少期の環境といった本人にどうしようもないレベルで「人生は運ゲー」というミもフタもない事実を、私たちに突きつけてくれる。つまり「自己責任」とは自由意志がどうのといった話ではないのである。
しかし、唯一これだけは私の責任ではないと主張できることがある。
もちろん、生まれたことである。
まずはこれがひとつ。
(なお、これに対し、「現に生きていることをもって出生の事後承諾とみなす」という主張が考えられる。裏を返せば「生まれたくなかったんなら、死ねば?」というわけである。しかし、自らの意志によって生まれたのでない者が、自らの意志によって死なねばならないとは甚だ不条理である。というか、この場合、死に方については論議できない。つまりその人が「大量殺人を犯して死刑になる」という死に方を選んでも文句は言えない。実際、この種の通り魔たちは<生まれない>という行為?に及んだのだと私は考えている。私のいう<生まれない>とは、あらゆる自発性・主体性・能動性の拒否であり、したがってその者は「生かされる」か「殺される」しかない)。
これはさまざまな要因が絡んでいるが、ぱっと思いついたものを挙げるとこうなる。
①個人化
③生活の具体性の消滅
最後のものだけ説明すると、人類は生まれてこの方、空間・時間を縮めることに専念してきたといえる。
少しでも速い移動手段を求めた。空間を均質化し、通信技術を発達させ、どこにいても同じように振る舞えるようになった。
あらゆる場所は「ここ」になり、あらゆる時は「いま」になった。
「いま、ここ」とやたら耳にするように、実のところ時と場所とが極限までに抽象化されてしまった。
ところがこの「私」とは主観的には唯一存在だが、客観的には「いま」「ここ」と同じくらい抽象的なものである。
つまり「私」にも何ら内実は伴わない。
自我の内実を埋めてくれる具体的な生活空間や経験は、多くの現代人には得がたいものになった。
やがて人々は「私」にウンザリし始めた。
思えば、多くの娯楽作品が「私の抹消」を描いてきたのは、偶然だっただろうか?
このテーマは近年になって伊藤計劃『ハーモニー』が完成させたのだが……私自身の話をすると、自分のなかの「モヤモヤした気持ち」を「生むという鬼畜外道の所業の発見」にまで至らせてくれたのは、ほかならぬこの小説であった。
http://anond.hatelabo.jp/20130522180539
どこかの高校生が夢に敗れたらしい。
とりあえず思ったことを少しだけ書いてみる。
いや、思ったことというか、今まで色々考えていたことをまとめる。
もし自己啓発本しか読まない人であればまず知らないのではないかと思う。
死滅回遊というのは無効分散とも呼ばれる回遊魚の異常行動の一種で、言ってしまえば生きていけるはずのない場所へ旅立ってゆく群れのことだ。
それによって環境が激変した際などは、偶然それらのグループのほうが適切な環境にめぐりつき、種の存続が可能になる。
もし偶然環境の変化によって生まれた新天地に巡りあえば彼らはライバルの少ない環境を謳歌できるだろう。
まさにノマドや意識高い系の行動原理がソレに当たるし、そのように統計的に分析されれば確率的な危険度が顕になるためこういう概念が自己啓発本に載ることはないだろう。
ここまで書いてだるくなってきた。
まぁ、つまり日本というコミュニティーのための貴重な犠牲なんじゃないかという話です。
かっこ良くタイトルまでつけたのにハーメルンの笛吹き云々いってる時間ないや。
そこら辺は想像で補って下さい。
功利主義的に安藤美姫とかがノマドを煽るのは正しいじゃないかって可能性を考えてみたというお話。
というか滅びそうだし此の国
で、ハーメルンの笛吹きをやるほうもまぁ、自分たちの欺瞞とか当然知ってるだろうし。
それがわかった上で100人の若者犠牲にしても10000人の市民の命守る形になるんじゃないかなーとか
そしてそれって凄い辛いことなんじゃないかなーとか
そして、この僕も数々の講演会で彼ら言論人の言うことを純粋に真に受けて今の身分にまで堕ちた人間だ。責任をとれとは言わない。勉強を全然して来なかったのは僕自身の怠慢だからだ。
でも、「学生よ、もっと海外に出ろ」とか、「いい大学に入って、いい会社に入って、それで終わるつもりか?」とか、「安定を求めるな」とか言う前に、「当たり前だけど、勉強は大事だよ」という「前提」ぐらいは、講演会や学生向けの集会なんかでも言って欲しかったな、と。
という意見は最もだが、