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2013-02-10

青二才氏の「体罰と「想像力」と「公共性」と… 」エントリ内の「僕は経済学の人だから公共財概念から見て、体罰必要だと考える」項の翻訳

何かTM2502氏が(蛇足)あーんまーりだぁー! - Why do you need ...?と嘆いていたので、実際青二才氏の該当エントリ体罰と「想像力」と「公共性」と… - とある青二才の斜方前進)を読んでみたところ文章があまりにも汚いので、添削修正して翻訳してみました。え、何故自身のブログに書かないのかって……? だって、何かヤじゃん、何かさ。

なお、強調するタグ等はiPhoneから更新なのでありません! ごめんなさい! あ、あと青二才氏本人から消せと苦情が来たら消しますのでご了承ください。また私自国語が苦手なので、もし何かおかしい部分がありましたら修正いたします。

では、以下が本文となります

僕は経済学の人だから公共財概念から見て、体罰必要だと考える

Twitter等で「教育目的なら体罰必要になる」と発言したところ「体罰が無くても教育はできるし、クラス運営もまともにできる」と反応が返って来た。この発言の問題点を浮かび上がらせる為に、ここで岡田斗司夫さんとの対談での東浩紀さんの発言を引用する。

体罰ならまだ明確な線引きができるが、これがハラスメント嫌がらせいじめ)ともなれば、もはや線引きさえできなくなる。従って、生徒と関わらないように、関わらないようにすることこそ教員の合理的な行動である。」

以上の発言は「いじめ問題」だけに限れば的を得ている。つまりは「教師に与えられた「権限」と、教育者が「求められる水準」が不一致になっている」ことが問題である

家の中で「しつけ」をする機会が共働き等で減れば、ますますこの「不一致」は拡大する。たとえば「子ども」が教育現場に増えたら、教育現場に「勉強教えろ!」と親御さんが言ったところで、現実は授業が聞けずコミュ力が無い子供がそうでない子供の授業を妨害し、勉強を教える以前の問題になる。これは病院自動車教習所も同じだ。

ここで経済学を使って例えれば、確かに患者も生徒も(及びその保護者は)「お客様」ではあるが、その考えは50%は正しく、50%は間違っている。確かに、医者先生も「正しいこと」は教えられるが、「正しいこと」を守ったり実行する気がない人には教えても無駄だ。

とりあえず学校病院も、基本的には「病気を治す・免許取るのはあなたから目的を果たしたければちゃんとやってね」という場所なので、体罰や反抗的な人が荒らしたりすることも少ない。(そして、利用者に「大人」の割合が多いからね)

だけど『公共財』という概念で考えたときに「リスクを負うのはあなたからあなた自身がちゃんとやってね」では済まないのが「公教育」の難しさである

ここでいう『公共財』とは、道路学校の授業、映画館電車のように「みんなで使う・共有するモノ・サービス」のことを指す。

経済学の用語だから難しく聞こえるが、要は「映画館でしゃべる客・暗闇でおっぱい触る男、喘ぐ女は死ねばいい」「電車の中で吐くなよ!臭いじゃないか!!あああ、そこ((((;゚Д゚))))もらいゲロするなよ(´・ω・)」というだけの話だ。

しかしそんなお客でも、お金払ってる以上は排除できない、理由は原則として誰でも利用できる施設だから。例えば電車で隣の椅子に、横に巨乳女子高生が座ってても、臭いホームレスが座ってても、同じ料金を払わなければならないからだ。

この『公共財』という概念は、学校に対しても適用してもいいと考える。理由は授業はバカでも賢くても平等に受けられ、そこで授業中に騒ぐ奴がいれば「俺の勝手」ではすまない。

そして騒ぐ奴に限り「スクールカーストが高い」場合が多く、生徒同士で注意して自浄する事もできない事が多い。僕が体感した例としては、腕力の強い野球部部員若い女教師いじめて辞めさせられる(注釈:「辞めさせられた」という述語が「野球部員」か「女教師」のどちらの主語に掛かってるかは不明)というパターンを目撃したことがあるし、そういう生徒は自分よりも弱い・優しいから殴ったりしない先生にはでかい態度をとる。

更に高校も大学も簡単には「停学・退学」を行うことはできないから、そういう生徒が教育サービスを劣化させるという事はどの段階の教育にも言える。

だが経済学上は「問題児業務妨害営利妨害」と判断でき、問題児に対してしかるべき制裁をくだせないような教育現場は、真面目で優秀な生徒に対し罪悪である

自分の思想は「保守的な(個人的)功利主義者」と定義しているので次のように考えている。明らかに迷惑な生徒は「人権の範囲内で」殴られて然るべきであり、また殴られない現状こそがおかしい。(※私も宿題忘れて殴られたことはあるので。)

「公の利益の最大化」を考えるなら、むしろ体罰人権問題と衝突しないで容認されるべきで、人権と衝突するのは「教育的要素がない」場合であり、つまりは「(迷惑な生徒の)暴力」に対して衝突するのだから、悪いのは体罰というツールではなく、体罰を振るう相手や目的定義しない「人間」の方だ。

そもそも教育現場を『公共財』として見て、教師を「インフラ」として見れば、教師に高いハードルを求めるような「体罰は絶対ダメ」だという論調や、「偏差値が高くなるような教育をやれ」という論調を、教師の仕事として定義するのはおかしい。

学校は塾の代わりじゃないし、教師はあなた達の召使いじゃない!

公共財を守るために、躾の悪い子ども体罰を振るのは仕方ない事で、まして体育会系学校だとなおさらだ。それを体育会系でも関係なしに「全面的に(いついかなる時も)体罰禁止」という言い方をメディアで、ネットで、報道が、政治家が、庶民が主張するのはイかれてる!

スポコン的なシゴキを否定するなら、au等が「巨人の星」を使うのは「体罰推進作品」を使うのは不味いのではないか

だけど、体罰反対論者に聞きたいのは「星一徹は飛雄馬憎しで、体罰を行なっていたか?」という議論。

あらゆるハラスメント嫌がらせいじめ)でも同じ議論ができるけど、体罰のものを「悪」という人達は、体罰された相手との相互関係考慮しておらず「頭ごなしな人達」こそ愛がないのではないか

一徹氏を全面的に賛同するわけでは無いが、星飛雄馬プロになって注目選手になれたのは間違いなく一徹のしごきがあったからだ。

学校においても、全国区スポーツ学校になるために「体罰」は切っても切れない関係のはずた。それを文科系知識人等が自分価値観愛情の形で「あれは暴力だ」と言っているに過ぎないのではないか

例えば、自分の子万引きしたときビンタしたと打ち明けた母親がいるが、その場合子どもが「被害者」なんですか? 親が感情的になったから、悪いのは親なのですか?

答えは求めてないから、いらないよ。てめーの脳天に杭を打ち込んでやりたいと思ってるだけだ!

2012-07-20

日記

 児玉聡『功利主義入門―はじめての倫理学読了。読みやすく、しかも、勉強になった。私は今年度初めに、「意味の分からない本は読まない」と決めたため、哲学系の本は一切読まなくなったのだけど、本書は、功利主義を理解するための知識がきちんとまとめられているにもかかわらず、倫理学素人である私にも意味の分かる本であった。

 とりわけ私にとって重要だったのは、功利主義に対する批判者の多くが、「行為功利主義」と「直接功利主義」を念頭に置いたワラ人形攻撃をしている、という話(p.83)。ちまたでは功利主義批判をしばしば目にするけれど、そこで批判されているのがワラ人形でないかどうか、考えるための一つの目安を手に入れることができた。

 逆に言えば、本書では、ベンサム説やJ.S.ミル説がそのまま示されるだけではなく(当たり前か)、それらへの批判を経てより洗練された形の功利主義が紹介され、擁護され、さらには今後の課題が提示されている。単に昔の人の思想を勉強するのでなく、論争(と現実的事例への適用)を通じて倫理学に触れられる本書には、「はじめての倫理学」という副題がよく似合うと思う。

 功利主義(と功利主義批判)そのものの解説以外にも、公衆衛生に関する政策、幸福論、心理学や脳神経科学による研究ビルゲイツ寄付先の決め方など、色々と興味深い話題が盛り込まれ、また、倫理学武道になぞらえた説明にも色々な点でとても納得できた(日常会話で友人の意見を批判するのは、通行人大外刈をかけるのと同様に危険!)。J美の出番がもっと多ければより楽しい本になっていたと思うが、それを望むのは欲張りだろう。

 以下、思ったことのメモ

p.20)食事のときに音をたててよい文化ルールが、「食べるさいには周りの人を嫌な気分にさせるべきではない」という(より深い)ルールに基づくものと理解できる、というのがどういう解釈なのかよく分からない。音をたてることを禁止したがる人は周りの人を嫌な気分にさせるから、音をたててよいというルールがあるんだということ?

pp.154-155)選好充足と幸福のつながりを疑うための2つの思考実験から、「すべての選好を充足させることが幸福につながるわけではな」いということになりそう、という結論が導かれている。つまりここでは、「選好充足しても幸福にならない」感じのするケースが挙げられているわけだ。しかし、これら2つのケースで想定されている選好充足は、選好充足とは思えない。例えば、ある学者が「ノーベル賞をほしい」と思っていて、その後に政治的理由で「ノーベル賞なんか欲しくない」と思い直して、その直後にノーベル賞受賞発表があった場合、それは明らかに(かつての彼の選好に合致するものではあるが)彼の選好充足にはならないだろう。それと同様で、1つ目のケースでは、現在の妻の選好はかつての彼女の選好とは異なるし、2つ目のケースでは、受賞者発表の時点でカナダ研究者は(死んでいたので)ノーベル賞受賞を選好しておらず、受賞発表は選好を満たさない。したがって、これらは「選好充足しても幸福にならない」ケースではないのではないか。…と書いてる途中で、「じゃあたった今の選好しかその人の選好として認めないの? それ色々まずくね」という批判が浮かんだ。まあだから、どちらにしても、幸福につながる選好の定義は難しい、ということなんだろう。

p.204)「カント引用は…」。どこに引用されてるのか、本気で見つからない。

p.219)「同時に日常底に用いたりするのでなければ」。「日常的」の誤植?…と思ったら、仏教用語で「日常底」という言葉がある模様。あとで調べる。

以上。

 

 ところで、最近私が(本書とは無関係に)手に取ったいくつかの本によれば、功利主義者は必ず利己主義的傾向を持っていて、極端な場合世界は亡びても自分だけ助かればいいというところまで至る(*1)、のであり、また、ベンタムの思想は、ヨーロッパの恥ずべき日々に確立された「快楽苦痛に関する皮肉簿記学」であり(*2)、もはや、日本精神界では「浅薄」なものとしてあまり顧みられず英国でもムーアによる批判以来(理論倫理学説としては)過去の思想となっている(*3)、のであった。そんな中で、私が本書によって功利主義に入門できたのは、幸運だったと言えるだろう。

==========

(*1)井上哲次郎日本魂と米・英の功利主義」、『日本公論』1943年8月号所収、p.6。なお井上によれば、ベンタム・J.S.ミル・シジウィク・墨子荀子荻生徂徠・太宰春台などが功利主義である

(*2)アンドレ・ブルトン澁澤龍彦訳)「ルイス・キャロル」、『澁澤龍彦翻訳全集12』所収、1997年(仏語底本は1950年)、pp.313-314。ベンタムへの言及は、ルイ・アラゴン言葉としてブルトン引用しているもの

(*3)『世界古典名著:総解説 改訂新版』自由国民社2001年、p.204。

2012-06-18

http://anond.hatelabo.jp/20120618114815

その説明自体が功利主義的説明で歴史を説明した近代歴史観な上に

日本長期間に渡って儒教を輸入してきて、各時代毎に儒教観にも変化があるから

今まで本当にそれを理由に採用されてきたのかは、

現代自分価値観との相違を考慮に入れずには答えられないのでは。

「当たり前と思っていた」では考えたこともありませんでしたと同じ答えじゃね?

http://anond.hatelabo.jp/20120618105337

えー、煽るだけで説明してくれないの?

日本における儒教教育は、功利主義的な観点から採用されていたと思うがね。

ちなみにこの根拠は?

http://anond.hatelabo.jp/20120618102043

道徳によって社会的効用生まれる。

それが増田道徳定義だとしても、

実利的効用が生まれることをもって直接説くのが功利主義道徳で、

儒教道徳とは必ずしもそうではない。

自分社会保障になるので子供を育てましょうは功利主義的思考だ。

なのに儒教道徳を普及させるべきと言いながら、功利主義的思考を

どうして「どうみても「子供にとっての道徳」」だと言うのか分からんよ。

すまんがもっと詳しく解説頼む。

http://anond.hatelabo.jp/20120618100040

親の育児放棄を問題にしているのに、どうして子による親への世話が第一なんて話になるんだ?

もし、自分社会保障になるので子供を育てましょうってことだとしたら、それは功利主義利己心に訴えてるだけで、道徳じゃないだろ。

2012-05-18

Google女子大生学費支援が批判されるべきたったつの理由

study giftによる学費寄付要求で、「人生舐めてる」「留年自業自得」「いや、ソーシャル時代の新しい資金支援だ。ぐだぐだ言うな」とか色々意見が交わされている。

けれども、そんな複雑な理屈を考えなくても、この女子大生を支援することに正義がないことはたった一言表現できる。


自分で稼げるのに、人に頼っているか


これだけでいいよね。そして、これがある限り、どれだけ「ソーシャルから新しい時代から!」「世の中には学費で困っている人がたくさんいる」とかいっても共感されないよ。


だってさ、生活保護を申請している人が、五体満足バリバリ働けるのに「僕の条件に合う仕事がなくて、肉体労働とか嫌なんです。だから、支援して下さい」って言ってたら、それは叩かれるじゃない。彼女を擁護するのは、生活保護ニートを擁護するのと、かなり近くなる(稼げるのに、人に頼るという意味で)


彼女を支援するのは、「良きこと」ですらない

なぜなら、功利主義的な視点で考えれば、社会的資源はより必要なところに、効率的に分配されるのが正義にかなうからだ。


この視点で、坂口さんの案件を考えると、

・知名度があり

・ファンが居て(Google+の57,000人のファン)

仕事を運んでくれる人脈があって(家入さんそのほか)

・実際に、Google+の知名度を活かした仕事をしている


ならば、間違いなく一年間で100万円は稼げるよね。人の力を借りる必要がない。これを擁護するのは、職歴も十分で、健康で若い人がニートをやることを許容する議論と、何も変わらない。


から彼女社会的資源を分配するのは、合理的ではないと結論づけられる。


たとえば、誰かがコメントしていたけど、「このお金アフリカ寄付したら、どれだけの子供の命が救えるのかな。たとえば、5000円でも、350人分の予防接種が用意できるよね。」って議論になるわけ。


寄付の「正義性」というのは、偏っている資源の合理的な再分配だよね。だから、このサービスには全く正義がない。なぜなら、既に存在しているパワーバランスを、より偏った方向に傾けているだけだから


いっちゃえば、こうなるよね、


ネットで有名な人達が、簡単にお金を調達できるサービスだよ!応援してね!てへぺろ


いやー、少なくてもおにいさんは共感できないっすわ。

2012-04-15

倫理について一考。

道徳の理由』という本(かなりの古書だ!)を再読したのでちょろっと。

※私はethicsに関しては全くの素人であり、ロールズ正義論でなり、ミル功利主義なりもまともに読んでいない。

倫理というのはヴィトゲンシュタイン的に言えば一つの言語ゲーム。すなわち、そこに所属している成員に対して要請される規則といえる。もっというと、その社会所属している成員に対し、「私」が期待するルール

まりのこと、その規則は「私」には適用されないと見る。

すると、倫理を私に適用する理由はないように見える。その通り、「ない」とするのが私の見方だ。つまり倫理とていうのは、あくまで、「オレ」から「オマエ」に発信される言語しかない。

Why be moral? という語は本質的why should I be moral?と Why should you be moral? に分別される。後者の方が本質的であるとみるのだ。

しかしながら、倫理には自分自身も縛られる。本来的には「私が道徳を守らねばならない」理由は何も無い。

ただし、この規則は両刃の剣であって、倫理はこの概念が、その社会所属する全員に適用される時のみ、「倫理」と呼ばれる。つまり倫理社会所属員全員からなる相互監視システムである

この考えとしては、倫理っつーもんは、村の掟となんら変わるところが無いわけだ。

補足すると、社会は多層的であるから、メンバA,B,Cが社会Xを形成し、同時に同じメンバが社会Zを形成している、ということは用意に想起しうる。人は一枚岩の思考で動いていない。

例えば、クラスの全員が、いじめは慎むべき行動だ、と考えている。(社会成員Xのメンバ)。しかし、同時に、クラスリーダーであるAに対して不快な行動をとった者に対し、いじめを行うことは推奨される、と考えている。(社会成員Zのメンバ)

話を戻す。この相互監視システムは、相互監視であるから、単体では監視機能は働かない(とひとまず考えることにする。まず主体をyouにおくのだ!)つまり密室状況において倫理を構成する要素は何も無い。

これは幾分思考実験的な状況だ。現実的な意味密室などこの世に存在し得ないといえる。猫箱の中で倫理は問えない。しかし、実質的な猫箱なんて社会にはなかなか存在しないのだ。

まぁ、例えばあなたと一人を除いて他の観測者がいない世界で、どうやって第三者があなた監視するのだ、という問題である。誰も監視できないじゃないか。このような環境下では、そもそも倫理という語が成立しない、というのが原語ゲーム的な倫理観です。(実際には、このような環境化でも倫理存在しうる。例えば一人で行う行為に対する倫理の第二者から倫理的判断や、意識の無い第二者に対して行う第一者に対する第二者の遡及倫理判断など。例えば、地球存在者一号たるあなた存在者二号が気絶している間にアッー!アッー!して、意識がある第二者が何らかの要因でそのことに気づくなど。尻が痛いとか。)

更に問題をややこしくするのが、相互監視システムによって監視されていることは、人間自分ではなかなか感知できないことにある。知能の高い社会の成員はこの言語ゲームによる制裁を受けないように、証拠の残る反倫理的行動は取らないように務めるが、知能の低い成員はそうではない。また、どこからその制裁の追求が来るかわからいから、人はうかつな行動が取れない。

さらさらに、言語ゲームでよく言われる話だが、人は一人でも社会を形成する。人は自分と対話することができるが、これは自分のうちに一つの社会を形成しているに等しい。ここでも言語ゲームによる制裁は成立する。これが自分倫理的に行動せしめる要因の一つだと思う。人は一貫した規則性に基づいて行動するような文化的特性を獲得しており(そりゃ獲得してない人もいるだろうが)、その中には動物本能から立脚すると思われる特定の行動を含む、ある種の言語ゲーム存在するのだ。これがWhy shoud I be moralに対する根源的回答になるのではないかと思う。

 トートロジーで何も言ってないじゃないかとか言われそうだが。

まり、人が倫理的に、道義的に何かせねばならないと判断をする時、そこには価値判断が伴っている。その価値判断は、本能的形質的文化的なさまざまな要因から定められた判断を取るのだが、それにいいもわるいもないということになる。だって、判断してんの本人だもの。勿論、第三者が介入していい、とか、わるい、とか論じることはできるが、そいつは俺らの言語ゲームであって、彼の言語ゲームではないのである

逆説的に、自分自分行為道徳的に正しいかどうかを判断しているというのは、極めて社会的アクションだと言える。そういうわけでは、監視者としての神の存在というのは、実に都合のいい概念なのかもしれないね

倫理が善概念と結びつくことが多いのは、この種の言語ゲームひとつロールモデルを通じて語られることが多いからではないかと思う。

例えば、ギャングの掟なるものを考えてみる。これは、ギャングが他のギャングにあってそうあって欲しい姿であり、かつ、ある程度自分がそうありたいと望む姿になるだろう。これは、ひとつ共同幻想であるとも言える。

さてさて、このような言語ゲームによる倫理の規定は、多くの倫理的問題をすっ飛ばしてきているようだが、少なくとも功利主義倫理論よりはうまく倫理現実のありようを捉えているような気もするが、なにぶん門外漢なので、功利主義的説明で説明でき、言語ゲーム的説明では説明できない、本質的倫理的判断に関する問題があったらご指摘願いたい。まる。

※書いてからコンマ1秒考えたけど、結局これはアプローチの仕方の問題であって、何が正義であるか、何が道徳であるかということに関しては「なんでもいいんだけどさ」で逃げてるなぁ。だから、「なぜ道徳的であらねばならないか」はぼんやりと答えているけど、「道徳であるとは(ソクラテス的な意味を前提した上で)なんであるか」ということに対しては、回答を拒否している。それこそ言語ゲームによるよね、と。イワシを祭ろうが隣人を石でぶとうがしったこっちゃねーや、という考えだ。そして、列車急停止のジレンマに対してこんなとんでもない回答を出すのだ。「おい、目の前の人間の顔色伺えよ。どっち答えて欲しそうなんだよ。そっちって言っとけ。」

※そもそも、真とか善とか美とか言い出したら定義論以外いいようがないじゃないか、という無限後退に陥っている。

2011-10-14

学力のあるクズニートクズい手でクズを脱する6つのステップ

学力がある」とは旧帝早慶一工ないしはそれに順ずる偏差値を有していた者とする。

序論

学力があるニート」とは要するにフミヒロ氏(参照1参照2参照3)のような人物である

要するに人生において重要とされる時期に外的・内的な要因により大ゴケした連中である。本人は「こんなはずでは」と思っている。一大事である。そして、他人にとっては正直、別に珍しくもない。

多くのエリートが夢想する「汚点のない人生」への夢を挫かれた哀れな人種である。本人もさすがにそれは諦めている場合が多い。同窓会へも行けなくなっている。己の栄誉は既に失われた。

ならば彼らが次に望むものは何か。金である。最低4桁は欲しいと思っている。

だが親は、もっと諦めている場合が多い。どこでもいいか社会復帰してくれ、健康ならばそれでよい、と思っている。

その意識差に彼らは苦しんでいる。元よりそこを妥協できる人種ならばニートにはならず高学歴ワープアになっているはずなのだがそこは親には分からない。

まり大きな声で言えないのだが、高偏差値ニートは彼の代から成り上がれそうだった、という場合が多い。

そこで私は彼らの夢を叶えるべく少しだけ知恵を絞ってみた。役立てば幸いである。

ステップ1:家を出ようと決意する

そのまんま。彼らが籠もっているのはプライド現実と親の妥協した望みの間で動けなくなっていることにある。

ステップ2:軍資金確保

家を出るには金がいる。ニートの家はたとえるなら、共産国である私有財産などない。小遣いもあってないようなものである。自室の物すら半分は親の物である。その情けなさが彼らをより卑屈にさせるのであるが、それは今はともかく、金がないと家を出られない。

ではどうするか。ナマポである

ステップ3:鬱になる

もちろん仮病である

代表的なSSRI(参照)とマイナートランキライザー(参照)の名前と薬効、副作用を一通り暗記しよう。wikipediaがあれば3時間も要らないであろう。

次にメンヘラの思考・行動様式を観察・模倣しよう。2chメンタルヘルス板、メンヘルサロン板が最適である。そこで鬱になった人が投げかけている相談日常でどう支障をきたしているか、どういう愚痴を言っているか、を徹底的に学ぶである。3ヶ月も要せずにあなたは彼らの「理解者」となるであろう。

そして通院である矛盾のないストーリーを雄弁に、しかし鬱々と語ろう。医者は関心なさげにするであろうが、人生の汚点についても延々と苦しげに自分語りをしよう。ひき篭もり始めたあたりからその兆候があったと述べるのがよい。そして診断書をもらおう。驚くべきほど簡単にもらえる。もちろん薬など飲んではいけない。病んでない者には危険である

ステップ4:ハロワへ行こう

ハロワはロクに採用する気もない企業がたくさんいる。とりあえず受けてみて、4つほど落ちよう。面接時には必ず重度の鬱病であることを暴露することを忘れずに。万一受かってしまった場合採用後鬱を理由に仕事ドタキャンしよう。数回ドタキャンすればハロワで就けるような職場なぞすぐにクビになる。クビになったという事実もかなり大事である。後々、必ず役立つ。

ステップ5:役所へ行こう

ナマポ申請である。親に見捨てられ、鬱で、仕事もできない。自治体によるが、楽勝である。おめでとう。

ステップ6:勉強しよう

ナマポで生き残れとはもちろん言っていない。自力で経済的に成功しないと高学歴ニート成仏できない。勉強しよう。

士業がよいだろう。東大行くよりはよほど楽である。なんなら国立医学部でもいいだろう。

理系高学歴なら3年24時間フル活用すれば地域を選ばなければ正直なんとでもなる。

高校物理など大卒には遊びであることはエリートニートには周知のことであろう。

ギャンブルや酒をしなければ勉強のための費用など簡単なものだ。勉強は近場の図書館でするといいだろう。

勉強していることは役所の連中には隠しておこう。参考書が見つかったら「しようとしたが鬱でまるで手がつかぬのだ、社会復帰したいのだが」と悲しげに言おう。

医学部の学費だが、長年ニートを養えるような家庭なら大丈夫だ。医学部なら学資ローンや奨学金も楽勝である安心して偏差値レースに舞い戻るがよい。

最後

以上である。やってみれば分かるが、勉強できる人間であれば驚くほど簡単である

親と医者役人納税者を欺くことになるが、どうせ今のままでは余計社会お荷物となるであろうし、

功利主義的に考えればこれが最適解である

長期的に考えれば実利的には誰もが得をする。win-winである

これを読んだ高学歴クズは是非一考することを切に願う次第だ。

追記

医学部に受かるのか」という声が多いが、前提として当エントリの対象者は「勉強しかできぬクズ」であり、そのような方は残念ながら増田の念頭に初めから含まれておりません。

2011-07-26

http://anond.hatelabo.jp/20110725004759



功利主義的に考えるか、

定言的に考えるか、

大枠はそれだな、

ハーバード白熱教室」的には。

増田は定言的だな。



といっても、

増田の展開している議論は、

『"中絶された子"も含めた功利主義

であるが。



モテる現代思想女子力を磨くための4つの心得」的に言えば、

ロゴス中心主義的で、

脱構築してない感じ。



まあどこまで行っても、

"人間人間でないもの"の境界が発生して、

増田のような"人間"が騒ぐ。



デコデコデコン! デコデコデコン!」

http://anond.hatelabo.jp/20110725004759

はてな民は無神論者が多いようだが、こういう話題になると本質的な弱点を露呈する。

こういう連中に「道義的」とか言っても無意味だし、「違法」とかいってもあまり意味はない。

かれらは単に功利主義からリスクの低いほうに、楽なほうへとなびくだけで、そこに道徳やら、思想やら微塵もない。はてサが、時に平和主義的な主張をするのも、命が大切だからとかでなくて、たんにそっちの方が楽だからであり誤解してはいけない。ナチズムに反対するのも、たまたま周りが幸いにもそういう環境からなだけ。こんなお気楽な「思想」などあったものではない。こういう連中に、一族皆殺しにされて自分も殺られるとなっても反ナチを唱えるだけの気概などないだろう。そもそもたかが障害児一人かかえるくらいで(それは並大抵のことではないことは分かったうえでいうが)安易な人殺しに走るという発想が軟弱この上ない。そんな奴は、たかだか千万くらい借金かかえたぐらいで人殺ししかねない脆弱な連中だ。ちなみにここでいう人殺しというのは自殺も含む。

中絶は親の権利」という主張はまったく論外。おいおい、そんなカスみたいな理由で人殺しする権利をいつ神がお前に与えたと言うのか?

そんな輩には、お前は、一体どの面さげて神の前に立つつもりだ!と叱り飛ばせば片付く話のはずだ。

もしそいつらがそれでもまだリチャード・ドーキンス片手に適者生存!とかほざいていたら、その時は全くお手上げなので、もう神の憐れみを願うしかないな。

2011-03-21

http://anond.hatelabo.jp/20110321152943

功利主義的に「最大多数の最大幸福」だけを考えれば、原発過疎地につくって良かったと言える。

原発に限った話ではなく、都市部の水源を確保するために山奥の村ダム底に沈めるのも同じこと。

都市機能は田舎の村落を潰して成り立っている。

2011-03-17

http://anond.hatelabo.jp/20110317011650

おへんじありがとうごいまう。

 

倫理学の領域なんでしょうかねその先は。

 

たま功利主義の主体を自身の心情にしてみる?とか?

http://anond.hatelabo.jp/20110317010041

そのとおりだと思います。

「全ての政治思想に優劣をつけない」のが政治学ですが、結果として功利主義ニヒリズムといった特定思想と相性が良くなっちゃてる、という矛盾が存在していると思いますw

そこで「だから功利主義万歳!」ではなく「その指向は「相性」や「趣味」という主観的な好み程度の話なんだけどね」という引いた視点が政治学徒としての一線なんですが。

http://anond.hatelabo.jp/20110317003619

>根拠が幻想からといってそこに実際に心情(例えば自分自身の愛国心はこれに含まれます)が生じてしまっている以上、その心情をを特に否定する必要も無い、という話です。ただ(例えば)「自分愛国心」のようなものに普遍性のある根拠を見いだせない以上、それを喧伝するような行動に対しては非常に腰が重くなっていることを否定できません。

なるほどなるほど。政治学をやるとそうなるのですね。あなたはこの学問からアイデンティティ形成において強く影響を受けているものとお見受けしました

 

学ぶほどに客観的な事実普遍的根拠のなさ)のなかで主観的心情の確立というのは難しくなっていくのでしょうね。

 

そこで落ち着くのは功利主義かー。

 

俺はどう行動すべきなんだー。主観的心情の問題なのでしょうね。そこが分かって少しはましになったかな?

 

ありがとうございやした

2011-03-07

これからの「正義」の話をしよう の話をしよう (読書感想文

日本始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。

シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。

ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範適用の仕方を検証している。

サンデル教授はこれまで社会規範適用されてきた社会市場規範適用するという最近の風潮を危惧している。

それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。

そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会幸福への試金石になるかもしれない。

宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授コミュニタリアン共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。

つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。

NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授功利主義自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。

5章以降のカントの示した人生観ロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。

人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。

これまでに生きられたあらゆる物語はある種の目的論的特性を帯びている

自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語解釈している。

自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、

選択とは物語解釈から生まれるもので、意志が支配する行為ではな

物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲームロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。

そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアン正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。

サンデル教授功利主義自由主義共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した

それが、 これからの「正義」の話をしよう なのだと思った。

実際、目的論的な考えは心理学でも注目されているように思う。

心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。

フロー英語Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。

チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。

1. 明確な目的(予想と法則認識できる)

2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)

3. 自己に対する意識感覚の低下、活動と意識の融合。

4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更

5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)

6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)

7. 状況や活動を自分で制御している感覚

8. 活動に本質的価値がある、だから活動が苦にならない。

フロー経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。

フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])

目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。

さらに、自己実現理論も紹介したい。

自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者アブラハムマズローが、「人間自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層理論したものである。又、これは、「マズロー欲求段階説」とも称される。

マズローは、人間の基本的欲求を低次から

1. 生理的欲求(physiological need

2. 安全の欲求(safety need

3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)

4. 承認の欲求(esteem)

5. 自己実現の欲求(self actualization

の5段階に分類した

自己超越

マズロー晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である自己超越者(transcenders)の特徴は

1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている

2. 「在ること」(Being)のレベルにおいて生きている

3. 統合された意識を持つ

4. 落ち着いていて、瞑想的な認知をする

5. 深い洞察を得た経験が、今までにある

6. 他者の不幸に罪悪感を抱く

7. 創造である

8. 謙虚である

9. 聡明である

10. 多視点的な思考ができる

11. 外見は普通であるvery normal on the outside)

マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能であるマズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。

(自己実現理論 :wikipediahttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])

この自己実現理論自己超越という考え方も中々興味深い。

フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的認識することが重要であることを示しているように思える。

2011-01-28

日本人はきめ細かい商売をするから世界で通用するという主張への疑問

日本人はきめ細かい

その、きめ細かいサービス世界で展開すればさらにシャアを拡大することが出来るという甘言

経済新聞経済系の雑誌でよく見るオジサマたちの大好きなフレーズ

それって本当だろうか?

ふと、夕刊を読んでいてそう思った。

ベンサムじゃないが功利主義の立場からすれば

同じ値段のものならば品質が良いものを選ぶのは当然だ

どこの世界だって当然だろう。

だけど、それは社会が循環しているということを一切考慮に入れなければだ

品質がいい物が売れて 品質が悪いものが売れない

だが自分品質の悪いほうを作っている工場の従業員だったらどうだ?

同じ値段でさらに品質がいいものがあれば

自分達も品質を上げないと生活できなくなってしま

しか品質を上げるために努力しても同じ値段で同じように品質がいいものがあるのだから

別段給料は増えない(一応給料が減ることは避けられる)

つまり、高品質のものばかり選ぶという行為は間接的に自分たちの労働への負担増の促進でもあるのだ。

それが眼に見えていない純粋な人たちだけがこの世界存在していて

残業を月に150時間超もしているような人間たちの作った製品を喜んで買うだろうか?

製品なら顔が見えないからまだしも

顔の見えるサービス業ならどうだろう?

自分がこんなコトさせられたら屈辱的だと思うような

過剰な接客をする人たちの店ばかり喜ぶだろうか?

そういう店が繁盛することによって自分たちもそれを真似しなきゃいけなくなるかも

なんて

微塵も思わない素朴な人々だろうか?

世界中の人々は

それでも日本式のきめ細かさを尊ぶだろうか?

日本人はもしかしたら、その視点がなかったからこうなってしまったんじゃないのか?

きめ細かさが発展したのは

なにも日本人の気質が素晴らしかったのではな

ただ単純にそういう狡賢さがなかったのではないだろうか?

人に求めれば求められるようになるから程々のところで妥協しておかなくちゃ

そういう計算が働いてなかったか

過剰に求め過剰に求められるようになり

次第に異常なきめ細かさなんてものが出来てしまったんじゃないのか?

世界はその自虐的な態度を見透かして、

気持ちが悪いと避けることはないのだろうか?

きめ細かさに病的な臭を感じ取り

逃げることはないのだろうか?

海外に出たこともない私には分からないけれど

ふと、そう疑問に思った

多少不器用でも楽しそうに商売している人間からモノを買いたいと思うじゃないか

だって自分たちを傷めつけてまで品質を追求された人間ばかりをもてはやすんじゃ

自分たちも自虐的な商売をしないといけなくなることは眼に見えているか

品質のいいものを買う代わりに見えてくる

将来の自分への虐待が怖くて

手を出せなくなるような気がするんだ

徹底したきめ細かさ

薄ら寒く感じた

2010-12-02

『有限的世界観』と『共通性』

 有限的世界観においては、共通性が捨象される。

 たとえば一本の線があったとして、線を線たらしめるものはすなわち共通性である

 しかし、功利主義に代表されるような有限的世界観において、共通性は捨象されてしまうのである

 つまり、線は線たりえないのだ。


 人間性とは、すなわち線のようなものだろう。

 時空という断絶を超えて繋がっていくところの、線たる存在こそが、人間なのであり、また自己自身と言うべきものなのだろう。

 しかし有限的な世界観はそんな自己を、無意味な対象の集合体にしてしまう。

 自己は、有限的世界観において、いわば分解されてしまうのである


 勿論、我々には多くの部分において、有限性が寄り添っている。

 だから、有限性を全て捨象するわけにはいけないのであり、我々は依存の対象である存在を必要としているのだ。

 しかし、だからといって有限性のみによってでは、自己確立できないとも言えるのである

2010-09-13

サンデル先生

「これからの正義の話をしよう」を読みながら思った。

自らの属性の無い匿名掲示板で、その場その場でリバタリアニズム功利主義の間で立ち位置を変えていけば、いくらでも他者を「論破」可能だよなあ、と。

2010-09-04

http://anond.hatelabo.jp/20100904073423

そのような(ある意味で)功利主義的な理由がないと、

愚痴を言うのをやめることができないというのはどーなんだ?

2010-08-25

程度の差こそあれ、障害を負ったオスを、健康なメスが選ぶことは稀である。これは生物学的に正しい。当然ながら強い子孫を残さねばならないのだから。「愛」という概念の通用しない利己的な生物学本能をもつ以上、その選択は論理的に的確であり、誰からも非難される理由もない。

この選択の正当性について、現代の人間場合について考えてみよう。障害を負った男性女性が強いて好む理由も、ひとつもない。だとすると、障害を負った男性は直ちに排除されるか、いかなる支援も享受することなくのたれ死ぬべきか?大半の人はNOと答えるだろう。

なぜか。「個」の尊厳が全く無視されているからである。多くの人は「そんなことはあってはならない」と感じる。それは功利主義的な論理でもなく、もはやきわめて「道徳」的な問題である。だが「道徳的な人々」が必ずしも健康男性を押しのけて障害をもつ男性を選ぶか?答えはNOである。

その根拠については私自身の経験上においてもよく知っている。健康男性を押しのけてまで障害をもつ男性を「選ばなければならない」理由もないのである。もしも障害のある男性に強い好意を女性が抱いたとしても、彼女は激しく葛藤し、将来を悲観する。道徳的に舗装された現代社会においても、葛藤・悲観・悔悟に押しつぶされる前に障害のある男性から逃避する行為は、誰にも責められないのである。苦しんだ女性は、たとえ逃避する道を選んだとしても、苦しんだだけでも賞賛に値すると、私は思っている。なぜなら、その問題において「苦しむことができる」という事実それだけで、彼女は「道徳」を実践したからである。道徳を語ること及び支援することと、実践することの間には依然として断絶があるからである。道徳を声高に語ることは容易い。だが実践し、苦悩する人は、稀である。

ならば、己れの障害のために、男性絶望すべきか?次々と己れのもとを去ってゆく女性たちを目にして、絶望することは「正義」か?答えは断じてNOである。それは思考停止と同じ罪を負っている。思考及び行動を必要以上に自粛することは、己れで己れの「個」を卑しめることであるからだ。障害をもつ己れが絶望に任せ、己れの「個」の尊厳を卑しめる権利もまた、己れにはないのである。「個」や「道徳」といった問題は本来、そのようにナイーヴ自己完結するものではないからである。

2010-06-11

最小不幸社会=国民安楽死政策?

  • 菅直人新総理が新政権目標として掲げた「最小不幸社会専門用語では「消極的功利主義Negative Utilitarianism)」と呼ばれる。実はこの立場、一見すると良さそうだが、深く考えるとうまくいかない立場の典型として知られている。
  • まず、文字通り不幸の最小化が目標なら、正しい政策は国民全員(あるいは人類全員)を安楽死させることだ。人がいなくなれば不幸はゼロになり、当然に最小化するからだ。
  • こう書くと「死ぬこと自体が不幸ではないか」と反論する人がいるだろうが、この反論は当たらない。なぜなら人は誰しもいつか必ず死ぬので、「死ぬことによる不幸」の総量は、安楽死政策を実施しても、長期的には何ら変化しないからだ。
  • あるいは、「死んでしまったら、生きていたらできたであろう様々な楽しいことができなくなる。それが不幸だ」という反論もあるかもしれない。だが、このように言う人は、あることを暗黙のうちに前提としている。それは、幸福と不幸が相殺可能ということだ。しかし、幸福と不幸が相殺可能であることを認めてしまったら、不幸の最小化は幸福の最大化と同じことになり、「最小不幸社会」というフレーズには何の新味も無くなる
  • 以上のことはちょっと考えれば、あるいはちょっと調べれば分かるはずだ。にもかかわらず「最小不幸社会」を新政権目標として全世界に掲げてしまう辺りに、政権と通じるナイーブさを感じる、と言ったら言い過ぎだろうか。

2010-04-24

http://anond.hatelabo.jp/20100424200315

功利主義と言う名前も知らない大量の天然功利主義者らがどちらも何の躊躇もなくしてるんじゃないの

診断書を持ち寄って供託金も収める仕組みのセーフセックスな即ハメSNSとかあってもいいと思うけどね。俺は。

2010-03-01

http://anond.hatelabo.jp/20100301023202

まーそーです。でも我々の場合、民主主義っつっても立憲民主主義なので、憲法の部分でなんか粘らないと、本当にダメ民主主義になってしまいます。


構造主義内田樹の解説本くらいしか知らないんですよね。構造と(差異で一個一個区別される)要素は一体で切り離せないということと、「作者がどう思ってるかではなく、どう読者に読まれるかが重要だ」という理解しか持ってないのです。

私が読んだことのある哲学者といったらベンサムミル功利主義系)とカントヘーゲルドイツ観念論系)とフッサールハイデガーレヴィナス現象学系)で、構造主義とはつながってないんですね。済みません。(そういやこの前大学の頃の『全体性と無限』のメモ書きをはてなダイアリーに要約しました。大変でした)

構造主義に批判されている実存主義もよく分からない世界です。(wikipediaにはハイデガーには実存主義に大きな影響を与えたと書いてあるが、現存在のくだりだろうか)

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