はてなキーワード: テレビ番組とは
よくネタとしてあるじゃん、恋人や夫が全然愛してるよとか好きだよとか言ってくれないっていう悩み。テレビ番組の企画でもあるよね、普段愛してるって伝えることのない奥さんに愛してるって言ったらどんな反応するか見てみましょう、みたいなね。私らみたいな女からしたらやっぱり愛してるって言ってほしい、それ本当の気持ち。でも男は恥ずかしがって言わない言えない普段から言ってないからいざ言おうとしてもやっぱり恥ずかしくて言えない。簡単な言葉なのに。なんでだろう?って私真剣に考えてみたんだよね。私?私なら簡単に言えるよ「愛してる」何回でもね。
自分がやってもらって嬉しいことを他人にもしましょう、って言うけどさ、やってもらって嬉しいことは男女で違うわけ。自分が愛してるって言って欲しいからと言って旦那さんや彼氏に愛してるって言っても効果は薄いんじゃないかと思って、色々考えた。
そこでタイトルにも書いたけど、男への「いつもありがとう」は女への「愛してる」と同義説、を私は提唱したい。
よく言われるじゃん、ヤリチンとかモテる男は簡単に愛してるとか好きだよとか囁けるって。それと同じなのさ。女も。あのね、思い返してみたら顔はそうでもないけど、すごく男にモテてた女の子の友達がいた。やっぱりものすごい気軽に感謝の気持ちを表しまくってたよね。周りの男も、彼女が本当に何回もありがとうって言ってくれて嬉しかった、って言ってたし。
私は世間のヤリチンとかモテモテだったその彼女を見習おうと思った。やっぱり最初恥ずかしいわけ。普段言い慣れてないから。「大好き」は簡単に言えても、「いつもありがとう」は照れくさくて簡単に言えないの。いきなりそんなこと言ったら訝しがられないかな?とか思っちゃうわけ。これ完全に妻に「愛してる」って言えない世の旦那さんの心理と一致。でも私は決めたんだ。ヤリチンになるヤリチンになろう私はヤリチンになるんだと自分に言い聞かせて、夫にことあるごとに感謝の気持ちを述べまくった。もちろんバリエーションは色々あるけどね。基本的には「いつもありがとう」がベースかな。本当に喜んでくれるようになってなんか知らないけど夫婦仲が劇的に良くなったよね。
「愛してる」「大好きだよ」と言われたい女たちへ。「いつもありがとう」と言いまくれ。「愛してる」と言われたときの自分が男になった時の顔が見れるぞ。
家へ帰るのに着いていくとか、マニアックな趣味の素人に話を聞くとか、素人参加型の番組は多いけれど、数年前に一度だけ出たことがある。
それは自分がとある行動を記録するブログを毎日やっていたからで(特定が怖いのでぼかす)、ある日それを取り上げたいとテレビ番組のスタッフが連絡してきた。
まずは電話で話したいと30分ほど話して(たぶん下調べの人)、次にディレクターらと面接。
よく告発で書かれるようなテレビマン特有の上から目線はうっすら感じたけれど、頑張って平身低頭で接しようとしているのは感じたので、そこはまぁ現代に対応しようとはしているんだなとスルーしていた。隠しきれてなかったけど。もちろん出演料の話はなかったのだけれど。
その場で出演をお願いしたいです、となり、資料を貸してください、台本これです、といったやりとりがあってスタジオ収録。
自分は打ち合わせの段階からガチガチに緊張していたけれど、「○○さん(MCのお笑い芸人)はプロなので、多少喋れなくても回してくれます」「喋れているところを使うので、自由にやってくれて大丈夫です」とのこと。ちなみに収録まで、MCと顔を合わせることはなかった。
スタジオで顔を合わせたお笑い芸人は、画面の印象よりも身体がでかく、威圧感があった。それもあってか、収録が始まると、自分はしどろもどろになってまともに話せなかった。そして、芸人がしたある質問に「えーっと……」と言いよどんでいると、「本当に詳しい人なの?」とツッコミが入った。そこからが地獄だった。
自分は「詳しいふりをしているけど、本当は詳しくない人」としていじられだしたのだ。もう頭のなかが真っ白になって、「いやいやいや」と否定するぐらいしかできなくなった。
「いやいやいや……(黙ってしまう)」
「ほら! 知らないじゃん!」
爆笑するスタッフたち。それでも必死にこちらが話すと、いかにもそれはテレビ的につまらないというような表情で、「もっとほかにないんですか?」。すっかり「ダメな素人」というキャラ付けがされてしまった。
そこから先のことはよく覚えていない。たぶんうまいこと話をまとめてくれたのだとは思う。しかし、あの「本当に詳しい人なの?」と言ったときの、あの獲物を見つけた獣のような鋭い目。その後の怒濤のいじり。ここが美味しい部分だ、食い荒らしてやろう、というあの暴力性は、すっかりトラウマになっている。
収録後はADらしき人に「ありがとうございました」と誘導され、いかにももうお払い箱といった感じでものの数分で外に追い出された。しばらく呆然として、何も考えられずにひたすら歩いた。1時間ほどだったと思う。足が疲れるとたまたまあったカフェに入って、そこから2時間近くは茫然自失で座っていた。
ショックが強すぎて、テレビ出演をブログで告知する気にもなれなかった。オンエアーも見ていない。DVDが送られてきて、それはまだ持っているけれど……。
とにかくそれ以来、素人が芸人と話すような番組は冷静に見られない。あのときの感覚がよみがえってしまう。確かに芸人はプロだった。テレビ的に面白くして終わらせた。しかし、それは暴力だった。同じ思いをしている人間がほかにたくさんいるのだろうと、自分はテレビが嫌いになってしまった。
女は「自分が嫌いな人間が不幸じゃないと許せない」って思考の人間が多いんだよ
もちろん男だって他人、それも気に食わない人間の不幸はメシウマだけど、そういう人が不幸になるために自分が幸福になるためのリソースを大幅に割いたり、不幸になってないことでメンタルのバランスを崩したりすることはあんまりない
はてな民に観てる人はいないかと思うが、人気のテレビ番組に「スカッとジャパン」という番組がある
簡単に言うと気に食わないオッサンやオバサンがイケメンや子供に論破されて万雷の拍手みたいな、いわゆる「嘘松」的な実話風創作話を再現ドラマでやるくだらねー番組なんだけど、明らかに女性をターゲットに作られてるのな
(そもそも「嘘松」って言葉が女性向界隈から生まれた言葉だが)
なんだかんだで女は気に食わない人間が社会的に価値がある存在(イケメンや子供など)や社会そのものからボロクソに否定されるストーリーが大好きなの
逆に言えば自分が嫌いな連中が社会の中で居場所を持っていたり、楽しそうにしてるのが許せないの
自分が見下している存在が自分より幸福であるという事実に「何故アイツが不幸になってないんだ」ということに憤ってるの
まともな人間なら「何故自分はアイツより幸せになれないんだ」と悩むのにね
彼女たちにとってはより良い社会になることなんてどうでもよくて、気に食わない奴ら(今回の場合はキモヲタ)が社会から迫害されて苦しんでることが重要なわけ
いや、彼女たちにとってはキモヲタが皆から抹殺される世の中こそが「良い社会」だから、そういう意味では社会を良くするための活動をしているつもりなのかもしれないけれど
ともかくお前らみたいな「女性様」がいるから、まともな女性まで「ま〜ん」とか言われて馬鹿にされるんだよ
誰か気づいてくれるかなとあえて最後に書き手は女かもしれないと思われるような文章書いたのでちゃんと拾ってくれる人がいてよかった
が、他の連中はどうした
「女だからって決めつけるな」と言いながら私が男だと決めつけて殴りかかってきているようなコメントばかりではないか
「正しい性別である女性様を批判するのは愚かなキモヲタ男に違いない」ってか?
もっともこういう「女性様」を晒し上げたくてこういうこと書いたわけだけどさ、流石に多すぎて暗澹たる気持ちになったわ
それと、目的は釣りだけど書いた内容がまったく本心ではないかというとそうじゃないよ
トラバかブコメでもあったけど男性向けだと底辺キモヲタ向けなろう小説くらいでしか見れない「スカッと話」が、女性向けだといろんな層に向けたコンテンツで見られるんだよ
横増田です。
「虹色定期便」がインパクトあるキルケウイルスなどの舞台設定でSF路線を歩んだのは、実は一年間だけ。1997年のこと。これ以降は、ブラジル移民の話題を扱う群馬県大泉町を舞台とした作品など直球勝負の道徳のドラマ番組が続く。
「虹色定期便」は高学年向けのテレビ番組だから、計算が間違っていなければ、多分日本中で昭和60年生まれと昭和61年生まれしかキルケウイルスの話ができない。
そしてこの年代でも、元増田が指摘する通り全員がSF虹色定期便の話をすることはできない。
元増田への回答になるけれども、「つくってあそぼ」などは夕方とかに番組やっていたから、自然とみんなの印象に残るのだろう。放送期間も長い。ネットでネタにもされる。
一方「虹色定期便」は、道徳の授業で視聴するため、授業構成のなかで視聴しない選択をする学校も結構あるようだ。
俺は昭和60年生まれで、「虹色定期便」をみんな見ていたと思って、∴のイボのキルケウイルスとかアスラとか弓矢とか社会人になった時の同学年に聞いてみたんだが、どうもピンとこない人も多い。忘れてしまったか、授業で扱わなかったのだろう。
ということで、いきなり増田でキルケウイルスの話が出てきてちょっと嬉しかったし、こんなところから同年代が増田してるんだなーと解ったのもなんだか面白く思った。キルケウイルスの話ができるのは日本人の中でもかなり激レアなので、周りの人にも聞いてみると良い。
なんだったのだろうあれは。
素晴らしく感動した。シュタインズゲートのラストを初めて見た時のような感覚を味わった。
もう20年も前の作品とは思えない。
流石に映像の画質や演出、台詞回しは多少古臭さはあったし、突っ込もうと思えばいくらでも突っ込める設定ではある。
一応、あらすじを説明すると。
「おはよう。そして会えないときのために、こんにちは、こんばんは、おやすみなさい」というセリフを爽やかな笑みでよく言う青年だ。
彼は本人も知らぬ間に、自分の人生をずっと世界中に生放送されていた。
彼以外の人間は全て役者で演者だ。近所の人や会社の同僚やそこらへんを歩いている通行人、新聞屋の店員、果ては両親や親友や妻に至るまで。
いや、そもそも彼を取り囲む世界すべてが作り物だ。建物も道路も空も海も何もかも。
『トゥルーマン・ショー』というテレビ番組を面白くするために作られた巨大なドームの中で、彼は何不自由なく暮らしていた。
だがある日彼は日常に疑問を抱く。何かがおかしい。そう思った彼は、その謎を探るべく行動を開始する。
ここまで読んで興味を持った方は、ここから先はネタバレ全開なので、ブラウザバックして本編を見てもらいたい(アマゾンプライムに入っているのであれば今すぐ見れる)
まぁ色々面白いシーンはあるのだが、やはり衝撃的だったのはラストシーンだ。
紆余曲折を得て。
偽物ではない、作られた物ではない、真実の、本当の世界に彼は行こうとしていたのだ。
そしてドームの端っこにあった階段を登ると、EXITと書かれた出口があった。
トゥルーマンはそれを引いた。さぁ行こう、とした所で、彼に背後から声が掛かる。
「聞いてくれ。外に真実などありはしない。私の作った世界こそが真実なんだ。嘘や偽善はあっても、私の世界では、何も恐れるものはない」
プロデューサーは言う。
「君は恐れているんだ。だからそこから出られない。それでいいんだ。よく分かっている」
「ずっと君のことを見てきたんだよ。生まれたとき、初めてよちよち歩きをしたときも。初めて学校に上がった日も、歯が抜けた時のことも知っているぞ」
「君はこの世界を出られない。ここに居るんだ。私と」
プロデューサーはずっとトゥルーマンを見てきた、30年以上も。だからトゥルーマンを実の息子のように思っているのだろう。
言っている内容は残酷だが、語りかける口調はとても優しかった。
しかしトゥルーマンは悩んでいるのか、迷っているのか、押し黙ったままだ。
「トゥルーマン、なにか言ってくれ。生放送なんだぞ! 世界中の人が君を見てるんだ!」
プロデューサーがそういうと、トゥルーマンはようやく反応した、カメラに向かっていつもの爽やかな笑みを浮かべて口を開く。
「会えないときのために、こんにちは、こんばんは、おやすみなさい」
そう言ったあと、演劇が終わったあとの役者がカーテンコールの時によくやるお辞儀をして、新しい世界へと踏み込んでいった。
すごい。素晴らしい。
俺の文章力では、あの爽やかさを、感動を、十分の一も伝えられていないのが口惜しいが。
本当に、気づいたら拍手していた。何度もうなずきながら。
まるで名作落語のオチのような。サッカーやバレーで、ここしか、そこしかないという場所にパスやトスが出たような。
そんな感覚だった。
このオチに何故深く感動したのかと言えば、それはきっとトゥルーマンが成長する瞬間を見れたからだ。
彼はプロデューサーに、怒っても良かった。いや、激怒するのが普通だろう。
だが彼は怒らなかった。何故自分を選んだ、と疑問をぶつける事もせず、プライバシーの侵害だ、訴えてやる! 金を寄越せ! 謝れ!と要求するでもなく。
彼はただ、今までお世話になった世界と視聴者とプロデューサーに感謝した。
本人も知らぬ間に世界中に自分の人生を生中継されていたという凄まじい運命を、彼は受け入れたのだ。笑みさえ浮かべて。
そして最後の最後までトゥルーマン・ショーの中のトゥルーマンを演じきって見せた。
それがすごい。あの場面で、あんなにもスマートかつクールに別れと感謝を告げられるのは、成熟した大人にしか出来ない。
しかしそのシーンに至るまでの彼は、子供だった。妻も親友も居て家も仕事もあったが、それでも彼は子供だったに違いない。
なぜならそれらは、番組を盛り上げるために与えられたものだからだ。彼自身が手に入れたものではないからだ。
しかし彼は、ずっと私の世界に居ろ。ずっとこの世界の子供でいろ、というプロデューサーの言葉を振り切って、自分の意思を貫き通し、ドームから出ていった。
彼の親代わりであるプロデューサーが作った安心かつ安全な作られた世界から出ていき、危険な現実に足を踏み入れ、自分の人生を生きることを決めたのだ。
本当にかっこよかった。
出ていった先の、本当の人生で、トゥルーマンの思うように行かない事もあるだろう。失敗も挫折も経験するに違いない。
あるいはドームに戻りたいと思うくらい、打ちのめされる事もあるかもしれない。
それでも彼ならきっと大丈夫だと思う。彼はもう子供ではないのだから。きっと上手く行くに違いない、と視聴者に思わせてくれる。
そして同時に、トゥルーマンは俺だ、俺たちだ、とも思った。
行きたいと思う道や、やりたい事があっても、それは押し殺される。あるいは自ら押し殺す。
周りの人間や世間から、批判される。誰もが選ぶ道を行けば安心なのに、何故お前はそちらに行くのかと。誰もが我慢しているのに、何故お前だけがやりたいことをやるのか、と。
安心で安全な自分たちと一緒に居ろ、と世間や周りの人間はそう言ってくる。
そう言った言葉に対し、トゥルーマンは、こうすればいいと俺たちに教えてくれた――そんな気さえする。
本当に本当に、素晴らしい映画だった。
ああ、誰かと語り合いたい……。
今から4年前くらいのあるとき、私が「人を馬鹿にするような、差別的な表現は控えた方がいい」と言ったことに対して「そうやって規制ばかりしていたら面白いものは作れない」と反論された。
その反論に対して、私は戦えなかった。そんなの絶対に間違ってると思ったのに、何も言えなかった。それがずっと心にしこりとして残っている。
私は演劇が好きで、高校〜大学3年生までの6年間、演劇部に所属していた。
私が大学で所属していた演劇部は所属人数が多く、私の在籍中は40人くらいはメンバーがいたと思う。
その演劇部は毎年の秋、学園祭にて、1チーム2人〜の小さいチームに分かれて短編劇を作り、学園祭の間じゅう、交代制で絶やさず何かしらの劇を上演し続けるという企画をしていた。
私ももちろん友人たちとチームを作って参加した。
そしていくつか結成されたチームの中に「ホモクラブ」(※仮名)というチームがあった。
ホモクラブのメンバーは私の一つ下の学年の男子を中心に5,6人が集まっていた。
その名前の通り、彼らは「主人公も主人公の恋人役もゲイ」という設定の劇をやっていた。
設定がそうというだけで、テーマは「純愛」だと彼らは謳っていた。確かに細かい設定を無視してストーリーラインだけ見ればそれは「数々の困難を乗り越え主人公と恋人が結ばれる」というもので、少女漫画のような「典型的なラブコメ」を過激なギャグ調に演じることで揶揄するような内容だった。
ただ、彼らは劇中のキャラクターに「ゲイ」という属性を付与していた。
主人公は雄々しく熱血な性格の男性で、恋人役は「一昔前の少女漫画の典型的なか弱くて健気なヒロイン」像をかぶせられた男性だった。
「やめて!僕のために争わないで!めそめそ」といった感じの恋人を、主人公が「俺が守る!」といった感じで熱血に困難を乗り越え、ふたりは結ばれる。
彼らの演劇は「チープで典型的なラブコメが男どうしで、下ネタをまじえつつ繰り広げられる」ことにおかしみを見出すものだった。
私は彼らの演技が不快だった。
彼らの演技に、自分が同性愛者であることで苦しむ人々への配慮というものはなかった。
自分たちとは違う性自認、性的指向の人へのリスペクトは欠片も感じられなかった。
彼らが自分たちとは違う価値観の人を、キモイだとか直接的な表現で差別していたわけではない。
だけど彼らは普段の生活から「ホモ」という単語を仲間内で相手をふざけて馬鹿にする言葉として使っていて、そのノリがまんま舞台に乗っていた。
彼らに話を聞いてみたことはないけれども、きっと実際に自分たちが演じたいキャラクターと近い性的指向の人に取材をしたり、セクシャルマイノリティに関して勉強したりはしてないのではないだろうか。少しでも勉強していたら絶対にしないだろうという表現を、彼らはしていた。
現実に「やめて!僕のために争わないで!めそめそ」といった感じの男性が絶対にいないとは限らないし、そういう人はそれがその人の個性なので、否定するつもりは全くない。
現実の同性愛者が下ネタを全く言わないとも限らない。そういうのが好きな人もいる。
自分とは違う性的指向のキャラクターを描くときには必ずモデルとなる性的志向の人に取材をして、勉強しなければならないのかと言われれば、絶対にした方が良いと私は思うが義務とも言えない。でないと「どこまで勉強すればOKなのか」なんて話になりかねない。
そして私は「ホモ」という言葉を狩りたいわけでもない。文脈によって、それが実在の他人を貶めるために使われるのではないと明らかにした上でその言葉を使うのは、なんら問題ないと思う。
ただ彼らは仲間内で下ネタを楽しむノリをそのまんま、舞台に上げてしまっていたのである。
舞台ということは、少数だったとしても観客がいる。演劇は観客がいてはじめて完成する。
観客席を作って発表する以上、その劇は仲間内の下ネタ披露大会ではない、自分とは違う価値観をもつ観客に見せるものであるはずだ。
彼らは演劇そのものが好きなようで、部内でも特に精力的に活動していた。
あるとき、地域のお祭りの特設ステージで彼ら「ホモクラブ」が劇を上演することになった。彼らのいつもの芸風で。
私はこれはまずいと思って、彼らに「あなたたちの演劇は見てひどく傷つけられる人がいるから、やめた方がいい」と告げた。
チケットを販売してやる公演ならばある程度客層を絞れる。面白そうだと思った人しか見に来ない。
だけどお祭りの特設ステージとなると訳が違う。通りすがりに、何も知らずに観る人が大勢いる。
大通りが一本、歩行者天国になって展開されるような大規模なお祭りだ。年に一度の、市内の人間なら知らない人なんていないようなお祭りだ。
その歩行者天国と繋がっているアーケードに設置された特設ステージが、彼らの舞台になる。
いったいどれだけの人が彼らの演劇を目にするだろう。その中にいったいどれだけ、自分の性的指向に悩む人がいることだろう。
だけど彼らが慕うある先輩は「この世の人間みんなに配慮することなんて不可能だ。そうやって規制ばかりしてたら面白い舞台は作れない」と反論した。
私は何も言えなかった。その意見は絶対に間違ってると思ったのに。
「この世の人間みんなに配慮することなんて不可能」それは正しいと思う。きりがない。
「そんなことない、ハリウッドの作品とか、ポリコレに気を付けた上で面白い作品はたくさんある」と言っても良かったけど、彼らはハリウッドの巨匠じゃない。プロじゃない。そんなものを求められるレベルにない。
そして、どんなに観客のひとりである私が不快に感じても、本人たちが「馬鹿にするつもりはない」「真剣だ」と主張する以上、この人たちには何を言っても無駄だと思った。
だから何も言えなかった。ただ傷つく人がたくさんいると伝えることしか出来なかった。
それ以来ずっと、私は差別に荷担したという罪悪感を抱いている。
全人類に配慮することは不可能だけど、意図的にとある属性を面白可笑しく馬鹿にはしないようにするということは出来るはずだ。
特に、今までいないことにされていたセクシャルマイノリティの人々がネットを通じて手を取り合い発信し、ひどい差別を受けてきたことが顕在化してきたこの時代に、どうしてあえてゲイという属性をネタとして消費できるのか。
彼らはその「ネタ」で傷つく人がたくさんいる、今まで傷つけられてきた、やめてほしいという声を全く無視している。
そしてそういう声を知っていながら彼らを止められなかった私も、加害者だ。
私自身、自分の性的指向がよく分かっていない、揺らいでいるというセクシャルマイノリティのひとりだ。
それにもともとぱっとしない性格で、お世辞にも自分磨きに熱心とは言えないせいで、つまり暗くて不細工の陰キャなせいで、中学生の頃は息苦しい思いをすることもあった。高校に入ってからは、怖くて男子とは業務連絡以外で口をきけなかった。
だから他人の無邪気な言動で傷つけられる苦しさは人並みには分かるはずだった。それなのに、何も言えなかった。
先日、ネットフリックスにて山田孝之氏が主演のドラマが公開された。全裸監督だ。
私は山田孝之氏が好きなので迷ったが、結局not for meな作品だなと思って見ていないが。
全裸監督は宣伝で「規制ばかりで息苦しい世の中に風穴を開ける」的なことを謳っていた。正直、推しが主演の作品なのに素直に推せない、残念な作品だなと思った。
差別による抑圧と、差別を避けるための規制による抑圧。どちらも抑圧には変わりないけれども、どちらがより優先的に解決されるべきかというと、前者なのではないだろうか。
私は今も苦しい。罪悪感がずっと消えない。セクシャルマイノリティに関する記事やテレビ番組を見る度にそのことが思い出される。
どうしたら消えてくれるんだろうか。
ただこれから一生「規制ばかりで面白い作品がつくれない」という論調に反発し続けるしかないのかと思うと、気が滅入る。
良い「自分の許し方」があればぜひ、教えてほしい。
おっ、何かあったのかな?
どんな風に話題になってるんだろう?
等思ってクリックした時にジャニヲタがキャーキャー騒いでるだけだった時のガッカリ感は異常
イッテQ→「手越クン、かんわぃぃぃぃいいい~~~~~!!!!」「見て!!!!この美しい横顔!!!!」→以下スクロールしてもスクロールしても手越のスクショ
中居正広の悲報館→「さすが仲居くん!完璧な回し!」「仲居くん今日も世界一美しいよ!!!!」「一流のツッコミ芸人に負けない腕!」「春日のVTR長すぎ、街頭インタビューもいらない、ずっと仲居くんを映せ」「仲居くんは固定で芸人は入れ替わりだったら面白いかも」
こいつらいっつもそんなのばっかだな
悲報館さあ、いやまあ確かに仲居の名を冠する番組ではあるけどこっちは山里とノブがいて、春日がVTR出演で新居の話するって言うから見たわけ
世界はジャニーズで回ってないしみんながみんなジャニーズのためにテレビ見てるわけじゃないわけ
仲居がうまく回してるように見えるのだって芸能界での立場だとか自分のキャラクターとの兼ね合いで山里とノブが下に回ってあげてるから仲居の独壇場が成立してるんだよ
レギュラー化したら山里とノブじゃなくてもいい的なツイート見かけたけどもっと我の強いタイプの、逆に仲居をしばくような芸人やタレントが来たらそいつがジャニヲタから集中砲火を食らうんだろうかと思うとぞっとする
指原だとかアイドル系の女性タレントが出た日には一体どうなってしまうのか
レギュラー化レギュラー化って言うけど共演者が毎週仲居のファンにジャッジされて仲居ageに利用されたり仲居くんの共演者にふさわしくないと文句言われると思うとキツいのでレギュラー化しなくていいです
ジャニーズのグループが出るって聞いて弘中アナや若林、番組そのものがジャニヲタに敵視されたらどうしようと凄く心配していたけどそんなことはなさそうでほっとした
先日出演したのは若い時にデビューしそこねて歳いっちゃった地味ーな人たちのグループだそうだからファンもまだ控えめな感じなんだろうか
まあ活動が本格化したら同じようになるんだろうな
Mステだってジャニーズ以外だと客席の拍手が露骨に少ないし辛気臭い顔してるし
ジャニーズだけでやってくれ他の人たちを巻き込まないでくれ
なんかだんだんムカついてきたぞ
増田にジャニヲタなんかそんなにいないだろうからここで言ってもしょうがないけどさ
ジャニーズもだんだん力をなくしてる感じあるし頭がタッキーに変わって規模は縮小するけどその分平和に……パーナさん事件みたいなのが起こらないファン層に……無理か?
今までレンタルさんがどんな言動をされようと面白い人だな、革新的だなと思うだけで特に悪い印象は持っていなかったのですが、今回の発言で個人的にどうしても悲しかったことがあり、でももしご本人やファンの方の目に留まり批判をされ返したら自分の更なるメンタル崩壊を呼びそうで嫌なので、ここに書き捨てます
書き込んだのちもうこの記事は開かず各種コメントがついたとしても拝見しません
レンタルさん、まず、ご自分が発達障害なんじゃないかなという感覚があり、それによって周りの人々になにかしら苦労をさせてしまっているのなら、彼らのためにきちんと病院へ行って医者の診断を受け、もし本当に発達障害に該当したならば治療を受けたり障害との上手い付き合い方を学んでいただきたいです
発達障害というのは「だからできなくてもしょうがない」の免罪符ではありません
その障害により困っているのがご自分だけならば診断を受けるか受けないかは完全に自己責任です
しかしレンタルさんはご自分で語られた言葉を聞いた限りでは実際にその障害によりご自分の妻子に苦労をかけており、その自覚があります
ならばご自分の障害ときちんと向き合い、治療し、改善して周りの人々の負担をなるべく軽くするべきです
そしてそれよりも悲しくやめていただきたかったのは、医者に診断されてもいないのに、ご自分の「普通ではない行動」の免罪符として発達障害の名を利用されたことです
診断を受けず治療のための努力をしていない方が、テレビ番組という多くの人々の目に触れるメディアで、ご自分の「普通ではない行動」の免罪符として発達障害の名を利用されることで、視聴した一般の方々の発達障害の印象が実際のそれとは異なってしまう可能性が大いにあります
実際に医者により発達障害の診断を受けており、かつ善良な発達障害者の多くは、医療従事者により自分の欠点を説明され理解し、できる範囲で治療に励み、自分や周りの人々の人生をより良くしようと戦っています
影響力のある方が、影響力のある場で、確証もなく彼らのイメージを下げる可能性がある話をするのはやめていただきたかったです…
ここまでひどく批判してしまいましたが、私はレンタルさんのお仕事や人格については決して悪い印象を持っていなく、むしろその強さを尊敬しており、ただ上記の2点のみをご配慮いただきたかったです
善良な精神障害者の多くは自分の障害と向き合い、治療に励み、なんとかバランスを取る努力をすることで、自分と周りの人々の人生をよりよくするために日々頑張っています
彼らの印象を損なう可能性がある言動はできるだけ避けて頂ければ幸いです
以上です
「旭日旗問題は2011年の奇誠庸発言から新しく作られたもの」説がガチで広まっているのでそれ以前の事例をまとめておく。
最初に述べておくと、筆者は「旭日旗批判が激化したのは2010年代からだが問題意識はそれ以前から存在した」という考えである。
//www.aya.or.jp/~marukimsn/news/n078.htm
ソウル在住の現代美術家・安星金(アン・ソングム)さんの展覧会が終了しました。会期中は3873人の観覧者がありました。「旧日本海軍旗」としての旭日旗(現在はイージス艦に掲げられるなど、海上自衛隊の中で復活している)をモチーフにした迫力あるインスタレーションが会場の半分を占めました。
(中略)
はい/154 いいえ/160
2 かつて帝国陸海軍の軍旗、今は朝日新聞社のマークとして知られている旭日旗の方が日の丸の旗よりもお好きですか?
はい/144 いいえ/174
//www.wowkorea.jp/news/enter/2005/0803/10002267.html
//birthofblues.livedoor.biz/archives/50412138.html
今度は人気グループBIG BANGのメンバー、TOP(本名チェ・スンヒョン)が、日本帝国主義のシンボル「旭日昇天旗」を連想させる模様が入ったジャンパーを着てテレビ番組に出演し、「親日ファッション」をめぐる論争が巻き起こっている。
//mimizun.com/log/2ch/asia/1189760638/
【韓国】「日本の自衛隊練習艦隊が旭日旗を掲げて入港したのは許せぬ。直ちに出て行け」
日本の自尊心だとされ軍国主義の象徴である旭日旗を堂々と翻して仁川港に入港した練習艦「かしま」など3隻には、実習将校180人を含め計750人の自衛隊員が乗り組んでいるという。
//yawanews.blog82.fc2.com/blog-entry-878.html
柔らかNEWS 『大日本帝国の再臨だ!』 洋ゲー『Red Alert 3』に韓国が猛反発
「Red Alert3」には「Empire of the Rising Sun」という新勢力を登場させて、日本帝国主義の象徴である「旭日昇天旗(旭日旗を韓国ではこういってます)」を使っており、まさに日本帝国そのものである。
//takeshima.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1240793401/
【サーチナ】「挑発行為だ!」 旭日旗掲げ韓国の観光名所を歩き回る日本人女性二人に非難殺到[04/27]
この映像をみた韓国のネットユーザたちの反応は様々。ブロガーのBlue2skyは「神風旭日旗を掲げて、しかも文化遺跡(南大門焼け跡)の前で写真までとっている。許されたものじゃない」と怒りを顕わにした。さらに、「もっと衝撃的なのは、この行動に無関心な市民の姿、抗議する人も、制止した人も誰一人いない」と続けた。ブログのコメント欄には、神風旭日旗を掲げての行為への強い非難とともに、「無知な二人に神風旭日旗がもつ意味をちゃんと教えるべきだった」という意見が目立っている。
//blog.livedoor.jp/toanewsplus/archives/344071.html
【米国/ゴルフ】ミシェル・ウィーが描いた‘旭日昇天旗’の絵で論難[06/05] : 東亜news+
ミシェル・ウィーは独特の感性と秀でた絵の腕前を見せたが、韓国ネチズンたちは不満だという反応を見せている。彼女が公開した絵の中に日本軍国主義を象徴する‘旭日昇天旗’が含まれていたためだ。
http://www.research.kobe-u.ac.jp/gsics-publication/jics/27-1/kimura_27-1.pdf
「旭日旗への批判が高まったのは2010年代である」ことを肯定しつつ「奇誠庸発言がターニングポイントではない」としている。
こちらでターニングポイントとして挙げられているのは2013年のサッカー東アジアカップ日韓戦である。
Googleトレンドを使って「旭日旗は2011年以前には検索されていない」ということを主張する人もいるが、そこから分かるのは「その2011年ですらほとんど話題になっていない」ことと「2011年以降も旭日旗に対する関心は薄い」ということである。
https://trends.google.co.jp/trends/explore?date=all&geo=KR&q=%EC%9A%B1%EC%9D%BC%EA%B8%B0
2010年以降に最初に山が出来ている2013年8月について検索してみると「サッカー東アジアカップの日韓戦での旭日旗問題」や「東亜日報が旭日旗ファッションの広がりに警鐘を鳴らす」などの記事が引っかかる。奇誠庸よりもこちらのほうが話題になったというわけだ。
もう一つの山は2016年8月に出来ているが、こちらは「少女時代」のメンバーがSNSに日の丸の絵文字や旭日旗デザインを掲載して炎上した、という記事が引っかかる。
ただし、たとえば「独島(독도)」や「慰安婦(위안부)」などのトレンドと比較してみれば、「旭日旗」の話題性は相対的にかなり低いことが分かる。
Googleトレンドを引き合いに出すなら「2011年」がターニングポイントになったのはむしろ日本の側ではないか?
https://trends.google.co.jp/trends/explore?date=all&geo=JP&q=%E6%97%AD%E6%97%A5%E6%97%97
まとめると、
・日韓問題に関心のあるネットユーザーを中心に2000年代から旭日旗を問題視する風潮があった
・日韓対立が深まるにつれてネットユーザーによる炎上が一般にも知られるようになった
・2013年ごろから社会的にも「旭日旗」に対する問題意識が形成されていった
といったあたりだろうか。
女性差別への問題意識は以前から存在したが、「表現狩り」的な炎上は2010年代に入って急激に増加した。
先鋭化した一部の人間の行動が大きく取り上げられるものの、大多数の人間はその問題に無関心である、というような。
ともあれ「旭日旗問題は2011年の奇誠庸発言から作られたもの」という主張は、それ以前から批判はあったという意味でも、奇誠庸発言に影響力はなかったという意味でも、不正確な言説だと言える。
この人生で出来ることは現実逃避とか、政権批判とか、そういった無意味だけど何かを変えようとしていると錯覚できることぐらいだ。
パチンコ屋や競馬場で死んだ目をしながらも人生の逆転のために自分たちは動いてると思い込もうと頑張っているクズ達の仲間になるしかないんだ。
思えば、この人生が好きだと思ったことなんて一度もなかったし、友達のことが好きで友達を作ったことも一度もなかった。
ゲームだとかテレビ番組だとかの「共通の友達」があって、その話が出来るからつながっていただけの「友達の友達」しかいなかった。
親や親戚が自分の相手をしてくれるのは、血の繋がりがあるからだし、会社の同僚が話しかけてくれるのはいざというときに助け合うための土台作りでしか無い。
この人生には何も無さすぎる。
どうにかしようとインターネットや書籍の中に答えを見出そうとしても、Sier業界に引きずり込んで人に手枷足枷をはめて一束いくらで売り込もうとしてる奴らの甘言しか見つからなかった。
自分にはもう自分の人生を変えることは出来ないし、そんな人間に手をかそうとする人間もいない。
親に相談しても「人生は辛いからひとまず今の仕事をダラダラ続けて会社が倒産したらそのあと考えればいい」と他人事のようなことを言う。
とてもつらい。
好きなものはない。
映画だとか、ラジオだとか、ドライブだとか、そういったものが好きなのは結局ソレに浸っている間は現実から目を逸らせるからだと気づいてからもう楽しめなくなった。
一日中酒を飲んで自分が酒浸りのクズであることすら忘れようとするアル中の病人と全く何も違わないんだ。
それに気づいてしまったら、もう現実逃避を楽しむことは出来ない。
ちょっとした小細工をするのが精一杯で、それすらもギャンブルでしかない。
かけちがえたボタンを正しい位置に戻した所で、ボロ布が降ろしたてのビロードに変わることはないのと同じだ。
この人生を変える方法はもうなくて、終わらせる方法ですら不確実なんだ。
終わりだ。
人生がゲームなら私はとっくの昔に負けていて、それでもダラダラとゲームを続けていて、それすらも駒を動かす場所がなくなってもうすぐ終わるんだ。