はてなキーワード: にのとは
子供のころからそうやってきたから俺は別に相手のことを嫌いじゃなかったらセックスできるけど
なんかセックスした相手は俺がそいつを特別に思ってるに違いないって勝手に勘違いしておかしくなる
それを回避する方法としては、セックスした後にお金を払うかもらうかするのが一番正しい
そこに金銭が発生した瞬間にそれは商売であって情ではないという判断になるらしい
別に俺だって嫌いじゃないからセックスしたわけだけど、金銭が発生した瞬間に
金のためにやった、やりたくて金を払ったという行為にのみフォーカスされて情の側面が消えうせる
なんかよくわからんが変な話だ
前の人がつま先だけで上っているのが気になる。
今日は足の大きなスニーカーの男性だったからまだいいけれど、ヒールの女性がつま先だけ階段にのせて上っている時はヒヤヒヤしている。踏み外さないかな?って不安になる。
私は階段を上る時、いつもかかとをしっかりとつけている。足が小さいためか、はみ出すことは基本ない。
(たまに脚立やはしごを上る時、すごく怖い)
職場では絶対口に出せないが、中国人の従業員がご飯を食べるときの姿勢が悪いなあという気がする。
屈んで食器に口を近づけるいわゆる犬食いの人を見かける。片足の足首あたりをもう一方の足にのせて、半分座禅みたいにして食べる。
あと、姿勢じゃないけどくちゅくちゅ音をさせる。
台湾の人はこうではないと思う。
中国人のエンジニアは多いから、姿勢のいい人も悪い人もいるのかも。
2.中国ではこれは普通のマナー。それを悪いと思うのは自分の偏見
これもそうかもしれない。自分がうどんすすってるのだって、他の国の人から顔しかめられてるのかも
3.中国から米国に来て働くような人は、子供の頃からしつけそっちのけで勉強ばかりしてきたからこうなった。勉強もできてしつけも行き届いている人は出稼ぎみたいな事はしない。
さあ、正解はどれ?
または、他に正しい説明はある?
正確には処理水だ、人体には影響ない、自然界にはもっと強い放射線が
アホ過ぎてもうね
原発で得られるエネルギーと事故が起きた時の損失を比べれば「理論的」にもはや原発の維持はあり得ない。
彼らはそう主張している
いや起きましたやん
議論にならない、話にならない
そもそも議論にも乗ってこず、のらりくらり逃げ回り、時間が経過し大衆が忘れることを待っている。
それとこれとは別の議論と言うが
ここを彼はスルーするのよね
食洗機、掃除ロボット、ドラム式洗濯機などの最先端家電製品を日常的に使用している家庭は、その生活水準と経済的な状況から見ても、明らかに裕福な層に属しているという
ある米市場調査機関が2022年に実施した詳細な調査によると、これら3種類の高級家電をすべて保有している世帯は、経済的に豊かであることが示されている
その具体的な数字を見ると、世帯年収の平均は1800万円、中央値では3200万円
世帯の保有資産面では平均値が約1.3億円、中央値が2.1億円
なお、2022年のアメリカにおける世帯収入は平均が1000万円、中央値が1100万円
さらに、この調査では教育水準に関する興味深いデータも提供されている
具体的には、世帯の夫婦が共に大学卒業以上の学位を持っている場合が全体の73%にも上るという結果が出ている
このことから、高い教育水準と高収入がこれら家電製品の保有率と相関していることがうかがえるという
一方で、超富裕層ではこれらの家電製品の保有率が低下する傾向にあるらしい
これは、超富裕層では高価で個別化されたサービスや製品に目を向けているためと考えられるという(人を雇ったり委託する?)
また、これらの家電製品の保有は単に経済的余裕のある証拠に留まらず、生活の質を高めるための積極的な選択とも言えるそうだ
たとえば、食洗機は食後の時間を家族と過したり、趣味や勉強に充てることを可能にする
掃除ロボットによって節約される労力は週900キロカロリーで1時間のランニングに相当する
4人家族の場合、ドラム式洗濯機によって節約される時間は週5時間にのぼる
これらの家電利用は日々の生活をより快適で効率的にし、家庭内でのストレスを減少させ、生活の質を向上させる重要な役割を担っていると考えられるとしている
加えて、これらの高級家電製品の保有は持続可能性への意識の高さを示しているらしい(???)
最新の家電製品はエネルギー効率が高く、水や電力の消費を抑える設計がされているため、環境への配慮と経済性を両立させることが可能であると考える家庭も多いそうだ
つまり、裕福な家庭では、経済的余裕だけでなく、時間の節約、生活の質の向上、環境への配慮という、より広い視野から家電製品を選択していると思われるとのこと
この調査結果は、単に家電製品の保有状況を示すだけでなく、社会経済的な地位、教育水準、生活の質、そして環境への意識など、現代社会における複数の重要な側面を反映しているという
今まで一番ハマって食べてるのは、じげもんちゃんぽんグランデュオ立川店
各種ちゃんぽんの小(麺半分)とあご玉メシセットを頼む。
野菜が摂れる。熱々で美味しい。濃すぎない。
並ぶことは滅多にない。提供が早い。
LINEスタンプカードがあって、5こで餃子4つ無料、10こで白ちゃんぽんが500円なのもお得。
いろいろメリットが多くて、何より味が好みなので、迷ったら行ってしまう。
これも余談だが、南口に系列店ができたが、不快な接客をする店員がいて、行くのをやめた。
職場に一番近いから、こっちを利用したかったが、とにかくある店員が無理だった。
リピートしてる。ランチは曜日替わりでトッピングや小ライスが付けられるのも嬉しい。
青樹も行った。普通に美味しいかな。あまりピンとこなかったけど、カウンターも広いし、また行ってみたい。
ラーメンスクエアは、とりとんが好き。ライスと漬物とかが昼は無料だし。
とんこつはもちろん美味しい。味噌ラーメンも美味しかった。鶏も推してるみたいなので次回は、黄金の丸鶏そばいってみようかな。
北海道味噌ラーメンの、あさ陽もランチタイムは大盛りかライス付けられる。
立川らーめんたま館は、こないだできた家系ラーメンのたっとび行った。
基本のラーメン800円で、ライスおかわりできて50円はとても良いと思う。
普通で頼んだらしょっぱすぎたので、今度は味薄めで食べてみたい。
井の庄は、辛辛魚で有名だけど、まだつけめんは食べてない。
担々麺を頼んだら、思ってたんとちゃうかった(ラー油たっぷりタイプ)ので、しょんぼりした。
家系と言えば、壱七家も行った。
醤油、塩、味噌、黒胡椒味噌から味が選べて、ライス食べ放題だし、いつも賑わってる。
次回は塩で頼んでみようかな。
そして前の店舗はトラック突っ込んだでおなじみ、横浜家系ラーメンつばさ家も最近やっと行った。
水と思ってセルフで注いだら、なんかお茶(麦茶?)だったので嬉しかった。
なんかもちゃっとしてたのは残念だけど、まずいってほどではなかったので許す。
人気なだけあって美味しかった。チャーシューがやわらかくてほろっとしてて大変好みだった。
ただ、職場から遠いのと営業が14時までなので、めったに行けない。
カレーでいまのところ一番好き。
レインボウスパイスも美味しかったけど、並ぶことが多いので、なかなか行けない。
あと自分には、ちょっとしょっぱく感じてしまったので、しばらく行ってない。
エスニック系は、南口のカオマンガイと、北口のタイ・アヨタヤ・レストランが好き。
つらつら書き始めたら長くなってしまった。
けど、いったん終わりにする。
明日は何を食べようかな。
そもそもセクシー女優のファンをいわゆる推し活を語る時の代表例として取り上げること自体にも違和感があるが、推しに金を使う文化についても認識違いがある
女性オタクの方が特定個人に派手に貢ぐような使い方をする人は多い
男性オタクの場合、お金を持ってるタイプは比較的まともなのが多いので(世間一般でもまともと言えるレベルかはさておき)遊びや娯楽としての割り切りがはっきりしていることが多く、変にのめり込むタイプは大して金を持っていない
思いつくままに書くので長文乱文ですみません。
生粋のキモデブ女である私は学生時代を無為に過ごして無事箱入り処女のバケモンとして社会に出た。
自暴自棄になった私はどうしても若くて体が(比較的)美しいうちに性行為をしたいという欲望に抗えず、都会のクソ安いホテヘルに面接に行った。
そこに決めたのはなんとなく検索して出たからというのと、お金には別に困ってなかったし、モテないデブスにはそのぐらいの価値しかないと思っていたからだったんだけど、それは後にすごく後悔することになった。
もっとお店を選んでおけば…。
まず私の希望として、おちんちんを弄びたかっただけなので性行為をする相手は誰でもよかったが素人と一対一で会うのは嫌だというのがあった。
マッチングアプリとかで会うのは簡単そうだったけど、さすがに密室で2人きりなのは何かあった時に嫌だなと。
あとは身体的な問題で、私は膣が未熟で、挿入はしないで遊びたかった。
それ以外ならディープキスだろうがフェラだろうがアナル舐めだろうがなんでもやるつもりだったんだけど、そういう前提で会ったとしても気が変わられて無理やり挿入されたら力では敵わないから怖い。
なので、本番禁止(という建前)でかつ罰金という抑止力もある風俗を選んだのだった。おまけにお金ももらえるしね。金額にはあまり期待してなかったけど。
面接に行ったら思ったよりショボ…劣悪…アットホームな事務所でビビりつつ、初勤務の日を迎えドキドキしながらホテルに行くと、割と優しそうな男性が待っていた。
講習とかはなんと何もなくて、ガチのマジ素人(付き合ったことすらない)のぶっつけ本番だったんだけど、流れで初キスをして初めて握るちんぽをフェラして終わった。
時間も短かったのですぐに終わって事務所に戻った。あっけない初体験だった…
知らん人とキスしたり知らんちんぽをしゃぶることにオエってなったりとかはなかった。忌避感としては婦人科の診察の方がヤダーって思ったかもしれん。
それよりは夢にまでみたちんぽが手の中で固くなって張り詰めていくのがものすごく興奮した。
なんかエロ漫画で苦いって言ってたのに苦くないなぁと思ったことしか覚えてない。すぐ紙に出したし。
ちなみにエロ漫画仕込みのフェラは好評でした。ほんとかな?お世辞かな?嬉しいね。
それからは新人なのでありがたいことにたくさんの指名?を頂き、事務所とホテルのシャトルランをしてたくさんのちんぽと遊ぶことができた。
プレイ自体はお客さんも皆優しいし、ちんぽで遊ぶのが楽しくていい思い出になった。
体の大きな男の人に絡み付きながらキスしたりフェラしたりして射精させるというのが一種の征服感を満たしてくれる感じでたまらなかった。
お客さんはもちろん、嬢である自分もデリヘルという非現実を味わうために陶酔しまくって、シラフじゃ絶対できない淫らな事を言いまくったしやりまくった。
初めてのお客さんには最初から全開で行けるわけじゃないんだけど、初回のプレイでなんとなく探って行って、ああこの人はこういうのが好きなんだなって感じで遊びの内容を擦り合わせていく?その過程が楽しかったし、あくまで仕事ではあるんだけど勝手にその人と仲良くなれたような気がして嬉しかった。
まあプレイが終わって事務所に帰れば夢から覚めるわけだけどね。
結局おちんぽ遊びの時間は長くは続かず、その店の環境の悪さとシャトルランの過酷さ(ホテルで事後シャワーしたとはいえ準備もろくにできず次の部屋に行く状態)(間隔を空けて休憩時間をくれと言っても聞いてくれなかった)(あと生理やカンジダっぽい症状のときにも休ませてもらえなかった。これまじふざけんなよ!うつったらどうすんだよ!)でメンタルが悪化していってしまったので、数ヶ月で辞めることになってしまった。
それから数年経って今これを書いているわけだけど、本当に勇気出して働いてみて良かったなと思う。
もし結婚願望があったらそりゃ傷になる過去だけど、この先一生独り身だから関係ないしね。
いまだに思い出すと興奮するし、エロコンテンツの解像度がめちゃくちゃ上がったし、運良く病気することもなかったし(カンジダは膣洗いすぎたり風邪引くとなるやつなので性病じゃないよ)、一回も挿入されることがなかった(超重要)。
あと乳首がいじられすぎて逆に敏感になった?開発された?
勤め始めの頃に舐められすぎてガサガサに荒れて瘡蓋みたいになっちゃって、やばい乳首が死ぬどうしようと思ってニベアでパックしてたら治ったんだけどその後めちゃくちゃ感度が上がった。すごい。
けどお客さんの前で本当にイクことは一度もなかった。
満足はしてたんだけどね!
たまにお客さんでもクンニとかおっぱいばっかりいじって射精しないで満足そうに終わる人いたけど、それと同じだと思う。
気持ち良くはあったんだけどやっぱり布団の中で1人じゃないとイけなかった。修行が足りなかった。
成人男性の体を洗い、拭いてやり、ベッドで全身舐めまわし、満足するまで擦ったりして動き、終わったらまたシャワーして服を着せ、お部屋を片付け、身だしなみを素早く整えて事務所へ戻り、次のホテルへ向かう…
本当に疲れる。そりゃ高給だよねと納得するくらい運動してる。
あと素股も辛い。私は素股に気持ちよさを感じないし、いくらローションがあろうとも粘膜が擦れて痛くなるし、一度素股に紛れて挿入してこようとする客に当たってからは怖くてあんま嬉しくなかった。しゃぶらせてくれ頼むから。
ずっと動き回っていたせいでシャワーの時にのぼせてしまったことが度々あるし、たまにいる甘やかしてくれるお客さんの時にぐったり寝てしまったこともある。
甘やかしてくれるといえば、お客さんはどなたも素敵で弁えた方ばかりで本当に恵まれたなと思う。
ケーキとか持ってきてくれたり、ゆっくりお茶する時間とってくれたりなど…感謝です…
ただ困ったお客さんもいた。
・やめろと言ってるのに隠し撮りする人
・ダメと言ってるのに入れようとする人
・ガチ恋みたいになって貢いでくる人
隠し撮りや本番強要の人が来た時にはお店に勤めてる風俗勤務でよかった〜〜と1番思う瞬間。
電話一本で(ほんとかどうか知らんが)駆けつけてくれる大人の男性が控えてるという安心感で、お客さんにも毅然とした対応ができる。
これがマチアプとかで一対一なら無理やりやられてアウトだからね…
そしてガチ恋。売り方にもよると思うけど私はビジネスライクなおちんぽ遊びがしたかったのでとても困った。
高価なものの差し入れは困るね…それよりも使いたいオナホとかローターとかエネマグラとかもってきてくれた方が嬉しいのになぁ。
若すぎる人は遊び慣れていないというか、普通に彼女とヤルみたいに寝ようとするからよくない。
風俗はあくまでお金と引き換えにサービスを提供するところであって彼女とかセフレじゃないので、気が合うしいいじゃんのノリではどうにもならないこともあるんだよね。線引きが大事だよね。
本当にのびのび育児で習い事可哀そう作戦でうまくいくといいね。
自分では本質分かってる育児してるつもりか知らんがそんな育児してる人なんてごまんといるのよ。地方は多くがそう。寛容さ含めて。
父親と地方の底辺家庭は、放任主義の傾向多いけど、大体ど底辺に育ってるけどね。
更に公園とかで親が4,5歳の男の子が放任されてると本当に迷惑だからマジでやめてほしいわ。
乱暴だったり言葉遣い悪かったり付きまとってきたり、親は勝手に学ぶと思って放置してるけど、4,5歳なんてまだ状況を理解して適切な行動をとれる年齢ではない。
親が適切な言動を提案や翻訳したりして社会性を学ばせないと、元気でやんちゃな分男の子って本当に害が大きいので都内の公園には出没しないで欲しい。
丁寧な暮らしをできないのか、したくないのかで話は変わるが
家の清潔さは衛生面や精神面にも影響あるし食事や運動や睡眠に気を使わないと不健康になっていくのは事実だろ
本人の意思で不健康に向かってる人はジェンダー論を恨んでも解決しない
健康に生きる為に生活を変えたい人はジェンダー論にのっかって男性の有償労働時間が長い現状はおかしいと訴えてセルフケアのための時間を捻出する方に向くのが有意義なんじゃない
東島衣里さんがおっさん芸人ラジオ担当みたいになってるなとはよく思う
でも東島衣里さんすごい好きなんよね…ご本人の才が話し方や来歴から伺われる
たまに言いたいこと抑えてるな、我慢してるなって感じるときもあるから大変なこともかなりありそうだけど、
サンドウィッチマンはともかく中川家は古いだけのおっさんではない面もたまにのぞかせるのでその類型とはいいがたい部分もあるかもしれない
でもニッポン放送はそういうフォーマットの面では結構古さあるよね
去年のキンチョーのラジオCMも教授と若い女性の教え子に気持ち悪い問答させるやつで、ああいうCM今流せて意見もネット上であんまり見ないのはさすがに制作側とリスナー偏ってるんだなとは思った
山崎元信者(RIP)が彼の言う通りにのみ、10年インデックス投資を続けた結果証券会社にある資産が5千万円を越えた。自慢したいけど誰にも言えないので増田に自慢したい。
一度も売却したことはなし。
見えない資産として妻の預貯金があるから世帯資産では、たぶん億ってる。
40代半ば
賃貸ぐらし
車は軽
基本自炊
酒タバコやらない。
ウーバー使わない
「強くなれよ、バカっていわれたくらいで傷つかないくらいまで」
という励ましだったんじゃないの。
悪意で発言されたという意味では「成り金」とかでも立派に人間は傷つく
対して怖くないんだよ
バカといわれたら、自分の本質はバカではないがその人のまえでバカな行動をしちゃったんだなと反省をすればいい
次はその行動はしないよう工夫すればいいしどうしてもそうなるウンメイなら相手を避けてもいいやで
精神科で最も基本となるであろう「通院精神療法(30分未満)」が年間4779万8340件実施されてることを踏まえて考えてみよう。
「認知療法・認知行動療法(医師及び看護師が共同して行う場合)」が年間290件。
「認知療法・認知行動療法(医師による場合)」が年間37272件。
ごくまれに臨床心理士や公認心理師が認知療法・認知行動療法を行って保険適用させているクリニックがあるが、それは診療報酬詐取にあたる。
ちなみに統合失調症に対しての認知療法・認知行動療法は保険適用外である。
https://clinicalsup.jp/jpoc/shinryou.aspx?file=ika_2_8_1/i003-2.html
認知療法・認知行動療法については、医師による場合と、医師と看護師が共同して行う場合にのみ保険が適用される。現実的には多忙な医師が時間のかかる認知行動療法を実施するのは難しい状況であり、心理療法の専門的訓練を受けている心理師が認知行動療法を実施しても報酬がないという状況では、国民に認知行動療法を提供することは困難である。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjbct/46/2/46_19-010/_pdf/-char/ja
たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?
と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?
ここで、これらの言葉の意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います。
たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。
そもそも数学の根幹部分を支える論理学の重要な概念である「否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います。
「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法。
そうであるのになぜ上記のような定義や公理が厳密なものと認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います。
結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学の記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。
そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語を習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚の総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います。
どんなに高度な数学の表現も究極的には自然言語に還元されるはずで(どんな高級言語も機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解は原理的には五感に根差した感覚的なものなのだから、数学の記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語で理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念的直観的)。
数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459
しかし抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。
有効である理由はリンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます。
つまり、抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。
また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているかを確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います。
これ自体ある意味で抽象そのものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます。
抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価、確認テストをすることが難しくなるでしょう。
といってもそもそもわれわれは相手が自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。
頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから。
対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。
しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。
反応や発言をいくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターンが必要と思われ、原理上不可能と思います。
哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常の範囲内で「理解に齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。
ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います。
あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)
とはいいますが、そもそも「矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。
たとえ矛盾を記号論理の表現で記述して定義した気になったところで、じゃあその記号の定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義が可能なんですかね?と思います。
数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。
でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベースの客観的であろうとする学問ぐらいだから、別にエントリ名詐欺じゃないよね?
a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。
言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ
物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在に無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。
非言語的なテレパシーは論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。
むしろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題に適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去の論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文はごまんとあるんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
熊代亨先生、先日梅田ラテラルにて行われた『「推し」で心はみたされる?』のトークイベントおつかれでした。せっかくなので感想というか、お手紙を書いてみたいと思います。
私はあの日の観客の一人です。子どもが3人いて最近ラグビー観戦にはまった者といえばわかっていただけるでしょうか。本来ならメールやDMの方が良いのでしょうが、あえてこちらにしました。迷惑だったら申し訳ありません。また、こういった文章に不馴れなので読みにくい点もあるかもしれませんがお許しください。
普段、私はトークイベント等にはほとんど行った事はないのですが、思いきって参加してよかったです。インターネットや著書で知っていても、実際に目の前にすると「遠くから眺めていた人がこんなにも近くにいるぞ」と妙に感慨深いかったです。2時間程度ではありましたが、同じ時間、同じ場所にいられて嬉しく思います。
トークイベントでは新刊のテーマである「推し」について先生や他の参加者の話を聞きながら考えていたのは「ヒトはどこまでいっても社会動物である事実から逃れられない」ということです。今回推しの話から時代ごとの世相の変化、承認欲求と所属欲求の比重の移り変わり、果ては社会福祉までと誰かが無理やり話題を変えた訳でなく自然と話が膨らんでいきました。推しという個人の感情を語ってもどうしても社会に接続されてしまうような、そんな気がしました。ヒトが解脱し娑婆から抜け出す日はまだまだ遠そうです。
私はいま35歳ですが、ラグビーというボールすら触ったことのないスポーツ観戦になぜはまったのかわからないとお話しました。その際先生は自分の心の鍵穴にうまく刺さったのではないかとおっしゃりました。鍵と鍵穴のたとえはいいですね。確かに観戦するという行為が自分の中にするりと入ってきた気がします。鍛え上げた選手達が荒々しくも規律を守って(ペナルティを出さないで)プレーしている姿に心躍らせますが、もしかしたら力のある者が正しく力を行使する様に憧れがあるのかもしれません。実際強いチームはペナルティが少なくスマートにプレーしていますし、それがまた格好良いのです。
一方で家族に対してはどこか一歩引いたような気持ちがあります。少なくとも周りのお父さん達と比べるとどう家族に思い入れが足りないのではと感じます。妻にもたまに文句を言われます。先生はむしろ子ども推しにのめり込みすぎるより全然いいんじゃないかと言ってくれました。思い悩んでいたわけではありませんが、ちょっとほっとするような、励まされた気持ちになりました。
どうして家族をうまく推せないのだろう考えると、私の両親も同じく「推し」がへただったからだと思うのです。
両親はとある同じ地方の出身で、父は貧乏農家の三男、母は貧乏大工の娘でした。地方出身の先生ならお分かりでしょうが、50年以上前の農家の三男ともなれば扱いはさんざんなものだったそうです。また幼くして母親(私からみた祖母)を失くしており、ずいぶん寂しい思いをしていたようです。母も自分の親がずいぶん厳しかったようで、成績が少しでも下がろうものならヒステリーと言えるくらいに叱られたと聞いています。
そのせいなのか両親はお互いにうまくリスペクトし合えてなかったし、子どもの立場から見てもナルシシズムを充たすには不十分でありました。社会に出てから子育てをしている人をみて、こんなにも子どもにかかわり合うんだととても驚いたのを覚えています。
無論、大人になった今では両親にとっての精一杯だったのは理解できます。彼らなりに「推し」ていたのだと。
ただ、私は4人きょうだいですが他の3人も親に対してどこか一歩引いているように見えます。もしかしたら私は家族、あるいは血縁という概念にいい感情がないのかもしれません。
実際、妹は結婚していますが、子どもは絶対に作らないと明言しています。自分の遺伝子は残してはならないと考えているようです。実は私もその意見には共感します。もしかしたら子持ちのくせにうっすらとした反出生主義者なのかもしれません。
それでも生まれた命がある以上ちゃんと育てて社会に送り出さなければなりません。幸い、知人や会社の同僚に子ども推しの参考になる人達とたくさん出会えました。なにより妻という心強いパートナーがいます。見よう見まねではありますが、たとえ擬態であっても良き親、良き「推し活」でありたいと思います。
今回のようなトークイベントをまた大阪でされるのかはわかりませんが、いつの日かお目にかかるのを楽しみにしています。短い時間ではありましたが、言葉を交わし合えた者として、ささやかながらこれからも先生を「推し」として応援しています。