はてなキーワード: 3次元とは
>遠くない未来に人類は滅ぶ。宇宙は消えてなくなる。もう誰も覚えてはいない。
アインシュタインの一般相対性理論的な世界観に立てば、この空間3次元・時間1次元の宇宙時空は、数学的には5次元空間中の歪んだ4次元超曲面になっていて、時間と空間が渾然一体になった複雑緻密な絵画のようなものだ。
そこには、宇宙の端から端まで、そして宇宙の誕生から終末までのあらゆる出来事が描かれており、それを外から眺めることができるような知性ある存在があったとしたら、すでに未来のことまでかかれた歴史書を眺めているようなものだろう。
未来に起きることはもう決まっているし、それを嘆くあなた自身も含めて宇宙と一体とも言えるのだ。
何も心配することはない。そのように宇宙を外から眺めるならば、時間の流れや未来の可能性といった全てのことが意味をなさないのだ。
結論を先に言うと
私は疑似恋愛したいわけじゃないし
結論、この界隈は私の行き着きたいところではないことに気付いてしまった
私は元々演劇を見るのが大好きだった
人に誘われたりしたらなんでもホイホイ見に行っているタイプだった
頻度は月に1、2回だろうか
その中で2.5を見る機会があって、最初は「なんか金はかかってるのに演者のレベルが低い」と正直に言うと思った
(もっとかけられる予算が少ないけど演じている人の熱意が強い作品もあるじゃないですか?)
でもしばらくした後に映像でその公演を見かけて、その時に彼らは見違えるように成長していた
私は(あ、これが面白いんだ)って気付いて2.5に通い始めた
演劇を始めたばかりの新人だった子たちが通う度に成長していく様子に楽しさを覚えた
この感覚は2.5以外の演劇ではあまり感じられない機会だった(おそらく2.5以外で演劇やってる人達ってその大半が「演劇がやりたい」って強い気持ちでやってるから技術的な不足を感じることが少なかった。2.5の俳優のほとんどは元々は演劇がやりたいという動機でこの世界に入ってないんじゃないだろうか?技術的な不足があることが新鮮で面白かった)
めきめきと成長をみせる彼にいつも感動させられ、その姿勢に人間的に尊敬できると思った
そんな彼の個人イベントがひらかれることになった。同じ人が好きなまわりがみんな行くというので行きたいかもしれないと思って行ってみたんだけど
(サラっと行ってみたと書いたがチケットはかなりの争奪戦で、転売から買ったわけではないがなんやかんやでそこそこの金額を払った)
その前から彼の出演する他の劇場には身綺麗にした女の子たちがたくさんいて
それ自体には良い印象を抱いていた
でもその会場にいた女の子たちは「身綺麗」ではなく「華美」で、なんかその着飾り方が下品で安っぽくてアホみたいだった
ロリータ1歩手前のどこで買ったのかわからない3800円くらいで売ってそうな安っぽいワンピース(後述するが服が安っぽいのが悪いんじゃないからそこは誤解しないでほしい)
それを知った時、私はこのアホみたいな女子とチケット戦争してたのかと思うとばからしくなってしまった
このアホみたいな着飾り方した女の子は俳優と繋がりをもって彼女になりたいと思ってるのかもしれないけど
当たり前だけどすでに彼女はいるだろうし、この中から彼女を探すとは思えない
(とくにその俳優さんは真面目でファンの女の子に手を出さなそうタイプだった。実際にもそういう「繋がりをもってくれない」「硬い」「同性の友達でも普段から付き合う人を選んでいる」と“繋がりたい”ファン界隈から噂があった。私はそういう生真面目なところに好感を抱いていたし、魅力を感じていた。絶対にファンに誠実でいて欲しいと思っているわけではないが、たとえ見せかけだけだとしてもそういう姿勢でいてくれることに人として尊敬できると思った。たとえばアルバイト店員に置き換えたら裏で客の悪口を言っていたとしても、表で真面目に接客していたら、私は店員として優秀だと判断する。裏で悪口を言っているのを知っても、店員としての職務を十分に果たしてくれているなら私はそれでかまわない。それと同じだ)
そのためにするのが3800円の下品なワンピースで数万するチケット(何割か、結構な割合で転売に出されていたのに席は満席だったから何割かは10万近くの金を出していたのだろう)を買うこと??
そして輪をかけたように彼女たちは語り始めた「私たちみたいにオシャレしてきてない人たちなんなの?ダサい。そんなんじゃ認知されない」(お前の方が勘違いでダサいわ!)
好きな原作アニメタイトルが好きで2.5からその俳優のイベントに来た人が言った「オシャレしてないオタクがちらほらいる〜」(お前もたまたま2.5に行き着いただけの元2次元オタクじゃねーか!)
もうみんなバカじゃねーかと思った
いや、バカなんじゃないんだよな
なんか“幼稚”
オタクを脱してオシャレに目覚めたとたん(それも勘違いオシャレ)普通のカジュアルな格好の人をdis
いや彼女たちのファッションをそんなにdisりたいわけじゃない
(正直なところ数万のチケット買ったりグッズを買い漁るならそんな安い服じゃなくて1着5万前後の上品で華やかなワンピースくらい買えよ!と思うけどファッションをメインに叩きたいわけじゃないからこの件は終わる)
でも俳優くんがアホな男だったらこの若くて3800円ワンピの女の子に簡単に落ちてしまうのかなと思うと
なんかも〜男も女もレベルが低いというか
私はきっとこの子たちとかなり年が離れているせいかそのレベルの遊びに興味示せないというか
ってことに気付いてしまった
(非ガチ恋勢をdisするのも意味わかんない。ガチ恋したいならそういうダサいと感じる人はライバルになり得ず都合のいい存在なのではないか?結局恋に恋しているのだ。推し俳優のために努力する自分が好きなのだ)
あんまりそういうことしなさそうな真面目そうな俳優さんにも、こういうリアコまがいの勘違い女がたくさん沸くことにげんなりしてしまった
この子たちは彼の何が好きで来ているんだろう?
どこに目をつけて見てたら真面目に仕事する彼に、覚えてもらいたいとか繋がりたいとかそういう感情が出てくるんだろう
どこに魅力を感じているのか?
それが判明するのはイベントの後だった(イベント自体は楽しかった。推しくんは今日も頑張っていた)
イベントの中で彼が言っていた。2.5俳優ではない別の本来の夢を叶えたいと。
そのことに触れて彼女は言った
「はやくあきらめてほしい」
するとその席にいた私以外の全員が同意し始めたのだ
(え)と私は思った
続けざまに他の子が声を上げた
私の違和感は強くなった
私は彼の人間的な部分に感銘を受けて好きになった
彼が望むなら、今は2.5俳優で経験を積んで、ゆくゆくは本来の夢が叶えてほしかった
その同調の流れに私は黙り込んだ
2.5の深い部分は、3次元の男を知らない女たちの幼い恋愛ごっこなのか
若手俳優たちに求めるものは、彼の幸せではなく、自分たちのコスプレオモチャでいてくれることなのか
もちろんみんながみんなこうではないと思うけど
なんて残酷なんだろう
遥かにアイドルを「人間的に尊敬して推している」人たちが多かった
ましてやアイドルの先にある本当の夢を「あきらめてほしい」なんて言う人はいなかった
あーあ。
どうしようかな
いつも人から情報を与えてもらってばかりで、自分では何かを調べたりしようとはしない
私は数年前からとあるK-POPアイドルグループAを推している。
もともとは2次元界隈のオタクで、K-POPアイドルどころか3次元界隈には何の興味もなかったのだが
たまたまTLに流れてきたMVを見て、それから気付くと毎日動画サイトでMVを再生したりするようになっていた。
もともと持っていたTwitterのアカウントでマメに動画へのURLを貼り
Aにまつわる覚えたてのエピソードを紹介し続けたりしていたら、
とある相互フォロワーBが興味を持ってくれるようになり、いつのまにか日本でのイベントやコンサートなんかに一緒に行く関係になった。
特定のメンバー単推しというより、箱推しに近いスタンスだったところ
年齢、そして何より推し活動をする上での金銭感覚が近かったのが
急速に仲良くなっていった上でのポイントだったと思う。
そのうち、せっかくなら韓国でのコンサートにも行ってみたいと思うようになり
お互い初めての韓国、二人とも韓国語はおろか英語もおぼつかない中、
ホテルを予約し、会場までの行き方を調べるなど大変なことは多かった。
しかしそれにもまして何とか韓国まで推しを見にこれた、やればできるものだという達成感はすさまじく
それでも遠征で同じホテルに泊まる、コンサート以外の時間に観光やショッピングなども一緒にする
となると、ある程度金銭感覚だったり、時間の使い方、推し活動以外の部分での
価値観も合うと分かっていないと、なかなかずっと一緒にはいられない。
そういった部分は本当にBとは合ったのだ。
ただ気になったのはBが全然自分では調べず、分からないことや難しいことは
私が調べるのを待っていることが多いということだ。
外国人には入りづらいイベントにはどうやって参加するのかになってくると
ある程度、言語の壁が立ちはだかってくる。
推しグループについてだって、韓国語ができる先輩ファンたちが日本語で情報を流してくれるとはいえ
それでも情報の鮮度だったり、ちょっとマニアックな情報を求めようとすると
日本語に訳された二次情報ではなく韓国語で書かれた一次情報を参照するということが必要になってくる。
私も韓国語が分からないなり、少しづづ勉強しならが辞書アプリや翻訳アプリを利用しつつ
そういった韓国語での情報収集というのがだんだんとできるようになっていった。
どのホテルにしようか、どんなお店でご飯食べようか、遠征計画で悩んだときに私も調べてみるね、とは言ってくれるのだが
結局調べないで私が調べてきた情報を見て、そこに泊まろう、そのお店に行こう、ということになる。
twitterでも私や先輩ファンが日本語に訳した情報をRTして感想を書くだけだ。
韓国語しか通じないホテルやお店でチェックインや食事を注文するのもいつも私だ。
Bも同じタイミングで韓国語を勉強し始めたはずで、まったく韓国語ができないというわけではなく
注文くらいだったらできるはずなのに。
それに私だって毎回聞き取れなかったり伝わらなかったらどうしようって
つっかえつっかえしながらお店の人とコミュニケーションをとっているのを目の前で見ているはずなのに。
しかしやろうとしない、いつも私にやってもらっちゃってごめんね、と言いつつ
推しグループは好きだし韓国旅行も好きだが、自分で他言語を熱心に学んでまで、時間を割いて色々調べてまで
私とBのオタクとしてのスタンスの違いと言ったらそれまでなのかもしれない。
Bと推しグループについて語り合ったり、一緒に可愛くておいしいものを食べてはしゃぐ時間は本当に楽しい。
しかしその一方で、情報を与える側と与えられる側、その役割があまりに固定化しすぎてしまい
そしてBはオタクとしての向上心にかけるのでは…とつい下に見てしまう自分もいる。
あまりに一緒に長くいすぎてしまっただけなのか。少し離れてみれば関係も変わるのだろうか。
テクテクテクテクは、8億の費用をかけて、50億の売り上げを見込んでいたが
900万円しか売り上げが無かったという大爆死ゲームとなってしまった
「出来は良いが課金要素が無い」という声が多かった
https://dwango.co.jp/business/vr.html
VR事業は「二桁億くらいかけてドワンゴのメイン事業にする」と宣言されていて
VR事業の一番のウリは、HMDを使って生ライブ配信が出来るバーチャルキャストだろう
しかしバーチャルキャストは始まってから一年近く経つが、配信ランキングを見てもろくに人が集まってる放送が無い
https://virtualcast.jp/ranking/
ドワンゴはこのバーチャルキャストやnicocas実験放送で贈れるギフト((投げ銭))が大きな収益源となると想定していたが
ギフト可能配信アプリは2次元も3次元も有力ライバルが多く、nicocas実験放送も活発に使われていない
臨時取締役会にてギフトがテクテクテクテク同様に想定した売り上げを下回っていたという説明があった
これは「中に入ってる人が面白いもの」であって「見てる人が面白いもの」ではない
これでは視聴者が集まるはずがない
バーチャルキャストのほぼ上位互換のVRChatで配信をしている人たちの動画を見ても同じようなことを感じる
HMDを使いVRの世界に入って配信をする、なんて行為は、オタク系オッサンぐらいしかやろうと思わず、機材も持っておらず
そういう人たちは自分が楽しければそれでよく、視聴者なんかあまり気にしないのだろう
もちろんそのような配信者が居てもいいのだが、問題はこのタイプの配信しか見当たらないことだ
バーチャルキャスト社設立時、「ちょっと間違った未来をつくる」をコンセプトに掲げ
同時に「Kawaiiムーブ」「わちゃわちゃ」「おっさんだって美少女に」「バ美肉」「男だけの女子会」などといったキーワードもちりばめていた
つまり現状の美少女オッサンだらけでゴチャゴチャしてる配信ばかりのバーチャルキャストはビジョン通りなのだ
おっさんがおっさんに贈るケースは比較するとやはりかなり少ない
そのためギフト贈呈を増やすには女性の参加率が高くないと駄目なのだが、バーチャルキャストはビジョンからして想定してない
バーチャルキャストは最初から儲かるはずがないビジョンに向かって走っていた
最近新しく追加された新機能のVCIも、技術寄りのおっさんが喜ぶだけのもので、今もビジョン通りに進んでいる
ギフトで大きな売り上げを得られるようにするには
ビジョンから修正し道を進み直すか、世間の人々をバーチャルキャストのビジョンに追いつかせる必要がある
どちらもそれなりに長い期間が必要で、当面バーチャルキャストがギフトで大きな売り上げを得られることは無い
NHKのVTuberのど自慢や、AbemaTVのくじじゅうじでバーチャルキャストは採用されている
ただBtoCで儲けている規模の大きい会社は、BtoBで得られる程々の売り上げを会社の収益の柱とするのは難しい
バーチャルキャストは大掛かりな設備を使うものに比べ、安い機材で動かすことが出来るコストパフォーマンスがよいものではあるが
出来る映像はガクガクしてたり不自然さがあったりと、地上波クオリティとしては物足りない
ドワンゴのVR事業にはVカツ、カスタムキャストなどのアバター制作アプリも含まれている
基本無料なためダウンロード数は多いが、このアプリで作り出された著名なVTuberは存在せず
セールスランキングの低さからアプリ内課金もあまりなされておらず
多くの人はキャラを数体作成しただけで終了していることがうかがえる
バーチャルキャストが上手く回っていれば相乗効果があったかもしれない
今はお金を生み出さなくても、5年後くらいの未来に儲かる事業にするために今は基盤として技術を育てるのだからいいのだ、という声もあるだろう
しかし
などを考慮すると、ドワンゴのVR事業は今後何らかのタイミングであっさり損切りされるだろう
バーチャルキャスト社自体はBtoBの程々の利益で開発が細々と続けられるかもしれない
ただ前述のとおりVRが先行き不明なうえ、clusterなど領域が部分的に被る競合サービスが複数存在しているため
今すっかり停滞ムードになっているVTuberが今後縮小することになるとそれも危うい
エンタープライズ版の料金表は下のとおりだが
今回の事件の概要は「自衛隊哨戒機が韓国駆逐艦から火器管制レーダー(以下、FCレーダー)を照射された(と主張している)」です。事件の中心にいる韓国海軍の駆逐艦・広開土大王には、2種類のFCレーダーが搭載されています。
照射を受けたP-1哨戒機は飛行機です。従って、対艦FCレーダーのMW-08は関係がなく、STIR-180が問題になるというのが、一般的な考え方です。
昨年12月20日15時頃、作戦行動中の広開土大王に、自衛隊のP-1哨戒機が近距離で飛行します。韓国国防部が言うように「威嚇的」だったかはさておき、「ウザい」と感じる状況ではあったのでしょう。
艦上層部の「はねっ返り」が、レーダー照射で追い払おうと考えたとします。そのとき、わざわざ司令部に許可を求めてSTIR-180を使うでしょうか? そんなわけないですね、司令部に却下されるのがオチです。では、どうしたか。本来なら対艦用のMW-08を哨戒機に対してFCモードで撃ったのです。
レーダー照射時のP-1の高度は公開されていませんが、高度数百m程度の「水面すれすれ」なら、対艦FCレーダーの照射が届く可能性はあります。
実は、広開土大王的には「試しに照射してみたら当たってしまった」というのが、実態だったのではないでしょうか。
MW-08の照射は、P-1では「FC系レーダーの照射を受けた」として検知されます。FCレーダーなので、当然ですね。
そして、約28時間後の翌21日夜、防衛大臣による記者会見として外部発表されます。岩屋防衛相は「実際の火器の使用に先立って実施する行為」と述べます。おそらく、この時点では「STIR-180/MW-08の確定が済んでいなかった」あるいは「MW-08に対空FCレーダー機能があると誤認していた」か。いずれにせよ「対艦FCレーダーの照射だった」とは認識していなかったと考えられます。
その後、どこかのタイミングで、対艦FCレーダーだったことに気が付いたと思われますが、大臣が発表した以上、もう、後には引けません。
12月24日のブリーフィングで、韓国国防部は「日本側はSTIR-180を撃ったと言っている」と言っています。おそらく、それまでの時点で、日本側が「対空FCレーダー」と失言したのでしょう。韓国は狂喜乱舞したと思います。
この段階で、日韓両国は、共に「引け目」を抱えることになります。
日本:対艦FCレーダーだったのに気づかずに、話を大きくしてしまった。
お互い、相手の状況は把握していますが、自国の「引け目」も、バラされると困る内容です。FCレーダーを照射したことが確定する韓国はもちろん、自衛隊も「対空FCレーダーと対艦FCレーダーの区別が付かなかった」となればマヌケな話です。両国とも、勇ましいことを言いつつ、交渉では強気に出れないわけです。
そんなわけで、日韓共に白黒を付けられず、交渉は泥沼に…。更に韓国が「威嚇飛行」を持ち出して、狙い通り、更なる泥沼へ持ち込んだ…というのが、今回の情景だったわけです。とっぴんぱらりのぷう。
【承前】
https://anond.hatelabo.jp/20190216023228
本章では、オタク同士の関係性をテーマにした創作作品や、バーチャルYouTuber同士の関係性が消費されることについてより深く考察していく。
1章で述べたバーチャルYouTuber同士の関係性に視点を戻すが、バーチャルYouTuberは現在6000人が活動している。その中で人気を得ている配信者こそ、関係性を構築し、バーチャル上での物語を消費者に提供しており、姿かたちや趣味嗜好こそ多様なものの、ひとくくりにいえば大体の生まれは「オタク」である。つまり、「オタク」だからこそ萌えられるキャラクタと関係性をセルフプロデュースし、それをまた「オタク」が消費しているのだ。これがループのように連続することで、時には自らも憧れてバーチャルの世界に踏み込んでいくためにバーチャルYouTuberは日々増え続けているのである。自分の人生や趣味嗜好を、キャラクタというフィルターを通すことでシェアし、自らが創作物/キャラクタそのものになるということは、自伝やエッセイを執筆し、その読者と直接対談するようなことだ。「オタクの人生」を物語として消費し、絶え間なく新たな物語と関係性が発生していくというコンテンツに、オタクは萌えることができる。たとえパーソンが基底現実においてどんな人物であったとしても、「生けるキャラクタ」としてのバーチャルオタクの魅力に、オタクはシンパシーと巨大なエモーショナルを感じざるを得ないのだ。自分と近しい存在の人生を物語として消費することは、永久機関のような底の知れない魅力を持っている。
また、「このマンガがすごい!2019」*4 では、オンナ編第1位に鶴谷香央理「メタモルフォーゼの縁側」(2018)、第8位に町田 粥「マキとマミ」がランクインしており、この作品はどちらも腐女子同士の関係性を主題としたものである。2章で述べた「腐女子」特有の親密さは、既に広く認知されており、さらに創作物として女性からの支持を強く得ているということである。この背景にも、自らのオタク的言動やコミュニケーションを「あるある」と思いながら読むような自伝・エッセイ的な要素ももちろんのことだが、「腐女子特有の親密さへの愛着」や「登場する腐女子同士の関係性のリアリティに即した萌え」が確実に存在していると考えている。
上記のようにキャラクタ化したオタクや、親密さの自覚を持った腐女子は、基底現実においても関係するようになる。1章で述べた「バーチャルYouTuber同士が三次元で会った時の飲食物の画像」や、腐女子特有の「なりきりアカウント」文化の「背後交際」などが主な例だ。バーチャルYouTuberでコラボ放送をしていた親密なパーソン同士が3次元でも会うようになり交際に至ったという例も、キャラクタとして表沙汰にならずとも存在する。また、腐女子コミュニティにおける「なりきりアカウント」とは、主にTwitterなどで作品のキャラクタのロールプレイをし、自分の好きなカップリングの相手とネット上で交際したり、同作品のキャラクタと日常会話をする文化である。このアカウントの運用主を「背後」と呼ぶのだが、彼女たちは基底現実でもオフ会をし、実際にロールプレイで交際していた相手と現実でも交際に至ることがあるという。
つまり、関係性消費が加速し、自らもキャラクタ化したオタクは、パーソン同士としての基底現実でも「萌える関係性」を実践しているのである。この状況において、「わたしたちの関係性は萌える」という自覚の有無はもはや必要ない。パーソンとキャラクタの境界があいまいになり、オタクは自らを自らで消費することが可能になっていくのだ。
本論では、関係性消費が牽引していくというトピックからオタクそのもののキャラクタ化、そして完全なる相互消費の永久機関にまで言説が行きついてしまった。しかし、現実での関係性消費において立ち上がってくる問題はやはりジェンダーとルッキズムである。これに対するアンサーは2つある。1つは、すべてのオタクが理想のバーチャルキャラクタとしての3Dモデルの肉体を手に入れることである。バーチャル空間での関係性の構築はYouTubeだけでなく、「VRchat」という果てしない多様性を持ったもう一つの世界ともいえるVR空間でも今まさに進行中だ。全オタクが理想のキャラクタとなり、主体的に交流してその関係性すべてを消費することができれば、そこにはジェンダー格差もルッキズムによる格差も存在しなくなるのではないだろうか。2つ目は、キャラクタ化しない、あるいは関係性に参入せずあくまでも傍観者としての消費・あるいは創作を貫く選択肢を選ぶことである。2章で述べたように、創作物と消費者のセクシャリティ/あるいは創作物と作者のセクシャリティなどは分けて考えるべきというスタンスに基づく在り方である。
これらの二つの未来像は両極端にも見えるが、しかしこれらが混じりあい議論が巻き起こっているのが現状である。しかし、バーチャル空間上でのルールやマナーが議論の末に整えば、それぞれが理想の関係性を追い求めて基底現実とバーチャル世界を横断していくようになるのではないだろうか。創作だけに留まらず、現実世界と拡張現実へ侵食する「関係性消費」は、しかし古典の時代から物語として脈々と行われてきた文化である。オタクと文化、双方がその形を変えて混じりあう瞬間に、今わたしは立ち会っていると思うと感慨深い。
関係性を志向するファンたちのこれからは、今後のオタク市場の動向と、バーチャル技術の発展にかかっていると感じた。これからもジェンダー・セクシャリティ論とカルチュラルスタディーズ、両方の視点からわたしも一当事者として今後の動向を研究していきたい。
【引用文献】
*1 東園子,2015,「宝塚・やおい、愛の読み替え 女性とポピュラーカルチャーの社会学」新曜社
*2 難波優輝,2018,「バーチャルYouTuberの3つの身体 パーソン、ペルソナ、キャラクタ」『ユリイカ』第50巻:117-125
*3 斎藤環,2009,「関係する女 所有する男」講談社現代新書
*4 このマンガがすごい!編集部,2018,「このマンガがすごい!2019」宝島社
【参考文献】
玉川博章,名藤多香子,小林義寛,岡井孝之,東園子,辻泉,2007,「それぞれのファン研究 I am a fan」風塵社
山岡重行,2016,「腐女子の心理学 彼女たちはなぜBLを好むのか?」福村出版
2014,「ユリイカ 特集*百合文化の現在」第46巻第15号 青土社
2018,『ユリイカ 特集*バーチャルYouTuber』第50巻第9号 青土社
【あとがき】
期限ギリギリで提出したので粗も多いが、これをベースにディスカッションできる地盤固めができたので良かったと思っている。オタク!人生で遊んでいこうな!
一部で話題になってる、大阪ライブでのレポをみて踏ん切りがついた。断捨離みたいなものだ。
思えば、一年前くらいから辞めるタイミングを伺っていたのかもしれない。ただ黙って辞めるのもこの数年間の自分が可哀想なので文章にしてみる。人に読ませるというか、自分のために書く。
多分、私にとって最初で最後の推しだと思う。もともと、舞台に興味があった人種ではないから。私は、上京してテニミュを観劇する機会がなければ出会うことのない世界だった。ただ、舞台上に立っているだけであのキャラクターが生きている。観劇経験がない私にとっては衝撃的だった。自分が1番好きなキャラクターをこんなにも巧みに演じてくれる役者がいるのか、とその巡り合わせに感謝すらした。勝手に恩義を感じて、その後の仕事も追いかけ始めた。といっても、舞台だったら複数回入るだけ、イベントも1回参加できれば良しとしている側から見れば緩いオタクだった。けれど、少ない給料から家賃、生活費を出した残りからだけだが、彼にお金を使えるということが嬉しかった。何度も同じ演目を観ても、違う表情を見せてくれた。観劇って、好きな役者ががいるって、こんなにも楽しいものなのかと幸せだった。
日々、アプローチを変えるお芝居への探究が、舞台は生物を体現していていつまでも観ていたかった。
どこか煙に巻くようなカーテンコールの挨拶をしつつも、周囲の人々への感謝を忘れない姿勢がなんだか誇らしかった。
友人が、誰も名前を知らなくても堂々とこの役者が好きだと言えた。
でも、もう応援する気が失せてしまった。この人をみていたいという気持ちよりも、チケット当たったし、行かなきゃなという義務感が強くなってきた。
元々やりたがっていた音楽活動をやり始めたからなのか、刀のミュージカルでソロライブをやり始めたからなのか、彼のSNSの存在意義が分からなくなったからなのか、彼より年下の役者の発言の方がしっかりしているのがだんだん目につくようになったからなのか、どれがキッカケか分からないけれど、少しずつ蓄積されていったんだと思う。
しまいには、有名な人と共演する機会を得た舞台を観ても、自分のなかの蟠りのせいで余り楽しめなかった。
私みたいなのは彼の想定するお客ではなくなってしまったんだろう。悲しいが、彼にとっては数多くいるファンが1人消えるだけでなんでもないことだ。
2月のライブのチケットも譲渡に出した。3月の舞台のチケットも友人に譲った。
キッカケがどうであれ、初めて推しを降りるという経験をした訳なのだが、嘆き悲しむかと思いきや通常運行で日々を送っている。そもそも、ここまで3次元の人間に入れ込んでいたのが24年生きてきたなかでたった数年だ。こちらのほうが異常だった。でも、そうまでして応援したいと思わせるものを彼が持っていたのも事実だ。
SNSで彼に感じてしまった不平不満を発信したことはないが、多分壊死する呪いをかけられる側のファンであったことには違いない。
キッカケはそうだとしても、彼にそこまで価値を感じなくなっていた私にとっても、彼のファンを辞めたことはなんでもないことだった。
たぶんポケモンのなんか人が集まってるやつ
年齢性別問わない人が思い思いの方向を向いて棒立ちしてるんですよね
こちらからすると集団にはスマホを持っているなという共通点しか見いだせない
3次元的には同じ座標だけど存在するレイヤーが違うっていうか「都市と都市」って小説みたいなアレでね
同じ場所にいるのに違う物を見て違う音を聞いている人がアレだけいると単純に恐怖が想起されるわけで
異文化とのファーストコンタクトってのは平和裏に進むもんじゃないね
元々漫画とかアニメが好きで2次元オタクをずっとやっていたんだけど、声優にハマった流れで徐々に3次元アイドルに流れていった。
最初はやっぱりAKBみたいな有名どころから入ったものの、推しメンが卒業したのを機に気軽にライブに行ける中堅どころ~ド地下アイドルみたいなところまで手を広げてしまった(都内に住んでたから行きやすかったという理由もある)。
これまでの人生でライブハウスなんて怖くてまったく行ったことなかったんだけど、推しを見れるという後押しによって1年くらいは結構楽しく頻繁に足を運んでいた。多いときは週に3・4回くらい。仕事帰りに渋谷とか新宿で降りてライブが終わってから満員電車に揉まれて帰宅する。
こういったライブハウスの活動中心のアイドルは、出番後にチェキを撮影して数分間会話を楽しむという特典会があり、ほとんどのオタクたちはこれにも参加する。
実際にアイドルと話をする以外の時間(つまりライブハウスにいるほとんどの時間)は、オタク友達同士で雑談したりしてる人か、特に知り合いもいないのでスマホいじるかボーっとしてる人に分かれる。
私は基本的にコミュ障なのでやはりここで友人をつくるなんてハードルは超えられず、後者の人種だった。
アイドルのライブを見て、少しだけ話して元気もらって、お土産としてチェキを手に入れる。ということを目的に来ているのでそれ以外のことは特に求めていなかったのです。たぶん私と同じようなオタクは結構いるはずです。
昔2次元オタク全開だったときに、知り合った人と折り合いがつかず「あの人と会いたくないなぁ…」と思ってしまう失敗も過去にしていたので、自分は対人関係下手なのもわかっていたし変な理由で好きなアイドルに会いに行けなくなるのは嫌だったのです。
しかしやはり現場でずっと一人ぼっちなのはかなり寂しく、推し被り(同じアイドル/メンバーを推している人)同士くらいは多少喋れる人を作ったほうがいいかなと思ってしまいました。
(思い返すとこれが悪かったのか…)
ある日、特定のアイドルメンバーと近い距離で会話ができるオフイベント(限定10名!みたいなもの)に参加したときに、一緒になったオタク男女数名とわりと楽しく会話した。そう、別に会話しようと思えばその場では普通程度には喋れるんです。Twitterもみんなで相互フォローして、これで自分もアイドル現場でもっといろんな交流ができるかなと期待もした。
こうなってくると結構タチが悪くなってきて、アイドル現場にいくと周りのオタクが気になってきてしまう。
「あの人いつもいる人だな」
「あの人一度喋ったことあるけど、話しかけてきたりしないな」←自分から話かけるという選択肢は無い
などなど。
別にこれはよくある光景で何ともないんだけど、自分が中途半端に意識してしまうのが本当によくない。アイドルを見に来てるんじゃないのかよ俺。
しかし相互フォローしてしまっているので、Twitterを見るとオタクのつぶやきがすごく目に入ってくるのです。
しかもライブ中心アイドルのファンは現在は10代後半~20代中盤の男女がボリュームゾーン。私はもっとおじさんなので、明らかに若者ノリにはちょっとついていけません。
疎外感が加速していきます。
そしていつのまにか、とあるオタクのいわゆる「裏垢」をフォローしていました。なぜフォロー許可してくれたのか今となっては本当に謎です。
これも今の時代なにも珍しいことではないのかもしれませんが、裏垢では同じオタクに対する文句などマイナスな方向のツイートが並んでいました。
ミュートすれば良かったんですが、気になってついつい読んでしまいました。
厄介オタクという迷惑行為をするファンも目立ち始め、私は直接的な被害は何もないのですが、アイドル現場にどんどん自分の居場所が無くなっていくのを感じました。
これがすべて私の被害妄想だと言われればそれまでかもしれませんが、徐々に足が遠のいたのは確かです。
そして、仕事が長期休みのときに偶然ダウンロードしたスマホゲームが面白かったのをきっかけに、2次元のオタク趣味に戻っていきました。
2次元オタク文化は、創作物を褒め合う文化があるし、素直に良いものは良いと言っている人が多いと思いました。
とても、とても居心地がいいと感じました。
単純に3次元アイドルオタクをするには一定のコミュ力が必要で、私にはそれが無かったという話なのでしょうか?
3次元アイドルオタク現場の適正年齢を私は既に超えていたという話なのでしょうか?
推しの子はもちろん今でも好きなので、Twitterはフォローしてますし、たまに画像を保存したりしています。ですが現場にはもう半年以上行っていません。
私はその作品が大好きで、人生の半分以上をオタクとして過ごしてきたけれど間違いなく一番好きだと言えるキャラクターがいて(以降推しと呼ぶ)、楽曲も全部好きで、これからもずっとその作品の、そして推しのファンでいたいと思っている。
そんな中での声優ライブ。声優の方々がキャラクターになりきって?歌って踊る。ファンサービスをする。喋る。キャラクターの声で。キャラクターを連想させるような衣装を着て。ライブにはキャラクターのイラストや名前が使われたムービーが流れる。声優同士でキャラクターそのもののように絡んだり、話したりすることもある。
ライブが終了すると、Twitterのタイムラインは現地やライブビューイングに行った人達の感想で溢れた。
「△△(声優)がこんなことを言って、**(声優)と絡んでいた。推し(△△が演じているキャラ)と推し(**が演じているキャラ)が絡んだ」
「☆☆(声優)がこんな風な振り付けで踊っていた。♪♪(☆☆が演じているキャラ)はそんな風に歌って踊るんだね」
友人も言っていたし、フォロワーのフォロワーも、好きな絵師も、字書きも、別件でかけた検索の先の知らない人たちも、みんな言っていた。みんながこのライブを楽しいと言い、絶賛していた。みんな本当に嬉しそうで、楽しそうだった。
推しや好きなキャラクターたちの声優が、推しや好きなキャラクターのように振る舞うのが苦手だ。
この作品の声優ライブは何度か開催されていて、前回のライブのとき私は現地に居た。
友人が「応募したらチケットが当たったから一緒に行こう」と誘ってくれたのだ。
初めての声優ライブ。どうやら声優として扱うことはダメらしいので(声優の名前を叫んだりなど)、推しのうちわと推しのキンブレシートを作った。声優に「推しくんこっち見て」「世界で一番愛してる」なんて書いてあるうちわを見せてどーすんだとも思ったが、とりあえず作った。ありがたいことにアリーナ席で開演を待つ。
推しの声優が出演していた。推しの声優を見た。推しの声優の歌を聴き、踊りを見、トークを聴き、推しの声優に推しのうちわと推しの名前が入ったキンブレを振った。推しの声優が歌う。喋る。推しの名前で呼ばれて嬉しそうに笑う。
嫌だと思った。推しじゃないと思った。推しと同一視なんて絶対出来ないと思った。推しのように振る舞わないで欲しいと思った。声だけ推しに提供して欲しいと思った。別にその声優の容姿がどうのとかそういう訳じゃなく(むしろ容姿は良いと思う、顔面が好みなタイプだ)、そういうのじゃなくて、ただ圧倒的に「違う」と思った。そのライブで、推しなんてどこにもいなかった。
だって、私の推しと推しの声優は違う生命体じゃないか。ただ、声を提供されているだけじゃないか。推しの声優がこんな風に踊ったからといって、私の推しがこんな風に踊るとは限らないじゃないか。運営から用意されている以外の言葉を推しの声優が推しっぽく喋っても、それって声優の言葉じゃないか。それは、私の推しの言葉じゃない。推しの声優が推しのように喋っているだけだ。
推しは「2次元に生まれ、2次元に存在している」のだから、3次元の人間がなりきろうとすることに違和感を覚えた。私は2次元に存在する推しを好きになった。生身の人間を介して推しを見れなかった。
(考えてみたら昔からコスプレとかも苦手だったし、この作品は舞台化されているけど舞台の推しにときめいたことは一度もない)
なので今回のライブは行かなかったのだけど、まあ〜出てくる出てくる「声優=キャラ」という感想。そして出来上がる、声優ライブを楽しめないとファンじゃないという風潮。
だめなんだ、どうしてもだめだった。言い方は悪いが、本当に申し訳ないのだが、声優が推しの真似事をしている姿が。
でも世間はそれを良しとする人の方が多くて、それを許容しなければまるで推しのことを愛してないかのように見られる。現に数人に「声優を推しとしてみれないから、今回のライブは見送る」と打ち明けたが、その大半になぜ?と問われたり(なぜもなにもないよ)、少し不満そうな顔をされたりだとか、そんな感じだった。
私だって声優ライブを楽しみたかった。ただでさえ不定期な供給、楽しめるものがある方がいい。推しについて悩む時間より、推しを好きと思える時間が多い方がいい。
皮肉ではなく、純粋に羨ましいのだ。声優に何も感じない人達が。声優ライブを当たり前に楽しめる人達が。
私も声優からファンサを貰って喜びたい。声優と声優が絡んでいるのを見て、声優の踊りを見てはしゃぎたい。生歌を聴いて「推しが歌ってる」と思いたい。
私には""声が一緒""というだけで声優から推しを感じることは出来なかった。感性が足りない?のだろうか。欠陥があるのだろうか。2次元に生まれ2次元に存在する推しだからこそ、それしか認めたくないと思うのはおかしいのだろうか。
まさかこういった形でコンプレックスが増えるとは思わず、あまりに不意打ちすぎて笑ってしまった。
あと友人、せっかく連れて行ってくれたのにこんなことを思ってしまってごめんなさい。声優を推しとは思えなかったけど、好きな楽曲でペンライトを振れたのは楽しかったです。あれ?もしかして、楽しみ方これか?
noteの推し文化について書かれたある記事内の「好き」の定義が正直え?って感じだった。”推し文化が浸透しているジャンルにおいての「好き」=ガチ恋”みたいに言い切っているのが謎……。
「推し」と比較する対象としての「好き」をLOVEのみに限定しているのがなんか違くない?って感じがする。likeの意味の好きはどこへ??
推しとlikeの意味での好きでは、記事内で推しの定義とされていた「一方通行でも構わない」「1対1でなくても構わない」などは共通してると思うけど完全に推し=likeではない気がする。
推しというほど応援したいわけではないけどその対象に対して好感を持っていたりとか、それを表現したいとかいう場合が2次元でも3次元でもありえるのでは??と思うんだけどその場合はどうしろっていうんだろう??