はてなキーワード: 苦痛とは
三浦先生の訃報を聞いてから時間が経ったが、ショックすぎて気持ちがまとまらないのでここに吐き出させてほしい。
リョナ趣味の後輩から「主人公のやられが多くて興奮するから見てくれ」と勧められて以来頭にはあったが、グロが怖くて読んでいなかった。でも受験を終えて燃え尽き症候群に陥っていたから、この際フヌケの自分を変えてくれるならグロでもなんでもいいかと思ってなんとなく1巻を手に取った。
なんだ、この漫画。主人公がめちゃくちゃやさぐれてるじゃねえか。自分の巻き添えになった爺さんのことも何とも思ってなさそうだし、美少女が建物から落ちそうになってんのに助けないのかよ。
ジャンプ漫画の清く正しく美しい主人公しか見てこなかった自分にとっては衝撃的な展開の連続だった。
人を助けないし、自殺教唆するし、お供の妖精はいじめるし、一体なんなんだこいつは。
けれどもそういう殺伐とした殺るか殺られるかの世界観は、案外すんなり肌に馴染んだ。
これは自分の家庭環境がボロボロで、現代日本なのに親と殺るか殺られるかの戦いを毎日繰り広げてたからというのも大きいと思うが、とにかく「綺麗事で済ませない」といったベルセルクの雰囲気は自分の感覚に合うな、という印象があった。
親の金でユニバに行くクラスメイトよりも、親代わりのガンビーノを殺しつつも愛を求める気持ちを捨てられないガッツの方が身近に感じた。
ガッツが鷹の団に入るまでのストーリーは読んでてキツかったが(親代わりの大人に貞操売られてぶち殺すってどんな話だ?)、黄金時代のストーリーは面白くて夢中になって読んだ。ガッツの初仕事(川沿いで奇襲かけたあと殿ひきうけたやつ)の話も、ユリウス伯爵の暗殺も、ドルドレイ戦も、そんなに上手くはまるわけないだろと思いつつも毎回読んでてワクワクした。
読み進める度に胸が熱くなるようなシーンが次々出てきて、この先どんな物語が待っているのかとページをめくる手が止まらなかった。
(個人的にはプロムナード館での夢の話が好きだ。「夢に支えられ、夢に苦しみ、夢に生かされ、夢に殺される」……夢を表した言葉としてこんなにも的確な言葉は珍しいと思う)
そして黄金時代も佳境に入り、グリフィスが全てを失い絶望の果てに蝕を起こす。
無数のモンスターに対峙する鷹の団の見開きの絵を見たとき、初めて気がついた。
バカなので蝕に辿り着くまで三浦先生の絵の偉大さが全く分かっていなかったのだが、大量のモンスターと鷹の団の苦悶の表情を前に、三浦先生の凄さを""分からされて""しまった。
びたびたと飛び散る内臓。好きだったキャラクターの割れた頭蓋骨と、はみ出した脳みそ。どういう骨格をしているのかよく分からないがとにかく気持ちが悪いことだけは分かるモンスターの群れ。一度見たら忘れることのできないガッツの咆哮の表情。抜ける女体。死ぬほどイカした造形の新生グリフィスことフェムト。
ゴッドハンドの女が「愛、憎悪、苦痛、快楽、生、死、すべてがあそこに……」と言っていたが、まさにその通りだった。読んでるだけで頭がおかしくなりそうだったし、自分が体験したわけではないのに脳みそを上下に全力で揺さぶられたような衝撃で心がめちゃくちゃになった。
蝕のシーンがショッキングすぎてトラウマになり、心ここにあらずな日が続いた。授業も全部上の空だった。何をしていても蝕のことが頭をちらついた。あんな凄惨な光景は二度と見たくないと思うのにもう一度触れさせるような、魅力を越えた魔力があった。蝕の絵は、麻薬だった。
蝕のショックから正気に戻った後は坂を転がり落ちるように、その時出ていた最新刊(36巻だったかな)まで一気読みした。蝕以上にショックなシーンはなかったが、ただただガッツの行く末を見届けたくて、三浦先生の絵が凄すぎてもっと見ていたいという気持ちが強くて、一心不乱に読み続けた。
(個人的には蝕以降のエピソードだとロスト・チルドレン(偽エルフの谷)の話が好きだ。エルフの女王の造詣がクリーチャーとしてクオリティが高すぎるし、女王になった女の子の親父が自分の父親にそっくりで「ああ、いるいる、こういうくそ野郎」「不幸な家庭があることをぼかさずに書いてくれるんだなあ」と、汚いことも忌避せずに描いてくれる姿勢に信頼が置けたからな)
やがて奨学金を借りつつも大学生になり、バイトを始め金に余裕が出てきたので、スイパラのコラボも行った。
普通ならサンリオみたいな可愛いものとコラボするようなところがなんでベルセルクとコラボした?と思わなくもなかったし、店内にはファンシーな雰囲気にはミスマッチなキャプ画が張られてて一種異様な空気が漂っていた。
どう見てもベルセルクファンの自分、場違いじゃねえか。コースターとポスター目当てで行ったが終始いたたまれなかった。
注文したベヘリットのチョコケーキは普通に美味かった。まあ中身スイパラだもんな。
そんなこんなでちょろちょろベルセルクコンテンツに触れたり、他の漫画やアニメに浮気したりしつつ、ずっとベルセルクは続いていくんだろうな、早く次の巻出ねえかなー、でも三浦先生には無理しないでほしいしな……と思いながら、年1ペースで出る単行本を追っていた。
相変わらず知り合いに「ベルセルクは良い漫画だから読んでくれ、トラウマになるとは思うが読まずに人生終わるよりいいと思う」と吹き込み続けながらいつも通り41巻発行の報を待っていたある日、そのニュースは訪れた。
何が起こったのか全く分からなかった。職場のトイレにいたのにどういうことなのか分からなくてしばらくぼうっとしていた。胸の上にどすっと重たい何かがぶつかり、心を胸の内側から弾き飛ばしてしまったようだった。
もうベルセルクの新刊は出ないのか。もう、三浦先生のお描きになった素晴らしい新作の絵を見ることはかなわないのか。
そのことが信じられなくて逃げるように仕事に戻った。全く効率は上がらなかったが、何もしていないよりかはましだった。
けれども何をやっても三浦先生がこの世にもういらっしゃらないのだと知らされた衝撃が消えることはなくて、明日会社に行くのをやめようかと一瞬考えた。
仕事を終え、訃報を聞いてから4時間ぐらい経ったあたりで、自分がもっとお金を落としていれば、先生に美味しいものを食べて気持ちよく寝てもらってと、健康的な生活を送ってもらえたのではないかと自分を責める気持ちが湧いてきた。
もちろん自分が高校生のときには既にベルセルクは大ヒット漫画だったし、その時点で三浦先生のポケットにはベルセルクマネーがドカドカ入っていたのだろうから、ファン一人がたくさんのお金をつぎこまなかったからこんなことになったというのは馬鹿げた考えだというのは分かる。
だがそんな考えが浮かんでくるぐらい、自分にとって三浦先生の訃報がショックだったのだろう。
結局当日はショックを受け止めきれず、友人に話を聞いてもらった。
自分にとってベルセルクがすごく大事な作品だったこと、もう二度と続きが出ないなんて信じられないこと、自分を責める気持ちになってしまったこと。拙い言葉での話だったのに、友人は最後まで黙って聴いてくれた。
それで大ベルセルク展が9月に開催されるから絶対に行こうと思っていることを伝えると、友人は穏やかにこう言った。
「そうだね。でもたぶん売り上げは関係者のところに行くと思うから、ご家族とか近しかった人に届くと思うよ」
この一言が、沈んだ心を救ってくれた。
一般的に言って、亡くなった方が気がかりなのはなんといっても残された家族のことだろう。自分の金が三浦先生のご家族のところに行ってその生活に役立つというのなら、天国におられる先生が安心してお休みになられることに繋がるはずだ。
ショックで放心状態になっていたが、友人のおかげで「大ベルセルク展で金を落とす」という目標ができた。
今年9月に大ベルセルク展が無事開催されたら、ガッツのマウスパッドと複製原画と烙印のピアスを買おうと思う。そのためにいらないものをメルカリで売って、給料から天引きする形でささやかながら貯金もすることにした。三浦先生がお亡くなりになられたショックは消えたわけではないが、今から少し楽しみだ。
新しい職場で催しの企画と運営をさせられるようになったんだけど
対象がしぼられてて、公募しても集まらない現場だから、基本的に直接アポ・テレアポしかできない
約束とか誘われるのが好きじゃない性格なので、他人にそれを求めるのがツラい
診断名は適応障害。生活上のストレスに耐えれなくなったときになる症状らしい。納得感ある。
薬は効いてるが、劇的に楽になるわけでもないので、それなりにつらい日々を送っている。毎日、「ここから逃げたいなぁ。いやどこに行っても逃げれないんだよなぁ」と考えてる。
そんな状況で冷静に働けるわけもなく「うー」とか「わー」とか叫びながら働いてる。リモートワークでよかった。そろそろ隣人に通報されないか心配している。
だいたい午前はつらい気持ちでいっぱいになって、ほぼ仕事にならない。以前は平気でできてたタスクにも苦痛を感じる。メンタルクリニックの先生には耐久力が落ちるのが症状だと言われた。なるほど。
自分をうまく客観視できないので、成果が出せてるかは自信ないが、とりあえず怒られてはいない。
パンデミックで乱された心をクスリで抑えつけて働くの現代的ではある。フィクションの世界だと、あんまりいい結末を迎えれない。
まじでつらい。
ワクチンっていうのは、増殖しないコロナウイルスみたいなもの、つまり、毒なんですよ。
増殖しないコロナウイルスを注射されたら、体の免疫系は、なんかヤバいものが侵入してきた!ってことで、
その結果として、コロナウイルスへの免疫が付くんですが、、、。
毒を打たれて、免疫系がフル稼働している時っていうのは、感染者と同じくらい苦痛が伴うんですよね。
体の全エネルギーを免疫に集中させるために、全身の動きを鈍らせてだるく感じさせたり、
この辺にヤバいものがありますってシグナルを痛みとして発信したり。
そして、一番最悪なのが、出来上がった抗体免疫がワクチンだけでなく、自分自身の体まで攻撃してしまう場合。
抗体が人間の体に元々ある物質に結合して、それが血中を流れるのですぐに血栓を引き起こしてしまう。
血栓が手足の末梢で起きるだけなら、その部分の血流不良になるだけで、かなりの痛みを伴うけど、死ぬことは無い。
だが、その血栓が心筋付近でできれば心筋梗塞、脳でおきれば脳梗塞で、こちらは死に直結しまう。
目を見開いたまま卒倒していた(=絶命)という状況は、まさに心筋梗塞で、
逃避は悪ではない
よくあるアニメにしろスマホゲームにしろ楽しみによって苦痛を和らげる意味でとても上質な麻酔薬ではある
だが麻酔薬におぼれていながらそのことに自分で気づいていないのはよくない
うつ病薬にしろアレルギー薬にしろワクチンにしろアニメにしろソシャゲにしろ
問題は過剰に使用すること、24時間それだけに頼って1種類の量が増えていくことだ
逃避したいとだけ思っている人は目の前の悪質な麻酔薬も掴んで人生からズルズルと滑り落ちていくからね
ガチャ禁とか自己コントロールできないなら逃避自体やめたほうがいい
プロテスタントあたりの宗教なんか労働と感謝こそ人生と定義づけてしまった
でもいま労働も感謝も非常に手に入りにくくなってしまった、いずれ死ぬ団塊の世代とコンピューターと内燃機関がすべてを若者の手の届かないところにもっていってしまう
「NTRが好きか嫌いか」というのは、「NTRを読んで苦痛を感じるか感じないか」ではなくて、「NTRを読んで感じる苦痛を快楽に変換できるかできないか」という話なので、「強く苦痛を感じる人ほど素質ある」のは事実だけど、「苦痛を快楽に変換できない人に趣味を押し付けるべきでない」ことと両立する。
でも、本来は食事を提供したくない人たちにも食事を提供しないと本当に必要な人たちも救えないんじゃないかなとも思う。
貧乏な子しか行けない施設だったら、そこに行ったらその時点で貧乏な子とみんなに教えることになる。
たとえ、服装や髪形、普段の雰囲気がそうだったとしてもそれを認めることは子どもにとってそれなりに苦痛なんじゃないかな。
それに、周囲の大人や子供たちがそういうものに理解がある人とも限らず、いじめの対象になる可能性もあるよね。
そう考えたら、本当に支援が必要な子ほど怖気づいて食堂に行けなくなってしまうかもしれない。
それより、100人に本音を聞くためのスイッチみたいな方式がいいよね。
その人にしか見えないランプが点灯したら無条件にスイッチを押す。質問にたいしてYesの場合もスイッチを押す。
そしたら、スイッチを押したことがばれたところで、ランプが点灯していましたと言い訳ができる。
同じように、みんなただで飯が食えるからと言っている飲食店なら、貧乏だからじゃない、タダだから食べに来たんですよという顔をして食べに行ける。
一年ちょっとの間だがパワハラ上司の元で働いてきた。暴力はないが、例えばミスをして原因を追求され説明すると必ず「本当に自分の頭で考えてる?ちゃんと考えて仕事したらミスなんて起こさないよね?」と詰められたりしていた。
そんな上司に怯える人も多く、私もその一人だった。通勤の電車で泣くことも多々あった。
そんな上司に耐えてたけど結局クビになり、今別の職場で働いてるが、これがもう天国みたいで驚いている。
■挨拶が返ってくる
それもあって自分から挨拶しなくなったくらいだ。今の職場は挨拶する前に挨拶してくれる。当たり前のことだけど感動してしまった。
■質問しても不機嫌にならない
前職では入社してすぐでも「質問する前に調べてくれない?人の工数を奪ってることを意識して」と言われていた。
そんな職場だから誰もわからないことを聞かないし、わからないことをそのままにしてミスが多発していたのだが。
今の職場では「わからないことは積極的に聞いて欲しい」とすら言われるから驚きだ。
「そんなのこの業界にいるんだから知ってるよ!」って内容も含めてマンツーマンで丁寧に教えてくれる。ただただ感謝しかない。
■雑談がある
雑談なんてしたら殺されそうだったから話せなかったけど、今は雑談ができる。すごい。
前は一緒に働いてる人が未婚か既婚かも知らないほど関係が希薄だったから。
■話が通じる
前は忙しすぎて頭が回ってないのか、説明しても話が通じていないことが多々あった。
ありがたい。
こういう職場で働いてるからか、前の職場でやらかしていたケアレスミスがなくなった。
確認してるのに間違えてる〜なんてこともかなり少なくなって、仕事もやりやすい。
多少のやりがいはあるし、なかなか楽しく働いている。
ただ、前の職場が職場だったので、若干抜けきれてないところもある。仕事中の雑談に若干怯えてしまうし、小さいミスでも怖くてしつこく確認したり、少しのことでも平謝りしてしまう。
前みたいにミスをしても反省文を書かされたりミーティングで嫌味を言われることもないんだけど、完全に癖になってしまってるんだろう。
徐々に今の職場に慣れていきたいな。
明日も頑張ろ。
結局あのあと自殺未遂した。で、自殺未遂のあと結局どうなったかというと、今は学部時代以来に久々に止まっていた時間が動き出したかのようになった。
自殺未遂以前の状態は最悪だった。自殺未遂する以前の数年間は今思っても哀れ以外のなにものでもない。
通っていた病院の先生の治療方針は、身体的な問題に対するうつ状態へのアプローチだった。睡眠不足・睡眠の質が原因、野菜を食べること、運動すること…
私は、謎の原因で毎日毎日つらかった。まず朝起きたくない。起きたら一日が始まってしまうから。さて、起きたらどんな一日が始まるか。自分の出来なさに対する懺悔、今日こそは打破するという決心、しかし動かなくなってしまった身体。いや、正確には謎の夢から醒めるところから。夢の典型パターンとしては、謎の義務やルールが存在していて、それを私が知らないうちに破ってしまうこと。そして、私には次の仕事があること。朝、目が覚めると、「私はまだあの仕事が終わっていない。起きてはいけない。戻らなきゃいけない‥でも夢なのか。あれは夢なのだから、現実のやらなきゃいけないことをやらないと‥」と毎朝朦朧とした意識のなかで目が覚める。目が醒めてもベッドから起きない。かろうじてくだらないまとめサイトには指と脳が動く。そのうちに睡眠欲が私の頭を殴ってきていつの間にか寝てしまう。そしてまた夢を見る。これを3回くらい繰り返すと14時とか15時になっていて、流石に大学に足に運ぶ。日が少しずつ傾き始めている通学路を歩く。コンクリートの匂いと鳥の声と木のざわめきがする坂を歩いていく。火照ったからだを冷やすため、あるいは冷えたからだをあたためるために売店で飲み物を買う。そして、研究室に向かう。少しでも運動量を増やそうと思ってひんやりとした研究棟の階段を登る。けれど、なんだか貧血がしてくる。階段の踊り場で壁によりかかる。そしてまた、動く決心をして研究室の扉を開く。そして笑顔で研究室の仲間に挨拶する。おどけて笑って、研究室の後輩にフランクに話しかけたり、留学生の生活上の困ってることを相談されたら、そんなの私がかわりに電話してあげるよ、と言う。そして、まったく働かない頭をデスク前に置いて時間を過ごしていく。そんなイツモドオリの日々。
もう6、7年もこんな生活だ。もうさすがに破綻だろう。だから、1ヶ月まるまる実家でなにもせず過ごしてみたりした。医師の言うことをやってみせた。毎週2、3日は大学の温水プールで泳ぐか、ランニングをした。緑黄色野菜も食べた。睡眠も不足にならないように8時間はかならずキープした。でもよくならない。
だれもいない更衣室、塩素の匂い、誰かのシャワーの音。どこか遠い場所でのことみたいだった。100メートルも泳げなかった私は1キロメートル泳げるようになっていたころにもそれらの感覚は鈍いままだった。
ランニングするのは嫌いじゃなかったけれど、走っていると思考が自分を責めていく。このままではいけない。けれど、そう焦っている事自体がだめだ。リラックスするべきだ。次の計画はどうしよう。まずは健康が先決だ。うつ状態の人はセロトニンが分泌されていないらしい…
学生の間ずっとお金がないので自炊は得意だった。かぼちゃ、ほうれん草、トマト、キャベツ、ブロッコリー、牛肉、豚肉、鶏肉、鮭、納豆、豆腐、ヨーグルト。こういったものをよく食べた。家で作ったご飯を大学に持っていって食べたりしていた。
でも、もうネットサーフィンくらいしかできないくらいになってしまった。研究はしていたけれど研究風のなにかであって、先生に、もはやタスクレベルに分解してもらって、それをようやくとりかかるもこなすことができない。
普段イツモドオリの私だけれど仲のいい先生たちには徐々に私のくらさを露呈していくようになる。
けれど先生たちはそんな私にも良くしてくれた。どこかイベントに誘ってくれたり、意味のない雑談を何時間もしてくれたり。けれど、良くしようと思ってくれればくれるほどただ苦しいだけだった。
暖かい日差しのもとで、木々の木漏れ日が湖畔を彩っていた。そんな素晴らしい風景も、たしかにきれいなのだけど、きれいなものを見ても心動かされない自分の状況の衰退が際立たせられているだけに思えた。
鈍っていく自分の感覚、自分の感覚がどんどん信じられなくなっていく。
リストカットなどをしたら痕が残ってしまう。だから、痕にならない針を腕にさして苦痛を感じた。「こんな私でも痛いときちんと思えるんだ」という安堵があった。
これを読んでドキドキしている。
これまで新生児や乳幼児が可愛いと思えず、大学の女友達グループラインとかで出産報告とともに写真が流れてきても、右に倣って「可愛い」というのも苦痛で、スルーしてきた。
妹の出産予定日が過ぎたばかりの今、増田の記事を読んで、もうすぐ身内の子供を「かわいい」と言わねばならない日が来るのだとふと思って怖くなった。むしろなんで今までその考えに至らなかったのだろう。
親には、自分が新生児や乳幼児が可愛いと思えないことをカミングアウトしていて、一応理解はしてくれていて、例えば従兄弟が赤ちゃんを見せに来ても、私は顔を合わせなくていいようにしてくれていた。
しかし今まで、妹とその話をしたことがあったかが定かではない。(もしくはしたけどもっとライトだったか、かなり時間が経っていると思われる)
体調がずっと悪く、入院も経験した妹(今もこれからも精神的にも不安定なのではないかと思われる)に今更この話を振ろうとも思わない。
自分の子供は別だ、はよく聞く。でも自分の子供ですらキモかったと言う人もいる。
結局のところその時にならないと分からなくて、一目会おうものなら目に入れても痛くないほどかわいくなっちゃう可能性も万に一つくらいはあるが、どう考えても、かわいいと言わざるを得ない状況になりそうな可能性の方が高く、憂鬱だ。憂鬱だと思ってしまう自分を責める気持ちもあって、ここに吐き出しにきた。
この時期に妊娠出産を決意した妹夫婦を尊敬するし応援しているし、できることは手伝うつもりではいる。
でもそれとこれとは話が別なのだ。どうか強制しないでくれと願う。でも「かわいいでしょ」聞かれたら、複雑な顔で「ソウダネカワイイネ」というしかないんだろう、大人だもの。つらい。
コロナ禍をきっかけに、各大学が相次いで導入したオンライン授業。その現状と課題を探ろうと、東大が全国の大学教員を対象に調査を実施した。寄せられた回答の自由記述欄には、教員たちの嘆きの声があふれていた。
「カメラがオフだと、(学生は)いくらでもさぼれてしまう」。国立大の40代教員(人文社会教育系)は自由記述欄でオンライン授業の欠点をそう指摘し、「(授業中に)たまたまカメラがオンになった学生が、外でマラソンをしていることがわかった」というエピソードを紹介した。
また、私立大の40代教員(理工農系)は「対面・オンライン両方で参加できる授業では、対面を希望する学生の多くが、(教室で)他の学生に課題の答えを教えてもらうなど、さぼることを目的としている」とぼやいた。
「学生にさかんにカメラをオンにするように言ったが、従ってくれたのは1~2%だった」(私立、人文社会教育系、60代以上)と嘆く教員もいた。
大学での非常勤や、社会人教育をやってますが、言うほど大人数でのオンライン教育で、学生、受講者の顔を見たいですかね? わかった、わからないをリアクションボタンで反応する、くらいはあってもいいですが、カメラの表情を重視すると、むしろ「困ってる顔をしてるんだからサポートしてよ」みたいな甘ちゃんばかりになりそうですが。
別に、マラソンしてようが寝てようが、授業が要求する水準のアウトプット (テストなりレポートなり) が出せるなら、それでいいように思います。大学の90分授業ならまだいいですが、社会人教育で9時17時、ライブでずっとカメラオンで真面目そうに振舞わなければいけない、というのは苦痛でしかないですよね。
会社には100人弱がいて、事務員の自分が毎日全員の席を回り、よくお店でやられるガン型検温機で体温を測り記録している。
普通の会社は報告義務とか機械の設置とかで対応しているだろうけど、最初に社長命令でこの仕組みになって以来もう一年三ヶ月ほどやらされ続けている。
社員に書類を配布するなど、とにかく席を回って話しかける行為に苦手意識があった自分にとってこの作業は人生最大の苦痛で、慣れることはなくどんどん無理になっていく。
他人に左右される要素が多いのがストレスを増やしていて、まず定時制ではないから出社がバラバラで、一日に何度も何度も何度も席を立って、他の仕事に追われながら「まだ測っていない人」を意識し続けなければならない。
夕方に遅刻して来る人なんかは、その人だけを測りに席の間を縫って行くのが気まずい。だから結構諦めたり測ったふりで記録してすませるが、その罪悪感やバレた時への恐怖がストレスを日々募らせる。
出社時刻に席へ行ってみても既に会議や喫煙でいない。電話中やオンライン会議中、仕事の会話中も話しかけられない。検温しますと言っても集中力が大層お高いようで気付かれず何度も呼んだり、無反応のまま測ったり。
いざ測っても髪の毛や汗で上手く測れない。最初は測り直しを頼んでいたがもう面倒だから適当な体温を言っている。稀に基準値を超えるとガン型ではなくワキに挟む体温計で測り直させるが、ちゃんと測ると平熱だから大騒ぎされたりする。大体、基準値を超えたところで「帰ってください」と上司先輩に言えるか?
やっと退社して解放されたかと思うと次の朝にはまたリセットされて、また100人近くを測る。朝一で検温を開始する前に中々踏ん切りがつかず立ち上がれない日も多い。精神が良くない日だと涙が出てきて、一通り終えてからトイレで大号泣したことも何度もある。
最初は「コロナは夏(2020)には終わるだろうし」と希望を持って耐えていた。が、一向に終わることはなく、ワクチンを二度打ち終えるのは2022年になる気配がある。ワクチンを打ったところで検温の習慣を誰がいつどのような理由で止めてくれるだろうか。
こんなのは形でしかないと自分以外も気付いているだろう。それでもなんとなく安心感と「やってる感」を得るためにいつまでも続く気がしてならない。
とにかく転職すればいいのだけど、この失業全盛期にどこへ転職すればいいのか。今は職があるだけ恵まれていると分かっているからこそこの会社を手放せずにいる。
こんな思いをしている事務員が他にもいるだろうかと検索しても全然探し出せない。でもレストランや病院で客相手に日々検温している人も地獄を見ているのかもしれない。
同じ思いをしている人にしかこの地獄は伝わりづらい。だからどうかこのエントリが同志の目に触れて欲しい。
明日が来ればまた検温しなきゃいけない日で、死にたいよな。出来るだけ適当に意識を保って、精神リソースを割かないようにして、どうにか生き延びような。
Twitterを一年半くらい放置していて、久々にTLを更新したら旧友たちの入籍報告がチラホラあってウワァ〜〜〜となったので自己嫌悪と自分への言い訳を書く。匿名って素晴らしいですね。
27歳を過ぎた頃、入籍やら結婚報告やらを目にするたびに全身が粟立つような感覚が起こるようになった。
劣等感が足の先から頭のてっぺんまでザワザワと這い上がり、一日はそのダメージを引きずってしまう。
劣等感を持つこともそもそもおこがましいはずで、出会いがないのをわかっていて行動しない自分が悪いし、給料を自由に使いたいから恋人を作りたくないし、他人と生活を共にするのも苦痛だ。
フラグを立てるのとへし折るのだけは得意で、ちょっと好意を持たれてもこいつないなと梯子を外されるのもたぶんもの凄く早い。好意をまともに受け止めるのも、距離を取るのも上手に出来ないから、深い関係になる前に離れていってしまうんだと思う。単純に拗らせた喪女だと思われているだけかもしれないけど。
自信がないくせにプライドが高いから、恋愛をすることが恥ずかしいと思ってしまう。
小学生のときに受けた二次性徴の授業で恥ずかしくてふざけていて、担任の先生に真面目に聞けと怒られたときから、精神年齢が成長していない。社会に出て何年も経つのに、関わってきた人たちの入籍報告を目にするたびに自分がとても幼く感じる。
ほんの少しの好意に過剰反応してしまうので、好意を寄せてくれた人に対して、同じだけの好意を返すことができない。社会人になってから他人とまともに恋愛が続いたことがないのは、きっと自分の精神年齢の低さが露呈して、相手に失望されているのだと思う。
両親との関係性は悪くはないが、たぶんとても心配をかけていると思う。アラサーの娘との共通の話題が、好きな宝塚のトップスターの話だけなのが申し訳なくて、辛い。当然トップスターは悪くない。
田舎なので同級生が結婚した話や出産した話はとても早く回る。会話の中で、本当は旦那や子供の話をしたいんだろうなと申し訳なくなり、帰省するたびに気が重い。そこそこ可愛く産んだはずなのにと親が嘆くたび、そこそこ可愛い女は早々に結婚出来ているはずなので、そうでない時点で産んだ娘の顔面レベルが並以下だということをそろそろ察してほしいなと思う。
なんとなく外面が良いので、職場では真っ当な人間だと思われているようだが、仕事さえなければ一人で永遠に引き込もれるし、連絡が来てもまともにレスポンスが出来ないので年々日常的に連絡を取り合うような友人が減り続けている。学生時代は友人が多いつもりでいたけれど、気づいたら片手で足りるほどしか残っていない。孤独死が怖いから、両親に申し訳ないから、結婚したい。努力も行動もしていないのに、毎回毎回劣等感でどろどろに融解されるのをやめたい。
高校で男子校に入学して以来、女性と付き合うきっかけを完全に失ってしまった。
それは前述したように、学校での同級生が同性で遊ぶ方が楽しいという雰囲気に包まれていたため、あえて積極的に女子と仲良くなろうという気にさせなかったのだ。
なぜなら現実世界では絶対にかかわることのできない女子が夢の中に出てくるのだ。
寝るのが楽しみで、起きている間はとても苦痛だった。
その時はとても楽しい夢だった。
だが、30年間続くとさすがにうんざりする。
夢によく出てくる同じクラスだった田口さんや豊島さんは、自分と同じ44歳である。
夢の中では自分と恥ずかしそうに喋っているが、そんな恥じらいはもうないだろう。
もう田口でも豊島でもなく、別の苗字を名乗って、それぞれの人生を着実に歩んでいるだろう。
その時は全く楽しいともつまらないとも思っていなかったその時期が人生のピークだったのだ。
毎日が楽しいというわけでもなかったが、後から振り返れば、それが楽しい毎日だったのだ。
青春というのは残酷で過ごしている間は青春と感じさせず、あとから気づくものらしい。
でも、自分の人生のピークがあのときで終わりなんてとても悲しい。
普通の中学生なら当然に過ごせた1年間が自分にとってのピークだったのだ。
昨晩も体育館で馬跳びをしている女子を筋トレしながら見とれる夢だった。
時代錯誤も甚だしい。
そしてさっき昼寝をしたときに見た夢は、中学校の裏で同じクラスの女子と胸をドキドキさせながら喋っていた夢だった。
教室掃除のあと、同じクラスの女子と一緒に学校の裏のゴミ捨て場にゴミを捨てに行くのである。
現実ではこんなことは一度もなかったが、夢の中の自分は、半ばこれが夢であることがわかっていたのだろう。
夢から醒める前にせめて積極的に話しかけて幸せな気持ちを味わいたいのである。
話しかけた相手は、少し恥ずかしそうだけど、楽しそうに話を聞いてくれた。
ただ、起きて現実を知ると、その夢は幸せな夢ではなく、むしろ悪夢である。
悪夢を見た人が現実に戻って、「ああ、夢でよかった」と感じるらしいが、自分は違う。
李徴は役人という身分まで手に入れたのに、詩人としての名声を手に入れるため、官職を手放し、放浪し、遁世し、人食い虎に変身してしまう。
李徴の気持ちがわからなくもないが、それでも彼は役人になる過程で、嫁や子どもも手に入れ、最後に名声を貪欲に手に入れようとしたため、失敗した。
生きることの大変さって人によって全然カラーが違うと思う、健康面、経済面、自尊心、愛情などなど、いろんな大変さがあるだろう。
一定の時間に寝て起きて決まったとおり暮らすというのがまず苦痛。それと同じで、物を定位置に戻すのもできないし、同じ教室の同じ席に座り続けるのも、90分黒板や教科書を見てるのも、決められた敷地内で半日以上何年も過ごすのも、ごわごわの制服を着てるのも苦痛だった。ゴミを決まった日に出すのも無理。料理なんて無理すぎるし、すぐ包丁落とすし、冷蔵庫のものを腐らせないのも無理。でもこれらの一つ一つ、本人的にはめちゃくちゃ努力している。ルーティンを紙に何回も書き出して頭に叩き込んだり、効率の良いやり方とか動線を考えたりすることに莫大な時間を使った。家事の本とか数十冊読んでノウハウは理解した。冷蔵庫内の配置とかね。でもできない。結局ぐちゃぐちゃになる。訳がわからない。とにかく、気づけばぐちゃぐちゃになっている。それが自然の理だ。人並みになんかできないんだ。人が3秒で叩き込めるルーティンを3年かかっても叩き込めない。家に帰ってから先に風呂なのか飯なのかみたいなところから、ルーティンにできない。飯を食いたいときしか食えないし風呂に入りたくないときは入れないんだよ。
同じことを決めたとおり続けるのが自分にとっては不自然で、そのときそのとき、目に入ったものに気を取られてしまう。雲が綺麗なら雲に見惚れてしまう。
思えば学生の頃は良かった。サボりたいときはサボって、ぎりぎりで集中的に単位を取り、浪費したりバイトで稼いだり、時には外で遊び時には引きこもったりしていた。アパートは薄暗く宇宙みたいにぐちゃぐちゃで床が見えなかったけど心地よかった。計画的なことは全くできないけど、計画するのは好きで、そのとき頭に浮かんだことを集中して形にしたり、一気に文章にしたり、「気が向いたときに過集中して一気にやる」というやり方ならできることは多い、受験とかもそれで乗り切ってきた。まともな人間になろうという欲と引き換えに何かが変になっちゃったんだ。
無理して、人の真似をして、普通っぽい顔をして普通の暮らしをして表面的には適応してるけどいわゆる注意欠陥多動傾向があると思う。仕事をまともにこなすために私生活は全然ダメでくたくた、家に帰ったらのびてる。自分に言わせればこれが当たり前だよ。どうしてみんな分刻みに間違えられない管理状態の「まとも」な生活を平気な顔してできるんだろうか。はあ。
自分は人の上に立つべき人間ではない、下に置かれるのがお似合いだという考えが染みついているので、マゾになる。おそらく、こういう人間は責めに回っても違和感を感じてあまり興奮しないし、虐げられると一種の安心感を感じるまである。
自分は無価値・無力だという思いが強いので、自分より優れた人間に従属=同化することで付加価値を得たい。いわば虎の威を借る狐。
自分より優れた異性に劣等感を煽られたり、欠点を馬鹿にされて屈辱を味わえば、性的興奮に昇華できる。つまり、マゾになることで自分が劣った存在であることを正当化できるのだ。
④優しくされた経験が乏しい
人に肯定されたり、認められたりしたことが少ないので、優しくされても違和感が生じる。何か裏があるように感じてしまう。そのため、冷たくされたり虐められたりする状況にどこか居心地の良さを感じる。
自分との性行為を相手が嫌がるのではないかという不安があるため、自分から求めることができない。相手が求め、自分がそれに応じるという受け身の姿勢しか取れない。
苦痛を与えられることで、罰せられた気分になり、罪悪感が和らぐ。
攻めるということは相手のために能動的に動くということ。マゾな人間は相手のほうから自分を求めてくれることで自分は愛されているという実感が得られる。さらに言えば身体の拘束は肉体的にも無力な状態に陥ることから一種の幼児化ともいえる。
無論、上記の考察はすべてのマゾに当てはまるわけではない。劣等感の裏返しでサドになる人間もいれば、自身もあって、愛情に植えていない人間だってマゾになることがある。あくまで一つのパターンとして考えてほしい。