はてなキーワード: 権威とは
いろいろオタク文化があるけど殆どの人間がそれが流行ってるから好きなんだろうが
それでいいじゃねーか
なにを斜に構えてんだ
おまえらは所詮そういった流行りが好きなだけのコミュニティ人間なんだよ
人がいないところには寄り付かない 圧倒的にその姿勢が正しいよ
増田もそうだ
どっかでバズった増田みて流行ってそうだから居着いてるだけだろ
そういうもんなんだよ
おまえらはコンテンツの良し悪しではなく集客力の良し悪しでしかものを見てない
だから斜に構えないでくれ
おまえは紛れもなく一般人だ
(追記)
こんな権威もクソもない増田に対してイラっと来てしまうのならそれこそ一般人なのだ
他人の評判が気になる
周りを気にしてコンテンツを選ぶことをやめない限り大波に乗るものでしか無い
自分が心から良いと思えるものでさえそれは他人から植え付けられた価値観の寄せ集めでしかないのだから
奴らには良し悪しはわからない いや おおよその人も良し悪しなんてものはわからないのかもしれない
すべての波に乗れば大波にのるのは簡単な事 しかしそれは同時に大変な事 それゆえ評価される評論家は博識者ばかりだ
一個の流行に乗って良し悪しを語るような奴はコミュニティへの生存戦略として間違っていない
おまえらはそれでいい
ラーメンハゲの言う「あいつらラーメンを食べているんじゃない。情報を食っているんだ」が昨日のNHKスペシャルで科学的に証明されていて驚いている
A、B両グループに同じ料理を食べさせる。Aには不味そうな料理名。Bには美味しそうな料理名にすると味の評価が変わるという実験。結果はこの通り pic.twitter.com/0zjyuBrhIq— oukaichimon (@oukaichimon) February 24, 2020
だがそれで正しいんだよ
おまえらはなんにも間違っちゃいない
世の中、自分個人にとっては快(美)だけど道徳的には悪い物とかいくらでもある
「快不快で言えば俺はこっちが好きなんだ」という場面はいくらでもある
でないと気が済まない種類の人がいる
「正義という権威」に頼らないと「可愛い物が好き」って胸張って言えんのか?
(現実の女子は社会的権威なんか気にせず自分の快不快だけに正直だよ)
フェミも発想が男と同じだと思う
東京,神奈川,千葉,埼玉(, 茨城)が出身の首都圏生まれは、全然価値観が違うと感じる。
もちろん例外はあるが、大抵の場合は当てはまってるように思う。
腐るほど人がいる中で平凡に生きるのはつらく、出世してのし上がりたいという気持ちがとても強く感じる。
「上京」なんてものはないし、海外に行くか、東京の中で何かをやることでしか自己肯定しにくいのかもしれない。
そして、「腐るほど人がいる中でのし上がりたい」という価値観は、
時には人を踏み台にすることを厭わない。
搾取したり、他人の成果を奪ったりしてでも権威を得たいという人が多いように感じる。
優しさがあり、深い人情があるように思う。
これは、村社会であるほど他人との繋がりや助け合いが大切な環境だったからだと考えている。
地方生まれで他人を搾取したりする人はなかなか見ない気がしている。
これは自分が優秀な人が集まりやすい職場にいるから余計にそういう人が集まっているのかもしれないが、
自分のようなお人好しで気弱なお上りさんは、よく搾取されるのでしんどい。
与沢翼とかマナブとかどうせ首都圏出身だろと思って調べたら、ああ、やっぱりな。と思って書いた。
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俺はだめな世界観を持ってしまっていたことに気づけました。ありがとうございます。
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田舎にいると、カルチャー的なことで競い合うような人間が周りに少ないから、人とは違う変わったことをやろう、という気持ちになりにくい。 だから都会に出て競い合うような仲間と出会うことがとても大事
男は自殺率が女より高いという話から「男はコミュ障の強がりでストレスを溜め込むからね。でもワタクシはママじゃないし男のストレスは男で解消してね♡」というクソみてえな主張が最近目立って来たので書く。
男性の自殺率が有意に高いのはコミュニケーションが下手とかそんな話ではなく(だいたい下手なんじゃなくてプロトコルが違うだけだろ)、受けているストレスの量が多い≒背負っている責任が重いせいだ。男性自殺の原因トップは経済的な困窮であり、それは友達と話をしたところでそいつが連帯保証人のサインをしてくれない限りストレッサーから逃れる術はない。
日本社会は未だにジェンダーの縛りが非常に重い。扶養控除なんて制度もそうだし、親権が母親に無条件に寄るのもそうだし、医学部の女子に対する入試差別、職場での男女雇用の不均等…あらゆる場所で昔からある「男は仕事、女は家庭」が幅を効かせている。
社会の主役は男性であり、女性は家庭や私的空間を守るためのもの、というのは建前としては消滅したが、未だにあちこちに実在している。
この点については男性も女性も概ね合意が取れると思う。男女差別が存在しないなどと思っている奴はほとんど居るまい。
さて、そうした男性特権の向こう側には特権に比例した責任が発生する。中世の貴族であれば権威を継承する者として、共産主義国ではブルジョアを打倒する模範的同志として、そして資本主義国としては経済の主体としての責務を自動的に背負う。資本主義国で生まれた男子は、程度の差こそあれ「自分が今日の糧を食いつなぐ」という理由と並行して「国家構成員の責務」として金を稼ぐことを求められる。女子は、差別によってこの社会の責任から排除されているのでこれを背負うことはない(多少解消されつつある現代的に言えば「少しは背負っている」が)。
ここで「男ってバカね、意地なんて張らずにそんなの捨てちゃえばいいのに」なんて思った人間も居るかも知れないが、国家がそのイデオロギーを維持しているのはどこかのハンコついた文書に書いてあるからではなく、常に社会の構成員の大多数がそのイデオロギーを実践しているからであり、それが維持されない、誰もが気軽に社会的責任をポイしちゃう国家はその国体が維持できない(ナウルみたいになっちゃうぞ)。気軽に捨てちゃえばいいなどと言ってのけるのは、それこそ責任を持たない者の発言である。
つまり資本主義イデオロギーからの圧があり、男子は絶えずその圧に晒されている。そしてイデオロギーそのものを否定することは不可能(本当は可能ではあるが…今の所資本主義よりうまく行ったイデオロギーがない)で、プレッシャーから逃れる術はない。立身出世しなければならない。大人になったのに親に食わせてもらうことは恥だ。子供部屋おじさん。勝ち組、負け組…そんな言葉が未だに現代に漂うのはこうした圧力が実在することの証左である。
翻って女子の方は、差別によって権限を剥奪されているので社会的な責任が薄い。出世しなくても馬鹿にされないし(させないのだから当然である)、本人が無職を望んでも多方面からごちゃごちゃ言われない(ごちゃごちゃ言われるのは逆のバリキャリとして生きるときだ)。親に扶養されてて情けないと言われることもないし子供部屋おばさんなんて言葉もない。逆に家庭に対しては男子より多くの責任を負わされ、子供の面倒(母乳信仰など最たるものだろう)や地域コミュニティの行事など多くを強制させられるのだが。
この権限と責任の差によって男子は敗北が許されず、弱音を吐くことが認められにくい。責任を果たすために特権を得たのだから負けてはならないし、負けたら資本主義イデオロギーの実践者としてはもう後がない。実際には福祉がありそこに落ち着くが、資本主義イデオロギーの強いアメリカが福祉をアカ扱いする性質があるように、福祉の世話になることはほぼイコール資本主義社会の責任から降りる事を指すので、圧を受け続けた人間ほどここで死を選んでしまう可能性がグンと上がるのは想像に難くない。こうして経済的困窮による自殺が男性に寄る。
フェミニズムの運動とはこうした性差別を排除し、社会へ進出し、女性に強制させらた役割にNoを突きつけ、男性だけが得られた特権を女性にも等しく分配させるための闘争である。
よって、男性から回収した権利には当然責任が伴う。男と同じく、資本主義の無限の競争へと身を置く責務である。社会進出とはつまりはこういうことであるし、少なくとも初期のフェミニズム、ウーマン・リブ運動においては責任ごと請け負う気で女性たちは動いていたと思われる。
少し前に「フェミニストだけど彼氏に養ってもらいたい」といった大学生の記事が出ていたが、とんでもないことである。それは「5000兆円欲しい!!」とかと同義で、お前今まで大学で何勉強しとったんや、教授もうんうん言ってる場合じゃねーぞ、と思ったものだ。
遡って表題の話をするが、こうした権限移譲によって男が抱えて離さないもの…そして背負わされているものを女も手にするということは、奪われたものを取り返す事であると同時に、一つのものを両者で分け合って背負うということでもある。つまり男性の自殺率が高いという話に対してフェミニズム的にすべき話は「こっちも働いてやるから権限をよこせ」であり「男性のことはアテクシは知りませんわよ」などという態度を取るということは、結局のところ未だに自分は社会の中央でなく、主たる責任はどこかの誰かの男性がやってくれるという態度そのものであり、フェミニズムから最も遠いあり方である。
余談であるが、自殺数の男女差でなくそもそも絶対数が他国より多く、過労死がそのまま英語になっている不名誉な現状については上記のジェンダー論ではなく労働問題のレイヤーである。ジェンダーは受ける責任というベクトルを決定付けるもので、その方向に従って加圧されるパワーは純粋な労働量に依存する。そもそも我が国の働きすぎ問題がマシになっていれば、比率はともかく絶対数として死んでいる人間の数は減っていたであろうことは自明である。個人的には、女性が男と同じく過労死するほど働くよりは、男女がそれぞれほどほどに働く未来を夢見たい。
握手券商法でCD売り上げの権威が落ちてオリコンとか誰も気にかけなくなったという感覚が多くの世代にあると思うんだけど、
さすがに鬼滅の興行収入千と千尋まで超えちゃうと今までの映画産業って一体なんだったんだろうなって話にまでなるよな
コロナで上映数をチートしてるとか、PG12で動員数をハックしてるとか、特典商法でリピーターを盛りすぎてるとか、前置きなしにストーリーが始まるこれは映画と定義していいのかなど真面目に考えれば批判はいろいろあるわけだし。
まーでもそもそも1位が300億って額としてしょぼいよねって話もあるけど。
なんか映画って多くの人が関わってADが夜なべして味噌汁作って100人とか色んな才能を磨いた人が関わってやっと1億超えたら御の字とかこんなのビジネスモデルとしてしょぼすぎるし、手がかかりすぎるよな。
ある広告がモノ化と批判されるのを、「企業 対 モデル」の話だと勘違いしてるの? 話をズラしたいのなら、ちょっと悪質かな。
たとえばあるアニメが「女性をモノ化してる、女性差別だ」と批判されたとき、「アニメ会社は声優をモノ扱いなんてしてない」って言っても、何の意味もないでしょ? あるいは「〇〇たんは差別なんてされてないであります!そもそも二次元ですしpgrwww」とか言っても、可哀想な目で見られるだけだよね。
広告でも同じ。モデルは広告の中で、あるキャラクター(例えば〇〇社の製品を使って幸せになってる架空の誰か、みたいな人)を演じてるに過ぎないよ。批判されてるのは、その架空世界やストーリーそのものであって、それを演じてる誰かではない。その架空世界やストーリーそのものに差別的な構造があるとすれば、それは結局のところ作り手の思想なわけで、つまりこれは「その広告のクリエイターの思想 対 世間」の話なんだよ。思想そのものは自由だ。でも、それを世間に向けて「表現」という形にするなら、厳しい批判にさらされることは覚悟しなくちゃいけない。
そして更に言えば、広告が企業にとっていわば「顔」である以上、クリエイターの背後には当然ある会社などの考えそのものがあるわけで。ある企業がお金かけて差別的なメッセージを「世間」に流したら、それは明らかに批判されるべき行為だよ。無自覚にやってるなら修正と自覚が必要だし、自覚してやってるならそれはヘイトスピーチだよ。
昔は、ある思想が「表現」として世間の目に触れるまでには何段階もの目が入って、明らかに炎上するような偏った思想はチェックされてた。まあ、世間もおおらかだったんだけどね。ところが、インターネットやSNSのせいで「個人の内心表明」がすぐ「全世界に向けた宣伝」に直結した。さらに、Twitterなどの「嫌なら見るな」式のクローズドSNSは、規制の眼の入らない小さなコミュニティを大量にネットに作り上げることを簡単にしてしまった。その結果「偏った思想の人ばかりの村」ができ、そこで、「個人の内心」を垂れ流しても別に問題ないじゃんね、みたいな誤った認識が育てられることになった。それに対して公的な規制がかけられつつある現在、その住人らが「思っただけで取り締まられるのか!表現のじゆう!」みたいに騒いでいる現状、これはとても面倒くさい状況だと思う。
ここからは余談。
人々が神秘に弱かった時代は、「神様」の権威の下に社会の制度を作ることが、もっとも「オープンなコミュニティ」を作る最適解だった。
その後、少しの合理性を備え、でも人と人がまともにコミュニケートできず力こそパワーな時代には、強者が「民の声をよく聞く」ことが、「オープンなコミュニティ」を作る最適解だった。
コミュニケートのレベルが少し上がってくると、王個人の資質によらずシステムとして「民の声を聞く」、すなわち民主主義が「オープンなコミュニティ」を作る最適解となった。
そしていま、コミュニケートの手段が飛躍的に加速した現代、その手段が逆に人々をクローズにしている状況で、民主主義が適切に機能しない状況を迎えてしまった。
(これは別にTwitterが悪いという話じゃない。彼らは人々の欲求に応えただけで、問題は、そういうクローズなコミュニティを求めてしまう私たちの方にある。)
民主主義が本当に息絶えてしまう前に、私たちは、新しい「オープンなコミュニティ」を作る思想を作り上げなきゃいけない。
それは何か。ヒントはおそらくこれまでの数千年の歴史の中に示されているだろうと思う。
クソみたいな零細企業で、ずっと赤字の自称スタートアップに行って搾取された話を書こうと思う。若い人たちにインターンは大手に行った方が良いよ、じゃないとタダ働きか、無駄な時間を過ごされるか、電話番をやることになるよ、という話を書いていこうと思うのだが、需要あるかな?
要約すると、こういう感じ?
長くなるから、不要になりそうなら、書きたくないんで聞いてみたい。ちなみに自分は当時、人工知能の勉強をしてた学部生でした。今はインターンを教える立場になったので、ボチボチだとおもうけど、当時は搾取されているのに気が付かなかったので、益田で注意喚起したいと思うようになった。需要あるかな?
ワイは人文系の若手研究者だけど、その主張は端的におかしいよ。
たとえば医学とかだと医者のいうこと聞くのが一般的だと思うのよね。時々、医者やワクチンはインチキです、〇〇を信仰すれば病は綺麗になくなります!みたいなキチガイいるけど、あれは普通にキチガイじゃん
でも人文系にはなぜか、その学問の学位すら持っていないのに、したり顔で頓珍漢なご高説垂れる輩が多いのよね。ワクチンキチガイと同レベル
事実に関してはフェミニズム研究は優れた業績を残していると思うよ。これまで男性中心の歴史観や批評によって無視されてきた女性の歴史や女性文学を発掘したり、見逃されてきた性差別の存在を明らかにしたり、そういった研究の存在を踏まえずにテキトーなこと言うのはニセ科学と同列でありえない態度だよね。
アメリカのリバタリアンの間には反ワクチンと共闘してワクチンの義務化に抵抗する人たちがいる。彼らの主張はこうだ。「政府は子供の身体に何を入れるかを強制すべきではない。それは親が自由に決めるべきことであって義務化には反対」
この主張は、医学的事実が正しかったとしても成り立つ主張だよね。これに医学的見地から反論するのは無意味で、政治信条を表明して(つまり意見を表明して)争うしかない。そして政治信条というフィールドでは、医者も素人も対等な主権者として扱われるべきだろう。それが民主主義ってやつなのだから。
これをフェミニズム研究に当てはめてみよう。「○○のような技法は性的に対象を消費するために編み出された技法である」は事実だけど、「性的消費は悪いことだ」というのは意見だ。「会議で女性比率が○割になると女性の発言力が○割アップする」は事実だけど、「会議の構成員の○割は必ず女性にすべき」というのは意見だ。
事実の領域では専門家の研究成果は尊重されるべきだ。けれど意見の領域では、専門家と素人は対等な主権者のはずだ。
フェミニストの主張が社会に影響を与えることを目標にするのなら、専門家の権威を捨てて素人と意見を交わすことを受け入れないとおかしい。もちろん事実の面では自分の専門性を尊重しろと言ってもよいが、意見の面では、自分は専門家なのだから自分の意見に従えと言っても通らないだろう。
(ちなみに、哲学や思想研究の専門性というのは、一貫した「意見」の体系を構築することにあるのだろうと思っている。人はときに矛盾した意見を言ってしまう。しかしあらゆる立場に対して一貫した意見を構築するというのはとても大変なことで、古今東西の文献を集めて様々な意見を比較検討してようやくできることだ。様々な意見のパッケージを社会に提供することが彼らの社会的存在意義なんだと思う)
「ワクチンには効果があるからワクチンの接種を義務化すべきだ」という意見ではリバタリアンを説得できない(彼らは、前段の事実が仮に正しくとも後段の強制を正当化できないと言っているので)。多くの人の生死に直結する公衆衛生の問題ですら意見が対立するのだから、いわんや表現や自由といった問題においてをや。フェミニストはまず、自分が尊重されてしかるべき領域と尊重されなくて当然の領域を切り分けてほしい。そして、後者では自分の専門性を印籠として振りかざすのをやめるべきだ。
庶民に一冊の本も届かない時代にそれらを習得する(させる)には宗教システムを使うのが手っ取り早い。近代化で次々と宗教のバグが見つかり人類は宗教に絶望し緩やかに捨てた。
廉価大量の製紙技術は情報増大をもたらし宗教に頼らず個の判断で生きることも可能になった。
ネット時代に入り、さらなる情報過多は個人の知を向上させず混乱を招いた。
人類は他己による
の基準を求め始めた。
集合知、民主的な意思決定。欠点は無い。SNS同調はロジカルな収束だ。
特に推論は過去の知識と経験と言語と感情、様々な脳機能を組み合わせる必要があり、
右脳左脳脳幹前頭葉すべての部位で大量の酸素と糖が消費される。
これは人体にとってはコストパフォーマンスの悪い活動である。
丸太を右から左に移動させる単純作業ではエネルギーは筋肉で消費されるが、本来ヒトを含む動物はこういった活動に最適化されている。エネルギー効率から見るとコストパフォーマンスが高い活動といえる。
片付けして身綺麗にしましょう
今後は、
やがて離合集散の時代を経て勝者いくつかのグループにまとまるだろう。
この動きはすでに始まっている。天皇信奉するネトウヨなどもそれ。
古くからネットやっている人間に言わせりゃンな事ナニを今更だろう。
ネット勃興時代からすでに指摘されており、2ちゃんねるでも散々テーマになった。
他人の感情を集めて煮詰めるには、調理と鍋と料理人が必要であり
例え調理人になれなくても、諦めて無自覚な具材になるよりマシだ。
そうだそうだ、久しぶりに筒井の「朝のガスパール」を読み直そう。
(筒井は30年前にこうなることをあっさり見破っていた)
「宗教を侮辱する自由」つって擁護してた文章もあったけど、それでもよくわからんのよなあ
宗教に権力や権威があるからそれを揶揄する自由が大事だつってもさあ、それはあくまでフランス革命までのキリスト教の話であって、現状あっちでマイノリティ様であるところのイスラム教とは全然違うわけじゃん
マイノリティを揶揄する時点でリベラルさんが言うところのヘイトスピーチとやらではないんですかねってツッコミのひとつも入れたくもなるだろう
なんでフランス限定ピンポイントで「マイノリティを揶揄する自由」をそんなに認めたくて仕方がないのか、えれー謎なんだよ
日本人には死んでも認めたくねえくせになw
だいたいがフライデーにたけし軍団が突撃して「私はフライデー」ってほどのバカバカしい話でしかないと思うんだけど、まあそれはそれとして
G○○gleに私はいましたという体で登録者数を増やしていたりオンラインサロン集客を行っていた人が現在炎上しています。今回はその人の話はしません。
(この方はググってみたり過去を遡ったりすると色んな意味で面白い経歴の方でした。)
今回のテーマは自分自身が騙されたというのにかばう人が相当数いるということです。
Twitterで社長やコンサルとかもフォローしている方も多いですが、その方たちは結果さえ出れば全て良しと言う考え方のようですね。
その中身とは一体何でしょうか?自分がいいと思ったものがいいと思っているということはないでしょうか?
その中身が人とかぶっている場合、ただ単に模倣しているだけの場合がほとんどです。出典元を出さないで自分が言ったことにしていないか確認しましょう。
やる気が出たので中身があるんだという場合は他人にやる気を出してもらう前に自分でやる気を出す方法を見つけましょう。
情報商材、サロン、マルチ、全てを否定するわけではありませんがそこで長く付き合える人を見つけるのは困難です。
お金のみではなく、同じ志を持つ仲間と出会えるように自分のスキルを磨きましょう。
結果とは一体何でしょうか?
ここではお金を稼ぐということが結果だとしてリストアップしてみます。
すべてお金を稼いだという結果になりますし、バレなければ大した問題ではないかもしれません。バレなければ。(大体は捕まりますが)
あの飲食店はうまかった!
あの方のおかげで私は救われた!
そんな声もあると思います。
間違いではなく、故意に偽装したものであなたはターゲティングされて集客されたということを受け入れましょう。
ジェームズ・ランディ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3)さんという方が霊能力者を偽装して信者を集め、その人達の前でネタバレをするカルロス実験を行いました。
カルロス事件とは、ランディがオーストラリアのテレビ局により、企画された多くの人とメディアを詐称した事件。もともとは、チャネリング(降霊術の一つ)の疑わしさに関する企画を、オーストラリアのテレビ局プロデューサーが「マスコミ含む自国民が捏造情報をどこまで信じるか」という企画をランディに依頼したことに始まる。
この企画の打診を受けたランディは、オカルトとは何ら無関係であった知人のホセ・アルバレスをチャネラーに仕立てるべくランディのもとで綿密な仕込みを行なった。仕込みの一つとして脇の下にボールをテープで留めてこれを押しつぶして腕の脈拍を止め、偽の仮死状態を作り出すトリックなどが含まれていた。そして、1988年に2人は「アメリカで話題の」「2000歳の精霊とチャネリング」という触れ込みとともにオーストラリアを訪れ、TV局に売り込みをかけた。アルバレスは名前を「カルロス」と変え、チャネラーらしく権威があり、もっともらしく見せる為の細工や小道具を駆使して豪州のTV番組「Sixty Minutes」に出演、ランディの使った手口は小型無線機を使った初歩的な手品とコールド・リーディング、カルトで良く使われているような文言を適当に散りばめた抽象的で仰々しい「カルロス文書」と名づけた即席の教義、そして「カルロス」ことアルバレスの演技も相まって大量の信者を生み、テレビの人気者となり様々な媒体が彼を「チャネラー」として取り上げた。彼らの「興行」はシドニーのオペラハウスのショウで最高潮に達し、このタイミングを見計らいランディが事の経緯を明らかにする。呆然とする者や騙されたと知って怒り出す者、中には意味が解らずカルロスを擁護し、ペテンだと明らかになったあとでさえカルロスとその霊的でもなんでもないメッセージを信じ続けた者も居たといわれる。
豪州の視聴者を含むメディアは全てが仕込みとヤラセと知り大騒動に発展、カルロスを「本物」として扱った番組は大恥をかく事になる。ランディは「電話一本で確認すればペテンだとわかるネタが数多くあったのに、メディアはその手間すら行わず、検証も怠り鵜呑みにし、何の価値も無い電波を視聴者に向かって流し続けた。かように人が簡単に騙されやすいと同時に、メディアを騙すのも造作無い」と喝破した。
ここでのポイントは、
中には意味が解らずカルロスを擁護し、ペテンだと明らかになったあとでさえカルロスとその霊的でもなんでもないメッセージを信じ続けた者も居たといわれる。
ここです。
騙されたというのにそのまま信じるという人は今も昔もいるということです。
これはバラバラになった元オ○ム真理教の信者が今でも教祖を信じていることと同じことと言えるでしょう。
自分が信じたものが問題を起こして、それが叩かれているときに自分が叩かれているというふうに錯覚してしまう人が多いです。
自分が信じたものは自分を形成する一つにしかなく、自分自身を構築する全てではないのです。
宗教やサロンといった縦社会のような場合、恋人やパートナーなど何らかの依存関係にある場合、依存している人が問題を起こした場合、その人を信用できない自分が悪い、そして世界が悪いと考えてしまう場合があります。
そのような人の場合、裏切りラインを作っていないことがほとんどです。
どんなことをしても受け止めないといけない場合はないので、その人は自分をどう見ているのか、集客された人たちをどう見ているのか自分でよく考えましょう。
会社でも人でもなんでも裏切りラインを作っておくと、そのコミュニティから抜けやすくなります。そこで引き止める人とは基本的に相容れないので早く抜け出しましょう。
わたしの場合は個人間で盛るのは裏切りラインには設定していませんが、利害関係で故意に盛ったり、嘘を付いたことに対して逆ギレした瞬間を裏切りポイントにしています。
自分自身を裏切らない自分を作ることが一番なのですが今の現代社会難しいですね。
嘘をついて人々をカモにしているかどうか、その目を養う事が必要になってしまった社会に対して私たちはどう生きていけばいいのでしょうか。
宙船を歌いましょう。