はてなキーワード: オンリーワンとは
面倒ごとから目を背けた上で応援する姿勢が取れる人が少なからずいる世界、が正しい
だから、自分から揉め事を作りに行ったりする人はフェードアウトしますし、人気が微妙なのはお気持ち表明の多さとどこで不機嫌スイッチが押されるのかわからん部分です。
どこで不機嫌になるとか説明しなくてもいいです、どうせそれもひっくり返すのはわかってるので。
お前らバズることしか考えてねえもん、俺が見てえのはそういうんじゃないし、たとえ気難しくてもそれを押して余りあるほどの魅力があるもの。
そしてバズることしか考えてない割に失敗を面白さに変えるとか、批判を認知した上で自分のギャグに変えるとか、そういうのが出来ない人は見てられねえもの。
あとお前いつ動画作るんだよ。お前の動画一覧一時間超えのアーカイブばっかで見てられねえわ。
お前が活動出来るような優しい世界かもしれねえけど、そんなもん底辺YouTuberも同レベルの活動しとるわ。それなのにVTuberってだけで視聴してもらえてるの申し訳なく思わないの?優しい世界に胡座かいて稼ぐ再生数は美味いか?その分この業界が他のゴミクソと変わらないと判断されるって理解しろよ?
いつまでも視聴者にヘラヘラしてもらえるうちが華だからな?お前が視聴者を煽れば煽るほど別方向に舵が切られた時どうなるかマジで知らんぞ。特定だけで済むならマシだと思えよ。
あとせめて音質くらいはどうにかしろ?人様に声聞いてもらうのに後ろにバイク通ったりする環境で撮れってアニメの専門の先生のところで習ったのか?
恋声も機械音声も正直オンリーワンだからな?それを押して余りある位の何かはお前にあるのか?
その天才の姿を見て、どう改善するかわからないならお前は一生そのままだから。
バズることを意識したお前にとってそこは優しい世界なんかじゃないから、YouTubeという土壌で変わらないまま行われる実力主義社会だから。
絵描きとしてデザイン、イラスト、漫画など様々な業種に携わってきた身で、これは重要だと感じること
・自分の代わりはいくらでもいるが、クライアントと「今、ここ」を共有しているのは自分しかいない。縁は大事に。
・自分の実力など大したものではないが、だからこそ伸びる。自分に厳しくしすぎず、だが甘やかしてもいけない。
・注力すべき眼前の仕事と、中長期的に目指すビジョンを並立させる。中長期的なビジョンがなければ、ステップアップのチャンスを見逃し、ジリ貧になる。
SNSで世界中のクリエイターを総覧できるこの時代に、オンリーワンであり続けることは難しい。
代替可能でも、さほど重要でなくとも、自分はクリエイターをやっていていいのだ。
そういう靭やかで弾力性のある自己肯定感を持った(合理化がうまいとも言う)人が
なにを当たり前のことを、と思われるかもしれないが意外とこれが理解されていない。
自尊感情を拗らせて攻撃的になりクリエイターや業界の「べき」を論ったり
「2018年という平成最後という最初で最後のそれたちに纏わる2018年」
書きたい、書けない、
見せびらかすつもりはないし
わかって欲しいわけじゃないし
自慢したいわけじゃない
でも
周りの目、受け取り方、個々の立つ今の状況で感じ方が変わる、私の本当の想いとは裏腹に。
こう言ったらどう思われるか
こう言わなきゃどう思われるか
今まで全く気にならなかったことがたくさんきになる
誰も傷つけたくない。
私にもプライドはある。
私だけが気付けること
私が誰のことも考えずに思ったこと
自惚れもある。
それすらも真似されることの意味
ほんとの私の想い。
すごく大好き
本当に幸せ
いつもありがとう
言いたいことは全て本人に伝えたはず。
それでよかったはず。
誇示すれば崩れ去る作り上げた「特別」
誇示するより大切な「特別」。
だからいいの、
いままでもこれからもずっと
ずっとそう
あるべき姿を
積み上げてきたの。
お花畑って呼んでね。
知らなくていいことは知らないほうが幸せ。
それ以外は目を瞑る。
それが
全部
酸いも甘いも知った上でいまのひとへ、
おりてきたから。
お花畑でいることを選んでいまここにいるの。
だから、
堂々としてないとダメって知ってる。
それでも、
不安になって、
ばっかじゃないの
なーんつって。
みんな知らなくていいよ
みんな知らない私信
内緒ばかり
わたしはみんなの言う
かわいい、
とは違う意味で
かわいいって呟く。
卑下する訳じゃない
でも、
よりも
「みんなと違う特別な私」
逃れられない、
ううん
手離したくない
優越感
いつまでこんな
浅はかなプライドと
自重気味なフリして
バカなフリして
いつまで
求め続けて
いつまで応えてくれる?
しぬまで特別にしてくれる??
わたしが
先にしにたい
いやよ
私を
思い出してくれないと。
特別にしてよね、
ちょっと前の日本は世界最強のテクノロジーを持つオンリーワンの国家だったからみんな余裕で良い暮らしができていた。今だって特にスキルがない人でも世界規模で見ればまだ凄くいい暮らしをしているわけじゃん。でも今はもっと低賃金の国でも技術レベルが接近してしまったので、前ほど余裕で良い暮らしはできない。
で、今悪い暮らしをしてる外国の人も死ぬほど勉強したり働いたりしてるわけ。それでチャンスをつかんでいい暮らしをしたい。
テスラとかも超ブラック労働らしいけど、そこまでして日本のメーカーに勝とうとしてくる。
日本人が示し合わせてみんなでスキルなくても稼げる社会にしようぜ、とか言っても、それは先進国の勝ちをこのまま固定したいってわがままを言ってるだけで、今スキル付けてる人に負けて世界の平均に近づいていくだけだから。
イラストレーター・声優のちからでキャラクターは魅力的だけども、ゲームシステムには限界を感じる。
思い切った仕様変更して欲しいところ。
ギミックとゲージ多すぎ。札で出撃制限かかるのにこんなに複雑なマップ、甲クリアできるの?
E5だけでゲージ3回に分けてあったり、ギミック解除しないとマップが一部表示されないとか初見で絶対わからないでしょ。
ネルソン、ネルソンタッチがオンリーワン性能過ぎて持ってない新規との格差が生まれそう(新規どれほど居るのかは知らない)
もう季節イベントで「比較的中規模」とか言うのやめたら?海域数固定にしたら?海域数はE5まで固定とか。
今回イベント延期してたけど、そもそもイベント期間が明示されてないの今どきのゲームとしてはどうなのと思う。もう5年経つし今どきのゲームではないけど。
とりあえず通しでクリアするところまではもっと楽にしてほしい。クリア後に難易度上げられないの謎すぎ。
専ブラとかツールを取り締まるのもいいけど、ユーザーに不親切なUIが累積した結果ということを受け止めてほしい。
新キャラを取り逃した後の再入手までが長すぎ
イベントで実装されたキャラがまた入手できるようになるまで時間かかりすぎじゃない?ほぼ年単位では?
張り付き強要しすぎ
普段から張り付いて資源カンストさせてないと甲勲章取り続けるの無理な設計は見直したほうがいいと思う。
基地航空隊、空母カットイン、戦闘テンポは相変わらず悪い。通信でひっかかるところ多すぎ。
HTML5で画像系の処理は速くなった分、テンポの悪い部分が目立つ。
戦闘だけじゃなくていちいち補給したり、任務受けたりもユーザーに不親切すぎる。
いい加減轟沈システムとかいうのやめたら?(課金アイテムあるから無くならないだろうけど)
毎度毎度、twitterで長々告知してて見づらい。
メンテ後に更新内容を10回近くに分けてツイートとか、何の冗談ですか?
運営のやりたいこと伝わってこなさすぎ
プロデューサーは雑誌に引きこもってないで生放送なり、プロデューサーだよりみたいなのをウェブページで配信したほうがいいと思う。
■まとめ
まさに言う通りだ。
もはやぐうの音も出ない。
店で会えばそれはそれは最高の時間を過ごすことができるが、プライベートで会おうということには一切ならない。
1年ほどたってようやくはじめての同伴ができたくらい。
だが仕事だとかそんなことはどうでもよくて、私はとにかくその彼女のことが好きなのだ。
理屈でもなんでもなく、とにかく好きなんだ。
彼女のことで頭がいっぱいになっている様はあたかも病気であるかのようだ。
とにかく彼女に癒されたくて、癒してあげたくて、包んでもらいたくて、包んであげたくて、大袈裟に言えば残された人生すべてを賭してでも彼女を守り抜いてあげたい。
心も体もすべて求め合いたい。
お互いがお互いにとって、ナンバーワンにしてオンリーワンのかけがえのない存在になりたい。
その他にもたくさんの感情が心の奥底から湧き上ってきてもう止まらないんだ。
…といったところで、想いが通じることはないだろう。
そしてまた満たされない日々が続いていく…。
ある物が何であるかは設計思想ではなく使われ方の実態をもって決まる。
設計思想通りに使ってもらえないのは設計が徹底していないからだ。
いや、表計算は数ある機能のうちのひとつとして重宝されてはいるが、実体はもっと複雑で、
DTPソフトでもあり、DBでもあり、メモ帳でもあり、電卓でもあり、プログラミング言語でもあるような
「エクセル」というオンリーワンの統合ビジネスソフトになり果てている。
「エクセルは表計算ソフトです!」と主張する人に限ってそれを説明できていない。
取引記録や伝票のようなマスタを保持するのはデータベースの仕事だ。
それに対し適当な加工をかけるのも本来クエリでやるような話である。
つまり、「エクセルは表計算ソフトだからDTPとして使うんじゃねえ!」と叫ぶ人は、
まったく同じ理屈により、エクセルをデータベースとして使うことも否定しなければならない。
文書をワードで、DTPをパブリッシャーでと言うのなら、マスタはアクセスで管理しなさいとなる。
表とはただデータを保持するものではない。データを「表示」するものである。
表はデータを整列し、計算し、出力する全ての機能を備えていなければならない。
当然、DTP的な要素もあればDB的な要素もあってしかるべきだ。
そういった全ての要素が結びつき、さらにその上にVBAが乗っかることによってエクセルは
エクセル以外のどのソフトにも互換できないような唯一無二の使い勝手を生み出しているのだ。
表計算でもDTPでもDBでもスクリプトでもあることによって発生する独特の使い方のコツというのがあり、
それはそれぞれ単体のソフトだけを連携させている時には絶対に役立たないようなセンスだ。
自動車の操縦のように、エクセルというソフトを手に馴染ませる必要がある。
だから、DTP的な使い方しかできていないようなエクセルユーザーに対して指摘する時は
「彼女」の話をしよう。
私は彼女に興味があった。
それは好意でもましてや悪意でもない、純粋な興味だ。彼女という人間を構成する全てに興味を抱いていた。
一概に「ファン」といっても不思議なもので、一般の人が思っているように「芸能人に恋愛感情を抱く」人もいれば、単に綺麗なものや技能が高いものを見て満足したい人もいる。
私はどちらかといえば後者寄りだ。
彼女は前者であった。
リア恋だのガチ恋だの呼ばれる層はそもそもファンと呼ばれること自体を厭うのかもしれないが、彼女は本気で恋をしていた。
私が彼女を知ったきっかけはとあるウェブラジオだ。ウェブラジオと言ってもどこかスポンサーがついていたり広告収入が発生するわけでもなく、彼女自身が自分のアカウントでとりとめのないことを話す音源であった。
彼女はそれを用いて同じように芸能人に本気で恋をしている女の子たちとよく対談をしていた。
彼女含め、その友人たちは皆普通の女の子であったけれど、彼女達のコイバナを聞くのが好きだった。
所謂、同担拒否を名乗る彼女に話しかけることは到底叶わなかったけれど、私はそんな彼女を面白いなと思っていた。
とある日、彼女のメールが読まれた一通後に私のメールが読まれた。奇しくも彼女と私は同じ日が初採用であった。
私は一方的に彼女を知っていると思っていたので、その連続で少し親近感のようなものを覚えた一方、彼女のTwitterを覗くと、彼女は採用の喜びよりも何よりも私に対する嫉妬心を露わにし、グチグチとうらみつらみを吐露していた。
名指しで!
ソーシャルネットワーキングシステムにおいて、誰かを匿名で叩くことも卑劣であるが、特有のハンドルネームをつける人間を名指しで批判することほどバカなことはない。
なぜなら、「ミサキ」だの「アヤカ」だのどこにでもいるようなありふれた名前でなく、例えば「サバ味噌」だとか「ビーフジャーキー姫」だとかオンリーワンの名前を名乗る人間は、一様に自己顕示欲が強く、そして必ずと言っていいほどエゴサーチをするのである。
まあ、この件に関しては私は彼女に以前より興味があったのでリストに入れて見ていたのだが、一方認知だと思っていた彼女が私のことを認識していた上に、彼女が露わにしていた感情はまぎれもない「嫉妬」であった。
確かに私が彼女に対して何をしたわけでもないが、当時は私もファンアカウントのようなものを持っていた上に、ツイッター友人が多くちやほやされていた私のような存在は気に入らないものだっただろう。
推し被りとして気に入らないアカウントであったことは間違いない。
ただ、顔も見たこともなければ、自分より優れているはずのない私に対し嫉妬心を抱く、その発想は私の中に持ち合わせていない感情であった。私に嫉妬したところで、ツイッターで声がデカイだけの私は推しと付き合えるわけもないし、そもそも付き合いたいとは思っていなかった。
今まで生きていたうちで名指しで「恋のライバル」と言われたことのある人間はどれくらいいるだろう。
少なくとも、私はこの一回きりだ(残念ながら)
「アイツがあの女と仲良くて気に入らない」ならまだわかる。それは少し身に覚えがなくもない。しかし「恋のライバル」という6文字はたまらなく美しい6文字だ。だってまるで私たちは少女漫画の世界にいるみたいじゃないか。彼女が主人公、推しが王子様。私はさながら推しの元カノくらいに位置するのだろうか?彼女の恋物語における序列三番目!それってかなりすごくない?!
だから、私は彼女をとても面白いと思った。私の彼女に対する興味は彼女が私に抱く嫉妬心と比例するように増幅していった。
私がROMっているのに気づいたのかはたまた別の理由があったのかは今となってはわからない。ともかく、鍵をかけられてしまうとフォローしていないアカウントの呟きは見れない。
私はその呟きがどうしても見たかった。鍵をかけられた時点で諦めるべきなのはわかっていたし、大抵のことはその時点で興味がなくなってしまうのだけど、彼女に対してのみは興味が増幅するのみであった。
もちろん、野次馬的な感情も少しはあったが、それ以上に興味があった。
私と全く違う観点を持ち、私を嫌う同い年の女の子。私はただ、彼女のことが知りたかった。
同担拒否を名乗る人間に丸腰で突っ込むのは死にに行くようなものだ。
しかも、認識されていないならともかく、私はどうやら彼女に嫌われているらしいから、フォローリクエストを送ったところでブロックされるのが関の山だ。
そこで、名前も年齢も住居も推しも全部デタラメのアカウントを作った。
北海道に住む大学院生、とある俳優が好きで本当に付き合いたいと思っている。スターバックスとたこわさが好き。お酒は好きだけど、飲み会は嫌い。
アイコンは適当な画像にぼやけたフィルターをかけたもので、Twitter初心者なので呟きは控えめ。推しに認知されたくはないが、他のオタクには負けたくない。
全てが彼女の上位互換である。当時未成年(成人してたかな)の彼女より3歳上で、人生もリア恋歴も彼女より先輩。滅多に呟かないけれど、人生はなんだかんだ楽しそう。
今思えば、実に稚拙であってバカらしい設定である。そんな胡散臭いアカウント、私だったら3秒でブロックする。
しかし、当時の私はそこまでしてまで彼女のツイートが見たく、彼女を知りたかったのだ。
フォローリクエストは2時間で承認された。バイトを終えてTwitterを開いたら彼女がフォロワーにいた。案外あっけないものだと思った。
私が、はじめましてのテイで彼女に話しかけると彼女も快く応対してくれた。中身は彼女があんなに疎んでいた私なのに、少し不思議で少し申し訳なくて、少し嬉しかった。
鍵になったアカウントはもともと彼女の本アカウントとは別に公開アカウントとして作られていたものである。
認知されたくないし、顔バレもしたくないし、仕事の関係者として彼に出会いたいくせに本名でメールするわ、公開アカウントを作る話をとはこれいかに、と思うところはあるが、私はそんな彼女の承認欲求と自己顕示欲を何より興味と好感を抱いていたのであった。
元公開アカウントの鍵アカウントでは彼女は色々なことを話してくれた。
詳しくは割愛するが、進路のこと、オタクが憎くてたまらないこと、コンプレックスのこと、彼女はそれをキャスと呼ばれるwebラジオのようなものを用いてよく話していた。
スマートフォンから聞こえて来る彼女の肉声はたまらなくリアルを感じさせ、彼女の実在を実感した。
それは、彼女に対する同じ推しを推すものとしての興味から次第に彼女への興味へと推移していった。
バイト先の人がウザいとか、昨日買ったコスメが可愛いとか、どうしたら押しと知り合えるのかなとか、顔も名前も知らな……(いでおこうと思ったけれど、彼女は普通にインターネットに載せる女だったので大体のことは調べずとも知ってしまった)……知るはずもなかったどこかの地方から東京へ一人でやって来た全く同じ境遇の少女の話が私は好きだった。
アカウントの呟きもプロフィールも全部デタラメだったけれど、最初の挨拶で言った「◯◯さんのことが好きで、応援してます!」はいつしか本当になっていたのかもしれない。
推しに彼女ができるとして自分と同い年の女は嫌だ。彼と同年代か少なくとも2、3下くらいの、間違っても私たちのようにまだ赤子に毛が生えた程度の小娘に手を出すような人間でないといいなと思う。これは私個人の感情でありわがままだ。
しかし、彼女だったら、推しへの嫌悪感の中でちょっとだけ「あいつやるじゃん」って思ってしまうかもしれない。
いや、逆に推しに対して嫉妬するかもしれない。いくら応援していた男であろうと、コイツを取られるのはなんだか癪だ。恋に恋して人生に悩む彼女をもう少し見ていたい気もする。
芸能人に恋なんて、根っからのオタクのくせにオタクを嫌って、毎晩毎晩悩んで病むなんてバカみたいじゃん。
確かにそう思うけれど、彼女のその青さや若さがどことなく眩しく、羨ましく思ってしまう私は確かに存在する。
あんな風にはなりたくないな、それは今でもそう思う。だけど、私の中で彼女はいつだって眩しい。
それは最初に彼女を見つけた時から今日まで変わらずずっと眩しい。
久々にあの頃を思い出してアカウントを覗きに行った。
なんと2年近く放置していた私の虚栄のアカウントはTwitter社の一斉排除にも耐えてまだ残っていた上に、彼女のたった5人のフォロワーに私の虚栄のアカウントが残っていた。
彼女は相変わらず、推しと結婚しようとしている。彼女の呟きは、痛々しく、そして眩しかった。
それはこの先もずっとそうだろう。
絵がとにかく描けない。
どのくらい描けないかというと、お絵描き教室で講師に沈黙されてしまうくらい。
おいおいそこはお世辞でも誉めてくれよ!
そんな周りの反応が辛すぎて辞めた。
でも漫画は描ける。
たまーーーーに褒められたりもするからどうにも諦められなくてずっと漫画描いてた。
でもオンリーワンで比較対象もなかったし、片手の数も売れなかったけど、それでも漫画家ごっこは楽しかった。
……楽しいつもりだった。
二年くらい経って「一回だけ参加します!」って絵が描ける人が参入した時に隣で長蛇の列が形成された。
隣の人は「出てよかった」ってずっと言ってた。
私ももちろん隣の本を買った。
感想を送ろうと思って「……いやでも隣の人、うちの本には見向きもしなかったよね」って気付いてわんわん泣いて、即売会に出るのはやめた。
それから何年か経って。
そのどうしようもない結末に一瞬でも幸せな時間を追加したくて、小説を書いた。
「あんまり読まれないだろうけど、自分が読み返せばそれでいいよね」
そんな気持ちでピクシブに載せたら、漫画よりずっといいねもブックマークもついた。
調子に乗って小説で薄い本を出してみたら、一回で印刷代もスペース代も交通費も回収できた。
小説は時々全然交流のない人がおすすめしてくれてたりするし、イベントで差し入れや感想をもらったりもする。
前回の近況報告から、ネットの情報を参考に「色と辛味を抜いた自作カレー粉」を調合し、それをガラムマサラとして使ってみたりした。
しかし、とうとう
「このレシピで本当に美味しくなるのか?」
という疑問を持つに至ってしまった。
そもそもこのレシピは、ガラムマサラやカレーパウダーの他にも、様々な調味料等を隠し味として使っている。
しかし…レシピの目玉であるガラムマサラの分量(4人分の鍋に小さじ2)以外、全て適量という、今思えば超上級者向け内容なのだ!
で、それを読んでるお前はどこの店でシェフやってるの?って話になるわけだ。
つまり、駆け出しの魔術師見習いが上級魔導師向けの本を読んで自爆している可能性を、ここに来てようやく考慮に入れ始めたと。
1年も延々作っていておせーよって感じ。
そこで、このレシピの具体的情報を探し回り、先日ようやく別ルートから、ごく普通のレシピ並に細かく分量が書かれた版を入手した。
レシピを読んでみて驚いた。
隠し味のうち、牛乳が大さじ1、その他の調味料が小さじ1と微妙な効かせ方に収まっているのに、デミグラスソースが大さじ2って、それもう隠し味じゃねーし。
確かにコクと旨味の強化には最高のソースだ。何しろプロがガチで作ったら一週間延々炊き込むんだから、味の濃さは半端ではない。
したがって入れれば入れるほど美味しくはなるのだが、反面この味が突出すると「ハヤシライス風カレーライス」みたくなってしまう。
そこで、カレーパウダーとガラムマサラ(各小さじ2)を乾煎りして加えることでカレーの香りも増強して「ハヤシ臭」を打ち消し、自然な形で旨味を取り込むと、そういうことだったのだ。
しかもカレーパウダーだけだと完全に欧州風カレーになってしまうので、ガラムマサラでインド系エスニック風味をブレンドし、ハイブリッド的オンリーワンを目指したと。
よく考え抜かれた、恐るべきレシピだ。
さて、そのようにして作られたカレーの味だが…普通のカレーでありながら、びっくりするほど大人のカレーだった。
単調でない旨味、程よいコク、爽やかな後味、余韻を引く辛み、それらが上品にまとまっているのは、まさに大人の風格。
なおカレールーは例の「リンゴとハチミツ」を押し出した、日本一売れていると言われ、ともすると子供向けとも揶揄される、まあ「よくあるカレー」の素である。
それを踏まえると、「子供向け」「よくある」感がどこにも残っていない、もはや換骨奪胎と言っていい仕上がりぶりには驚嘆するしかない。
この仕上がりに、ニンニクを炒めて香りを移した油や、バターでじっくり炒めた飴色タマネギ、インスタントコーヒー等が一役買っていることは容易に想像がつく。
即ち、ルーと野菜肉以外の材料がその力を総結集した結果だろう。
このレシピはそんな偉業を実現していたのだ。
ちなみにガラムマサラは、一番最初に使い、その辛さにひっくり返ったメーカーのものについて、唐辛子を抜き、黒胡椒の量を大幅に減らしたものを「辛みスパイス」ならぬ「香りスパイス」として売っていたのを使ってみた。
最初のは確かに辛かったが、香りそのものは結構好きだったから。
結果、とても上品な風味を活用できたので、今後はこれ指名で行く予定。
カレーパウダーはフェンネルとフェヌグリークが配合された「よくわかってる」メーカーの製品を採用。これまた大人っぽい仕上がりに大活躍である。
最後に、ビーフカレーのレシピということなので、肝心の牛肉の部位について。
カレーだと、中落ちロースもしくは中落ちカルビ、俗にゲタと呼ばれる、肋骨の間の肉が最高に美味しい事に気付いた。
骨が近いので、肉の味が超濃厚なのである。
とはいえオーストラリア産なので大して脂身のない代物を使っているが、些細なことだったり。
これをカベルネ・ソーヴィニヨンを使った赤ワインに一晩漬け込み、更に鍋で炒める前にコニャックを振りかけることで、口に入れるとほのかにブドウの風味を伴った旨味が踊り出して、なんとも愉快なひとときになる。
まあ中々売ってないので、その時はオーストラリア産のサーロインステーキをぶつ切りにして使うかも。
○本編
浮遊没収、道連れ仕様変更と逆風はあるものの、フェアリー環境なので一定の地位を確立。
いまやってないからよう知らんけども、メガガルがあれだけ強かった第六世代でもわりと見かけたその性能はさすが。
○ポケとる
ポケモンが揃う前は、下手に弱点を突くメガ進化を入れるより盲目的にゲンガーを採用してもそれほど間違い出ない程度には安定した能力。
ポケモンが揃い始めてからも、3匹ステージやパズポケ-1が有効なランキングステージなどで活躍する能力。
同じ能力をもちつつメガ進化スピードが早い色ギャラや色ミュウツーがいるものの、
序盤のメインステージで入手可能、メガスキルアップ一個で完成、弱点を突ける範囲が違う、などの相違点があり、最近もメガフーディンランキング戦で使った人もいると思う。
先日行われたプレトーナメントでは、1位、2位、3位の全員が採用しており、短期決戦というルールとマッチしていたことも合間って採用率は高かった。
最近は、同性能の色ゲンガーと色メガゲンガーがガチャでない定額で販売されるなど、運営的にも推しポケモンの様子。
MP3すり抜けは、コケコ、スカイシェイミなどがおり、メガ進化が終わると弱体化するゲンガーには向かい風もあるものの、
それでも、すり抜け+相手の移動を制限するその性能はオンリーワンかつ、初見殺しや、うっかりミスによるチェックメイト漏れを誘発し、今日も圧迫デッキのジャンケンゲーを加速させてくれる。
(つうか、このゲーム割りと上位陣でもチェックメイトの考慮漏れで勝てたりするから、複雑さがもう……)
○ポッ拳
ようしらんけども、最近あった大きな大会(KSB2018)では4位とか5位の選手が使ってたみたいだったので、まあ強いんでしょ。
(ただこのゲームバランスいいな、結果のページで被りがほとんどないじゃん。コマスターは見習ってほしい)
○ポケダン
ゴーストというだけで一定の地位があるものの、そこまで強かったシリーズはないかなあ?
(ポケダン青赤の妙に弱いイジワルズのゲンガーが印象深いせいかも、シナリオのお話の上では大活躍するんだけどね)
○ポケカ
次元の谷が入るデッキには入ることもままあるような、ないような。
まあ、GX実装されてないし?
なんだこれなんだこれなんだこれ。
あまりにスッキリしなくて映画館でてからも身震いのような気持ち悪さが引かず肩を縮こまらせてみたり腕を拭ったりぴょんこぴょんこ跳ねてみたけどそれでも気持ち悪い感覚が引かず最寄りの喫茶店に駆け込んでカフェラテを飲みながらこれを書いてる少し落ち着いてきた。
アニメ映画に限らずエンタメであることが求められるこのご時世にこれだけ監督が気持ちいいもの垂れ流しました的な物語が劇場公開できてかつ絶賛されてるのをみると世の中健全だなあというか捨てたもんじゃないなあと思うけどやっぱ許せそーにねーわっていうか辛い(言えたじゃねえか)。
でまあ何が気持ち悪いかっていうと希美なんなのアイツってことなんだけど。
本音言わないにもほどがない? ずっと嘘くせー笑顔うかべてるしさあ。一番「あ、こいつキチガイだな」って思ったのは優子がキレてるところでもニヘラニヘラしてたところだな。あそこは普通なら申し訳ない顔をするなり逆ギレするなり何なりリアクションがあったはずなんだよそれを普段と変わらない笑顔でやりすごすとかさすがに何なのコイツってなるわ。
そういう本音を一切語らない希美が描かれた末にみぞれが羽ばたいてあーこっから変化きますわ変化って思ってたら何も起きずむしろ語らなさが強化温存されてENDってさすがにねーわ音大行くのやめたのみぞれにけっきょく言ってねーだろ何だコイツ。
それでもメタ的にそれを指摘するパースペクティブが用意されてるならいいんだけど(嫌だけど)でも作品として「disjoint→joint」ってやっちゃうわけじゃん。いやこれで解決されてるとか主張するのはさすがにソシオパシス疑うわwww
もう少し話を整理する。
この話はTVシリーズからずっと続いていたみぞれの希美に対する一方通行的な気持ちにどう決着をつけるかって話だ。
みぞれは希美に対してオンリーワンだけど、逆はワンオブゼムにすぎない。お互いがお互いに抱いている感情が等価ではないという問題はこのふたりにずっと横たわっていて、TVシリーズ2期の序盤でこれを取り上げることによって一定の解決をみた(が、実はTVシリーズは視聴者を慮ってか原作に比べてかなり手加減したつくりになっている。原作ではこの落差を青春が持つ残酷さとしてストレートに描いており、解決がつくどころか希美の無理解さが強調されるエグみを持っていた)。
さて『リズと青い鳥』においては同名の架空の海外小説とそれを原作とした吹奏楽曲を補助線とすることでふたりの距離に改めてスポットを当てている。
『リズと青い鳥』はひとりぼっちのリズのところに彼女を哀れんで青い鳥が少女となってやってくるという話である。最初ふたりは幸せに暮らすが、リズはやがて少女が青い鳥だと気づき、彼女は大空を自由に羽ばたくべきだと主張する。ひとりぼっちだからといって己が鳥かごになって大空を自由に飛べる青い鳥を閉じ込めることは許されないというわけだ。それはリズの愛である。青い鳥はそれを悲しむが、リズの気持ちに応える形で大空へと旅立つ。
当初みぞれはリズに自分を重ね合わせる。闊達で皆の中心にいる自由な希美を遠くから眺め、自分なら青い鳥を手放しはしないのに、リズの気持ちはわからないと言う。だが臨時コーチの新山との対話の中で、青い鳥がリズの愛に応える形で飛翔することへは理解を示す。良かれとおもって彼女の元に来たことが却って彼女を苦しめるなら大空へと羽ばたく姿を見せることをもって彼女を幸せにするのだ、という解だ。だがそれは現実のみぞれと希美の関係にはそのままオーバーラップしない。
吹奏楽『リズと青い鳥』においてみぞれオーボエ希美フルートはそれぞれソロパートを担当する。曲の成否を決める重要なパートだ。だが希美のクオリティが低く、みぞれが無意識的にそれへ合わせることで滝も麗奈も納得しない出来になっていた。それをみぞれが「羽ばたく」ことで解消する。しかし希美はリズじゃない。覚悟を決めて申し出たリズと違って、希美にとってみぞれの「羽ばたき」は寝耳に水で目をそらしていたみぞれと自分との力の違いをまざまざと見せられることになってしまう。希美はみぞれに「手加減してたんだね」「みぞれはすごい。自分のような凡人とは違う」と醜い感情をぶつける。ここまでは理解できる。が、ここから先がないことは理解できない。事件は起きた。が、解決とまでは言わないまでも変化がないことは理解できない。みぞれと希美の関係は、あのなんか表面だけを取り繕っている妙な関係に戻ってしまうのである。本当に理解できない。
希美が音大進学を諦めたことは参考書を借りている描写からもわかる。くどいほどに強調されていた希美が一歩先を行きながらみぞれといっしょに音楽室に向かっていた今までから希美は図書室に勉強へ、みぞれは音楽室に練習へ行っていることからも道が分かたれたことは明確に描写されている。
だが音大進学をやめたことを伝える描写はないし、おそらくみぞれもそれに気づいていない(それぐらいノーリアクション)。希美はみぞれの目の前で参考書を借りているし、練習したみぞれが図書室で勉強していた希美と落ち合ってお茶して帰る描写があるので、現象として「希美音大進学あきらめた」はみぞれの目の前で展開しているのであるが、みぞれはノーリアクションなのでやはり気づいていないと考えるべきだろう。気づいてなお普段を演じているのだとしたら、希美以上にみぞれがぶっ壊れている(付言しておくと図書館が普通科の大学、音楽室が音大を暗喩し、それぞれを出て合流してお茶するところが、道が別れても一緒にやっていけることを暗喩してはいる(映画けいおんのセルフオマージュ感はあった)。しかしそれは言葉だけでそう表現されているに過ぎず、何も解決されていないことから額面通りに受け取ることはできない)。
事件は起きた。が、変化が起きないどころかお互いの距離と無理解が強化温存されてしまった。それなのに「disjoint→joint」とやってしまうのは、さすがに気持ち悪いとしか言いようがない。
ただ歩いてるだけであんな音はぜってーしねえと冒頭からツッコミ待ちな辺りそうとう振るっている。音がもたらす強烈な違和感によって、アニメーションだからこそ描き得る「体温」とでもいうべき何かが嫌でも強調され、作品の表現したい内容がプリミティブな形で視聴者の前に突き出される。
映像にしてもそうである。潤む瞳や流れる髪などアニメーション的誇張を重ねて表現された絵は、アニメーションであることの自覚ぬきに成しえない。アニメーションだからこそようやく可能な表現に挑戦した意欲作だと言える(アニメ『めぞん一刻』において、五代が「なんで泣くんだよ。なんで……」と言った響子さんの涙を思い出した。あれもアニメでなくては表現できないし、成立しない映像表現である)。
■2018/4/28追記
https://anond.hatelabo.jp/20180427225401
いやいや。
希美は内面を表情に出さない本心を語らない(いつも嘘くさい笑顔をはりつけている)キャラクタとして設定されていて、その強調として彼女を中心とするクラスタが表面的な付き合いに見えるような描写は繰り返しされている(むろん希美にはみぞれ以外の友人が沢山いる、希美しかいないみぞれとは違って、というためのものでもあるが)。
みぞれの後輩である剣崎梨々花が「先輩といっしょにコンクールに出たかった」と号泣するのはそれとの対比であり、畢竟、希美とみぞれ及びそれぞれのキャラクタの周りにいる誰が本心を語っているのかということを浮き彫りにするためにほかならない。
優子に詰められた時の対応などを見ても、希美が(本心を語らないという意味で)信頼できない語り手的登場人物として描かれていることは疑いようがない。そこから彼女が「変化」したと捉えうる描写もないため、増田が「濡れ場」と称する場面でも彼女の表情や言葉を額面通りに受け取ることはできない。
そもそも(原作)ユーフォは、みぞれと希美がそれぞれ相手に寄せる好意の量の差異を赤裸々に露わにし、青春とはかくも残酷なのだと描写した物語だ。物語がその残酷さに直面したとき、原作においては久美子が「うわこれキッツ」というようなリアクションを密かにすることで、それをどう物語として扱うかというパースペクティブが用意されている。が、リズと青い鳥にはそれがない。
希美が相談なく吹部をやめたことでみぞれはショックを受けた。相談がなかった、知らされなかった、自分はその程度の友人でしかないのだという事実が彼女を傷つけた。希美の音大やっぱやんぴはそれの繰り返しであり二度目だからこそ余計につらいわけ。だから優子はキレた(なのにニヘラニヘラしてやりすごす希美!)。じゃあ実際みぞれがそれを知ったとき彼女はそれをどう感じるのか、ということは「食事やトイレに行」く描写があるかどうかとかとはまったくもって次元の違う、映画において回避すべきではない描写にもかかわらず映画はそれ回避してしまう。ずいぶんと不誠実ではないか。
みぞれは最後、オーボエを続ける選択をする。それをどう解釈すべきか。
みぞれは希美といっしょにいるためにオーボエを吹いていた。一歩下がってついていくようなみぞれは希美に嫌われたくない。だからオーボエも、希美に合うようにもっと言うなら彼女を超えないように抑えられていた。鳥が自由に羽ばたくところを見れば、地べたを這いずり回るしかない人間はあるいは鳥を嫌いになってしまうかもしれない。そういう恐れを鳥が抱いても不思議ではない。だが青い鳥は、リズに励まされ、大空を舞う。翼はもともと持っていたものだが、リズの励ましによって青い鳥はもういちど空を自由に舞うことを選択する。それこそが、あなたがわたしに望んでくれたことだから。だからこそ大事にしたい、続けたい。
という読みが妥当だろうが、納得してそう受け取るには希美が音大に行くことをやめたと知ったみぞれの描写なくしては無理だし、リズが青い鳥を支えたように希美がみぞれのオーボエを支えると口にされても、希美への信頼がゼロなのでそれは難しい。そういった明らかな構造的不足を映画は無視したまま終わってしまうので、信頼もへったくれもない。
ところでこういった感想は、映画を見て心で感じたことを言語化して初めてでてくるものであって、「小難しい理屈」などでは決して無い。ということぐらい最低限理解してからコメントをつけるべきだろう。