はてなキーワード: ねじとは
難解な文章を読むのには言語能力の高さは必要だけど、ヘタクソな文章読むのには言語能力の高さは必要じゃない。というか、ヘタクソな文章なんか本当は読まなくていい。
ヘタクソな文章ってのは文章としての能力が低いので、高い言語能力があっても読み解くことは不可能。
山田悠介の初期の小説の文章なんかクソオブクソだけど、言語能力の低い若者層にはバカウケだったでしょ。
小説を読むにあたって
1.設定とシチュエーションを読む
の二つの目的が存在していて、まぁ、だいたいは入り混じってるんだけど
言語能力が低い人ほど前者を重視しがち、というか後者ができないからウエイトが前者に非常に偏る。
文章なんて大まかに意味が取れれば多少ヘタクソだろうが関係ない。
なぜなら文章の細かい文法とかねじれとかはそもそもよくわかんから深くは気にしてないから。
これがイキすぎるとどうなるかというと、匿名掲示板で一般的な「セリフだけのSS」みたいなことになる。地の文なんかいらんかったんや! 状況説明とキャラがいればそれでOK。
文章を書くという行為そのものの敗北であり、文章読むのが好きな身としては非常に原田大志ことではあるんだけど、それでも絵が描けないなりに何かを伝えたいというパッションを形にしたというところは評価でき。
デカルトといえば有名なのが「われ思う故にわれあり(コギト)」。ここから近代的自我が始まった。
自我というものの存在を確立したデカルトの三段論法は西洋に影響を与えまくったが、特に注意しなくていけないのは神の存在を使わなくても自我の存在を規定できるという点だった。
でも実際のところデカルト自体はコギトから神の存在証明を行っている。神の存在を証明する時代の要請があったのだけれどそれについては後で触れる。
時代は流れてフランス革命が起こり国民国家が誕生する。国民国家が誕生すると神が死ぬ。
どういうことかというと、それまでの王による国の支配がどういう理屈で正当化されてきたのかということを説明する必要がある。
「王権神授説」というやつだ。それまでの王族による支配権は神が王に与えた権利だった。
神がこの世界を作って人間も作ったのだから神には人間を支配する権利がある。王は神に権利を与えられたので国民を支配する権利がある。
中世の神学者たちが大真面目に神の存在証明に邁進した理由がこれでわかるが、
彼らは頭の体操をしていたのではなく、国家の礎として必要な公共事業として神の存在を証明し続ける必要があったのだ。ご苦労さま。
ところが、王が打倒されて国民が自分たちの代表によって自分たちを支配する国民国家が生まれると、神は必要なくなる。
そして神に変わったものは国民の自我と理性のみとなり、国民は唯一絶対なものであるそれらによって自分自身の足のみによって立つことになる。
これにて「近代的自我」いっちょあがりだ。
なぜなら人間が生まれてくるのは神が「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」といったからだし、日本で言えばイザナキ神が妻ともめて「いとしい妻よ。あなたが千人殺すなら、私は、一日に千五百の産屋を建てよう。」といったためだからだ。
なので神がいる前提だと反出生主義は成り立たない。
フロイトといえば精神分析だが、あとで精神分析の手法が全然間違ってたということがわかったせいで、その功績についても一般的には忘れられている気がする。
フロイトの偉大な功績は2つあって、1つ目は「精神を科学のまな板の上に載せたこと」それ自体。
フロイトは夢分析の過程で人間が表層意識には浮かんでいない、既に忘却している過去のトラウマに影響されて現在の行動を選択していることに気がついた。
患者自身は自分が理性的に考えて選択した結果だと思っていても実は意識に登ってきていない「無意識」によって人間の行動や症状が変化する。
これはすごい発見だった。それまでは人間の行動は意識、つまり自我がコントロールしているとされていたのだから。
フロイト的無意識の例で言うと、チャップリンの「ライムライト」という映画がある。
あの映画のオチでヒロインは忘れていた過去のトラウマを思い出し、それを乗り越えることで身体的な症状も克服する。
これはフィクションだし、ちょっとフロイト的すぎるので、もっと卑近な例を出すと、
犬が苦手だなあと思っていたら、実は記憶にないくらい小さな頃に犬に噛まれたことがあった、とか
梅干しの写真を見たら、「梅干しをこれから食べよう」と意識しなくてもつばが出るとか(パブロフの犬)。
映画の映像の途中で肉眼では認識できないように一枚だけコーラの写真を入れておくと映画館でコーラの売上がのびるだとか(サブリミナル効果)。
こういう感じで無意識が人間の行動に大きく影響を与えるということは、今では常識にまでなっているけれど、これを言い出した始めの人がフロイトというわけだ。
フロイトは原始的な欲望とかが無意識の正体だと考えてなんでもそれで説明しようとして失敗したわけだが、(夢分析の本とか何でも性欲で説明しようとしていてやばい)。フロイトの後続の研究者たちは無意識の概念をさらに発展させていった。
表層意識に上らないのに人間の行動に影響を与えているもの、といえば「不随意運動」だ。
たとえば、眩しい光みたら瞳孔が小さくなるとか、膝を叩いたら足が上がるとかが有名だけどそれだけじゃない。
心臓が動くのを意識して止めたり動かしたりできる人はいないから鼓動も不随意運動には入る。
呼吸も意識すれば止められるけど意識しなくても止まるわけじゃない。意識しているときは随意運動で意識していないときは不随意運動といえる。
ところで人間の意識は脳の一部である大脳新皮質で起こっている反応であることもわかってくる。
脳のその部分以外で起こっているこのと大半も無意識下で行われている。細胞の代謝とか。
さらにさらに、全ての行動に当てはまるわけじゃんないみたいだけど、「人間がある行動をとろうと表層意識で考える一瞬前に、既にその行動を取るためのニューロンが発火している」なんて話も出てくる。
さてそうすると、どうなるかというと、人間が自分の意識で自分の体をコントロールしているという考えは実は間違いで、人間の活動の大部分は無意識がコントロールしていることになる。
意識が肉体(無意識)をコントロールしているという従来の主従の逆転がここで起こっている。
ここまで来ると「無意識」を拡張しすぎて「無意識」ってなにって話になってしまう。細胞の代謝のことを「無意識」という言葉でまとめるのは違和感があるから。
ここでいいたいのは「表層意識下に上らないすべてのもの」みたいな意味であり、一般的な言葉の「無意識」とはちょっと違うものになってしまうので哲学者はこれに「エス」とかいう名前をつけた。
意識ではなくエスが人間の行動を決めるのである。というか人間が何を考えるのかもエスが決めているといえるのだとするとコギトがおかしなことになってくる。
「われ思う故にわれあり」ではなく、「われ思わされているゆえにエスがある。われはあるかどうかわからない」に修正しなければならない。
「生きるのは苦痛である。苦痛でない場合もあるが生んでみないと分からないのでいわばギャンブルである」
「生まれる際に両親は子に生まれてもいいかという同意を取っていない」
「よって生むのは無責任であり生むべきではない」
しかし人間の9割は無意識下の存在であることを踏まえて見ると、見え方が違ってくる。
第一の登場人物である「子」は産まされるという受動的な立場ということになっているが、同意を取るべきタイミングには意識が存在しない。つまり無意識である。
無意識の相手に無理やり生まれることを強制するのかと反出生主義者はいうのだが、これまでの議論で無意識(エス)こそが人間の大部分であることをこれまで延々と説明してきた。
で、重要なことはその「エス」自体は生まれてこようとする方向性を持っている、ということである。
今だに現代人は意識がなければ何も決定することはできないと思っているが、むしろ無意識が先にあって意識が後から形付けられたといえる。そして人間の肉体の不随意運動は生き残ろう、という方向で行動を起こす。
精子の蠕動だって不随意運動だし、卵子の排出だって不随意運動なのでこれらはエスである。
胎児は産道を通るとき自分の体をねじって頭蓋骨を変形させながら外に出てくる。生まれてこようとする意志がそこには感じられるが、もちろん意識も自我もない。
だがそれらの反射が自分自身ではない、というのもおかしな話である。
それらが全て生まれてこようという方向に方向付けられているのに、「本当は生まれてきたくなかった」というのはどういうことなのだろうか。
自意識、理性を過大に評価するのが現代人の病巣であってこれは単に、いまだにデカルトの呪いがとけていないのだと思う。
「生まれてこないほうがよかった」という人間だって、それはそれで大変な状況なのは間違いないのだけれど、ひざを叩けば足が上がるし、急に熱いものに触れられたら自分を守るために手を引っ込める。
生きたくないとか言うけど呼吸は止められなければ、心臓は勝手に動いている。
どう見ても肉体は生きようとしている。
やっていることと言っていることが違う。
でも不思議なことは何もない。自意識なんて人間のほんの一部でしかないからである。
自己の定義を自我に狭めるべきではない。それは単にその方が精神衛生上いいというだけの話ではなく間違っている。
エスの定義は自意識に上がらないすべてのものと書いたが、哲学者によるとこれはつまり「自我」以外の「世界全て」のことを指すらしい。
流石にそこまで悟ることは難しいが、自己の定義を自分の不随意運動、や無意識の習慣程度にまで広げておけばデカルトの作った罠にはまらないで済む。
「F1マシンはトンネルの天井を走れる」という話を聞いたことがあります。
F1マシンには強力な空力パーツ(前後についてる羽根みたいなのとか)が装着されていて、この空力パーツは自重よりも大きいダウンフォース(車体を地面に押し付ける下向きの力)を発生させることができるらしいです。
もちろん、飛行機がじゅうぶんに加速しないと宙に浮かばないのと同様に、F1マシンの羽根も(飛行機とは正反対の働きだけど)じゅうぶんな速度で風を受けないと自重以上のダウンフォースを発生させることはできません。が、それはともかく、理屈の上ではF1は天井に張り付いて走ることができる。
そこでふと疑問に思ったんですが、空力的に天井に張り付くことが可能だとして、エンジンを始めとした自動車の様々な機構は、上下逆さまになったままでも動くんでしょうか? 重力に依存した仕組みがあった場合、逆さまにしたら正しく動かないのでは、と思うのです。
車体を逆さまに保つ方法や天井にくっつける方法は置いといて、自動車は逆さまでも動くのか考えてみたいと思います。
木下サーカスには、巨大な球形のケージの中を数台のバイクが縦横無尽に走り回るエキサイティングな演目がありますね。オートバイにできるなら自動車も同じことができるかな? と思ったのですが、よく考えたら、サーカスのオートバイはF1の天井走りとは条件がいささか異なることに気づきました。
サーカスのオートバイが球体の中を自由に走り回れるのは、遠心力を利用しているからです。高速で円運動をすることでオートバイを球体の内壁に押し付ける方向の遠心力が働きます。じゅうぶんな角速度を得て遠心力が1Gを超えたとき、オートバイは逆さまになることができます。
サーカスのオートバイにとって遠心力は常に「主観的に下向き」の力で、それはライダーにも車体にも、ねじの一本に至るまですべてに働きます。
どうやらサーカスのオートバイは(技術的にはきわめて高度なことをしているものの)物理的には平らな地面の上を正立して走っているのと同じようですね。私の疑問の参考にはなりません。
自動車の中で重力に依存する機構がないか考えてみます。エンジン関係や駆動系はそのほとんどが回転運動であり、重力はほとんど関係なさそうですが……。
エンジンのピストンは上下運動をしていますが、燃料が爆発する力に比べればピストンの重さはまったく問題にならないくらい小さいし、複数のピストンが対称的に動作しているので、ピストンじたいの質量の影響はどっちみち相殺されてしまいます。
そもそもシリンダーの向きが上下ではないエンジンもたくさんありますね。V型エンジンにはバンク角がありますし、水平対向エンジンはシリンダーが寝ています。そしてなんと(自動車ではありませんが)、飛行機のプロペラエンジンには、クランクシャフトをシリンダーが360度ぐるりと花びらのように取り巻いた星型エンジンがあるくらいです。これはもう上下関係ないですね。
しかし、ウィキペの星型エンジンの項目には興味深い記述がありました。
放射状にシリンダーが配置されるため、時計で言う処の3時と9時(水平)よりも下側に配置されるシリンダーはエンジンオイルが重力で燃焼室に垂れ落ちるオイル下がりが発生しやすくなる。
燃焼室とクランクケースの位置関係から「オイル下がり」と表現しているのでしょうが、クランクケースから燃焼室にオイルが入り込むことは一般に「オイル上がり」と言いますよね。星型エンジンではピストンの番手によって現象の呼び名が変わってしまうのでしょうか。なんだか違和感がありますね。
話がそれましたが、逆さまのエンジンでも星型エンジンの下部ピストンと同じでオイル上がりは起こりやすそうです。
ああ。待て。待てよ。
オイルパンってエンジンの一番下にありますよね。いや、エンジン内の循環はポンプで圧送しているはずなので、まさか重力でオイルパンに集めているわけではないと思いますが、ストレーナはオイルパンの一番底に口が開いていてオイルを吸い取っています。車が逆さまになるとストレーナは空気しか吸い込めなくなりますね。
つまり車が逆さまだとエンジンにオイルが回らなくなる。時々ひっくり返してやらないとエンジンがこげついちゃいますね。ハンバーグか。
ほかにもデフやミッションなどオイルがひたひたに溜まっているところはありますが、こういうところは密封されていて循環せずにいるので、車体がひっくり返っても影響はなさそうな気がします。
燃料にもエンジンオイルとまったく同じことが言えます。燃料ポンプはガソリンタンクの底に口を開けています。車が逆さまになると空気しか吸い込めなくなって、完全にガス欠したのと同じ状態になりますね。潤滑なんかを心配するまでもなく、燃料の供給がなくなってエンジンが止まってしまうほうが先ですね。
と、ここでまたふと疑問が。飛行機の背面飛行は燃料の問題をどう解決しているのでしょう。
調べました。吸入口がタンクの底にあるのは同じなのですが、吸入口を逆止弁のついた小さな小部屋が取り巻いていて、背面飛行したとたんに空気を吸い込むようなことはなく、この小部屋に燃料がある限りは背面飛行できるようです。勉強になった。
タンクの中を小部屋で区切るというアイデアは自動車でも採り入れられているようです。背面走行に耐えるような機構ではないにしても、傾斜路や急カーブで強い横Gがかかっても燃料供給が途切れないような工夫はされているようです。F1なんかは絶えず強烈なGがかかっているので何か特別な工夫がありそうですね(知らない)。
まあ逆さまでは動かないとわかったのでこれ以上考えてもしょうがないのですが、せっかく始めた考察なのでもう少し続けます。
冷却水も、循環にはウォーターポンプを使っているものの、重力に依存した設計が随所にありそうな気がしますね。ラジエーターは、上部のアッパーホースから戻ってきたクーラントがラジエーターコアの中を流れ落ちて行き、底部のロワホースから出ていく、という仕組みの車が多いです。
流れ落ちるのにポンプの負圧だけを使っているのか重力も援用しているのかは私にはわからないのですが、ともあれ、車が逆さまになった途端に冷却経路にエアを噛んでしまいそうです。いただけないですね。
影響なさそうな感じ。
足回りは、F1のように空力だけで天井に張り付くことができるならば通常のサスペンションと同じという気がします。
よく「バネ下荷重は小さいほうがいい」と言われます。背面走行車は小さいを通り越してマイナスという究極のバネ下荷重とも言えますが、足回りの性能に関係してくるのはおそらくバネ下の「慣性質量」だと思うので、やはり正立している車とあまり条件は変わらないですね。
フルードの出入り口がリザーバタンクの底にあるのでエア噛みが心配。
車の構造物は基本的に車体に固定されているので逆さまになってもほとんど問題はないと思います。フロアから吊り下げている排気管は荷重が逆になると何かにガチャガチャ当たりそうな気もしますが。
車内については、一番厄介なのはドライバーですね。通常の三点式シートベルトだと天井に落ちてしまうでしょう。四点式や五点式でもかなりつらいものがあると思います。ジェットコースターのように肩をがっちりホールドする仕組みがないと運転操作ができ文字数
私はADHD傾向のある腐女子だ。社交不安障害もあり、かれこれ四年間、精神科に通院している。
社会に出てこの方、ずっと漠然とした不安や恐怖と共に生きてきた。
思い返せば幼稚園の頃は潔癖症になって毎日苦しかったし、それがおさまってからもほんの小さなことが病的に気になったり、同級生と全然喋れなくていじめられたりと、あらゆることで悩んでばっかりだった。社会に出ると更にしんどいことだらけで、無能の私は仕事も三回クビになっている。私はこの県で一番役に立たない人間なんじゃないかな、とも思った。
二十六歳の時に勤めた職場で、人生の何もかもが面倒になって衝動的に車道に飛び込みかけ(今考えると迷惑な話ですね)、初めて精神科に行った。うすうす気づいてはいたが、自分がADHD傾向にあると改めて知った。
薬を貰うことで異常な確認癖は落ち着いたものの、どうにもならない部分もある。注意力散漫と衝動性は、長年の訓練もあって多少マシにはなったがやはり健康な人たちにはかなり劣る。コンサータ(ADHDの薬)は効き方にかなり波があるので全面的には頼れない。今の職場にはアルバイトとして入っている。数少ない友人が紹介してくれたところで、穏やかな人が多く、今まで渡り歩いてきた職場に比べればまだ馴染めている(かなりギリギリだが)。今のところまだクビになる気配はないけれど、色んな事情であと一年くらいしか居られなさそうだ。
基本的に流行りが過ぎたジャンルにしかハマらないけれど、一ヶ月に一~二万字の話を二、三本ほど書いてpixivにアップすれば、感想をくれる人たちがそれなりにいる。本を出せば少部数ではあるけどちゃんと完売する。
書いてる途中で飽きていやになっても、完成したらそれだけで嬉しくなるし、反応があってもなくてもまた書こうと思える。
いかんせん性格がねじ曲がってるので、自分の心の平穏のために他のジャンル民とは交流せず一人で黙々とやっているが、かなり楽しいし、これからも続けてゆきたい。
問題としては私の創作への原動力が『怒り』や『不満』や『恨み』であることだ。
日常がつらいほど、死にたいと思えば思うほど筆がのる。周囲の人間に腹の立つことを言われれば言われるほど、満足のゆく話が書ける。
今のジャンルも、書き始めたキッカケは逆CP腐女子がツイッターで自CPを検索避けもせずにボロクソに言っていたのを見て、腹わたが煮えくり返るほどメチャクチャにムカついたことだった。
それで怒りを昇華させられるなら良いのだろうが全然されないし、三年たった今でもずっとムカついている。とにかく私は恨み深い。自分を棚に上げて、人にされたイヤなことばかり覚えている。
だから、承認欲求が満たされ過ぎると書けなくなる。前にいた旬ジャンルを一年半ほどで移動したのもそれが理由だ。旬というだけで不当なぐらいにちやほやされるのは、嬉しいといえば嬉しいけどやっぱり合わなかった。
現実がしんどいので趣味の世界だけでも幸せな居場所を作りたいのに、私の創作活動はいつも何かへの憎しみに紐づいている。それがたまに辛い。
私が推しCPへの純粋な愛だけで話を書ける日は、二度と来ないんじゃないかと思う。最初は間違いなくそうだったはずなのに。
一億円あれば多少は心が豊かになるんじゃないかなと思って、宝くじを三枚買った。当たりますように。もしくは世界中のみんなが私ぐらい無能になりますように。
やたら中止で盛り上がってるけどめっちゃやってほしい
別に観戦なんて行くつもりなくてテレビで見るだけだけどめちゃくちゃやってほしい
観客入れようが無観客だろうがパブリックビューイングだろうがどうでもよくて
試算だと無観客ならほぼ感染リスクゼロなんだから無観客でやればよくない?
極端に言うと自分は感染対策完璧だから感染しない自信があるし感染爆発しても別に仕事に影響ないからオリンピックを派手にやってほしい
あのさ、
それを介する際のゲートウェイは人の手書きっていうのがなんとも滑稽で
というか
取引先ごとに表計算のシートのフォーマットの形が異なり違うから、
それを人間が読み取って解読して別のシートに分かる様に入力もしくは手書きで書き直すって
人間を介すと急にヘボくなる
ファクシミリやめない?って思う反面
私は今受話器を片手にファックスしたことを電話で伝えるこれまた昭和時代から受け継がれているスタイルを継承しつつ
まあ指原莉乃さん的に言うなら
クイックルワイパーでよくない?って
もういつまで雑巾がけ大変な目を喰らわなくちゃいけないのよ!って
よくよく考えてみたら、
デジタルってあとで改変し放題なので、
変更出来ない仕組みが確立しないと、
いつまでたっても受発注の作業は手書きアンドファクシミリな簡単なお仕事どえす!って求人募集も甚だしいんだけど
本当に、
オフィスの複合機が壊れて調子悪いときにメンテに来て貰った人に
さすがドキュメントカンパニーですね!って得意げに言ったものなら、
人類はいつまでたってもファクシミリから解放されることがないのかしら?
そんでね、
読み込んだ紙が出てくるじゃない
途中でメビウスの輪のようにねじれを加えてファクシミリを送信し続けたら、
ボイジャー1号か2号あたりにもファクシミリ届くんじゃない?って思うそんな発想の
どういうカタチで印刷されるのかしら?
もうメビウスだけに目の付け所がシャープでしょ!ってやかましーわい!って
お後がよろしいようでって終わりたいんだけど
でわでわ。
うふふふふ。
ぱくぱくいけちゃうから何か食べておかないと行けないときも調重宝するわよ。
私はそう思うな。
憧れるわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
1970年代のアメリカ合衆国の経済が、インフレーションと景気後退に苦しむ傍ら、日本は世界第2位のGDPを誇るまで経済成長を続け、対米貿易は10年間以上も黒字を続けていた。一般的にこの時期の円は実力以上に安かったと考えられており、ここから米国内の対日感情は悪化する。
世界への輸出を伸ばし続ける日本に対し、米側では貿易関係者が通商産業省を「ノトーリアス・ミティ(Notorious MITI、悪名高き通産省)」と表現したり『ジャパン・アズ・ナンバーワン』という書籍がベストセラーになるなど「驚嘆すべき成功を続ける日本経済」への関心が一般市民の間でも好悪両面で高まる。
1980年に、アメリカ合衆国大統領がカーターからレーガンに交代しても、前半は米大手自動車メーカーのゼネラルモーターズが生産規模を大幅に減らしリストラを行うなど[1]米国経済の迅速な改善はなく、失業率は一時10%に迫った。
対米貿易で莫大な黒字を拡大し続ける日本は好況に湧き、1960年台から対日赤字を続けるアメリカは不況に沈み、米国の自動車メーカーは、1970年代終わりから1980年代にかけて壊滅的な打撃を受ける。この対比は米国人の対日感情を悪化させ、米国では日本の市場の特殊性を閉鎖性とみなし、極端な円安を問題視して「ずるい日本」とみなす議論に支持が集まるようになる。反日感情が高まるなか、1982年には中国系アメリカ人技術者のビンセント・チンが日本人と誤解されて、3人の白人に撲殺される事件も起きた[2]。
不況と反日世論の高まり、各業界からの突き上げを背景に、アメリカ合衆国連邦政府は日本国政府に市場開放、輸入拡大を強く迫り、米国の輸出を妨害するものとして日本側の為替レートや業界慣行、関税を次々と遡上にあげることになる。日本側はこれに対して、1970年代に続いて輸出の自主規制を約束したり、農産品の輸入拡大を約束したり、関税の引き下げを約束するなど、繰り返し協力的な姿勢を示そうとするが、市場シェアを日本製品に奪われている米業界団体は、相次いで日本をダンピング等の法令違反で提訴し、対日感情は改善しなかった。
米国の経常収支が赤字になると、日本が不公正な貿易障壁を築いているとの批判が、1984年にも再び強力になり、日本はアメリカの対日感情の悪化を緩和しつつ、自国産業も保護したいなか、円安の是正や輸入の拡大を約束し、市場開放のための規制緩和を約束するが、大きな効果はなかった。1985年には先進国首脳会議の蔵相・中央銀行総裁会合で、為替をドル安に誘導するプラザ合意が実施され、ドル円の為替レートは大幅なドル安に転じたものの、これによっても米側の対日輸出は期待したように伸びなかった。
アメリカの対日赤字は拡大を続け、米国内ではますます日本の貿易障壁への批判が強まった。米国は日本を金融・関税など税制・ソフトウェアなど多くの分野で数多くの障壁を築いているとして強硬に迫り、日本側はそのたびに米側に妥協案を示すが米側は形だけの不十分な譲歩と見て日米の認識の溝は埋まらなかった。
この時期の米国からの「日本は自由貿易を掲げる経済大国であるにも関わらず実際には保護主義的に振るまい自国市場へのアクセスを制限している」という二枚舌批判、本音と建前を使い分けるという批判について、日本側も納得していたわけではなく、メイドインUSAが選ばれないのは日本側の発展によって日本製品がアメリカ製品の質を全体として上回るようになり、消費者にとって粗悪なアメリカ製を選ぶ理由がないためだとする見方が強かった。日本側では米側の要求については、生産性の低い米国産業の問題を棚に上げて国力の差を背景に日本にねじこみをかけていると理解しており、理不尽な押し売りであると見ていたが、内需拡大を繰り返し約束した。
1985年になると米国の景気も目に見えて改善していたが、日本の好景気はそれ以上に目覚ましく(バブル経済)米国では20年間にわたって莫大な対日赤字が続く上にGDP比の経常収支の赤字が過去最高を記録し、対日本の心理に目立って和らぐ部分はなかった。この時期はハリウッド映画でも日本側が日本叩きと受け取る描写が珍しくはなく、1985年から製作が始まったワーナー映画でも登場人物が日本製の電子機器を悪く言うセリフが見られる。1987年4月には、アメリカ政府は日本のダンピングを理由に日本製のパーソナルコンピュータとカラーテレビなどに異例の100%の制裁関税を賦課した[3][4]。
anatadehanai まともな意見。"「MtFトランスの入浴」と「女湯によこしまな目的を持って入ってきた男の入浴」はまるで性質の違う別物" 現状でもゲイは浴場で性的対象である同性の裸を見られるが、それで排除されたりはしていない。
元増田もそうだけど、この手の話ってこういう話を摩り替えたやつがすぐ沸いてきてぐちゃぐちゃになるよね。
MtFトランスの入浴の問題って反対してる人は「肉体の性別に従え」って話をしてんのに
トレーニングといっても筋トレとか有酸素運動とかそういうものじゃない。
自分は身長185m。115kgから84kgまで落とした。31kg減。太っていた時に心筋肥大したので血圧は高めだけど、それ以外は良い数字。
練習を始めたのは30半ば。今40近く。5年くらいで31kgを落とした。
体感として、115kから110kgに落とすのが一番難しかった。楽だという人もいるが、それは代謝が盛んな若いうちだけか、短期的に太っただけの人だ。
健康目的の減量というのは、はっきり言って依存症からの脱却と全く同じだ。中肉中背から痩身を目指す美容目的とは違う。
他人から際限なく馬鹿にされ、理解を得られず、あきらめてまた依存に戻る。これを繰り返してしまっているのが肥満の人だ。
大前提として、俺たちは依存症に向き合わなきゃいけない。ダイエットと考えず、依存症と考える。
砂糖の依存性はヘロインの数倍ともいわれる。アルコール依存症からの脱却の方法がそのまま減量に活かせると思ってほしい。
周囲の理解のない言葉には惑わされないで。この投稿にも酷い言葉が飛んでくるだろうけど、彼ら彼女らは明確に敵で、悪魔で、人間ではない。
肥満は治療すべき病気だ。病人に石を投げるのは人間ではない。自分の病状を見据え、適切に段階を踏んで快復していくべきで、悪意に打ちのめされてはいけない。
エクササイズ、筋トレ、有酸素運動、それらは依存症からの脱却の過程で行われる行動であって、それらをすれば依存症から脱却できるという物ではない。
依存症からの脱却を目指す際に、いきなり運動をするのは間違っている。高確率で挫折をしてしまう。
運動の何が危険かというと、「運動への飽き」が「減量への飽き」と同化してしまって、運動と減量を同時にやめてしまうことだ。
減量しながら運動をするはずなのに、運動が先に来てしまう。短期で成果を求めてしまう。
体力づくりには運動は非常に有効だが、依存症からの脱却には運動は劇薬だ。依存症が薄れてきたら運動を楽しく行うべきだ。虫歯の治療をしてから歯磨きを励行すべきであって、虫歯の穴が開いているところに歯ブラシをねじ込んでもただ痛いだけだ。
そういうわけで、エクササイズの話はしない。カロリーの話もしない。
のどがカラカラな時でも、5分かけて水を飲むことができるか。
いつでも5分かけて飲み物を飲めるか。
肥満の人は異様に飲むのが早い。コップに口を付けたらそのまま3,4口飲む。
時間を計るのが煩わしい場合は、沸騰したてのお湯をカップ一杯用意して、すぐに一口飲む。当然大した量は飲めないが、この飲んだ量を覚えておいて、それ以降お湯が冷めてもその量を飲み続ける。
全部飲むのに5分以上は必ずかかる。
食前食後に飲み物を飲むのはOK。しかし、いただきますとごちそうさまの間は飲み物は飲まない。
飲み物を飲めないので、よく噛んで食べる練習になる。水で流し込むことはしなくなる。
喉が詰まらないよう、少量ずつ口に運ぶことになる。
ステーキを食べるときは、1cm四方の大きさに切って食べること。これはステーキを食べる作法でもあるようだ。
箸は危険。食べ過ぎる。昔から箸が普及している地域は水が豊富な地域だ。喉つまりを気にせず食べる文化が箸を生んだのかもしれない。
箸を使うくらいなら手で食べるほうがいい。実は手で食べ物を掴むと、上手く口に入れられない。必然的に一口の量を抑えられる。
子供ではないのだから、自宅で一人で食べるときに無作法をしても、外で同じことをする恐れはない。一度は手で食べてみることをお勧めする。人間はそんなに一口で物は食べられないとわかるはずだ。箸やフォークよりも指は太い。その分だけ食べる量を減らせる。
一度茶碗一杯のごはんを手で食べてみよう。口の周りを汚さずに。唇の中まで指を入れよう。
上記の方法を実践すれば、難なく達成可能だ。食後の飲み物を入れて、食事には30分かける。
30分かけて味わえるものを食べる。
健康にいいものを選ぶ必要は(最初は)ない。マックのセットを30分かけて食べてもいい。
麺類は「早く食べないと伸びちゃう」と急かされ、アツアツのものは「美味しいうちに食べなきゃ」と急かされる。
ぬるくても美味しいものを食べるといい。
そう思うかもしれない。
「再びドカ食いをし続けないための型稽古」だ。ドカ食いしてもいい。しかしそこから脱却できなくなるのはダメだ。
脱却するための型稽古がこれだ。もちろん他にもたくさんの型がある。全部は書ききれないけれど、まずは上記の3つの型をやってみてはどうだろうか。
そうすれば毎日の体重に一喜一憂することもなくなる。最初はとてもつらいが、それを目標にしよう。
運動に飽きても依存症の治療には飽きないように。いろいろと工夫をしてやっていこう。
痩せている人に言いたいことは、「あなたはアルコール依存症で苦しんでいる人にも同じ言葉をかけますか?」だ。
どうか見守ってほしい。
リクナビとリクナビエージェントに登録したら派遣会社から死ぬほどオファーが来る。
別に学校の求人メインで就活してたからリクナビが何やってようがどうでもいいんだけど、こんだけ余計なオファーが大量に来るとなると、オファー自体読む気にもならない。
まあたまには開いてみたりはするんだけどさ。
まずかなりの割合の企業が見出しと概要からでは絶対に派遣だと分からないようになってる。
ひどいところだと派遣だとわかるのは長いページを一番下までスクロールした後だ。
アマギフくれるって言うから説明会聞いた派遣会社とかもあるけど、「アウトソーシング」とか言って絶対派遣だとは言わないんだよね~~~~。
リクナビエージェントも就活の愚痴を聞いてくれるので面談しよって言われたらとりあえずいいよって返してるけど、派遣会社の求人を死ぬほど送ってくる。
私が提示した条件に合う派遣以外の求人も混じってるが、何せ派遣会社のせいで数が膨大なのでチェックする気にもならない。
別に派遣会社良いとか悪いとかじゃなくて、新卒で正社員が良いですと言ってる人間に対し、派遣会社にねじ込もうとしてくる就活サイトはなんなんだよ。
なんだこの企業。