はてなキーワード: 過激派とは
過激な発言になるけど、明らかな意思を持った窃盗は盗品の返還と賠償金、元に戻せない状態なら、同品の返還と賠償金、さらに、極刑でも良いと思う
特に遊ぶ金欲しさなどの身勝手な理由であれば、極刑をかしても良いとさえ思う
盗まれた側の心情を慮る判決も、十分な補償もされず、端金でなぁなぁにされてしまう司法ってどうなの?
親族の形見を盗まれたり、破壊されても、釣り合わない賠償金で泣き寝入りを強いられる現状っておかしいでしょ?
満足な賠償金が払えないなら、死刑判決でせめて犯人の臓器でも売っぱらって補償に当てて欲しいわ
今の日本は法治国家といいながら、やたらと犯罪者側の権利ばかりが優遇されすぎだ
交通事故で一方的に怪我をさせられて、二度と歩けなくなっても相手に金がなければ泣き寝入りとか、おかしいでしょ
相手の臓器を売れば、それなりになる
臓器売買が倫理上悪いといは思うが、何も持っていない無敵の人を許せという法律がおかしい
下着ドロとか、性犯罪とか、再犯率の高い犯罪もほんとスリーストライク制とか、再犯は極刑でいいと思う
不条理だわ
被害者になってみろと言いたいわ…
たぶん皮肉で同じこと書いてるのいくつか見たけど、私は本気でこう考えてる。
結局のところ負けたら死ぬか死んだ方がマシな人生になると確信してる人間しか命を掛けて戦わないから。アフガニスタンでその立場にいるのは女性だよね。
政府軍の軍人がさっさとタリバンに降参した理由は家父長制の部族社会に逆戻りしても男である彼らは大して困らないから。
むしろタリバンが勝った方が占領地の女性を戦利品としてもらえたり、就労を禁止されて困窮した女性を第二、第三、第四婦人にできるメリットすらある。
そんな地獄に戻りたくないと願う女性を訓練して武器を与えれば必ず死ぬまで戦う。異教徒の侵略者(米軍)に訓練された女性兵士なんてタリバンの教義からすれば絶対に許されないから降参しても死刑だろうし。
腰抜け男しかいない中、女性が自分と家族と仲間を守るために今も戦い続けている。軍司令官や大統領まで逃げ出してもカブールの市街で最後の一人が死ぬまでゲリラ戦を続けると悲痛な叫びを上げている。
捕縛された女性兵士がタリバンにレイプされて公開処刑されるあり様がスマホ動画で世界に流れる。
これは世論が盛り上がる。
世界は、アメリカはなぜこのような悪を見過ごしているのだ? いったい男はどこで何をしているんだ?
徒労に終わった二十年間の戦争にウンザリしているアメリカ市民でさえ再派兵を求めるようになるかもしれない。
アフガニスタン政府には一応女性閣僚もいるみたいだから、亡命政府の暫定大統領にするのも良さそう。
大統領は女性、軍最高司令官もゲリラを率いる女性、政府高官のポストはタリバンに下った男どもに代わって亡命政府に参加した女性たちで占められる。
アフガニスタンのジェンダーギャップ指数は日本などぶち抜いて一気にトップ集団へ。現地ではイスラム過激派が女性にヴェールを被せて家に押し込める神権政治なのだが……
見てみたいなあ、女の戦争。
予言しておくと、こういう筋書きのハリウッド映画はきっと作られる。
さすがに米軍が女性を救う歴史改変はアメリカ人も恥ずかしいと感じるだろうから、アメコミ映画とかになるだろう。
もちろん敵もイスラム過激派ではない。
特に意味無く女性を虐めるキチガイ白人男が集まった架空の国際ミソジニスト過激派『インセル・プライド』に支配された小国で抵抗を続ける女性主体のレジスタンス。
彼女たちが追い詰められたその時、アイアンマンとキャップが降臨し非モテ男どもを蹴散らす!
そういうものを私は観たい。
ソース:https://www.animefeminist.com/history-not-with-a-bang-but-a-letter-violet-evergarden-rewrites-traditional-world-war-i-narratives/
暁佳奈のライトノベルを原作とする京都アニメーションの名作、ヴァイオレット・エヴァーガーデンがネットフリックスで公開されたとき、初見の私が想像していたのは、Foreignerのヒット曲さながら、愛というものを知ってみたい少女の無邪気な物語だった。まさか号泣することになるとは。
ものの数分でその予想は裏切られた。
この作品は涙なしには観られない戦争ドラマであり、スチームパンクな歴史改変モノだったのだ。しかし、何よりもトラウマにまつわる物語だとわかった。
PTSDの歴史、1900年代初頭の文学作品における定形表現、そして人気ジャンルである「戦争物語」を、本作は、少女兵士を主人公とした上で見つめ直している。第一次世界大戦の歴史、とりわけ女性の歴史を振り返り、再解釈することで、かつての物語に対してフェミニスト的なテーマを根底に据えた新たな息吹をもたらしているといえる。
戦争物語という切り口からヴァイオレット・エヴァーガーデンを解説している人は珍しくない。例えば「Mother’s Basement」というYoutubeチャンネルでは、人情味を持って共感を表現し、ヴァイオレットの成長を描ききったシナリオの妙について見事な考察動画がアップされている。だが、トラウマや障害を抱えた少女が自信を持って活躍できるようになっていく様子や、いかにPTSDがリアルに描かれているかという点については、あまり取り上げられてこなかったように思う。
この点を踏まえた上で、テルシス大陸における戦争のモデルとなった、第一次世界大戦の基本事項を整理するところから始めようと思う。ざっくりと言えば、この大戦は1914年から1918年の間に起こったもので、何がきっかけとなったかは諸説ある。開戦とともに急速に戦火が拡大したけれど、1914年の冬までには終結するだろうというのが大方の見方だった。
その目算が外れたのは言うまでもない。戦争は4年も長引き、フランス、ドイツ、イギリスを中心とした各軍のインフラは、塹壕戦と呼ばれる、この時期に流行した新しい兵器や戦法に対応するための装備が圧倒的に不足していた。
兵士の多くが若く経験不足だったこともあり、戦いは想像以上に過酷なものになっていった。戦争から帰還した兵士たちの間には、「新しい」病気が蔓延した。俗に「シェルショック」と呼ばれ、後に「PTSD」や「PTSS」 (心的外傷後ストレス障害、外傷後ストレス状態)として診断されることになる、「男性ヒステリー」という病だ。
「ヒステリー」とは、当時、性別役割分担に厳格だったヴィクトリア朝時代に用いられた医学用語で、今で言うところの鬱病、不安神経症、心的外傷後ストレスといった精神疾患全般を表すものだったが、適用対象はシス女性がほとんどだった。そのため、「ヒステリー」扱いされた兵士たちは周囲から男失格のレッテルを貼られ、つまはじきにされる結果となった。
兵士だけではない。第一次世界大戦に参加した国々とその植民地は、集団的なトラウマに苦しんでいた。とりわけ顕著なのはドイツで、戦争への参戦とその後の経済低迷の影響から、ナチスの台頭を許すほどだった。フランス、イギリス、ドイツのメディアでは、この大戦は未だ主要なテーマであるし、世界各国の兵士とその家族が残した手紙は今なお読むことができる。
この大戦が世界に与えた影響は計り知れず、文学や歴史、そして現代の戦争にも様々な影響を及ぼしている。だが、ここで重要になってくるのは、戦争にまつわる有名な物語や歴史で描かれるのは男性ばかりなのに対し、本作の主人公であるヴァイオレット・エヴァーガーデンは女性兵士ということだ。
男性ばかりなのは当然、当時の軍隊で中心的な役割を担うことができたのは男性だけだったからだ。例外としては、第一次世界大戦において戦闘に参加した唯一の女性イギリス兵、フローラ・サンデス(セルビア軍所属)や、マリア・ボチカリョーワという若い女性が隊長を務めた、「ロシア婦人決死隊」と呼ばれるロシア軍の小隊などが挙げられる。
だが、第一次世界大戦で軍隊に従事した女性の多くは、戦場で看護師として働くか、工場で働くなどが一般的だった。例えば、アメリカの「ヨーマネッツ」や「ハローガール」と呼ばれる女性たちは、銃こそ持たなかったが、電信技師やカモフラージュデザイナー、魚雷組立工など、幅広い仕事によって戦争を支えた。
軍に従事した女性たちにも多くの物語があったにもかかわらず、戦争物語のフィクション作品はほとんどが男性中心となっている。女性はもっぱら脇役として登場し、戦死した兵士を嘆き悲しんだり、恋人役だったり、あるいは…良からぬことをされる。言ってしまえば、男性キャラクターを成長させるための舞台装置であり、そのためだけに殺されてしまうことも少なくない。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの世界においても、戦闘や戦争は男の仕事であり、女性はもっぱら「受動的」な役割に追いやられている。だが、ヴァイオレットは他とは異なり、女性であるだけでなく、兄ディートフリートから弟ギルバートへ「プレゼント」として押し付けられた「道具」という扱いであることから、注目すべき例外と言える。ヴァイオレットはモノ化されているのだ。殺人こそがヴァイオレットの生かされる理由であり、ギルバートの命令に従うことが唯一の生きる意味なのだ。
こうした虐待と、戦争でギルバートを失ったトラウマ、そして戦場で目にした暴力が相まって、ヴァイオレットは明確なPTSDを抱えることになる。作品を通して、ヴァイオレットは次のようなPTSD特有の症状をいくつも示している。
これらの症状は、娘を亡くして嘆き悲しんでいる作家、オスカーのために手紙を書いた後、はっきりと立ち現れてくる。戦いの中で自分がしてきたことを理解し始めたヴァイオレットは、戦場のフラッシュバックに苛まれ始める。
最終的に、ヴァイオレットはギルバートを探すために戦地を訪れる。ギルバートを見つけられなかったことで深い絶望に陥ったヴァイオレットは、自殺を試みる。退役軍人の自殺リスクは現在も高く、自殺者数は戦死者数を上回っている。
第一次世界大戦の歴史を描いた物語の多くがそうであるように、ヴァイオレットが抱えるテーマも、いかにして心的外傷後ストレスに立ち向かうかという点に重点が置かれている。このことは、作品の構成にも反映されている。
ストーリー序盤におけるヴァイオレットは、戦地での負傷から立ち直ろうとする、感情を失った少女だった。しかし、第7話でホッジンズが警告したように、ヴァイオレットの記憶は「(自身を)燃え上がらせる火」であり、いつか「たくさん火傷している事に気付く」ことになるものだった。そして、ヴァイオレットはそれに気づいてしまう。戦場で過ごした日々を思い出すたび、ヴァイオレットだけでなく、視聴者までもがフラッシュバックを体験することになる。
しかし、「女々しさ」とか「弱さ」といったPTSDに対する従来の見方とは異なり、ヴァイオレット・エヴァーガーデンはヴァイオレットのシェルショックを丁寧に扱っている。ヴァイオレットが自動手記人形の仕事を通して他人に共感してきたのと同じように、この作品は視聴者にもヴァイオレットへの共感を求めているのだ。
ギルバートの死を否定するのをやめ、自身のトラウマを受け止めたヴァイオレットには、PTSDから立ち直るための長く険しいプロセスが待ち構えていた。トラウマ研究では、これを「心的外傷後成長」と呼び、ネガティブなもの(停滞、衝動的な行動、否定)と、ポジティブなもの(前進、対処法の獲得など)の2種類に分けられる。
ヴァイオレット自身にとっても視聴者にとっても幸運なことに、ヴァイオレットの心的外傷後成長はおおむねポジティブなものだった。自動手記人形として人と一緒に働くうちに、自分の感情を受け入れ、なぜそのような気持ちになるのかを考えて納得できるようになったことで、ヴァイオレットは回復の道を歩み始める。
さて、本作のいわゆる「今週のお客様」エピソードの中には、「戦争で失った恋人を恋しがる女性たち」というお約束的展開をそっくりそのまま踏襲しているものがあるが(OVAがその好例)、一応付け加えると、この展開自体が本質的に悪であると言いたいわけではない。OVAでは、第一次世界大戦中に多くの女性が体験した出来事がリアルに描かれており、膨大な量の手紙が世界各地に送られたという点も史実に忠実となっている(手紙の多くは歴史的資料として残存している)。
しかし、ヴァイオレット自身は、作品を通して、そのような歴史的・文学的な流れに逆らっている。
ヴァイオレットは家に帰ってきたが、想い人は帰ってこなかった。
兵士は、新たな傷を負って帰ってきたのだ。
そして、ヴァイオレットはその生い立ち故に、想い人を亡くしたクライアントと、亡くなった想い人の両者に共感することができる、いわば、境界的な立ち位置の人物といえる。「民間人」と「軍人」、「女性の世界」と「男性の世界」、「家庭」と「軍隊」、そういった境界の中でこそ、ヴァイオレットは真に花開くことができるのだ。
ヴァイオレットの境界的な立場は、自動手記人形の仕事においてユニークな強みとなっている。作中の時代設定と同時期に当たるヴィクトリア朝時代や第一次世界大戦期は、タイピストやゴーストライターになる女性が急増した時期であり、ヴァイオレットも当時の女性たちと同じく、この波に乗っていると言える。
こうした女性たちは、「媒体としての女性」というお約束的表現として文学に登場するようになった。彼女らは、タイプライターや電信機、さらには速記法を用いて、人々の思いを目に見える形にし、様々なメッセージを伝えるという役割を担っていた。哲学者で文学理論研究者のマーサ・ヌスバウムの言葉を借りれば、「目的のために使われる道具」としてモノ化されることも多かったが、家父長制の世界を生きる多くの女性にとって、この種の仕事は、生まれてはじめて主体性を獲得できる場でもあった。
ヴァイオレットの当初の動機は、初めて手にした主体性を社会で活かそうとしたヴィクトリアン朝の女性たちとは若干異なっている。自動手記人形を志したのは、他者を理解したい、そして何よりも、少佐の最期の言葉を理解したいという目標を叶えるためだった。そして、人々の思考や感情の「媒体」としての立場を通じて、自分の感情をよく理解し、虐待やトラウマを乗り越え、主体性を獲得することができるようになっていく。
第一次世界大戦や、そこに至るまでの過程を題材とした文学作品によく見られる、「媒体としての女性」という定形表現とは異なり、ヴァイオレットが主体性を持つことができたのは、その境界的な立場ゆえである。戦争に巻き込まれる家庭の立場、戦争を戦う軍隊の立場、その両者に対して共感、理解できるという強力な武器を生かすことで、戦争をテーマにしたアリアの歌詞を書くために戦死した兵士の手紙を研究したり、嘆き悲しむ父親のために文字通りの意味で媒体となったり、兄弟の絆を取り戻す手助けをしたりと、ヴァイオレットは単に人の気持ちを左から右に渡す中継役ではなく、自らの手で変化をもたらす主体となっている。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンと史実の違いは、これまでメディア等で描かれてきたタイピストや媒体役の職業人たちが受け身の存在と見なされてきた一方で、ヴァイオレットは周囲の人々の物語に積極的に関わっているという点にある。こうした活動を通じて人々の成長を助けていく中で、ヴァイオレット自身にも成長が見られるようになっていく。
第11話では、その成長がはっきりと見て取れる。過激派の部隊を立ち退け、銃弾に倒れ死に瀕している兵士、エイダンの最期の言葉を記録し、訃報の知らせと最期の言葉を家族の元へ届けに行くという、物悲しいエピソードだ。戦争の両側面への共感を要するこの仕事を全うしたことで、ヴァイオレットはようやく自分や他人に対して素直に悲しむことができるようになる。ギルベルト少佐の死をきちんと悼むことができるようになったのも、ここからである。
単なる道具でしかなかったヴァイオレットが、今や積極的に自らの心的外傷後成長を促進しようとしている。これは、従来の戦争物語や、シェルショックや女性タイピストにまつわる歴史に対する新鮮かつ現代的なアプローチといえるのではないだろうか。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンは第一次世界大戦に大きく影響を受けており、史実によるものから、文学から引用されたものまで多岐にわたる。PTSDに対する思いやりあふれる描写然り、「媒体としての女性」という定形表現に対する批判然り、この作品は、歴史上の極めて重要な時代—最後の退役軍人が亡くなり、徐々に記憶から忘れ去られつつある時代—との対話の上に成り立っている。
だが、家庭内の物語と戦争の物語をブレンドし、両ジャンルに共通する定番の展開を巧みにひっくり返したという点で、ヴァイオレット・エヴァーガーデンのファンタジー世界は、オマージュ元の戦争物語と趣を異にしている。スチームパンクなファンタジー世界という舞台の上で、使い古された展開を別な角度から見つめ直すことで、進歩的な物語を紡ぎ出しているのだ。
退役軍人の描かれ方、精神疾患、女性の物語、こうした事柄を尊敬の念を込めて丁寧に扱うことで、戦争やトラウマにまつわる従来の物語をいかに語り直すか、その基準点をこの作品は確立したと言える。戦争やトラウマにまつわる物語も、より包括的で、健全で、私たちに活力を与えてくれる存在たりえるのだ。それが、従軍した兵士や亡くなられた方々に対する、せめてもの追悼でもある。
「戦争は決して変わらない」とよく言われる。だが、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが示してくれたように、その語り方を変えることができるのは確かだ。
最近、ウレタンマスクを目の敵にする人が目に付くので違和感を覚えている。曰く、「ウレタンマスクは感染予防効果に欠けるから禁止にせよ」「ウレタンマスクを着ける奴は情弱」といった具合に、ウレタンマスク=マスク無しと同等、という主張をする。
自分がウレタンマスクについて知っている情報は例えば下記の通りで、少し古い。(同時期に類似の記事が多く見られたので例として示す)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5fd6c3bec5b62f31c1fe4eb8
この記事には何の異論もない。ここから、ウレタンマスクより、隙間を無くした不織布マスクを選択した方が良い、という結論を導くのは極めて妥当だ。
しかし、これらのデータは、あくまで飛沫量の多寡のみを示すもので、これが例えば実行再生産数にどういうインパクトを与えるか?ということは示していない。富岳の飛沫シミュレーションもそうだが、「で、どれぐらい感染拡大/予防ができるの?」には答えられない。
なので、ウレタンマスクと感染拡大の関係を直接示すデータがあれば是非示して欲しい。
なんというか、「不織布マスクを強く推奨する」は良いと思うんだけど、「ウレタンマスクは禁止」はなんか違う、と思っちゃうんだよね。あと、自分は科学的に考えてる、ウレタンマスクしてるやつはバカ、という見下しが滲み出てるのもとても嫌だ。正しい根拠があれば嫌な気持ちになってもまぁしゃーないと思うけど、根拠無し(というか弱い)だからモヤモヤする。
「世の中の為を思って」ウレタンマスク禁止を呼び掛けるなら、一番いいのは外出自粛の呼びかけですよ、とも思う。まず外出しない、があって、やむを得ないなら人に近づかない、があって、それでもやむを得ないならマスク、だからね。不織布マスクつけてるからオッケーじゃないんだよマジで。
まず注意いただきたい。
以上気をつけて欲しい。
そもそも推考をしていないただのゲロなので気分が悪くなったらそっとタブを閉じて欲しい。そこら辺は自衛してくれ。
ヒロアカの2作目の映画をみた雑多な感想: https://anond.hatelabo.jp/20191221053748
正直に言おう、ブルーレイは買わなかった。
どうしても公式との解釈の違いや、ドラゴンボールのような戦闘が多すぎる映画が苦手だった。
だがあえて言おう、3作目である今作もドラゴンボールであったと!
しかし、2作目よりアニメが進んだためか戦闘の幅が広がり、見ていて飽きがこなかった。
そもそもボンズのアニメファンである私には今作が刺さりすぎた。ボンズ愛してる。
戦闘シーンにハガレンを見ていた時の高揚はもちろん、登場人物の痛みも感じるような鬼気迫るものがあった。
(そもそも血みどろになっていたが、これPGついてない?もしかしてRいった?)とまで思ったほど私たちが大好きなボンズだった。
想像を絶するカメラワークでさまざまな画角から描かれる、多種多様なエフェクトの戦闘と、血みどろで、ダークな演出。
これらが、今作の映画 僕のヒーローアカデミア ワールドヒーローズミッションにはあった。
ありました。確かにそこに、ボンズがいました。ありがとうボンズ。
特にフレクト戦のデクやレヴィアタン戦の轟やサーベンターズ戦の爆豪から、我々視聴者は余すことなく吸収できた。
ヒロアカ知らない人にも見て欲しい、今作。どうやってお勧めするべきか悩んでいるところです。ありがとうございます。
原作者である堀越耕平先生がどこかで発言されていた(ような気がする)日本のアメコミを作りたい、が本映画に詰め込まれていた気がする。
潜入ミッションで今作オリジナル衣装のデク、ショート、爆豪が戦闘したのちのOPではDCコミックスのジャスティスリーグアニメーションを感じた。
私は生粋のDCファンであり、DCアニメを見て育ったので、そのシーンが流れた瞬間心の高鳴りが隣の座席の人に聞こえるのでは、うるさいと怒られるのではないだろうかと怒られてしまった。
とにかく、あのOPの演出と一枚絵には人を魅了する”なにか”があった。間違いない。劇場でもう一度見たい。
まずはじめにこれについては語っておかなければならない。ありがとう、吉沢亮。あなたの声質と演技は、神に祝福されて生まれてきた。ロディというキャラに本当の意味で命を吹き込んだ。
偏見だが、俳優がやる声優は大体はずれだと思ってしまう。しかし、今回に至っては全ての演技がハマっていた。
さて、声優の話はそこそこにこのキャラクターの重要性について話したい。
まず、ロディがスラム出身であることが私の中で非常に評価が高かった。その出自に関しては裕福な家庭であった(大きな屋敷で遊んでいた描写から推測)にもかかわらず、ヒューマライズに父親がさらわれた差別によりスラムまで追い込まれて正規の職にありつけず、幼い兄弟には明かせない盗んだ宝石の運び屋などの犯罪で食いつなぐしかない1少年出会ったことが、どれだけ私の心を惹きつけたか。
ヒロアカでスポットライトが当たる人物は基本的に生まれた瞬間から光り輝いており(轟は出自こそあれだが、能力は恵まれている部類に入るため光属性と私は考える)、橋の下の子(スラムなどの被差別部族)には縁がないと思っていた。
しかし今作では、ロディが「ヒーローは俺らの住んでるところまでは来ない。金にならないからな」と発言した(うろ覚え)。これは私の解釈と一致し、胸が締め付けられた。ヒーローは金にしか興味ないのかと思っていた、とも言っていた。もう私の胸は張り裂けそうだった。
幼い兄弟二人とともに少年である自分がどうやって食いつなぐのか、相当に頭を悩ませたに違いない。
このロディの存在こそが私がボンズファンたる由縁一つだと確信し、あの洞窟でロディの個性を打ち明けるシーンで”推し”確定となった瞬間だった。
余談だが、デクが胸に矢を射られたあと、しばらくして国境越え間近のシーンを見たらツナギの胸部分がパッチワークで別の布が縫い付けてあった。この瞬間「あ、これロディが縫ったな」と思ったのは私だけではないだろう。
そもそもロディの服がぼろぼろで下手くそなパッチワークだらけな服であったことは登場した瞬間誰もが気づいたであろう。その後デクの服がパッチワークされていたら、間違いなくロディがやったな!と、皆が思うわけだ。旅のシーンで心打ち解けるシーンも、音楽がなりながらであるがしっかり描写され、観客は「一夏の思い出か・・」と思ったりするわけだ。こんなキャラ、だれが嫌いになるのだ?
(そもそもインターン開始が冬であったが、時系列ではインターン後期とのことで・・とはいえ真冬に開催されたインターンからオセオンに渡ったとしても北半球だから冬のはずなのだが・・?と思ったのは私だけではないはず。まあ夏の映画だから夏にしたい製作陣の気持ちは大いにわかる。私も大人だ)
全然関係ないが、事前情報ゼロで劇場に足を運ぶのが趣味の私にはピノが林原めぐみだった時の嬉しさと言ったら・・。一緒に観に行った人と見合あったほどだった。
「今回もドラゴンボールか・・、どうせ気持ちとかそういうもので乗り越えるんだろう?」と思ったあなた。ある意味正解です。でも、戦闘アニメーションはそれを超えてきました。ボンズ様、本当にありがとうございました。
あなたが作ったアニメーションで、本当に飽きないし、どうしてその強さだったのかなどがきちんと説明され、負けそうな戦いでもボロボロになりながら最後には勝ったヒーローたちが、きちんとそこにデクや爆豪、轟たちが生きていました 。
すべての戦闘ごとに、どうやったら勝てるか、どうやったら被害を最小限にするか、どうやったら相手をkoろせるか。全ての思考がそこにあったようの思います。
そして、きちんと映画として成立するように、全ての戦争で新しい画角や技や、見せ場があって視聴者が飽きない工夫がありました。
ありがとう。ドラゴンボール風であってもこんな感じであるなら本当に、本当に、何度でも劇場に足を運びます。ありがとう、ブルーレイも買うね。
とはいえ、フレクト戦ラストのデクのユナイテッド ステイツ オブ スマッシュの演出については吹き出さずに入られないほどの演出があり、ゲームを見ているかのような最強の技であることが思いっきり表現されており、デクの腕が心配になったが、ラストを見て無事でよかったよ。
OPのジャスティスリーグみについてはもう語ったが、デクの黒鞭で警察から逃げるシーンについてもスパイダーマンのファー・フロム・フォームみについても感じただろう。他にも脚本を進めるためのイベントと戦闘とギャグとの"比率"についてもアメコミリスペクトを感じざるを得ない。ブルーレイがでたら正確に比率を出したいが、これも先頭に重きを置きつつ、話の店舗はアメコミのものであり、アメコミ育ちの私には大変見易かった。
2作目から比べると戦闘シーンは遥かに上がった。戦闘のテンポもアメコミだったのか本当によかった。強いていうのならラストのフレクトの"反射"の限界を超えてプルスウルトラを叫ぶシーンは予想がついていただろうが、そこが少しくどい感じはあった。でもそれも含めて少年ジャンプみを感じ、心地よく受け取ったのが今作だった。
心の中で一緒に「プルス、ウルトラ!!」と叫んだのは、私だけではないはずだ。
一つ、気がかりなのが「ヒロアカ、学徒動員しすぎじゃないか?」である。ヒーロ業界限界が過ぎない?私、不安だよ・・。
学徒動員って戦時中であってもかなり逼迫した状況であり、ましてやそれを海外派遣するなど、言語道断・・!と思うのである。どうして今回も海外までいかせたのかはちょっと想像に難しいが、そもそも冬から夏になっているのも謎である。
すまない、話がずれたが、各地に学生を派遣したはいいが、最前線で戦い過ぎなのだ。30巻あたりで死柄木弔と遣り合うあたりであっても学生は後方部隊だったはずだ。大丈夫か、世界!映画の舞台はもっと逼迫しているのか!世界!頑張ってくれ!!
シンガポールのマーライオンヒーローやエジプトの壁画っぽいヒーロー、映画1作目で登場したヒーロー再登場は最高だったせ!ありがとう。
それはそれで、各地の同級生ヒーローたちがピンチの際に、お茶子「デクくん・・!」や霧島の「爆豪・・!」はクるものがあったぜ。同級生は体が離れても、心は一緒なんだな・・。ありがとう公式。ありがとうボンズ。
某ボイロ実況者の生配信→糞つまらないけど自作ゲームやってくれたお礼に視聴者になって半日の実況中ずっとコメント送ったりしていたが教祖に破門にされた
なおその教祖はウマガイジとなったのであちらから切ってくれて助かった 生放送が面白いと感じたことはない
負けて切れるたびにアカ消しをしてきたが 怒りをためてモノに当たるようになった上になんか賭けてないのにギャンブルみたいで嫌になってやめた 勝率はよかった
元推しのファンのツイートを漁る→過激派はみんな変な思考してるのでやめた
ニコニコ動画→アホな国民になるのでやめた(本当はそのちょっと前)
いままでやめたりやめなかったりしてたがアカウントを消した
「集団を支配するには26%を支配すればよく、全体のまとまりがなければ16%ぐらいでも十分」と言うだろ?
はてなーの多くは無党派無責任バンドワゴン型手のひらドリル瞬間マウント追求系(いわゆるドヤ顔コウモリ)。
そのため全体で見れば比較的少ない数でも声が大きく見えやすく、そこに勝ち馬乗りが群がってくるのではてなーの総意は一部の過激な連中に支配されやすい。
「自民党投票者死滅願望者」とか「Vtuber信者過激派」とか「反違法DLを主張しながらXvideosに通い詰める著作権違反アイコン」とかの全体で見れば決して多くはないキチガイ達が大声で主張するたびに「よっしゃコイツが旗振ってヘイト稼いでくれるから暴徒の群れに加わって一緒に暴れたろ」と単に他人をこき下ろしたいだけのクズが群がって一つの大群を形成するのがはてなの通例。
はてなーに過剰な価値観のキチガイが多いのではなく、過剰な価値観のキチガイに旗をもたせておいて暴動に加わりたいだけの潜在的暴徒の数が尋常じゃないってだけだよ。
いま多くの日本人が
オリンピックとコロナ感染爆発という躁鬱両方の情報に晒されている。
まるで熱い湯につかりながら冷や水を浴びせられるような状態で、
多くの人が躁鬱どちらの精神状態になればいいか分からず混乱しているように思う。
この矛盾したような状態から自分を守る一つの方法は、どちらか片方の情報を遮断することだ。
オリンピックとコロナのいずれかの情報を見ないようにすることで、精神的な混乱を避けることができる。
その結果、コロナなんて知ったことかと飲み歩く人が現れる一方で、
オリンピックなんて見たくもないという人も現れてくる。
心理的な観点からは、これらはいずれも自己防衛の両極の事例だと思う。
コロナはただの風邪派や、過剰な選手叩きをする人は、それらの極端に先鋭化した事例だ。
この躁鬱の分断は、オリンピックが終わりコロナのピークが過ぎてからも残り続けると思う。
過激派は日本共産党だと耐えられなくて、離党すんじゃないかな?なんというか、過激派の連中は「日本共産党の温さ」に耐えられたことがなくて、出ていくことが多いような。自分は日本共産党が強い地域にいて、日本共産党のトークを盗み聞きしていた時期があったけど、日本共産党の「理想の共産主義」がラディカルな共産主義よりも堕落しているリアリティのない「空想的社会主義」とマルクスが嘆くような様を体感しているから、日本共産党が「現実と乖離するという手法で纏まっている」という感想しかなくて、現実につらい思いをして共産主義者になるようなラディカルな共産主義者は、むしろ出ていくような気がする。そして、残った日本共産党には「志位の口調を真似する」のが趣味の、残念なやつしかいない。