はてなキーワード: 過激派とは
東京五輪が開催され、五輪について賛成か反対かで世論は真っ二つになっているようだ。しかし、意見の異なる両者が現実空間で真向からぶつかることはあまりない。どちら側の人もお互いを敬遠し合っているか、その場の空気を読んで波風立てずにいるのだろう。そこはそれ、我々は良くも悪くも日本人ですからね。
では現実空間を離れ、ネット空間における限界集落、そのはずれの庭石の裏に棲みつくダンゴムシ、こと増田たちの間では東京五輪についてどのような見解が交わされているのだろうか?ここ数日でブクマの付いた増田記事を、賛成/反対/傍観にざっくり分類、列挙してみた。
■賛成派
思考停止派 【金メダルの威力が絶大すぎる。もう同僚と昼飯食ってても五輪面白い、あの試合は凄いって話しか出てこない。】
https://anond.hatelabo.jp/20210726141309
https://anond.hatelabo.jp/20210725153418
https://anond.hatelabo.jp/20210723225938
ttps://anond.hatelabo.jp/20210723223439
■反対派
https://anond.hatelabo.jp/20210726181224
理性派 【オリンピック楽しむことは悪いことじゃない←そんなわけがないだろバカ】
https://anond.hatelabo.jp/20210726190351
https://anond.hatelabo.jp/20210725204842
■傍観派
https://anond.hatelabo.jp/20210726124449
https://anond.hatelabo.jp/20210725225651
それでも、当初は「そんな強い表現なんて」「いや、この位言うべきなんだよ」という言い合いが成立していた。
だが、以降のはてなは強い表現で衆目を集める、同志を募る、運動を起こすことを目的とした表現が増加し、
形成されたはてなの新しい空間は強い言葉を使ってこそという言葉の過激派が蔓延した。
そうしているうちに単に言葉の暴力を振るいたいだけの層まで流入し、交わされる言葉はすべて暴力と化した。
変化していったはてなの内部や流入者からすれば当然となったそれは、ひとたび外部から見れば恐ろしい集団となった。
見よ、自らの姿を。言葉の暴力をふるうことこそが当然の手段であるというその身を。
秋とか来年に延期すればワクチンも行き渡ってマシだったはずなのに、ぐらいのマイルドな反対派が多数で
みたいな過激派は少数で
そうすると、多くの人は始まったものは応援するっていうのはわかってたはずなんだけど
ネトウヨも、本当はわかってると思うんだけど
「パヨクの矛盾が明らかになったwwww」って高揚感に浸りたいんだよね
まあ楽しいよねそういうの
https://www.chibanippo.co.jp/news/national/810433
狭い道路が多く、渋滞の発生もしばしば。これも、「非線引き」のため市街化調整区域を設けられず、用地買収にかかるお金が高くなってしまったことが背景
千葉県の道路がクソなのは、中核派・革マル派に代表される新左翼過激派が、成田闘争で空港そのものを妨害するだけじゃなく、土地収用委員会の一般人をテロで殺傷して機能停止に追い込んだから
先日、好きな俳優のおすすめ作品を聞かれて紹介した際に、とある作品は除外しました。
とても良い映画なのですがGEOでしか取り扱っていなかったからです。
近所にゲオがあるかどうか分からなかったし、宅配レンタルにしてもハードルが高いのでは、という懸念から除外しました。
そこで少し考えたのです。
たぶんですが、そうしないと生き残れないんじゃないでしょうか。
まだ日本に入ってきていない面白い作品をせっかく見つけてレンタル商品に加えようとしても、あとから大手配信サイトで取り扱われれば、大抵の人はそちらを選ぶと思います。
私の近所にはゲオとTSUTAYAがありますが、最近は家電製品やトレーディングカードのコーナーが面積を増やしつつあります。
個人的には残念ですが、さきほど言った利益を守るために必要なこととして繋がります。
コロナ禍で外出が制限され、配信サイトが潤沢に用意されている現在。
時代の変遷とともに不要とされるものが出てきてしまうのは致し方ないことだと思いますが、私はレンタルビデオ屋が好きです。
田舎に生まれたこともあり、映画館へ行くよりレンタルビデオ屋の方が映画を見るのに身近な手段だったこともありますが、現実に並んでいるぶん、情報の摂取が容易なのです。
あの俳優が出ている作品、あの監督の作品など、検索をするぶんには配信サイトは楽ですが、映画に触れたいと思って行く場合はレンタルビデオ屋の方が優れていると個人的には思っています。
上映作品が絞られ、人が外出できなくなった今、利益が上げられなければ閉まるのは当然です。
映画を作るには莫大な費用がかかり、回収できなければ誰かが割りを食います。
配信サイトで最初から流してしまっても、それは一概に責められるものではないと思っています。
ですが各配給会社や映画制作会社が配信へと舵を切ろうとしたとき、映画ファンはこぞって製作側を責めました。これまでの映画業界への貢献、宣伝を打たせておきながら配信へ切り替えたこと、度重なる延期により映画館に人が来なくなった、などが理由です。
一つ前に書いたことと矛盾するようですが正直、もっともではあります。
どちらも利益を守りたいのです。
私は映画館で映画を見た回数よりも、借りてきた映画を家で見た回数の方が圧倒的に多いです。
しかし私の回りではレンタルビデオ屋のスペース削減や閉店を惜しむ声はあまり聞かれません。
映画ファンはどうしてレンタルビデオ屋が少なくなることにたいしてなにも思わないのだろう。
もしかして彼らは新作が映画館でやらないことに憤っているだけであり、旧作は配信サイトで良いやと、それこそこれまでの恩を忘れ、レンタルビデオ屋をないがしろにしているのではないでしょうか。
私も配信サイトに登録してはいますが、それはそのサイトでしか見られないものを見るためです。
なくなってほしくないからです。
前記したように時代の変遷とともに消えていくものはたくさんあります。
仕方のないことです。
そいつは一つの国語表現に固執するあまり、不特定多数に自説を吹聴して回り、
あまつさえ特定の国語学者のアンチまで務めるという壊れっぷりであった。
流石に目に余るのでそいつのプロフィールを見たところ「発達障害」という文字列が入っていた、
ああそういうことね、と冷たくレスを返してみると、案の定相手がいきり立ったものである。
ひたすら自説の正当性と大義名分を主張しヒートアップしていく一方、
私はそれを見て、かわいそうなやつだなと思った一方、
「なんのためにこいつは発達障害を自称しているのか」と思ったものである。
自分も素人なので詳しいことは知らんが、ネットでちょっと調べた限りでは、
「発達障害はどうでもいいことに固執する傾向がある」というような話があった。
(下手に曲解するといけないので、そういうふわふわした理解にとどめておく。)
その性質を自覚しているなら、そうなっていると指摘された時に、
「すまんな」「ええんやで」とならなくては意味がないのではないか。
逆に言えば、それができないのが発達障害なのかもしれんが。
いずれにしろ、彼が発達障害と診断された意味が微塵も感じられなかったのである。
そういえばもう一つ、「病気の診断」に関して思うことがあった。
一昔前に「新型うつ」という概念が流行ったころ、それを否定する風潮が強かった。
お茶の間にとって「うつ」とは「常に気分が落ち込んでいるべきもの」という偏見があった時代で、
(あるいは今もそう変わってはいないのかもしれないが、少なくともメディアの扱い方は違う気もする)
「やるべきことに直面すると落ち込む、解放されると嘘みたいに明るくなる」という新型うつを見て、
「甘え」や「仮病」の二文字が頭に浮かぶ人は少なくなかったであろうと思われる。
その様子を見ていた自分は当時まだ子供であったが、子供なりにその風潮を憂えたものであった。
いざ自身が大人になってみると、うつ病の人が周囲にちらほら出てくるようになる。
私の交友関係はだいぶ狭いほうだが、それでもあんな人やこんな人がカウンセリングを受けている。
仕事で心を破壊された気の毒な人もいれば、体育大学に通いながら精神を病んでしまった人もいる。
健全な精神は健全な肉体に宿れかし。そう思わずにはいられない。
無知の知ではないが、うつ病とはわからぬものだなという事だけがわかってくる一方、
彼らが日々己の心身と闘っている様子が切実に見えてくるものである。
しかしながら、うつ病患者だからといって100%同情されるわけでもない。
知人のとあるうつ病患者は、日々の体調管理すら苦労している様子が見て取れる一方、
もともと愚痴が多いうえに「かわいそうな自分」に酔うタイプであった。
それを日々聞かされる周囲の人はだんだんと耐えられなくなり、距離を置くようになってしまっていた。
うつ病であることそのものではなく、自分に酔うことを苦々しく見られていたのである。
子供のころから見ていた自分は「こいつ病気なんじゃね」と思っていた。
私が大人になるにつれて傾向は見えてくるようになり、
どうやら忙しいだとか面倒なことが控えると機嫌が悪くなり、
思うようにならないことがあると、それをしばらく引きずる形でまた機嫌が悪くなるようであった。
頼れるものに頼ろうとしても結局文句ばかりで一向に楽になろうとせず、
そうして忙しくなるとまた機嫌が悪くなるというマッチポンプばかりをしていた。
ネットを通して「そういう人もいる」という知見を得て、そういう人なら仕方ないなと思っていた矢先、
本人からうつ病であると打ち明けられたのである。診断書を見せられるでもなく。
そのとき私が抱いた感情は「かわいそう」とか「お気の毒」ではなく、
申し訳ないが「それ見たことか」「何を今更」「で?これからどうする?」という気持ちであり、
正直言って同情は一切わかなかったものであった。
なぜなら自らを病に落とし込んでいるようにしか見えなかったからである。
近年は様々な病気、あるいはナントカ症というものが多数生まれてきている。
先日某ラジオでも取り上げられていたが、とくに恐怖症になると枚挙にいとまがない。
「お酒恐怖症でーす!なぜなら目の前にあったら飲んじゃうから!違うかw」という投稿には個人的にムカついたが、
ほとんどは「落ち着きをなくす」「立っていられなくなる」のような割と切実な訴えであったし、
自身の友人知人からもそういう話は聞いたり、あるいは付き合ってきたものである。
そうした新たな病気やらなにやらというものの周知が試みられているのもまた現代であるが、
じゃあすべて見て聞いて覚えられるかと言えば、そんな余裕は多忙な一個人にはないし、
公の場で突然異変を起こした人を「あ!これネットで見たやつだ!」と100%適切に助けられる自信もない。
ましてや「病気」認定が差別的なものになりうることは過去も現代も同じであり、
無垢なマイノリティの方々が切実な訴えをなさっては、様々な人間が入り乱れて大騒ぎになるところである。
では「病気」という診断は何のために存在するのか?百害あって一利なしなのか?
私はそうは思わない、というか、「病気」だけが特別である必要がないと思う。
彼はかなり前に、声帯ポリープが発見されたことがあったらしい。
声を出すお仕事の人にとっては特に厄介な病気であり、切除をしてしばらくお休みをいただくのが常である。
しかし彼は「付き合っていけば味になる」と割り切り、手術をしなかったというのである。
そのせいもあってか度々喉の不調で活動休止ということもあったようなのだが、
2011年の時には「プロとして情けない」とツイートした履歴もある。
身体と心の不調では話が違う、と言われるかもしれない。
しかしながら私が言いたいのは、彼はある種の病を「個性」として受け入れたということである。
病気とまでは言われないものや、単なる性格に過ぎないものも細分化されつつあるように感じる。
「あなたはこだわり屋さんです」とか「あなたはネガティブです」とか言われても、
それは正式な病気や障碍ではないし、なんらかの公的な援助が受けられるわけでもない。
あるいは病気や障碍とまでは言い切れない「グレーゾーン」なるものも存在するようである。
そういう「個性」が明らかになったときに、自分はどうするのか?
自分がその個性とどう「付き合ってい」くか考えていくべきなのではないか?
もちろん病気や障碍には「どうにもならない」「仕方がない」部分はあるし、それに伴う人並み以上の苦労もある。
自身の身体をコントロールできない病なら、どんなに偉そうにして厚かましい要求をしてもいいのか?
自身の精神をコントロールできない病なら、コントロールを諦めて好き勝手罵詈雑言を吐いてもいいのか?
一般人にとっては、大義名分があるから批判することは難しい。でも人として嫌な思いはする。
そうして直言を受けることなく、一部の優しい人に甘やかされ続け、他の人からは疎まれ、
傍若無人にしてある種の孤独なモンスター、言い換えれば「裸の王様」が生まれる。
とくにマイノリティにおける過激派は、どいつもこいつもこうなってはいまいか?
大学の授業に通えていない現状を憂えてのことであったと思われる。
当時の自分は「怠けているだけなのに病院に行かせてくださいだなんて…」と、
今思うと「たとえ病気でなくても」医者にかかったほうがよかったのではないかと思っている。
結局二度と機会は訪れなかった私であるが、
大学生時代におけるリアルとネットの交流を通じて多くのことを学び、
時には大きなトラブルを起こして教訓を肝に銘じ、
また時には友人からの諫言も受けつつ自分を自分なりに成長させることができた。
かつては絵に描いたような「メンヘラ」だった私も、
今では精神疾患を冷静に分析し、自身を客観的に見られるようになり始めた、と思う。
そうか?と思われるかもしれないが、少なくとも昔よりはマシである。
なぜなら今思い返すと「昔の自分」が恥ずかしくて仕方ないからである。
未だに昔の自分に同情する部分もないわけではないが、
一方で人の振り見て我が振り直すことも多くなった。
それだけ人の、自身の「醜さ」というものをより理解できるようになったのである。
自身の気分の落ち込みも「これは見苦しいな」「こうすればおさまる」と自己分析し、
専門家によらないセルフコントロールを自分なりに築き上げてきた。
そんな自分から見ると、コントロールそのものを放棄している人が理解できないのである。
現代は科学と西洋医学の時代であり、「病気を治す」ことに邁進しているものと思う。
しかし一方で、「付き合っていく病気」というものは決して無くなるものではない。
今のコロナ禍においてもワクチン接種が進む一方で感染は防げない!と言われたり、
新たな生活習慣においては鳴りを潜めたことで、日々の感染対策の重要性が浮き彫りになった。
ワクチン打てばかからない!でもなければ、タミフル飲めば大丈夫!でもなく、
自分ができることをして病気と付き合っていくことこそが大事であると改めて示されたものと思っている。
以前ネット上で「自分の機嫌は自分で取る」という言い回しが話題になった時には、
それができるかどうかはさておき、やろうと思わなければ始まらないのである。
不機嫌な自分を正当化するだけでは、だだをこねる子供と変わらないのである。
自分の心をなだめてあげること。
心の不調の原因に向きあうこと。
それをやらずして「病気」に甘んじていては何の意味もないのである。
人はたいてい、何かしらのハンデを抱えている。
病気や障碍を隠して生きるよりかは、カミングアウトできる世の中であってほしいが、
カミングアウトを免罪符と誤解している人間は、その秩序を乱してしまう。
自分に対しては、病気や個性を認め、なるべくコントロールしてみよう。
他人に対しては、病気や個性を認め、なるべく受け入れてあげよう。
それらが並立して初めて、やさしい世界を体現できるのではないか。
宇崎ちゃんポスターやミニスカポスターについて、本当の世間の支持不支持はどうか?
「どうでもいい」が圧倒的1位だと思いますよ。
規制派にはここを百ぺんくらい読んでほしいわ。
増田の意見とは反するかもしれないが、何が人々に害を為す規制されても仕方ない表現かというのは結局、人の快・不快とは無縁ではいられないし、だから多数決とまで言うのは極端だけど、『一般的な感性においてどう受け取られるか?』というのは考慮されらべき要素だと思っている。
例えば、人の腹が開かれた写真を往来に張り出して良いか? と訊かれたら、過激派とか原理主義者とかいう言葉が枕につくような人達以外は、普段から表現の自由を守ろうと言っている人も規制に賛同するだろう。
この反対は具体的な根拠に依る規制というよりは「ふつーに考えてそこまでは駄目だろ」という一般感覚に依るモノだと思う。
でもだからこそ、この表現は許さないという個人の感覚が果たして本当に一般感覚に叶っているかは慎重に議論しなくてはならないと思う。
よく規制派『他人の迷惑を省みず性的表現を好むキモオタ』VS『その被害に遭う一般人』みたいな対立構図を作ろうとするけど、この考えは『どーでも良い派』を規制派に勝手にカウントしたご都合主義極まりない詭弁であって、絶対に認められるモノではない。
『どーでも良い派』は中立、もしくは、表現の自由というのは自由が原則で、規制は人々に多大な被害を及ぼすモノに対してのみ最小限の範囲で行われるのが正しい状態と考えれば、規制のされていない現状の消極的肯定とカウントされるべきだろう。
先日、初めて同人誌を捨てた。
内容は推しCPで好みなシチュエーションのとても素敵なものだった。
このクソキモヲタ腐女子によるクソみたいなお気持ち増田を見つけてくれた物好きなインターネットの住民は「なんだ、未練タラタラのいつものお気持ち表明文かよw」という感じで適当に読み流すなり見なかったことにするなりTwitter等で煮るなり焼くなりして頂けたら幸いです。
その同人誌と出会ったのは去年初めて参加した推しジャンルのwebオンリーだった。
コロナのせいで行く予定だったリアイベや友人と旅行に行く予定が潰れてしまった私にとってはとても素敵な出来事で、アバターを使って会場を散策した時間も、性癖が合うヲタク達と交流する時間も、どんどん金を同人誌達に落としていく瞬間も、購入した同人誌達を待つ時間も、その同人誌を読む時間もどれもみんな楽しかった。
「じゃあなんでその素敵な同人誌を捨てたの?」と言われると、その同人誌を作ったヲタクの人格の嫌な部分をお腹いっぱいで破裂しそうな程見てしまったからだ。
私のいるジャンルは基本子どもがターゲットのシリーズが長く続いているもので、年齢層も広く人も多い常に旬とも言えるジャンルだ。それ故に世間的には良かった作品でも、他作品を貶して自分の推し作品を褒め称えるヲタクや、自分に合わなかった作品=悪とみなし口汚く罵る評論家ごっこヲタクや、〇〇は駄作!!!全員そう言ってるだろ!!!と一部の声だけを膨張しクソデカい声で貶すヲタクが結構いる所謂民度が低いジャンルだ。
そして、その素敵な同人誌作ったヲタクも気に食わない作品を貶す嫌なヲタクだった。
最初Twitterをフォローしに行った時にフォロバされた時は飛び跳ねる程に嬉しかった、勢いで普段チキンで感想を送らない私が少ない語彙力を私なりに引き伸ばして同人誌の感想を送る程に嬉しかった。
同人誌作者とその腰巾着がリバ民ヲタクと作品をほぼ名指しで貶し始めたのだ。
最初は「同人誌作者さん左右固定過激派でこわ…リバ民さんのこと好きだから胸糞悪いけど、同人誌作者さんの普段のツイートと作品好きだしな…」と気持ち悪い悩みを抱える優柔不断な姿勢でいた。
そして、推しCPの作品が物語終盤になるにつれ同人誌作者がCP的に解釈違いな展開になってしまい腰巾着と一緒にヒスり始めた際には「なんでこの人こんなに怒ってんだろ…?」と困惑しながら最終回を迎えるまでしばらくミュートしていた。
その間に同人誌作者の腰巾着が推しCPのwebオンリーの主催をした時は「これが地獄ってヤツか?!」と憤慨した事もあった。
そして現行の新シリーズが始まりミュートも解除し、しばらく経って何も嫌なこと起きない平和な時間を過ごしていたら私が同人誌を捨てる原因となった出来事が起きた。
同人誌作者が急に現行作品を貶し始めたのだ。最初は視聴してたらしいがほぼ毎週放送されたものをあらすじと周辺のアンチの偏った情報だけを見てネガキャンし、終いには「前作の〇〇の方が面白かった。あの作品は最高だった」と散々終盤でネガキャンしまくった推しCPのいる前作を持ち上げ更に現行作品をネチネチとネガキャンし始めたのだ。
確かに現行作品はクセが強く人を選ぶ作品だけど、私がずっぷりハマってる作品が故に遂に我慢の限界が来てしまいブロックしてしまった。
ていうかなんで今までブロックしてこなかった!?バカじゃん???今までずっと1人我慢大会でもしてたの???
「坊主憎いけどその袈裟はいいね!」や「作者と作品は切り離して考えるべき」という正論でありとても素敵な思考を持つ人間になりたかったけど私には無理だった。
好きなドラマやミュージカルで推しを演じた役者が犯罪を犯して逮捕された時も役者とキャラは別物として切り離して考えれたけど、作者と作品は切り離して考えることは出来なかった。
同人誌作者は嫌な奴だけど同人誌は素敵なものだから…と思いながらその同人誌を再び読んでみたが作者のクソみたいな言動がチラついてしまい不快な気持ちになってしまった。
キン〇ン西野のことは嫌いだけどSTUDIO 〇℃。と芦田〇菜ちゃん藤〇慎吾氏が好きなのでプペルを観に行った時と同じ感覚だった。
とても素晴らしい作品な筈なのに嫌いな作者の顔がチラついて不快になる。
私の中で今まで好きだった同人誌作者が嫌いなキン〇ン西野と同等な存在になってしまったのだ。
そして、わたしは今まで購入してきた同人誌作者が頒布した3冊の同人誌をシュレッダーにかけて捨てた。やっぱりちょっと悲しい気持ちになってきまった。
よくTwitterで「絵師や文字書きがどんな発言しても良いだろ!!!」「影響力あるとか関係ないだろ発言は自由!!!」と話題になることがちょくちょくあるし正論だけど、このようなものを目にしてしまった今は「人が好きなものを貶さない」や「何の罪もない人を晒し上げて叩かない」とか最低限なものは守るべきだと思いした。
あと、どんなに治安が良かろうが悪かろうがクソみたいなヲタクは必ず湧いてくるのでつらいわ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
そして、こんなクソみたいな愚痴しかないお気持ち増田を最後まで読んでくれたインターネットの民に幸あれ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ジャンプラに嫌いな腐女子のお手本みたいなキャラが出てて、読みながら笑っちゃった。せっかくなので主観嫌いポイントで自分語りさせて頂く。
何が嫌いがより何が好きかで自分を語れよ派の方や、腐女子のお気持ち長文嫌いな人はただただ不愉快になると思うので見ないことをお勧めする。戦う気はないので。
ジャンプラに載っていた読み切り漫画の主人公が、私の嫌いなタイプの腐女子だった。その漫画をざっくりいうと「腐女子霊媒師(主人公)が敵対する嗜好の腐女子怨霊と殴り合い、怨霊の怨念を吐き出させて成仏させる」というストーリー。今誰でも読めるので気になる人は読めばいいと思う。詳しい内容は割愛する。
というものがある。この例えがもう嫌い。
いくら主人公の主観による例えとはいえ受け攻めという概念の画一化がちょっと乱暴じゃないか。
受け攻めは全て個々人の好みである。受け攻めは人により違うので定義できるものではなく、唯一の共通認識がちんこ突っ込むか突っ込まれるかという基準である。逆カプが許せる許せないも人による。言うなれば酢豚にパイナップルのようなの話じゃないか?
そんな好みでしかない話を競馬に例えてしまうと、”馬”と”人間”並みに受け攻めに乖離があるのが当然のように受け取れる。そんなことはない。受け攻めは見てる側の感覚でしかない。素人に対して客観的な説明ではなく主人公の好みを押し付けているところがもうすでに嫌いである。
二つ目の嫌いポイントに、「正しさで殴り合い」をしようとしているところである。それは主人公が発した以下のセリフから読み取れる。
・「読解力磨いて出直してこい」
また、素人にカップリングの正しさの証明を聞かれた際に以下のようにも発言しているが、それはつまり「正しい正しくない」という感覚を主人公が持っているということの証左ではないか。
・「○×○が正しいと証明するにはどうしたらいい?!」→「正しい正しくないは関係ない!」
そもそも二次創作物は全て正しくない。正しいのは原作だけだ。二次創作は全部個人の幻覚だ。規模が大きくなりある程度市民権を得たとしてもそれは集団幻覚に過ぎない。
「私の幻覚は正しい、私にとってはな」それは大いに結構である。しかし主人公は、自らの幻覚の正しさの根拠に原作を持ち出し、しかもそれで他人を殴っている。(これは怨霊に関しても言える)そんな行為の後に「正しさなんて関係ないよね!全てをぶつけ合おう!」なんていう河原でライバルと殴り合って真の友情が芽生えるみたいなノリをされても納得いかないのである。
ちなみに蛇足だが、現実にも逆カプ者同士で(言葉で)殴り合う腐女子はいるが、前提に互いへの信頼があるから殴り合っているのである。思想と感情の問題で譲歩なく殴り合った結果に友情なんて普通芽生えないのではないでしょうか。わからんけど。
三つ目の嫌いポイントに、主人公の人間性が嫌いという点がある。もうこれはどうしようもない。主人公が可愛くて好きって人にはごめんね。
まず、腐女子同士が互いの性癖で争うことは本当に無意味である。何も産まないどころか軋轢を生み界隈衰退の原因にまでなり得る。だからこそ互いに棲み分けをして平和にやっていこうとしているのである。しかし主人公は、
・「超王道カプ」であることを理由に逆カプ煽り&マウントを取る
・過激派右固定総受上等左非固定 を主張
これは平和にやっていこうとする者から見ればストレス以外の何者でもない。互いの性癖で喧嘩するなんて労力の無駄でしかなく、また腐女子同士なら思想の違いで実害が出るわけもなく、お互いノータッチでいれば済む話なのに、わざわざやっかみに来ることはもう「迷惑な人」でしかない。そんなことをやってしまう主人公が理解できない。が、実際にそんな腐女子はいる。頭によぎる過去の出来事と主人公が重なり、ああ、嫌いだなあと笑ってしまったわけだ。
蛇足の所感。今回の件、Twitterでは主人公受けに対するヘイトが散見されたけど、どちらかというと主人公受けというよりオサムのような腐女子に対して苛立つのであって、主人公受けが責められまくっているのはちょっと違うのではと思った。まあ気持ちはわかるけど。
おしまい。