はてなキーワード: 研鑽とは
たしかに、「かなり厳しいレベルの基礎力ですよ」って採用担当に言ったんだけど、そのときは会社も「『長時間の研鑽や修業の末に身に付いた高度な技術や判断が必須』っていう今の採用より、基礎力さえあれば誰でも仕事が出来るレベルまで教育と仕事の粒度を整備しよう。そうすればワークライフバランスもいい」といっていて、それは分かるんだけど、技術職の採用に技術審査もないのはおかしいし「いくらなんでもレベルに限度があるよ」って思った。
「判断が必要ないから練習さえすれば誰にでも出来るでしょ」って。
でもそれだって、エキスパートになるには1日10時間以上、締切に煽られながら反復練習してスピードが身に付くレベルだったんで、「履歴書と面接だけで分かんないよ・・・」って思った。(今はもうちょっと仕事の時間も短くなってるけどね)
昨晩エントリーした増田が自分で読んでみても訳がわからないので書く。
ポリティカル・コレクトネスは悪を打ち砕き光の路を示す、光り輝く剣である。世界救う希望の大樹である。
ただし、その光り輝く剣を持ったものは、ポリティカル・コレクトネスに反するものに、脊髄的に斬りつけ打ち砕かなければならない。
そして億万の剣が、淘汰され、研鑽され、その剣が12本になったときに、世界は救われるであろう。
ポリティカル・コレクトネスと円卓の騎士より
MeTooは日本ではもう伸びしろが見えず瀕死の状態のポリティカル・コレクトネスの再拡大にも大きな役割を持つ、とても重要な社会運動になるはずだった。
だが、今回みたいに、BuzzFeedが深く関わっているライターのセクハラ行動、セクシストとしか言えない発言を不問とするのであれば、残念ながらBuzzFeedも隠匿体質な日本社会の一員と残念ながらみなされてしまう。
それがとても残念で、ヨッピー氏の発言について書いたエントリーが以下の2本だった。
ヨッピーさん、はあちゅう氏が仮にセクハラ発言をしていても#MeTooすることに何の問題もないのと同様に、セクハラを確実にしていたヨッピーさん自身が「オレが #MeToo」って名乗るのも問題ないのですよ。
今読んでみても確かに訳が分からないのだけど、BuzzFeedは本当にMeTooをこれ以上グダグダにしないでくれ。といいたい。
プログラマー(SEとは名乗らない)から営業への異動を説得されている。
やりたくない。
若手の頃からたびたび目をつけられていた。今までは運良くタイミングが合わず、なんとか躱してきたが…中堅になった今、上の方で「そろそろどうだ?」という話になっているらしい。
やりたくない。
技術職で食っていきたいのだ。手を動かして何か作りたい。より良い設計に頭を捻りたい。コードに没入したい。ついでに世の中が少し良くなりゃそれでいい。
新卒未経験で就職したが、業務内外問わずそれなりに研鑽を積んできたし、日頃から技術志向であることはアピールしてきた。趣味で学んでた技術が実案件にハマって脳汁出たこともあった。ほぼ最速で昇進できたのも、そこが評価されてのことだと思っていた。
でも違うようだ。その辺のスキルがようやく脂乗ってきたと思ってたのに、それを捨てろと。
つーか同年代他にもいるのになんで俺なんだ。喋れなくはないし酒の席も好きな方だが、真の意味でのコミュ力には自信ない。たまに口も滑る。外ヅラだけそれなりに良いだけの真面目系クズだしズボラだしガチ寝坊もしばしばやらかしてて絶対営業なんて向いてない。
以下説得文句
「開発より自由に動けるよ?」
「開発のまま、っていうけどあと5年10年したら管理側だよ?後進もいるし」
「開発としてこれ以上成長できる案件が今ないんだよ」
「動向は知ってなきゃいけないから、技術から離れるわけじゃない」
開発一通りやっただろ?次行けよ。ってことらしいんだけど、一通りやったつもりなんて全然ないんだよ。35歳定年説かよ。あれ絶滅したと思ってたぞ?
そんなん言ったらちょい上の中堅どころとか同期とか同じ条件でいっぱいいるじゃんか。つーかその話のとき目指してる先輩方が暗にdisられててムッとした。
視点が広がるというのはあるだろう。広がった視点を持って開発に戻る、というのはちょっと魅力ある。けど営業行って開発に戻った人いないじゃんか。行ったっきりになるのが目に見えてるから嫌なんだよ。今後はローテーションも考えてるとか言ってたけど全く確証なし。
呼び出し食らってそんな話をグダグダ平行線のまま続けたのち、ひとまずは解放された。
節目節目でやる気はないと何度も念押ししたが、今回は簡単に折れてくれない。
開発のままでいたい、だけだとどうも弱くて、俺が開発から抜けることの損失を説明できないと勝てない予感。そうなると自信がなくなってくる…
あと営業が嫌な理由も強化しないと。だがそもそも営業が何やってんのかちゃんと語れないのよな。「顧客と開発の橋渡し。スタイルは人それぞれ」とか回答されてもな。
相手をよく知るため、とかで営業チームに話聞きに行ったら逆に絡め取られかねない。
あー憂鬱だ
あー憂鬱だ
あー。
似たような経験ある諸氏いたら、飛び込んでみろ意外といいぞとか絶対やめとけとか、あるいは甘ったれんな小童系の手斧でも何でもいいから投げてくれさい。
当然、何でもできるという万能感の確信があった。
誰でも必ず一度は感じる万能感、一人よがりではなく何かをするたびに人に褒められる快感。
義務教育をこなし、大した苦労もせずに高校も進学校!のようないいところに入れて順風満帆、これぞ人生を謳歌していた。
趣味でやっていたこともそこそこ評価があり、何事もうまく行くと信じて興味があること全てに手をのばした。
何一つ欠けることがなく、本当に自分が「珠」のような存在と信じて全てにのめりこんでいった。
好きな事がそのまま技術になっていったのと、嫌いな事を覆って余りあるほどの優位性。
前のめりで自分を研鑽し、試行錯誤を繰り返しながら磨き上げ、贔屓目に見ても一目置かれていた。
そうなると表舞台にあがるチャンスがあるし、掴むこともできた。
いやはや、これは才能というべきか。
と思っていたけれどもやっぱり壁はあるもので、今までと違う少しの違和感が即、無能感に直結してしまう。
今考えれば、迂回してもよかったものだったのだけれど、長年培ってきた万能感は全く許してはくれないし、
何よりも負けのような気持ちになってしまい、万能感を得るために意地でも乗り越えるため必死だった。
珠が石になっていくという感覚に囚われすぎて惨めな気持ちを味わった。
今は幼児的万能感という、誰もが体験する一つの青春なんだろうと思う。
大人になるということは出来ることもあるし、出来ないこともあるを知りながら、
なーんて都合のいいことがあるかと。
折られた骨は強くなって、今までやってきたことは古くなっていても、決して無駄にならない。
そして、万能感を持ち続けている人はそれを疑わない。
隠してでも幼児的万能感を持ち続けろ。
珠は転がるばかりだけど、石は坂道のどこかで必ず止まる。
ちょっと前に仕事の都合で遠隔地に異動となり、練習に行くにも移動時間がえらいことになったので、今は別の団体を探しつつ、たまに他団体の助っ人に行く程度。
10年以上の活動を通し、当然そのオケの美点も欠点も見えてきたわけだが、欠点と言っても、当時は特に移籍する(というか逃げ出す)ほどの強い理由にはならなかったため、なんとなくそこで弾き続けてきた。
しかし、そこをやめてから他団体の演奏を聴いたり、スポット参戦で合奏する機会が増えた結果、昔は違和感程度に感じていたオケの欠点について、だんだん怒りがこみ上げてきた。
良い思い出もある反面、その部分については「よくもやってくれたな」という気持ちが収まらない。
そしてその欠点は、恐らく日本中のアマチュア団体で散見されることだと思ったので、苦言として書き置くことにした。
問題となったのはただ一つ、吹奏楽癖の抜けない管楽器に尽きる。
とにかく木管も金管も、管弦楽という音楽がどういうものなのか、真面目に考えたことある?とツッコみたくなる吹き方なのだ。
そりゃ中学高校、人によっては小学校高学年から毎日のように練習してきたんだろうから、その貯金で演奏技術は色々と身に付いていると思う。少なくとも大学で始めた弦の人よりは。
でもねえ、だから何?って感じなんだよ。
それだけの積み重ねがあって、そんな無神経で無節操な音しか出さないんなら帰ってくれよ。
反感を買うのを承知で言うと、オケは弦の縄張りなんだよ、人数だけじゃなく音楽的にも。少なくとも現在頻繁に演奏される曲は全部そうだと思っていい。
つまり、弦が主体で音を出している(だから弦の音符の数は管楽器より遥かに多い)所に、管楽器が彩りを添えるようになっているのは、ハイドンから現在に至るまで不変なの。
例えるなら「ケーキの主体はあくまでスポンジであって、そこにクリームやフルーツがあるの!」って話。
それが何だ、「こっからソロ、私が主役としてガチで吹く」ということしか頭にない木管・ホルン、「ずーっと休符…はいここ4分音符あるから吹く、せーの!」という音しか出さない金管。
どっちも、「自分が登場するまで、弦を主体とした皆が、どんな物語を紡いできたか」を全然意識してねーじゃん。
ハナから「そんなのかんけーねー」という音で吹いて、それがどれだけ場違いかも分からない、それが気にならないことが信じられない。
オーケストラ舐めてる?
なんかもう「このケーキのクリームやフルーツはこうあるべきだから、その通りになるように全力を尽くす、ケーキはまあよろしく焼いといて」みたいな事をしている。
その結果、ケーキとクリームの味がケンカしようが、上に乗っけたフルーツの重みでケーキがクリームもろとも圧壊しようが気にしないとか、本当にそんな仕上がりになっているのだ。
これが
「そんな音でお膳立てされて、どんな音で入ればいいんだよ。もっとちゃんとやってくれないとこっちも困るんだけど」
という文句だったら全然いい。それは責められて当然であって、頑張らないといけない所だから。
「そんな不味いケーキじゃ、どんなクリームやフルーツを合わせたって美味しくならないから」みたいな話だし、それは「このケーキはこういう味と食感で攻めてきたか、そしたらクリームの味付けは…フルーツの切り方は…」という意識と気遣いがあってのことでしょ。
勿論、上の文句に当てはまらない、本当に上手な人もたまにいる。
でもそういう人は、漏れなくプロのレッスンを受けて研鑽を惜しまない人で、吹奏楽上がりというだけの人は大概ダメ。
信じられるか?社会人になってからレッスンでオーボエを始めた人が、技術面はともかく、音楽面では中学からの吹奏組よりセンス良い音してるんだぜ?
吹奏組は全員「ヘビが出てきそうな音」がチューニングにおけるデフォルトである。お前そのヌメヌメした音でソロ吹くのかよ?そうじゃないならソロの音でA出さなかったら意味なくね?そもそも合ってるように聞こえねーし。
一方、個人レッスンやってる人は本当に合わせやすい音を出してくる。聞けば「やっぱりぶら下がった音とかじゃなく…」と言っていて、全くその通りという感じだ。というか、綺麗な音で吹いてくれたら弦の人間は何も文句言わない。この感覚も、吹奏上がりには理解されないんだよなあ…当たり前だと思うんだけど。
なあ、どっちが良いと思う?
もちろん「昔は良かった」なんて説教臭いことをいうつもりもない。
ただ、単純にどっちが良かったかなって思うんだ。
紛れもなく、前者だろう。
「どっちもどっち?」
しかしながら、どっともどっちだとして次悪を選択し、次善に変え、最善にひっくり返すのが我々左翼の使命ではないだろうか?
一見メジャーと思えるものに逃走のラインを見出し、その線を増幅させ、相転移を願うのが我々左翼のやりかたではないだろうか?
なるほど、たしかに「共産趣味」とかいう田舎の優等生が頑張ってシャツの第一ボタン外しましたみたいな趣味の流行からも伺えるように、
その種のパフォーマンスは「保守」に簒奪されてしまったといえよう。
しかし、であればその手法を再び我が物にすること、お望み通りの古い言葉を使うならば再領土化することが肝要なのではないか?
以上。まだ見ぬ同志の研鑽に期待する。
書き途中の増田が出てきたから投稿するわ。多分10の嫌いなこと、に便乗しようとした投稿で、7つしかないけど。
具体的にはテレビ番組で言うと「鶴瓶の家族に乾杯」、ラジオ番組の「昼のいこい」とかのノリが許せない。
「鶴瓶」では、特にゲストがそうなんだけれど、「今、家族に乾杯で来てます~」と連呼して一般の人が驚いて色々リアクション取るのが番組の主軸になっている。これがクソ。
NHKを有難がる人がいるのはいいんだけれど、NHK自らがそれを主軸に据えて番組作るなよ。自画自賛だし、人々がNHKの威光みたいなのにひれ伏してるように感じる。
昼のいこいもそうで、一般の人々の季節の変化の投稿を厳かに読み上げるだけ。一般の人々の投稿に、我々が厳かさを付与してますよ、みたいな構成が大嫌い。
同時に、大河ドラマが終わった後とかに、アナウンサーとかが出てきて「このあとどんな展開になるんですかねー、楽しみですね」とか振り返るのもかなり不快。自らの番組をブランド化をするような番組は公共放送には不要だし、コンテンツそのもので勝負してほしい。
まとめると、人々が想像する「NHKの権威(みたいなもの)」に腰掛けるような番組、NHKが自らをブランド化するような(価値を再生産するような)番組が嫌い。
一般になつかしい、と言われる高度経済成長前後のドラマが気に食わない。
連続テレビ小説「ひよっこ」とか見ててもそうなんだけれど、昭和の人はあんなふるまいしないじゃん。それに、昭和はあんなんじゃなかったじゃん。
もっとタバコ吸ってたしタンは吐いてたし、道端で立ち小便してたし。暴力も身近で、野犬がいたし、雑草も生えてたし。夏は汗だくだったし、もっと衣服は粗野だった。
一番気になるのは、今よりも男主導の社会だったのを上手くドラマの中で消化できていない作品が多いことだ。そんな時代で女性が活躍するにしても、その活躍の仕方があまりに現代的なのだ。
社会の問題を少しずつ改善して今に至るのに、その昭和の時代を今風の人間関係で描くのが気に食わないというか、時代の表現の限界を感じる。
もちろん、当時のままに社会を描いたドラマを放送しても人気でないだろうし文句言われるし、多分面白くならないはわかってる。
だが、そこにこそ昭和の舞台で現代ドラマを作る際の限界があるように思う。
少しは考えてほしい。足フェチと臭いフェチは異なるってことを。
現今の足フェチと臭いフェチとビデオは、それがあまりに未分化で悄然となる。
私はどっちかというと足フェチに守備範囲があるんだけれど、「蒸れたブーツを……」的な文脈のAVが多すぎる。
論文とか書いててもそーだが、論旨が二つあるんだったら論文を二つに分けるだろ。あるいは章を二つに分けるだろ。それとおんなじだろ! 絶対におかしい。許せん。
臭いフェチは、別に足だけでなくてもいい。腋とか髪とか、良いにおいしそうなところはたくさんあるんだから、それで作ればいい。
でも足は足しかねーだろ。足は手じゃないし腋じゃない。
それとSMっぽくなるのも同じ理由でおかしいと思う。俺は足フェチだっつーの! なにも女性に攻められたいわけじゃない。
例えば、狭い業界にいると、誰誰さんがどうなる、とか噂話が多く飛び交う。馬鹿くせーわ。
人事なんて、正式に決まってから周囲にアナウンスすればいいだろ。組織でも個人でも。
それがよー試験の前後から、誰誰が書類を送付したとか、誰が試験を受けに来ていたとか、誰が受かりそうだとか……馬鹿くせーわ。
そんな人がどうしたのか気になるの? まーわかる。良いポストだったり新しいところだったりしたら、気にはなる。嫉妬とか、羨ましいとか、あるいはあそこの先生のお弟子さんだ、とか、色々あるのはわかる。
だがなぁ、そういうのは心に留めておくのが大人なんじゃないかね。君はサルかね? と思う。
そういう噂が、現場の当事者たちの足を引っ張ったりパフォーマンスを悪くすることが連綿と繰り返されている。
仕事に就くということは、成果を出すために就くわけだ。周りの噂が、その成果をすり減らしている。そんな事例が多すぎる。
文章書いてて、「?」の後に一文字あけるとか、「……」のように三点リーダーを用いるとか、まー細かい謎の誰か決めたルールみたいなのがある。
私はこの細かいルール自体はそれなりに遵守するべきと思う。なぜなら、気にする人がそれなりにいるからだ。
問題は、こんな風な細かいルールばかりがルールだと思っているやつだ。
もっと文章を書く際には決まりごとがあるし、論文でも小説でも訴えたいことを訴えるための手段・テクニック・構成があるだろう。
そして何本も文章を書いて、ルールが馴染むか研鑽を積んでいかないと、文字を書くこと・文章を書くことが自分のモノにならない。
そういう訓練を全く積まずに、誰でもわかる細かなルールだけに固執するというか、そこしか理解できない人が、文章のルールとか語るなよ。
よく、体育や音楽や国語の初等教育を軽んずる人がいる。大人になれば、そりゃあ集団生活や集団での規律みたいなのは充分に備わっていて、小学校での集団運動みたいなのを軽視したくなるのはわかる。
だけれど、子供ってのは身近にいる人なら解るが何もしなければ何に対しても馴致しないのだ。基礎的な身体の動かし方や基礎的な音や基礎的な論理・読み書き。
体罰や強制や人間ピラミッドなんかの時代遅れのやりくちはもちろんあってはならないが、ある程度は集団に馴致させるシステムのメリットを見てもいいのではないか。
家庭教師にそれぞれが初等教育を一任させるシステムがいいとか言い出す人がたまにいるけど、そうじゃないでしょ。
新聞、明らかにメリットあるだろ。あえて煽り気味に書くけど、それが解らないのなら、あるいは、そのメリットがメリット足り得ないと言うなら、それまでだということ。
自分と全く同じだ。
結局努力できた者勝ちなんだよ。
努力できることも才能の一つだし、自分みたいな凡人が成功を成し遂げるために一番必要な能力だと思っている。
でも、自分のことじゃなくて、自分が努力しないことによって人様に迷惑をかける可能性があることなら精一杯努力できた。
塾講師をやってた頃、他人の子どものために自分も研鑽したり勉強したりした。現役時代こんだけ勉強してれば志望校にも受かっただろうって位、授業するために沢山勉強したし、生徒の成績を上げるために、自分が良い授業をするためならできることはなんでもした。仕事なんだから確かにそれは義務だが、義務の範疇を越えて努力できた。
お互いどこかで改心できるといいな。
最初に言っておくと、当方SideMを中心に活動している男性Pでシンデレラはにわかなので、シンデレラについても「カワイイ」についても的外れなことを言っている可能性があります。ご了承ください。
まぁ驚いた。カワイイのである。とんでもなくカワイイ。びっくりするくらいカワイイ。何がってメロウ・イエローの3人と彼女たちの新曲、「Kawaii make MY day!」である。先行披露されたデレステ内のイベントは終了し、既にライブでも披露された今書くのも時期外れな気はするが、自分の中でカワイイの爆撃に散らばった語彙を拾い集めていたらこんな時期になってしまった。
『カワイイ』ってなんだ?
それは永遠のテーマである。一般に『カワイイ』の言葉に付随するのは、幼児性だったり、女性性だったり、要するに自分のような成人男性が一番遠いものである。
しかし、だからこそ考えなくてはならない。カワイイものが大好きだからだ。カワイイとは一番遠いから、そしてこの歳になって「カワイイものが好き」と言えるようになるまで遠ざけてしまっていた、諦めてしまっていたものだから、カワイイに少しでも近付くためにきちんと考えなくてはならないのだ。royal weにするつもりは更々ない。ただ俺の話である。
ただ、カワイくなくて良い自由が誰にでもあるなら、カワイくて良い自由も誰にでもあっていいはずだ。
ちょい足しという言葉は深いなと思った。法子ちゃんはすごい。カワイイのに本質を突いてる上カワイイ。最強である。なるほど、カワイイは足し算の美だ。
「カワイイは研鑽する全ての者のために」。こう書いたけど、本当は研鑽という言葉は少しずれている。『カワイイ』は足していくもの、『大好き』を積み重ねていくものだからだ。
研鑽、研ぎ澄ます、つまり引き算の美は『美しい』の方が相応しい。美しい顔とは崩れたところがなく、余分なものを削ぎ落とした平均の顔である。完全な球形は美しく、また尖ったところがないので丈夫でもある。『美しい』は防御力なのである。
対して『カワイイ』は足していくものである。カワイイものとカワイイものを足していけば最強にカワイイものが出来上がるのだ。『カワイイ』は魔法で、攻撃力なのである。
曲調こそ渋谷系だが、彼女たちが『カワイイ』を探す場所が原宿なのも良かった。原宿系というファッションジャンルがあるけれど、まさにその根幹にある理念は『カワイイ』の精神なのだ。
原宿系のファッションは、シンデレラガールズでいえば諸星きらりなどが例に挙げられるだろうか。盛り盛りのデコレーション、色味たくさんのパステルカラー、フリルにリボン、彼女の身長でも収まりきらないゆめかわいい。そう、原宿系とは『大好き』を一つも否定せず、盛りに盛って積み重ねていくファッションなのだ。
原宿系の代表的なアーティスト、きゃりーぱみゅぱみゅの曲『ファッションモンスター』にはこんな歌詞がある。「だれかのルールにしばられたくはないの」「鉄の首飾りをはずしてただ自由にいきたいだけ」
原宿は自由の地だ。堅い校則から脱却し、なりたい自分、本当の自分にメルヘンチェン……メタモルフォーゼする放課後。好きなものと好きなものを足したら最強。個性って最高!原宿系という文化は受容の文化なのである。
しかしここで一つ、問題がある。先程「『美しい』は引き算」「『カワイイ』は足し算」と言った。美しいは平均に近付く美だ。しかしカワイイは際限なくどんどん重ねていける。そう、終わりがないのだ。
ある人が「女子力は有る無しではなく高い低いでしか評価されない。天井なき成長を求められる残酷な基準だ」と指摘していた。その話の本質はジェンダー論であったので今は置いておくが、カワイイも同様である。果てがなく、これが義務であれば苦しいだけだろう。
義務であれば!
イベントの時からほとんど確信していたが、先日ツアーの感想とともにRTで回ってきた二番以降の歌詞を見て、やっぱり心配する必要なんてなかったのだと勝手に胸を撫でおろした。
ただまっすぐ笑ってたいだけなんです
誰かのカワイイを否定はしない(そんなことは絶対してはいけない)、しかし自分のカワイイは自分だけのもの、他の誰かに憧れようと、理想像とぴったり一致するわけではない。あの子みたいになりたい、だけど前髪はぱっつんよりアシメがいいな、ネクタイよりリボンがいいな……これもまたちょい足しである。
即ち、なりたい自分になっても、それはそれが誰かから称賛されるものではないかもしれない。個性は自由だが、自由の責任もまた重い。
異性のためでもない!同性のためでもない!それ以外のためでもない!ただ、自分がなりたい『カワイイ』のために!
何故「最初はあの人に見てほし」いのか。あの人のためにカワイくなったから……ではない。カワイイ自分がカワイイから見てほしい、ただそれだけなのだ(思うに「あの人」は彼氏ではない。精々、ちょっと良いなと思っている男の子である)
カワイイの道は果てしない。ゴールしたと思っても、まだまだ可愛くなれそうだと先は続く。見えない終着点を追い続ける旅は険しく苦しいかもしれないけど、その道は『大好き』が敷き詰められた素敵な旅路なのだ。だから彼女たちはガラスの靴で駆けていくだろうし、足を止めない彼女たちの笑顔こそが一番の『カワイイ』なのだ。
結びに。『カワイイ』は誰のためのものだろうか。自分のため、は勿論である。では、『どんな自分』のためだろうか。顔の良い者だろうか。服飾のセンスが良い者だろうか。男だろうか。女だろうか。大人だろうか。子供だろうか。どれも間違いではない。なりたい『カワイイ』になるために歩む者は、みな『カワイイ』に受容されて然るべきだ。
故にこのタイトルは「カワイイは研鑽する全ての者のために」をとった。
要領の得ない話を最後まで読んでくださりありがとうございます。ついでにSideMの新アプリ、LIVE ON ST@GE!が事前登録数到達できるか難しいところなので、気が向いたらどうか宜しくお願いします。
https://prereg.bn-ent.net/common/serial.php?app=imas_mstage
追記:先日事前登録者数が目標数50万に到達いたしました!ご協力いただいた全ての方にいちPとして感謝いたします。315プロ並びにとっても可愛くてプロ意識の高い元子役ユニットもふもふえんと、希望の旗を掲げる革命家ユニットF-LAGS(876と兼籍の秋月涼はこのユニットのリーダーです)を今後ともよろしくお願いします。
素人やセミプロを「お前大した事ないよ」って下げるためにコメントしているのが胸糞。
そんなもに使うためにプロの技を出すんじゃないよ。
敬意を欠いている。
はてブが確実に面白い奴がいなくなってツマラナイ奴が残ってる現実 https://anond.hatelabo.jp/20170805202753
面白いやつがいなくなったのかどうかまでは分からない。おそらく面白いやつは残っていると思う。ググってたどり着いた面白いページに数個のじわじわ付いたブクマが残っていることが多いからそう思っている。
はてブが変になっているメカニズムはまた別なのではないだろうか。
はてブの人口が3倍くらいになった結果、ある程度勢い良くブックマークが付かないと目立つ位置に出てこれない。
その結果AKBやジャニーズばりの組織票を持ったサイトしか新着、ホットにたどり着けなくなる。増田、NHK、朝日などは熱心なウォッチャーが常時見ていてくれるが、そういう人のいないサイトはつらい。
音楽ヒットチャートでも後のビッグネームが初めて注目されるときは30から50位くらいの中途半端な位置に長期間とどまり続ける。そういう実力はあるが固定ファン層をまだ獲得していないサイトを拾い上げるアルゴリズムがはてブには欠けているのではないだろうか。
もっともおっしゃる通りはてなに新しく増えた人口ははてブのレコメンド能力に期待はしているが、自分でレコメンドする力が乏しく、隠れた名サイトの掘り出しに役立ってないのかもしれない。研鑽を期待したい。
努力は害悪である以上、俺は努力以外で絵で食っていけるようにならないといけない
絵で食っている奴は研鑽を努力と思っていないから、なんて声が聞こえてきそうだが、そんなことを言ってはいけない
そんなことを言ってしまったら、「そんなの努力じゃないよ」と努力を努力と見做さずに搾取しようとしてくる輩が出てくるから絶対に言ってはいけない
それを努力と見做すか見做さないかは主観で有り客観的にはすべて努力なのである
日本って思いやりを元に他人の自己愛を尊重するから。自己愛が暴走しやすい。
本当は上にあげれるような人間でなくても頑張ってるからとか、短期的に成果出したからみたいな理由で上にあげて、自己愛暴走してるような人間がどんどん上にいく。
そうして、上には自分の自己愛を満たしてくれることが、実際技術を満たせること、成果を出すことより優先するやつばかりになる。
最適行動を言うにしても、上のプライドを傷つけるようなことをしてはならないというようになる。
そして、上の人間は評価出来るだけの知識も身につける習慣はない。
正直、下には馬鹿にされるから「上を崇めて自分の自己愛を充たしてくれるようなことが素晴らしい日本でありするべきだ。」みたいな森友や日本会議みたいな腐った儒教を求める。
ほんまの儒教は上がどうあるべきかのほうが多いんだけどね。「子いわく、君子とは」の君子って上に立つ人間。
海外では上位層は人間性と技術力を研鑽し「続けないとならない」ハードワークだから給料いいってこともあるだろう。
多少技術が良くても、人を見れない、自分を抑えて最適な行動が取れない自己愛が暴走してる奴というのは、管理職にはつけてはならないんだろう。
行きたい大学はちょっと特殊で、業界最大手だったその予備校でも80人受験して毎年10人合格するかしないかという感じ。
私たちは僅かな望みにかけて研鑽する者同士、ものすごく仲良くなった。家を行き来したり、オタク趣味も一緒だったから一緒にイベント行ったり。予備校でもコンビのように扱われていて、当時一番の親友であったことは間違いない。難しいかもしれないけど、一緒に大学通えればいいねーと励まし合ってきた…つもりだった。
最初の違和感は、ふたりとも奇跡の合格を果たした入学式のことだった。
その年の入試は、急に出題傾向が変わって予備校で積み重ねていた技がまったくきかなかったのだが、彼女は、実は嫌な予感がしたから予備校の他に私塾に通ってこっそりその対策をしてたんだよーと言ってきたのだ。
全く聞いていなかった。毎日おしゃべりしていたのに。
19歳の私にとってはまあまあのショックだったのだが、でもまあ、友達である以上に入試ではライバルだったわけだし、そんなことにこだわるなんて馬鹿みたいだと思い、その時は流した。
それから数年たち、彼女とは同じゼミになった。ある日、指導教官のコネで企業とのコラボ企画が持ち上がり、ゼミ内でコンペが行われることになった。ものすごく良い経験になるし、就職にも有利になるだろう。
これも全くの奇跡なんだけども、私の企画が選ばれた。しかし私が評価されたのは思いつきの部分で、めちゃくちゃ粗いものだった。
その細部を詰めるにあたり、私はまったく教授のOKが貰えなくてかなり苦戦していた。
私が泣き言を言うと教授は「難しいなら他のやつらにタッチするか?」と言った。私を叱咤するためだったと思う。それを聞いていた同ゼミ生のみんなは「教授も本気で言ったわけじゃないよ」「頑張れ」と励ましてくれた。「彼女」以外は。
その翌日、彼女が、教授に詳細なプランを持っていったと聞いた。それはとてもよく練られたもので、とうてい1日でできるものではなかった。彼女は私が手間取っているのを真横で見ていて、着々と準備していたのだ。
結局、教授は彼女のプランを気に入り、共同企画者ということになってしまった。
共通の友人は「まさか本気にするなんて」「こっそり準備してたなんて」と怒ってくれた。もちろん私も、自分が本当に情けなくて悔しくて大泣きしたのだけども、それを悟られるのも嫌だったので表面上は平気なふりをした。
すると彼女は言った。「よかったー(私)ちゃんが心広くて。もう友達やめるとか言われたらどうしようかと思ったー」と。
分かっていたのか。友情をドブに捨てるような行為だと。それでもやったんだ。それができるから彼女なのだ。
ああ彼女にとって私は友達というより「出し抜くべき相手」だったんだと悟った。
彼女はとても戦略的で、彼女の将来のために全く正しい選択をしたのだろう。彼女は正しい。友情なんてもの将来のキャリアプランに比べたらドブに捨てて当然なんだ。
そして彼女は、その実績を掲げて第一志望の就職を決めていった。
それから10年たち、彼女と私は表面上仲良くしていることを続けている。いま、お互いに妊活をしていてまた「ライバルだね☆」と言われてしまった。彼女が、怖い。
http://anond.hatelabo.jp/20170611183038
これのつづき。今回も文字数制限にひっかかったので、分割します。
一方、インドの僧菩提、林邑(ベトナム中部)の仏哲、唐僧鑑真らの外国人も、遣唐使船に便乗して来朝し、インド・西域・東南アジアの文化を伝えた。
遣唐使船は日本人が唐へ往来するためだけではなく、外国人を日本に招くためにも使われていたのです。「遣唐使」「鑑真」というのは中学生レベルの用語です。しかし、この2つを結びつけて説明できる人は案外少ないんじゃないでしょうか?
ちなみに、山川の『日本史B用語集』によると、菩提僊那、仏哲という用語を載せている教科書は、唯一これだけみたいです。しかも桐原書店は彼らの業績を説明するための註を設けている徹底ぶりです。入試問題になったら難問だと思いますが、大切なのはこういう人名を丸暗記することじゃなくて、東大寺の大仏開眼供養会はインドやベトナム出身の僧侶たちも参加していた国際色のあるイベントだった、それは遣唐使船がもたらしてくれたものだということでしょう。
「日本がしばしば新羅を従属国として扱おうとしたため、両国の関係はしばしば緊張した。しかし、日本の遣唐使が唐において新羅人に助けられることもあった。」
これもこの教科書に独特の記述です。遣唐使が新羅人に助けられたというのは、円仁の著作『入唐求法巡礼行記』のことを念頭に置いているんでしょうか?
また、上掲の講談社『日本の歴史』シリーズから引用すると、次のような話もあります。
遣唐使の派遣が間遠になり、日本の船が唐まで行かないなか、それでも求法の念止みがたいとなれば、来航する新羅船を利用するしかない。そしてまた新羅の商人たちは、概して好意的に彼らを助けたのであった(坂上早魚『九世紀の日唐交通と新羅人』)。こうして入唐と研鑽を果たした天台・真言の平安仏教の旗手たちが、仏教の使命は鎮護国家にあるとする考えに則り、護国の修法による新羅調伏を担うことになったのは、実に皮肉なことであった。
このころ唐では、みずからを世界の中心とみなす中華思想が強まり、周辺の国々を夷狄として見下す考えが生まれていた。この考え方は日本にも影響をあたえ、朝廷は新羅や、朝廷に服属しない東北や九州南部の人びとを蝦夷や隼人とよんで夷狄として蔑視しはじめた。
朝廷が東北地方や九州南部に進出した経緯を説明する際、そこには中華思想の影響があったことを説明しています。それに絡めて新羅との関係にもちょこっと触れているので、先にとりあげた東大入試の問題を解くときのヒントになるでしょう。
もっとも、この点はやはり、山川出版社『新日本史B 改訂版』(日B018)の方が優れています。私が先に引用した箇所のすぐうしろ([後略]とした部分)では、朝廷が「東北地方の蝦夷、九州南部の隼人を異民族(夷狄)として服従させ」たことを説明し、「律令国家が蛮夷を服属させる帝国であることを内外に示した」と結んでいるのです。
それに比べると、三省堂の教科書は、遣唐使と中華思想という2つのものを関連付けて理解することが不可能です。
実教出版にも「奈良時代に遣唐使は6度派遣され」たとありますが、東京出版は9世紀のことも記述していてグッド。
遣唐使は894年、菅原道真の建議で廃止されました。ですから、9世紀末まで遣唐使を派遣する制度は残っていたはずなんですが、8世紀と比べるとその回数がめちゃくちゃ減っていることが分かるでしょう。
理由は、日本がもはや唐から学ぶべき必要・意欲がなくなってきたこと、唐が政治的混乱に陥って衰退したことによる国威の低下、商船の往来が活発になったことで日本が唐に朝貢をしなくても舶来品を入手できるようになったこと、などです。
これがさっき桐原書店のところで述べた話にもつながっています。時代が9世紀(すでに平安時代)になっても、仏教では唐に確固たる先進性がありました。だから日本の僧侶たちは唐に留学することを熱望したのです。しかし朝廷は遣唐使の派遣に積極的ではなく、彼らは新羅商人の助力を得なければ、渡航が困難という状況だったのです。
[引用者注:702年の遣唐使派遣の再開について] その目的のなかには、「日本」という国号を認めさせることも含まれていたと考えられる。
東京書籍の教科書にだけある、この一文。「日本」がはじめて国際社会に登場したのがこの時点だったと言っているんです。
これ、すごいことを言っていますよ? 「日本」が太古の昔から存在したという皇国史観に対する強烈な一撃です。
ちなみに、このとき「天皇」は国際デビューしていません。倭国はなんとかして「日本」への国号変更を唐に認めさせることはできても、皇帝にあたる「天皇」という称号を用いて唐と対等外交をする力がなかったのです。唐では天皇のことを「日本国王主明楽美御徳」(日本国王スメラミコト)と呼んでいたようです。もしかしたら当時の日本の朝廷内では、「スメラミコトは唐の皇帝に臣従したが、天皇は臣従していないから日本国王ではなく、したがって日本は唐の朝貢国ではない」という回りくどい官僚的答弁があったかもしれませんが、その点は不明です。このような高度に政治的な問題は、国史編纂のときに巧妙な隠蔽がおこなわれるからです。(上掲の講談社「日本の歴史」シリーズや青木和夫著の中央公論社『日本の歴史3巻 奈良の都』を参照せよ)
さて、これは東京書籍にかぎらず、多くの教科書でそうなのですが、古代史において「天皇」「日本」という表記を用いるときには慎重になっている様子がうかがえます。例えば白村江の戦いでは、唐・新羅と戦った国が「日本」ではなく、「倭」「倭国」「朝廷」等の表記になっています。
なぜ教科書がこんな表記になっているかというと、「天皇」「日本」という称号・国号は、ある時期の特定の政治状況のもと、人為的に作られたものだからです。具体的には天武朝(673年~686年)のころ、大王とその国を神格化する目的で、初めてこれらの称号・国号の使用が開始されました。ですから、もし神と同一であるところのその「天皇」、その神のおさめる国である「日本」が、天武朝より遥か昔から存在していたかのように記述するならば、それは皇国史観に他なりません。
無論、教科書では便宜的に仁徳天皇、推古天皇というような表記が使われていますけど、古代史における「天皇」「日本」という表記の取り扱いについては一応注記が設けられていたりします。例えば『詳説日本史』は壬申の乱ののち、天武天皇が「強力な権力を手にし」て、「中央集権的国家体制の形成を進」めていく過程で、そのころに「大王にかわって「天皇」という称号が用いられる」ようになったと書いています。同社の参考書『詳説日本史研究』はそこがもっとクリティカルです。「大王から天皇へ」というコラムで、「天皇」という称号が天武朝に始まることの歴史学的な検証を載せ、唐の皇帝が一時「天皇」と称していたのを知った日本側が模倣したという説を紹介しています。