はてなキーワード: 成果物とは
小説がつまらない(かもしれない)というのは書ききれないという事象の本質ではない。
単に書くことに飽きているだけだ。
初めの一文から丁寧に書いていくという形式が向いていない上に、きっと自分の成果物を確認しようと何度も読み返しているに違いない。
どんなに面白い小説でも、短い期間に何度も読めば飽きるに決まっている。
まずはプロットをブロックごとに分け、ブロックごとに何が起こるかを詳細に詰めろ。
長編を書ききるのが初めてのやつに、「書いているうちに思いつく」なんてことは起こりえない。
書きたいところから書け。最後の文章から書くとハラハラして書ける。
もっと体力を計算して、マイルストーンをおき、何を持ってゴールとするのか
(そしてそれは文字数などではない)を明確にすれば、走りきることができる。
いやだから、本当に「とても真っ当だ」と思っているなら、
私は汚い言葉使いは好みませんが、結果として成果物の質が向上することが重要なのであって、誰が賢いとか賢くないとか、誰が謙虚だとかそうでないとか、そんなことは心底どうでも良い話です。
なんて言葉は出てこないわけで、そうやって後付けでグダグダ言ったところで、おまえが元増田の主張を全く理解していなかったことは否定できないよ。
いやあ、これから翻訳プロジェクトを立ち上げようとか、既存のプロジェクトに参加しようとする人へのアドバイスとしてはとても真っ当だと思いますよ。
でもSICP訳については既にそこそこの成果物が出てて、別に「俺の訳が最高だから文句つけるな」と言ってるわけじゃなく、誰でもプルレク送れますし取り込まれてるようじゃないですか。
でも現に成果物および実際回ってるプロセスに差が出てるんで、個別事例としては説得力無いです。
「いつもうまく行くとは限らないから、みんな真似をしないようにね」という主張であるならわかります。真鍋氏を真似する人がでるとは考えにくいですが、まあ可能性はゼロではないので。
元増田氏の主張は良く分かりますが、今回の(SICP改訳騒動の)文脈においては、的を大きく外していると思います。
真鍋氏の翻訳に誤りがあることは何ら本質的な問題じゃないんですよ。だからそれを指摘したら何かが解決するわけでもない(真鍋氏自身、主張に影響を与えるものではないって書いてるでしょ? 本人かどうかわからないけど)。元増田氏の書き込みに何らかの貢献がありえるとすれば、それは真鍋訳に取り込まれて成果物がより良くなること、それだけです。
一般的なアドバイスとして、円滑な校正プロセスを回して行くノウハウ、というのは有用です。でも真鍋さんには多分通じなさそうだし、真鍋さんが変わろうが変わるまいが、SICPのより良い訳が登場したこと、それを改善してゆくプロセスが現に回っていること、という事実にはあまり関係ない話です。
元増田さん、真鍋さん(本人かどうかわからないけど実務上問題なし)のこれに対して、使用許可を明示してやってください (匿名なのでpublic domain宣言か、無制限の使用許可か---匿名ダイアリに「書き込みはPDになる」とか約款ありましたっけ? それなら問題ないんですが、ちょっと探しただけでは見当たらないので。)
「そびえ立つクソの山」のような言葉使いの問題よりも、「そこに改善できる材料があるのに使用条件が不明確で使えないこと」の方がはるかに重大な問題だと思います。
私は汚い言葉使いは好みませんが、結果として成果物の質が向上することが重要なのであって、誰が賢いとか賢くないとか、誰が謙虚だとかそうでないとか、そんなことは心底どうでも良い話です。
今期、3人の新卒が配属されて、現場でおおよそ3ヶ月くらいが経った。
一人は何でもやる。事務作業から、難しい案件もチャレンジして質問も的確。好奇心も旺盛で、自分の中に芯がありながらも、それを日々鍛えなおしている感じがする。正直何が足りないか、今のところ分からない。おそらく同業他社の新卒カテゴリの中でも上位にいる逸材だと思う。
一人は好きな事しかできない。応用的なのをやらせたら、コンテクストを考えなくて「なんでこうなったの?」って成果物があがってくる。俯瞰して物事を捉えろと注意した瞬間はやるけど、次には忘れて同じことを繰り返す。ただ、能動的になるには時間がかかるが、まぁまぁかな?と思っている。
一人はもうなんとも言えない。手に職を付けたいと言ってたが、課題を与えても解けない。この職種が好きなのかどうなのか、自分でも分からないらしい。普段からも特に自主的に勉強もしていないようだ。当人いわく「ライフワークバランス」だそうだ。「バランスとれてないよね」と言いかけたがグッとこらえた。
よくまぁ、こんなにも上手に[上][中][下]が揃ったもんだ。
やはり問題は[下]。
指摘され慣れていないのと、就職がゴールだみたいなのを、日々感じる。
説明して理解度確認するのや作業指示について確認するのが失礼とか初めて聞いた。
そもそも同等の立場じゃないのにそういう勘違いがこういう人達の価値観なのか、勉強になったわ。
わかったとかできるは人それぞれって成果物が決まってる「できる」に人それぞれとかないと思うんだが…
http://toyokeizai.net/articles/-/90210
「休めない」日本人の生産性が著しく低い理由 | オリジナル | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト
・休暇や休憩は取らないほど評価が高い
だらだらと思ったことを書きなぐる。
私は7年目の技術SEで残業時間は平均すると月40h以下だが、忙しいときは80hを超える。
今の仕事は中規模の請負開発をやっていて、30人ぐらいのチームで作業している。
個人としての生産性は高い方だと思い込んでいるが、
やっぱり、どうにも生産性が低い。
自分のような普通のエンジニアが1時間で終わる作業が、1日かけても終わらない。
品質が基準に達してなくて、結局1から全部指示しないといけない。
そして合計1時間以上かかる。
人材の質の問題であり、外注に払う単価を上げれば解決する問題なのかと
思ったが、どうも聞く限りそもそも労働市場にまともなエンジニアがいないらしい。
上司いわく「人材は自分たちで育てるしかないだろう」とのこと。
頑張って育てているつもりだけども、やっぱり成果は人によって差が出る。
5人に教えて1人ものになればよいほうだ。
これはソフトウェア設計やプログラミングの話になるけど、やっぱりセンスがないと難しい。
教科書的な内容は教えれば学んでくれるけど、正直それは最低限のレベル。
センスのない人の作業成果は、正直何の役にも立たない。
(むしろあるだけ有害のことが多い、技術的負債と呼ばれるやつだ)
難しいのは、本人はいたって真面目に作業していることだ。
真面目に作業しているのに、その人の生産物の価値がゼロなことは悲しいことだ。
(これはそもそも作業指示が悪いという批判は正しい)
「管理とは成長させることだ 。現状を維持することではない」
本当に、いかに人を使って仕事をうまくこなすかが難しい。
全部その人に丸投げして、作業が遅れたら休日出勤させて
無理やり終わらせるというのは昔ながらの解法なんだろうけど、やりたくない。
人に優しくないし、何よりスマートじゃない。
今いるチームの他の人の生産性を上げることだろう。
「TeamGeek」や「How Google Works」を読むと、
"そもそもチームメンバーになる人の選考が一番大事だよ!"と書いてある。
質を問わず安い外注を大量に入れて、戦線に投入しながら立派なエンジニアに育て上げ、
正直生産性はどうでもいいな。
これ以上、開発が原因で鬱病になる人を見たくない。
みんな元気に育ってくれ。一緒に戦おう。そして死ぬな。
俺は、イケメンになろう、なぜイケメンだけが得するんだ。って劣等感持ってたんだけど。
いま少し考えあらためた。
イケメンは女をとりこにして、風俗なりAVなり落とす。そうまでしなくとも、女の婚期をつぶして妥協させる。そういうのでできた成果物を普通の男達が得る。
これを考えると、イケメンは社会にとって、「女を倒す食物連鎖の1種」で、「イケメン」っていう役割を果たしてるんだと思った。
ブサメンは、女から相手されないから、必死に努力して金を作る、社会を回す。つまり、そういう差別が間接的に社会を動かす原動力になっている。
ブサメンは、そういう働きをする「ブサメン」って仕事を担当してると思う。
そう考えると、扱いの差が気にならない気がした。
俺は、俺の領分の仕事をしているし、イケメンはイケメンの領分の仕事をしているだけで。
研究者と技術者の仕事の分担みたいなもんだな。イケメンをうらやましがるのは、違うわけだ。
だから、イケメンはイケメンの役割を果たすだけで、ブサメンはそれで不利益を受けても、ミクロではいやだが、マクロでは共生関係なんだなと思う。
1980年代に反解釈がやってきたころにも反権威主義だのを掲げる実際はただの反知性主義の人間たちが過剰に持ち上げ、そいつらの反解釈の実践がしょぼすぎて下火になったが、Charlotte擁護で見かけるとは思わんかった。あの時と同じようにやはり同じような反知性主義の人間が持ち上げていたのでもう苦笑するしか無い。
反解釈は何も考えずに豚になれっていう知的怠惰とは全く逆だ。自分が興味ない部分は全部解釈って枠に押し込めて無視し、自分が興味ある点については感性って言えばおっけーみたいなヌルい態度のやつがソンダクを引き合いにだして何かを悟ったかのように語ってるのマジで滑稽。ソンダクの理論がそんな簡単に実践できるようなものなら誰も苦労しないが、バカはすぐこの理念みたいなところに吸い寄せられて、わかった、俺の感性で勝負すればいいんだ、という勘違いを起こす。反解釈的態度というのであれば、「キャンプの奥の奥にある純真なもの」について自分が官能的態度で感じ取ったものを語るべきだ。だが殆どの人間はそれが出来ない。僕は反解釈的態度で見て楽しめましたって言ってる割に書いてる内容が全くそういう話じゃない。自分が好きだから好意的に解釈するって言ってるだけ。それはただのえこひいきであって反解釈とは程遠い知的怠慢にすぎない。Charlotte擁護してるやつも、"評価するべき点としては、綺麗な映像の数々、楽曲の質、不満を感じさせない人体の動き・アニメーションといった「作品外形」が高水準な所・そして「毎話楽しかった」ところ"などと書いているが、それはそれすべてCharlotteの本質に関係ない部分であってPAWORKSすげえアニメすげえという話しかしてない。これを今期終わった後のワンパンマンの評価に置き換えても何も変わらない。つまり何も語ってない。こいつは作品そのものについては何も語らず逃げたのだ。キャンプそのものは確かに語ろうとすると逃げていくようなものであるが、その輪郭を語ることはできる。それすらもせずにワンパンマンでも語れるようなことしか語れていない以上80年代によく見かけた「エセ反解釈信者」だ。。Charlotteという作品そのものについて語ることから逃げて、僕はこの作品楽しめました。なぜなら反解釈的態度を手にしているからですってアピールしてるけど、成果物が全くCharlotteという作品そのものについて語れていない以上オマエがそう思うんならそうなんだろうなって話にしかならねえ。ただの豚なら余計なもの持ち出してないでブヒブヒ言っていればいいのだ。
“31歳無職に彼氏を自称されていた時に学んだこと、か。書いてる内容は正しいと思うが、なんか好感の持てない文だ。選民意識高そう
僕が彼女に「選民思想でもあるんじゃない?」と言った理由を少し書いとく。どちらかと言うとアートニート寄りな人間のいうことなので、ハヤカワさんの言う不正解な人間の言うことだからコバエが飛んでると思って無視していただければ幸いですよ…
まず、僕は女の人のブロガー・ライターが増えたことで、「自分が出会ったダメンズへのヘイト」を書き散らかすブロガー・ライターの存在を山のように見てる。本当に彼女達が弱者で被害者ならまだ応援する気にもなるけど、ある程度モテてる人間による、モテない人間へのマウントでしかない用に感じ、不快
僕はハヤカワさんについて「選民思想」といったけど、具体的に言うとうしじまいい肉とか峰なゆかとかそっちの人と同じ系列の選民意識を感じています。自分が男性にモテるような位置に行って、実際多少なりモテた結果、モテの弊害も経験し、その弊害を語ることで私はモテてるとでも言いたげなナルシズム
ダメンズについて綴る女性のブログやツイートに対して、ある種のセクハラやセカンドレイプだという自覚「自分は被害者でかつ、相手を汚い言葉で見下せる立場であるから殴るんだ」という被害者最強(クレーマー的)な発想と「でも、そんな経験のある私はモテてるの」というナルシズムが感じられる
クレーマー的に人を殴るのも、被害者としてナルシズムを発揮する発想も僕から見るとなんかご都合主義で論理的でない(この人と関わると立場や印象で態度をコロコロ変えられるのだろう)という懸念を感じて、不信感が募る。ハヤカワさんに限らずね
とは言え、僕はアートニート寄りの人だからきっと彼女に何を言っても「お金というグッドをもらってないあなたが何を言っても、それはコバエ程度のノイズにしかならないよ」って意見でしかないだろうし、そのことは僕も自覚してます。しかし、ハエでも生きてる以上飛び回るし、生きようとはするんです
あとは20歳のガキに説教するのもどうかと思うけど、人間ね、はじめから道が決まってる人ばかりじゃないんだよ。進んだ道が合わなかったり、塞がってたり、転落して見失ったりしてその都度模索しながら生きてる人もいるんだよってことを若くして成功なさってる彼女に差し出がましくもいいたい僕がいる
どうせみんなハヤカワさんの味方をする負け戦だと知ってるから、僕はこの場で言っておくか。よく、女の人はヤリチンが女の子との行為を成果物のように言うことを批判するが、最近溢れてる自分の関わったダメンズを晒して批判して同情を集める行為もヤリチンのそれと本質的には同じことなんじゃないの?
はいはい、負け戦。今回も僕はまた女に負けた。お金に負けた。攻撃される前からこうやって愚痴ってる時点で自分にも負けてる。オーディエンスも戦意がない僕に味方しない。そこにナルシズムはないです。僕も彼女が正しいとは思うから、僕を否定してますます彼女が正しいと示されたらいい。全部僕が悪い
病んでもないさ。ただただやる気をなくしているのさ。
kanose お金がなくて女性に対する自信がないからって女性のブログを無料でキャバクラ代わりに使って心を癒やそうとするかのような鬱陶しいつぶやき。これシラフで書いてるなら怖いな
簡単に言うと、プロジェクトが遅れているので今まで支払った報酬を全額返金しろ、というものだ(今回遅れはでたがもちろんそれまでは成果物を確認してもらっている)。
詳細は省くが全額返金に正当性があるのか弁護士に相談できるサイトで相談した。
弁護士の回答によると「契約書等、実際の進捗状況を法的に資料作成して損害を計算したものを弁護士を通して請求してきたなら法的に対処してください。しかし全額返金になる可能性は低いです」と。
この時点で正式に相手の担当弁護士から請求が来るならこちらも法律に則って粛々と返済プランを提案しようと思っていた。
しかし、実際はそうはならなかった。
毎日電話やlineで届く罵詈雑言の嵐、こちらが何か返答しようとしても激昂して話にならない。
しまいには実家に電話してきて親に「あなたの息子さんは詐欺師だ、仕事を全然していない、お金を返してもらう、本人が返せないなら親や親族でお金を出せる人間を集めろ」と言ってきた。
家族は僕の仕事内容をよくわかってない&相手の脅迫とも取れる言葉を聞いて精神がおかしくなりかけた。
そして私にまた電話が来た「○○日に親と一緒にこちらの事務所にこい。その場で念書を書け」
その日(二日後)とか言われたのだが「考える時間をください」と予定をなんとかずらした。
あらかじめ調べて私以外の人間(親族であっても)は連帯保証人になってないかぎり賠償責任ないそうだ。
頭ではそのことがわかっているのだが電話であらゆる恐ろしいことを言われ現に家族にまで返金を迫ってきていることによりもう気が狂う寸前。
私が死んだら解決するかといえば解決しないだろう。相手は家族に危害を加えてくる。
恐ろしくて仕方ない。
【小6「組体操やめたい」 学校の対応は・・・? - Togetterまとめ】
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・組体操やめろ派の主たる主張は「ケガをするリスクが大きい」こと。
・他の競技、騎馬戦・棒倒し等はどうなの?組体操が格段にリスクが高いのだろうか。
・リスクが高いことを、そのリスクの判断ができない児童に強要してはいけない。
・それでもやりたいなら(やらせたいなら)中学で体操部に入ればいい。
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・もし自己満足なら、こんなくだらないことはない。即刻やめるべきだ。
・それとも「体幹を養う練習」「他者を助ける練習」の一つの形、成果物なのだろうか。
・そうならば、しっかり練習をする意義はあるのではなかろうか。
・(例えが悪いが、運動会は、日頃の成果を披露する軍事演習みたいなものか)
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・いや、体育の本来的な目的って、そういうことじゃないか?体を育てる。
・個々人が、自身の成長ペースに合わせて、健康な身体をつくること、身体の動かし方を覚えること。
・高いタワー作らせたり、炎天下で野球やらせたり、グラウンド100周させたり、それって本来の目的じゃないよね?
・一体感とか達成感とか根性とかは、副産物だ。そのものを体育の目的にしてはいけない。
・「体を育てる」から逸脱する規模の組体操には反対が起こるのだ。
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・「理解できないリスク」「将来不要であるリスク」を主張するのだろうか。
・マルクスを学ぶことは左翼主義に傾倒する、とか言い出すのだろうか(ものの例えだ)。
・勉強したい人だけ机上授業に参加すればいい、ウチの子は他人と比べて頭が悪いから勉強させるのは可哀想、とか言うのだろうか。
・傷を負うリスクがあるのが身体か、思考回路か、という違いはある。が、後の人生に影響をおよぼすのはどちらも同じ。
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けっきょくモヤモヤしたままだ。
結論:
①「身体を作る」という目的が遂行できれば、組体操でなくてもよい。
②ただし、なにかしらの成果を示す場は必要。
③親や教師は、子供が(相対的に)逞しく育つことに価値を見るべきで、成果物の派手さやハードルの高さそのものに目を奪われてはいけない。
④参加したい人だけ参加すればいい、というのは少し違うんでないかな。
>微妙な色違いや位置違いを作るのは最終調整の段階だし、全部を保存しなくても後で再現できればいいので何でもかんでも保存しておくのは得策じゃないよ。
>途中保存ファイルが増えすぎると取り違えが起こる可能性も増えるので、これやってるとしたら相当危険な仕事の仕方だと思うし、長年やってるデザイナーならこういうことはしてないと思う。
いや、ちゃんとしたデザイナーは保存するよ。正確にいうと「残る」と言うのが正しいんだけど。
aiとかpsdそのままじゃないけど、確認用のpngやjpgで出力したり、紙に印刷したりで、
結局膨大な数のデータが「残る」。小さな案件のロゴですら100くらいは残る。
もちろんサーバに定期的に保存するし、途中成果物は時系列に残していく。
ダブルクリックで日時付きのファイルが別名保存されるバッチファイルを用意していたり、工夫しているよ。
もし取り違えが起こってしまうなら、そのような「体制」にしてるから、三流なんだよ。
>自分もデザイナーだけど『疑わしきは罰せず』という考えというか、すごく怪しいとは感じていたけど決めつけるのはまだ早いということもあったりで最初は擁護というか、責めることはしてなかったよね。
その立場であれば別にいいんだけど、「素人にはわからんだろ、おまえはアニメの見分けがつかないオカンと同じ」とか言って周りを叩いてたデザイナー様たちは問題だよね。
だからきみはウダツのあがらない三流なんだぞ、と言ってもおそらく本人には伝わらないけど。
http://anond.hatelabo.jp/20150831231737
ネット上では「デザイナーは佐野を擁護してる」というような図式が出来上がっており、
デザイナーが「一般人」を見下してるみたいな見方がよくありましたが、実際はそうじゃないです。
ただデザイナーとしての自分の仕事を理解してもらいたかっただけです。佐野氏や佐野氏のしたことを擁護したかったわけでは決してありません。
(そもそもトートやポスターのパクリを擁護するデザイナーはいないでしょう。そんなことすれば自分の信用に関わる)
佐野氏の行ったデザインについて、トートバッグや他のポスターなどでは明確なパクリが見つかっていますが、五輪ロゴで言えば、実際にパクったという決定的な証拠はなく「デザインが似ている」という疑惑の話です。(実際のところどうなのかは別として)
いくつかの解説でもあった通り、五輪ロゴのように、自分が作ったデザインが過去のものと似ていることはあります。
そしてデザイナーの仕事とは成果物を仕上げることももちろんですが、むしろその制作意図、どういう理由や目的でデザインしていくかがメインなのです。「なんとなくかっこいいもの」を作るのではなく、明確な意図があって形は選択されるのです。
そして、もし似ているデザインが見つかった場合、制作意図や過程の違いがあれば、デザイナーはやはり絶対に説明するはずです。(たとえ成果物だけ見たらパクリにしか見えないものだとしても)
これは潔白を証明するとともに、新たな代案を受け入れることにもつながります。
今回は佐野氏の代わりに、他のデザイナーがその説明を行ったということです。
同職の立場からグレーゾーンのものを安易に批判するのは避けるのが普通ですし、また同職としては意図がわかってもそれが一般の人には理解されにくい箇所なためです。(あと佐野氏の説明が足りなかったからです)
そういうわけで、ロゴの制作意図を説明し、また自身のデザイナーとしての経験からこれはパクリではないのではと意見を言っていたのだと思います。
しかしこれらがうまく伝わらず、デザイナー自身の説明のまずさ、また世間の佐野氏への不信感が合わさって理解に齟齬をきたし、一般人を見下すように取られたことは大変不幸だと思います。
世の中にある人工物は全てデザインされています。デザインとは一般人の生活と乖離したものでは全然ありません。
そして多くのデザイナーは、真面目に見る人使う人、つまり「一般人」のことを考えてデザインしています。
もはやクロと言い切れる佐野氏のデザイン・その行為を批判するのは当然ですが、今回の件でデザイン界隈をひとくくりにして批判するのは、非常に残念なことだと思います。
文学って何なんだろうって。
ふと思ったんですよ。
そして、頭の中はすぐに、
今、そこで立ち止まってここに書いています。
何か疑問が浮かんだ時、
誰かに聞くよりはもとより、
パワフルです。
しかし、
問いに対する、なぜを解決する力はつきません。
世の中で濾された何某かの成果物を自身の思考の要素として得ることができたとしても、
得られることは知識と時間の短縮です。
たとい、知識に触れた後、
そこには何か垢に触れた後の思考が待っているだけで、
何よりずるいです。
大きな違いはないではないか、と。
何か疑問に思ったものについて、
答えの無い中(あるいは答えが無いと感じている中)での思考は、
明らかにその本質が異なると思うのです。
ググるが習慣化されて日々生きることと、
ここにはきっと大きな差があるし、
それはすなわち社会性にまで繋がると。
文学とは何でしょうか。
いい機会だから、
ちょっとググらずに考えてみたい。
がんばることは基本的に良いことだ。なにごとも頑張らなければ成功はない。
それはそれとして、本邦には誰かが頑張ったことを過剰に評価する風潮がある。
そりゃがんばったんなら成功しようがすまいが褒めてあげればいいんだろうけれど、一部の人たちは「◯◯ちゃんはすごくがんばった」ことを外部へ向けて印籠代わりに使いたがる。往々にして頑張った本人ではなく、頑張ってる◯◯ちゃんを応援する人びとが、だ。
「がんばること」は尊いので、成果物に対するあらゆる批判を封殺することができる。
関わったスタッフはみな血反吐を吐くような努力をして作品を作りました。
アイドルは下積み時代に地べたを這いずるみたいな大変な思いをしました。
うちの社員は毎日残業続きですが誰も弱音を吐いたりせず有給も会社です。
しかし、その結果として、クソみたいな映画やマンガや曲や小説やプロダクツが生産されてしまった場合はどうなのだろう。
Q1. 誰かのがんばりを知ってしまった、がんばってもない俺らはその腐った成果物を批判する権利はないのか。
Q2. 彼ら彼女らのがんばりは仕事をこなす上で当然の努力であり、趣味以下のレベルで消費する俺らにはそんながんばりなど関係なくはないのか。
Q3. いかなるプロセスを経ようはモノはモノであり、俺らは直接にモノそのものと向き合うべきではないのか。
問いに対する答えはこうである。
A2. もちろん関係ある。
神風特攻を思い出してみよう。甲子園の思い出ヘッスラを思い出してみよう。24時間テレビのマラソンを思い出してみよう。
人はなぜがんばるのか、努力するのか。それは「たとえ今は使えなくても、将来有用な経験となるから」ではない。
ジョージ・ミラーも言っている。「真の英雄とは、他人にために犠牲となれる人だ」と。たぶんこれはジョーゼフ・キャンベルからのパク、引用だと思う。
真の努力人とは、自分のためにがんばる人ではなく、他人のためにがんばれる人だ。
俺たちはもっとがんばりを評価すべきだ。むしろ、がんばりだけを評価すべきだ。
Aさんが2時間かけて作った最高品質のプロダクトより、Bさんが二十時間労働を百日つづけて作ったクソプロダクトのほうが価値は高い。その価値を市場価値や世間的な評価に反映させるべきだ。
なぜならがんばれるということはそれだけ真剣だということだからだ。思いがつまっているからだ。真剣な人は傍目からどれだけ滑稽におもえても、偉いのだ。
効率や品質などという上辺だけの評価軸に踊らされるべきではない。もっと人間を見よう。モノの内部に宿った魂を見よう。
がんばってできない人は、がんばらなくてもできる人より、時間や金をかけている。その見返りを与えてやってなにがいけない。
考えてもみろ、俺たちだって人のことを言えるか? がんばらなくてもできる人か? がんばってもダメだろ? いつも努力の方向を間違えてしまうだろ? おもいやりだよ。共感だよ。それ自体がドラマで、製品に組み込まれているんだよ。
だからがんばりへの評価と製品への評価を切り離すべきではない。
あと30年くらいたてばさ、多分世の中の発展がひと段落して、ある程度ネットとか資本主義とかの技術に対する総括がなされると思うんだよ。
今は、毎年毎年すごいじゃん。新しい薬できました、新しいディバイスできました、新しいサービスできました、新しい発見でました。
だってさ、3年前のスマホがもう使えないとか、そんなんかねが無駄にかかる。だったら、最新バージョンだけ買っておきたかった的な。
昔はさーストーブでも車でも、そういう長持ちするの前提のものばっかで、実際、30年もののストーブとかザラだったじゃん。
ネットができた、スマホがでたぞ、技術発展で毎年学び続けるのが当たり前だぞ。
『多摩美統合デザイン学科の学生として思うこと』という記事に対する考えを述べようと思います。
http://anond.hatelabo.jp/20150821111821
・"最初に自分があのエンブレムをみたとき、直感的にかっこいいと思いました。シックで、いままでのオリンピックエンブレムをは一線を化すような新しいデザイン、
新しい東京のイメージを担ってくれるような力強いものに感じました。"
・"現状では異端であるもののそれがこれからのベーシックになっていくはず"
『多摩美統合デザイン学科の学生として思うこと』の筆者は上記の様な内容を、エンブレムが批判されるべきではない理由としてあげています。しかし、どれも論理的ではなく、感情論でしかありません。
デザインとはある程度の理論が存在し、その上にビジュアルの様な表層に見えるかたちを構成するものです(私が学んだことが正しければ)。"直感的"、"シック"、"新しい"、"東京のイメージ"といった感覚的な部分を持ち出し、それを理由として扱うのには無理があると考えます。
私個人の見解でエンブレムの評価に価する点を述べるのであれば、ロゴが”展開する”という部分でしょう。文字への展開、ピクトグラムへの展開、映像への展開など、様々なメディアへの仕組みこそがこのエンブレムの本質だと思うのです。これらの展開する仕組みの齎す価値は不動のものだと考えます。佐野さんの会見でのプレゼンテーションに寄っては、印象が大きく変動したように思えるし、ビジュアルの印象が良くない点が今回多く取り上げられていると思いますが、それはモチーフが曖昧であること、形に込められている意味が表層に現れていないことなどが原因ではないかと推察しています。著名なデザイナーの方や、デザインを学んでいる学生などがこのロゴを批判しないのは、単なる擁護ではなく、ロゴの仕組みを推察し価値を見出しての意見だと考えておりますが、もちろん一般にその仕組みをプレゼンテーションすることや、ビジュアルに仕組みを表すこともデザイナーの仕事であると思っております。その点は佐野さんの今回の会見は残念で致し方ありません。
筆者はデザインを感覚のみで捉えているような意見しか述べていなかったので、理屈的な部分を理解していないのだと考えています。表層的な部分を見て判断するのであればデザインを学んでいる学生としての視点にすら及ばないと思われます。
現在確認したところ記載内容を削除されておりましたが、"情報デザイン学科は、先端技術を用いて新しい可能性を模索することに力を注いできたが、”ただ新しいことをする”学科に陥っている。卒業制作展を見に行ったが、アニメーションのクオリティーは低いし、キネクト使ってることがすごいというアピールをしているかの様で気持ち悪かった"
というのが大まかな筆者の内容です。
筆者は、”なにかから影響を受け、文脈が形成されていくことを「パクリ」の一言で否定しないでください。”とも仰っています。
情報デザイン学科の卒業制作展に赴き、感覚的に得た情報(クオリティーが低い、気持ち悪い)を持ち出し学科自体を批判していることは、ロゴをパクリだと批判している意見と違いはないように思えるのです。
根本的に考れば、"学科が失敗"することの定義が曖昧であり、失敗ではない例とはどのような存在かを述べていませんし、統合デザイン学科の"ベーシック"を学ぶこと()は成功したという実績が存在するのでしょうか?対として情デが"新しいことをするだけの学科”であるとすれば、統合は"ベーシックしかしない"ということになりますし、発言が軽率であることは確実です(削除されたので自覚したとして捉えていますが)。この意見がロゴ批判と違うと思うのであれば、もう少し理屈で語っていただきたいと考えました。
デザインは感覚がすべてではありません。機能を意図的に含めた様々なアウトプットがデザインです。それを学んだのが情報デザイン学科でした。
今回取り上げさせて頂いた記事があまりにも破綻しているように思えたので、書かせていただいた次第です。
長々と書きたくなかったのですが、文才のない私にはこれが限度でした....。
乱文ではありますが以上が私個人的な意見です。ありがとうございました。
とのことでしたが、情報源はどちらですか?これもまたネット批判の悪い点と同じで、情報源を明示することや自身の理屈の元で意見として述べるのであれば良いと思いますが、それが事実かどうか、何故そう思うのか、という所を明確に述べないまま批評するのは、"なんとなくロゴがかっこ悪い"、"多分パクリ"、と言う方々となんら変わりはないと考えています。誤情報が錯綜するのがインターネットですが、発言する際に少しの考えを載せるだけでも変わるのではないでしょうか。
人が製作した作品に対して、展示を見に行っただけで"クオリティが低い"と述べる方は、本当にその作品のクオリティーを見ているとお思いでしょうか。文脈によって形成されるロゴを否定しないで欲しいと本人が述べているにも関わらず、文脈の見えない視点から人の成果物批判をしていては矛盾が生じます。それがデザインを学んでいる方のするべきことでしょうか。ちなみに私は、クオリティは感覚であると述べている訳ではなく、引用元の筆者の述べている内容は感覚的に捉えたクオリティだけであると述べているのです。背景などを読み取らずに捉えたものが"クオリティ"であるかすら疑問ですが、私自身は文脈を含めてのクオリティであると認識しています。
声優ラジオで台本に「以下10分フリートーク」って事例沢山あるのかなあ。まあいま殆ど無いとしても『それが声優!』であったからという理由で多発するようになっちゃうんだろうな。それが許されることとして描くとそうなっていきやすくなるんだよね
そういう台本は実際になくはないんだが、だとしてもそれがすなわち悪である、許されてはいけないというわけではないんだよ。
様々なパターンがある。
そもそもの話台本ってのは成果物じゃないんだよ。成果物ってのは音声であってこれをラジオとして放送するわけでしょう。その放送音声すらも収録したものを編集して効果音をつけて流すのが前提であって、台本っていうのはその過程で一時的に必要とされる介助でしかないし、そこに絶対のルールはないんだよ。
例えば、台本には「以下10分フリートーク」と書いてあったとしても、別紙で「想定される話題」などが用意されてる場合すらある。台本ってのは現場の構成要素の一部なんだよ。
もちろんただのぶん投げで声優さんに一方的に負担を強いるような現場ってのは存在する。でも、かといって、「以下10分フリートーク」って書いてある台本がそのままぶん投げの証明とはならない。
声優さんはある意味声を売る仕事だけど、だからといってスポンサーなり脚本の意向で何喋らせてもいいとは思ってなくて、そんな事をやっていれば最終的な成果物(この場合ラジオの音声)もそのラジオを含むプロジェクト全体のクオリティも下がると、普通の放送作家なり脚本なりPは考えてるよ。
声優さんがプライベートでも嫌いなものや興味のないものを指定して、それを台本の指示に従ってフリートークしろってかいたとしたって、その番組は面白くならないのは想像がつく。
台本に「以下10分フリートーク」と書いてあったとしても、普通の放送作家なら、収録前の打合せで「最近何して遊んでますか?」から始まって「今日はどんなフリートークしましょうか」「そのネタ面白いですね、拾っていきましょう」「じゃあ、そこでBさんのモンハンの話につなげて」みたいな打合せをやってるんだよ。まずは、それが基本の姿だって認識はあってほしい。声優さんは台本のぺらの「フリートーク」の部分に話題として使えそうなネタのメモをして収録に挑む。
(余談だけど、この打ち合わせが盛り上がりすぎて、本収録よりそっちの方が面白かったなもう少し打ち合わせは抑えていくべきだったなあ。とかもある。声優さん役者さんによっては、打合せで綿密に話題確認をしておいた方が本番でイイ人もいるし、逆に打ち合わせでしゃべりすぎて本番が二週目になると輝きが減る人もいる。プライベートについて絡んだ話題のほうが面白い人もいるし、あくまで仕事の範囲内で話題をあつめててプライベートの話は嫌な人もいるし、それぞれNGな話題もある。その辺の声優さんの都合、相性の問題、スポンサー(プロジェクト)の意向、全部ひっくるめて番組の打合せをするのが放送作家の本来の仕事で、台本はその準備のひと手順なんだよ。関連会社の事前チェックをとるために大事な儀式ではあるんだけど。)
以上が「本来の現場の姿」であって、でもしかし、声優のラジオは増えた。FM深夜番組だけじゃなく今主流はWebラジオだし、アニメや映画なんかのプロモーションとして番組も爆発的に増加した。メディアミックスにおいて多数の入り口を作るのは戦略の基本だし、声優のラジオは(コミカライズやノベライズにくらべれば)短時間に作れて、予算や手間もさほどかからない(ということになっている)。
経験の浅いスタッフも増えたし、声優さん側に分投げになっている現場も、悲しいけれどないわけじゃない。たぶん増えてる。それは確かにブラックだ。
(また昨今、声優さんというものの立ち位置も「ただ声を当てる職人」ではなくて「あるプロジェクト(主にアニメ番組)の代弁者、広報役」として期待されるようになってきた。期待されてるっていうのはそういう声優さんの方が仕事取り易いし重用されるし出世するということで、はっきり言っちゃうとへぼな放送作家が声優負担の高いへぼ台本を書いてきても、それでも面白いフリートークで番組を作れる声優さんのほうが需要がある。)
でもだからと言って「以下10分フリートーク」という台本の存在=声優ぶん投げではない、というのがこの記事の趣旨だ。声優さんの選定やスタッフの相性まで考え、一番重要な打合せを含んだ総合的な現場構築が面白い番組のバックグラウンドであって、台本というのは皮相な一部なんだ。
願わくば、面白い番組が一個あった時、その背景に思いをはせて評価してあげてほしい。評価の中に「あれは多分現場の雰囲気がよかったんだな」とか「番組の企画が毎回よかったな」(企画によっては普段口数の少ない声優さんが楽しくしゃべってくれるとかもある)みたいな価値観が全くないとすれば、放送作家なり現場のPなりはいてもいなくても一緒の存在だということだ。結果、そちらには予算も評価もながれず押し付けられた素人だけが素人仕事をすることになってしまうだろう。そして声優さんに負担を全部押し付けることになり、誰も得をしないギスギス現場だけになってしまう。
グラフィックデザインの文脈でよく語られるデザイン史は、バウハウスから始まって、グーテンベルクの活版印刷、雑誌時代のエディトリアルデザイン、広告コミュニケーション、テクノロジーとの融合というものだ。また別軸で、グラフィックデザイナーの職能として、工業化社会における機械製品の美学的側面を整えるという歴史があった。まさにテクノロジーの隆盛と歩んできたデザインである。生活を便利にする機械製品(電話や洗濯機など)は生まれ、パーソナルコンピューターは普及した。そして、グラフィックデザインをするためのツールや思想は世の中に溢れ、誰でもグラフィックデザインの勉強ができ、誰でもデザインを作れ、誰でもそういう成果物に対して口出しできるようになった。
いつからか、総合的な計画であるはずのデザイン行為の中から「美学的側面」のみが取り出されて、それに対しての褒賞制度が整えられたのだ。日本で言えば、たとえばJAGDAの褒賞制度。特にグラフィックデザイン業界におけるそれら褒賞制度は、そのほとんどが美学的側面の評価しかしていないので、それがビジネスを支えるツールとして、実際的に機能的であるかどうか定量的に計測されていないだろうし、主催者も応募者もそういう側面でしか見てなくて、内輪で楽しく賞を送り合っている構図がよく想像される。その外に居る人がどれだけ社会に対してインパクトのある仕事(例えば新しいムーブメントを起こしたり、技術や生活基盤を進歩させたりなど)をしても評価はされないのだ。格好良くないという一言で、彼らのコミュニティから排除される。いつまでもはびこる師弟制度、ごますりが必要なコミュニティ入会の現状。
デザイナーではない人はそもそも「上位の概念としてのデザイン」に対するリテラシーがないので、デザイン=格好良くてお洒落な見た目をつくること、という短絡的な思考でしかデザインを評価できない。つまり、受賞した人間はいいものを作っていると。しかし褒賞制度がそもそも歪んでいるので、受賞者がビジネスや社会のライフサイクル的な側面に目を向けられる人間かどうかという評価の視点が抜け落ちてしまっている。僕はこういったデザイナー達を「グラフィックアーティスト」と呼んでいる。決して「デザイナー」ではない。
本来的にビジネスと協調すべきデザイン活動が、それを無視した褒賞制度によって、奇抜なことをするデザイナーこそ優秀であるという歪んだ理解が社会に溢れてしまった。そういうデザイナーたちがつくり上げるものには、機能的側面が欠落してしまうことが多いと思う。デザインの機能的側面が考慮されないデザインは、はたしてデザインと呼べるのか。社会をより進歩させ得る力があるのだろうか。
また別の観点では、現在多くの美術教育の現場にも問題があると思う。教育者自体が、旧来的なグラフィックデザインの文脈で育っているので、そのような視点でしかデザインを捉えておらず、結果的に美学的側面を整えることに教育の主眼が置かれてしまっている。デザインという手法が社会のコミュニケーションを活性化させ、より良い文化システムを構築し、ビジネスにおける利潤獲得のための手法であることが教育されていない。そうして、再び無能なグラフィックアーティストが量産されてゆくのだ。若いデザイナーの元で育ったほうが、明らかに的を射た考え方を獲得できるとおもう。
ここ数年、自分の生業であるグラフィックデザインはそろそろ終わるんじゃないかなと思ってる。コミュニティの思考が高齢化しているし、かと言って新しい考え方を積極的に取り込んで体質の健全化に取り組もうとしない。デザインをもっと価値のあるものにするためのデザイン領域を俺は見つけたからいいんだけど、変化せず進歩のないコミュニティに未来はないとだけは言っておきたい。
美しくあることは大事だと思う。美しいことは心を豊かにしてくれる。しかし、それ以外のもっと大事なことにも一緒に目を向けてほしいと思うのだ。