はてなキーワード: 必須とは
いまコンビニのネットプリントとかでは、DVDやBDの盤面に印刷ってのはできるの?
今どきほとんどの映像コンテンツは、ネット配信で見れるけど、なんか不祥事やら炎上やらあって、もう絶対に配信では出されないようなTV番組の録画とかは、BDに焼いて保存しちゃうんだよなーww
人文系研究者のハシクレ(そろそろ若手じゃなくなりそう)として補足しておく。
文系、特に人文系では博士論文の執筆がキッチリ3年で終わる人は少ないし、博士課程にいられる年限を使い果たしてしまう人も多い。しかし、東大をはじめとした多くの大学では「博士課程単位取得退学後3年間のうちに博士論文を出して防衛できたら、課程博士と見なす」という運用をしている。
したがって、最近よく見る経歴は、「◯◯大学大学院博士課程単位取得退学、博士(◯◯学)」というもの。これは単位取得退学したあとに博士号を取得した、という意味。
実際に単位取得退学で助教や講師のポストをゲットした人は最近でもたまに見かける。増田の同年代で2~3人くらい(あくまで増田の観測範囲なので、実際はもっと多いだろう)。まあ、そういう人たちは和文論文だけじゃなくて、英語論文(分野によっては+英語以外の外国語論文)書いてたし、下手な博士より論文数多かったけどね……。博士号取得者を蹴落として任期付きポストをゲットした単位取得退学者も知ってる。純粋に業績が多ければたまに博士号取得者ではなく単位取得退学者が選ばれる場合があるということ。
このように、形式上は単位取得退学でも応募できる公募は今でも多い。JREC-INで文系の公募を見てみると、「博士号取得者、あるいは、博士の学位を取得した者に相当する能力を有すると認められる者」っていう募集条件が書いてあることがあるけど、後者が単位取得退学を指している。こういう条件の公募、普通に東大でもまだ出てるからね。ただ、条件に書いてあるからといって選ばれるかというと、よっぽど卓越してない限り厳しいんじゃないかしら。
(修士号しか持ってなくても業績が卓越してれば採用されるというのは、みんな大好きユーリィ・イズムィコa.k.a.小泉悠センセが示しているところだと思う。彼はそもそも博士課程に入ってないはずだけど、ロシア軍を分析するアカデミックな著書を何冊も出してたら東大の専任教員にまで上り詰めた)
とはいえやはり、博士号持ってない人への風当たりは強まっている。一部の宮廷や有名どころの国立大学では、常勤ポストの募集にあたっては人文系であっても博士号を要求しているし、学振PDや海外学振は10年くらい前から文系でも博士号必須になっていたはず(逆に言えば、40代以上の文系研究者の中には、博士号なしで学振PDやってた人が大勢いるってこと)。
ただし、博士号持ってない人への風当たり、というのはあくまで若手の就職市場でアカポスに採用されるかどうかという話で、もう就職しちゃったセンセについては博士号の有無とかあんま気にしたことない……博士論文以降ロクに論文書いてない人より、単位取得退学で面白い論文や著書いっぱい書いてる人の方がエラいじゃん? というのが文系の感覚だと思うんだが、どうだろう。池内恵センセくらい業績があったら、博士号の有無なんてもう誤差でしょ誤差。
ただ、外国で博士号獲った人についてはやっぱり一目置くかも。はてな界隈で有名な人だと北村紗衣センセとか。博士論文というのはだいたい1冊の本になるくらいの分量のものを書くということなので、それを外国語で書いてる時点ですごいよ。特にアメリカだと博士課程では厳しいコースワークがあるから、あれをくぐり抜けたってことだもんね。
最初に「文系、特に人文系」って書いたけど、「文系」と「人文系」は違う。「文系」は「人文系」と「社会科学系」に分かれていて、文学とか哲学とか歴史学とかは人文系、社会学とか政治学とか経済学とかは社会科学系、ってことになってる(あくまでもこれは日本の話。国によって分類は違う。たとえば歴史学を社会科学系に入れる国はヨーロッパにはいくつもある)。「単位取得退学」はもともと文系全体でよくある経歴だったけど、今ではほぼ人文系に限られてる印象。上で書いた単位取得退学でポストをゲットした人たちも、観測範囲ではみんな人文系。
ただ、法学・政治学は20年くらい前まで学士助手という制度があったので、学歴という点では人文系以上にガラパゴスだったりするのだが……学士号しか持たずに教授になってらっしゃる人たちが何人もいる分野です。はてな界隈で有名な人だと木村草太センセとか大屋雄裕センセとかね!
ところで、公募条件に「外国で出された博士に相当する学位」という謎の文言があることがある。外国で出された博士、ならともかく、外国で出された博士に相当する学位って何だよ。
実はかつての日本同様に博士号は功成り名遂げた大物が書くものという文化がまだ残っている国があって、具体的にいうとロシアとかそのへんの旧ソ連諸国。あのあたりでは博士候補(カンジダート・ナウク; кандидат наук; kandidat nauk)っていう学位があって、これがPh.D.に相当する。博士候補論文は大学院に進んで数年かけて書くやつで、実質的に博士論文。博士候補号を持ってればロシアでは准教授になれる。ロシアに留学して博士号獲った、って言ってる人のかなりの割合が、実は博士候補号の取得者だったりする。まあ、ロシアのカンジダート号は他国のPh.D.と同等っていうのはよく知られてるから、別に嘘じゃないんだけどね。
ところでウクライナでは2014年7月にこの博士候補制度をPh.D.に置き換える制度改正を始めて、2020年には全廃したらしい。うーん、ロシアとの縁を切って西欧と共通の制度に置き換えるなんて、2014年にいったい何があったんやろなぁ(棒読み)(時期的に完全な偶然というのもありそうだけど)。
“博士課程単位取得退学、博士”これは課程博士と同じ扱いです。3年の課程を修了し学位論文間に合わずに退学した場合も、3年以内に学位論文が出れば課程博士となるのです。
厳密には、「◯◯大学大学院博士課程単位取得退学、博士(◯◯学)」のすべてが課程博士というわけではありません。単位取得退学から10年後に博士号取得したら論文博士ですし。なので、経歴を見るか(たとえば、2022年に単位取得退学して2023年に博士号獲ってればほぼ確実に課程博士)、あるいはCiNiiで博士論文を検索するかしないとどちらかはわからないですね。
色んな理由があるので一概には言えませんが、本人の博士論文の構想が壮大すぎる、とか、書き上げる前にポストゲットできたから退学しました、とか、そういう場合が多いんじゃないでしょうか。課程博士論文を書き上げた人の経歴はみな似通っていますが、博論を書き上げられなかった人はそれぞれの理由があるものです。
そんな人、少なくとも最近は聞いたことないですけど、いつの時代の話ですか? 何がしかの業績(必ずしも論文という形である必要はないです。たとえば安藤忠雄センセみたいな場合)がなければ大学のポストには就くことはできません。もちろん霞が関から元官僚がゴリ押しされたりすることはあるかもしれませんが、それは業績なんも関係ないし……
この議論ならストレートで論文博士の東浩紀はそれだけで尊敬されても良さそうだけど学者からも石投げられてるし結局空気なのかな
東浩紀センセは、デリダ研究で博士号を獲った俊英だから叩かれてるんじゃなくて、彼の政治的意見を気に食わない人が多いから叩かれてるんでしょ。博士号獲った人は尊敬に値するけど、それはそれ、これはこれですよ。海外で博士号獲ってる人の意見に同意できないとか、日常茶飯事だし。
【追記】
伸びてますね。この問題に関心を持つ方がまだこれだけいるんだと安心しました。セカンドレイプだというコメントには笑ったけど。
なんか自分で読み返して、まともな発言をしていた旧ジャニーズの人が一人もいないという風に読めてしまう方もいるかなと思って追記です。
これまでに、倫理的な発言をテレビのコメント等でされていた方は認識しています。特にKinKi Kids堂本光一さんやWEST.の中間涼太さんはかなりきちんと被害者への寄り添いやジャニーや事務所への問題に触れる発言をされていて、それが何もなかった風に取られるとお二人に大変失礼だと思ったので追記する次第です。
(『誰もやらなかった』と書いたのはもう少し正式な纏まった内容での発信を想像していたからですが、思い返すとそこは重要でないか…少なくともスタンスはわかるので)
以上追記終わり
【本文】
元々、ジャニーズのファンではない。メンバーの名前を知ってるのはギリ嵐まで、グループ名を知ってるのはKAT-TUNまで、あとはわからないぐらいの、まぁ疎い部類のよくいる非ファンだと思う。
でも子供の頃からテレビをつけたら普通にジャニーズのタレントが出ていたし、特に何も思わずにそれを見ていた。面白いとか格好良いと感じることもあった。今までで一番好きだったドラマも彼らが主演を務めていたものだ。大人になってからは、見かけても良くも悪くも「ふーん」ぐらいのフラットな感じ。
そんな前提で、BBCの告発。会社の方は論外でダメダメとして、最初は勿論「タレントは悪くない」の立場だったのよ。むしろ被害者かもしれないし、どれだけ精神的にキツいだろうかと。実は被害に遭っていたなら勿論、知らなかったなら知らなかったで、知ってたなら知ってたで、それぞれの立場で地獄だろうなと外野ながら心配になった。
この時の自分は、タレント達は当然ながらそのうちアクションを取るんだと思っていた。アクションというのは、最低でも自身のスタンス等の発信。内容としては、所属する会社でそんな行為が行われていた事を知った時の思い、性犯罪は絶対に許されないという見解、被害者への気遣い、今後の方針(退所か事務所の立て直しを監視するのか等)。この辺りが必須項目になるんだろうなと想像していた。
個人名かグループ単位か、テレビでやるのかウェブ上の文面になるのかはどうでも良いし、単なる形式だけのようになるかもしれないけど、やる事は信じて疑わなかった。だって大人なんだから。しかもただの大人じゃなく、これからもテレビに出て、子供を含む大勢に影響を与える職業の大人。彼ら自身が犯罪者じゃないとしても、それくらいの責任感は持っていると思っていたんだよ。
誰もやらなかったね。かなり色々と見てたけど誰もやらなかった(ファンクラブには入っていないのでそこで公開されている内容は知らない。でも仮にそこだけで上記のような内容を公開しても意味はないだろう)
30代からそれ以上の良い歳した大人、子供を持つ父親である人も何人もいた筈なのに。退所した人も、せいぜい自分や周囲に迷惑がかかるから、怖くなったからくらいのことを言ってぬるっと抜けていった。
これだけ誰もやらなかったのだから、会社の方から止めていたのかもしれないと理解はできる。理解はできるが、何も発信していないということは、実は彼らは内面でジャニーのことを無罪だと思っているのかもしれないし、今も賛同しているのかもしれない。被害者を見ながら余計なことしやがってと苦々しく思っているのかもしれないということじゃないのか。
そんな訳はないと常識では思うけど、あの会社にここ数ヶ月というもの常識では考えられない行動を見せつけられているから疑わしい。彼らの大多数はまだそこにいて、何か問題を訴えることもしていない(ように見える)んだから。むしろ茶化しているような発言はしっかり公表されていたから余計に。
そんな訳で、テレビに出ている彼らの笑顔を見ると怖さを感じるようになってしまった。何を考えているのか理解できないモンスターに見えて、見ているとパワハラセクハラモラハラを受けた時の記憶まで勝手に蘇ってくる。ジャニーズ関連が脳内で丸ごとそっちのカテゴリに突っ込まれてしまったんだろうなと思う。
なのに画面の中の彼らは今日もキラキラと夢や愛という真逆のイメージを表現しながら歌って踊って新曲発表したりしているんだから、感じるギャップの悍ましさといったら中々ない。
彼らも何か考えてはいるんだろう。でも、何を?歌を歌う姿を見せる前に、きちんと正式に見解を述べてそれを教えて欲しいと思ってしまうのはそんなに無理な話だろうか。
(ちなみに『被害を受けたか公表しろ』という話では全くないです、念のため)
テレビを見なければ良いんじゃ?といっても街に出れば何かしらの広告で目にして微妙な気分になったりする。イメージ悪化を恐れるスポンサーの起用停止は効果があることもn=1だけど体感できてしまった。無関係の自分ですら嫌な気分になるんだから、被害者の方は多分ろくに街も歩けないんだろう。そう思うと気の毒すぎる。
以上、一回お気持ちとして吐き出しときたかったのでつらつら書いた。こんな内容でもファンにはめちゃくちゃ叩かれるんだろうなー
あ、会社が改名したのは知っていますが本文中で使ってないのは、あんなふざけた名前で呼びたくないのと、名前だけ変えても意味がないという認識だからです。
ある記事が注目されているので、カナダ(バンクーバー)で働くソフトウェア開発者として、私が目にしてきた実情を、カナダ(バンクーバー)およびカナダドルに絞って話す。
仕事面:
生活面:
駅前に何でもある。映画館もある。仕事はリモートでこの範囲で全てを済ませるのなら便利。でもここから出ようとすると途端に不便
近所には柏、松戸、新三郷があるが道路事情がよくない。主に6号。三郷に関しては江戸川を渡るのが大変。車あれば良いけど無いとつくばエクスプレスや東武野田線を使わざる得なくなり運賃が高くつく。
もう町が住宅街なので凄く優等生。都内の駅前みたいなのは無い。ここは人が寝に帰る町
行政については整っている。しかし休日に関してはキャパオーバー。この界隈に居る家族連れを受け止めきれる公園が無い。天気悪いとみんな駅前に行って駅前がキャパオーバー。結果みんな天気悪いと家でSwitchやる。
褒められている部分は多々あるが、それが自分の家庭に必須かは検討した方が良い。ここじゃなきゃダメ!って要素じゃなければここより安い場所は多い。高台で車無いとキツイし言うほど森も無い。ただの新興住宅地。
総合的には良い場所だが昨今は盲目的に褒められているのでもし検討している人は自分のライフスタイルに合っているか考えよう。お出かけ好きにはおススメしない。あと都内通勤にも
同期女子に、めちゃくちゃに周囲に甘やかされている人がいる。
まず、どう考えても車が必須な地方で働いているにも関わらず、運転ができない。
困らないのかと聞くと、みんながしてくれるとのこと。両親とも兄弟とも、彼氏とも、友人とも関係が良好で、行きたいところがあれば誰かが乗せていってくれるらしい。姫か。
また困るとすぐに周囲を見渡す。その仕草が本当に当たり前のようで、びっくりする。しかもそしたら誰かが寄ってくる。
もちろん、彼氏にも甘やかされているようで、たまに聞くと答えてくれるエピソードがすごい。姫である。
本人は別に顔がかっこいい彼氏とか、お金をめっちゃかけてくれる彼氏ってわけではないというが、そんだけ愛されてればいいだろ。
そしてこの同期、仕事できないダメ人間だったり、いっそのことすごい美人だったりするならわかる。まだ理解できる。
でも、仕事に関しては同期一くらいできる。こんな異動、これまでにないよと周りに語られるようなエリートコースを歩んでいる。
そして顔は中の下で、少しぽっちゃりしている。多分BMI22。
基本どんくさい感じでぽやっとしているくせに、仕事のやり方などを聞くと訳がわからない手段の話をしてくる。うちの職場はセキュリティが厳しく、フリーソフトなどはダウンロードできないのだが、彼女は色々と勉強して、うちの職場でも使えるシステムで色々な作業を自動化しているらしい。
こっちは日々の仕事に追われて、そんな改善や引き継ぎ方法なんて考える暇はない。なんなんだ。作業が多くて残業が多い席なら大人しく残業してくれ。自慢を始めるな。
彼女は多分自慢だと思っていない。5歳児くらいのテンションで、こんなことが出来るようになったのと無邪気に話している。テンションはいい、内容がおかしい。そして無邪気にそのツールを分けてくる。分けてくるツールが普通に便利で逆にうざい。
ぶっちゃけ日常的な買い物より家賃、人件費の桁が違いすぎるからその一面だけ見て安い、高い言ってるだけだと思うぞ
家電などを代表に長く使うものは田舎が5割程度高い(ネット通販使えばいいけど)
家賃は安いが年間維持費(購入費含む)最低10~20万はかかる車は田舎に必須だから高い
※軽とかあほなこと言うやつがいるけど、今の時代はコンパクトカーなら軽より普通車のほうが安いっす。ヤリス、ノート、Fitあたりと軽の値段比べてみましょうね
掃除機えらぼうにもさ俺みたいな独身だとどうしてもオーバースペックなものがおおいんだよ
そんで今使ってるのはシャークのハンディークリーナーEVOPOWERってやつ
https://www.shark.co.jp/handycleaner/evopower/
おかしいと思うんだよ。
そういうのももちろんあるんだろうけど、こういうハンディでイケてるのもあるんだよな
掃除機だけじゃないんだけどさ
とにかく日本の家電メーカーってめちゃくちゃリア充で平均的よりちょい上の家庭を想定して家電作ってるよね
いちおう所得で言うと平均よりはもらってるから貧乏ではないんだけど
独り身で1Rに住んでるような人間にぴったりな家電作ってくれてるのは、中国メーカーが圧倒的に多い
食洗器とかそもそも日本メーカー作ってるのは全部がビルドインか工事必須なんだけど
中国メーカーは工事不要で水を桶みたいなので入れて稼働させる方式
こういうのでいいんだよ感
こういう脇にそれた俺みたいな存在にぴったり合った家電を作ってくれるのはもう日本企業じゃないんだよな
田舎じゃ無理だろあんな物々しい水素ステーションとかいう金食い虫
ガソリンスタンドですら維持が難しいとかいって閉鎖しまくってる時代に
家に電気通ってるEVのほうが俺みたいなイケてない人にはありがたいんだけどね
QRコード決済がでたときは都会のやつらは笑った「ぶほwwwなんだこれsuicaでいいじゃん」
suicaでいいじゃんっていうけど、田舎には交通電子マネーないんだよ。そもそも自動改札機がないんだが?って感じだったな
俺たちって相手にされてない感じだよな
人生、宇宙、そしてすべての意味とは何か?「銀河ヒッチハイク ガイド」では、答えは 42となっている。
科学の質問の範囲は、一部の分野では縮小し、他の分野では急増した。
宇宙がある意味数学的であるという考えは、少なくとも古代ギリシャのピタゴラス派にまで遡り、物理学者や哲学者の間で何世紀にもわたる議論を生み出してきた。
マックス・テグマークはこの考えを極限まで推し進め、宇宙は単に数学によって記述されるのではなく、数学自体であると主張している。
この議論の基礎は、人間とは独立した外部の物理的現実が存在するという仮定である。
これはそれほど物議を醸すものではない。物理学者の大多数はこの長年の考えを支持していると思うが、まだ議論されている。
形而上学的独我論者はそれをきっぱり拒否し、量子力学のいわゆるコペンハーゲン解釈の支持者は、観察のない現実は存在しないという理由でそれを拒否するかもしれない。
外部現実が存在すると仮定すると、物理理論はそれがどのように機能するかを説明することを目的としている。
一般相対性理論や量子力学など、最も成功した理論は、この現実の一部、たとえば重力や素粒子の挙動のみを説明している。
対照的に、理論物理学の聖杯はすべての理論、つまり現実の完全な記述である。
現実が人間とは独立して存在すると仮定する場合、記述が完全であるためには、人間の概念をまったく理解していない、人間以外の存在、つまりエイリアンやスーパーコンピューターなどに従って、現実が明確に定義されていなければならない。
言い換えれば、そのような記述は、「粒子」、「観察」、またはその他の英語の単語のような人間の負担を排除した形で表現可能でなければならない。
対照的に、教えられてきたすべての物理理論には 2 つの要素がある。
それは数式と、その方程式が私たちが観察し直観的に理解しているものとどのように関連しているかを説明する言葉である。
理論の結果を導き出すとき、陽子、分子、星などの新しい概念を導入するが、それは便利だからである。
原理的には、このようなバゲッジがなくてもすべてを計算できる。
たとえば、十分に強力なスーパーコンピューターは、何が起こっているかを人間の言葉で解釈することなく、宇宙の状態が時間の経過とともにどのように進化するかを計算できる。
もしそうなら、外部現実における物体とそれらの間の関係のそのような記述は完全に抽象的でなければならず、あらゆる言葉や記号は何の事前の意味も持たない単なるラベルにならざるを得ない。
代わりに、これらのエンティティの唯一のプロパティは、エンティティ間の関係によって具体化されるものになる。
ここで数学が登場する。
現代数学は、純粋に抽象的な方法で定義できる構造の正式な研究である。つまり、数学的構造を発明するのではなく、それらを発見し、それらを記述するための表記法を発明するだけである。
人間から独立した外部の現実を信じるなら、テグマークが数学的宇宙仮説と呼ぶもの、つまり物理的現実は数学的構造であるということも信じなければならない。
そのオブジェクトは、十二面体よりも精巧で、おそらくカラビ・ヤウ多様体、テンソル束、ヒルベルト空間などの恐ろしい名前のオブジェクトよりも複雑である。
世界のすべてのものは、あなたも含めて純粋に数学的であるはずだ。
それが本当であれば、万物の理論は純粋に抽象的で数学的でなければならない。
理論がどのようなものになるかはまだわからないが、素粒子物理学と宇宙論は、これまでに行われたすべての測定が、少なくとも原理的には、数ページに収まり、わずか 32 個の未説明の数値定数を含む方程式で説明できる段階に達している。
したがって、すべての正しい理論は、T シャツに書ける程度の方程式で説明できるほど単純であることが判明する可能性さえある。
しかし、数学的宇宙仮説が正しいかどうかを議論する前に、外部の物理的現実を見る 2 つの方法を区別することができる。
1 つは、上空から風景を観察する鳥のような、数学的構造を研究する物理学者の外側の概要。
もう一つは、鳥によって見渡される風景の中に住むカエルのように、構造によって記述される世界に住む観察者の内面の視点。
これら 2 つの視点を関連付ける際の 1 つの問題は時間に関係する。
数学的構造は、定義上、空間と時間の外側に存在する抽象的で不変の存在である。
宇宙の歴史を映画に例えると、その構造は 1 コマではなく DVD 全体に相当する。
したがって、鳥の視点から見ると、4 次元時空内を移動する物体の軌跡は、スパゲッティのもつれに似ている。
カエルには一定の速度で動く何かが見えますが、鳥には調理されていないスパゲッティのまっすぐな束が見える。
カエルが地球の周りを回る月を見ると、鳥は絡み合った2本のスパゲッティが見える。
カエルにとって、世界はニュートンの運動と重力の法則によって記述される。
2 つの視点を関連付ける際のさらなる微妙な点には、観察者がどのようにして純粋に数学的になることができるかを説明することが含まれる。
この例では、カエル自体は厚いパスタの束で構成されている必要がある。
その非常に複雑な構造は、おなじみの自己認識の感覚を引き起こす方法で情報を保存および処理する粒子に対応している。
まず、自然界ではさらなる数学的規則性がまだ発見されていないことが予測される。
ガリレオが数学的宇宙の考えを広めて以来、素粒子の小宇宙と初期宇宙の大宇宙における驚くべき数学的秩序を捉える素粒子物理学の標準モデルなど、その系譜に沿った発見が着実に進歩してきた。
長年にわたって多くのタイプの「多元世界」が提案されてきましたが、それらを 4 つのレベルの階層に分類することが役立つ。
最初の 3 つのレベルは、同じ数学的構造内の非通信の並行世界に対応します。レベル I は単に、光がまだ到達していない遠い領域を意味する。
レベル II は、介在する宇宙の宇宙論的膨張により永遠に到達できない領域をカバーする。
レベル III は「多世界」と呼ばれることが多く、特定の量子事象中に宇宙が「分裂」する可能性がある、量子力学のいわゆるヒルベルト空間の非通信部分が含まれる。
レベル IV は、根本的に異なる物理法則を持つ可能性がある、異なる数学的構造の並行世界を指す。
現在の最良の推定では、膨大な量の情報、おそらく Googolビットを使用して、観測可能な宇宙に対するカエルの視点を、すべての星や砂粒の位置に至るまで完全に記述する。
ほとんどの物理学者は、これよりもはるかに単純で、T シャツには収まらないとしても、本に収まる程度のビット数で特定できるすべての理論を望んでいる。
数学的宇宙仮説は、そのような単純な理論が多元宇宙を予測するに違いないことを示唆している。
なぜなら、この理論は定義上、現実の完全な記述であるからである。
宇宙を完全に特定するのに十分なビットが不足している場合、星や砂粒などの考えられるすべての組み合わせを記述しなければならない。
そのため、宇宙を記述する追加のビットは単にエンコードするだけである。
多世界の電話番号のように、私たちがどの宇宙にいるのか。このように、複数の宇宙を記述することは、単一の宇宙を記述するよりも簡単になる可能性がある。
極限まで突き詰めると、数学的宇宙仮説はレベル IV の多元宇宙を意味し、その中に他のすべてのレベルが含まれる。
宇宙である特定の数学的構造があり、その特性が物理法則に対応している場合、異なる特性を持つそれぞれの数学的構造は、異なる法則を持つ独自の宇宙である。
実際、数学的構造は「作成」されるものではなく、「どこか」に存在するものではなく、ただ存在するだけであるため、レベル IV の多元宇宙は必須である。
スティーヴン・ホーキング博士はかつてこう尋ねた。
「方程式に火を吹き込み、それらが記述できる宇宙を作り出すものは何でしょうか?」
数学的宇宙の場合、重要なのは数学的構造が宇宙を記述することではなく、それが宇宙であるということであるため、火を噴く必要はない。
レベル IV の多元宇宙の存在は、物理学者のジョン・ウィーラーが強調した混乱する疑問にも答える。
たとえ宇宙を完全に記述する方程式が見つかったとしても、なぜ他の方程式ではなく、これらの特定の方程式が使われるのか?
他の方程式が並行宇宙を支配しており、観察者をサポートできる数学的構造の分布を考慮すると、統計的に可能性が高いため、宇宙にはこれらの特定の方程式があるということだ。
並行世界が科学の範囲内なのか、それとも単なる推測に過ぎないのかを問うことは重要である。
並行宇宙はそれ自体が理論ではなく、特定の理論によってなされた予測である。
理論が反証可能であるためには、そのすべての予測を観察および検証できる必要はなく、少なくともそのうちの 1 つだけを検証できれば十分である。
たとえば、一般相対性理論は、重力レンズなど、私たちが観察できる多くのことを予測することに成功しているため、ブラックホールの内部構造など、私たちが観察できないことについての予測も真剣に受け止めている。
多くの並行宇宙に存在するのであれば、我々は典型的な宇宙にいると予想されるはずです。
ある量、たとえば、この量が定義されている多元宇宙の一部の典型的な観測者によって測定された暗黒エネルギー密度や空間の次元の確率分布を計算することに成功したと仮定する。
この分布により、我々自身の宇宙で測定された値が非常に非典型的なものになることが判明した場合、多宇宙、したがって数学的宇宙仮説が除外されることになる。
生命の要件を理解するまでにはまだ程遠いが、暗黒物質、暗黒エネルギー、ニュートリノに関して私たちの宇宙がどの程度典型的であるかを評価することで、多元宇宙の予測のテストを始めることができる。
なぜなら、これらの物質は銀河形成など、よりよく理解されているプロセスにのみ影響を与えるからである。
これらの物質の存在量は、多元宇宙のランダムな銀河から測定されるものとかなり典型的なものであると測定されている。
しかし、より正確な計算と測定では、そのような多元宇宙は依然として除外される可能性がある。
おそらく最も説得力のある反対意見は、直感に反して不安を感じるということである。
数学的宇宙仮説が真実であれば、科学にとって素晴らしいニュースであり、物理学と数学の洗練された統合により、深い現実を理解できるようになる可能性がある。
実際、多元宇宙をもつ数学的宇宙は、期待できるすべての理論の中で最良のものであるかもしれない。
なぜなら、規則性を明らかにし、定量的な予測を行うという科学的探求から現実のいかなる側面も立ち入れないことを意味するからである。
どの特定の数式が現実のすべてを記述するのかという問題は見当違いであるとして放棄し、その代わりに、鳥の視点からカエルの宇宙観、つまり観察をどのように計算するかを問うことになる。
それは、宇宙の真の構造を明らかにしたかどうかを決定し、数学的宇宙のどの隅が私たちの故郷であるかを理解するのに役立つ。