はてなキーワード: 巨匠とは
イギリス音楽はビートルズやローリング・ストーンズ辺りから知名度を上げた「UKロック」で、今なお大きな存在感を示している。
そんなイギリス音楽はルネサンスくらいから、一時代を築いた作曲家が何人もいる。
しかしながらこのイギリス音楽は実のところ、バロック時代に絶大な評価を勝ち得たパーセルから近代のエルガーまでの数百年間、国際的に有名になった作曲家が一人もいないのだ!
まあクラシック音楽でも古典派ロマン派はドイツ系が圧倒している感が強いっちゃ強いのだが、それでもイタリアのロッシーニからドニゼッティにヴェルディやプッチーニ、フランスならベルリオーズやサン・サーンスなどの巨匠がいる。
陶器のようにすべすべで白い肌、大きすぎる目、解剖学を無視したプロポーション。
彼の持つ美的センスはあまりに異質で、当時誰も理解することができなかった。
彼の名はドミニク・アングル。女性の"シワを描かない"ことに異常にこだわり、しばしば解剖学を無視した絵を制作した。
それが公開されると批判と称賛を同時に浴びた。
「椎骨が3つ多い」
批判派には解剖学的間違いが指摘されたが、後にそれは「故意にやったのだ」と理解されるようになる。
美術の歴史は自由の歴史と言える。常識を打ち破りより自由な表現へと進化を続けてきた。アングルは「美の追求のためなら解剖学を無視しても良い」と教えたのだ。
彼の描く女性像は当時の人に違和感を与えたらしいが・・・残念ながら我々はそれを窺い知ることはできない。つやつやの肌も、大きすぎる目も、解剖学を無視したプロポーションも、我々にとってはあまりにも普通だからだ。でもそれは逆に、アングルが伝えたかった美を我々は純粋な目で鑑賞できるということなのかもしれないな
https://ja.wikipedia.org/wiki/グランド・オダリスク
全ての萌えオタは見ると良い。そして讃えると良い。これが巨匠アングルのグランド・オダリスクである。
女性のシワが出ないようにポージングや構図をめっちゃくちゃ工夫して頑張っているのでその辺もよくみてください。お願いします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/泉_(絵画)
76歳にして完成させた『泉』は熱狂をもって迎え入れられました。陶器のような肌、理想化された肉体、古代ギリシャ彫刻に端を発するコントラポスト。新古典主義の傑作として後世に影響を与えました。
まあつまりさ、「お前の描く人間は腰が細すぎる 解剖学的に間違っている」みたいなことを言われたら「それは18世紀にすでに通った道である」みたいな返しすればええんよ。芸術ってやつは自由でいいんよ。好きなもの追求してください。
なんか飽きたからここでやめる
NTRなんてイチャラブからのNTRの温度差があればあるほど脳とチンコに効くわけじゃん。温度差をさらに加速させることを考えれば「イチャラブ」に心底感情移入させなければならない。
でも、一度それをやってしまうと「あ、こいつ反転NTRやる奴だ」って目で見られて最初から読者は身構えることになって温度差がうまく活かせなくなる。
つまり、本当の反転NTRパンチは生涯に一発しか撃てないということになる。
イチャラブえっちものでデビューして年上、同級生、ロリ、青春もの、オフィスもの、近親ものと幅広いイチャラブを描き続けイチャラブオンリーの単行本を何冊も出し、20周年記念の書下ろし連載の4話目くらいまで引っ張ってエグいくらいの反転NTRパンチを撃つ。
でもきっとそのころにはイチャラブえっちにも愛着がわいていて「俺って本当はイチャラブものが好きだったのかもしれないな」みたいな気持ちになっいたのに、反転NTRパンチを打った瞬間から「イチャラブえっちの皮をかぶった反転NTR漫画家」でしかなくなってしまった自分がいる。
そうなったらさ、
めっちゃシコれるだろうな。
細田守はスティーブン・スピルバーグ、そして、彼と比較されがちな日本の偉大なアニメーターである宮崎駿の両方に不満を抱いています。
細田(人道的傑作『未来のミライ』が三年前にアカデミー賞長編アニメーション部門にノミネートを受けた)はハリウッドのデジタル至上主義や宮崎の女性描写にうんざりしたものを感じているといいます。
最新作である『竜とそばかすの姫』がプレミア上映されたカンヌ映画祭におけるAFP通信のインタビューで、細田はスピルバーグの『レディ・プレイヤーワン』をはじめとする多数の映画に視られるネットに関するディストピア的な表現は万人にとって、特に女性にとってあまりよろしくないと発言しました。
自身も幼い娘の父である細田監督は、彼女たちの世代が恐怖に怯えるのではなく、デジタルな運命をコントロールできるように力づけていきたいと考えています。
「彼女たちはインターネットとともに成長してきました。しかし、常々、ネットが悪意に満ちた危険な空間であることも教えられてきたのです」
『竜とそばかすの姫』では、内気で無垢な少女すずのジェットコースターのような感情の体験が、21世紀を舞台にした『美女と野獣』をベースに見事に表現されています。
彼女自身にとっても、他の人々にとっても驚いたことに、すずは「U」というアプリの仮想世界内で、ベルと呼ばれるポップ・ディーヴァになります。何十億人ものフォロワーを獲得したすずはネット上でいじめやハラスメントを受けたりもしますが、「ベル」の歌を通じてアンチや自分自身の悩みを乗り越えていきます。
「若者にとって、人間関係は複雑で、甚大な痛みを伴うものです。私が見せたかったのは、こうした仮想世界が辛く、恐ろしいだけなく、ポジティブなものとなる可能性です」
すずとそのギークの友人は日本の一般的なアニメの女性とはかけ離れています。ここが名作『千と千尋の神隠し』でアカデミー賞を獲ったレジェンド、宮崎駿との態度を異にするところです。
「日本のアニメを観るだけで、日本社会において若い女性がいかに過小評価され、見下されているか(underestimated and not taken seriously)がわかります」
この監督(その映画は宮崎作品よりも現実に根ざしている)は、当時として珍しいことに、シングルマザーによって育てられました。
2012年に公開された名作『おおかみこどもの雨と雪』は、彼女がたった一人で”小さな群れ”を育てた、その猛烈な自立心を讃えた作品です。
細田監督は、「日本のアニメでは、若い女性が聖なるものとして扱われていますが、それは彼女たちの現実とは無関係です。そのことに私はとても腹を立てています」と、悔しさをにじませます。
細田監督はジブリの創立者である宮崎駿の名前を出さずに、厳しい意見をのべつづけた。
「名前は伏せますが、アニメーションの巨匠でいつも若い女性をヒロインにしているひとがいます。率直にいうならば、彼は男としての自分に自信がないからそのようなことをするのだと思います」
「若い女性を崇拝することははっきり言って不快ですし、わたしはやりたくありません」と彼は主張する。
彼は、彼のヒロインを美徳とイノセンスの模範とすることや、”誰からも好かれなければいけないという抑圧”から解放されなければならないと考えています。
53歳のときの彼は宮崎駿の正当な後継者とみられていました。のちのオスカーノミネート作『ハウルの動く城』の監督として外部からジブリへ招聘されたのです。
しかし、細田は制作なかばでジブリを辞め、自らのスタジオを立ち上げました。
細田は「人間の良いところも悪いところも描く、その緊張感こそが人間の本質」というような物語を好んでいました。
そうした性向が『美女と野獣』を現代にアップデートすることに惹かれたのでしょう。
「原作における野獣は最も興味深いキャラクターです。彼は醜く、暴力的ですが、同時に繊細で傷つきやすい内面を持っています」
「美女(ディズニー版ではベル)は取るに足らない人です。見た目がすべての存在です。私は彼女を複雑で豊かに作り変えたかった」
そうした二面性は、彼の最初のヒット作『劇場版デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』から観られるようなデジタル世界の魅力にも現れています。
「私は事ある事にインターネットへ立ち返りつづけています。最初は『デジモン』で、2009には『サマーウォーズ』、そして、今もまた」
そして、インターネットを諸悪の根源とみなしてはいけないと、これまで以上に確信しています。
「若い人たちはそこから離れることはできません。彼らはネットともに育ってきたのだから。私たちはネットを受け入れ、よりより使うことを学ばねばなりません」
細田守監督「日本アニメは女性の描写が酷い。あの巨匠が少女をヒロインにしまくるのは自分に男としての自信がないから」(ユルクヤル)
http://yurukuyaru.com/archives/86316345.html
(元記事)
俺は細田守作品は金ローで流し見したことしかないから特に語れることはけど、はてなでの批評を見る限り、創作物の描写に対してこの手の難癖付けたがる人たちには叩かれている印象があったから、細田監督自身がこういうことを考えてアニメを作っているというのは意外だったわ。
結局、こうやって細田監督が自分なりの「善い」描写を考えて創作を行っていても、微妙な考え方の違いでそれを「悪い」と思って攻撃してくる人間も出てくるわけで、なんか不毛だなぁって感じる。
自分の「気に入らない」にそれらしい理由をくっつけて攻撃してくる人間なんていくらでもいて、その全員の要望を叶えることはできず、そうした人たちの文句をいちいち相手にしていたら際限がないという現実を、今回の細田監督自身の発言そのものが皮肉として体現してしまっているんだよなぁ。
遅ればせながら『シン・エヴァ』観ました。個人的な感想メモ(ネタバレあり)。ちなみにTV版から観ている39歳男です。
・旧劇場版でシンジとアスカがお互い傷つけあったのは「二人は他者だから、触れ合えば傷つくのは必然なんだ」と受け止めてた。それに対する『シン・エヴァ』の回答は「あれは二人の相性が悪かったせい。それぞれ別の人とくっつけば幸せになれるよ」ってことだと理解した。マジか、と思いましたね。あまりに身も蓋もなさすぎて。しかし言われてみれば確かにそう。こうなってみると、もうこの終わり方しか考えられない。
・旧劇場版のアスカって、エヴァの全編を通してみてもトップクラスに酷い目にあってたと思う。肉体的にも精神的にも。見ていて居たたまれなかった。なので、浜辺のシーンで惣流のほうのアスカも救済してくれて嬉しかった。
・それにしても、まさか渚カヲルがゲンドウの分身(別人格)だとは思ってもみなかった。これが一番衝撃的だったかも。
・でもよく考えると、TV版の時点でカヲルはレイに「君は僕と同じだね」って言ってるんだよね。レイがユイのクローンだとして、じゃあカヲルは誰の分身なのかと考えれば、論理的にはゲンドウしかありえない。なんで俺は25年間その可能性に気づかなかったのか、ということのほうが今となっては不思議。
・カヲル君の「歌はいいねえ」という台詞とシンジ君のウォークマンが、25年の時を経てゲンドウというキーワードでひとつに結びつけられる展開は震えた。
・あそこに置かれていた鉄道車両は、庵野さんの故郷の山口あたりで昭和時代に走っていたやつが多かったと思う(あとは天竜浜名湖鉄道?)。あの村が箱根のそばに2029年ごろに存在しているとすると、明らかに時空が歪んでいる。この時点ですでに庵野さんの心象風景に片足を突っ込んでいると理解した。あの村全てが仮想空間とも受け取れる。
・作画もあの村の場面の一部だけ、なんか質感が違いましたよね?
・TV版から存在していた夕闇の電車の中での自分との対話シーン。あれはあの旧型国電の中でやってたのか。あの車両は庵野さんの地元の宇部線で長く走ってた形式。なので単に懐古趣味で旧い電車を出してたのではなく、自分の故郷の、おそらく青春時代によく乗っていた電車の中でずっと自問自答していたわけね。なんというか、本当にエヴァって私小説だ。
・村の人がレイを「そっくりさん」と呼び続けるの、普通に気持ち悪いよ! 初日だけならともかく、その後もずっと。同僚に対してその扱いは酷くないか。レイ視点だから悪意がないように受け取れるけど、実際にはあれは村社会の新人イビリなんじゃないの。エヴァは「誰が誰をどういう名前で呼ぶか」について極めて意識的な作品なので、こういう「気持ち悪さ」も織り込み済みでやってそう。
・レイはやっぱり個体によってかなり人格が違う。にしてもTV版の「ばーさんは用済み」のあの子だけは極端に性格悪かったな。あれは何だったのか。
・ミサトさんは「自分は大人じゃないけど、それでも大人の役をきちんと果たすんだ」と決めた人。TV版と旧劇場版ではそういうちゃんとした大人はミサトと加持ぐらいだったけど、新劇場版ではリツコとヴンダーのクルー達も付いてきてくれていて、そこが良かった。
・にしても生命種の種を満載した船で最終決戦に突っ込むのは、リスク管理としてやばすぎ。そいつらはどっか安全な場所に厳重保管しておくべき。
・ミサトさんが息子とずっと会わないと決めたこと。それってユイやゲンドウと同じ過ちを繰り返してるんじゃないの、と思えて複雑だった。ユイも「自分の選択を息子はわかってくれる」みたいなことを言って死んだけど、息子の側からしたら親に捨てられたと思っただろうし、その葛藤を描いてきたのがまさにエヴァという物語なので。これは「シンジの物語が終わっても全てが解決するわけじゃない。親子の葛藤は次の世代にも続いていく」というメッセージだと受け止めた。
・新劇場版の全体を通して、リツコさんの物語はほぼカットされちゃった。新劇から見た人にとっては、あの人はミサトさんの有能な副官というだけの存在になるのかな。まあ尺もあるし仕方ないか。
・新劇場版での冬月が何をしたかったのか全然わからない。旧劇場版まではユイとの再会だよね? 今回は違うの? あんた何なの?
・ゲンドウとシンジの取っ組み合いのケンカは笑った。庵野さんって、映画の前半で綿密にリアリティーを積み上げておきながら後半で暴走するよね。『シン・ゴジラ』の無人在来線爆弾のときも思ったけど。
・「ユイ、お前はずっとシンジの中にいたのか」って、そんなの当っったり前だろうがー!! そんな凡庸な結論に至るまでに人類を3回も滅亡の淵に追いやるんじゃねえよ。
・庵野さんはエンディングの巨匠だと思っている。「全ての子供達に、おめでとう」と「気持ち悪い」。観た人の記憶に刻み込まれるエンディングを2つも作ったのは神業。
・そして今回のエンディングも後世に語り継がれる素晴らしい出来だと思った。俺は泣きました。
・大人になったシンジ君、イケメンだなあ。声は神木君だしパートナーは素敵な人だし。この話って結局「ただしイケメンに限る」ってやつじゃねーの、という思いもよぎる。
・チョーカーを現実世界でもずっとつけてたのは、思春期の呪縛はそれだけ強いものなんだという意味合いかな。それとも単にマリがチョーカーを外す場面が撮りたかっただけ?
・マリは鶴巻和哉の色が濃いっていう評を見たけど、確かに『フリクリ』から飛び出てきたみたいなキャラ。『フリクリ』も大好きなので嬉しかった。鶴巻さんもありがとう。
・でもこの結末って言ってみれば「夢オチ」だよね。それでも自分も含めて肯定的な感想が多いってことは、要するにたいがいの人は登場人物の人間関係に決着がつくことを何より重視していて、そこに整理がつけば夢オチでも構わないと思ってるってこと…?
・「One Last Kiss」最高。天才の曲。宇多田ヒカルのエヴァ関連の仕事は全て文句のつけようがない。こんな荒唐無稽な物語にかっちりハマりつつ、なおかつ宇多田ヒカルらしさを失わない曲をよくぞ3曲も作ったものだと思う。宇多田ヒカルさんもありがとう。
・で、『Q』で出てきたトウジの制服は何だったの? とかそういうことを考えだすとキリがないので、もう考えない。
劇場で自分の前の席に高校生の集団が座っていて、終わった後で「どうだった?」「わかんねー(笑)」と、まさに自分が高校生で旧劇場版を観た時と同じような会話を繰り広げていた。そのことに何だか感動してしまった。
anond:20210210062305 (クラシック曲ガイド) を見やすくしたよ。
§1600年代前半
§1600年代後半
§1700年代前半
§1700年代後半
§1800年代後半
§1800年代終盤から1900年代初頭 (後期ロマン派・印象派音楽)
§1900年代中盤以降 (第一次大戦終了によってロマン主義と印象主義が古くなった時代に真価を発揮した作曲家たち)
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1664833
↑このブコメで賞賛されている表がかなりデタラメなので修正してみた。
とりあえず同じように1600年代から始めます。「オケゲム、マショー、パレストリーナ、ジョスカン・デ・プレがないぞ」とかいう意見もあるようですが、それはもっと以前だから書いていないだけです。
作曲家の「生まれた年」ではなく「主に活躍した時代」で書きます。これに文句を言っている方もおられるようですが、何故かと言うと例えば生まれは1600年代終盤だけれど音楽家として活躍し世に認められたのは1700年代になってから、といったような例があるからです。
「あれは記憶だけで描いてるから素晴らしい」とおっしゃる方もいらっしゃいますが、これも資料などは参照せず、ほぼ脳内の情報だけで書いております。
モンテヴェルディ(みんな知ってる「私を死なせて」)、カッチーニ(「アヴェ・マリア」が有名だが実はソ連の音楽学者ヴァヴィロフの贋作。真作で有名なのは「アマリッリ」)
シュッツ(「ドイツ音楽の父」として有名)、シャイン、シャイト(以上3名は「ドイツ三大S」として有名)
コレッリ(「ラ・フォリア」が有名)
ヴィヴァルディ(「四季」の人)、アルビノーニ(「アルビノーニのアダージョ」が有名だが贋作。真作で一般に有名な曲は無い)、ペルゴレージ(「スターバト・マーテル」が有名)
クープラン(チェンバロ曲で有名)、ラモー(音楽理論とオペラ)
バッハ(名曲多数)、ヘンデル(日本では「音楽の母」などと呼ばれたが女性ではない。「メサイア」「オンブラ・マイ・フ」「水上の音楽」など)、テレマン(「食卓の音楽」で有名)
以上1600~1750年が「バロック音楽」の時代。欧州における「絶対王政」の時代とほぼ重なるという見解があります。
「古典派音楽」の時代。啓蒙思想によって理性が重視され、それが音楽に影響を及ぼした時代です。
チマローザ(オペラ「秘密の結婚」)、パイジェッロ(「うつろな心」)、ボッケリーニ(「女ハイドン」の異名を持つが男性)、サリエリ(オペラの巨匠)
音楽における「ロマン主義」は文学や絵画よりも遅れて1800年代になってから現れます。この時期は古典派音楽からロマン派音楽への過渡期です。
ロッシーニ(オペラ「ウィリアム・テル」「セビリアの理髪師」など)、ベッリーニ(オペラ「ノルマ」など)、ドニゼッティ(オペラ「愛の妙薬」など)
シューベルト(未完成交響曲 D 579、歌曲集「冬の旅」など)
メンデルスゾーン、シューマン、世代的にはワーグナーもここに入る(この時期はオペラ「リエンツィ」「タンホイザー」「ローエングリン」など)
リスト(本人はハンガリー人を自認したが実際はドイツ系オーストリア人で本来のハンガリーの民族要素は無いのでドイツ・オーストリア音楽として捉えるのが正しい)
グリンカ(オペラ「ルスランとリュドミラ」)、ダルゴムイシスキー(オペラ「石の客」)
1848年革命の失敗により、ヨーロッパ音楽の雰囲気も暗くなって参ります。
ヴェルディ後期(オペラ「椿姫」「アイーダ」「オテロ」「ファルスタッフ」など)
ブルックナー(交響曲では4番と7番、8番が有名だが初心者に聞きやすいのはむしろ1番と6番だと思う)
ブラームス、ブルッフ(ヴァイオリン協奏曲第1番が有名)、ワーグナー後期(楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニーベルングの指環」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」)
オッフェンバック(オペレッタ「天国と地獄」など。実はドイツ人)、グノー(オペラ「ファウスト」)マスネ(オペラ「タイス」など。「タイスの瞑想曲」)、サン=サーンス(長生きしたので今年没後100年)、フランク(バッハの対位法、ベートーヴェンの劇的構成、ワーグナーの和声を融合した究極の交響曲を作曲したが実はベルギー人)、フォーレ(「レクイエム」「幻想の水平線」)
スメタナ(連作交響詩「我が祖国」その中の一曲が「モルダウ」)、ドヴォジャーク(「新世界交響曲」e-moll op.95 など)
ボロディン(オペラ「イーゴリ公」、交響詩「中央アジアの草原にて」、交響曲第2番など)、バラキレフ(東洋幻想曲「イスラメイ」)、ムソルグスキー(オペラ「ボリス・ゴドノフ」、ピアノ組曲「展覧会の絵」)、リムスキー=コルサコフ(交響組曲「シェヘラザード」など)、チーコフスキー(バレエ「白鳥の湖」、交響曲第6番「悲愴」など)
グリーグ(ピアノ協奏曲、劇判音楽「ペール・ギュント」、ピアノ曲「抒情小品集」、歌曲「最後の春」など)
プッチーニ(オペラ「トスカ(星は光りぬ)」「蝶々夫人(ある晴れた日に)」「トゥーランドット(誰も寝てはいかん)」など)、マスカーニ(オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」映画「ゴッドファーザー PART III」のあれ)、レスピーギ(交響詩「ローマの松」などローマ三部作)
マーラー(11曲の交響曲と歌曲)、ヴォルフ(ドイツ語歌曲の頂点として非常に有名)
リヒャルト・シュトラウス(交響詩「ツァラトストラはかく語りき」〈映画「2001年宇宙の旅」のあれ〉オペラ「サロメ」〈裸踊りで有名〉「薔薇の騎士」〈少女漫画オペラ〉)、レーガー(変奏曲と室内楽の達人。歌曲も秀逸)
ダンディ(「フランスの山人の歌による交響曲」は初音ミクが歌った冨田勲の「イーハトーヴ交響曲」の元ネタ)、ショーソン(「詩曲」、フランクの影響を受けた1曲だけの交響曲など)、ドビュッシー(オペラ「ペレアスとメリザンド」、交響詩「海」など)、ラヴェル(バレエ音楽「ダフニスとクロエ」、ピアノ協奏曲ト長調など)
フェルステル、ヤナーチェク(オペラ「利口な女狐の物語」、村上春樹のせいで何故か有名になった「シンフォニエッタ」)、スーク(アスラエル交響曲などが有名)
シマノフスキ(「スターバト・マーテル」など)
グラズノフ(ロシア浪漫派交響曲を集大成した作曲家として有名)、ラフマニノフ(無伴奏合唱曲「晩祷」で非常に有名)、スクリャービン(神智学に陶酔した交響曲第4番「エクスタシー」と、「神秘和音」を駆使した妄想ピアノソナタで非常に有名)
エルガー(「威風堂々」が有名だが真の傑作は交響曲第2番)、ディーリアス(「春始めての郭公を聴いて」は英語圏では誰もが知る名曲)、ヴォーン・ウィリアムズ(「田園交響曲(3番)」と「南極交響曲(7番)」が有名だが5番も捨て難い)
ヒンデミット(オペラ「画家マティス」と、その音楽をまとめた交響曲が有名)
シェーンベルク(無調音楽、12音音楽の創始者。彼が最初に12音音楽による楽曲を完成したのが1921年なので今年はシェーンベルク式12音音楽の100周年。まず聴くばきは「ピアノ協奏曲」「ヴァイオリン協奏曲」「弦楽四重奏曲第3番、第4番」)、ベルク(無調音楽、12音音楽に調性音楽的要素を取り入れて聴きやすくした人。オペラ「ヴォツェック」「ルル」、器楽曲では「ヴァイオリン協奏曲」が有名)、ヴェーベルン(12音音楽の究極として有名)。以上の3人は「シン・ヴィーン楽派」として20世紀音楽を語る上で非常に重要です。
いわゆる「6人組」の時代。現在でも有名なのはプーランク、ミヨー、オネゲル(交響曲第2番と第3番はカラヤン盤もあるので聴いて下さい。このほかオラトリオ「火刑台上のジャンヌ・ダルク」も泣けます。実はスイス人)。現代音楽史的により重要なのはメシアン(「トゥーランガリラ交響曲」「世の終わりのための四重奏曲」「彼方の閃光」オペラ「アッシジの聖フランチェスコ」などが非常に有名)。
プロコフィエフ(大人は「ピーターと狼」みたいなガキ向けの曲は聴かず「交響曲第2番」の暴力的激しさにヒャッハーしましょう)、ハチャトリアン(「剣の舞」とかいう曲は子供の頃運動会で聴いたでしょうから、そんなものより「交響曲第2番」でファシストとの激しい戦いを体感しましょう)、ショスタコーヴィチ(世間一般では交響曲第5番が知られていますが、高く評価されているのは4番、8番、10番、14番など偶数番号の交響曲です。真髄はオペラと弦楽四重奏曲です)
20世紀後半以降は省略。
こっそり映画館に居座ってブレードランナー三周観た話でもすればいいんだろうか
夜通し喋るかもよ?
というか、フィリップ・K・ディックを激怒させたというのは本当なんだろうなあ
俺がディックだったとして、いくらリドリー・スコットが巨匠だとしても原作まったく無視された映画観せられたら怒ると思う
あれ?俺の小説は?俺が原作って書いてあるのに意味ねーじゃんw俺の文章を完全に無視すんじゃねーよ(怒
(映画の幻魔大戦も平井和正を特に大友克洋が激怒させたらしいけど
あと、スポンサーとか制作サイドから、ルナ姫を可愛くしてほしい、という要求を大友が却下した話は本当に凄いと思うw)
なんとなくだけど、ディックの原作に沿った方向で作り直したら今の時代ならウケる気がする
彼の現実と虚構の境目が危うくなる、白昼夢みたいな世界観は今ならウケる気がするんだよなあ
逆にブレードランナーのような未来感は今からするとありえないというか、古さを感じる
まあ、あの治安の悪い歌舞伎町と昔の秋葉原を中国で合体させたみたいなロサンゼルスというのも面白いのだけど、
ブレードランナーはあまりにもビジュアルを優先させすぎた嫌いがある
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/tomoyakumagai/status/1334468217301921792]
https://b.hatena.ne.jp/entry/4695111878677361442/comment/y-pak]
ブコメのブクマでもしようかと思ったけど、100 文字に収まりそうもないからこっちに書いとく。
「おたく」と同じように侮蔑語としての起源を持ち、後に積極的な意味に転じた言葉に
「クイア (Queer)」がある。
「クイア」と「オタク」の違いは、「クイア」が侮蔑語であったその言葉に、
「オタク」は、90 年代末~2000年代初頭に、当事者の意思・意識とは関係なく、
経産省やその界隈、メディアの都合でメジャーの舞台に引き上げられ、なんとなく、
(「おたく vs. オタク」論争みたいのが流行らなくなったのをもって定着とする)
したがって、侮蔑語としての古い用法の「ホモ」や「クイア」と、
ゲイ・プライドの文脈で使われるそれとは明確に区別されるのに対して、
侮蔑語としての「オタク」と、メディアコンテンツのカテゴリーとしての「オタク」の用法は、
なし崩し的にゴッチャになっている。
というか、役所やメディアが勝手にでっち上げたメジャーの舞台に乗せられてるという自覚がない
今どきの「自称オタク」はそんなことには興味なくて、自分の「趣味」が世間に認められて当然
という意識でいる一方、それと同時に、古い用法の「おたく」を引き摺っている現状に漠然とした
不満を募らせている (らしい)。というのは…
https://b.hatena.ne.jp/entry/4695111878677361442/comment/y-pak]
というブコメから「保毛尾田保毛男は、あんなに批判されるようになったのに、
オタクはまだ差別されてるじゃん。ズルい-!」というニュアンスが読み取れるからです。
それがズルい、不公正だと思うなら、「クイア」と同じように、当事者であるあなた達が、
明確な意思を持って、侮蔑語の「おたく」を積極的な意味をもつ「オタク」に読み替えて、
それを世間に認めさせたらいいじゃないの?
萌えキャラや、乳袋や、スカートの股間の謎の影がそんなに大事なら、
…というだけの話だから、うまくやれば 100 文字で書けたかも知れない…
知らない人のために説明すると、「おたく/オタク」は第 1、第 2、第 3 世代という区分をされる
ことがあって (あったというか…)、ざっくりそれぞれ70 年代、80年代、90 年代に思春期を過ごした
第 2 世代が他の世代と違うのは、彼・彼女らが小学校高学年の頃に中森明夫によって
「おたく」という侮蔑語が発明され、エヴァのシンジ君の歳の頃にあった宮崎勤の事件によって
「おたく」という言葉が世間にひろく知られるようになり、お笑い番組で宅八郎がネタとしてイジられたり、
オウム真理教が布教アニメ作ったり、秋葉原に PC ショップ作ったりするのを横目で見ながら
十代後半を過ごし、とにかく「おたく」への風当たりが強かったということ。
いまでは信じられないかもしれないが、当時は手塚治虫、宮崎駿クラスの巨匠でも
「アニメ・漫画なんて下らない。なぜならアニメ・漫画だからだ」という評価をされる風潮がまだあった。
(流石にそこまで露骨な言い方はしないにせよ)
そんな状況だから、当時の「おたく」は (自虐パロディー的な文脈以外では基本的に自称しないけど)
(1) 「おたく」から卒業して、世間的に認められやすい映画・文学などの周辺領域に流れる
(2) 日陰で (オタクコミュニティー内の閉じた世界の中で) こっそりとオタク趣味を楽しむ
(3) 自分たちが大事だと思うこと、価値があると思うものを守るために世間と戦う
の三択を迫られる。というか 1~3 の間で揺れ動くのが普通だったような気がする。
そんな苦い記憶があるから、2000 年代以降の状況しか知らない今どきの「自称オタク」が
自分たちの「趣味」が世間に受け入れられて当然みたいな態度でいるとイラッとするわけだが…
みたいに、第 2 世代の風当たりを強めた要因の一つである「宅八郎」をもって、
昨今の「オタク」を批判するようなこと書かれると、なんともむず痒いような
10000本の蛇足が付け足されたきったねえ蛇の絵を持ち上げて「この龍マジ最強だろ!!!!」って喚いてるようなゴミだったわ。
信用できない語り手×幻想小説っていう目新しさ皆無のテーマを選んでおきながら画期的感出してることの痛さがまず目も当てられんし、オチも話の筋は通らんではない程度で話が長い割には薄いとしか思えん買った。
つうかネタバレ始まった頃から漂う「なんとも出題者に都合のいい宇宙もあったもんすね(ホジホジ」って薄ら寒さが本当にね。
「フーダニットを重視してるんだぜ画期的だろ?」ってのも、そりゃ単にお前が全くミステリー読んでねえからだよって呆れるしか無かったな。
これについては前々から色んな所で指摘されてたけど、結局治せたのかねえ?
ロクに他人の本も読んでないやつが勘違いの俺SUGEEEEEで突っ走ってる所がコミケットドリームでいいんじゃねえかって意見については「わかる」よりの「は?」かな。
なにより厨二病要素を追加しまくることでセンス皆無のキモヲタになんとか話題にしてもらおうと必死すぎるのが本当に哀れだよね。
キモヲタに持ち上げられるようなミステリーって他にもいくつかあるけど、ここまで恥ずかしげもなく恥知らずな作品はまったくなかったはず。
恥知らずであるかのように見えるけど、その恥知らずっぷりをわかった上でターゲット絞ってリーチしてる作品ならあるけど、全く無自覚にさも高尚ぶってはっずかしいポエム書き散らしてセンスオンチのレン中に持ち上げられてキャッキャしてるのはこれぐらいだよ。
でも需要はあるんだよなあ。
人並みのセンスや羞恥心があったら描けないものを描けるってのもある種の才能というか、料理下手くそすぎて普通の食材から兵器作れちゃうならそれはもう巨匠ですわ。
ただそのことが完全に露出した今となっては、そういうノリが好きな人間しかついていかなくて普通の人間は完全に無視するか、嘲り目的で野次馬に来るかの二択になっちゃうんだろうなあ。
2作連続、しかも前作よりよっぽど酷いもの出してきてんだからそりゃそうなるわ。
いやね、俺うみねこ全く知らんかったから流石にネットで叩かれすぎだろとか新作売れなすぎだろって思ってたんだが、自分で読んだらそりゃそうだって納得したわ。
本当な、「自分を火刑法廷の上位互換だと思い込んでるバカだから話が長いだけの蛇足まみれのスーパー劣化コピー」としか言いようがねえんだもんよ。