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はてなキーワード: 居間とは

2021-07-22

anond:20210722034037

いから読んでないけど

氷河期大学までいって真面目に就職活動して、ちゃん就職し、それから二十年働き続けてる人は言わなくても超保守的

変化を嫌い、変化を恐れ、居間まで通りの常識を守ろうとする人だよ

そんな人に変化を期待するな

2021-07-17

超気分屋の父親

数分前まで機嫌よくテレビ見ながら酒を飲んでいた

数分後、居間から大きな音がし始め、母親が見に行くと大声で怒り狂っている

数分の間、父親に何があったのかは分らないが、よくあることなので、家族相手にしなくなった

anond:20210717202956

片づけられない&捨てない親で、

もので溢れてて

父の意向居間エアコンなし

唯一つけてもらってた2Fのエアコン

私不在中にたぶん一度も付けずに

排水ホース砂漠の骨みたいになってた

その間わずか6年半くらい……。

片づけながら世話してたけど

夏は暑すぎて動けないんだわ

やっと片付いてきたけど

夏にエアコン間に合うかな……。

シャワーもない

沸かし風呂オンリー

2021-07-13

居間は動けない、それが定めだけど、

諦めた…

2021-07-12

能力不足を人格破綻として扱われることに疲れた

定型発達にそこそこ失敗してるけどアスペってほどじゃない

やや相貌失認ぎみだけどある程度までは把握できる(身長が5cm違うとか髪の長さが2cm違うとかなら区別がつく)

でもやっぱ限界はあって割と頻繁にミスる

そういう時に問題自分能力や才能ではなくて人格にあるとされて擦られることにいい加減疲れた

音痴の子供が合唱コンクールで悪ふざけを続ける小悪党としてなじられ続けるような

そんな状態を生まれてきてから38年間ずっと続けてきた

幼稚園の頃から空気が読めないとかノロイだとか一緒に遊びたくないだとか何考えてるのか分からんとか言われてきた

小学校に入る頃には人と関わるのがすっかり嫌になってずっと一人遊びをしていた

中学高校ではそういったアスペっぽい連中同士でつるんでもみたけどやっぱアスペってアスペからみてもウザイので1年ぐらいで自然消滅した

大学に入ってからもそうだったし就職してからもそうだ

人間と付き合うのが面倒くさい

恋愛したことがない

まりヴァージョンである

恋バナをしろと振られることがあるが無茶を言うなと思う

人間と関わることが苦痛じゃない人間たちが本当に辛い

コミュ力が一番大事だとか言ってる人たちが本当に無理だ

そういう人間技術職になるといいらしいが自分大学で選んだ専攻を4年間ですっかり嫌いになったので事務職をしている

事務世界でもエクセルを使いこなせればスーパーマンになれるらしいが、我社のパソコンはクソポンコツなのでそもそもエクセルマクロをまともに組むことも出来ないからその道は閉ざされている

それどころか今どきメールもロクに使わずFAXが主流の地獄世界

FAXが主流ということは電話必須ということだ

FAXメールと違って開封確認が出来ないので届いたことを電話確認するのは必須になる

辛い

FAXを送っているのに電話確認するという作業の虚無感が辛い

内容について質問が来たら当然電話で答えるのだがヒトと会話することが本当に辛い

そんな会社辞めてしまえばいいと言うのは簡単だが、このゴミのようなFAX社会に一度組み込まれて15年以上暮らししまえばもはや同年代との事務能力の差は恐ろしいことになる

穴あけパンチで上手に穴をあける技能が役に立つような職場は、結局同じレベル昭和世界

平成世界に辿り着こうとしても、マクロの組み方もよく分かってない上にコミュ障事務必要とされることはない

今いる会社、今いる業界のことについてなんとなく知識がついていることだけしか今の自分人材としての価値はない

詰んでしまった

技能を身に着けなければ生きていけないような人間として生まれてきたのにそこから逃げてしまった

大学の専攻をもっと真剣に選ぶべきだったのかも知れない

高校時代ゲームばかりせず勉強をしていれば同じ専攻でももっと楽しめたのかも知れない

そもそも楽しくなくてもいいからその業界必死に生きればよかったんじゃないのか

自分は注意力がない

人の顔が覚えられない

最近記憶力も落ちてきた

考え方がネガティブからストレス耐性が低い

ストレスを貯めやすいのでよく不眠症気味になる

から残業が続くとヒトより睡眠不足悪化やす

なにもない

生きていけない

生きて行きたくない

自分のような存在を心底否定する社会で生きていたくない

新人や同僚で自分より少しだけアスペがひどい人が凄い勢いで悪口を言われているのをよく聞かされる

これはお前に対しても言っていることだがお前は治す機会を与えてやっているんだぞ優しいだろうという言外の声が否応なく突き刺さる

取引先の顔を咄嗟に忘れたり恩義のある先輩の名前を間違えたりするとそうかやはりこの世界は私の居場所じゃないんだなと感じる

全てのデータ自動的電子的なログとして残る世界ならもう少し呼吸がしやすいはずなのに限りなくアナログ世界で生きる

そしてその世界居間暮らしているヒトの多くがアナログの繋がりこそが大事なんだよなと私に同意を求める

ちげーやバカ野郎畜生が私は毎日そのことで死にかけてるんだぞ?

もう無理だ

死にたい

この人生をこんなことにしてしまった自分間抜けすぎてその悔しさだけで死にたくなる

いつだって死にたいという気持ちを抱えて生きている

職場自殺防止パンフレットにはふと死にたくなったらどうこうと言うが

私はこの38年間ずっとずっといつだって死にたかったのだがどうしたらいいんだ

死ぬぐらいならいっそ休んだり会社を辞めればいいというが私は何をやめたらいい

降りるべきレールの名前を読み上げればそれはきっと人生

人生を降りろというのか

残酷

そういった言い方をすれば人生を降りる必要を感じる人間がいるという発想自体がない人間多数派

正常なのだと突きつけてくるがそれはあまりにも暴力的卑怯じゃないか

数が多いと言うだけで我らこそが正しいのだお前らは私達に嫌な気分を味あわせないよう工夫してそっと死になさいなと

そうやって日々突きつけてくるのはあまりにも卑怯じゃないか

だけど私はそういった卑怯者達に多数派暴力に負けてしまって毎日必死に媚びへつらって生きているんだ

こんなに悔しくて辛くて死にたくてどうしようもなくて馬鹿馬鹿しいのはなんなんだ

きっと私と同じようなヒトもたくさんいるだろうに皆多数派に媚びへつらって必死に口をつぐんでいる

その横で彼らはこの世界はとっても素晴らしいから次に生まれてくるウチの子幸せなのよと語り合う

新しい命が産まれることはこの世界幸せが増えることらしい

ふざけないでくれ私はこの世界に生まれ落ちて少なくとも38年間辛かったぞ

この世界が人を幸せにする機能を持っているというのならいい加減今までのツケを払ってくれ

私の積み上げた幸福と不幸のアンバランスのツケがどれほど膨れ上がっているのかいい加減分かってくれ

もうダメ

自分を騙していても仕方ない

生きていてもこんな世界じゃ幸福にはなれないことにまた気づいてしま

でも嫌だ

ツケを払わせずに死にたくない

私がちゃん幸福になってから死にたい

今まで必死に生きてきた私達に対してお前らのやってきたことはちゃんと結果に結びついたぞと言ってやりたい

無限の無念のコンコルド

飛びゆくは常に暗雲

翼を休める場所を求めて

飛び続けたこと空の苦役その釈放そこに意味があると信じて

2021-06-29

anond:20210629162842

びゅるるるる~~~!!!って音が居間から寝室まで届いたらやだもんね

2021-06-23

「女は失業したら風俗で働けば良い」と父親Twitterで呟いてた

わたし父親Twitterアカウントを時々こっそり見ています。詳細な説明は省きますが、そのアカウントが間違いなく父親のものだということははっきりしてますまさか娘に見られているとは思ってないだろうね、こんな呟きをしてるってことは。「女は失業したら風俗で働けばいい」「稼げるし誰かのことを幸せにできる。こんなに社会に貢献できることは無い」「おっぱいパブか手こきをすれば良い」コロナ失業話題になってた頃のツイートでした。ウンザリした。これが自分父親かと思うと心底ウンザリする。嫌悪感意味わからん馬鹿じゃないの?

父親は某有名私立W大学出身で、非常に優秀で見識豊かで、仕事もできて、一企業代表を務めるような人間です。だからって必ずしも人間性が高いわけじゃないってことを実の父親から学びました。乙。馬鹿なの?頭は良いのにほんとに馬鹿。その父親遺伝子を受け継いでるはずのわたし偏差値的に頭悪いです。仕事だって父親から見ればまともな仕事してないですよ。でもそんなわたしからみても父親馬鹿です。はっきりとわかる。

風俗で働くことが悪いとは言ってません。その世界成功してる人もいるし、やりがいを感じてる人だって絶対ますから。でも誰でも簡単に出来る仕事ではないですよね?体を売るというのはかなり特殊仕事と思いますコンビニバイトとか、UberEATSとかとは大違いです。そんなに簡単に「風俗やれば?」と気軽に勧められる仕事ですか?違いますよね?それは分かりますよね?倫理観のある方でしたら。「女は失業したら風俗で働いとけばいいじゃん」って考え方はちょっと違うなと思いませんか?同じ言葉を娘にも言うんですか?え?こんど実家に帰ったとき居間テレビ観ながら「あーあ。今の仕事 全然稼げないし、風俗転職しよっかな〜」ってふと呟いてみたほうがいいですか?そしたら父親は「おお!いいじゃないか!頑張れよ!」と笑顔で言うんでしょうかね?馬鹿じゃないの?

なんかさ、そういう発言Twitterとかで炎上したり、逆に風俗で働いてる人が「差別だ」とか言って応戦したりしていろいろ話題になることありますけど、なんのテーマにしても各々発言する人間はさ、自分の息子や娘に(実際いなくても、もしいたとして)同じことが言えるのか?ということを1歩立ち止まってよく考えたらどうなんだ?

娘以上に可哀想なのが妻ですね。うちの母親です。そんなこと考えてる人間の妻をかれこれ30年もやってるとは思ってないでしょうね。うちの母は洞察力のない人間ですから旦那の裏の顔ってやつですか?まじで同情しかないです。歪んでる。うちの家族まじで歪んでる。だれも本音で話してない。怖いのがうちの兄がちょっと父親似の思考してること。まじでドン引き家族と思えない。

てかTwitterなんて狭い世界なんだから、一企業代表の裏アカウントなんて簡単に娘の目に留まるってことも分からないの?まじで時代遅れ電子機器疎くて風俗嬢におじさん構文メールしてウキウキしちゃってる馬鹿丸出しオジサンだわ。軽蔑吐き気

2021-06-22

anond:20210622095549

60年代10年後の状況を知って驚く、という設定だからまちがってはいないな・・・

まらないツッコミしかできない人間という反面教師になってくれてありがとう・・・・ww

1950年代電話事情

戦争日本電話環境は壊滅状態になった。戦後1940年代後半から1950年代前半にかけて、電話加入の要望は急速に高まったが、設備や要員が間に合わず、加入申込をしても2年以上待たされる状態で、積滞数の増加が慢性化していた。

委託公衆電話

 1952年に、電話局側が電話店舗などに設置させてもらい、管理を依託する「委託公衆電話」を始めた。翌年からは、目立つ赤色にかえられ、これが「赤電話」や「ピンク電話」のはじまりとなった。

呼び出し電話

 発信では公衆電話を用いるが、受信では近所の電話を持っている家庭に電話をかけさせ、そこから呼びに来てもらうような仕組みがとられた。それで、呼び出してくれる家の電話番号の後ろに「呼」と書くことが行われた。それを「呼び出し電話」という。

電話の設置場所

 呼び出しが広く行われていた頃は、電話玄関に置かれるのが通常だった。1960年代になり、一般の家庭に置かれるようになると、家族全員がアクセスやす居間に置かれるようになった。1990年代になると、親子電話コードレス電話になり個室に置かれるようになった。その後は携帯電話が普及し、電話は常に身に着けているようになった。

市内電話は、ほとんどがダイヤル式になっていたが、大都市以外では市外電話はほとんど交換手呼び出しによる方式であった。その接続には料金により普通、至急、特急区別があったが、特急ですら申し込んでから1~2時間待ちが普通という状態であった。

1953年、電電公社は「全国自動即時化」と「積滞解消」を目指す第1次5か年計画策定クロス自動交換機の導入、加入サービスの向上を急いだ。

 1958年 最初クロスバ市内自動交換機:東京府中局、埼玉蕨局

 1959年 最初クロスバ市外中継交換機:仙台

 1963年 電話加入数500万台を超える。  1967年 全県庁所在地都市相互間の自動即時通話達成

クロスバ交換機とは、縦と横の複数バークロスした構成になっており、ダイヤルされた電話番号のからバーについている電磁石の磁力により縦と横のバー接触し、相手電話をつなぐという仕組みであ る。自動交換機を経由する回線自動接続可能になり、市外通話自動化に適した方式である

それにも拘わらず、積滞数がほぼ解消し、ダイヤル化率がほぼ100%になったのは、1970年代後半になる。

2021-06-09

無言電話

メールやLINEが普及してから日常生活のなかで無言電話を受ける機会は格段に減ったと思う。それでもあの、電話の向こうで、誰かが息を潜めてじっとしているあの感じ、じっさいにそうしているかどうかは分からないのに、それでもやっぱり誰かいると思うあの、背筋がぞわずわする感じは、いまだに思い出す。

無言電話のあの気味悪さをわざわざ味わいたい人などまずいないだろうと思うが、母は無言電話を心待ちにしていた。毎年、いつ掛かってくるかわからない無言電話を受けられるようにするためだけに、家にいることが多かったと思う。

うちは姉と私の二人きょうだいで、姉は少し変わっていたと思う。今だったらいろいろな診断名がついたのかもしれないが、当時はそういうことを知っていた人が周りに誰もいなかった。家にいるときの姉はどこか天真爛漫なところがあって気前がよかったが、何か思い通りにならないことがあると癇癪を起こしたり、ふさぎ込んでしまうこともあった。大きな音が苦手で、近所で工事があって重機の音がしていると、両手で耳をふさいだままその場に倒れ込んでしまうことがあった。甘いものを切らせると具合が悪くなるので、いつもポケットに飴かクッキーの小袋を入れていた。

そういう姉が学校で周りの人とうまくやっていくのは難しかっただろうと思う。小学校低学年のとき遠足で市立公園に行った。二個上の姉の学年も行き先が同じだった。自由行動あいだは、友達同士のグループレジャーシートを敷いて固まって、お弁当を食べたり、おやつを交換したりした。トイレに行くとき、姉の学年の人たちがいる原っぱの横を通りかかった。いくつものグループができて、みんな騒いでいたけれど、姉だけは少し離れたところで草むらに入り込んで、バッタかなにかを追っていた。よくわからないけれど、見てはいけないものを見てしまったような気がして、その日は一日じゅう暗い気持ちだったことを憶えている。

勉強ができた姉は、県内でも有数の進学校とされている高校に行った。毎日自転車帰宅して部屋に戻ると、それ以降どこかに出かけた姉を見た記憶がない。高校で「普通」の人付き合いができているかどうか、母は気にしていたらしく、姉の友人関係についてそれとなく尋ねたことがある。そのたびに姉はひどくいきり立って、よくわからないことを叫んで、部屋に籠もった。父は何もいわなかった。

受験生になって県外の旧帝大を受けた姉は落ちた。模試での判定はよかったらしく、私立を併願しても行く余裕はうちになかったので、他にどこも受験していなかった。姉よりランクの低い高校に行っていて、卒業後は就職するのだろうと思っていた私は、姉の身になにが起こっているのか、想像することもできなかった。

自宅で浪人をしていた姉は翌年も落ちた。どういう話し合いが両親との間であったのか、私には分からない。父のつてで紹介された地元ケーブルテレビ会社で姉は働き始めたが、半年ぐらいで行くのをやめた。おそらく人間関係が原因なのだろうと思ったが、家では誰ものその事を言い出さなかった。その頃から母と姉との言い争いが絶えなくなった。ちょっとしたきっかけですぐに激しい言葉のやりとりになって、姉が勢いよくドアを閉めて部屋に閉じこもるのが常だった。

姉が引きこもるようになってから少したった頃、私は地元会社で働きはじめて、仕事を覚えることで頭がいっぱいだった。家に帰ると毎日疲れていた。姉とは話す機会がほとんどなかった。たまに、夜中の居間で出くわすことはあった。帰宅後、着替える気力もなくて、電気の消えた居間ソファーに沈み込んでTVぼんやり眺めていたら、冷蔵庫麦茶を取りに来た姉もしばらく後ろに立っていて、流れている番組について他愛ない話をした。いま思うと、そういう話をすることで、私たちはお互いに何かを確認していたのかもしれない。

それからはいなくなった。珍しく私は早く帰ってきて部屋にいたら、母と姉が言い争う声がして、ドアが勢いよく閉まる音がした。またやってるのかと思ってそのときは気にとめずに寝たら、翌日に姉はもういなかった。捜索願、探偵行方不明情報サイトへの登録、なにをやっても戻ってくる気配はなかった。ネット情報を見た人が、小倉ホームセンター駐車場で姉らしい人を見かけたといって連絡してきたこともある。ジャージ姿で男の人と車に乗って去っていったらしいが、本人なのかどうか、確認する方法はなかった。

一年くらい経って、姉から電話があったと母が言った。夕方かかってきた電話を取ると、受話器の向こうで人が黙っている気配があったので、姉の名前を呼んでみたところ、ほどなくして切れたそうだ。それからさらに一週間ぐらいしてまた夕方にかかってきて、母がまた姉の名を呼ぶと、今度はかすかにすすり泣くような声が聞こえたという。

電話してきたのはほんとうに姉なのかどうか、そもそも電話はほんとうにかかってきているのかどうか。問いただすことは私にはできなかった。が、それ以来、母は家でじっとしていることが増えた。父と母は、姉の部屋をずっとそのままに、出て行った日のままにしていた。

私は私の地獄を生きるのに精一杯で、家のことを何とかしようとか、母を支えようとか、そういうことをちゃんと考えられなかったと思う。職場一族経営地元企業で、上司会長の甥だった。就職してわりと間もない頃から距離を詰めてきた。この田舎でほかに移れるところはなかったから、断れなかった。僕はパイプカットしてるから子供はできんのやということを口癖のように言っていた。絶えられなくなってその上司上司相談したら、いつの間にか私の方が悪いことになっていた。その間、東京会社転職活動し続けて、逃げるように上京したが、ある日突然、電車に乗れなくなった。適応障害だとかいわれて、部屋にこもって布団の上に転がっているだけで、生きているだけで苦しかった。手持ちの金はどんどんなくなっていった。

その間も実家から電話ときどきかかってきたが、ほんとうのことを言うことはできなかった。あるいは、母も何かを察していたのかもしれないが、直接言ってくることはなかった。姉からまた無言の電話があった、という話を聞いても、そうなのかと思って軽く受け流すことしかできなかった。電話を切った後、日暮れ時の実家居間で、じっと電話を待っていたであろう母の姿を思うこともあったが、その頃は、自分自身がその瞬間に生きていることすら重たすぎて、何かを深く考えることができなかった。

結局、休職間中給付が切れる前に、少し無理矢理気味にだけれど職場復帰して、私はぎりぎりでその時は生き残ったと思う。それ以来、地元のことを思い出すと吐いてしまうので、できるかぎり、頭の中から地元存在を消し去って生きてきた。もちろん実家にもほとんど帰った記憶はない。消し去った地元のうちには姉の存在も含まれていた。

実家はもうない。姉はどうしているのだろうと思うことはある。生きているのかどうかも分からない。いまも実家電話をかけようとしているのだろうか。もうつながらないと知ったとき、何かを思っただろうか。もちろん私にはなにもわからない。ただ、もう存在しない薄暗い居間で、電気もつけずに母が、おそらく電話をそれとなく待ちながら片づけなどしている姿を、いまでもそうあるものとして、ふっと思い出してしまうことがある。

2021-06-07

スーファミ本体なかったのになぜか「遙かなるオーガスタ」のカセットだけあった

両親ともゴルフやらないしおそらく興味ない。

64とプレステはあったけどスーファミはなかった。

しかしなぜか居間にあった箪笥の引き出しを開けると「遙かなるオーガスタ」のカセットがあり、赤い文字が今でも目に焼き付いている。

あれは一体誰のものだったんだろう。

2021-06-05

休日家事を手伝わないことで妻がイラついていた

休日、大体7-8時くらいに朝起きて自分の部屋で本読んでることが多い。

妻は9-10時くらいに起きてきて、そのご洗濯とか掃除とかしてる。


居間にいても邪魔かなという思いもあり、妻の家事がひと段落するまでまって

その後居間に移動してたんだけど、先日妻にその行動が感じが悪くてむかつく、とキレられた。


曰く、私が忙しいのにその間は我関せずみたいな感じで、全部終わったらのそのそ出てくるのが

イラつく、ということだった。


個人的には寝耳に水でちょっと衝撃的だった。というのも洗濯して、掃除機をかける作業

そんなに大変なものだと思っていなかったからだ。(なお、子供なしで妻は専業主婦)

妻のペースでやりたい部分もあるだろうし、勝手に俺が掃除機かけたりしたら仕事奪ってるみたいで逆に嫌味かな、

くらいに思っていた(この点を想像でかんがえてたのが俺の過ち)




しかし妻にとっては一仕事で、自分が頑張ってるときに無関心の夫に腹が立つ、ということなんだと思う。

不機嫌の原因になるならこれから全部俺がやるよ、と言おうとも思ったがそれはそれで感情を逆なでしそうなので

いうのはやめた。


善し悪しの問題でなくて、人のキャパティはそれぞれだから、一方が大したことないと思っても

一方にとっては大きな負担だったりすることがあるんだなと考えさせられた。

2021-06-01

男好き、女好きキモい

自分は潔癖じゃないが

明らかに容姿で反応を変える男女がどうしてもキモい

あのキモさ何だろうな

飲みの席とかなら良いんだろうと思う

仕事環境でやられると、例えるなら居間に流れてるAVみたいなキモさがある

2021-05-24

おいしいクッキー

引っ越し先にローカルスーパーがある。どれも新鮮でお惣菜もおいしくて助かっている。既製品もチェーンの商店とは品揃えが違って、日常の小さな楽しみだ。

お菓子コーナーのレトロパッケージクッキーを、何の気なしに買ってみた。これがなんだかとてもおいしい。ちょっとびっくりした。

中身だけ別の箱に詰めたら贈答用にもなりそうなのに、スーパーで買う日常お菓子の値段。 12 枚で 300 円弱だったかな。身近な人にあげたくなったが、それはためらわれる程に古めかしいパッケージだ。紅茶よりは湯呑みの緑茶のお供にしたい佇まい。

おいしいから、 1, 2 枚でちゃんとしたものを食べた感じがあって、ずいぶんと長い期間を楽しませてもらった。さっき最後の 1 枚を食べて、どこのメーカーなのだろうと会社名を探す。

株式会社おいしい」お、おう…。おいしかったです。

製造者の方の「湘南クッキー」で探すと、ファンは多く居るが売っている場所が限られているようだ。在庫が無くなるとそれきりとなってしまうことも多いスーパーだけれど、また買えるといいなあ。

書きながらパッケージを眺めていると、おばあちゃんが生きていた頃の実家居間とか、元気な魚屋さんがいた今はもう無いスーパーとか、今まであまり思い出さなかった情景がふっと浮かんできて、なんだか鼻の奥がツンとしたりもした。

(書き忘れていたが、なんで分かったのだろう。枚数と値段だろうか。はい株式会社おいしいのスリアーモンドクッキーです)

2021-05-17

anond:20210517074930

失業した居間では、女すら見たくねぇ、とりあえず再就職までおんなはいい。それが男

2021-05-11

まれ境遇しんどい

 高校に入ったあたりからようやく露見した私の頭の悪さとか、ただのうっかりでは済まされないくらいのだらしなさとか、そういうのから目を逸らしたくて鬱のふりをしてたら成績がガタ落ちして地元私立大学に進学した。高校入学を機に“親ローン”で買ったロードバイクはたまに使うくらいで、普段居間に繋がった和室で埃をかぶっている。それなりに勉強はしているつもりだけど、気を抜いたら課題をすっぽかして留年するんじゃないかみたいな不安で心がいっぱいになって、それで課題も手がつかない。馬鹿じゃないのって感じだけどマジでストレスを感じている。

 最近ほんとうに生きるのが辛い。不自由なく暮らし学校では周りのバカさ加減に辟易して、家に帰れば疲れ切った母を眺めながらTwitterしたりご飯を食べたりしてて、公然と不幸を嘆いたりできないことに息苦しさを感じてふと死にたくなったりする。疲れたからタクシーで帰ろうみたいな感じかもしれない。親を愛しているはずだし向こうもそのつもりだと思うけれど、自己愛が足りないとかうまく認識できてないとかで全部が台無しになっている。

 あと孤独を感じる。友達はいない。一人もいない。小学から10年くらいの付き合いになる(中学でありがたくも学習塾に通わせていただいてたら再開した)おにゃのこLINEしたりするけど、常に向こうからしかけてきて向こうからおやすみ挨拶がくる。おれは相手との距離を測りかねてて自分からしかけられないし、彼女に抱いている好意も「唯一付き合いがある同年代人間」とか「10年来の知人」とか、そういうタグに対する執着なのかもしれないし重すぎてキモがられそうだから恋愛成就など夢のまた夢に過ぎないのだと思う。

 とにかく、家族団欒の中だろうと携帯に照らされた布団の中だろうとこの孤独感が全てを台無しにする。それだって日々の生活からようやくほじくり返して見つけ出したちょろい悩みみたいで人に吐露できるものでもない。ちっぽけなTwitterでさえ真面目なトーンでは話せないくらい。

 異常独身男性ってこういう人間ちょっと煮詰めた感じなの? 親が死んだらとうとうダメになって風呂桶で煮こごりになったりするのかもしれない

2021-05-08

動画配信サービスが苦手

タブレットとかで見る映画が苦手だ。集中できない。

映画を見れないわけじゃない。この間のエヴァを見に行ったときは長時間であるにもかかわらず、かなり没入していた。

けれどあれは映画館パワーがすごいからでもある。真っ暗な中で大音量と大画面、椅子に座り身動きの取りづらく他の行動を取らせず、映画に集中させるための取り組みがしっかり出来上がっている。

タブレットはだめだ。持ち運びできるし、トイレでも居間でも何なら外でも映画が見れる。その自由度が駄目なのだ。たやす目線を外し、ちょっと思ったことをそのタブレットで調べたり、ジュースを取りに行ったりできる。誘惑が多すぎる。逆に通勤時間中のほうが身動きが取れない分集中できるまである(ただたいてい眠いので無理)。

専用の部屋を設けるなり、でかいテレビを買うなりすればいいのだろうけれど、そこまでして映画を見たいタイプ人種ではない。

とはいえそうして自分を甘やかし続けてきた結果、最近は1時間ドラマや30分アニメすらまともに見れなくなりつつある。目を離すことを許されたゆるいバラエティ系のYoutube動画を横で流して過ごしているような有様だ。

何か低予算でなんとかできる手段があれば教えてほしい。

2021-05-03

テレビが主役でない家庭で

思い返せば、ちょっとまえは自宅の娯楽の王様テレビで、家族暮らしいたころは、テレビのある部屋に集まって過ごしていた。見たい番組がなくても、とりあえずそこに集合していた。誰かのお目当ての番組を一緒に見たり、ただただ流されている番組を見たりしていた。

配信が主流となった今は、みな、自身デバイスで見るから、どこかにまらない。テレビを一緒に見るのが相当特別な過ごし方になったように感じる。それも録画を見るのではなく、放送を一緒に見る。最後にそれを経験したのはいつだろうか。

テレビ番組はまず録画してしまう。配信で見られればもっといい。見られなかった番組は、それで終わりだ。それを見ようと努力しない。次から次へと見たい動画がある。少々の見逃しは、見逃しの山に埋もれてゆく。見逃したな、と思うだけで終わる。

テレビ番組特番、長い番組も見ていられなくなった。録画する気にもならない。

そんなにテレビ番組をみない。twitterトレンドになってるのをみると、関連ツイートをみて満足する。大勢で長時間収録して、編集したテレビ番組の見たい部分は一瞬だ。もしくは、その感想文を読むだけで満足できる。

今は居間がないんだ。という、ダジャレタイトルにしようとしてやめた。

子供の頃、居間テレビ11PMとかトゥナイトを一番小さい音声で観ていると、

なぜか寝たはずの親が居間のドアを開ける不思議

2021-04-30

「本当にひどい宿なんです。僕は今、訴訟しようと思って通ってるんですよ」

私は彼にこの民宿のひどさを見せてもらうために連れて来られたらしかった。この民宿の部屋のひとつひとつ昔ながらの昭和っぽい台所と畳の居間と狭い風呂がついていた。部屋の風呂以外にも一階には温泉があり、食事のための大広間があった。

しかにひどい部屋だった。掃除はもう何年もされていないようで、台所食器棚には宿泊客が置いていったのであろうインスタントコーヒーの瓶には、指先ほどの深さの真っ黒に沈んだ粉とともに、何故か水が入れられたのか瓶の半分ほどの嵩まで水が溜まっていた。台所シンクは水が流れず、ワカメがたくさん漂っていた。私はここに居るのがゾッとしてきたのだった。

風呂場は小さく狭かった。濡れた床に足を置くと、ぬめりなんてないのにぬめりが足につく妄想がどんどん肥大していってしまって、足のつま先をぎゅっと丸めた。

「だから僕はこうやって証拠を集めているんです」

そう言う彼の表情はなんだか活き活きとしていた。

すると、部屋のドアが勝手に開いて、おばあさんがなにか喧嘩腰に彼に話しかけていた。私にはよくきこえなかったが、彼らの話し方はおおよそ宿の女将と客の会話とは思えない喋り方で、さながら親子喧嘩のようだった。


私は目が覚めると、もう朝だった。

朝は朝食を食べた後、10時にはチェックアウトしなければならない。私は、玄関カウンター食事のための大広間が一体になった一階へ足を運んだ。

大広間には、畳の床が一段少し床が高くなっていて、古びた定食屋のように小さなブラウン管テレビ天井付近に設置されていた。

今日チェックアウトなんですが」

私がそう言うと、チェックアウトの準備をすすめるとともに朝食を案内してくれた。

この旅館の不潔感からして食事をとるのは気が引けたが、朝食は意外にも美味しそうな見た目だった。

大広間には、想像に反して若者が多くいた。私は朝食の後に温泉に入ろうと思って、浴場を下見しようと思った。すると向かう途中の縁側にも若者がたむろしていた。そこには私を連れてきた男も駄弁っていた。

「ほんと、この宿最悪だったでしょ?」彼は私に気づいて話しかけてきた。

「俺、奢るから

「この宿いくらなんですか?」

「一泊、二万円」

その値段の高さに私は驚いたが、彼が平然とその値段を言うのと、仲間たちと楽しそうに歓談するのをみて、私は驚いていないふりをした。

彼はまだしばらく連泊するようだった。

宿をあとにすると、あまり親しくなかった同じサークルだった後輩の大学生たちがバイクでこの宿にきていた。

どうやらこの宿は若者に人気らしかった。

2021-04-28

首を吊ってる母親を、自分の手でドアから降ろした話。

これも結構前の話になる。

「そういえばあの時、どんな気持ちだったっけ?」と思い返す機会があったので、折角なので文字に書き残しておきたい。

そうすれば胸に落ちるものも、もしかしたらだけど多少はあるんじゃないのかな?って感じで。

内容が内容なので、少し長くなるかもしれないけど、お暇な方がいらっしゃいましたら読んでやってください。

あんまり仔細に年月日を狭めすぎるとアレなので、時期は今から7年ほど前。

ちょうど今のような、若干寒さも落ち着いてきたかな?ってぐらいの春頃のお話だと思って下さい。

当時の俺は大学入学したての、ピカピカの一年生でした。

兄の方がとても優秀だったんで、随分と見劣りはするけれど、俺の通っていた高校レベルからすれば「まあ頑張ったんじゃないの?」程度の大学へと入学

その筋のマニアには結構有名な、二郎インスパイアの名店が近くにある登り坂の長い大学ですね。

あれは本当に数少ない良い思い出です。メチャメチャ美味かったな。店狭いし、オッサン怖いし、汚いけど。

オススメは小ラーメン・麺少なめ・ニンニクマシ・アブラシマシです。

しか高校まではチャリ通で10分だったところが、電車を乗り継いで1時間半になったのは本当によくなかった。

職場学校は、絶対に自宅から近い場所を選びましょう。近い場所にないのなら、あなた引っ越ししまいましょう。(経験則

そんなこんなで深夜までゲームやらアニメうつつを抜かしては、中途半端時間に目覚めて、一限は余裕でアウト。

気付いた母親に叩き起こされて、仕方なく起床。もそもそと着替えて、遅刻前提の移動。

それで素直に大学まで向かえばいいものを、「途中で行くのも面倒くせえな」と地元カラオケで朝割フリータイムしてたり、本屋立ち読みしてたり。

入学当初からそんなんだから、とにかく授業内容は良く分からないし、眠くて眠くて仕方なかった。

何よりも人見知りだったもんで、良くも悪くも自由大学形式の授業とサークル活動に、いまいち馴染めずにいた。

大学は少中高と違って、能動的に働きかけないと友達はできないもんなんです。あの頃の俺に教えてやりたい。本当に。

夢見ていた大学生活は、俺にとってはただの眠気との闘いに成り代わっていたのである……。

そんなんで仲の良い友達全然いないもんだから、授業サボりまくって、図書施設ビデオ設備で「ロード・オブ・ザ・リング」とか「戦場のピアニスト」とか見てたな。

いや、完全に余談でした。すみません

とにかく、こんなカスの具現化みたいな大学生活を送らないよう、新入生の皆さんは頑張ってください。

話を戻します。

俺が小学校に上がるぐらいの前に、うちの母親は一度離婚している。だから俺は種親の顔をほとんど覚えていない。

自分ママとパパと話すけど、ふたり全然しゃべらないなぁ」とか「やたらと関西実家に行ったり、親戚の子がうちに来るのはなんでだろ?」とか。

そんなことを子供ながらに思ってたんだけど、今思い返せばそういうことだったんだと。

そんなこんなで気付いたら第一父親が消えて、俺が小学校二年生ぐらいの時に、新しい父親が来た。

第二の父親は、俺は子供ながらに「良い人」だと思った。

そりゃ向こうも腹を据えて、血の通ってない兄弟二人を抱えるわけだから、多少の上っ面は確保してくるには違いないんだけど。

一緒にお風呂に入れてもらったことが嬉しかったのを覚えてる。そんな第二のお父さんの背中には、ご立派な龍のモンモンが彫られていたけど。

仮初でも、その人は優しくて良い人で、色んな場所に連れていってくれたりした。なんかホテルが多かったな。海ほたるとかもよく連れていってもらった。

多分これまでの人生25年、その人が来てからの数年が一番幸せだったんじゃないかな?

中学に上がる前ぐらいの、それぐらいの間。ホント幸せだったと思う。ボンボンボンボンで、当時Xbox360COD4ネット対戦してたの俺だけちゃうレベルで。

母親も、その時が一番楽しかったんじゃないかな?

俺も兄貴母親父親も、心から「家族」を感じてた最後の瞬間だったと思う。

で、俺が中学に上がった頃に、第二の父親が手掛けていた事業が一気に傾いてしまったと。

これは直接見たわけでもなんでもないけど、父親の元同僚の方に聞いた話なんで、間違いないことだと思います

首の回らないレベル借金も抱えることになったと。

そっからの酒乱っぷりたるや本当に凄くて、中学生ぐらいになると俺も兄貴も(特に俺は)夜更かしをするようになってるから

ベロンベロン状態で帰ってきた泥酔親父に、子供相手に何を言い出すねんみたいな絡み方をされだして。

うわぁ、イヤやな……って、毎日夜になる度に鬱になってたのを思い返します。寝てたら寝てたで起こしにくるし。逃げようないやん。

そんな紆余曲折を経る中で、第二の親父が俺に放った言葉

「お前なんて、オレの本当の子供じゃねえんだからな?」

この一言が本当に忘れられなかった。シグルイのあの人ばりに、(この傷は二度と戻らんな)と泣きながら感じたのを覚えてます

しかもこれ確か、母親の目の前だった気がするんですよ。なんか二人で揉めてて、俺が仲裁に入るじゃないけど、間に入ろうとしたらこうなったみたいな。

酔うと貯め込んだ本質が出るタイプの人っているじゃないですか。つまりはそういうことだったんだな、と。

それ以降、父親と心を通わすことは一切なくなった。もちろん話したりってことはあるけど、他人みたいなことで。

そんなこんなで、それでも気付いたら中学生になって、高校生になって。

第二の父親は家からはいなくなって、お金だけを入れながら、たまに連絡を取るぐらいの関係になって。

こっからはもう蛇足なんで、ちょっと飛ばし飛ばし

小中校まではすごい楽しかったんですよ。面白い友達もいたし。なんで急に大学ダメになったのか、不思議だなぁ。

母子家庭あんまり余裕のある生活じゃないけど、塾にも行かせてもらって、奨学金も出る。

大学にも行けるんだと思えば、ちょっとぐらいの家庭内のゴチャゴチャがあるぐらいで不幸ぶんなよ、俺よりひどいやつなんて山ほどおるぞと自分自分を戒めたりもして。

そして母親の様子がおかしくなりだしたのは、このあたりだったと思います。ちょうど俺が大学受験を終えたぐらいの時分。

深夜、お腹すいたなーと思ってリビングに行くと、母親ワインと大き目なビニール袋みたいなんを用意してて、一人で黙々と飲んでて。

で、ちょっとなんか変な感じがして、母親の目から。据わってるって言えばいいのかな。とにかく、明らかに普通じゃないけど、普通を装うとしているのが伝わってくるような、そんな感じで。

無言でいるのも変なので、「なにこれワイン?家での飲んでるの珍しいね、いいやつなの?」みたいなことを訊いた覚えがあります

うちは父親の件もあったので、母親とはすごく仲良しだったから。

思い返せば、極度のマザコンだったんだと思います特に兄貴が遠方の大学にいってからは、実家には俺と母親の二人だけだったから。

とにかく変な雰囲気だったから、「お酒家で飲むの初めて見たかも!俺もひとくちもらおっかなぁ」みたいな、おどけてなんとかしようみたいなムーブをした記憶があります

「いいよいいよ。飲んでみな」と、母親が余裕で許可をくれたことも結構意外でした。酔ってたのかな?分かんないけど。

ド深夜、テーブルライトだけつけたリビングの机、ワイングラス、謎の大きなビニール袋。

なんかすげえヤバイことになってんのかな?と。

なんでだろう、このあたりから薄々感じ取り始めたというか、そんな気がしました。今までにこんなことなかったよな?って。

そして寝て起きたら、横に母親がへたりこんでるんです。体育座りを右斜めに崩したみたいな恰好で。

俺は一瞬、本気で死んでると思った。でも慌てて抱き付いたら、ちゃんと体温も呼吸もしてたので、本気で安心したのを覚えてます

えっえっ?ってなって、どうしたん?って聞いたら「いや、ちょっと……」みたいなことで、手元を見たらスカーフ?とハンカチを束ねて作ったような、首吊り用の縄?があって。

正直ワインときから厭な予感はしてたから、メチャクチャ驚いたし、なんで?ってなった。

「それはだめだって、それだけはだめだよ。これからどうすんの?」って泣きながら問い詰めた記憶があります

人間、本当に近しい人であれば、ちょっとした行動から、「なんとなく自殺しそうだ」というのが分かるものなんだって思いました。

マジでここらへんの記憶が、ずっと頭からこびりついて離れない。身体を下ろした時よりもキツかったかもしれない。

未だに良く分からない。要するに母親は、部屋のドアノブに縄を引っかけて、首吊り自殺をしようとしたんだと。

しかも俺の部屋のドアノブだった。誰のだったらいい、ということじゃないけど。この時には、兄貴はとっくに外に出ていたはずなのに。

首元を見たら、真っ赤っていうか、うっ血したようなアザになっていて、「失敗しちゃった」みたいなことを半笑い、作り笑いで言っていたような記憶があります

未だに後悔しています

あれだけ明確に希死念慮を見せていたにも関わらず、なにもできなかった。

母親がこのとき、俺に助けを求めていたのかは分からない。あるいは本当のショックを与える前に、「私は死ぬからね」という予告をしたのかも分からない。

兄にも周囲にも連絡をしなかった自分の愚かしさ。せめて身内だけには言うべきだった。

でも、言ってもどうにもならないんじゃないか、言われた側に負担を強いるだけになるんじゃないかと、どこかで想ってしまっていたのも事実です。

母親自殺をするかもしれない。どうか助けて下さい。」この言葉を俺はいったい誰に伝えればよかったのか、いまでもわからない。

救い方があるとしたら、それは俺がどれだけ母親が好きで、愛していて、感謝しているかということを、心変わりするまで何度でもいうことしかなかったんじゃないかと。

ある日、大学に行った。四月の上旬。はっきりと覚えてる。

ちょっと早めに授業が終わったのか?サボったのか。正直どっちでもいいけど、俺は家に帰った。

なんだかすごい胸騒ぎがしてた。兄も俺も家にはいない。家にいるのは母親だけ。

ただいまとドアを開けた瞬間、やはり自分の部屋の前で、足元に椅子を置いて、スカーフで作った縄を首にかけて、うなだれて扉にもたれかかる母親を見つけた。

凄まじい衝撃と同時に、「やっぱりこうなった」とどこかで思う自分がいた。

首にかけているスカーフ素手では取れなかったので、キッチンからハサミを持ってきて、片方の刃で切り落とした。

抱き抱えた母親身体は、思い返せば想像よりもずっと軽かった。

「誰か、誰か助けてください」と今までにいったことのような言葉を金切り声で叫びながら、居間の上にあおむけにさせて寝かせた。

そして震える指でスマホをうって、まず兄にコールした。

兄は大学二年生で、本来なら学生寮にいたはず。この日はたまたま里帰りをしてきて、何かを読みに本屋にいってくるといっていた記憶がある。

しかすると母親は、この日を待っていたのかもしれない。兄弟が揃う日じゃないと死ねないと思ったのか。分からない。

ママが首を吊ってた。いま俺が下ろしたけど、意識がない。救急に連絡するから、すぐに帰ってきてほしい」

と言って、すぐに電話を切った。兄は「わかった」とだけ言っていたような気がする。

家の場所を伝えて、どうか助けてくださいというと、すぐに救急車と救助隊の方々が来た。

俺は人命救助の方法とかがまったく分からなくて、もしかすると心肺蘇生とか、胸骨圧迫とか、本当はいろいろなやりかたがあって、

待っている間にそれができていれば、母親を助けられたんじゃないかと思う。

でも本当に現実現実として受け止められてなかった。頭がヘンに冷静だったのは、「こんなことになったけど、きっと助かるよな」と無根拠に信じ込んでいたからだと思う。

ここではどうにもならないから、と救急車に乗り込んだ。

ハサミで深く切った指から血が流れていることに気付いた。痛みはまったく感じなかった。

俺「こんなんなっちゃったな」

兄「俺、これからどんな顔して顔あわせればいいかわかんないわ」

俺「そうだなぁ」

こんな会話を、兄弟で悠長に会話していたのをハッキリと覚えています

ここまではすごくハッキリ覚えているのに、ここから先があいまいなのが不思議で、不思議で。

確か夜の病棟に運ばれて、「自意識が戻る可能性はない」と言われたこと以外は、実はほとんど覚えてないんです。

翌日の病室の面会で、意識のない母親を前に過呼吸になるぐらいに泣いてしまたことを覚えてます

そして「自意識が戻る可能性はありませんが医療を続けますか?」というような旨を医師の方に伝えられて、「もういいです」と伝えたことは覚えてます

そしてずっと病院に居るわけにもいかいから、家に戻って、母親のいない家で過ごして。

三日後か四日後、電話の連絡で「お母さんは亡くなりました」と同僚の方から連絡をいただきました。

母親の死に目に会わなかったのは、自分にとって幸運だったのか、不運だったのか、未だに分からずにいます

からない、本当に今でもわかりません。

あのワインの日から自分に何が出来たかをずっと考えています

間違いなくサインとなっていたあの日ちょっとでも行動を起こす勇気自分にあったのなら、もしかすると母親は今も生きていたのかと。

2021-04-22

壁を塗るか壁紙を貼る

玄関の床を貼る(上から。痛んでいるので)

玄関の庇の後の塗装★

テラス屋根をつける工事

押入れの襖を、プラダン張ってその上に壁紙を貼るなどする

(前に分解してふちの木の部分にプライマー、+ペンキ)

二階の部屋の壁をどうするか。

キッチンの床を貼る(上から

居間の網戸をつくる

玄関横の洋間の壁を貼るか塗る

玄関の横の洋間の床を貼る(上から

二回押し入れの収納スペースを作る

階段上の天井を貼りなおす

玄関天井を貼りなおす

トイレの壁を塗る

タイルをなんとかする

都市ガスにするかオール電化にするか

玄関ポーチ石畳など貼れたらはる

エアコン夏までにつける

CDや本を売る

着物の類を売る

父と母の位牌

父の遺骨、

本山納骨に行きたいけど自粛どうなる

★部分は

プロに依頼中

身体を治すのはこのあと

🐈)))大丈夫からね。出来るはず。

2021-04-19

隣の部屋の足音が気になる。

隣の部屋の足音だとか、ドアをバタンと閉める音だとかが気になってしょうがない

うちのアパート路線の近くに建ってるから電車の音も聞こえてくるのだが、それは別に気にならない…

足音は、ネットに転がっているような揉め事の目を覚ますレベル騒音でもない

大家に言うほどでもない、のかも・・・しれないけど気になる

1Kの狭い部屋で何をそんなに歩き回るのだ・・・

前の住人は静かでよかったなあ。

また足音が聞こえるなあ。

この低音で響く感じ、かかとで着地してるんだろうなあ…

それにしたってドゥンドゥンドゥン・・・って鳴らさなくてもいいじゃない・・・もう少しゆっくり着地しておくれよ

ドウンドゥンドゥン…今度はキッチンに移動したのかな

ドゥンドゥンドゥン…居間に戻ってきたのかな

音がしなくなった、死んだかな?

 

 

 

 

ドゥンドゥンドゥン…

2021-04-06

育児ソフホーズする

女が出産したら父母子ともども「家族寮」に強制収容

各階に育児ルームがあり、24時間いつでもどんなときでも預けられる(ただし三日連続24H預けたら里親制度適用、外部への養子手続き可能となる。捨て子も安心

女は出産一か月後から強制労働、男はいわずもがな

食堂ではチケット制の食事が一日三食提供居住者料理と洗い物なし、そこそこ旨い和洋中の病院食みたいなメニューから好きなものが食える

大浴場では男女に別れて入浴、ときどき温泉の素が入ってる

家族寮で過ごす大人子供はみんなタイプが同じダサい長袖ワンピースを着る。男もスカート

ダサいワンピースを中心にコーデするよう誘導し、特殊素材服のオシャレは阻止する。みんなダサい。ぽんぽんついた三角ダサい帽子支給される。

洗濯物はランドリー袋に入れておけば毎朝回収してくれる、夜になったら洗濯後のランドリー袋が置配箱に入ってる。パンツも洗ってくれる。

居住部屋は洗面台と簡易シャワー室とトイレ付きの2LD(台所なし。料理したければ居間オーブンレンジか卓上コンロかホットプレート使え)

まるで和室ビジネスホテルのような我が家子供が五歳になるまで強制収容される。

食事(買い物、料理食器洗い)、入浴(風呂掃除)、育児を大幅に削減し、みんながハッピーになれる育児ソフホーズ

2021-04-05

anond:20210405143006

ブレーカーがおちてたっぽいw

なぜか東京行く前と行って帰ってからの配線が変で

前と違ってて。

キッチン単独、私の部屋も単独のはずだったのに

何故か手前の部屋とキッチン居間電気配線が同じに???

どうしてこうなってるの

これを避けるための増設だったのに。

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