はてなキーワード: 家事労働とは
大筋では同意できるのだが、一部に???となる内容が入ってる。
でも男性は稼げなければ家事・育児・介護・メンタルケアができても結婚できないし、結婚できたとしても遺族年金など主婦と比べて主夫は差別されている。
これはフェミも当然批判をしている。してないとしたらそれは偽物。特に主夫への差別についてはまともなフェミならみんな怒ってる。過去、主婦のアンペイドワークとされてきた労働への社会的な評価がない、というのはむしろフェミニズムの初期から言われてきたことでもある。
これもまともなフェミなら男性にも門戸を開けと言ってる。狂ったようにペド扱いしてるのはむしろ「もっぱら家事労働をしてる女」と「フェミの仮面をかぶったミサンドリスト」だ。男が「旧家事労働」に参入するにあたって一番大きな反対勢力は「専業主婦的な一群の女性」であって、フェミニストとは逆のタイプの女。
増田はくくりが雑すぎる。
「家事労働、対価」で検索すると、例えば26万という数字が出てくるんだ。
https://wryyy.jp/shirogane/kajiroudou-ikura/
炊事: 1,163円 × 3時間 = 3,489円
買物: 1,141円 × 1時間 = 1,141円
(1日合計)16,295円
時給はともかく、毎日の炊事に3時間て時間かけ過ぎじゃないかな。
例えば家事代行サービス頼んでみると、3時間で家族4人×3~4日分の作り置きをしてくれる。
つまり時間コストは3時間で3食×3~4日分=9~12分の1ぐらい。
「作りたてが云々」と言っても常備菜をうまく回せば、そんなに不満ない食事食べられるじゃない?
とても釈然としないんだけど。
そんなもん極限まで疲れさせてるからセックスしてくれないんだよ
嫁が冷蔵庫から野菜だの肉だの取り出し始めたらテーブルを片付けたり拭いたり皿を出したりする
飯が終わりそうだなってなって嫁が席を立ったら皿をシンクに持ってって洗う
スケジュールを把握して嫁の家事労働を半減させれば週3でセックスできるし嫁もニコニコ
多少稼ぎが少なくても嫁のほうから庇ってくれるようになる
でもそういう消費豚がオタクを自称することはなかったのよ。その主な理由はオタクが賤民であって自称する魅力も利益もなかったからなんだけどね。
そもそも中世から昭和に続く日本社会において、未成年は家の従属物(ソフトな表現)だったし、成人女性は家事労働提供者(ソフトな表現)だったし、成人男性は会社の奉公人(ソフトな表現)だった。この社会において自由の幅ってのは現代に比べて極めて少なく、特にそれは趣味分野において顕著だった。庶民が嗜んで白眼視されないものなんてのは、男性において飲む打つ買うとその後継だけだったし、パチンコなんてのはその最たるものだった。女性においては男性にもましてきつきつであり、かろうじて数種の習い事が芸として社会認知されてたかどうかくらい。書物を購入してそれを読み漁るなんてのは、金持ちの道楽であり、庶民の間ではむしろ唾棄すべき軟弱さの現れとみなされていたふしがある。まあ、だからこそ与謝野晶子あたりの明星派などによる「既存の価値観への抵抗」としてのそれがあったわけだけど。
高度成長期を経て70年代から急速に文物が発展して、今現在趣味と呼ばれる文化が爆発的に多様化した。多様化した以上に「余暇に個々人が己の興味のあることをして過ごすのは当然の自由であり権利である」という認識が一般化した。テレビ文化がひろまって、ヒッピームーブメントの余波から洋楽ブームが来て、ニューエイジ思想からオカルトブーム、UFO!心霊写真! そしてフジテレビとホイチョイが結婚してユーミンがウィンタースポーツブームを生んで、広瀬香美とチューチュートレインが若者を苗場に連れ出した。
の、だけど、そんなに主体的に生きてる人間ばっかじゃないのよな。増田の言うとおり。結局現在、「ソシャゲと深夜のアニメとネットの炎上案件に対するコメントで時間を潰している、オタクを自称している(下手したら自分自身ですらそう信じ込んでいる)人々」ってのは、昭和中後期で言えば「パチンコやって飲み屋で愚痴言ってる箸にも棒にも引っかからないおっさんたち」だったわけよ。別段彼らはそれが好きでやってるわけではなく、「受け身で流されて適度に脳内麻薬がチョロチョロ出る余暇の消費」としてそこに流れ着いただけで、最初から徹頭徹尾ただの消費者であって、オタクでも何でもなかった。多分当時であったとしたって、パチンコや博打や酒が本当にそこまで好きだったかどうか疑わしい。そういうふわっとした人々が社会の大多数だったってのは、当時も今も変わらない。
どちらかというと「社会人は全員そういうもん(休日はパチンコするくらいしかない消費者)だろ」っていう同調圧力がなくなり「余暇は自由選択」になっちゃった結果、それが可視化されただけにすぎない。そのうえ「社会人は全員そういうもんだろ」っていうのは同調圧力である以上に、大多数にとっては劣等感を刺激しないカバーストーリーでもあったっていうのが問題で、いまのこの日本の現代社会は「余暇の過ごし方」でさえも階級があるってのが、多分きつい。
あまりはっきりとは指摘されないけれど、「何ら主体的な趣味を持たない人間」ってのはやはりいまの社会では軽んじられる。一回級下の存在だと現在みなされるんだよ。それこそ「オタクであるほうがまだマシ」と考えるほどに。
だから「(絵が好きなわけでも今まで描いてきたわけでも強い動機がなんにもないにも関わらず)絵が掛けるようにな(って賞賛を受けるようにな)りたいな」なんてボヤキがWebにあふれる。
べつに「何ら主体的な趣味を持たない」って罪でもなんでもないのにね。前述の戦後から高度成長期にかけて、そんな人々は、社会に出て飲む打つ買うを一巡経験したら、すぐさま「どうやったら異性に興味を持ってもらえるかレース」に回収されて、あまり悩む間もなく半強制的に結婚させられ、身体に異常でもない限り速やかに子供ができて、子育てに忙殺されるというスケジュールに打ち込まれていた。そうすれば「主体的に趣味を持ってない」なんてことは遥か彼方にぶっ飛ばされて、問題意識すら持たないで済んだのにね(その後は、後輩や年少者に対して「結婚は社会人の義務だ」とか「子育てはいいぞ」ってマウンティングして余生をすごせた)。
社会の多くの人にとって、「個人のアイデンティティと紐付けられた強固な趣味に邁進する」人生の強要は苦痛だし、でもそれを拒否するにせよ趣味する余暇なく仕事を詰め込まれるのはもっと苦痛だ。多くの人にとっては自由が毒にしかなってない。そういう価値観の変遷に、オタクは巻き込まれちゃっただけなんだよね。
発生当時の時代状況と欧米の文化においては、まあ、意味はあった、のかなあ。そのへんは論者の評価によるけれど俺個人は意味があったと思うよ。
そもそものはなし欧米の文化のベースである一神教(ユダヤ、キリスト、イスラム)において、神は「父なる神」だし、イブはアダムから作られた劣化神造人間だし、ノア(男性)が家父長であり一族のリーダーだと神からはっきり示されてるわけ。つまり、文化の大前提として家父長制=男性優位社会がインストールされてるわけよ。アメリカ南部の教会ではつい最近まで「女性にはテレビとラジオを禁止しておけ、娯楽をあたえると家事をサボるようになる」とかそういう説教を牧師が言ってたとか、まあすげえわけ。
当時はリベラル・フェミニズムはもうすでにあったわけだけど、女性参政権程度じゃ、文化や宗教の制約(つまりは既存社会の慣習)が打破できなくて、そこで、血に飢えた狂戦士みたいなフェミソルジャーを戦線に投入して食い破らなければいつまでも家庭内家事奴隷だろみたいな思惑もあった。宗教的権威に対する挑戦であり、血まみれで戦わなきゃ一歩も前に進めねえので、そこでラディカル・フェミニズムなわけよ。「父権社会によって長い年月をかけて洗脳に近い刷り込みをされた女性は女性自身も気づかぬうちに搾取されてる」「全ては父権社会と権力勾配が悪である」「女性は無給家事労働者とか公的な娼婦として隷属化させられてる」あたりの思想で、「既存の男性主導文化そのものを打倒」しようとしたわけだ。その歴史的経緯を踏まえないと、ラディカル・フェミニズムは理解できないとおもう。
なんつうか、もうこの時点で天照が女神で天鈿女命がおっぱい揺らすとノコノコでてきちゃう日本民族的には理解しがたいのよな。とは言え、「俺には理解し難いんでお前らのやったことは全部無意味で無価値」とはいいたくないんで、だから前述の通り「個人的には意味があったと思うよ」なわけだけど。
だから、そういう状況で戦った女性はそれなりに道理もあれば正義もあったわけ。
上記のような宗教的抑圧の地獄で発達した過激思想を、現代の恵まれた(この恵まれたって言うのに和フェミの皆様方は噛み付くわけだけど、上の記述を見てそれが理解できないのは馬鹿だと思うのでもう話したくない)日本の女性社会において、ラディカル・フェミニズムってのはもう圧倒的に過剰で馬鹿げた思想なわけよ。でも、男性叩きの理論的背景には便利だから、遊び半分でネットのキチガイどもが振り回してるってわけ。
「夫が定年したら離婚を考えています。夫の年金って、妻が半分もらえるんですよね?」 https://precious.jp/articles/-/8510
あなたの価値観がどうであれ、世の価値観はこのような感じなのだ。これに反発を覚える男性は結婚に向いていない。幸い 結婚させようとする社会的な圧力は低下傾向にあり、家事労働も道具の発達で軽減されているので、生涯未婚という選択肢も十分現実的だ。かくいう私もその一人に挙げられる。
ミソジニーをこじらせるのも結構だが、価値観が対立する場面は 視野が広がるチャンスだ。少しだけ冷静になって自分の生き方・考え方をよい方向にできないかを考えよう。
「二人とも働いて、家事も半々で」みたいなノリは必ず破綻する。家事・育児に関連するあれこれを完全に半々にすることなんてできっこないからだ。「どっちかが得しないように全部半々。これで公平でしょ」という価値観は対立を生むだけだし、均衡する領域が非常に狭く、環境の変化に対して脆弱な かりそめの安定をもたらすだけだ。
そこで、二人の間で役割を決めるという発想になる。昭和的な価値観では「猛烈リーマンの夫&専業主婦の妻」という役割分担があり、最近の価値観では「共働き夫婦&家事育児を分担」という分担が一般的になっている。程度の差こそあれ、役割分担を選択するということは、数あるタスクへのコミットメント具合が夫婦間で異なることを意味する。「お金を稼ぐ」というタスクに対して夫が400万円のコミットメントをし、妻が200万円のコミットメントをするという事態は不当ではないのだ。同じく、「幼稚園児の送迎」というタスクに対して、夫が週 1回のコミットメントをし、妻が週 4回のコミットメントをするという事態は不当ではない。
タスクごとに夫婦間でコミットメント具合が異なることを受け入れ、安定した共同生活を営むために必要なことは何か?もちろん、不公平がないようコミットメントの総量が同程度になるよう調整することは大事だが、どうせ、そんなことはできっこない。一番大切なのは、お互いを信頼し、尊重することだ。「確かに俺の方が稼いでいるけど、奥さんはその分面倒な町内会の活動をやってくれているし、俺より生鮮食品を安く手に入れる術を持っている」とか、「夫は送り迎えをしてくれないけど、買い出しの際や終電を逃したときにすぐに車を出してくれる」とか。
それでは、このように、お互いを尊重することを阻害している要因はなんだろうか?そのうちの一つとして、価値観の狭さがあげられよう。自分のコミットを過大評価し、相手のコミットを過小評価する。「俺は稼いでやっているのに」とか「家事の大変さがわかってないでしょ」などの典型的な夫婦喧嘩はこれに起因する。もちろん、価値観の近い相手をパートナーに選ぶことはこの問題を軽減させることに寄与するだろう。しかし、このズレは累積して破滅的な結末を迎えることも少なくない。
結局、謙虚な精神が必要なのだろう。「自分には価値が見いだせないがあの人は一生懸命やっている。きっと私にはまだ十分感じることができない価値があるのだろう。その判断を尊重して、今ある不満をぶつけるより事態の推移を見守ろう」。男性には結構独善的な人が多いので、いかに謙虚になれるかというのは一つのカギだろう。自分のモノサシを絶対化せずに、相手のモノサシの価値を認めるということだ。
あなたは幸せになる権利がある。だがその一方、幸せとは何かについて深く考えているだろうか?
日々の仕事に忙殺されると、「とりあえず金稼ぎたい。稼げれば幸せになれるっしょ。」「この金をどう使えば楽しいだろ。旅行?メシ?ゲーム?」といった短絡的な思考に陥りやすい。まあそれを否定するわけでもないが、その価値観いつまでも続けられる?とは問いたい。自分が幸せになるという課題に対してもう少しの熟慮してもよいとは思わないだろうか。そして、「普通の」人間にとって幸せな生活には結婚という家族形態が伴うことが多いのも事実だ。
あなた、本当に結婚しなくていいの?結婚をしなくて幸せになれますか?
私は、仕事が嫌いで、自分が一番頭がいいと思っていて、社会性を獲得しきれずにおり、お金が一番好きで、家事になんの価値も見出さず、子供が嫌いだ。若いころは性欲ドリブンで結婚をしようかと思ったこともあったが、30も半ばを過ぎて落ち着いた今は結婚をしていなくて本当に良かったと思っている(もし結婚していたら、相手も全く同じことを思っていただろう)。
だが、それとこれとは話が別だ。結婚に向いている男性というのは、同時に対人関係が良好な男性という側面もある。結婚しなくていーや、という単純な話ではなく、社会で上手くやっていくために、結婚に向いている価値観を身に着けたり、身に着いているフリをすることは大事だと強調したい。
まず、以下の記事を見てほしい。
https://togetter.com/li/1058347
タイトルは「男性にとって恋愛や結婚は、危険で割に合わない。でも、女と社会は、男性叩きだけ。こりゃ草食は続くしかない」。
面白いのは、【反男性差別を掲げ、恐らくはフェミニズムなど「今の女尊男卑社会」の悪しき慣習として唾棄するであろう彼の主張が、
その実、フェミニズムと非常に親和性の高いものである】ことだ。
当記事ではこの問題について、具体的な引用を交えながら考えてみることとしたい。
なお、このまとめで述べられている意見が、dsa0【男性差別が溢れてる2】 @dsa0自身のものなのか、あるいは別記事からの引用なのか、判断が付かなかった。
このまとめ自体はツイートを集めたものだが、ツイートの内容はどこかからの引用にも見えたからだ。
しかし、当記事では、これを統一して<彼>の意見と呼ばせてもらう。
便宜上の意味もあるが、これらの言葉が彼自身のものであるにしろ違うにしろ、今の社会で苦しむどこかの<彼>の主張ではあるのだろう、と考えたからだ。
では、内容に入りたい。
男のチキン化
命かけることができないわけ。
恐らくどこかの記事(元記事はURL失効のため参照不可)から引用したものであろうこの文言に対して、<彼>は以下のようにコメントしている。
恋愛離れ語るのに、【恋愛離れの原因になってる男性差別的な価値観】で考察してるアホ多すぎ。←これじゃ、恋愛離れなくなるわけないわ
<彼>は、「チキン化」した男性を「ホモみたいな男」と非難する価値観を、「男性差別的な価値観」と呼んでいる。
しかし、【「男はかくあるべき」という規範は、元来家父長的な価値観によって生み出されてきたものである】ことを忘れてはいないだろうか。
「女らしくあるべき」という束縛を破壊することは、「男らしくあるべき」という押し付けをも打ち砕くことである。
彼がまとめの中で嘆いている、男性の経済的負担に関しても、同じことが言える。
<彼>は、「男性の立場で言うとね 「女様様」の今の女尊男卑社会では、おっかなくて結婚なんてできない」と述べながら、結婚についてこう語っている。
・女に甲斐性ない
続けて、<彼>は女性にこう求める。
「お金のことは何とかなるよ」とか「一緒にがんばろうよ」とか言えば
男も少しは気が楽になるだろうに
<彼>の視点に、極端な部分や、視野の狭い部分があるのは事実である。被害妄想的な傾向も。女性が聞いて腹を立てても仕方がない内容だ。
しかし、「男も少しは気が楽になるだろうに」というぼやきは、<彼>の「負担や義務」の体感からくる切実なものではあるのだろう。
それは、耳を傾けられてよいように思う。
ただ、ひとつ言っておかなければならないことがある。
それは、<彼>の求める新たな男女関係の構築が、<彼>の今しているような【女性への非難】によっては到底実現されにくい、ということだ。
非難すべきは誰なのか?戦うべきは誰なのか?
このことを考えるにあたり、例によって、<彼>の言葉を参照したい。
<彼>はここで、「老害バカマッチョ」が己に「家畜奴隷になれ!」と命じる、と述べている。
彼に「奴隷」になることを強いているのは、「老害バカマッチョ」なのである。
とは、何か。
「マッチョ」のもつ意味については、この記事(http://y-uki.hatenablog.com/entry/2015/07/16/034652)がわかりやすい。
英語で ”macho な男性” と呼ばれるのは、昔ながらの ”男らしい” 価値観を重視する人たちで、
これが、フェミニズムの戦ってきた最大の敵であることは、特筆するまでもないことだろう。
「老害バカマッチョ」を、【旧態的な男尊女卑】として言い換えることが出来るならば、<彼>も、女性も、等しくその被害者である。
<彼>が、「おまえも結婚して、家畜奴隷になれ!」という台詞を、「老害バカマッチョ」に言わせたのは、的を射ている。
【家族を養うために男は外で働き、女は内で家事労働に励む、という仕組み】は、高度経済成長期に完成したという。
(ちなみに、この記述を私が見たのは平田厚『虐待と親子の文学史』(論創社)である。時代に伴う家族形態の変化と、その文学への反映を概観した良著。)
この仕組みは、既存の男性優位な価値観の延長線上にあったうえ、その価値観を強化するものであった。
<彼>は女性に対して、「「お金のことは何とかなるよ」とか「一緒にがんばろうよ」とか言」ってくれることを、求めていた。
「お金のこと」を「一緒にがんば」るためには、女性にも安定した収入源のあることが不可欠だ。
しかし、それを難しくしているのが、先に述べた構造である。【家族を養うために男は外で働き、女は内で家事労働に励む、という仕組み】だ。
この仕組みの後遺症は、未だに消えていない。男女間の賃金格差、管理職の割合の格差を見れば、それは事実として明らかだ。
その打開を目指すのが、男女平等思想であり、フェミニズムであった。
【<彼>の目指す「男性差別」の解消は、「女性差別」の解消によってしか実現され得ない】と言える。
また、【真の敵は、「老害バカマッチョ」、すなわち、旧態的な男尊女卑的価値観と構造】である、とも。
<彼>は反男性差別を掲げ、女性を非難している。しかし、抵抗すべき対象は他にある、と言いたい。
女性は、またフェミニストは、本来<彼>の同志なのだ。手を取り合って、ともに戦うべき仲間なのである。
インターネット上では、熾烈な男女対立の激化とともに、「フェミ」を巡る議論が後を絶たない。
匿名はてなを小一時間も見ていれば、その議論が実のところ非生産的な憎悪のぶつけ合いに陥りがちなことは、すぐ了解されるだろう。
今回取り上げたまとめも、一見、そういった動きのひとつ、単なる憎悪の噴出に見える。
私は『「育休世代」のジレンマ』でマッチョ志向の女性たちが一種「自縄自縛」に陥っていると指摘しましたが、これを「自業自得だろう」「ざまあみろ」とみる人も多いと思います。
でも、そうなることを見越せずにワナにはまっていった女性たちが多いのには、「男女共同参画」といいつつ、男も女も「男並み」になることを目指させてきたような時代の産物という面があると思っています。ケアを担う人の地位向上、竹信三恵子さんの『家事労働ハラスメント』で議論されているような無償労働の問題解決がなくては、真の「女性活躍推進」の歯車がまわっていくことはないでしょう。
いやこれ、「予想できなかった女の自業自得」とかそういうんじゃなくて、そもそも女の側がそうなるように望んで、実際お望み通りの結果になりましたってだけだろ
自分は稼いでて忙しい、でも結婚相手は自分以上に稼いでる男じゃないとイヤ、だったらその男だって自分以上に忙しくて、家事で支援なんかまともに期待できないのなんて当たり前の話じゃねーの?
だいたい、その程度の因果もわからないようなアホが、いったいどうやって社会でキャリアを築いていけるというのか
パワーカップルなんか志向してる時点で、最初からこうなるって全部予想してたに決まってんだろ
予想して、予想通りの結果になって、なのになぜか被害者ヅラまでしてやがる
すっとぼけてんじゃねえわ
特に人文系において、大学や研究を取り巻く環境が厳しいので、少し愚痴を書かせていただきたくお邪魔します。
* * *
研究生活が実生活、ことに家庭生活に対し極度の不安定性を与えることは、今日に始まったことではない。
例えばかの有名なマックス・ウェーバーによる1919年の講演の中では、「大学に職を奉ずるものの生活はすべて僥倖の支配下にある」と語られており、「精神的に打撃を受けることなくこうした境遇に堪ええたためしは極めて少ない」とまで言われている。
このような状況は、100年の時と洋の東西とを超えた今日の日本においても、同様である。むしろ、人口減少と学問に対する軽蔑——それはおそらく、ウェーバーが講演の中で強調した、学問がなんの「救い」も「啓示」ももたらさないということを、多くの人々が正しく認識したからに他ならないが——に直面している極東の島国の方が、研究生活を取り巻く環境は過酷であるといえるだろう。
博士号を取ったとしても多くの人々には就職先がなく、あっても有期雇用で、しかも低賃金であり、長期的な研究生活の途を描くことは全く不可能である。
日本より恵まれた研究環境を有する国、例えば博士課程から給与が出るアメリカや、高等教育がほぼ無償であるフランスの例を持ち出すことは簡単である。しかし、研究生活はその研究者が根ざしている言語、文化、あるいは人的ネットワークにある程度は依存せざるをえない。また、他国の研究環境は、一部だけを切り出せば外面的には羨望の的になりえるが、実際は、給与と引き換えに研究テーマの選択が制限されたり、あるいは無償で得られる研究環境には限りがあったりするのである。
当然のことながら、研究者における研究成果はそれぞれのおかれた研究生活の諸条件に左右されるのであり、それは資本的な制約を大きく受ける理工学系のみならず、人文系についてもそうなのである。
ハンナ・アーレントのように、生地での生活を根こそぎ奪われ、新天地で大きな研究成果を挙げる例もないわけではない。大学や官職への道を閉ざされてから活躍したカール・マルクス、そもそも学歴のなかったピエール・プルードンなども、偉大な思想家としてのちに崇められる存在である。しかしながら、すべての人が偉大な人、指導者のような人、あるいは預言者になることを目指して研究に励んでいるわけではない。実態はむしろ逆であり、陽が当たらない部屋で日がな一日、誰も読まないような古雑誌の1ページをどう解釈するかについて考え、その謎を解けた時に無常の喜びを感じる、そういう人が研究生活に入るのである。そのような、全くつまらないことこそ重要な研究成果なのであり、むしろ大きな社会的反響を呼び起こす御宣託が科学的な研究成果とは全く呼べないようなものであることは、ウェーバーの指摘するところであり、歴史が度々証明してくれたところでもある。いずれにせよ、研究生活とは社会的名声や富と全く関係がないどころか、資本主義社会ではしばしばそれらは相反するものとなるのである。
尤も研究者も所詮人間であるからして、研究そのものの「客観性」や科学の位置付けとは無関係に、それぞれの求める研究生活上のあり方というのは存在する。名声や富を求めて研究に取り組む人もいるのかもしれない。しかしそれは明らかに悪手だ。羽生名人でも挽回できないぐらいの悪手だと思う。
* * *
さて、反面、家庭生活はまさに「経済」の必要に駆られるところのものであり、十分な収入、定住可能な住居、そして可能な限り多くの家事労働(自動化が進んだとはいえなお労働集約的だ)が投入されて、初めて成り立つものである。
収入がないなどもっての外であり、亡命や収監、失踪や放浪なども、家庭生活とは相容れないものである。
歴史を顧みれば、自死や発狂、子捨て、虐殺に至るまで研究に身を置いた人々の末路は様々であるが、なんとかしてそのような事態は避けたいと誰しもが願うところであろう。
できれば平穏無事に、昭和時代に理想とされたライフスタイル、すなわち夫婦円満で子供と共にマイホームに住み、安定した立場で働き定年後は年金生活という人生を歩みたいところである(これは皮肉である)。
しかし今日の若き研究者は、子供はおろか結婚もままならず、マイホームもマイカーも持たず、年金制度の破綻を前に怯えながら年老いるのである。
もしあなたが結婚したとすれば、それはパートナーの全く寛大な心によるものか、パートナーが無知蒙昧で完全に誤った選択をしたかのいずれかであろう。
さらに子供がいるとすれば、当然あなたは研究生活を放棄するか、あるいはなんらかの安定した不労所得に拠って研究生活と家庭生活の両立を試みねばなるまい。(あるいは、あなたが非常に体制と時代に順応的な研究をなしていたとすれば、すでに十分な収入に恵まれているかもしれない。これこそウェーバーの言った「僥倖」である。そういう人には心から祝福を送ろう。願わくば同じような僥倖が数多の迷える研究者たちにあらんことを。)
多くの研究者たちにとって、結婚と出産は研究生活の首にかけられた縄である。
女性研究者の研究生活は性別的役割分業的発想や家庭生活に対する支援をパートナーから十分に得られないなどの理由によりすぐに縛り首になってしまうが、男性研究者の研究生活も同様に性別的役割分業的発想や金銭的支援をパートナーから十分に得られないことですぐにギロチンにかけられてしまう。
いずれにしろ、他者にとって金にならず有用性のわからない行為としての研究は、家庭生活に直面すると挫折する公算が大きいのである。
だからといって、家庭生活を全く否定してしまうことも困難である。穂積陳重以来日本の身分法学者は、日本国民の位置付けを次の三つの身分のいずれかあるいは複数に属するものと定義した。すなわち、夫婦、親子、親族である。
しかし、親が死に、結婚もせず、親族との紐帯も弱いとなれば、その人は社会的にも法律的にも、全く孤立した存在となってしまう。
その人は十分な社会保障の対象にならないことはもちろん、社会生活上の様々な面で制約や不利益を受けることとなる。
実際上の問題として、社会的要請として家庭生活に入ることを我々は求められており、多くの人はその生活が全く不幸であり耐え難く絶望的なものだと感じていたとしてもなお、家庭生活に甘んじているのである。
当然、研究をしていなければ家庭生活が楽になるとは全く言うことができない。しかし、少なくとも研究生活が家庭生活と激しく対立することであることは自明であることのように思われる。
あるいは「家庭」という理想像の崩壊、高齢者二人世帯や単身世帯、シングルマザーの増加、生涯独身者の増加などによって、家庭生活という名付け自体が空虚なものになっているという批判があるかもしれない。
しかし反面で、なお結婚と出産を経験する人は半数を占めており、「家庭」に代わるほど普遍化された結婚と出産を前提とした私的領域の生活のモデルはいまだに存在しないわけだから、やはり家庭生活という呼称を用い、特に若い研究者たちにとってはそれを重視せざるを得ない現状もあるのだ。
* * *
収入、定住、家事労働を求める家庭生活は、無収入、度々の転職と転居をもたらし、にもかかわらず時間の余裕を求める研究生活とは、完全かつ深刻に対立する。
では、この間の解決はどのようにしてもたらされるのか。非研究者であるパートナーの忍耐によってであろうか。あるいは研究生活の適度な抑制によってであろうか。
前者はこれまでの男性研究者がしばしば採用した方法であり、女性に人権がない時代であればよかったが、21世紀にもなってこの方法を採用しようと思っている人がいるなら、その人は妻を見つけることができないであろう。
後者の方法は、実際には採用し得ないものであり、つまりそれは相撲レスラーが炭水化物の摂取を控えるとか、プログラマーが1日3時間しかモニターを見ないようにするとかいう話であって、研究生活を「適度に抑制する」などということは単に研究生活の否定でしかない。
研究者はその人をして全的に研究に没頭せしめなければ、素晴らしい「霊感」を得られないものである。そうでなければ、特に人文学の研究においては、それは単なるジャーナリズムに陥るであろう。
そして、これもウェーバーと同じく声を大にして言いたいところであるが、そのような素晴らしい「霊感」、今日の言葉であれば「イノベーション」などというものは、研究のみならず仕事や様々な形の労働の中でも、それに没頭し専心していなければつかむことの能わざるものであり、行政府が旗をふって労働時間の長短や職業訓練の有無をいくら弁じ扇動しようとも、生まれてこないものなのである。
家事労働、ワークライフバランス、長時間労働の問題は、まさにこの没頭の可能性にあるのであり、特に家事労働は時間を細切れにしてしまうために人をして何かに没頭させることを妨げること大である。ワークライフバランスも、結局その目的とすることが明らかでないから低賃金かつやることのない中途半端な余暇をもたらすだけである。長時間労働を改善しても、人々が自ら欲するところのものに取り組めるような労働時間の設定でなければ、それが長かろうが短かろうが、人々の不満は変わらない。いくら労働時間が短いとしても過労死は起こりうるし、長く労働していても過労死しない場合があるのは、この理由によるのである。
とにかく、家庭生活の求めるものを根本的に否定しなければ、研究生活は成り立たないのである。
* * *
では、解決方法は何か。家庭生活の問題点は、それが夫婦という二者で成立するように想定されていることである。それゆえ、収入と定住を男性が支え、家事労働を女性が支えるという構図が出来上がった。
しかしこの想定は噴飯ものであり、シングルマザーは全て一人でやらざるを得ず、あるいは逆に親族からの支援で収入の不安が軽減されたり、実家を譲り受ければ定住も可能というように、家庭生活の諸条件の実現は夫婦という関係性の外部で決まっていることが多い。
もし家庭生活に関与してからも研究生活を継続するためには、家庭生活を成立するためのリソースを外部から調達することが最も望ましい。(逆にいえば、外部からのリソースが調達できなければ、ついにここで研究生活のお墓を立てるしかない。自分の研究というアイデンティティよ、さようなら、と。)
ただ、ここには二つの問題がある。一つは、リソースの調達先である。大川周明のように徳川家から調達したり、大杉栄のように政治家からぶんどってくることができれば最高だし、あるいは明治時代のように女中を置いたりできれば最高だが、なかなかそういうわけにはいかない。もう一つは、その調達が個人の能力に帰せられることで、研究の能力とは別にそれに取り組む環境が規定されてしまうということである。
この二つの問題を解決するためには、若い研究者同士で研究生活を支えるための生活ネットワークを構築するしかない。あるところには金がある人もいるだろう、あるところには手が余っている人もいるに違いない。
どうせ研究生活に勤しんでいる人以外に若い研究者に対して同情を寄せてくれる人はいないのである。
アカデメイアやリュケイオンがどうだったかはわからないが、古今東西大学に併設されている寮や大学街(カレッジ)では生活上でも学術上でも研究者のコミュニティが形成されていたはずだ。修道院のようなものである。
いま、若い研究者は官僚主義的な大学制度によって互いに分断され、地方に散住し、有能なものは国外へ出て行ってしまっている。もう最後のタイミングである。
いま我々若い研究者が団結して助け合わなければ、この国の研究はすぐになくなる。もし研究のなくなり方が緩やかであれば、日本語で達成された学術的成果を、多少なりとも国際的に、人類のために遺す時間的猶予が生まれるかもしれない。あるいは、国外から救いの手が差し伸べられるやもしれぬ。「タコツボ」を脱しなければならない。近くで助け合って生活し、なんなら雑誌なども出して(いまであればブログでいいのかもしれないが)、特に人文系では消え掛かっている研究の灯火を、なんとか引き継いでいかねばならぬ。ならぬと思う。