はてなキーワード: パステルカラーとは
最初に言っておくと、当方SideMを中心に活動している男性Pでシンデレラはにわかなので、シンデレラについても「カワイイ」についても的外れなことを言っている可能性があります。ご了承ください。
まぁ驚いた。カワイイのである。とんでもなくカワイイ。びっくりするくらいカワイイ。何がってメロウ・イエローの3人と彼女たちの新曲、「Kawaii make MY day!」である。先行披露されたデレステ内のイベントは終了し、既にライブでも披露された今書くのも時期外れな気はするが、自分の中でカワイイの爆撃に散らばった語彙を拾い集めていたらこんな時期になってしまった。
『カワイイ』ってなんだ?
それは永遠のテーマである。一般に『カワイイ』の言葉に付随するのは、幼児性だったり、女性性だったり、要するに自分のような成人男性が一番遠いものである。
しかし、だからこそ考えなくてはならない。カワイイものが大好きだからだ。カワイイとは一番遠いから、そしてこの歳になって「カワイイものが好き」と言えるようになるまで遠ざけてしまっていた、諦めてしまっていたものだから、カワイイに少しでも近付くためにきちんと考えなくてはならないのだ。royal weにするつもりは更々ない。ただ俺の話である。
ただ、カワイくなくて良い自由が誰にでもあるなら、カワイくて良い自由も誰にでもあっていいはずだ。
ちょい足しという言葉は深いなと思った。法子ちゃんはすごい。カワイイのに本質を突いてる上カワイイ。最強である。なるほど、カワイイは足し算の美だ。
「カワイイは研鑽する全ての者のために」。こう書いたけど、本当は研鑽という言葉は少しずれている。『カワイイ』は足していくもの、『大好き』を積み重ねていくものだからだ。
研鑽、研ぎ澄ます、つまり引き算の美は『美しい』の方が相応しい。美しい顔とは崩れたところがなく、余分なものを削ぎ落とした平均の顔である。完全な球形は美しく、また尖ったところがないので丈夫でもある。『美しい』は防御力なのである。
対して『カワイイ』は足していくものである。カワイイものとカワイイものを足していけば最強にカワイイものが出来上がるのだ。『カワイイ』は魔法で、攻撃力なのである。
曲調こそ渋谷系だが、彼女たちが『カワイイ』を探す場所が原宿なのも良かった。原宿系というファッションジャンルがあるけれど、まさにその根幹にある理念は『カワイイ』の精神なのだ。
原宿系のファッションは、シンデレラガールズでいえば諸星きらりなどが例に挙げられるだろうか。盛り盛りのデコレーション、色味たくさんのパステルカラー、フリルにリボン、彼女の身長でも収まりきらないゆめかわいい。そう、原宿系とは『大好き』を一つも否定せず、盛りに盛って積み重ねていくファッションなのだ。
原宿系の代表的なアーティスト、きゃりーぱみゅぱみゅの曲『ファッションモンスター』にはこんな歌詞がある。「だれかのルールにしばられたくはないの」「鉄の首飾りをはずしてただ自由にいきたいだけ」
原宿は自由の地だ。堅い校則から脱却し、なりたい自分、本当の自分にメルヘンチェン……メタモルフォーゼする放課後。好きなものと好きなものを足したら最強。個性って最高!原宿系という文化は受容の文化なのである。
しかしここで一つ、問題がある。先程「『美しい』は引き算」「『カワイイ』は足し算」と言った。美しいは平均に近付く美だ。しかしカワイイは際限なくどんどん重ねていける。そう、終わりがないのだ。
ある人が「女子力は有る無しではなく高い低いでしか評価されない。天井なき成長を求められる残酷な基準だ」と指摘していた。その話の本質はジェンダー論であったので今は置いておくが、カワイイも同様である。果てがなく、これが義務であれば苦しいだけだろう。
義務であれば!
イベントの時からほとんど確信していたが、先日ツアーの感想とともにRTで回ってきた二番以降の歌詞を見て、やっぱり心配する必要なんてなかったのだと勝手に胸を撫でおろした。
ただまっすぐ笑ってたいだけなんです
誰かのカワイイを否定はしない(そんなことは絶対してはいけない)、しかし自分のカワイイは自分だけのもの、他の誰かに憧れようと、理想像とぴったり一致するわけではない。あの子みたいになりたい、だけど前髪はぱっつんよりアシメがいいな、ネクタイよりリボンがいいな……これもまたちょい足しである。
即ち、なりたい自分になっても、それはそれが誰かから称賛されるものではないかもしれない。個性は自由だが、自由の責任もまた重い。
異性のためでもない!同性のためでもない!それ以外のためでもない!ただ、自分がなりたい『カワイイ』のために!
何故「最初はあの人に見てほし」いのか。あの人のためにカワイくなったから……ではない。カワイイ自分がカワイイから見てほしい、ただそれだけなのだ(思うに「あの人」は彼氏ではない。精々、ちょっと良いなと思っている男の子である)
カワイイの道は果てしない。ゴールしたと思っても、まだまだ可愛くなれそうだと先は続く。見えない終着点を追い続ける旅は険しく苦しいかもしれないけど、その道は『大好き』が敷き詰められた素敵な旅路なのだ。だから彼女たちはガラスの靴で駆けていくだろうし、足を止めない彼女たちの笑顔こそが一番の『カワイイ』なのだ。
結びに。『カワイイ』は誰のためのものだろうか。自分のため、は勿論である。では、『どんな自分』のためだろうか。顔の良い者だろうか。服飾のセンスが良い者だろうか。男だろうか。女だろうか。大人だろうか。子供だろうか。どれも間違いではない。なりたい『カワイイ』になるために歩む者は、みな『カワイイ』に受容されて然るべきだ。
故にこのタイトルは「カワイイは研鑽する全ての者のために」をとった。
要領の得ない話を最後まで読んでくださりありがとうございます。ついでにSideMの新アプリ、LIVE ON ST@GE!が事前登録数到達できるか難しいところなので、気が向いたらどうか宜しくお願いします。
https://prereg.bn-ent.net/common/serial.php?app=imas_mstage
追記:先日事前登録者数が目標数50万に到達いたしました!ご協力いただいた全ての方にいちPとして感謝いたします。315プロ並びにとっても可愛くてプロ意識の高い元子役ユニットもふもふえんと、希望の旗を掲げる革命家ユニットF-LAGS(876と兼籍の秋月涼はこのユニットのリーダーです)を今後ともよろしくお願いします。
『けものフレンズ』の面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観から抜け出しているところにある。
少し補足すると「抜け出している」という意味は、ある価値観に反発したり、故意に避けたり、過剰に抑圧したりすることではない。一例を挙げると「あんなクズな父親のような人間には絶対にならない!」と考えることはすでに父親の重力に捉えられている、ということだ。
もうひとつの「ガイナックス的なアニメの価値観」は少し複雑だ。細部へのフェティッシュなこだわり、現場のいぶし銀の技術者、ひとつの生物のように有機的に躍動する集団、学校文化と官僚システム/軍組織への熱い礼賛、マスメディアやと民主主義への蔑視……古い世代のアニメオタクの王道ど真ん中の価値観。この価値観の根底には「責任のとらなさ」がある。これについては後述したい。
私自身、『けものフレンズ』は話題になっているのをtwitterで見て、5話くらいから興味を持った後追い組のひとりだ。徐々にハマり、最後にはとても感動した。けれども、しばらくたってもその面白さをまったく言葉にできないことに気づいた。まるで「解」だけが前触れなく控えめに差し出されたようだった。この困惑について、福原慶匡プロデューサーもインタビューで語っている。
「皆さんも、なぜ魅力を感じるのか、はっきりとは言語化できてないと思うんです。食べ物でも、なぜかクセになっちゃうみたいなものってあるじゃないですか(中略)というのも、僕が5年前にその感覚を経験しているんですよね(笑)」http://a.excite.co.jp/News/reviewmov/20170327/E1490547358865.html
放送終了後、ネット上でいくつか探してみたが「大ヒットの理由」や「エヴァとの共通点」などIQの下がる批評しか見当たらなかった。その清新さや核心について書かれているものは無かった。自分で分析してみてもやはりわからない。一見すると『けものフレンズ』は、パワプロで喩えるなら「オールBでよくわからない特殊能力がたくさん付いている外野手」だ。ツッコミどころがあるようで、よくよく見ていくと隙がない。(あくまでも「一見すると」であり、構成についてはほんとに素晴らしい。監督自身は「怪我の功名」と謙遜するアライさんパートは発明と言っていいぐらいだ)
たつき監督の過去作を見ていくと、クオリティをまんべんなく上げた作品を作るというスタイルは昔から共通しているようだ。『けものフレンズ』では登場キャラクターの紹介とストーリー展開を均等に進め、両者が高いレベルで一体になることを目指したという。インタビュー記事「最終話放送直前! アニメを作るのが得意なフレンズ、たつき監督に『けものフレンズ』の“すごーい!”ところを聞いてみた!!」(以下、「最終話直前インタビュー」)ではこう話している。
「「キャラ先論」「話先論」があると思うんです。そこをまったく同じパーセンテージか、行き来をすごく増やして、キャラ優先なのか、お話優先なのか、わからないレベルでその2つが有機接合できるといいなと考えていました」http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12855680/
ところで、仕事でも3Dアニメを作り、休みの日も3Dアニメを作っているというたつき監督だが自主制作アニメ『眼鏡』発表後の2010年に行われたインタビューでは興味深いことを語っている。ここに一部抜粋したい。
―― アニメはお好きなんですか。
たつき 大学時代に「アニメ作りたいわー!」とか思い出したころからちょいちょい見だしたんですよね。
―― 「すごいアニメ好き」みたいな感じじゃないんですね。そもそもアニメをあんまり見てなかったのに、なぜアニメを作ろうと?
たつき アートアニメみたいなものは学校で見させられていたんですけど、もっと俗っぽいほうがいいなと思って「眼鏡」を作りました。http://ascii.jp/elem/000/000/532/532388/index-3.html
本人の発言を鵜呑みにするわけにもいかないが、そう質問せざるを得ないなにかを質問者も感じたのだろう。確かに『けものフレンズ』は熱心なアニオタが作ったアニメという感じはしない。1話の出会いシーンと休憩のシーンが例外に思えるほど性を表現すること行わない。その他ではペンギンの脚やカワウソのケツぐらいだ。もちろん全年齢向けというコンセプトもあるだろうし、動物と人間という認識の違いに厳密に取り組んでいることもある。だが、繰り返し見てもそこに「ほんとはエロくしたいけど抑えよう」や、「萌えを感じさせよう」などという作為が感じられない。肩の力が抜けているというか、監督の視線が別のところを見ているような奇妙な感覚があるのだ。
話題にもなったペンギンの脚については「最終話直前インタビュー」で、こだわったポイントは肉づきであり、それは未だ言語化できていないパラメーターと語っている。やはり焦点が別のところに当てられているようだ。このたつき監督独特の感覚について、チームの中では「ガラパゴス的」「ほどよく鎖国している」「天然」(「最終話直前インタビュー」)と表現されている。
たつき監督の制作に対するスタイルがかすかに見えてきたが、根本的なところ、なぜ面白いのか、なにが新しいのか、どこが違うのかが一向にわからない。繰り返し観ても「サーバルちゃんかわいい」「言われるも!」以外にこの作品を語る言葉は見つからなかった。
そんな時『シン・ゴジラ』についてのツイートがたまたま視界に入ってきた。ああ、あの作品は私にとって全然ダメだったな、なぜってあれはオタクのウェーイだったから。だから受け入れられなかった……だから『けものフレンズ』は良かったのか。本来なら過去や同時期に放送された作品に触れ、その違いを論じることで導き出すのが正統な論証だろう。だがここでは『シン・ゴジラ』を補助線に引くことでショトカしたい。
『シン・ゴジラ』はあの庵野秀明監督による作品だ。詳細は割愛しよう。宮台真司の批判とか概ね同意だ。私がアレルギー反応のような拒否反応をおこしてしまったのは別の部分になる。同作でも、指揮命令系統のフェティッシュともいえる再現、圧縮された膨大な情報量、巨大な生物のようにフル回転する官僚機構がたっぷりと描かれる。ああ庵野秀明だ、ああガイナックスだと感じた人も多いだろう。ただ、結構な面積が焼き払われ、放射能に汚染され、東京の中心で彫像のように固まったゴジラが実写として映し出されるとシニカルな感想も浮かぶ。「想定外の天災」とはいえ主要な登場人物はなんの責任も取らないだろうな、“庵野秀明だから”。
ガイナックスや庵野秀明に代表される彼らが、凝縮し、エッセンスを取り出し、世に提示してきた価値観。古い世代のオタクの王道ど真ん中の価値観。そこには、新兵器があるなら使おう、ボタンがあるなら押そう、ロケットがあるなら飛ばそう、人類補完計画があるなら発動させよう……後は野となれ山となれだ、という姿勢がその根本にある。責任の取らなさ。それが露出してしまうと、フェティッシュに埋め尽くされた119分はオタクが「ウェーイ!」とはしゃいでいるようにしか見えなくなる。
新しい爆弾が作れるなら作りたい、作ったなら使ってみたい。そういう欲望はギークな価値観として近代には普遍的にあるものだろう。それは責任とセットになっていなければ極めて危うい。『ジュラシックパーク』(1作目)に出てくるでぶが度し難いように。『シン・ゴジラ』の官僚たちは誰一人弾劾されず、断罪されずスムーズに復興へ移っていくだろう。彼らの合理性なら、半減期が2週間なら翌月から暮らすことができるだろう。三権が一体化した効率の良い行政システムを築くだろう。責任を切り捨てたからこそ、フェティッシュの興奮に耽溺できたのだ。棄てられた責任は野ざらしにされ担う者はいない。
2000年代、2010年代のアニメにおいてもガイナックス的な価値観は揺るいでいない。おそらくこんな声が聞こえるだろう。「『ハルヒ』は?『らき☆すた』は?『けいおん』は?『まどマギ』は?『化物語』は?日常系を無視するなとんでもない!“大きな物語”をまだ求めるのか?!」このあたりはもっとその分野に詳しい人の評論を待ちたいと思う。私の見立てでは、それらは(主に女性の)キャラクターについてのフェティッシュを深めたにすぎず、逸脱はしていない。フェティッシュに注力すればするほど与えられた価値観の中での反復行為となり、自らをその価値観の内部に限定させるという結果を生む。そして、目を背けた価値観そのものは形骸化しながらもしっかりと保存され、視聴者を貴族的な愉しみという隘路に導く。
もし汲々とした再生産のサイクルの中にどっぷり浸かった人なら、そこから抜け出すには並々ならぬ苦闘と意志が必要だ。たつき監督にはそうした努力は必要なかっただろう。『けものフレンズ』は最初から“できている”。
これは自由の味だ。
ジャパリパークではフレンズたちは当たり前のように責任を持ち、細部へのこだわりは新しい領域に向けられているがそれ自体に耽溺していない。古い価値観を超えるものを作ろうとして頑張った結果やっとできた、ということではなく、初めからそうした問題意識そのものが存在していないかのように新しい価値観を持っている。それほどあまりに自然に表現された作品として我々の前に現れた。
可能にしたのは主に3つの要素からなる。「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」。この3つは密接に関係している。「手書きには温もりがある」という言説は否定できないが、大勢が1枚1枚セルに色を塗るという時代ではなく、1人である程度は全部作れる3DCGという環境がたつき監督にとって不可欠なものだったことは想像難くない(実際はirodori時代から分業していたことはブログからも伺えるが、作業量や機材を比較して)。Wikipedia情報によると、彼はサンライズ作品のCGを担当することで商業的なキャリアをスタートさせ、以降手がけた仕事は一貫してCG関係だ。これがもし手書きのスタッフとしての参加なら、今の形の『けものフレンズ』は存在しなかったし、たつき監督もおそらく従来の価値観に染まっていただろう。
3DCG上で現在主流の2Dの表現をそのまま再現することは難しい。「不気味の谷現象」ではないが、3DCGから2Dアニメに寄せようとすれば違和感が増え、それを克服するためには新しいアプローチが必要になる。たつき監督はレイアウト(構図というよりも画角)の段階からキャラクターの正面を巧みに演出し、同時に正面ばかりで飽きさせないように一話一話を構成することでこの問題に挑んでいる。技術的な分野における刷新、さらに強く言えば断絶。これにより従来のアニメ表現から自然と距離をとることができたことは『けものフレンズ』にとって幸運なことだった。
次にバランス感覚が挙げられる。たつき監督のスタイルにも作品の全てをコントロールしたいという欲望が見える。映像作家としてこうした欲望は一般的なものだ。ただ、「監督、コンテ、演出、シリーズ構成、脚本・たつき」と商業アニメで網羅しているのは尋常ではない(脚本についてはWikipediaの項目を参考にした)。福原Pは、その秘訣はレイアウトからビデオコンテ、セリフ、声の仮当て、声優への細かな演技指導、修正、差し替え、調整という全ての作業をやりつつも「作業のカロリー計算ができる」ことだと語っている。
「そこらへんはプレスコで作ってきた『てさぐれ!部活もの』の経験が活きていると思います。たつき君はその場のグルーヴ感で「これはやったほうがいい」と思ったら作業しちゃうんです。その後のカロリー計算も、しっかりできる人」
http://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1488452395
「北風がバイキングを作った」ではないが、繁忙期は1ヵ月ほぼ泊まり込みだったという『てさぐれ!』における過酷な進行がたつき監督を鍛え上げたことは間違いない。余談だが、ファンによるスタッフロールの解析やたつき監督のTwitterでの発言から、『てさぐれ!』2期からirodoriメンバーを関西から呼び寄せたようだ。一部で話題になった出来事もこのあたりに遠因があるのかもしれない。閑話休題。
福原Pの言うカロリー計算とは、「作業量」と「かかる時間」と「納期まで時間」を正しく見積もることができるという意味だ。結果、各話を見ても全体を通して見てもまったく破綻していないばかりか、各話のバランス、全体のバランスがとても良い。ほとんどの工程にアクセスし、手を入れ、なおかつどこか一場面に片寄っていないということは特筆すべき能力だ。このバランス感覚はミクロの視点とマクロの視点、ミクロの作業とマクロの作業の両セットを備えていないと成り立たないものだろう。シナリオ含め、一貫してたつき監督の思想が反映された『けものフレンズ』。そこでは、「美少女の細部にひたすら耽溺したい」というような偏ったフレームは分解され、ごく抑制の効いたボリューム/表現としてバランスが整った形で配置されることになる。
最後は、アニメばかりを見ていないアニメ監督。これは富野由悠季が公言し宮﨑駿も暗に語る「アニオタが作るアニメはつまらない」という言葉の裏返しである。たつき監督がケニア育ちだったから、というわけではないが本人の発言ではアニメを「ちょいちょい」見るようになったのは大学で「アニメを作りたい」と思った頃からだという。この時点で「東浩紀は『セーラムーン』をリアルタイムで観ていなかったニワカ」とディスられたレベルでのガチのアニオタではないとも言えるが、ここではirodori制作の短編を元に検証してみたい。
1作目『眼鏡』にあるのはメガネ萌えの主人公、エヴァ風ギミック、NARUTO風アクション、ジョジョネタ(格闘ゲーム版)、東方という、既視感のあるオタネタだ。テンポの良さやオチの付け方など評価できるポイントはあるが、お約束というメタ設定(いくら殴られても負傷しない、カエルが空を飛ぶ、怒りで異形化、いくらでも撃てる弾薬など)のあしらい方はごく普通のオタクが価値観を共有している人向けに作った短編という印象だ。
続く『たれまゆ』では全体的にパステルカラーでキャラクターの柔らかい描写に取り組んだことが見て取れる。手描きによる2Dアニメで制作され、架空の田舎の超常的儀式を通して小さな世界が描かれる。しかし、作業コストが高かったのか、合わなかったのかこの後は2D手書き手法は行われていない。
第三弾『ケムリクサ』では再びソリッドな3DCGに戻る。NARUTO風のアクションはレベルアップし、設定も作り込まれている。リナちゃんズと呼ばれる5人の可愛らしさと非ー人間ぽさには独特の魅力がある。『眼鏡』のようにネタをそのままネタとして扱うことはなくなり、説明は最低限。たつき監督の作家性の輪郭がはっきり見えだした時期だろう。30分弱の作品にかかわらず、構成やカット割りに無駄がなくかなり洗練されている。しかし、完成度の高さと裏腹に、注目を集めた『眼鏡』よりも再生数や評価は低調だった。ニコニコ動画の過去のコメントを見ると『眼鏡』の軽いパロディのノリを期待する声が多く、制作側としては不本意な結果だったのではないだろうか。ここでは、1作目でふんだんに盛り込んだパロディで注目を集め、2作目では手描きアニメに挑戦。結果、手描きからは撤退し3作目では3DCGでストイックな作品に挑戦したという流れを指摘するに留めたい。
4作目となる『らすとおんみょう』は福原Pと出会うきっかけとなった作品と言われているが、1話を作ったのみで未完となっている。女性のキャラクターの表情はまた一段レベルアップしており、3DCGの中で2Dアニメ表現に歩み寄りたいという制作者の努力が見て取れる。何がこの作品を放棄させたのかは推測でしか語れない。多忙となったためや、異国の魔女と「適当だけど超強い男子中学生っぽい陰陽師(の下請け?)」が子作りするという設定に着地が見出だせなかったのではないかと思われる。現在残された多くの断片からは具体的な落としどころは示されていない。同作はいわゆるハーレムものの構造を取っており、一方でたつき監督の描く萌えはごく控えめだからだ。
5作目となる『のための』はirodoriとして最後の自主制作作品となった駅長さんシリーズ。できあがった時期は前出の『てさぐれ!』の激動を超え、プロフェッショナルとして確立した後になる。正確には『らすとおんみょう』より前に断片的な映像が出ていたが途中に長い中断があり、実質的に『てさぐれ』後に作られたものとみなすことができる。時系列で書くと2012年に2年がかりで『ケムリクサ』が完成。2013年前半に『らすとおんみょう』(1話)。2013年後半から2015年まで『てさぐれ!』シリーズ。2016年8月末に『のための』が『駅長さん フル版』(以下、『駅長さん』と便宜的に表記する)として完成した。この作品は5分という短い時間ながらプロの仕事というべきものだ。目が描かれていない駅長さんの動く姿には、これまでに向上した技術が昇華されシンプルな姿で完成している。
ここで「アニオタの作るアニメ」(以下、オタアニメ)の定義について考えてみよう。もちろん厳密な定義などできようもないが、本文章が求める要件は「特定の層だけをまなざしている作品」であり、具体的には「アニオタ視聴者を満足させることを目的とした作品」である。たつき監督は『眼鏡』では明白にオタアニメを目指し、続く『たれまゆ』では本格的に手描き2Dを試み、より迫ろうとした。ここで最初の転機が訪れる。手描きという手法があまりにハイカロリーだったからか、ここでこの方向は放棄された。なろうと思っていたがなれなかったのだ。以降、アニオタ視聴者をメインの観客に据えることはなくなり、アニメばかりを見ていないアニメ監督として本来の姿、幅広い層へアプローチする道を歩むことになる。
『ケムリクサ』の段階で3DCGによる手法に迷いはなくなり、削られたカットからも抑制の効いた演出を志向していることが見て取れる。この作品から作風が変わったようにみえるのはテーマがシリアスだからだ、という批判も予測されるが「ストーリーがシリアスになる=オタクに媚びていない」という短絡は採用しない。実際、表向きはオタク向けの作品ではないと装いながら水面下で「今回はこういう感じで行くのでひとつよろしく、へへへ」と、メタ構造(オタアニメにおけるお約束の構造)やメタ構造を逆手に取った仕掛けを差し出すという交渉を行う作品は実に多い。同時に「まったくオタクに媚びてませんよ」という宣言は、冒頭に挙げた父親の比喩と等しく、オタアニメの枠組みから実は一歩も踏み出していない。『ケムリクサ』では前2作であえて“なろう”とした努力が消えている。木の枝が河に落ちるように自然に、観客と交わす密約もなく、反発もなく、媚びていない。ピンポイントに評価される層よりも広い範囲をまなざしている。『眼鏡』よりクオリティは高いにも関わらず受け入れられなかったことは間接的な傍証になるだろう。
『らすとおんみょう』ではその揺り戻しといえる現象が起こっている。ギャグがテーマとTwitterで発言しているが、いかにもオタアニメという構造(そのままアフタヌーンあたりで掲載されても不思議はない)にチャレンジするも1話を完成させた後に頓挫。理由は色々考えられるが、これまで見てきた通りハーレムものの企画自体がたつき監督に合わなかったと考えるのが妥当だろう。この時期が2度目の転機になる。ある程度スタイルが固まったのだ。それは『ケムリクサ』で表現されたスタイルの延長にありジャパリパークへ続く道だ。キャラクターに瞳を描くことさえ取り止めた『駅長さん』は『らすとおんみょう』の続きは作らないという静かな意思表明とも受け取ることができる。
再び繰り返しておきたいのは「3DCG作画」、「バランス感覚」、「アニメばかりを見ていないアニメ監督」この3つはどれかひとつが先立つものではなく、お互いに深く関連しており不可分なものだ。『けものフレンズ』ではこの全ての要素が花開いている。この作品に超絶的な技巧が込められた作画や、ぴちぴちとした美少女あるいは美男子を求めることはできない。あるのはサバンナに向けて開かれたような、開け放たれた窓だ。振り返ると、室内にはエヴァ以降20年にわたる作品がある。時代を代表する色褪せない傑作もあるだろう。でも、もう昔の作品だ。新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込み、清々しい朝日に貫かれた後では、戸惑いつつも思い知らされるのだ。どれだけ偏狭な価値観に縛られていたか。こんなにもこだわっていたものは汲々としていたか。自由とはこういうことだったのかと。
自由の味。開放されるということは、決定的に変わってしまうということでもある。一度開放されたことを理解してしまうと、重さの無いなにかが失われてしまい、二度と戻ってはこない。それを無視して、例えば「エヴァ風けもフレ」というように馴染みのある文脈に引きずりこみ安心することもできる。「ローエンドなCGでもいいものは作れるんですよ」と心の平穏を装うこともできる。でも、そういうことはもうやめにしよう。『けものフレンズ』はこの20年間潜在的に待ち望まれていたアニメばかりを見ていない監督によって作られたアニメなのだ。その面白さの本質は、ガイナックス的なアニメの価値観とは別の場所に立っていることによるのだ。私はたつき監督の成果に最大限の賛辞を贈りたい。素晴らしい作品をありがとう。
ただ、アニメを見る目がこれまでとは違ったものになったことは少し寂しく感じてしまう。世に次々と出てくる新しい作品がどれだけ面白くても、それらが“過去の遺跡の新作”ならばそれだけで手放しで楽しめなくなったからだ。つまり、ちょっとした困難をかかえこんでしまったことになる。でもそんな心配はあまり気にする必要はないのかもしれない。なぜなら、すでに誰かが言っていたようなのだ。困難は群れで分け合えと。
私は、アイドルに恋をしている。
決して叶わないと分かっていて、それでも恋をしている。
自分では、もうどうしようもない感情で、「誰かを好きになる時理由なんかは必要ないの」と曲の歌詞にこれ程共感することはないだろうと思う。
痛い、とは分かっているから、どうか私の話を聞いてほしい。
友人の勧めで画面越しの彼に出会ってしまった時、何もかもどうでも良くなるくらい彼に惹かれた。
ひたむきに、でもファンを見つめる目をキュッと細めて幸せそうに微笑んでいた。
あぁ、なんて素敵な人なんだろう。
それから彼に関する全てを収集した。もっと知りたい。もっと彼のことを知りたい。
私がそれまでなんとなく知っていた彼よりも、彼はもっと男気があって芯が通っていて凛とした人でした。
普通の女の子が青春時代に味わう淡い恋も、すべて彼に気持ちが向いてしまいました。
もちろん誰にも言えず心の中だけで、誰にもこの恋の事を言いませんでした。
彼氏もいましたし、成績も学年順位1桁を争っていましたから、傍から見たらとても充実した日々を送っていたように見えたでしょう。
けれど、勉強を頑張っていたのは彼の行った大学に行きたかったから。
彼氏のキスも、目を閉じた私の瞼の下には、大好きな大好きな想い人の姿が浮かんでいました。
最低でしょうか。
それでも、彼が大好きでした。
テレビの向こうでキラキラの笑顔を向けながら、無理難題にも果敢にチャレンジしていく姿がどうしようもなく好きで、どうしようもなく愛おしかったのです。
このままではいけない、と思ったのです。
このまま画面の中の人、ステージの上の人に淡い恋をしていたって、何にもならないのだから。
別の趣味を見つけ、徐々に彼を避けるようになりました。
進学先で辛いことがあった時は彼に縋りたくなったけど、それではいけないと強く言い聞かせて。
背けていた現実に目を向けて、大切に大切にしていたコレクションも全部売り払いました。
どうしても捨てられないものだけを残して。
たくさんの彼で埋め尽くされていた私の部屋はがらんとしてしまいました。
私の部屋、こんなに広かったっけ。
ひとしきり泣いて、それから捨てられなかったものを2度と思い出すことがないように奥深くに仕舞いこみました。
彼への興味をいよいよ失った頃、友人からの誘いで再び彼の所属するグループのコンサートへ出向くことになりました。
この時の私はもう、あの涙はなんだったんだというくらい彼への恋心をすっかり失っていましたから、絶対大丈夫だと思ったのです。
いま、今の自分なら、ただただ普通にコンサートを楽しめるはずだと。
そんなの、無理だった。
大好きな彼が私の目の前のステージから出てきた瞬間、もうダメだと思った。
どうしようもなくその細いのに男らしい背中に抱きついて、あなたが好きだと言いたい衝動に駆られた。
勿論、そんな事は実際出来っこないけど。
大好きだった彼の声、大好きだった彼の姿。
私はやっぱり彼の全てが大好きで、それはきっと形を変えても永遠に残る美しい恋なんだと。
社会人になったらさ。
でも言えないから。
だから普通のファンの振りして、今日も楽しく昨夜のテレビ番組でのあなたの事を職場の人と話す。
あなたはコンサートで「可愛い」「大好きだよ」「心から愛してる」「俺の命だよ」って言ってくれる。
だから、
あなたが「長い髪の子が好き」って言ったから、髪はロングだし毎日手入れも欠かさない。
あなたが、「美意識の高い子が好き」って言うから、だらしない生活に鞭打って食生活から振る舞いまで気を付けてる。
あなたが、「フリフリとかパステルカラーの服が好き」って言うから、日頃からスカートを履いて、女性らしい格好をしてる。
あなたの「自慢の彼女」で居るために、あなたに「可愛い」と言われて恥じないように。
例えあなたが私のことを知らなくても、私はあなたの為を思えばなんでも頑張れるんだよ。
そうやって私の言動ひとつひとつに、あなたの「好き」が詰まったまんま。
今日も仕事に疲れたら、パソコンの中で儚げに歌うあなたの横顔を見て、もう少し頑張ろうって思うんだよ。
一日頑張った身体を引きずって帰ってきたら、またあなたの香水を身に纏って、あなたの柔らかな歌声を聴きながら、あなたのサラサラの金糸を頬に感じながらただ愛される夢に深く沈み込むのでした。
そうして私は6年間、片想いをしている。
そんな私の想い人は、
V6がテレビガイドとかテレビジョンのお正月特大号で、2017年にライブやりそうな発言をしてたせいで「この曲ライブでやってくれたらうれしい!」とか「この曲やるならこんな衣装だとかっこいいな~!」とか妄想作業がはかどるはかどる。
そんでもって気づいたら一個セットリストみたいなの作っちゃった。「自分による自分のためのV6コンサート2017年ver.」といったところですな。これきと一ヶ月に一回考えたら毎回違うセットリストできると思う(笑)
自分の中での縛りとしては
・Oh My Goodness!に収録されていないそれ以降のシングルはできるだけ入れたい
・「ハナヒラケ」と「足跡」は入れる
・2015年にしっかり歌われてない曲もいれたい
なんだけども、しっかりこの縛りを守れた気がしない!(笑)
というわけで、できたセトリがこれ!↓
SILENT GALAXY
SPOT LIGHT
グッデイ‼
ハナヒラケ
~MC~
Good Life
君がいない世界
君が思い出す僕は 君を愛しているだろうか
涙のアトが消える頃
IN THE WIND
Skys the limit
~アンコール~
僕たちの明日
~アンコール2~
\もーいっかーーーい!!!/
まずそもそもセットリスト考える妄想を始めるきっかけになった曲が【SILENT GALAXY】なんですよ。V6の曲をシャッフル再生しながら部屋の掃除をしていたら、このイントロが流れてきて手が止まった。勝手に脳内でコンサート始まった。このSILENT GALAXYで、まるで各々が六つの国の王集結したところを見せられてるように、壮大に、きらびやかに、ゴゴゴ…ってステージに上がっていたもん。暗い会場になぜか後光がさしてました。照明かな…演出として素晴らしかったわ…
だから、一曲目きっとないだろうけどSILENT GALAXYで静かに、だけどちょっと踊りもいれつつ歌ってもらって、2曲目【Cosmic rescue】、3曲目【BEAT OF LIFE】ガンガン踊って歌ってくれたらテンション一気に上がってブッ倒れちゃうかもしれない。最初の3~4曲くらいはガンガン踊ってほしい。コスレスのあの軽やかなステップで踊るV6大好き!!!!!!(BEAT OF LIFEは踊る前提)
で、そのあと【Don't Stop The Refrain】お願いしたい。「な?!なッ…え?!ここでこれ来たァ?!?!?!?!」ってぶちあがるのが容易に想像できる。最初の森田くんのラップを耳に焼き付けたい。もう感動しちゃって、ペンライトとかうちわとか楽しく振っている暇はない。
そしてがんがん踊っていただいた後は、まさかの【Swing!】。ちょっとここ迷ったんだけど、ここ最近アンコールでしかやってない気がする(私の鳥頭調べ)から本編にど~してもいれたかった…。フリーで走り回ったりするならピッタリかなって思ってここにいれた。森田くんの「さあ手をあげなぁー!」。カワイイね。(お気づきの方もいるかもしれませんが私は森田担です。六人みんな好きだけど!)
そしてアウトロからつながるように【SPOT LIGHT】!最近出た曲だから去年もやってるけど歌詞もいい、曲調もいい、鉄板にしてもぜんぜん盛り上がる!というかまた歌ってほしいんだー!ファンは絶対好きだよこの曲!!
盛り上がり、気分は最高!ってとこで【Train】。ちょっと落ち着くね。でも「ここで…ここでTrainだなんてッ‼︎」って卒倒します。最初の坂本君と森田くんのささやき(?)あれを聞きたいという自分の趣味です。ところでさっきから私何回も意識失ってません…?
その後の【WAになっておどろう】~【ハナヒラケ】の流れは、主観で曲調とイントロアウトロを吟味して並べたものです。歌ってるV6を想像しながら「あ~~ここでこれ歌ってほしい~~この流れイイ~~すてき~~」って考えながら作りました。
MC前の曲は【Beautiful World】がいいな。あの、タラララン♪タラララ♪タタンッ♪(下手)ってアウトロから、イノッチを筆頭に「いぇーい!!」ってなるの想像した。いい感じ!そこからあの楽しい楽しいMCタイムに入るとか微笑ましすぎて口角上がりっぱなしになると思う。
MC明けの曲は【明日は来るから】がいい!CDに収録されていたように入って歌ってほしい。イノッチが「じゃあ、森田くん。ねぇ!そろそろ…(にやにや)」みたいなかわいいフリをして、森田くんもにやにやしながら曲のタイトル紹介するでもなく突然に「じゃあ…ミュージック、スタート。」って言ってファンが「ん?」ってなるの。で、イントロかかって「おおお!」はいありがとうございますこれで次の日も頑張れます。もちろんちゃんとイノッチの「イェ~~~~」まで!
その次の【Good Life】はもう心が洗われる感覚(大げさ?)でいれました。イノッチの「イェ~~~~」からイノッチの「オーグッライ、グッライ、グッライ、グッラアイオーオーーオーーーィェイ」聴けるなんてすごくうれしい!あと、イエ~とかグッライとかホントごめんなさい。
【テレパシー】はパステルカラーとかホワイトとか、優しい色の衣装がいいな。めっちゃ目にいい感じ。椅子とかに座るのかな…立ってても座っててもいいなぁ。
その後の【君がいない世界】は、スポットライトを歌ってるメンバーだけに照らす演出がほしい。森田くんだけ→長野くん岡田くん…みたいな感じで。
で次は【君君】だから、ピアノ伴奏で君がいない世界~君君をうまくつなぐ。なんとかしてうまくつなぎましょう。
涙アトは去年の感じでいい。←雑なつもりはない!!
【不惑】はタキシードみたいなスラッとした、トニセンの抜群スタイルをしっかり堪能できる黒いスーツ(ハットのオプションが付くとなお良し)か、真逆の「日曜日子供と遊園地行く父」みたいなカジュアルな服着てたら嬉しい!ネクジェネ福島公録の時のような…(笑)どっちでも素敵。
不惑のあのばつっとした最後の終わり方から私がワンハーフあるいはフルで聞きたい【IN THE WIND】!ちなみにこのIN THE WINDからSky's the limitまではしっかりガンガンダンスタイムです。最年長が46歳になろうとしているグループだけど坂本くんが「いや…もう無理だわ…俺もう疲れちゃうわ…踊れねえわ…」って言ってるところは全然想像できないので大丈夫かと思います。
【Sky's the limit】でばっちしキマって、「フゥーーーーー↑↑↑」てなったところで私の大好きな曲入れさせてもらいました【キセキのはじまり】。いやでもまあ、自分による自分のためのだから…('▽')Sky's the limitのあの決めポーズのままキセキのはじまりのイントロかかって「うわぁぁ…(泣きそう)」ってなりたい。だって2015年のコンサートで間奏だけだったんですもの!ちょっと悲しかったわよ!
そしてここちょっと複雑で、想像するのも難しかったんだけど(笑)、キセキのはじまりからビリスマの二番のサビ前くらいまでフリーでお客せん(©坂本君)とワーーってやって頂いて、サビで真ん中のステージに集まり踊っていただく!【ビリスマ】のダンス大好きなんでお願いしたい。サビのステップとか何度でもいつまでも見たい…あとはあのLOCKの部分も!
もし本当にあのダンスを見ることができたなら…あ~…ありがて~…(合掌)
ビリスマの次はやっぱ【by your side】でしょ!ここの繋ぎは個人的に絶対!アンサーソングというか、公式で繋がりのある曲とされてますからね。OMGコンの時みたいに三宅くんから何らかの説明があってもうれしいな。
【足跡】はCMでしか聞いたことないんですけど最後の曲にぴったりだと思う。おそらく。曲調も落ち着いてるし、いったんここでしんみりと、歌詞をかみしめながらと曲と歌声を別れを惜しみたい。
でアンコール。【ハニビ】のイントロがかかってお客せん「キャーーー!!!」そののちスライドアップでステージにスタンドマイクとともに出てきてほしい。わらってー!わらってー!わらってー!!バーンっ!ってスモーク?火花?のような特効があったらうれしい!
…で、元気よく【僕たちの明日】。ソロパートも多いからこの曲好きです。なんかわちゃわちゃがあってもおかしくなさそう。
で【愛なんだ】。愛なんだ純粋に笑顔になれる素敵な明るい曲だから、アンコールで盛り上がりたいので入れました。つらい時でも愛なんだ~♪
またいったんはけて、またアンコール。
【上弦の月】のイントロがかかり「エーーー!!キャーーー!!」となりたい。(上弦の月大好き人間です)
そして一曲やって帰ろうとするV6。だがしかし、ファンは「もういっかい!もういっかい!!」コールをやめません。(妄想がものすごくエスカレートしていますスミマセン)
そこでよくやるやつ。2015年で言うと「せーーの?」\もーーいっかーーーい/「はぁらから声ださんかい!!」ってやつ。
そこで【シュガーナイトメア】がいいな。これがほんとの最後。最近聞いてないのを聞きたいというわがままが故に。
三宅くんの投げチューもいつものようにお願いいたします。毎回本当にありがとうございます。
本当に私の趣味・主観・妄想だけでこのセトリはできています。銀テはどこかで必ず飛ばします(雑)。だんだん妄想が激しくなっていますがお許しください!!不快な思いする人がいたらごめんなさい。
これ書いたの疲れたけど、すごく楽しい時間だった。気づいたら一時間半くらい経ってた(笑)
追記
男の子が赤いランドセルを欲しがっているという質問への回答が男の子が赤は変と言う回答でしめられていて、ジェンダー問題でガヤガヤ語られているのを見た
多分高確率でからかわれたり苛めの原因になると思われるので止めるのが親の愛だとは思うが考えてみたら赤いランドセルが女の子色なのは不思議だ
子供達を見ていても女の子より男の子の方が赤を身に付けているように見えるのに何でランドセルだけは許されないのか
長年女の子は赤と言う決まりがあったせいかもしれないが近年黒ランドセルは女の子向けに浸透してきている
黒は女の子でもよく身に付ける色なのだから当たり前と言えば当たり前
じゃあ男だって赤ランドセルで構わんじゃないか、何ならピンクなどのパステルカラーもいいじゃないかと思わんでもないがやはり止めるのが親の愛だろう
息子がピンクランドセルを欲しがったが親から制限するつもりがなかったから買うかどうか見てたら女の子から男の子がピンクは変だと一刀両断されて諦めた話を切ないと語ってるのを見て、かえって親のエゴを感じたしなぁ変だと知らない無知を放置して苛めターゲットの危険にさらすのかよって
部屋を片付けよう、と思って、何週間もかけていろんなものを捨てた。
でも、ぬいぐるみを捨てるのはためらった。
愛着があるとか、呪われそうとかとはまたちがう。
都会の女の子たちはみんな可愛かった。
うちの大学の子達は特に、きゃあきゃあと高い声ではしゃぐ「女の子」な子達だった。
若くて明るくて可愛いをそのまま形にしたような周りの子が羨ましくて、彼女達の真似をしてみた。
パステルカラーの可愛い服を着て、ピンクのチークを塗って、茶色く髪を染めて。
ぬいぐるみは、その中の一つだった。
可愛くって、明るくて、ちょっとおバカだけど周りにとびきり愛されている友達はピンク色に囲まれた部屋にぬいぐるみをいくつも飾っていた。
田舎にいた頃、周りの友人達は垢抜けなくて、バイトもできない私たちは少ないお小遣いで地味な雑貨を買っていた。
でも、それがすごく楽しくて、みんなと街に出て買い物をするのが好きだった。
友人たちは、たくましくて、負けず嫌いで、愛されキャラとは言えなくても、私は彼女たちが大好きだった。
都会に出てきて出会った女の子たちは愛され上手で、身に付ける色はピンクと白。
部屋に飾るぬいぐるみは、彼氏とのデートで買ったものだそうだ。
キラキラしてふわふわした女の子はこういうものが好きなんだ、とぼんやり思いながら見ていた。
一人暮らしが寂しくなった頃から、ピンク色とぬいぐるみを真似してみた。
意外と女の子らしいんだねと言われて、少しだけ舞い上がった。
でも、私はピンク色もぬいぐるみも全然すきなんかじゃなかった。
就職活動を始めて、大人にならなきゃという焦りから、まず服の色が変わった。
選ぶのはシックな色になって、だんだん服のラインもスマートに変わっていった。
髪の色は当然黒で、チークは肌になじむオレンジ、リップは無難なベージュ。
部屋のものが減っていって、寂しさを感じなくなった。
昔好きだった歌の「したいことが多すぎて散らかった狭い部屋 何から何まで捨てられたなら」という歌詞を思い出した。
ものを捨てながら、散らかっていた頃が少し眩しいと思ってしまった。
それを、明日の朝、捨てようと思う。
カラフルなぬいぐるみを優しく袋に詰めたら、何だか悲しくなってきた。
多分、もうこの先では出会えない色。
心のどこかで、ずっと女の子でいられたらと思っていた。
でも、それが叶わないことは知っていた。
今は、それが叶わないことを受け入れられるようになってしまった。
私が憧れた女の子が言っていた。
今のはてなブログでそこそこ知名度がある人たちのオフ会の様子を綴ったブログ記事を読んだ。いくつかあった。なんかパステルカラーな印象だった。
Facebookみたいな感じだった。今のはてなってこんな感じなんだなと思った。前はもっと濁った色合いだったのに。
その頃の方が自分は居心地良かった。汚い立ち飲み屋みたいな雰囲気で。あれじゃん、きっとみんな明るくてそこそこ楽しくてほどほどに愉快なトークができる人たちが集まってわいわいやってるんでしょ?気持ちわりい。Facebookでやれよ。
今のブロガーどものオフ会の様子ってFacebookで「スノボ行ってきた」とか「ディズニー行ってきました」とかあの感じなんだよね。あれ面白くないじゃん、あの面白くない感じをはてなである程度知名度ある人たちがやってるのがすげーなと思う。
ブックマーク大量につけあって、つまんねえ記事書いて、楽しく飲み会やって、その様をまたつまんねえ記事にする。気持ちわりい循環だな。mixiでやれよmixiで。
知らない間にミニマリストって項目がはてなに出来ててびっくりしたw
過熱しているミニマリスト関連の話題を追ってみたら、何度も出てくる名前があった。
でもこれブログのプロフィールにはなかったから、ガセだったらぜんぶ外れる。ごめんね。
出して見た感じ信憑性が高かったので書いてみたよ。
はてなでのブログ開設は当初ミニマリストじゃなくファッションブログだった模様。
いかにして男性受けのいい言動を身に着け、男性受けのいいファッションをまとうか
星の位置を見るとこの人男性とは縁が出来やすくて、男性相手にきょどらずに話せる人だね。
それがどの程度喋るか、黙るかを考える余裕に繋がるんだと思う。
そしてフェミニンな魅力を際立たせたかったら、ファッションはコンサバがめっちゃ似合う。
常識的で、悪目立ちしない程度にちょっとやぼったいくらいのファッション。
質が悪く安っぽい服を着ると自信をなくす人だから、同じ値段なら古着で手堅いブランドは正解。
ただこの人自身はそんな風にお固い生き方は望んでいないんじゃないかな。
たいがいのことはどうでもいいから、「やるのはかまわない」程度。
だから育ちのよさそうなコンサバ系の服はコスプレみたいなものだね。
かっこよく生きたい、情熱と確信を持って誇り高く生きたいと思ってる。
既存の肩書きで上位を狙えないなら自分で新しい肩書を作って勝負する。そして勝つ。
人の秘密を嗅ぎ当てるのが上手い。
だから人を囲いはするけれど、面倒は見ない。
「隠してきた自分の本心をわかってもらえた!」と感激する人が出ると思うけど
同情心や共感力は低い。
ちなみに岡田斗司夫とは相性がいいw
お互い感情的にシンパシーを感じるものがあっただろう。会った日付を知りたい。
さて、ここからが本題なんだけど。
堀井さんのモテテクに汎用性があるかというと、自分の見地からすると違うと思う。
堀井さん個人にはとても合っている。よくぞ自分でたどり着きましたね!と思う。
しかしこれは堀井さんと、堀井さんに似たタイプの人限定のモテテク。
豹柄だったら百人力だけどパステルカラーじゃ壁の花というタイプの女性もいる。
しかしこれも向き不向きがあり、下手な人真似が非モテより悪い結果になる人もいる。
よかれと思って、親が子供を社会で広く受け入れられるタイプに育てようとすることがある。
でも、がんばってもそのレールに乗れない子や、乗らない方がいい子は大勢いるよね。きっと誰でも心当たりがあるんじゃないかな。
堀井さんはモテが行き過ぎてストーキングまがいの怖い目にたくさんあったと書いていた。
これは彼女のモテの結果というより、ある種の宿命。そういう位置に星がある。
生まれてすぐ星を見せてもらったら、そうなると自分は言ったと思う。
嫉妬心が強くて支配欲が強く、情に篤くて好き嫌いが激しい彼氏を持つと、たぶんおさまる。
ただし堀井さんは人に束縛されるの大嫌いだから恋愛モードじゃないと受け入れられないだろうけどねw
堀井さんに限らずモテテクとか人に好かれる方法のアドバイスは人気がある。
だけどそれを見るたびにちょっと気になるんだよね。
口はばったい言い方だけど、あなたがあなたであることがとても大事なんだよ。
追記:以前書いた増田
http://anond.hatelabo.jp/20150308023954
http://anond.hatelabo.jp/20130903144920
そんなわけねーだろ
って思って調べたら、ほんとに
基本白地で、パステルカラーで絵柄がかかれていて角が丸まっているようなのばかりだ。
こればっかだった。
私の職場には増田増美(仮名)さんというとてもいい匂いのする女性がいる。
増美さんの声は声優の内田彩さんに、顔はカレーパンマンに似ていてとてもかわいい。
着ている服はパステルカラーを基調としたもので、増美さんのやわらかく明るい性格に合っていてとてもすばらしく、雨の日でも私たちのテンションを上げてくれる。
「またそんなところ突っ立ってるんですか!」(おお、なんと卑猥なことば……)
出ていないわけではないのだ。
申し訳程度の丘がそこにはあった。
だがなんだろう。
とても不安になる。
あ……申し訳程度だ……と私は思った。
それはちょうどパラボラアンテナあるいは鍋のふたのような曲面を描いている。
ふむ。
たしかにないわけではない。
緩やかな曲線がそこにある。
あることにはある、隠そうにも隠せないほどにはあるのだが、隠したくなるサイズ感なのだ。
増美さんは申し訳程度の胸を恥ずかしがっているかもしれないが、やんわりと主張してくる申し訳程度の胸なので、むしろ巨乳よりも目がいってしまう。
「私に気づいて」と申し訳程度の胸はささやいているわけである。
ぺったんこの無乳にたいしては私たちは紳士然と完全スルーを決め込むだろうし、巨乳に対してはむしろまじまじと見るのは不躾なため私たち童貞は目を逸らしがちである。
だが申し訳程度の胸に対して、その胸の「気づいて」というささやきに私たちはあらがうことができない。
つぎの瞬間には消えて無くなっているのではないかと不安になるからなんども確認してしまう。
あ、まだあったと私は安心する。
もしかして次の瞬間には消滅しているのではないか?
だが安心してほしい。
もう一度見てみるとやはり申し訳程度の胸はそこにあるのだ。
なかなかしぶとい。
しかし私がなんども見ていることによって、その視線の矢で申し訳程度の胸がへこんでしまうのではないかという危惧に襲われることもある。
私の次の視線が増美さんの胸の最後の瞬間になってしまうかもしれない。
そう考えると私は増美さんを見ることが恐ろしくなってくるのだが、「私に気づいて」というささやき声が聞こえるためどうしても私は増美さんの申し訳程度の胸を見ないわけにはいかないのである。
私たち童貞が見ないで誰が彼女の申し訳程度の胸に気づいてあげられるのだろう。
繊細な童貞だからこそそのささやきに耳を貸すことができるのである。
ただ、童貞はなにかができるわけではない。
来週もまた私は申し訳程度の胸を見守るだろう。
そこにまだあると確認するために。