はてなキーワード: ガロ系とは
ガロは書く人も居なさそうなので、元読者の義務感に駆られて書いてみた。リアタイで読んでいたのは80~90年代の一部なのでいろいろ偏っているとは思う。選択の基準としては、漫画史的な重要性や、後世に与えた影響を優先した。バックナンバーや単行本やアンソロジー、関連書籍(が多いのもガロの特徴ではある)などの知識も動員したが、記憶に頼って書いているので誤謬などはご容赦。むしろ先達からの突っ込みが欲しいです。なお、ガロ分裂後のアックス誌の作品にはここでは触れない。
まずはなにを差し置いてもこれ。そもそもガロという雑誌の創刊自体が長井勝一による「カムイ伝」を掲載する媒体を作りたいという並外れた理由によるもので、「ガロ」という奇妙な誌名も作中人物の「大摩のガロ」から取ったものだった。どちらかと言えば現在では「読まれない」作品になりつつある印象なので当時の熱狂を図るのは難しいが、漫画史的には「どうやら漫画という媒体は歴史的・社会的な諸問題を描き得る(と読者に思わせた)」点がエポックだったのではないかと思う。今であればそんなもん当然だろうと思われるかもしれないが、所詮我々はこのような巨人の肩の上にいる。
つげ義春がガロ誌に発表した短編は悉くが傑作なのでとても一本に絞りきれるものではなく、作品の完成度からすればむしろ「ゲンセンカン主人」や「赤い花」ではないかとも思うのだが、後世に与えた影響の大きさを考えればこれを選ばざるを得ない。「見た夢をそのまま描いた」という誤解を受けることも多い本作だが、実のところは多種多様なコラージュや巧みな漫画的技法に満ちていて、きちんとした作為の下に統制して作り上げられた「シュール」の傑作であることがわかる。
若い男女の同棲と破綻の物語と描けば無数の類例が思い浮かぶが、1970年の発表当時には極めて新しかったはずである。なにしろ婚前交渉などという言葉が現役だった時代だ。主人公の職業がアニメーターというのも新しく、しゃれていたのではあるまいか。この作品の画期は、漫画に「俺たちの等身大の青春(あるいはそのように夢想したいもの)」を持ち込んだ点だったのではないかと思う。林静一の洒脱な絵は上村一夫などによる後続作に比べても洗練されていて、今見ても色あせない。
漫画(に限らず表現)とはなにものかを描かなければならないのだというドグマがまだ有効だった60年代、漫画から意味というものを完全に取り去ってしまった佐々木マキの一連の作品はセンセーショナルであったらしい。画風はおそらく杉浦茂の系譜にあるのだが、もはやナンセンスという言葉も不適当だと思われるぐらいに徹底して意味や物語は排除されている。その衝撃は若き日の村上春樹にもはっきりと影響を与えたらしく、のちに佐々木は村上の著作の挿画を担当することになる。
簡素な絵でナンセンス漫画を濫作していた滝田ゆうが、心機一転、自らが少年時代を過ごした戦前の私娼街・玉ノ井の風景をおそろしく緻密な絵柄で描き出した。「三丁目の夕日」的なノスタルジアものの先駆ではあるが、最終回、戦火は玉ノ井の街を焼き尽くして終わる。ここに描かれているものは、卓抜した記憶力と画力により再構築された、失われて二度とよみがえることのなかった風景なのである。
ここまでは疑いなく殿堂入りの作品が並ぶが、ここからは判断に迷う。70年代ガロからは永島慎二や宮谷一彦を外してはいけないかもしれないのだが、活躍のメインはガロ誌ではなかった作家だし、やはり当時の熱狂を現在から嗅ぎ取るのは少々難しい。安部慎一や花輪和一、古川益三(のちのまんだらけ社長)の諸作品も思い浮かぶけれど、ここでは作品の強度と詩情、卓抜した画力を取って敢えて鈴木翁二で。
これも当時の衝撃をいま追体験するのは難しいのかもしれないが、ヘタウマや不条理がどっさり詰め込まれた本作が半世紀近く前のものと考えるとやはり衝撃的だし、こういうギラついた脳天気さは、結局は80年代「軽チャー」の苗床になったのではないかと思わされる。
80年前後のガロにはニューウェーブにカテゴライズされる作家も少なからずいて、例えば川崎ゆきお、蛭子能収、ひさうちみちお、奥平イラなどが挙げられるのだが、個々の作品への愛着はさておいて結局のところ今に至るまで強い影響を与え続けているのはむしろニューウェーブの埒外にいた丸尾末広ではないかと思う。圧倒的な画力は漫画のみならず演劇や音楽にも影響を与えたし、世代を超えたファンも多い。なお本作の初出はガロ誌ではないのだが、代表作として外せないのと単行本は青林堂だったのでご容赦を。
80年代ガロではこの人の名前も外せない。「過激な」作風と言われ「特殊漫画」を自称他称もしている人ではあるけれど、実のところは非常に息の長い物語を紡ぎ出せるストーリーテラーでもあり、日本の近代史や土俗性を容赦なくぶち込んでやるから覚悟しろよというぎらついた野心も垣間見える。その試みがもっとも巧くいった作品の一つが本作。水爆投下とともに発射された精子が自我を持つ話です……と書くと面白そうでしょ?
ガロ最末期の90年代から一人と考えて、古屋兎丸や山野一・ねこぢるなども思い浮かんだけれど、漫画表現の圧倒的な強度に鑑みて本作を選んだ。この地上には存在しないはずなのによく知っている風景がどこまでもどこまでも展開される。いつかうなされながら見た夢が、ここに具現化されているという驚き。「ガロがなければ世に出ることのなかった」作品の一つの頂点であると思う。逆柱作品はどれをとっても傑作なのに単行本の多くは絶版で、とんでもないプレミアが付いてたりする……。
・個人的にはつげ忠男の大ファンで、実際「無頼の街」「河童の居る川」など傑作も数多いのだが、漫画史的重要性を優先して涙を呑んだ。
・赤瀬川原平も言及に迷ったけど、ガロ誌での漫画作品(『お座敷』など)よりも、その外での活躍が多かった人という印象なので選外に。ガロ系の作家ではこういう人も多いのですが。
・「ガロにおける有名作家」という問題もある。水木しげるに矢口高雄に池上遼一といったビッグネームもあれば、のちのどおくまんも一度作品を掲載しており、末期ガロにも吉田戦車のような意外な面々が顔を覗かせる。珍しいところでは、SPA!誌で掲載を断られたゴーマニズム宣言の回を小林よしのりがガロに持ち込んで掲載された例がある。
・ガロ出身で他誌で活躍することになる人も多い。上記の他、新しい世代では花くまゆうさく・福満しげゆき・東陽片岡・古泉智浩あたりか。
・80年代ガロでかなり迷ったのは、トラバでも言及のある久住兄弟や泉晴紀・泉昌之、渡辺和博などの面々。このあたりのナンセンスな作品群はわりと影響も大きかったようなんだけど、作品単体でどうこう言えるものが思い当たらなかったので除外。
・つりたくにこ・やまだ紫・杉浦日向子・近藤ようこといった女性作家たちの極めて良質な作品についても言及しておきたい。特に津野裕子は最末期のガロに、寡作ながら優れた作品を残した作家で、機会があればぜひ一読をお勧めします。
・その他、この10選に選ぶには及ばないけれど間違いなくその人にしか描き得ない作品を残し、ガロという媒体がなければ目にすることもなかったであろう作家たちについても、その名をリスペクトしておきたい。淀川さんぽ、とま雅和、谷弘兒、三橋乙耶、菅野修、等々……。
・90年代ガロは文章ページが(文章ページのほうが……)充実してた感があり、呉智英や四方田犬彦など結構な面々が連載していた。
・投稿ページの「4コマガロ」も相当(雑誌のカラー的な意味で)レベルが高く、ここ出身の有名作家が福満しげゆき。
・同時期にやっていた「ガロ名作劇場」という好企画があって、90年代前半時点では入手困難だった作家を含め、ガロ出身の名作家を回顧的に紹介してくれた。林静一「まっかっかロック」なんてものすごい衝撃受けたし、楠正平や勝又進なんてこんなことでもなければまず読むことができなかった作家だったと思う。
・ねこぢるはやはり入れるべきだったかなーという迷いは今でもあり、代わりに削るとすればペンギンごはんか鈴木翁二か。リアタイ勢だったんだけど初読の際の衝撃は今でも覚えていて、90年代サブカル的にはわりとよくあった「無邪気な残酷さ」が普遍性を持ち得た希有な例だったんじゃないかと思う。(その点では山田花子には自分は少々点が辛い)
・>ビレヴァンいけば売ってる? >なんか漫画系のサブスクはこういうのの乗っかってどんどんセット売りとかして欲しいよな。
これは本当にそう思うところで、ガロの名作群はとにかく作品へのリーチが困難。古川益三の作品なんてマジで読めないし古書には衝撃的な値が付いてたりする。電書にするにしたってタダじゃないのは分かってるけど、なんとかならんかな。
・>「ガロ」はフォロワー・影響度では計れない作家作品が多すぎて。簡単に真似されるような作品はガロ的ではないとも言えるし
これも本当に同感で、孤立峰みたいな作家が多すぎるんだよなー。熱を込めて語られるけれど模倣はされない、って、表現としてはすごいことなんだけど。
生きづらい系創作物に自己を重ねるのはやめなさい。あれはエンタメなんです。商業製品なんです。"読ませてしまう"魅力がある。人に伝える技術がある。たくさんの人に愛されている。その時点でもう自分と違うのだ。本当に無価値な自分と同じであると錯覚するな。
私はサブカルチャーが大好きだった。ありがちな話で、発達障害を持っており、人の輪に馴染めず学校では友達もできず孤独に耐えていた。その現実と同期してガロ系の漫画が好きで、特に、生きづらい人間ここに極まれりみたいな山田花子という作家がいるのだが、その人の作品を見て"これは私だ"と耽溺した。
現実世界があまりに空虚だと、エンタメとして割り切って消費することができないくらい作品の世界観に没入してしまう。そして傲慢なことに作者に共感して漫画家や作曲家の人となりにすら「自分の気持ちを言語化してくれた!自分と同じなんだ!」と同一視してしまった。
一介の消費者はただの消費者にすぎない。同一視するのはおこがましい。しかし、普通のエンタメならわかっているはずのことがこれが苦しみの最中にあるとバグってしまう。ただの苦しんでいるだけの凡夫が、クリエイター妄想に取り憑かれてしまった。自分がこんなに苦しいのは、感性が普通の人と異なるのは、実はクリエイティブな才能なんだと。そして、曲や漫画を作ろうとした。
作ろうとして初めて、あれらは感性の世界のものではなく、現実的な技術によって作られたものだと知った。普段脳内世界で目まぐるしく動く妄想の漫画ストーリーやメロディーと、あれらは全くの別物であった。まずリズムを打ち込もうとしてもカッコいいドラムのパターンも知らない。漫画を描こうとしてもデフォルメの体ですら見本がないとどういう構造なのかわからなかった。
そして、より根本的に、どれだけ下手でも自分のものを作りたい!と思えるほど作ることに楽しみがなかった。人様の作った出来のいい作品を読むだけでもう十分満足していたのだ。愚かな私は、そこでようやく、自分はただの変な感性を持っただけの凡夫でクリエイターなどという価値のあるものではないと知った。
現実逃避の深みにハマっていくと、どんどんと現実と妄想が曖昧になっていく。登場人物と自分を重ねて今は苦しくても将来は成功するぞー、という妄想。ありのままでいいんだ。孤独や怠惰ですら物語世界では肯定されている。自分は特別な感性と才能を持った人間で、目の前の人に無理に自分を作って話しかけなくてもいいし、つまらない社会の歯車になるためにやりたくないことをコツコツ勉強とかもしなくていい。と。
そして、また現実が上手くいかなくなり、どんどん物語にのめり込む負のループにハマっていく。体も動かしてないのにダイエット本を読み漁ったって痩せるわけないんだよ。それが分からなくなる。
書いていて本当に自己嫌悪だ。
ようするに、感性だけ変でなんの才能もない人間は、自己が自己であることへの執着をやめ、感性を大衆寄りに矯正して社会適合への努力をするべきなのだ。
ガロ系ってゆーより少チャンかなー
ああいうのって漫画というより文章だけで勝負できない人が最低限、絵によって伝達機能を補助する技法を身に着けてるってだけだよね。
あるいはプレゼンのためにパワポのやり方覚えとくのと同じ感覚。
漫画とはたとえば現実で映像作品として実現できないものを表現する手段だと思う。
たとえば現実でスカトロ作品を撮ろうとしてもまずそれを受け入れてくれる女優探さなければならないが漫画でなら容易実現できると行った具合。
あるいは漫画でしか実現できないような魅力的な人物だけを描く。
アデノイドとかが一人も構図に存在しないようにするには漫画やアニメに頼るほかなくて、そういう理想的な人物を実現するための媒体としての手段を象徴するものとして萌えとか推し(元はアイドル用語)とかある。
そういうのでない単に文筆家としても半端で下手な絵とセットでやっと一人前として成立してるような漫画を漫画というのに違和感がある。
明らかに漫画の本流はヘタウマとかエッセイ漫画にはないだろう。吾峠と桜木さゆみはどっちが社会的地位が高いのかといえば差は歴然だろう。
エッセイ漫画における成功は漫画界全体における多少の成功でしかなくそんな世界でいくら成功してもそもそも漫画家と言っていいのか疑わしい。
まあ元はといえば確かにビゴーの風刺画とかの精神が日本の漫画の初期に多大な影響をもっていたはずだだから、どっちかといえばそういう単に絵を文で言い足りないものを補助する手段としてエッセイ漫画の方が本流に近かったはずだ。
だからまあ今少年漫画を始めとする主流なジャンルこそ従来の漫画から分離していると考えるのが正しい理解ということになる。
彼は高校の頃からの友達で、元々本を読むのが好きらしく、国語の担任とヘッセや星の王子さまの作者(名前失念)の話を楽しそうにしていた。
オタク趣味がない女の子も深夜帯で放送していたアニメ「君に届け」を視聴していたり、当時アニメは市民権を得ていたが、彼はアニメを馬鹿にするわけでもなく、ただ単に興味が無いようで全く観ていなかった(最後まで観たのは世界名作劇場のハイジとラスカルぐらいらしい)。かと思えば、昔の少女漫画について異様に詳しかったり、腐女子のBLトークに顔色ひとつ変えず介入して「それって~~ってことなの?」と楽しそうにやりとりしていたりと、本当なら担任と本について話していた方が楽しいだろうに、自分の嗜好を棚に上げて自分の土俵外で相手まで楽しませる彼を私は尊敬していた。
高校卒業してから彼とは何度か食事に出かけていて、この間中野ブロードウェイに遊びに出かけた。彼がどんな漫画を手に取るのか、気になったという下心もあった。
彼に「どんなの読むの?」と聞くと「古いのが多いかなぁ、最近のはわからいんだよねー」といつもみたいに笑って答えた。
ガラスの仮面が好きな彼だから、きっとパタリロでも漁るのかな、と思ったが、違った。私はこの日初めてガロの存在を知った。
彼が手に取ったのは、丸尾末広、ねこぢる、山野一、山田花子、花輪和一、根本敬。
本当に彼はラスカルとハイジしか見なくて、担任と楽しそうに本の話をして、誰からも話題を楽しそうに引き出す穏やかで柔和なあの時の彼と同一人物なのだろうか。とてもショックだった。
話によると中学生の頃から親の本棚を漁って読んでたらしい。その時に上記らの作者を知ったそうだ。彼の穏やかさの土台にこんな猟奇的で気持ちが悪い物があったとは夢にも思わなかった。
「面白いの?」と聞いたら「うん、まあ、でも人に勧めるものでもないかな、好き嫌い別れると思うし」と笑ってた。
「なにか私でも読めるのある?」と聞いたら「うーん」と言いながら、全く別のコーナーまで歩いて冨樫義博の『レベルE』をすすめてくれた。ちがう、そうじゃない、さっき見てたの中から教えて欲しかった。と思ったが、ちゃんと相手の土俵に立てるのもまた彼なんだろう。レベルE面白かった。
家に帰って、ガロ系の作者について色々調べて見たら、気分が悪くなってきた。悪趣味だな、と純粋に思ってしまった。そして高校時代から変わらない彼の柔和さを思い出し、とても複雑な気持ちになる今日この頃。
ガロ系とかモデルグラフィックスとかで、売れない漫画家やってると思う
彼とはあまり趣味があわなかった。はじめは、年齢が14歳も離れているのでジェネレーションギャップは仕方がないと思っていた。しかし、付き合いが長くなってくると、私と彼の趣味の相違は年齢が原因ではないことに気がついた。「この人と同級生でもあまり話があわなかっただろうな」というタイプだったのだ。
美大に通っていた私は、いわゆる青文字系、サブカルチャーみたいなものが好きだった。好きな芸能人はピースの又吉と小松菜奈、好きな音楽はくるりとtofubeatsや好きな映画は岩井俊二とグザヴィエ・ドラン。赤い口紅をつけて、現代アートの展覧会でデートしたかった。
大手メーカーで営業をしていた彼が選ぶものは、私の感覚と少し違った。好きな芸能人は磯山さやか、好きな音楽はキロロとミスチル、好きな映画はインディペンデンスデイ。カラオケが好きな人で、キロロの「長い間」という曲を覚えて歌ってほしいとリクエストされた。彼は赤い口紅を嫌っていたし、ゴッホとゴーギャンの区別ができなかった。
私には彼の趣味がよくわからなかった。磯山さやかはかわいいし、キロロの「長い間」はいい歌だし、インディペンデンスデイは今日の土曜ロードショーだった。それらの良さがわからないわけではないが、そういうものを「良い趣味」だと感じることは難しかった。これからも難しいと思う。
彼は、私が赤い口紅をつけると「ちょっと派手だな」と顔をしかめた。彼とデートするとき、私はピンクの口紅をつけ、赤文字系の店で購入したワンピースを着るように心がけた。彼はとても優しく、マメな性格で、仕事を精力的にこなしており、私はそんな彼が好きだった。ただ時おり漠然と、「この人は私のパーソナリティーにあんま興味なさそうだな、興味ないってか私の趣味の領域について考えたこともなさそうだな」と思って寂しくなった。
結局、「早く結婚して子どもが欲しい」という彼の期待に応えることができず、半年もたたず破局した。
そのすぐ後、ものすごく趣味があう男性と出会った。彼は当時26歳だったので、年齢も近い。ただ、「この人とは年齢が離れてても話があうだろうな」と思うような人だった。
彼の好きな芸能人は二階堂ふみ、好きな音楽はくるりとtofubeats、好きな映画はダージリン急行だった。ガロ系の漫画や町田康の小説が好きで、とにかくサブカル臭がすごい人だった。恋に落ちるのに1秒もいらず、私は久しぶりに赤い口紅をつけて彼とデートを重ねた。彼は私の口紅をほめてくれた。音楽、映画、小説、お笑い、彼の話はどれも面白く、「世の中にこんな趣味のあう人が存在しているんだ」と私は有頂天になった。彼は無精な性格で、仕事への情熱はあまりなかったが、それでも私は彼を好きだった。
しかし、彼とは2回目のセックスのあと連絡がとれなくなってしまった。「愛してる」、でもまさかね、そんなこと言えなかった。彼とはそのまま終わってしまった。
http://anond.hatelabo.jp/20130630012416
それいいかもなぁ。
適当にノリで、いうけど、こういうブックマーカーの区分けとかできそう
・ジャンプ系ブックマーカー:バトル好き。「揉め事」「これはひどい」などを粛々とブクマ
・サンデー系ブックマーカー:安定感のある定番ネタ好き。「ライフハック」「Tips」などを粛々とブクマ。
・アフタヌーン系ブックマーカー:大学生あたりが悩みそうな話とか。「非モテ」「ロスジェネ」「就活」あたりを粛々とブクマ
・ガロ系ブックマーカー:謎感の漂うネタをピックアップ。タグ「なんだこれは」
んーなんかやっぱりズレてる気がします。
腐女子では無い漫画に詳しいと自称する人は、腐女子世界で「xxxぐらいは知っておけ」という常識的な作品や作家をちゃんと網羅しているのに、腐女子ときたら…という話ならば、話が通じるけど。
腐女子に限らず、一般社会で「漫画に詳しい」と自他共に認める人間は、ガロなんて読んでなくて十分。
それこそ、社会人にもなってジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピオンを毎週みんな読んでるぜ!って言われたら充分「漫画詳しい人」だと思う。
あと、本当の意味で”知らない”は嘘だとは思う。
ふゅーじょんは、異常なほどガロ系押しだから、目にはつくはず。
でも、目に付いたとしても「興味を持つ事がない・記憶にさえ残らない」(結果論)が正解では?
だから、元増田が疑問に思う事も分からなくもない。
分からなくもないけど、それと「読むべき」って話は全然違う。
元増田が言ってるのは
と同レベルなんだよね。
元増田が希望する”漫画詳しい人”の定義に、他人が合う必要もないと思うよ?
それに自称するからには、元増田が知らない作品について詳しい事だってあるはずだ。
(詳しい=造詣が深いとは限らないが)